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2007年10月12日

平成19年「春の叙勲」の表彰を受けて

御礼の言葉
――私議、谷口巳三郎の東南アジアの熱帯地方における農村開発及び、青少年教育の活動について、
平成19年度の日本政府の内閣府叙勲局を通じて「春の叙勲」(旭日雙光賞)を授与されました。此れは私議谷口巳三郎が、1983年に渡タイして以来約25年の間に、主として北部タイ、そして世界の最貧国にランクされているメコン河流域諸国(ミャンマー、ラオス、カンボジア等々)の農村開発、農村青少年教育に対する努力、及び日本の大学、高校、中学生を年間数百名受入れての、啓蒙活動に対して評価されたもので、北部タイのチェンマイにある日本総領事館が、日本政府に働きかけられて実現したと聞いております。
私が20kgの鞄一つぶら下げて、タイのバンコクの空港に降り立ったのが1983年2月1日で、もう24年経ちました。発展途上国の農業改良、農村開発を目的とした私個人の発想に基づくプロゼクトです。その間の経費は、日本の二つの支援団体「北部タイ農村振興支援会」及び「タイとの交流の会」より累計2億4千万円、日本の篤志家の方々より約2千5百万円、日本のODAの草の根・郵政省貯金利子資金より1千万円余等々、総計2億7千万円余という莫大な金額になります。その間のタイ国からの援助は、僅か6万バーツ(18万円)にしか過ぎません。
私のプロゼクトは、十二分の成果と云うには程遠いものでありますが、この話がチェンマイにある、日本総領事館より持出された時「他にもっと成果の上った例はありませんか?」と、一応は辞退申上げましたが、長い間私を支えて下さった多くの日本の方々への、御礼の気持をこの受賞によって表現出来ればと考え、最終的には受諾した次第です。熱帯の発展途上国の、電話線も引かれていない田舎で、一人で人様の御芳志だけを頼りに、毎日毎日地下足袋と弊衣姿で農村開発をする労農夫。日本の外務省はどうにかO.K.になりましたが、最終の決定権を持つ内閣府の叙勲局で大変揉め――タイ国側からの表彰を受けたこともなく、百姓現役の一農夫などに、未だ嘗て叙勲をした例も無いと――だが、何処でどう風向きが変わったのか、授賞式の一ヶ月前に、受賞が本決まりになったとの電話を、総領事館より頂きました。
授賞式は5月11日の午前中で、東京の外務省にて外務大臣より賞状及び勲章の授与を受け、昼食后にバスで皇居に移動しました。そして配偶者同伴で吾々外務省推薦者30余名が整列する前の庭を、天皇がお一人で左方より右方へ歩いて来られ、最前列の一老人受賞者に一言二言の言葉を交わされたのみで拝謁は終りました。この様な名誉ある晴れの場に出席出来たのも、皆様方のお力添えのお陰です。此処に改めて御礼申上げます。
注1) 旭日賞(きょくじつしょう)
国家に勲功のあった人に与えられる賞で、勲一等から勲八等まで。“双光賞”は勲五等に該当する。
注2) 授与は賞状と勲章のみで、副賞は一切なし。従って、巳三郎氏のタイからの往復旅費及び、夫人共々の上京旅費・滞在費は全て受賞者の手出しとなる。

2007年10月10日

「神様が来た」と(ラオス見聞記)

