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秋その八

今日は思い掛けなく、同級女性2名が我家に来訪!柿とキュウイを少し捥いで挙げた。それにしても漸く秋の気配が濃くなり、火が恋しくなった。これからのシーズンで最も楽しいのは、何と言っても焼き芋である。枯木を燃した灰の中にサツマイモを入れ、灰をかぶせて焚火をする。物思いにふけりつつ、焼き加減を見るのは、今の私にとって、最も楽しい時間かも知れない。


夏その二十三

父は共産主義を信奉した時期もあったが、戦後は下顎癌を患い、闘病に明け暮れた時期が長かった。その為に所謂「売り食い生活」を続けた結果、田畑の半分近くを失ってしまった。そして昭和31年に、呆気なく他界した。然し皮肉にも、母は父の死後、高血圧の体を背負いつつも、死に物狂いで農業に取り組み、残った水田を一枚も減らすことなく、今に残して呉れたのである。その点では、私は父よりも母に、感謝せねばならないと思っている。


夏その十五

今朝は気乗りはせねども、O氏を訪ねて、水田の崩壊に対する処方を伺いに行く。氏によれば、崩壊個所は水田の畔で、所謂公共用地に該当する土地なので、何れ無償で、復旧工事が実施されるとの見解!余りの明快さに、私は目を覚まされた。然し乍ら、土砂崩れで水が溜らず、米の作柄の減少に付いての保償措置は、当然乍ら得られない。結論は、藪同然になった土手を、老体で整備せねばならないと云う事!やれやれ、この世はしんどいね!


夏その十三

土地と云うものは、利用してこそ、その効用がある。何もしなければ、ジャングルに戻るのは時間の問題であり、猪などの住処を、提供しているようなものである。自家所有であろうが、借地であろうが、田畑は管理しなければならない。処が担い手の高齢化に伴い、それが困難になりつつある。田畑山林の中で、特に荒れているのが、山林だろう。私は筍掘り場と、椎茸ホダ場として利用しているが、荒れ果てた土地が、彼方此方に点在している。

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夏その九

夏になーれば思い出すのは、昭和の災害である。我家最大の災害は、見事な石庭が、ある夏の夜、轟音と共に、大崩壊を起こした。その土砂の量は、トラック数台分にも及んだ。今の時代なれば、ユンボ等の重機で土砂を撤去出来ようが、当時はそんなものは全く無く、長い間、其の侭にされていた。そして私が和歌山から石貫に戻った後、漸く復旧作業に取り掛かった。然しその復旧作業に、地主の叔父は無責任にも一度も立ち会わず、知人に任せ切りだった。私はそのM氏に境界を決めて貰い、多額の費用を投じて、今に至る、20mにも及ぶ、コンクリートブロックの石垣を、再構築した。


夏その五

時は過ぎ、叔父一家は熊本市に移住して、上熊本駅の近郊に家を建てた。それから更に時が過ぎ、叔父は他界して叔母のみが、一人暮らしで今も住んでいると思うが、全く情報も無く、生死すらをも分からない。恐らくは、最後は何処かの施設の、ご厄介になる運命と思われる。例え親戚であろうとも、半世紀以上もの時間が経過すれば、消息をも分からなくなる。それが早いが遅いかが、ポイントで私は未だ暫くは、ぼちぼち農業を続けたいと思う昨今でもある。


梅雨その十九

私は身の丈を超える事業に関わったことを反省して、或る時から全ての役職を辞退した。その理由は、どんなに他者の為に良かれと思って行動しても、反対者は必ず存在していて、全員の賛同を得ることは、困難であると自覚したからである。それ以降は、農業一本に絞り、老後を細々と生きることに決めたのである。すると同級生男女から、時々イベントのお誘いが来るようになり、幼なじみの人々と交流を深める、チャンスをも得ることが、出来るようになった。


春その十

時の歩みは思いの他早く、桜の開花と共に、今年度も間も無く、過ぎ去ろうとしている。そして歴史ある石貫小の前には、閉校を告げる、サヨウナラの横断幕が掲げられた。思い起こせば、我が戦後世代と同期して、日本は敗戦の痛手から立ち上がり、列強に劣らない国家に成長した。そしてその中心に位置した団塊世代が、今や高齢化の波に飲み込まれて、徐々に退役しつつある。寂しき哉、空しき哉、悲しき哉、どう考えても、言葉では上手く表現出来ない。次世代の若者は、どのような国家像を描き、舵取りをするのか、私はそれを見届けたい気持ちもあるけれども、恐らく時間的に、間に合わないだろうと思う。


春その八

春の味覚は何と言っても筍に尽きる。我家の裏山には孟宗竹林があり、3月から4月に掛けて、沢山の筍が生える。筍は地中に在る間に掘り出さないと、固くなり、商品価値が下がる。その為に、竹林の清掃を徹底的に実施している。そして底が柔らかい靴を履いて山を歩くと、筍の感触が得易いのである。然し乍ら、天敵も然る者!猪である。小岱山から遠征して来て、夜間に筍掘りをする。真っ暗闇で筍を掘るには、鼻覚が優れてなければ、出来る技ではない。そしてたらふく食べた後に、大量の糞をして、夜明けまでに、山に戻るのである。


春その二

春を告げるのは、何と言っても梅の花!今将に開花の時期である。梅は観賞用としても綺麗だが、その実は、梅干しや梅酒の原料となる。私は近年めっきり寒さに弱くなったので、盃一杯の梅酒を飲むことにしている。そうすれば、体の芯から温まり、風邪を引かないのである。


犬その四

悲劇と言うものは突然に訪れるものである。我が母が近くの店(現栄屋)に買い物に出掛けた時の事だった。ポチが鎖を引き摺って、母に付いて行った。母は来なくて良いと制止したが、犬に分る筈がない。県道を横断中、三輪トラックに轢かれて、即死した。私は口から血を流しているポチの亡骸に縋り付き、人目も憚らずワーワーと泣き叫んだ。60年もの昔の事故乍ら、あの日の出来事は、今でも走馬灯のように蘇る。そして今も自宅裏の柿の木の下に眠るポチに時々囁き掛ける。さぞや痛かっただろうねと!


冬その九

今年も早師走になった。私の仕事農業も、来年の5月までは、半年間の休みとなる筈だったが、今年ばかりは、そうともいかず、田圃の整備をしている毎日である。何せ私の水田は、川沿いに在るので、猪が川を渡って侵入して、過去2~3回、収穫目前の稲を、滅茶苦茶にされた、苦い経験があるからだ。その対策として数年前、川沿いの土手に、竹バリケードを築いたが、そろそろ寿命が来たようで、新に設置せねばなるまい。


冬その八

暦の上からは、明日から冬なるも、今朝も暖かい雨の朝!私が本稿で屡述べている、所謂「地球温暖化」の兆候が、毎年の様に顕著になって来た。尤も冬が暖かいのは、寒がり屋の私にとっては、悪い事ではないけれども、農業就中、無農薬農業にとっては由々しき事態である。何故なれば、巷にあふれる昆虫は変温動物なれば、寒気に晒されたら、その殆どが死滅する。処が近年の様な暖冬の冬なれば、一部は生き延び、春になると、爆発的に増殖するからである。


冬その四

今年の秋も、漸くと言っても良い程に深まり、落葉樹の葉が、ハラハラと舞い散り、銀杏の下には、黄色い絨毯を敷き詰めた様になっている。遅まきながらの、冬の到来が近いことを知らせている。それにしても、近年の秋は地球温暖化の影響か「高温多湿」気味で、肝心の渋柿が、青黴が生えて上手く出来なくなった。


冬その二

暖冬の時期も去り、漸く冬らしい北風が吹いて来た。この時期の仕事は「山仕事」に限る。何故なれば、重労働故に、体が温まるからである。我家の裏には孟宗竹林があり、その下には椎茸ホダ場も設置している。手順としては先ず、枯竹の伐採処理!竹は木と異なり、一年で成竹になり、以降数年間は、ひたすら光合成をして、子孫(竹のこ)の繁栄を図るからである。他方「功成り名遂げた竹」は自然死となる。この竹が、秋の架け干しの材料として、持って来いなのである。


秋その七

今日は雨の中、選挙カーが喧しく走り回っているけれども、我等はそれ処でなく、集団で米作りをしている水田で、稲刈り・架け干し作業で大童。何せ最近は雨の日が多く、特に週末に降るので、仲間の皆さんが田圃の仕事するには、相応しくない天候が続いている。然し半年掛かりで育てた米を収穫する、今のシーズンは又、喜びも大きな時期でもある。


性格その七

私は嘗て、多くの古民家を調査して、借家として使えるか否かを検討したが、殆ど不可能だった。その原因は、一に所有者が他界したか、行方不明で、交渉相手が見つからないこと。二に家の中一杯に、ありとあらゆる家財道具が、堆く詰め込まれているからである。これ等のガラクタは、殆ど廃棄物だが、勝手に処理出来ないのである。私が思うに、これ等の対策は、国が新法を作るなりして、前面に出なければ、解決はおぼつかない。


秋その二

秋は栗の季節、今年の夏は高温少雨だったので、史上最高とも言える程の、豊作に恵まれた。従って我家では、とても食べきれないので、彼方此方の知人に配って、とても喜ばれた。他方柿も大木に鈴なりの状態なるも、とても食べきれる量では無い為に、其の侭生った状態の儘で、ほったらかしにしている。


ゴミその三

そもそも、ゴミ処理についての行政対応そのものに、多くの問題があった。何故なれば、ゴミ箱の規格も、置き場所も、地元の業者任せで、マチマチだったからである。程なくして我家の近くのゴミ箱で、問題が発生した。多分魚か肉の廃棄物を、野良猫が嗅ぎ付けて辺り一面に食べ散らかしている。仕方なく私は細かな網目の金網を購入して、ゴミ箱の内面に張り付けた。


ゴミその二

現在のゴミ捨て方法が出来てから、数十年になるかと思うが、未だに問題多発で、頭が痛い状態が続いている。我家からゴミ捨て場までは、そんなに遠くは無いが、市指定のゴミ袋を使わず、他の袋で捨てたゴミや、違反ゴミは、回収しないので、其の侭放置され、野良猫が魚等を引き出したりして、辺り一帯が汚くなる。

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秋その五

秋は農産物の収穫のシーズンで、農家にとっては、最も待ち望んだ時期でもある。処がそれを揺るがすのが、猪と雀と云えるだろう。雀は「釈迦に米を食べよ」と告げられた鳥かも知れないが、近年の雀は、害鳥の最右翼で、今頃の時期になると大挙して来襲し、一番美味しい時期の米を、ごっそりと食べるのである。対策はキラキラテープを張るとか、空砲を撃つ位しかなく、直に慣れるので猪以上に難しく、或る程度は食べられることを、覚悟せざるを得ない。


秋その一

長く暑かった夏が過ぎ去り、待望の秋が来た。改めて振り返れば、今夏の特徴は「少雨」に尽きるだろう。そのお陰で、良かった面は米作り。水管理さえ確りやれば良く、草刈りの労力は、例年に比べて、かなり軽くて助かった。


猪その四

彼是半世紀前、猪は人間の食料だった。私はその肉を食べた経験を持つ。尤も内蔵は全て廃棄して、犬猫の餌になっていた。当時はこの地にも、猟犬を飼っている猟師が数名居られた。その猟犬を、山に放てば、脱兎の如く吠えながら、犬は一目散に山中に走り込む。そして追われた猪が、山から逃げ出して来た瞬間に、散弾銃を発砲するのである。


猪その三

猪は豚と似通った動物で、雑食性である。特に好きな餌が、ミミズ・タニシ・カエル等の小動物で、目が弱いので、主に夜間に活動する。従って今の時期、餌を求めて、水田に侵入して、背中に付いたダニ等の虫を、払い落とす為に、泥浴びを繰り返し、結果として収穫真近の稲を、滅茶滅茶にしてしまうのである。


盛夏その十九

今夏は何故か、毎年米作りに来られる人が来られず、自宅裏の田圃や畔が、例年以上に荒れ果てている。仕方なく知人と私が、歩けるだけにでもと、草刈りをしたが、雑草の成長には追い付かず、依然として歩き難い状態。冬季ならば未だしも、夏場の雑草刈りは、只でさえ暑いので、私だけでは手に負えず、蛇などに咬まれはしないかと、一人で心配している。


盛夏その十五

嘗て掛けていた、森林(火災)保険の請求書が来た。恐らく昭和の時代、自宅を新築する為に、小岱山の檜を数十本切り倒して、今住んでいる家を、半分解体して、建て替えた時のものだと推察される。切倒した檜は、良質部のみ引き出し、残りは山中に放棄!今更保険を掛けたとて、子孫の為に成るとも思われず、保険は解約!今や人口減少に向かう日本の未来は、一体どうなる事やら!明るい展望は何処にも見えて来ない!


