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2007年02月23日

メコン河貫流域諸国の農業開発のための農村青少年の教育について(今何故メコン河流域諸国の農業開発に取組まなければならないか?)

メコン河流域諸国は今日、地球上で人間による乱開発から残された、生物循環が比較的サスティナブルに行われている、数少ない地域の一つであると考えてよかろう。ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナム、そして中国の雲南省がこの地域に位置しているが、そこは熱帯モンスーン地帯で、高温と適量の雨に恵まれ、生物の循環に好都合であり、面積の割には人口が少ない。因みに、雲南地域とタイを除いた4カ国の面積合計は、日本の38万㎢に対して4倍近くの143万㎢もあり、人口は逆に日本より少し多い1億3100万人しかない。
然し、この地域の東と北には中国、西にはインドの二大国が位置しており、夫々12億4500万人、9億9000万人と、世界の人口の一二位を占めるこの二ヶ国は、森林も国土も開発し尽し、10年を経ずして大きな水不足の時代を迎えるであろう。国連が発表している通り、水資源の確保は既に深刻化し、人間の住める限界ギリギリまで追い詰められており、遠からずこの両国からの人口圧も加わって、この残された地域からも、自然が急速に失われていくであろう事は目に見えている。
6カ国を貫流する全長4350kmの、この東南アジア第一の大河メコンの周辺地域に僅かに残された貴重な自然を、如何にして人間の飽くなき欲望の牙から守り抜くか、若し出来ぬなら、シーザーがブルータスに言った如く「メコン河、お前もか」となるであろう。
1968年、僅か37年前、ローマクラブが発表した「地球有限論」で世界は初めて人類の将来に不安要因が有る事に気付き、その結果当初は遅々たる歩みに過ぎなかったが、今日ではグローバルな会議が、あちこちで開催される時勢となった。然し人々は総論的には理解し、その不安を口にするが、各論になり己の周囲の実際となると、どれだけの者が理解し、実際の行動に移しているであろうか?現在の資本主義経済社会が辿り着いた飽くなき環境破壊と、次世代の為の地下資源を今日の己の生きる欲望で乱費する爛熟した消費生活。これ等の人類の有り様を何と見れば良いのか?
「まあまあ良かろう」と言って、消費と開発のパターンを変えず「赤信号皆で渡れば怖くない」とばかりに突き進んで来たのが今日までの趨勢である。では何時までこの「まあまあ良かろう」が許されるのだろうか?世界の識者や国連の環境問題の専門家の大方の見方は「今のままの開発システム、消費パターンを続けて行けば、2025年から2030年がその限界ではなかろうか」と言う。後僅か20年余しかない。私もこの説を支持する。勿論私は環境学の専門家ではないし、世界を股にかけて、この問題を探り歩くジャーナリストでもない。然し私には次の如き強みがある。
・ 常に天と地との狭間にあって、朝は東、夕べは西を、そして夜中には星空を仰いで、天気と農との関わり合いに気を揉む毎日を送っている。
・ 毎日二本の足を踏ん張り、二本の手は休みなく土と闘う。作物を育て家畜を飼い「青年を育てるのは100年の計」と、この熱帯の地に25年の時を流した。
・ 作物を植える前は、今年こそはとバラ色の夢を描き、収穫の秋は決まって額に縦皺を寄せ、腰を落としてオロオロと歩く。
・ 乾きが続けば作物の芽は出ず、鼠と蟻に持ち去られ、育っているものも哀れで心が痛む。偶の洪水は甚だしく1990年の秋には、高地民族の子供や貧しいエイズ患者にもと思い育てた、稲の籾12トンが失われた。濁流に口元まで浸かり、残っていた稲の止め葉に「死に水」を掛けた。稲も無念、私も無念、止めどなく涙が流れた。
・ 作物が草で覆われると、その中のコブラに用心し、果樹の下を行く時は、枝上のグリーンスネークに注意しなければならぬ日々。
・ 1kgでも多く、1個でも沢山獲らねばと、24時間その思いに駆り立てられて苛立つ毎日。
※ 資金がない、スタッフが足りない、もっとふんだんにあれば、人の為世界の為に働けるのに。
このようにして私は、この地に永い年月を耐えてきた。真剣に生きてきた。天と地の狭間の自然の中に、土に這いつくばるようにして生きてきた。そうすると池の底に長く広い腹をくっつけて生きる鯰が、微かな地震でも探知出来るように、私は地球環境のほんの僅かな変化も感知することが出来るように思う。勿論80余年生きて来たキャリアがそれを裏打ちしている。