2007年1月15日、私は愛弟子の一人、北タイ高地民族の一つアカ族のリーダの、ヨハン君のピックアップトラックで、東南アジア第一の大河・メコン河を、タイのチェンコーンより対岸のラオスの町へ渡った。国連が、世界の最貧国の一つにランク付けしている、この国の農村開発に取組みたいという、私の新しいプロゼクトの初回の旅である。同行するのは、ヨハン君と同じアカ族の友人二人と、モン族のこれも私の愛弟子のポンパン君と私の、一行5名の3泊4日の旅である。タイの東隣に位置するラオスのこのエーリアには、アカ族とモン族の集落が多く、ヨハン君も以前何回か訪ねたこともあり、知人も居るので、ラオスの最初の開発プロゼクトのエーリアに、この地を選んだ訳である。プロゼクトに付いては後日ゆっくり報告する事にして、今回は先ずこの旅の2日目に起きた、ある事件を皆様にお聞かせしたい。何となればこの話は、私がラオスを開発したい思う動機と結びつくからである。
1日目の1月15日には朝早く我家を出発したが、国境になっているメコン河を渡る際、両国のイミグレーション等で多くの時間を取られた。その為に夕刻到着した途中の田舎町の安宿で一泊し、翌朝はその町の市場の中にある、うす汚い食堂でラーメンの朝食を摂り、8時過ぎ北方へ向って出発、約40分して国道沿いにある、アカ族の50戸程の部落に立寄る。
ヨハン君は、この部落の貧困の度合い、子供達が何を欲しがっているかを、充分承知しているので、タイを出る時、駄菓子屋より米のオコシを沢山買ってきて、村の広場でその包みを開けると、忽ち子供達がわんさと集り、同行の青年がその交通整理に当らねばならない程の賑わい。その列の中には、背中に子供を負ぶった若い婦人が何人も並ぶ。10分ほどでその包みは空になった。その時そこに部落の区長らしき人物が来て「病人が居るから見て呉れ」という。その人に付いて行くと、物置小屋然たる、5~6畳敷き程の広さの一部屋限りの、床と壁は竹で屋根は茅葺きの家に、15~6歳の娘が、太腿の付根(リンパ腺)が腫瘍で黄色く膿んだ右足を、毛布から投出して横になっている。母親が、足の傷が元でもう2ヶ月程になるが、病状は悪くなるばかりで、今や歩くことも出来なくなったと顔を曇らせて云う。父親は、この末娘が生まれて間もなく死亡したので、6人の子供を母の手一つで、ほんの少しばかりの痩せた傾斜地の焼畑で極貧の中に生きており、医者の居る町までは1時間位かかり、第一医者に掛かる金などある筈もないので、このままに2ヶ月も経ち、病勢は進むが打つ手はなし、そして手遅れになれば、片足切断ということになるのではと、村人達が云っていると・・・。部落中が貧困の極みで、周囲からも親類からも助けて貰えないのだという。「薬買う金、医者にかかる金もない。周囲からも助けて貰えない。」これでは自然の動物が、事故で身体を痛め、自然に治るのを待つか、或いは死を迎える他はないのと同じではないか。貧乏人は死ね」ということである。今日の日本にこの様なことがあるだろうか?信じられない様な話であろう。
もうガタガタ論議する余地も時間もないし、それも不要!私は自分の貧しい、薄い財布から、1000バーツ(3000円)を抜き、“今日にでも病院へ連れて行きなさい”と伏して拝む母親の手に握らせる。処が、その家を出ようとすると、外に若い母親が、下半身裸の男の赤ん坊を抱いている。この子もこの娘と同じく、足の付根に腫瘍のカサブタが出来ている。私はヨハン君と相談して、この母親にも500バーツを握らせる。すると区長が「もう一人居るから見てくれ」という。5~6軒先の、これも小屋然たる竹の家に案内する。50歳過ぎの初老の農夫が、左足に比べて小さい右足を擦り乍ら、何か訴えている。何が原因か知らないが、左右不均衡の足の治療は、生半可な時間と金で解決出来るものではあるまいと思うが、一生懸命に哀願している顔を見ると、私は“我関せず焉”とその場を去り得ず、傍に寄って座って、その老人の足をさすって遣りながら、ヨハン君と話し合い「早く医者に行きなさい」と、この老人にも1000バーツを与える。
私はこの日及び次の日に、ヨハン君の立てたスケジュールに従って、目的地ラオスの山深い地に生きる高地民族アカ族の農村の実態を、泊りがけで夜は村人を集めて話し合いを持った。そして開発とか発展とかという言葉のかけらもない様な、昔乍らの先祖伝来の焼畑農業主体での生き様を続け、新しいテクニックへのアプローチなど一かけらもない、農業指導体制の中で生きていることを見聞した。