盛夏その十三

今朝草刈りをしていたら、初老の女性が占い師の処に行きたいとの事!分かり難いので私が案内して連れて行った。実はこのM氏宅は私にとっては鬼門だった。何故なれば、嘗て神社総代を仰せつかっていた頃、記名石柱を拝殿周囲に建てた迄は良かったが、役員の記名石柱が見すぼらし過ぎるとのクレームを貰い、改めて建て替えた事を思い出したのであった。人間性の問題とは言い乍ら、この世は将に十人十色であることを思い知った。


士農工商その十

インフラの復旧と維持は、行政の最優先事項なれども、現市長に成って後の政策は、丸で子供騙しの感が否めない。何となれば、日本人は大昔から、インフラ投資には命を懸けていた。だから各所に眼鏡橋等が、残っているのである。処が現市長は、超近視眼と見え「安かろう悪かろう。安物買いの銭失い」政策が、大変にお好みの様で、補修した工事個所が、彼方此方で、再崩壊をしている。兎に角、市長足る者、自らの目で見て、自身の政策の如何を、振り返るのが、目下の最優先課題である。


士農工商その五

此処石貫は中山間地なので、決して水利には恵まれていない。従って昭和の時代には、空梅雨にでも成ろうものなら、忽ち田圃は干上がり、減収を免れなかった。其処で昭和から平成に掛けて、大規模な水利設備の改修が行われた。そのコンセプトは、電力の活用である。即ち山間部に溜池を設置して、下の川から水を汲み上げ、各々の水田に配水する方法である。今では小岱山の中腹には、幾つもの溜池が設置されている。これこそは国家プロゼクト、第二次農地改革と云うしかない。


キリスト教その四

岡田氏は私よりも一回り以上ご高齢であったが、頭脳は若く、やる気に満ち溢れて居られた。その活動の一つが「松尾卯一太」関連の歴史顕彰である。明治政府が私刑禁止令を発する直前に為されたのが、此処石貫での「日本最後の仇討ち」の碑の建立だったからである。氏の情熱の源泉は、恐らく「歴史的現実を、闇に葬ってはならない」との、燃え滾るような情念だったと、私は思っている。このことは学校でも教えないだろうが、我等の孫子にも、正確に伝えねばならない、大切な事項である。


災害その五

毎年の様に水田が壊れる原因は、一に集中豪雨、二に猪、三に田主の高齢化であろう。何れも決定的な解決策が無く、じりじりと、耕作放棄地が拡大しているのが現状である。本来なれば世代交代した若者が、先頭に立ち、新たな視点で未来の農業を構築せねばならない時が来ている。処が、今の若者は豊かな時代に生まれたばかりに、スマートな生き方を求め、我等の世代に比べて闘争心が欠ける。これを決定的に打ち破るには、例えば「元寇」みたいな「外部からの強烈な刺激」が必要かと思われる。


災害その一

北九州を襲った集中豪雨で亡くなられた方に、ご冥福をお祈りします。それにしても我が国は、四方を海に囲まれているので、何時何処が災害に見舞われるか、予断を許さない状況にある。我家も例外ではなく、過去幾度か災害に遭った。最も印象深いのは、半世紀以上の昔、栄屋前の廣福寺眼鏡橋が、崩壊した水害であった。そして遂に由緒ある橋は取り壊され、現在はコンクリート橋に架け替えられている。他方我家は高台に在るので、浸水被害は無いけれども、戦時中に掘られた防空壕が陥没して、巨大な穴が開いた。私は呻吟した挙句、古家を解体した時に出た大量の瓦を、その穴に埋めたのである。処がその場所が、地盤沈下を起こしたのには困った。恐らく今現在も、徐々に進行しているものと、考えられる。


父その二

我が父と母は6歳違いで、父は4人兄弟姉妹の長男、母は7人兄姉の末っ子だった。何れも明治生まれである。今や明治生まれは極めて少数となったが、数度の戦火を潜り抜けて来た世代だけに、何れも筋金入りだった。処が、私が物心ついた昭和の30年前後に、母は高血圧を発症し、父は下顎癌を発症して入院する、深刻な事態となった。私は幼心に、孤児になるのではないかと云う、一種の恐怖心を抱くようになり、以降それは、母が他界した昭和59年迄、我が脳裏から消えることは無かった。


ベトナムその六

ベトナムに限らず、東南アジアの諸国民は、押しなべて人懐っこく争いを好まず、物腰が穏やかである。それ故にこそ、我が国が高度成長をしていた、所謂バブルの時代に、メイド等の単純労働者の、人手不足を補う名目で、数多くの人々(主に若い女性)が、我が国を訪れた。その後のバブル崩壊後は、受け入れ制限が厳しくなったが、フィリピン等に行く男性の多くが、所謂物価の安さと住み易さを、求めているのである。


ベトナムその五

ベトナムと日本を結びつける、格好の題材が我家の目の前にある。それは石貫に住まわれる、S家である。「ベトナムトレーディング」の名の下、あっと言う間に、此処石貫では、他に比するもの無き、専業農家に成長した。その根幹は「勤勉に尽きる」と言って良いだろう。兎に角、家族全員が大変な働き者である。そして大胆にトラクタ等の機械及び設備投資をされたので、老人ばかりの中小農家は、全く太刀打ち出来ず、次々に農地を貸すばかりか、近年は田植や収穫作業までも、全面委託をすることに成ったのである。他方「澤村ゆり」の名前で、モデルもされているので、ネットで探せば見つかると思います。


田植その十七

最大の失敗は、私が「現場検証」をしなかったことである。田圃を埋め立てる土砂を、何処から採取して、何処にどのように埋め立てるのか、我が目で見て、手で触り、感触を掴んでこそ、実態を検証したことになる。私は迂闊にも、この最も肝心な事を怠り、取り返しのつかない、失態を招いたのである。持ち込まれたのは、宅地造成の為に、山を切り崩した土砂ならぬ「大小様々な石ころ」だったのだ。


田植その十六

市役所と「すったもんだ」の挙句の果て、埋め立てた土地の行く末をどうすべきか、私には名案も浮かばず、雑草が生い茂った荒地を見詰めては、溜息を付くしかなかった。それにしても、埋め立て地の土砂には大小様々な石が混ざっていた。私は最低限、水田には戻せなくても、畑地には出来るだろうと思っていたが、トラクタを入れて見て、ビックリ仰天!拳大から、頭程の石ころが、ゴロゴロ出て来て、中には巨大な岩も混ざっていて、トラクタの爪も曲がる様な有様。


田植その十五

それにしても田舎社会は、都会とは正反対と云える程に、地縁・血縁が、雁字搦めに張り巡らされ、住み難いこと、甚だしい限りである。恐らくそれは、近隣同士の婚姻が一般的で、秩序を保ち易いことから、永らく続いたものではないかと思う。そんな田舎で育った私は、隣家の近親婚の禍を、目の当たりにした。それにしても、いとこ同士の結婚は、日本では合法ではあるが、決して好ましくは無く、私にも従姉が居るが、結婚する事などは、全く考えなかった。


田植その十四

それこそガラガラポンの結果の如く、我家は自宅前の4枚の田が、それこそ広ーい一枚の田に取って代わり、数年間はその田圃で、米作りをしたのだった。然し一町歩(100m四方)もの水田は、余りに広過ぎて、持て余したので、長女に相談して、1/3程を埋め立てて、宅地転用を目論んだのだった。それは決して金欲しさではなく、石貫に人を呼び込んで活性化しようとの、立派な大義名分があったのだ。その頃折よく石貫に家を建てたいと、申し出られた方も居られた。然し周り(=地元の人間)はそうは思わない。市役所に相談に行く度に、私は煙たがられた。公務員独特の、婉曲な言い回しで、撤回をほのめかされたのだった。最後には同級生の職員が「頭を下げた」ので、私も渋々引っ込めた。


田植その十二

然し昭和の終焉と相前後して、耕地整理の時代が到来して、農村風景は一変したのである。それは機械化からの要請でもあった。それ以前の所謂牛馬農業から、トラクタを始めとする、農業機械を使うには、圃場が狭く、不定形では機械効率が上がらない。要するに広くて矩形の農地を求めていたのである。そんな中、我家もその渦中に巻き込まれ、それこそすったもんだの、大騒ぎになった。この件については既に別項に述べたので省略するが、丁度私が就職した頃の事だったように、記憶している。一言で述べれば、我家の多大なる犠牲の基に、他の地主も、優良農地を得ることが、出来たのであった。


田植その五

昨日で、知人に貸している、田圃の田植も完了した。それなのに、それなのに、我が田の苗代は、成長遅れで、未だに田植が出来ない状態が続いている。毎日の様に見回りしても、改善出来ないのは、一言で云えば水不足だが、その根底には、複雑な利害が絡んでいる。それは「水争い」とも言える。この地区では今も、米麦の二毛作をしている農家が多い。処が麦は畑作で、米は水田作なので、両者の利害が対立するのである。


田植その二

田植に纏わる想い出は尽きない。何故なれば、私は半世紀以上前の、昭和30年代から、農業を「させられていた」からである。勿論当時は、農業機械は皆無で、殆どが手作業であった。我家の農地は道向かいの道路を挟んで4枚あり、その形は今とは大きく異なり、何れも曲線的な形状をしていた。「四ジャ反」とか「三角田」と呼んでいたのは、その広さや形状から、採ったのだろうと思われる。


体育その六

それにしても、雨の日の傘さし運転は、危険極まりないものであった。今なら薄くて上質な雨具があるのだが、当時はそれこそ「歌の文句にあるような、厚いゴムの雨合羽」だった。当然雨水は染み入るし、ごわごわしてペダルを漕ぎ難くて煩わしく、びっしょり汗を搔いた。其処でアイディア商品とも言える、ハンドルに設置するタイプの「雨ガード」とも言える物が発売された。これはヒット商品で、あっという間に普及した。何故なれば、雨合羽と違い、体内が蒸れることがなく、夏場には、特に持って来いの商品だったからである。


苗代エピローグ

私は過去、数十年間に亘って、苗代の場所を転々と代えて来たが、未だに「此処だ」と言える場所を見出せていない。恐らくこれは「理想の女性」に巡り会えなかったこととも、関連しているのかも知れない。何故なれば、日当たりが良くて、水が来て、猪が来ない場所を探せども、未だに見い出せて、いないからである。この世に水田等は、腐る程に在れども、何れの場所も結局の処は「帯に短しタスキに長し」なのである。


苗代その十三

今年も、苗代の水不足で稲の育ちが悪く、心配していた処、嘗てのことが俄かに蘇った。あれは6年前、東日本大震災の年、沢山の人々が熊本にも避難して来られ、私はそれらの人々に米作りを提唱し、大掛かりな猪避けの竹柵まで、構築したのだった。然し乍らこの地は日当たりが悪い上に、水の便も悪かったので、残念乍ら稲作は一年限りとなった。


苗代その十二

私は例年、何処で苗代を行うかに付いて、色々と悩む。何故ならば、全てに完璧な条件の場所など、見当たらないからである。昨年は石貫小の対岸で酷い水不足に泣かされ、今年は天神平に舞い戻った。何時ぞやは、自宅裏の通称鷽の谷で実施したが、鷽の谷は水不足で、雑草との戦いになり、一年で敢え無く撤退の体たらく!