今や、人類の将来は暗くて危ない処へ差し掛かっている。そして人類は最早ルビコン川を渡り、取り返しのつかない処まで来てしまったのである。自分も指導者の端くれの一人だと自認する人間なら「起死回生」の道はないものかと、マイホーム型、保身型の生き様のパターンを捨て、人間生存の原点に立ち返って人類生き残りの道を模索してはどうか。
以上の様な考えで、私はこのメコン河流域のヴァージンソイル(処女地)に人類生き残りの道を賭けて、未知の可能性を秘めた青年達を集め「農」を以ってその道を探ってみたいと思っている。そして何れは日本も含めた世界の若人のビッグバン的センターにならないだろうかと夢を描いている。
“It is worth attempting even though we fail”(仮令失敗しても良い。それは十分やってみる価値がある。)これが入タイ以来、座右の銘として私を支えてきた言葉である。
処が2007年になると、その私の夢が正夢への第一歩を踏み出せそうになりました。1月よりミャンマーのヤンゴン農場から、其処のスタッフの一人が21世紀農場へ来る予定です。カンボジアからは、チェンマイにある日本領事館の篠原総領事殿のご紹介で、国内唯一ある大学農学部出身の好青年が来場予定しており、ラオスでは高地民族のアカ族が、開発意欲を見せているとか。1月中旬タイのアカ族のリーダーのヨハンの先導で、現地に足を踏み込むことにしています。本当に発展途上国の農民は吾々の指導を望んでいます。市場主義の経済社会になってしまった今日、良いものを、売れるものを作って現金を手に持たねば、当たり前に生きて行けないのです。子供の教育も出来ません。途上国の農民も日本の如き先進国の農業技術指導を願望しているのです。少しでも余裕のある国は、これ等の貧しく、学も無く、打つ手を知らない人々に援助の手を差し伸べねば、この貧富の差を縮めねば、世界に平和は訪れないのです。私はやります。お力添え下さい。終わり

農場便り第47号(2006年5月~11月に行ったプロゼクト及び人物往来)

5月:
1. キャッサバの栽培を始める。キャッサバというのは、その根から澱粉を取る桑の木に似た1.5~2mの埜木、私はこの植物を「人類の食糧危機を救う最後の植物」と言っている。収量は10a(≒1000㎡=一反)当り5,000kg位。澱粉の含有率は食糧作物(米、麦、トウモロコシ)の内で最高である。私は今年初めて農場で1ha栽培した。担当スタッフに「反当り6,000kgは獲りなさい。タイでNo1を目指しなさい。」と言っている。栽培期間は7~8ヶ月、旱魃に強く、大抵の土地で栽培可能。甘藷の3~5倍のカロリーの生産が可能。栽培目的は豚と魚の飼料。
この作物には微量でも人間が死ぬ「青酸カリ」が含まれているので、農民が飼料とする事を躊躇っているが、私はこれをドラム缶等を使ってサイレージを作り、約1ヶ月間成熟させて今年の春より給餌しているが、全く害はない。農家から買うと甘藷の半値から1/3位で幾らでも入手可能。これを今以て農民が飼料作物として植えないのは、やはり青酸カリを恐れているのである。私は生芋をサイレージにして5~6ヶ月豚に給餌して何の問題も生じないので、今後東南アジアの貧しい農民に以上の事を教え・拡げたいと言う夢を大きく膨らませている。煮たり、干し芋にしたり、晒したりすれば無毒になり、原産地の中南米では重要な食料である。
2. 大阪の医師谷口恭(やすし)氏が、吾々のAIDSテリトリーの中でのエイズ孤児に奨学金の支援を開始、恐らく100人を超すと思われる。タイは小中学校迄を義務教育期間といって、国が十分面倒を見ると、胸を張って言っているが、実際には左に非ず。多くの親が既にAIDSで死亡し、苦しい家庭環境に置かれ、勉学も思うに任せない子供が年と共に増えている。其処ら辺の事情を知られた大阪の谷口医師が、それらの子供に奨学金を給与し、AIDSを人類に敵として、その撲滅に取り組みたいとのご意思で、吾々と相談に来られた。トム女史を此方のコーディネータとして、この秋より実行に入る。第一年目の今年は、先ず10名の子供を選んで活動を開始した。