斯くして吾々は、ラオス奥地のアカ族の村に2泊した帰路、再び上記した部落に立寄り、例の娘のその後を訪ねて見た。処がその母親は約束を果していなかった。一番近い町の病院まで小一時間かかる。その車代や、母親が娘の看病に行っている間の、家族の食事の世話を誰がするか等のことで、未だ実行に移していなかったのである。それを聞いた、タイから同行したヨハン君の友人達は、バタバタとその娘をヨハン君の車の荷台に、敷物のマットと共に載せ、母親に有無を言う暇も与えず、自炊用具も台所より車に載せ、母親も急き立てて乗せて、さっさと病院へ運んで行った。そして私は一人取り残されて、そこで待つより他なかった。約2時間して帰ってきたヨハンが「医者が2週間以内に退院させます。2500Btあればよい」と云うので、頼んで入院させて来ましたという。これでこの娘は“片足を切断せずに”生きられるだろう。
その病院は、私達がタイへ帰る道端にあったので、ヨハンが私をそこに案内した。大部屋の病室に、他の患者と一緒に、ベッドに横たわっている娘を見舞うと、以前の憂いに満ちていたその顔が、希望と安心感を湛えた顔に変っている。“後2週間、精一杯養生しなさいよ”と私はヨハンの通訳によって彼女を励まして、廊下に出て会計の窓口で経費を払い終えると、私の足元にその母親が、草履を仮に脱いで、私の靴の上に両手を重ね、三拝して頭を手に付けて、最大級の尊敬の礼で以て、感謝の意を表現した。この謝礼の仕方はタイでも同様で、仏教国の習慣であろうか。私は屈んでその母親の肩に手を当てて応えた。
私はここで支援者の皆様にお許しを頂かねばなりません。今回のこの部落での3人の病人の為に15000円を使いました。その金は当然の如く私の懐から出しました。そうしなければこの3人は救われないと、私は思ったので出しました。そしてその金は、日本の支援会の人々のご芳志で、私のタイでのプロゼクトの為にと拝領したものです。直接に農業開発と関係がない方面への支出ではありますが、支援者の皆様、あなた様を含めて、きっと私のこの処置をお許し下さるだろうと信じて、人助けの為に投資しました。お許し下さい。
親が貧困で金が無ければ、子供は片足を切断して、以後の人生をズーッと跛(びっこ)になって生きざるを得ない。その子は自分で働いて生きる道も狭く、結婚も出来ないだろうし、一生涯大きいマイナスのプレッシャーに苦しみ、泣きながら生きねばならないだろう。その場合、親はその子が死ぬまで、否!年上の自分が死ぬまで、その跛の子供の生活を見続けねばならない。そうなれば親も子もその不幸を嘆き、神をも呪うことになるかも知れない。
処が、それが今此処に救い主が現われたということである。思わぬハプニングに時間を取られ、今日中にタイの我家に帰らねばならない焦りから、最近の東南アジアを襲っている大旱魃の為に、偶には5m先も見えない黄塵万丈のガタガタ道を、メコン川を目指して突っ走るその車の中でヨハン君が言った。「3日前も今日も、村人達が『神様が来た』と言い合って、先生の援助を感謝していましたと。“嗚呼”何と胸の痛む哀れな話であることか。私が助けた3人の病を持った人々が、若し私が出現しなかったなら、今日よりも悪い方向へ進むことは確実であろう。結局私は合計5000バーツ=15,000円を援助したことになるが、今の日本人なら2~3日分の労働賃金の額であろう。タイの田舎で、人様の支援によってプロゼクトを実施している私にとっても、決して小さな金ではないが、ラオスの山深い所に、焼畑で生きる人々にとっては「神様しか作れない金額」なのだろう。
「貧乏人は早く死ね、金がなければ片輪になれ!」それは21世紀の人類社会には通らぬ話である。ところが、それがまかり通っている社会が未だあるのである。私が今居るのは、その様な所である。我々は人間ならば、より豊かな人々は、より貧しい人々を援助すべきである。我々は今「地球は一つの家族」であるという意識を強く認識すべきである。世界には国連がある。FAO,WHO,WTOがある。ヨーロッパの27カ国は、EUという政治形態を作り、互いの関税を撤廃し、通貨もユーロダラーで統一、何れは一つの国になりたいという理想の下に前進しつつあるではないか。それに比べてアジアのモンゴロイド圏の「兄弟垣にせめぐ」的様相の今日の姿は、世界史の中世紀の人類社会のレベルから、一歩も逸脱していないではないか?“日本の若者よ!”これで良いのか?