苗代その九

苗代作業の特徴は、何と言っても「社会主義」=「コルホーズ」であることだ。何故なれば、多くの手間が掛かる上に、日当たりの良い圃場の確保、良質のモミ種の確保、圃場の水管理、猪対策等々、機械化が難しく、毎年の事乍ら、パーフェクトに出来た年は、過去一度も無いと、言っても良い程である。


苗代その八

昨日は遂にナフコ迄、セメントを買いに行く。何故なれば、我が苗代田の横の水路が「壊されている」からだ。犯人は何と水が多過ぎるので、態と水が漏れるように破壊している。私が補修したら、再度壊された。本当に「人生いろいろ」ならぬ「人間いろいろ」と言うしかない。


苗代その一

今年も先週、米作り仲間の皆さんと、苗代作業を実施した。何せ昨年は、石貫小の米作りのお世話をした迄は良かったのだが、長大な水路の浚渫が全く出来ておらず、結果水不足となり、稲の苗が枯れて、関係者に多大の心配を掛けたので、今年は一昨年迄行っていた天神平に戻した。「苗代半作」の言葉があるように、苗代作業は、当年の米の出来に、決定的な影響を与える程、重要な作業である。


米作その六

米作りの三要素は、日当たり、水の便、土の質である。この内の一つでも欠ければ、何らかの不都合が発生して、品質や収量に悪影響を与える。特に苗代を行う田では、デリケートであり、私は長らく米作りをしてきたが、過去満足な苗代をした年は少なく、毎年何等かの不都合が発生し、苦汁をなめる結果を招くことになる。昨年は水不足に依る、稚苗の葉枯れが発生したので、今年は散々迷った末に、苗代の場所を、再び天神平に戻した。


発言その七

今振り返れば、日本の国力のピークは、昭和から平成に掛けての、所謂バブルの時代であった。それは丁度、我等団塊の世代の全盛期にも重なるのである。当時は奇抜な衣装や、変わった風俗も現れたが、何れも長続きせず、我が世代の高齢化と重なるように、次第に沈静化して萎んでしまった。他方その当時は、パーマカルチャーや、ウーファーが、我家に押し寄せ、ワイワイガヤガヤと、賑やかだった時代にも、ピッタリと重なるのである。


季節その七

今日は思い立って、石貫小学校田の、畔の草刈り!石貫小が今年度限りで閉校となり、来年からは、玉陵小学校となるので、米作りも今年が最後になる予定である。それにしても「思えば遠くへ来たものだ」ならぬ「思えば長生きしたものだ」と、自分乍ら、思い返す今日この頃である。齢70にもなれば、昔であれば、所謂隠居の身分にて、日溜りの場所に腰掛けて、日長一日中、キセルタバコを燻らす様な光景が、瞼の裏に蘇る。


季節その六

山岳地帯に在る水田は、平坦地のそれよりも、作業が遣り難く、時間も掛かる。それでも米を作るのは、理に適わないと思われるかも知れないが、勿論利点も有る。それは「米の味が良い」から。「石貫の米は美味しい」と言われるのも、棚田なるが故に他ならない。棚田の水は冷たく、高い田から低い田へと、循環する。他方、平坦地の水は循環せず淀み、水温が上昇する。この違いが、米の味に直結するのである。


季節その三

今朝は一気に夏が来たような快晴なので、一念発起して、昨年地主からクレームを付けられた、天神平西岸の、土手の草刈り。何せ見上げれば、垂直とも思える程の急斜面なので、背負式の草刈り機で、やおら作業開始。処が何だか背中がヒンヤリする。調べて見たら、何とオイルホースが外れて油漏れしている。早目に気付いて良かった。万一オイルに火が付こうものなら、下手したら大火傷をする恐れもあった。それにしても、急斜面での草刈りは、姿勢制御が非常に難しく、転落したり、怪我をする危険性もあるので、高所作業に自信がない人は、絶対に止めた方が良い。


稲作その六

実は、問題は別々に発生しているのではなく、互いにリンクしている。最初の年には、猪が侵入して、田圃でダニ落としを遣り、稲を散々に踏み潰された。その主因は、猪が繁殖し過ぎて、山から下りて、川を渡り、田圃にまで来るようになったからである。私はその他に、犬が原因だと思う。何故なれば、嘗ての飼い犬は、現在の様に、繋がなくても良く、放し飼いだったからである。処が今の様に鎖で繋がれて居れば、猪は賢いので犬の直近まで来て、悠々と去って行く。我家の犬クックは、それに対して、吠えることすらをも、出来ないのである。


稲作その四

状況の変化は、最初は目立たない形で、極々ゆっくりと、そして次第にスピードが速くなり、気が付いた時には疾風怒涛の如く、変化して行くものである。それを垣間見るのに、最も分かり易い指標が、高齢化に他ならない。嘗ては米が不足していた時代もあり、米=金の兌換すら、可能であった。特に田舎では現金が乏しかったので、米が第二の紙幣の役を果たしていたのである。その代りに当時は米泥棒が横行し、我家も幾度も盗まれた。然し只の一度すら、犯人が捕まったことなく、私は当時から「警察嫌い」に、なったのである。


桜その十

今朝は、阿蘇の「一心行」の桜が満開のニュース。数年前の台風で、枝が傷んだと聞いたが、復活したようである。私も屋敷内に、何本もの桜を植えたが、その内の一本は、紛れもない一心行と同じ樹種の山桜で、見上げるような大木に育った。山桜の特徴は、花の華麗さはソメイヨシノには劣れども、害虫に侵されず、風雨にも強いことである。我が屋敷には、沢山の桜があるが、恐らく最も長生きして大木に成るのは、山桜だと思う。


桜その九

桜について色々と述べたが、話題は尽きない。と云うのも、私は、桜に代表される落葉樹が好きで、屋敷に植えた樹種の殆どが、落葉樹なのである。その最大の理由は、冬に日が射し、夏に日陰を作るからである。他方裏山の孟宗竹は、常緑であり一年中、日陰を作る。従って乾燥を嫌う、椎茸栽培には、最適なのである。


桜その七

桜ではないが、嘗て花一杯運動が、玉名市一圓で展開され、彼方此方に様々な花畑が出現したが、今やその面影は無くなったも同然!何故なれば、行政が旗振りして始めたものは、殆ど長続きしない。それは画一的に遣るからである。どうせ始めるのなら、一切規格を決めず、好き勝手に遣らせた方が、余程良いものが出来ると、私は思う。その好例が、国道208号線沿いの八嘉地区で、見事な花畑が車上から見て取れる。


桜その六

何事も最初の一歩が死活的に重要であり、それさえ上手く行けば、二歩目からは格段に確かさが増すものである。富尾地区の桜の植樹が将にそうであった。恐らく満開に咲き誇った桜並木を見れば、誰しも自分達の部落にも、桜を植えたいと思うのは、極めて自然な感情であろう。幸いにも富尾地区は、桜を植える場所に恵まれていて、それこそ幾らでも植えることが出来る。恐らく10年も経てば、我が元石貫地区の桜並木に匹敵する、一大プロムナードが実現するに違いない。


桜その五

石貫は、嘗て富尾村と合併した地域であり、富尾は未だに独自の考え方を有している。それは桜についても同様である。何故なれば、我家の近辺から、三ツ川に掛けての北側は、桜並木が大凡繋がったのに、南の富尾地区は切れ切れで、並木道には程遠い現状なのである。処が石貫に触発されたのか、漸く富尾地区でも、繁根木川の土手に沿って、桜苗の植樹が始まったのである。


桜その四

桜は日本人の全員が好きかと言えば、勿論偶には嫌いな人も居る。その証拠に、私の犬の散歩道の途中数十メートルだけは、桜の枝がばっさりと、辻斬りされたり、押し倒されて一本も生えていない。その理由は、桜が成長したら、田圃が日陰になるばかりか、害虫や病気にも弱い上に、たった一円の収入にもならないからだろう。他方私は、家屋敷から、畑の土手、川岸等に、桜をせっせと植樹したが、勿論お金の為ではなく、石貫地区のイメージ向上の為に、遣っていることである。


桜その三

石貫の繁根木川沿いの桜並木は、今ではちょっとした名所だが、以前はそうではなく、北石貫の御代田氏が、我家の田向かいの土手に、桜を植樹させてほしいと、来られたのが、その発端である。何故なら殆どの農家が、桜を植えれば日陰となり、米の収量が減ることを危惧していた。当時は敗戦の傷が癒えず、殺伐とした事件事故も多かったので、植樹を思い付かれたのであろう。私は即答で了解した。以降少しずつ桜の植樹が成され、今では川沿いの土手の大半が、桜並木に彩られる、一大プロムナードとなった。それにしても残念なのは「軽自動車以外は進入禁止」との看板が有るにも拘らず、この時期になると決まったように、大型ワゴン車が態々桜の枝をバリバリとへし折りつつ、強引に走行することである。そんな心ないドライバーの気が知れない!


桜その二

桜の開花について書いていたら、奇遇にも現在カナダに居る、S君からの情報に接した。その中身は、彼氏がかなり以前、我家に来て、桜のテングス病の枝切りをしたという内容であった。それにしても、数日前から今日に掛けて、私はテングス病に罹った、枝切りをしていたので、余りのタイミングの良さに、我乍ら驚いた次第である。恐らく「ナイスガイ」の彼氏と私の間には、見えない糸が繋がっているに違いないと思う。


桜その一

今年も漸く桜が咲いた。それにしても東京では既に満開になっているのに、南国の九州で満開が遅れたのには、それなりの理由がありそうだ。それが所謂「地球温暖化」と言うものらしい。そう言えば、今年の冬も、暖冬気味で、厳しい寒波が来たようには思えないからである。何となれば、桜は一定の寒気が来た後に、休眠状態から覚めて、開花するからである。


新学期その三

尤も、高校通学用の自転車は、伯母が進学祝いに山口の新車を買って呉れたので、私は大変喜び、都合この自転車には、高校・大学を卒業して就職した後も、数年間乗った。その間、親友の山下君と、内装3段変速機を取り付けて、熊本市内をサイクリングをしていた当時のことが、今も懐かしく思い出される。


新学期その二

玉名中学は当時、繁根木河畔の今の熊本県事務所地に在って、石貫からも3km位と近く、自転車通学にはとても便利であった。私は教師用の自転車置き場の一角を借り受けて、3年間自転車通学をしたお陰で、体力が付き、体は丈夫になった。雨の日は大変だったが、前部に幌を取り付けただけで、雨合羽も着ず、傘さし・片手運転で、凸凹の砂利道を、3年間通ったのである。


東芝破産その四

栄屋の当主は、我家の水田を、酒代の代わりとして、それこそ毎年一枚ずつ、次々に格安の価格で買い上げたのである。その水田跡地は、現在は道路と同じレベルに埋め立てられているが、南北200m東西50m程の広大な土地であり、トラックステーションの他に、農業機械やボーリング機などの大型機械類が、野ざらしの儘放置されている。勿論、斯様な農地転用行為は、厳しく取り締まられていて、簡単には認可が下りない筈(我家の目の前の土地も同様)なのに、どんな方策で転用許可が下りたのか、不思議でならない。