3. 9日、Miss Mai Takahashi米国より来訪。現在米国の大学で勉強中で、5月9日より29日まで滞在。目的は農村開発についてのレポート作成。これは大学の必須単位だとか。農場生と、生活・農作業を共にして良く動き回り、タイの若者達に、日本人のアイデンティティーを十分に示して頂いた。実はこの高橋舞さんは、熊本県八代で、ご両親共に現役の教師で、彼女が中高校生の時、私の事を新聞やホームページで知り、親娘で2回程来訪されたのが、今回の来訪に繋がったのだろう。今のグローバリゼーションの時代、私も却って勇気を貰った日本娘だった。
6月:
1. 稲の新品種入手。吾々は既に4年程前よりTMRと言うインディカ種をモン族のポンパン君より貰い、タイ近隣の農家の3~4倍と、日本並みに近い実績を上げているが、この種はそれよりも更に味・収量共に良く、ビルマ(ミャンマー)の稲と言うので、今年より植え付けて見た。今年は稲作りには悪い気象条件であり、近隣農家も吾々も、平年の70%しか収量がなかったが、この品種はTMR種と大差なく高収で、その上稲の大敵のイモチ病に強いことを発見した。今後はこの品種も吾が農場の自慢の作物に加え、人類に迫り来る食糧危機に備えたい。蟷螂の斧かも知れないが遣ってみる。
7月
1. 北タイ、チェンライ郊外に日本の堆肥会社が建設される。熊本県菊池市在住の村上国昭氏がタイ農業の将来を見据えた投資である。先の第46号にも東南アジアの堆肥の文化を書いたが、これだけ人類社会が有機農業を叫んでいても、中々農民の間には取り上げられない。然し、この工場の如く、農業には堆肥は必須であると言う農業文化を持った国から乗り込んで来て、その良さを実績で示せば、堆肥が熱帯農業に根を下ろすかも知れない。7月16日、Openingセレモニーが行われ、社長の村上氏と私が並んでテープカットをした。工場運営のマネージャーは、元21世紀農場で堆肥作りの担当であった池松政敏氏である。熱帯農業には必要不可欠である堆肥が未だ無い。この工場がその堆肥が必要不可欠のものであることを、世界の農民に見せ、知らせて欲しい。私の所に来る研修者や農業の指導者には、私もこの工場を見学する事を奨めており、彼等に次の如く言い聞かせている。…堆肥を作り、それを耕地に投入することをしない農民は21世紀の農民にはなれない…と。
2. HIV、AIDSのグループに魚を飼わせる。…「先生が言われる如く、魚を飼育して自分でも蛋白質を自給し、且つ販売して収入源にしたい。然しネット代、稚魚代がありません」吾々は今迄も此方に余裕がある時は、蛙(食用)や稚魚代を出して飼育させていたが、この様に自分から積極的に言い出して来た4人に、直ぐに現地を見、アドバイスもして稚魚代を与えた。私は今、バングラデシュに発したグラミン銀行のアイデアを吾々の農民指導に導入したいものだと考えている。それは銀行システムであるが、貧困農民で担保物件も預貯金も無い人々に超低利、数名で保証人を組んだ返済組織を持った貧困者グループに貸与するというものである。何時の日かこのレポートで報告したいものである。
8月:
1. AIDS、H.I.V患者の援助は、2年程前に私の住むChun郡の国立病院が「タイも中進国になったのだから、日本からの援助は当方の運営プランに組込んだ形で動いて欲しい。勝手気ままなボランティア活動では困る」と言ったので“医療機関でもない農村開発機関であるから、その組織に組み込まれた枠の中の一員として働いて呉れと言われてもそれは困る”と云って、私は暫く援助を止めた。処がその頃に、隣のPuSang(プ・サン)郡の患者グループが、私のスタッフでもある赤塚夫妻の方に援助を申し入れて来たので、其方の方へシフト(交替)していたが、私の生来の性格からか、Chun病院の患者達のことが気に懸かり、其処の主任看護婦が、日本人で私の農場に研修したことのある高木君と結婚しているので、私も気安く病院を覗く事もやっている内に、又々物を持ち込むようになったのである。そして今では昔と同じ様な、米や野菜の苗を持ち込むようになった。私が依怙地になっていれば、それで私の援助も再び始まることもなかっただろうが「それでは誰が一番の被害者か」と考えてみたら、エイズ患者達である。「自分の死」との対決を24時間、片時も忘れることが出来ない。これ等の未だうら若い、そしてその大方が極貧の農家出の人々であるという現実、そこで私も大した抵抗も無く、又米や野菜を此方から持込んで行ったのである。もう一方のPuSangのグループは、トム女史の献身で、又熊本の医師、工藤先生のお力添え等もあって、回数は少ないがChun病院と同じく、米や野菜の苗を援助している。そして東京都国立市の桐村女史が仲間の人々にも呼び掛けて、この半年だけでも中古衣類を大きいダンボール6箱を私のプロゼクトに送って貰っているが、その大半は上記のAIDSのグループに配り、何時も感謝されている。その桐村さんが、先日御来タイ。現場を見て貰った。“其処に困っている人が居れば”“其処に苦しんでいる人が居れば”“其処に助けを求めている人が居れば”吾々は助けねばならない。