バイオマス・エピローグ

氏が亡くなった後、和歌山と沖縄の係累が数名来訪され、玉名市の斎場で簡単な葬儀が執り行われたので、私も参列した。然し前妻と後妻(内縁)が同時に参列している葬儀が、正常に運営出来る筈など、通常は有り得ない。私は簡単に弔問を述べて、早々に会場を後にした。
処がそれから数週間の後、何と我が近隣の有力者数名が連れだって我家に来訪され、氏が建てられた家を、そっくり石貫二区の公民館として、利用したいと言われたのである。私は内心「余りにも虫が良過ぎるのではないか」と思ったが、断る理由もないので了承した。本来なら地区公民館というものは、対象地域の全家庭が、公平に費用負担して建設すべきものなるも、新築同然の空き家を、棚ボタ同然の低価格にて譲り受けたお陰で、軒先を1~2m伸ばした程度の、軽微な追加工事費用負担のみで、手に入ったのであった。完


バイオマスその九

石貫に家を建てた氏は、類い稀なる特殊技能の持ち主であった。例えば自動車道路の脇に生えた灌木の枝が、車の走行の障害になっている場合、その枝は切除せねばならない。然し往来が激しい県道を通行止にして作業するには、片側交互通行等の処置が必要で、警察を交えた大掛かりの作業となる。処が氏に依頼すれば、それらが全く不要となる。何となれば、彼氏は命綱とチェーンソーを腰にぶら下げて、スルスルとその木に登り、文字通り「ジャーン」と一閃!バリバリと大きな枝が、県道に落下、あっという間の軽業で、周りの者は、呆気に取られたようで、思わず拍手が起きる有様だった。

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バイオマスその八

以降、彼氏との親交は益々深まり、私は彼氏を掛け替えのない友人と認めて、石貫に定住するよう勧めたのであった。その最大の理由は、氏が沖縄の女性と駆け落ちをして、和歌山から遠路遥々熊本迄逃げて来た故に、行き場のない境遇だったからである。私は川向いの墓山の麓にある、我家の土地を提供して、家を建てるように勧めた。彼氏はとても器用な男で、大工でもないのに、喜んで小さな家を建てたのである。


バイオマスその七

檜千本と云うが、一帯の灌木を総ざらいにして、小さな檜苗を植え付けるのは、簡単な作業ではない。よしんば植え付けても、周囲の雑木に負けて、日光を受けれねば、翌年には枯れてしまう。その為に、植林後数年間は、毎年根浚いをせねばならない。これも彼氏に依頼したお陰で、すくすくと檜が育ったのである。


バイオマスその五

私は働き盛りの昭和59年末、家内と子供3人を連れて、和歌山から熊本の実家に舞い戻った。然し当時は母が和室のみ、8室もある古民家で一人暮らしだったので、子供連れでは大変住み辛く、早急なる改築を迫られた。そこで先ず台所を建て替え、母屋は翌年、小岱山に植えてあった檜を数十本伐採して、今の住まいを建設したのだった。そしてその翌年、私は和歌山の知人に依頼をして、伐採後の禿山に、1000本の檜を植樹して貰ったのである。


バイオマスその三

昨年の今頃の事だろう。京都から数名の業者が石貫に来て、竹を買いたいと申し入れた。私は勿怪の幸いだと喜び、その業者をH君と二人で、それこそ石貫中の山林に案内したのだった。然し、十か所近くに案内しても、中々お気に召さなかった。そして挙句の果て、馬場地区の東側斜面に生えている、細い真竹を一山ごっそり、買って行ったのである。私は少々頭に来た。幾ら職人であっても、顧客第一であろうとも、どんな竹をどの位、何の為に欲しいのかを、最初に言って呉れていたら、あんなに彼方此方にまでは、振り回されなかった筈である。以降その山の近くを散歩する度に、私には苦い想いが蘇る。


冬季湛水その五

冬季湛水を実行するには、幾つかの要素が欠かせない。中でも最も重要なのが、水位調整である。湧水を上手に使うのがコツなのであるが、雨が降ると、水位が上昇して、畔の軟弱な部分からオーバーフローが発生して、畔を破壊する。これを防ぐには、波トタンを設置するのが一般的なのであるが、自然農法には、なじまない。ベストな方法は、畔に根が強固な雑草を生えさせて、崩壊を防ぐしか無いだろう。


木枯しその15

幾度も寒くなると騙され続けた挙句、年も押し詰まって漸く例年並みの寒さが遣って来た。それにしても今年の冬は、例年に比べて非常に雨が多かった。大体冬に雨が降るのは、地中海性気候の筈で、日本の冬は乾燥しているのが普通である。温帯モンスーン気候は何処へ行ってしまったのか?今年だけの異常ならまだしも、来年もこんな天候なら、農業を根本的に考え直さねばならないだろう。


木枯しその13

焚火は暇潰しみたいなものだけど、枯れ木を燃してサツマイモを焼き、一人こっそりと食べると、何とも美味しく、幸せな気分となる。処が今日米倉を除けば、彼方此方にもみ殻が散らばっている。仲間の大切な米がチュウ公に食べられているのだ。全く隙間は無い筈なのに、一体何処から侵入したのだろう?


木枯しその12

冬の作業は焚火が最高!人は火を扱えるようになって、万物の霊長となった。私は自慢ではないが、火を起こす技術は誰にも負けない。それは幼き頃から、父と二人で竈の火を扱うのが、一番の楽しみだったからである。樫の木の薪を焚き、揺らめく炎を眺めていると、何とも言えない幸せな気分になる。


木枯しその五

昨日は、漸く終えた脱穀後の稲藁の後処理!何事も「終わり良ければ全て良し」が理想なのであるが、疲れた体での後始末は、正直の処しんどいものである。然し、無農薬・無肥料栽培をするからには、稲藁の田圃への散布は必須事項である。そんな我等の作業を見ていたのか、目ざとい隣人が「稲わらを分けて欲しい」と、お出でなさった。何となれば、今やコンバイン脱穀が殆どとなり、稲藁は「貴重品」となっているのである。


端境期その五

今日も天候が不安定で、夕刻から雨となった。さも有りなんと、天神平に掛けてある稲を、軽トラに積み自宅に持ち帰って良かった。他方、鷽の谷に掛っている10竿程の架け干しは、幾度も雨に遭い、最早乾燥は望めなくなった。須く農業はタイミングが重要であり、臨機応変に対応しないと、決して良い結果は望めない。勤労感謝の日が、丁度今日であったのが、このことを如実に物語っている。


地勢その十

我家の北西側は、2m程の高地で、孟宗竹山になっている。勿論春には筍も沢山獲れるが、秋には寿命が来た竹が枯れるので、私はそれを引き出して適当に切断して、冬場の暖を取ったり、細い部分は架け干し竹の足として活用している。それにしても、孟宗竹は真竹と違い、径が太いので、下部は竹橋の材料位にしかならない。他方先端部は枝を外せば、架け干しの足や、竿竹の材料として有効に使える。勿論真直ぐな物に限られるが!竹には孟宗の他、真竹があり、こちらは元先が平均化しているので、架け干しの竿としては、孟宗竹に勝る。終わり


地勢その九

我家の西側に入り込んだ谷を、通称「鷽の谷」と言い、荒れ田を含めて、大小10枚近くある。この地は、昭和の耕地整理に参画しなかったので、所謂機械化に乗り遅れてしまった。従って大半の田は、手作業に依る米作りをせねばならない。然し日照や水に恵まれているので、米は良く獲れる。一方こんな田圃が好きな人も少なくなく、私が退職後始めた水田も、此処が出発点で「片白」から、現在は「天神平」そして「山口」へと移動している。


地勢その八

農業に不可欠なものは、土地と太陽と水である。我家はその全てに恵まれていて、御先祖様に感謝せねばならない。然し唯一不足しているのが労働力!だから私は農業の仲間を、とても大切にしている。若しも仲間が居なかったなら、私はたった一人で、農作業をせねばならない。尤も大半の農家は、今や高齢者が、農業の主な担い手で、その数も徐々に減少しつつある。私とて最早70歳ともなれば、何時までも働ける保証はない。恐らく今後は、所謂コメ余りならぬ、土地余りの状況となり、耕作放棄田畑の増加防止が、課題となるに違いない。我等が猪の被害に遭い、片白から撤退したのが、その端的な表れである。


地勢その六

松浦先生は、流石に医者だけあって、俯瞰的鑑識眼の持ち主であった。或る日我家に往診に来られた時、こう仰ったとか!「臨家が空き家らしいけど、いっそ買ったら良かろうに」と。全く思いもよらぬ提案だったらしい。勿論当時の我家に買収する資金が有ったとは言い切れないが、それ以降、境界紛争やら色々とトラブルが発生したことを考えれば、松浦医師の先見性が、如何に素晴らしいものであったかが、今頃になって、改めて分かるのである。


地勢その五

我家は通称「小屋敷(おやしき)」と呼ばれているが、その謂れは定かでない。俯瞰的に見れば、小岱山の東麓に張り出した通称「中の島」台地の上に在り、北から南になだらかに標高が低くなっている。従って水害の恐れは全く無いけれども、台風に対しては、南風を真面に受ける為に、過去幾度か屋根瓦が剥がれたこともあった。それにしても彼是60年程前の頃、我が主治医の松浦先生は、自家中毒を屡発症していた私の治療に、高瀬から自転車で、往診に来られていた。自家中毒の特効薬は「ブドウ糖」特大の注射を腕の静脈に刺されると、針を遡って血液がドッと注射器に流れ込む。そして先生が注射器をゆっくり押されると、その血液が丸で食紅のように再び注射針を通って静脈に流れ込むのである。そしてその数分後には、私の全身に湧き上がるような力が蘇るのであった。氏は私の命の恩人であり、氏無くして私は、この世に存在しない!


地勢その四

家屋敷は、広いに越したことはないが、管理が大変であることは、他稿でも述べた通りである。然し乍ら、我家の敷地が広いのは、それなりの理由がある。即ちイベントスペースなのである。現在では、結婚式や葬儀は、専門の式場で催されるのが当り前になったが、半世紀前の頃までは、一般家庭で行われていた。その場合、弔問客が多いと予想される場合は、広いスペース(続き間)が必要な為に、我家の座敷や土間、調理場が、屡活用されていたのである。


地勢その一

地勢とは、土地の高低、傾斜や谷、川、湖の配置など、地形の有様と定義されている。我々人間は、地勢を上手に活用して、生きて来た。それが近年、大きく変容を来たしている。それは、人間の活動に依る処が大である。例えば家の立地。日当たりが良く、風水害に強く、地盤が固い場所が向いている。我家はそんな家であったが、今や私と同年齢程の銀杏の大木が聳え立ち、今頃から、夥しい落葉が屋敷中に降り注ぎ、一帯を黄色に染める。来訪者は綺麗と言われるが、その処分作業は恨めしい限りである。


はざかけその九

今日は午後から雨の天気予報!スワ急げと土手の草刈り!そして息つく暇もなく、枯れ草に火を放つ!何故なれば、雨が降り出す前は風が止んで暫くの間、凪の状態が訪れるからである。お陰様で土手の草が綺麗に焼けた。それにしてもY氏の田は、他の水田への通路としてばかりではなく、はざかけや、脱穀場も兼ねていて、様々な用途に有効活用されている。田主へのお礼も、忘れずにしなければ!


災害その五

今日から愈々山口田の稲刈り開始!農業で最も嬉しいのが、秋の収穫時期である。それにしても、今年は昨年の反省を込めて、各種猪対策をしたお陰で、無事に収穫出来そうで、仲間の皆さんも、さぞかし満足されることと推察する。それにしても、昨年までの片白と異なり、通行量の多い道路沿いの田圃を耕作しているので、人目に付くこと甚だしく、良いことも悪いことも、筒抜けになるのが田舎の特徴!地元の人々には、丁寧に接して頂くよう願う次第である。


災害その一

今年は「熊本地震」と言う、特別な出来事が発生したが「地震・雷・火事・親父」の言葉を聞く迄もなく、災害は忘れた頃に遣って来る。従って、何時災害に見舞われても慌てない、心の準備は肝要である。その地震も、最近は間隔が広くなり、次第に落ち着きを取り戻しつつある。それにしても、地震は地球内部の、マントルの対流が引き起こすとか?私は幼き頃から、地球物理学には、特別の興味を持っていた。


収穫その十

今日付の玉名市広報は、何と何と石貫特集ではないか!それも我等が今年から米作りを始めた山口(石貫四区)の人々(大門氏・米野氏・二階堂氏他)を取り上げている。と言うのも、石貫四区は米が美味しいばかりか、古墳の故郷で、穴観音や横穴古墳が、多数存在している。こんな古代人の故郷で、農業をさせて貰っている我々は、大変幸せな境遇にあると、言わざるを得ない。然し乍ら、今年も米の収穫期に、狙いを定めたかの如く、大型台風が北上しつつある。一方農業は正直なもので、ケミカル栽培で、化学肥料を多投した水田の稲は、全面倒伏状態。稲刈りの機械は使えず、籾には泥が付き、食味も最悪となる。


収穫その八

猛暑だった今年の夏も漸く退きつつあり、雨と共に、秋の気配が日増しに濃くなって来た。この時期に最も注意すべきは、猪対策である。昨年の丁度今頃、電気柵で囲っていた片白の広い田圃が、猪の集団進入に依り、一夜にして全滅の憂き目に遭った。恐らく、勇気の有る猪が、ビリビリ感電する柵線にも怯まず、猪突猛進で田圃に突撃したのを合図に、他の猪も一斉になだれ込んだらしい。何せ猪の背中には、夥しいダニが寄生している。だから猪はそのダニを落すべく、田圃で泥浴びをするのである。


収穫その五

昨年は何故か、栗を収穫した記憶が無いが、今年は大豊作!樹木には固有の裏表(隔年結果)が有るからだろう。それにしても、柿の木は全く虫食いが無いが、栗の木は虫に弱く、毎年のように枝が折れたり、腐ったりしている。然し木の下には沢山の栗の実が落ちていた。栗を拾ったら、先ず水に浸ける。すると虫は呼吸出来なくなり、苦し紛れに這い出て来る。


竹その十

「木六竹八」の言葉があるが、これは木を伐るのは旧暦の6月、竹を伐るのは旧暦の8月が良いとの意味である。新暦に換算すると、木は8月、竹は10月に伐採するのが、虫食い予防にもなるようである。と云うことは、そろそろ竹伐りの時期が近付きつつある。何となれば、稲刈りの時期が10月なので、その頃近くの山から竹を伐り出し架け干し(ハザ架け)の材料とすれば、極めて好都合なのである。


竹その九

昨年は、京都から竹買い業者が来て、散々振り回された。何せ石貫は竹山のオンパレード!其処ら中に竹が生えているのに、その業者が求めている竹に中々遭遇出来ない。私も彼方此方を案内したが、最後は堪忍袋の緒が切れて「もう勝手にしたら!」と突き放す羽目に!あれから間も無く一年。犬の散歩の途中、皆伐された竹山を発見。「そうか!この大きさの竹が欲しかったのだ」と納得した次第。要は細い真竹が欲しかったのだ。


竹その八

竹は木とは異なり、地下茎(通称ネブチ)は、下ではなく、横に伸びる。それを立証するのが、山に行くと、彼方此方にネブチが露出している状態を目の当たりに出来るからである。と云うことは、山林の土砂崩れを防いでいるのは、地下茎なのである。その地下茎の性格は、地上に出ても直ぐに地下に潜るのである。だから山歩きをすると、無数の地下茎がモコモコと出ては、地下に潜った姿を目の当たりに出来る。


竹その六

孟宗竹に比類するのが「真竹」である。孟宗竹より細く、真っ直ぐで、節間が大きい。従って加工も容易なので、昔から笊や篩等の各種農具の材料として、広く活用されて来た。此処石貫のハタブ地区の竹職人も、昭和に時代には、各種の刃物を巧みに使い分け、見事な手捌きで、農機具を作っていた。然し今やこれらの職人は全く居なくなった。処がホームセンターに行けば、昔懐かしい竹笊等が置いてある。これらは全て、日本の技術者が、中国人に製法を教えて作らせ、逆輸入したものである。


竹その五

孟宗竹は大変肉厚で、根元の直径は15~20cmにもなるので、昔は川に架ける橋の材料にも用いられた。然し時代と共に用途が縮小して、近年は新年の「ドンド焼き」に使われる位しか用途がなくなった。従って私も裏山の竹を、半分程伐採して貰い、面積縮減を図った処である。と云うのも、地下茎が縦横に走るので、ほっとけば、屋敷中に竹が生えても困るからである。


竹その四

竹の種類は多いが、最もポピュラーなのが孟宗竹!高いのは10~20mにもなる。従って根元は太腿大のサイズで、ガッチリとしている。そして筍として最も美味しいのも孟宗竹。中国から日本に竹が伝わったのは、鹿児島の薩摩半島!それが今や北海道を除く全国に普及した。4月の頃、地上に鶏の嘴程に芽を出した筍を掘れば、そのまま生で食べても美味しい。


竹その一

夏場は殆ど立ち入らない、自宅裏の孟宗竹山に行けば、早くも銀杏が落ち始めている。一方椎茸ホダ場は、支柱が外れて、大量のホダ木が将棋倒し状態。仕方なく、一旦全てのホダギを外して、横木を固定し直し!椎茸は、菌を打ち込んでから、二梅雨を過ぎた後に、漸く生え始める、大変に気長な作業である。


自転車その八

自転車のパンクで多いのが後輪!体重が掛るので、摩耗スピードも前輪よりも早い。処が自転車の場合、殆どが後輪駆動であり、変速機等が付いていると、タイヤ交換は前輪の数倍もの時間を要する。チェーンやブレーキ迄取り外すとなれば、組み立て直すのも一仕事である。然し乍ら我家には、複数台の子供用自転車があり、近所の子供達も自由に乗れる、恵まれた環境にある。


自転車その六

我家には自転車が何台も有る。その原因は拾って来たからだ。何だか乞食みたいだが、道路端に放置されたり、川に投げ込まれたりされている自転車を見ると、ついつい可愛そうに思って拾って来るのである。恐らくこれらの自転車は、盗難車や、パンクして乗り捨てられた自転車だと思われる。それにしても、我等の子供時代には、とても考えられない、物や心を大切にしない、世の中になったと思う。


自転車その三

父の自転車は多分、28インチだったと思う。今は26インチが標準なので、父は大柄だったのだ。当然子供には大きすぎるので、所謂三角乗りをしていた。これは今では曲芸の域だろうが、右手でサドルを掴み、左片手ハンドルで乗っていたのである。そんなサーカスみたいな私の姿を見て、知人の高浦氏が可愛そうに思われたのか、私に運搬車を貸して下さった。運搬車は今で言う業務用自転車である。全般的に車高が低く、後輪は前輪より太く、荷台も大型の、貨物運搬車だった。私は高浦氏のお陰で、自転車に乗れるようになった。


自転車その二

今は何でもある時代だが、昔は何もなかった。自転車もそうである。戦後の貧しい時代は、タイヤチューブが入手困難な為に、何と廃物ゴムを固めた「石タイヤ」という物があった。これはパンクしない代わりに、クッションが最悪で、未舗装道路を走ろうものなら、尻をボクサーに打たれ続けているような状態だった。それでも我等は、敢えてサドルに腰掛けず、尻を浮かせたままの格好で、未舗装でガタガタの、田舎道を走り回っていた。


自転車その一

私が物心付いた頃の移動手段は自転車。何と我が主治医の松浦医師は、高瀬の町中から、自ら自転車を扱いで、4kmの距離を、往診に来られていたのである。それは患者(私)が病院まで行く手段がバス以外に無く、止む無い手段だったのか、我家が特別に医師と懇意だったのか、今では分からない。何れにしても、車はバスとタクシー、貨物運搬の三輪車位しかなかった時代、想像するのも難しい。


メンテナンスその八

今朝も5時起きで、朝の涼しい内に、石貫小学校田の土手の草刈り。長大な土手の雑草を刈るには、肩掛け式の、高馬力の刈払機が良い。尤も石ころが有る場所は、チップソーでは石を跳ねるので具合が悪く、ナイロンカッターを装着すると、綺麗に仕上がる。然し、泥や草が飛び散るのは仕方なく、ゴーグルをはめ、長袖シャツで全身を覆い、長靴を履き、前掛けを装着した、完全装備で作業する。


メンテナンスその五

季節は行きつ戻りつ、気付かぬ間に、着実に過ぎ行くものである。特に今年は、夏と秋との境が9月の訪れと同期をし、急に涼しくなった。年中で最も過ごし易く、秋の味覚が堪能出来るのが、この頃の季節である。思い起こせば、昨秋の干し柿は高温多湿で全滅した。今日も雨、今年の秋はどうなるのか、今頃から私は気を揉んでいる。そんな秋の雨の今日、再び刈払機のメンテナンス。回転部を分解して、夏草の塊を解いて、グリースアップ。これを怠れば、トルクが増して、燃費が一層悪化する。


耕耘機その五

最近は耕耘機を使う人は少なくなったが、知人のH君は耕運機をフルに活用して、大豆栽培をしている。というのも、大豆畑は田圃と違って、水捌けが悪いと育ちが悪くなるので、どうしても奥地(=高地)に栽培することになる。そうなれば傾斜地や狭い棚田が多くなり、小回りが利く耕耘機が取り回しが便利で、必然的に活躍することになる。


耕耘機その二

私が本格的に農業を始めたのは、昭和から平成に代わる時代であり、所謂機械化の進展が、目覚ましい頃だった。当時の我家には、昔懐かしい脱穀機や石油発動機はあったが、既に時代遅れとなっていて、殆ど買替えねばならず、その最初に買ったのが、耕耘機だった。何故なれば、畑は草茫々で、竹や木も生えていたからだった。その耕耘機は今も尚、現役で、知人が大豆の作付をする際に、溝を掘ったり、畝を立てる作業で活躍している。トラクタが普及する前は、耕耘機とリアカーを連結して、農作物を運搬していた。それが現在の軽トラックに取って代わったのは、そんなに昔の事ではないと思う。


軽トラその四

私は昨年初、娘宅の屋外に置いてあった三菱軽トラを、譲って貰った。理由は、軽トラが一台しかないと、誰かが我家に来て、田圃に行き、使用する時間中は、私の足が無くなるからである。処がどっこい、この軽トラに問題多発したのである。何故なれば、長期間、屋外に車を放置してあった為、先ずはバッテリー交換。何とか走れるようになったが、乗り心地が非常に悪い。何だかゴンゴンと音がして、振動が車体に伝わる。ディーラーに見て貰ったら、長期間停車したままの状態で、タイヤが変形したらしく、4本共に交換要!其れだけなら兎も角、今度はエンジンから「キーキー」音がする。ファンベルトがスリップしているらしく、ベルト交換!車と云うものは、毎日乗って当たり前!数ヶ月も屋外に放置すれば、彼方此方に不具合が出ることを知った。


軽トラその三

軽トラは、軽自動車のカテゴリーで、現在は排気量が660ccとなっている。嘗ては360ccだったので、略2倍となり、色んな点から普通車に近付いた。恐らく今後も発展を続け、自動車の一大ジャンルを確立する勢いにある。というのも、欧米から学んだ自動車産業が、日本特有のカテゴリーで成長することは、地球温暖化防止の観点からも、とても良いことに違いない。それを証明するのが、軽四輪の売れ行きで、今だ好調を持続している。その証拠に、普通車メーカ(トヨタ)が食指を伸ばしたり(ダイハツを)子会社化することで分かる。


トラクタその十

何だかんだ言っても、実力に限りが有るので、全てが思うようにならないのは、仕方がない。今与えられた状況の下で、最善を尽くすのが、在るべき姿である。昔はトラクタ処か、耕運機もなく、牛と人力で農業をしていたのだ。辛い時、悲しい時、幼き日の情景を思い浮かべて見るが良い。戦後の日本は焼け野原から立ち上がった。私が幼き頃、親は貧しさから脱却すべく、子供をほっぽり出して、必死に農業をしていた。あの情景が脳裏に残っているからこそ、戦後の我国は蘇ったのである。