2. 12日チェンマイにあり、我が21CFとパートナーシップ関係のメ・ジョ大学の学生が60名、田植機の試乗研修に来場…タイでは公立にも私立にも学校の農業科に田植機、収穫コンバインが1台も無いのである。その点では日本より何十年も遅れている。私は現在地に15年前に移り住んで、名の如く、21世紀の農業は斯く在るべきであると云って、それ相当の農業機械を揃えた。メ・ジョ大学生が年に何十人も研修に来るし、当然先生方も出入りがあり、吾々が使っている大型機械の事も見聞されているので“何時でも、どの機械でも研修に来ても良いですよ”と私は云っていたが、12日に60名が、他のスケジュールも組んで、この方面に来た時に上記の研修である。
9月:
日本より来学
日本の大学は9月まで休みがあるので㋑鹿児島大学より6名7日間、㋺佐賀大学より26名5日間、㋩タイのナレソワン大学30名は「何故有機農業か?」と言うテーマで来学。その他に㊁ミャンマー境のタイ最北端の町メ・サイに宿泊していた大阪外語大生12名に、1時間ホテルでのホールで私の援助哲学を聞きたいとの事、㋭チェンマイにある日本総領事館の安斉領事、橋本副領事が、態々私の研修農場見学に、㋬熊本市の東ロータリークラブ9名の見学等がこの1ヶ月間にあった。これだけ高学歴の多くの人々の来場。多くの人々が私に何かを求めている。私はそれらの人々に何を与え得るのであろうか?神様!私を助けて下さいと言いたい。祈りたい。私は幾ら勉強しても、幾ら努力しても未だ足りない。
10月:
1.タイの国立大学の一つの組織が、農場に図書館を建設して寄贈した。吾々の21CFは、主として農業関係の大学生や高校生、それに日本よりの大学生が数多く来場するが、そして一般農民にも門戸を開いているが、此処に図書館を持つことが出来なかった。これは私の大きい悩みであった。処が「求めよされば与えられん!」の諺が実現したのである。メ・ジョ大学が音頭を取り、タイの大学の10数校から遣って来た学生が建設を手伝い、22日に完成贈与式が行われた。大学側がパヤオ県に寄贈し、県から副知事が出席して、私へ寄贈するという段取りであった。建築は大学側の延べ700人日の労働奉仕で、国道沿いの農場の敷地内に5m×12m程のこじんまりとした、可愛い建物である。蔵書は未だほんの一抱えしか無い。私がタイに来て、今迄自分で運んだり、現地で貰ったり、日本より送って貰った物が3~400冊程有るが、これ等の殆どが日本語なので、タイ人には合わない。今後どの様に集めるかが、私に与えられた課題である。「本を多く読む人々の多い集団は合理的で平和な社会を作れるが、その逆の人々の多い社会は不合理の多い、闘争に明け暮れる集団を作る」と言うことは人類の文明史の示す処である。一人でも多くの人々が本読みに来て欲しい。
2.北部タイ農業振興支援グループ5人来訪。10月3日~9日の間、その中の医師の工藤先生と古川先生は、他の3人(沖村支援会々長、大津役場職員でヤオ族のゴムの木を植えるプロゼクトを資金援助するということで、下調べ、更に国立市の桐原宣子さんは、先に記した如く、中古衣類の支援者)の3名の方達と別行動で、其方はトム女史の案内で数多くの貧困な学生・生徒の奨学金を支援されているので、その生徒・学生と接触された。上記の3名の方々は、香港在住でミャンマーのチェントンの、21世紀CFと同じ目的の農民の研修センタの土地代を、ご援助された堀江氏と私も加わった別行動プランで、ミャンマー、チェントーンへ2泊3日の旅で、皆さんへ世界の最貧国の一つに認定され、全国民約5千万人の内約70%が農家と言う今日では就農者の占める割合が突出して多い国の農業開発にどの様に取組むべきかと、一緒に考えて貰った。ミャンマーと日本の一人当たりGNPを比べて見ると1:52.8である。(日本の統計資料の2006年版)吾々は助けねばならない。世界に貧富の差が有る間は、真の平和は決して来ない。自分は彼等より貧しいと思えば、どうしても富んだ人々並の生活レベルまで到達したい。これが今日世界中が轟音を立てて戦い、争いをしている根本の理由であり、そしてその格差は拡大するばかりである。人類はその為に滅亡すると私は言っている。若し私の意見に反対する人が居れば、其れ等全世界の65億の人口の約30%が、食うや食わずの飢餓人口である(これは本当の事ですよ)のを、どう援助してその格差を無くすか、その方法を私に教えて下さい。飢餓人口という数字を信じない人は、昨年の国連の人口白書を取り寄せて読んで下さい。