トラクタその九

私のトラクタはイセキ製。今やガリバーとなったクボタには、総合力で一歩も二歩も劣る。その差で見逃せないのがアフターサービスである。私が端的に感じたのは、クボタのテクニシャンは他社のトラクタでも、一目で診断して、適切なアドバイスをしてくれる事!こんな小さなことが、とても重要なのだ。恐らくトヨタのサービスマンと、他社のサービスマンの相違も、似たようなものだろう。


トラクタその八

S氏の所有トラクタは2台。用途に応じてアタッチメントを着脱しつつ、各種作業を実施される。勿論幌付きのトラクタなれば、天候や気温に関わらず作業できるように、自動車並みのエアコンも備わっている。私のオープントラクタと比べたら、天と地の相違がある。


トラクタその七

石貫最大の農家はS家!今や高齢化で、廃業する農家の土地を次々に借り受け、一気に石貫トップとなった。その根幹は施設作物に端的に表れる。冬季に大型のハウスを設置し、内部を暖房して、早場米ならぬ早場豌豆等の野菜を、料亭などに出荷する農業である。その価格は路地物の数倍にもなる。


トラクタその六

トラクタは一般的に乗用タイプだが、耕運機となると、手押し式を意味している。勿論作業内容は似たようなもので、広い圃場では乗用型、狭い圃場では手押し型と、使い分けられているようである。私は双方を所有しているが、田圃はトラクタ、畑は耕運機と区分しても良いだろう。勿論逆も然りである。我が知人は大豆作付をされているが、その作業は、トラクタよりも耕運機が、圧倒的に使い勝手が良い。


トラクタその三

私のトラクタは現在3台目。一台目はクボタ製だったが、知人が牛の採草目的に、菊池河原に置きっ放しにしていた間に盗まれた。勿論キーは外していたので、プロの仕業である。2台目は、イセキの二輪駆動だったので、狭い田圃の作業が難しかった。そして3台目が南関の農家から下取りして、現在使っているイセキの四輪駆動である。これは知人と共用だったが、燃料から交換爪に至る迄、全てがオンブにダッコで、費用負担を全くして呉れないので、縁切りをした。今考えても、常識に欠ける人は困ったものである。


刈払機その十

刈払機は、戦後の日本で急速に発展した農機具で、今やアジアを中心とした米作地帯で、広く活用されている。就中、日本の農業機械は、軽くて燃費が良く、故障も少ないので、中古品であっても、喜んで下取りして呉れるのだ。それを実感したのは、西里駅近くの農機具店に立ち寄った時のことである。広大な倉庫に、数百台の中古農機が集められ、出荷を待っていた。実は我家のトラクタもその一台で、私が4駆のトラクタを買った時、二駆の中古品は、業者が喜んで取りに来たのである。恐らく東南アジアでは、ボロボロになるまで使いこなすだろう。とても良い循環である。


刈払機その九

恐れていた通り、自宅裏の不耕起田に猪侵入の形跡有り!大体8月に来るのは、山のエサが乏しくなった時期と符合している。10年程昔までは、所謂「鉄砲撃ちさん」と呼ばれる猟師が何人か居たが、何方も高齢となり、今や猟師は皆無の状態に!そうなれば田舎は猪天国となる。さりとて取得が難しい猟銃免許を取得しても、訓練された数匹の猟犬を飼い、山から猪を追い出さねばは、鉄砲では撃てない。そんな状態で今や山麓の農家は、殆ど電気柵を張り巡らし、柵の中でコメ作りをするようになった。然し私は昨年、電気柵をも破られたので、竹バリケードを張り巡らす羽目に!私はこれを悔しさをも込めて「刑務所農業」と揶揄している。


刈払機その五

刈払機の心臓部は刈刃である。私は十数枚の刃を揃え、暇さえあれば刃研ぎをしている。何故なれば、切れない刃を使えば、時間が掛るだけではなく、燃料消費量も大きくなる。刈刃研磨に使用する刃は「ダイヤモンドソー」超硬チップ研磨機としても販売されているが、私は所謂「サンダー」と称する研磨機を、自分なりの遣り方で固定して、そのまま使用している。


刈払機その四

刈払機は大きく分けて肩掛け式と背負い式!前者はエンジンと伐刃が固定されているが、後者はフレキシブルとなっている。私は平坦地は肩掛け式、土手や急傾斜地は背負い式を使う。勿論逆に使っても構わないが、傾斜地の草刈りは、よりフレキシブル性を必要とすることからの使い分けである。


刈払機その三

刈払機は殆どが、ダイヤフラム式2サイクルエンジン!理由は軽くて高馬力を出せるからである。その代り混合油(ガソリンと潤滑油)を使わねばならない。従って排煙に煙が混じるのは致し方ない。昔は自前で混合していたが、今やガソリンスタンドでも、簡単に購入出来る。私は面倒なので、専用タンクに常時混合油を保有し、草刈に行く時もタンクを持って行く。


田その六

今年から片白に代わって作り始めた山口の田圃!色んな点で、片白とは対照的である。その一 片白は東西谷で、山口は南北谷。太陽は東から西に動くので、東西谷は日照時間が長いが、秋になると日陰の部分が広がる。一方南北谷はむらなく日が当たるが、日照時間は、東西谷に比べて短い。時間と場所の公平性は、山口と片白は対照的である。私は世話をした観点から、山口田の方が、皆さんにとっては、公平性があると思う。


田その五

田と畑を総称して農地と云うが、特に水田は借地が難しい。何となれば、水利権や取り付け道路が、各田圃毎に決まっていて、勝手に通行出来ないからである。我家の田の如く、道路に面していれば良いが、そうでない田は、他人の田を、許可を得て通らねばならない。それでは困るとのことで、昭和の末期、耕地整理と称する、水田の「交換分合」が行われた。その結果、現在では殆どの田が、道路に面していて、トラクタやコンバイン等の大型機械が、自由に出入り出来る様になった。勿論例外もあり、我家の西側の田は、他人様の田を、許可を得て通行せねばならない。


田その四

その昔「ハーブアルパートとティファナブラス」と云うラテンバンドが歌う「蜜の味」という曲があった。軽快なラテンのメロディは、今も鮮やかに蘇る。それにしても、蜂蜜を採取するには、先ず蜜蜂を招き寄せねばならないが、それには蘭の花が一番良いとか?そして偶然にも、我家の庭先の手水鉢に、蘭の花があったのだ。然しその後が良くない。半ば強引に蘭を引き抜かれ、哀れ手水鉢の軽石は、幾つかに分解してしまった。何毎につけても、マナーが悪い人は歓迎出来ないし、自然を大切にしない人は、御免被りたい。


田その二

昭和の時代、トラクタなどある筈もなく、田圃を耕す動力は牛しか居ない。粗起こしから、代掻きに至る迄、動物に頼っていた。牛は馬に比べて、速度は遅いが、耐久力は勝る。当時「前尾繁三郎」と言う政治家が居たが、彼のあだ名は「暗闇の牛」うすのろで、偶に「モオー」と啼くことから、付けられたとか!然し政治の手腕は見掛けによらず、立派な政治家であった。今や政治家の言動も軽くなってしまったが、牛のように黙々と働く者こそが、この世を立て直すのではないかと思う。


川その十

我家の西側にある谷から、水量は少ないが、清冽な水が湧き出ている。そのお陰で、昔乍らのコメ作りをする方が、今年も6名。手間は掛るけれども、こまめに手入れさえすれば、それなりの収穫が得られる。今や機械農業が一般的になったが、耕地整理が成されなかった水田では、不耕起自然農法も、捨てたものではない。


川その九

「中曽根美樹」の歌に「川は流れる」と言うのがあった。今も思い出すのはその歌詞「或る人はー心冷たくー 或る人は好きで別れてー吹き抜けーる、風に泣いてるー」恐らく50年近く前の歌だろうが、年甲斐もなく、若かりし頃のことを思い出してしまった。


川その六

今年ばかりは、予想外の出来事が多発した。中でもひどかったのが、昨年までの片白での猪被害に勝るとも劣らぬ水争い。我等は潤沢な水が来る田圃6枚を借りて、田植えが出来たが、下流の石貫5区の住民からの再三に亙る、水寄越せのクレームには参った。何せ数十枚の水田を、満たすには大量の水を川から取水して、水路に供給せねばならない。然し自然は気儘故に、ほって置けば満水になる田圃から、カラカラの田まで、まちまちな状態となる。その水の元は、山口川上流の堰である。今や殆どの堰は、レバーを操作することで、水位調整が出来るようになっているが、此処だけは昔乍らの板堰!天候や下流田主の要望に沿って、いちいち堰板を積み増したり、外したりせねばならない。私は今年、何度この作業を遣ったことだろう。今振り返れば、そもそも全ての田主が満足するような配水調節など、殆ど不可能に近いのである。


川その四

石貫は川の故郷である。コメ作りには水が不可欠。その昔から先人が営々と水路を建設し、ありとあらゆる手段を駆使して、殆どの田畑に水が来るように努力した。勿論私が今耕作している天神平の水田も、先人のお陰で、滔々たる水が来ているので、美味しいコメが出来るのである。処が今年ばかりは、熊本地震のお陰で水路が破損し、一時はコメ作りを断念しかけたが、突貫工事の結果、何とか水の供給が出来るようになり、ほっとした処である。その水を供給するのが、馬場川!小岱山の伏流水を集めた清流が、我家のすぐ下を流れている。昔は洗濯機もなく、川が洗濯場だった。然し水は恐ろしい!普段から気を付けないと、少しでも弱い所があれば、集中的に攻められ、あっという間に崩壊する。従って水周りの監視は、コメ作りには欠かせない作業である。


川その三

石貫を北から南に流れる川は、嘗ては錦川と呼んでいたが、今は繁根木川と、呼び名が変更された。繁根木とは、玉名市高瀬の一地名であり、私は錦川が良いと思う。それにしてもこの川は、結構な暴れ川で、過去幾度か、大氾濫を起こしている。私の記憶にあるのは、昭和30年頃、豪雨が降り続き、あの見事な眼鏡橋の根元がえぐられて、大きく損壊したのであった。当時もこの橋は交通の要衝だったので、どのように修復するかの対策会議が、幾度か開催された。私は当時小学生故、勿論蚊帳の外だったが、見解は大きく二つに分かれた。1.修復して元の姿に戻す。2.解体して横に新橋を架ける。その結果、解体派が多数を制して、あの見事な眼鏡橋は、無残にも破壊された。無知無学とは言えども、何と言う愚かな民であろう!その後、関係者の不幸が続いた時には、祟りとの噂も飛び交った。結果現在は、元の橋の場所に、何の変哲もない、平橋が架けられている。あれから60年、毎年秋になると橋の袂にある、エノキの葉が一面に散るので、私は竹箒を持って落葉を掃き乍ら、今も当時のことを思い出している。


川その二

その昔、中曽根美紀の歌に「川は流れる」と云うのがあったが、川は雨が降ってこそ存在するものであって、砂漠地帯では「ワジ」と言う、途中で消える川もある。我が国は水に恵まれているので、全ての川が海に注ぐけれども、世界は広く、色んな川がある。世界で最も長い川は、米国のミシシッピ河。南米ブラジルのアマゾン河は、河川面積から水量に至るまで、世界一と言われている。そのブラジルは次回オリンピックの開催都市。準備が遅れ、危惧されているが、次々回の日本は、そんなことはないだろう。嘗て私は三菱電機で、新棟工場建設の責任者を承ったが、豪雨の中で予定通り、装置搬入を成し遂げたお陰で台湾・ドイツの仕事まで、任せられた。