11月:
1.7~8日宿泊で、日本の娘さん達が訪れる。JICAの協力隊員で2年の任期を終了したので、帰国の途中立ち寄ったと、友人同士の2人連れ(末武由貴子、川崎泉美嬢)。8日には日本の娘さんが独り旅で東南アジアの国々を。チェンライの日本人経営のレストランで、私の事を聞き遣って来る。日帰りで(政岡有紀嬢)。これもグローバリゼーションですね。
2.小田俊明氏来訪…予め日本よりTELで打ち合わせして来場。タイを紹介する本を書いたり、バンコクの日本語新聞のコラムを書いているとかの自己紹介あり、最近私が北部タイで農村開発をやっているということを聞かれての、情報集めして書き物に載せたいとのこと。初対面にも拘らず、お互いに意気投合して声高く、疲れるのも忘れて、口角泡を飛ばして半日語り合ったが、帰国後表紙に貼った写真を作り送られた。今時は個人でコンピュータさえあれば、立派な新聞が出来るのですね。
私の涵養林
私は遂に涵養林を作った。かねがね人に地球環境を訴え続けているのに、自身でその行動を実行することは生易しくはなく、結局総論は賛成でも各論、即ちこんな場合地球環境にプラスになる様な具体的な行動を取る事に却々チャンスがない。其処で各人は無理してでも環境に易しい事はやり難い。そうするとその人は毎日加害者の生活を積み重ねて行く事になる。だって自動車に乗り、飛行機に乗り、電気を点けるだけでも大気中に炭酸ガスを撒き散らしているのだから。今日は私がやったその罪滅ぼしの話を聞いて下さい。
その涵養林というのは、農場の一角にある50アールのチーク林である。このチーク林は、この農場に移転した次の雨季に、20町歩という広い農場に一般作物だけでは広すぎると考えたので、将来のことも考え、森を作ったのである。昔下の国道を作った時、政府が土を取った跡が池になっている。この様な池は農場には全部で8箇所有るが、その池の水が最も少なくなる雨季前の3~4月頃に、前に放流した魚を全部掬い上げ、新しい雨季の水が増す頃に、鯰やテラピヤ(いずみ鯛)等の稚魚を1万匹以上買って来て、各々の池に分けて放流するのである。従って今日私が話の種にする20アールの池も、そのパターンで鯰を飼い続けた。何時もはこの池は乾季に入って3~4ヶ月過ぎた2月頃に水が枯れるので、その時飼っていた取り残しの大きくなった鯰を100%掬い上げて、そして雨季の雨が来て水が30~40㎝に達した時に新しい2~3cmの稚魚を放流する。鯰と言う魚は共食いと言う自分の仲間でも食べる貪欲な魚なので、古い魚が生き残った池には入れられない。私がこの地に入植して15年、その方式で養魚をやって来た。
処が処が、その15年の繰り返しの自然現象に一大変化が発生したのである。雨季が去っても水が枯れない。もう少し待って見ようと何時まで待っても30~40cmの深さから水が引かず、その内に雨季到来。全くの予期せぬ現象、池の水が増え始めたのである。さてどうしよう?今のところ農場には、この広い池の魚を洩れなく掬える大きくて広い網はない。買えばあるが金が無い。然しこの涵養の現象を自分の掌の上でつくづくと珍しいものでも見たような地球の現象。鯰の10匹20匹等どうでも良い。この確かな「ある大きさになると木は雨水を捕え、そしてその水を少しづつ地下水として放出し、そこにせせらぎを作り→谷川→小川→大河→海へと言うパターンを取り、海の水は太陽に温められて水蒸気→雲→雨となって森に帰る。私は養魚による利のチャンスは失したが、それ以上の自然現象、水循環システムを見ただけでもよしとしよう。私には、この水循環のメカニズムと木を植えることの大きい意味を、今後多くの人々に生々しく伝え教え、それが環境を守り、遂には人類の永続的な生存にプラスになるということを説く場と、相手の人々を持っているのだから。それは即ち「木を植えよう」と言う事である。
チークの涵養林よ!私は君を1991年(15年前)植えた。翌年まで50%枯れた。私は再び100%に植えた。15年が過ぎた。今、君は立派な涵養林になった。君は私に勇気と喜びを呉れた。多くの生物を育て、人類を助けた。地球を救った。2006年11月 谷口巳三郎