川その一

石貫は水の故郷である。何せ東西に山が迫り、三ツ川に源を発する清流、繁根木川が、北から南に流れている。と言うことは、山に降った雨が、地下水となり、彼方此方から湧き出て、小さな支流となり、それらが集まって川となる。将に理想的な地形である。従って昔から農業が盛んで、美味しいコメが出来ることから、石貫米は、隠れたブランド米だと言える。然し乍ら、全てが良いとは言えない。何故なら、東西に山が迫っているので、日照時間が短い。と言うことは、収量が低いと云うことである。従って、山裾には野菜や果物を植え、平地に米を作れば、理想的な農業が可能となる。勿論台地状の土地もあるので、其処には麦畑が出来る。


山その終章

石貫は玉名市でも広い面積を有する校区である。然し人口は少なく、下から数えた方が早い。即ち人口密度が低いということ。一方地勢は平坦で、南北に繁根木川が流れ、東西には山が迫っている。こんな地区は寒暖の差が大きく、水に恵まれているので、農業、就中コメ作りには最も適している。従って東日本大震災以降、多くの人々が移住して来られたのである。私はそれらの人々全員に、農業をされるように勧めた。何故なれば、人が生きる為に欠かせないものは、食と住だからである。その為のアパートも建設した。借りたいだけの農地を借りて提供した。それ以上のことは、各々方が決められることである。今は亡き母は、伊倉出身だが、石貫は山ン中だと言っていた。処がどうだろう!伊倉は今やゴーストタウン。石貫は老若男女がバランス良く住み、今や玉名市一番の地域だと思う。


山その十四

日本は平地が少なく、農業には不向きとの見方もある。それは土地を広く活用して、効率的に作業したいからである。そもそも農業の目的は何かと問えば、安全で美味しい農作物を得ることに他ならない。私はちょくちょく子や孫が住む大浜地区に行くが、その途中には豊かな農地が延々と広がっている。処がその大半が田植えをされておらず、休耕した農地が見渡す限り広がっている。何故かといえば、米が不味いからだ。その原因は水である。温くて富栄養化した水田は、米の収量は多くとも味は悪く、今やコメ余りの国内では、買い手がいない。従って休耕するか、大豆などの転作作物を植えるしかないからである。一方石貫や三ツ川は対照的で、収量は少ないけれど味が良い。だから態々遠くから来て、石貫でコメ作りをされるのだ。


山その十三

昨年まで耕作されていた女性がタイに行かれたので、今年からK氏が遠路来て、米作りをされている田がある。処がこの地は、山が田圃に迫り出していて、その侭ほったらかしにすれば、忽ちジャングルになり、通行障害にも成りかねない。それを防ぐ為に、数年前、地主の了解を得て、懇意の山師に、杉の大木数本を伐り倒して貰った。処が今や数年前の状態に逆戻り!日当りが良くなった所為もあり、道路まで雑草が生い茂っている。大木は始末に困って我家迄運ぶも、利用価値なく屋外に置きっ放し!さてどうするべきか?その一焼却、その二切断、その三橋架け、名案をお持ちの方には、無償で差し上げます。


山その十

山とは、地球の地殻変動に依り、所謂皺となった褶曲山脈や、噴火に依る噴出物で出来た火山等々、その生い立ちは色々とあれども、周囲よりも標高が高い土地の呼称である。我国は山国で、平地が少ないと云われるが、日本が米国やロシアの様な、大平原の国だったら、私は詰まらないと思うに違いない。何故なれば、国土が起伏や変化に富み、四季折々の植物が育つ我が国の自然こそが、最大の魅力に他ならないからである。


山その九

我が父方の祖母の実家は、石貫の北の端に或る、三ツ川と隣接した高見平(通称タカンビラ)と言う場所で、我家から2km程北に位置する。石貫は平坦な地形だが、高見平から北は標高が上がり、辺りの風景も、石貫とは大きく異なる。我家に長年仕えて呉れた「お婆」も、此の地の生まれだったのではないかと思う。母が云うには、石貫は「山の中」らしいが、私が思うには、石貫は山の中ではなく「山の下」で、基本的には平坦な地形となっている。従って林業や牧畜が主流の三ツ川と異なり、石貫は棚田を含めた水田が、辺り一面に広がる、文字通り山紫水明の地である。


山その八

父は男二人女二人の長男故に、絶対的権力者であった。従って不動産(土地)の配分も、意の儘に出来た。処が若干52歳で早逝したので、その後に相続問題が起きて、解決に数十年を要することに!最終結論は、登記簿通りとすることに決まり、叔父の家を我家の裏から、表の畑に移設する大工事を遣る羽目に!その家も私が和歌山から戻った後に、結局解体処分して、更地に戻した。そして今、私は従弟(叔父の息子)の畑を無償で借りて、M氏と二人で野菜作りをしている。その結果、元の叔父の家が有った土地は、荒地となり、今や使われなくなった鶏小屋が、ぽつねんと佇んでいる。


山その七

我家の真東に位置する、通称「向い山」は、先祖の墓山。20基程の墓石が林立している。嘗ては定期的に伐採して、竈の燃料にしていたが、昭和のエネルギー革命と共に、その役割を終え、雑木林となり荒れ果てた。そこで昭和の末期、和歌山から来られた山師に依頼して、全ての雑木を伐採し、跡地にクヌギ1000本を植樹して貰った。勿論その後数年間は、下草払いから、間伐も含めてである。その木が今や大木となり、手に負えなくなり、昨年度は山師のK氏に委託して、数本を伐採して頂き、椎茸菌を打ち込んだ。一方では、業者が来て、全山のクヌギを買い取りたいと、持ち掛けられたが、只同然の価格だったので、断った。


山その六

此処石貫の西にそびえる標高501mの小岱山は、花崗岩で出来た褶曲山脈である。太古の昔、地殻変動に依り、海底が隆起して出来上がった。玉東町の北に或る木葉山も同様である。一方対象的な山が、熊本市と玉名市の間に聳える金峰山。れっきとした休火山であり、赤土の山の為に、昔から柑橘類の栽培が盛んで、昭和期には飛ぶように売れたので、所謂ミカン御殿が軒を並べ、一世を風靡した。その余波として、石貫の小岱山にもミカン栽培農家が進出して、大々的に植樹された。然し時代の流れは速く、近年はミカンが暴落した為に、山が次々に廃業され、赤土がむき出しの無残な様相を呈している。


山その五

山には竹山、木山、混合林等々、色々な種類がある。自宅裏の竹林もその一つで、孟宗竹山となっている。春には筍が生え、私が掘り上げ、家内が直売所に出荷する。もう一つが椎茸で、秋から冬に掛けて、沢山の収穫が有り、これも殆ど出荷する。筍は自生するので、掘り上げれば良いが、椎茸はそうは行かない。道向かいの墓山からクヌギを伐り出し、自然乾燥させた後、椎茸菌を打ち込み、二梅雨を越して後に、初めて収穫出来る、とても気長の作業である。嘗ては道向かいの杉林の下で、栽培していたが、昨年正体不明の動物(猪?)に食害されたので、自宅裏のホダ場に撤収した。


山その三

我家から見て小岱山の反対側、即ち東に位置する小高い山が、向山と称する我家の墓地になっている。その山頂には二十基程の墓石が並び、全てが西向きになっている。これは古来から、極楽浄土は西にあると、言い伝えられていたからである。処が山頂墓地への埋葬者は、我が父方の祖父母が最後で、両親及び叔父の墓は、私が主導して山裾に建立した。何故ならば、山頂の墓地まで、高齢者が登るのは、今後難しくなると予測したからである。更に此の地にはアパートや地区公民館もあるので、管理する面からは好都合である。然し定期的に草刈等の管理作業が必要なのは、当然である。


山その一

石貫は山里である。私は石貫育ちなので、そうは思わないけれども、母は伊倉の街中育ちなので、嫁いだ当初は寂しくて、毎日のように泣いていたと聞く。それどころか、何度か里に戻ったらしい。そんな頃は知らないが、私が物心付いた昭和30年代、母は和服にモンペスタイルで、逞しく働いていた。勿論農業である。然し乍ら当時はエネルギー革命以前で、炊事の燃料は薪だったので、山から木を伐採して、持ち帰らなければならなかった。勿論全てが人力作業である。それを引き受けて呉れた人こそ、今も懇意にしている、馬場のOさんの父君なのである。母はOさんが大のお気に入りで、農業から林業に至る、幅広い作業を委託していた。あれから最早半世紀。今でも私がOさんの息子(老人)と懇意なのは、過去の経緯に依るのである。


田植番外その三

この山口地区の水田は、片白とは対照的な地形である。即ち片白は東西に開けた棚田、山口は南北に開けた棚田となっている。と言う事は、片白は夏の日照時間は長いが、太陽高度が低くなる秋になると、過半の田圃が日陰となる。一方山口の田は、午前中は全ての田に日が射し、午後は全ての田が日陰となる。私は後者の公平さに注目した。


トラクタその七

トラクタの技術進歩は目覚ましい。以前は田畑を耕すのみだったが、今や各種のアタッチメントを取り付ければ、湿田改良の溝堀り、畔塗り、種蒔きから、肥料散布に至るまで、多種多様の作業が出来るようになった。然し、機械化の進展に伴って、経費負担が重く圧し掛かり、付いていけない農家も増えつつある。私とて同様!だから仲間と共同で作業して、応分の負担をお願いするしか、方法がないのである。


スコットランド

かなり前のことになるが、英国スコットランドの独立を問う住民投票で、独立反対派が過半数で否決され、キャメロン首相が勝利を宣言した。これを日本に当て嵌めれば、東北・北海道が独立宣言をしたようなもので、国柄の違いとはいえ、民主主義を確立した大英帝国の、政治に対する意識の高さを物語っている。それにしても、諸外国と日本の意識の相違を最も痛感するのは、見知らぬ人同士が気軽に声を掛け合う習慣である。日本で言えば「袖振り合うも多少の縁」とでも申そうか、歩行者同士が接触した場合とか、公共交通機関を利用する時でも、半ば無意識に「Excuse me」「Don't wwory」等という言葉が、気軽に交わされる。
尤も此処石貫のような田舎でも、住民の殆どが知り合いの為か、道ですれ違う時に、簡単な挨拶とか季節の言葉を掛け合うことは、半ば無意識に行われている。処が日本でも都会に行けば、とても同じ国とは思えない程に意識が異なる。それは公共交通機関を利用する場合等に特に顕著である。満員電車に乗り合せ、互いの身体がぴったりと密着した状態で、長時間立った侭の場合でも、一言の言葉も交わさず、ひたすら“無言の行”を耐え忍ばねばならず、田舎者の私にとっては“耐え難い苦痛”であった。然しそんな過酷な状況下でも、僅かばかりの空間を確保して、文庫本を一心に読み耽っている人を見ると、驚異の念すら覚えたものだった。
私は退職後、地元の人々から十数枚の水田を借地して、米作り及び畑作をしているが、今以て無農薬・無肥料栽培は“マイノリティ”に過ぎず、宛ら“ケミカル農法の大海に点在する小島の如し”である。それにしても、今年の夏は殆ど晴天の日がなく、稀に見る冷夏多雨の年であった。こんな年は米のみならず、殆どの野菜果物が悪影響を受ける。私の畑には多品種の野菜を植えているが、例年と比べて、くっきりとした変化が現れた。 一強多弱とでも申そうか!作柄が良かったのは、水分を好むナスのみ!他の夏野菜は軒並み不作で、例年は厭になるほど沢山成る、かぼちゃやキュウリ、ゴーヤですらも、僅か数個しか収穫出来なかった。
そんな今年は、米もどうやら不作となりそうだ。というのも、稲が日照不足で軟弱に育った為に、突風で薙ぎ倒されたり、彼方此方がウンカに食害されて茶色に変色している。私の田圃は、道路と川に囲まれた場所で、昨年までは猪の侵入はなかったのに、今年は何と高さ2mもある、垂直に近い川岸の崖をよじ登り、丸でオゾンホールの如く稲を薙ぎ倒し、籾を扱いて食べた形跡がある。そして畦には無数の猪の足跡が!私は慌てて電気柵を張り巡らしたが、今年の猪は感電にも怯まず侵入している。其処で私は最後の手段として、田圃周囲の畦に、ナイロンネットを張り巡らせた。猪は夜行性で、嗅覚は研ぎ澄まされているが、視覚は差ほどでなく、歩行中に足に何かが絡まると、恐怖心を覚える性質を持つからである。
そんな今秋、殆どの農家が大型コンバインであっと言う間に収穫するが、Oさん・Yさん・Tさん、Kさん、そして私の5人は、今年も相変わらず架け干しに拘った。処がよりにもよって、最も来て欲しくない時期の台風襲来である。こんな場合は“咄嗟の判断”が、その後の運命を大きく分ける。その対策とは
Oさんは、脱穀・即日収穫完了
Yさんは、稲刈り即日架け干し
Tさんは、架け干し稲の半分を撤収
Kさんは、稲刈り即日架け干し
小生は、転倒防止の架け干し竹増強及び、稲落下防止のロープ掛けと、五者五様の対策をした。
そして台風通過後の結果は、Yさんの架け干しは尻餅、Tさんの残り半分は無事、Kさんの稲はもんどりうって転倒、私の稲は吹き返しで将棋倒しと明暗を分けた。そんな咋日、久方振りに片白へ!皆さんの判断で、一週間稲刈りを遅らせたのは正解だった。然し片白にも、恐れていた猪の侵入足跡が!そんな今年、5式もある電気柵発信機が何れも不調!皆さん近日中に何としても稲刈を済ませましょう。終わり


ベトナム

ベトナムと聞いて、今の人々は何を連想するだろうか?多分、世代に依り大きく異なろうが、私は“ベトナム戦争”を思い浮かべる。と言うのも、昭和48年3月、私は家内と結婚し、新婚旅行の行き先に、グアム・サイパン島を選んだのである。その理由は、何となく海外へ行きたいと思ったからだ。然し行って驚いた。日夜B52長距離爆撃機が、グアム島のヘンダーソン空軍基地から大編隊で飛び立ち、遥か西方の北ベトナムのジャングルをナパーム弾で空襲していたのである。これは通称“北爆”と言われていた。然し北ベトナムは、地下壕を掘って頑強に抵抗を続け、数年後には南ベトナムの首都サイゴン(現ホーチミン)が陥落して、長年に及んだ戦争も漸く終結した。
あれから二十数年後、我が長女が、紆余曲折を経てベトナム人の伴侶を得たのも、何か因縁のようにも思える。私がそのベトナムに初めて足を踏み入れたのは、十年近く前のことであった。私は娘婿の実家を一度見たかったし、隣国カンボジアのアンコールワット遺跡も、是非見物したかったので、今も思い出に残る、とても良い旅行となった。
他方、我が近所に住む篤農家、澤村氏の奥方も、ベトナムのホーチミン育ちの女性である。然し見ず知らずの日本に子連れで嫁いで来ても、当初は言葉が殆ど通じない。それもあって、私は当時丁度オーストラリアから帰国していた長女と、その夫(ベトナム人)を連れて澤村氏宅を訪問した。すると異国の地で巡り会った二人は、久方振りの母国語での会話が弾み、積りに積もったストレスの解消にもなった様だった。あれから更に時は過ぎ、澤村氏の娘さんは、今や「熊本県立大学生」「ファッションモデル」「ベトナムトレーディング代表取締役」「通訳翻訳者」とでも云える、美しい “マルチタレント”の女性に成長して、県内外で大活躍をされている。
以下引用文
艶やかな黒髪にスラリと伸びる長い脚。モデルとしても活躍しているというこの美女、澤村ゆりさんは、大学生でありながら2つの会社を営む起業家だ。「よく起業の理由を聞かれますが、発展途上国に生まれたゆえの発想かもしれません。ベトナムで兄弟同様に育った幼い従兄弟たちに、いい教育を受け、豊かな暮らしをして欲しい。自分の生活だけ考えれば、安定した会社員の道を選んだかもしれませんが、多くの人を支えるためには事業でまとまったお金を稼がなければと思ったのです。」澤村さんは、中学1年生の時、母子で来日。「母が玉名市で農業を営む父と再婚したのがきっかけです。以来ずっと熊本人として暮らしてきたので、意識することはないのですが、今も国籍はベトナムです。」幼い澤村さんにとっては当然、日本での暮らしは、辛いスタートだった。日本語がわからず、気が付くと涙が流れていたこともあったと振り返る。だが、そんな泣き虫少女の面影は、もうすっかり消えてしまった。日本語力と比例するように、暮らしの中で徐々に強さを身に付けてきた。2011年、大学2年生の時に、主にベトナム・韓国の雑貨の輸入販売を行う「LCCJapan」を設立。さらに、「ベトナムと日本の架け橋となりたい」という思いから、昨年新たに立ち上げた「ベトナムトレーディング」では、日本の企業とベトナムの企業のビジネスマッチングを中心に、コンサルテイング事業やマーケティング事業を行う。「私のビジネスは、熊本だからこそ成り立つものです。まず、都市集中型の日本では、ベトナムの人も物も情報も、すべて大都市に偏り、熊本には不足しています。だからこそビジネスチャンスがあります。そして何より、事業を行うのに重要な基盤を築ける環境があります。生活が安定してはじめて事業はうまくいく。空気・水・食べ物が安心で暮らしやすい熊本だからこそ、挑戦ができるのです。」澤村さんは、この春大学を卒業する。今後も熊本を拠点に、活動の幅を広げていく予定だ。すでに行っている、若者向け・企業向けの各種講座の講師や、モデルの活動に加え、専門学校講師、企業の非常勤社員の仕事も決まっており、さらに、ベトナムパンの店舗を熊本市にオープンする。「もう一つ夢があって、熊本とベトナムの観光大使になれたらいいな、と。特に、熊本の若い人たちに、発展を続けるベトナムを見てもらえば、負けずに頑張ろうという貪欲な気持ちや、国際的な視野が生まれ、熊本に活気を呼び込めると思うのです。そのためには、まだまだ勉強しなければいけないことばかりです。」周りに前向きな気持ちを呼び起こさせる、元気な笑顔をトレードマークに、澤村さんの挑戦は続く。
嘗ては“エコノミックアニマル”とも云われた日本人が、忘れてしまったこの貪欲さ!私は只一言”ファンタスティック”としか言いようが無い。以下参照
http://www.pref.kumamoto.jp/soshiki/3/asian17.html


農民作家

佐賀県唐津市の農民作家、山下惣一氏の「これからの農業を考える」と題した記事を読み、私は共感した。氏の主張は「今日まで農業が続いたのは、儲かるからではなく必要だから」又「一次産業の農業に付加価値はなく、対価も少なすぎる」と。例として農家は「畦や給排水路・農機の出入口・土手や則面の草刈作業だけに、年間延べ一ヶ月を費やす」と!全く同感である。
更に氏は、農業の競争力強化を見据えた「大規模化」にも異論を呈する。都道府県に新設される「農地中間管理機構」は、全農地の8割を中核農家に集約することを目指すと云うが、大浜・横島地区のような干拓地ならまだしも“石貫のように棚田が広がる場所”での規模拡大は難しく、高齢化で担い手も限られるので“絵に描いた餅”になる公算が大である。減反政策が始まった当時も、JAが窓口だったこともあり、自己申告後の現地検証も形ばかりで、尻抜け状態となった。と言うのもJAは最大顧客である農家に対して、不利益になることは言い難い。何となれば、今やホームセンターに行けば、殆どの農業資材がお手頃の価格で買えるからである。
然らばどうすれば良いか?それは競争原理とは相容れない所謂「社会主義的農法」である。例えば覆い被さる竹林の伐採等の作業は、集団でやらねば効果も出ないし、遣りきれるものではない。私も今冬、ほんの20m程の竹藪の刈払作業に、何と一週間もの期間を要したのである。又農地に水を導く水路の浚渫などは、決まった日に関係農家が出て、一斉に作業をしなければ、短時間で目的を達成することは出来ない。
そんなこんなで年が代わり、私は昨年予告していた片白から天神平への換地を模索し続け、年明けに何とか3枚の農地を借地した。何れも小さな田圃だが、それでも借りたのは、猪の被害が少ないからである。猪は春から夏場にかけては山中に生息しているが、秋口から冬場にかけて田圃に出没し、畦や土手を掘り返して、ミミズ等の生物を食い漁る。従って水稲が育つ夏から秋にかけては、水田の周囲を電気柵で囲うが、収穫後はそれがないので、文字通り猪銀座となる。私が天神平の水田を借りたのは、西側に猪が超え難い水路があり、東側にのみ、電気柵を張れば良い優位点があるからである。
私の記憶では、石貫で農地集約化を最初に始めたのは、我が父ではないかと思う。戦後間もない昭和20年代の後半、我家から繁根木川と県道を隔てたスーパー栄屋(当時の高岡酒店)近辺には、見渡す限りの水田が広がり、その内の何枚かは我家の所有地だった。然し父は大の農業嫌いで酒好き。所謂子分達を養う酒代として、毎年一枚ずつ水田を手放したのである。それが完了したのは、父が他界した昭和31年。以後栄屋当主は彼方此方から瓦礫を掻き集めて、それらの水田を全て埋め立て、遂には道路と同じ高さまで平坦化したのである。農地転用された水田跡地には、その後トラックステーションや、倉庫が立ち並び、空き地には訳の分からないガラクタや、ボーリング機械の残骸などが、今も堆く集積されている。勿論これらの行為は農地法に抵触し、簡単には転用許可が下りないので、何らかの工作がなされたのであろう。私はそんな過去の経緯を知りつつも、天神平に唯一枚残っていた、栄屋の荒れ放題の水田までをも、昨年借りたのである。然し内心は、言葉では言い表せない複雑な心境だった。
私は思う。今や我が国は米余りの時代に突入し、多くの田主が米作りを止めて、農地を宅地化をしようと目論んでいる。勿論私もその一人であった。然しそれは簡単でなく、仮に転用出来たとしても、固定資産税が重くのしかかり、結局思った程の収益増には繋がらない。ならば、農地のままで保有し、必要なだけの農地を使って農業をするのが、最も賢いやり方なのであろう。終わり


県道

石貫は、県道4号線と繁根木川沿いに南北に延びる細長い地域で、今や県内有数のダンプ街道として名を馳せる程、連日大型ダンプカーが轟音を響かせて走っている。従って道路の損傷が甚だしく、目下アスファルトを積み増す緊急工事を、交通量の少ない夜間に実施中である。と言うのも、石貫から三ッ川・南関にかけての地域は、山砂の一大産地だからである。この山砂は粘土分を適当に含み、転圧すると硬くなるので、舗装道路の路盤や埋立地、建築予定地に敷き込む他、広範な用途がある。その一部は、長洲港から韓国にも輸出されているとか?その結果、三ッ川から東に折れて箱谷地区に入ると、丸で西部劇を彷彿とさせるような、荒涼とした光景が辺り一面に広がる。半世紀程昔は、我家よりも川下の地区で山砂を採取していたが、ゴルフ場が出来、新幹線が開通した時期以降は、山砂採取が制限され、石貫より上流部の三ツ川・南関地区に採取地が移動したのだ。当然県道沿いにある私の持ち山も良質の山砂が有るらしく、嘗て多くの業者が売らないかと持ち掛けて来たが、山の頂には先祖の墓が有り、その移動が必要となるばかりか、叔父の賛成も得られなかったので断念した。
それにしても日本は縦割り行政と言われて久しく、それは道路にもずばり当て嵌まる。繁根木川について言えば、国道208号線との交差点を境に、下流が国の管轄、上流が県の管轄、幾つかある支流は市の管轄と明確に分かれている。それはそれで良いのだが、問題は財政基盤である。一番の金持ちは国、二番目が市、最も弱いのが県である。私は川沿いの県道をちょくちょく通るので目に付くが、国道208号線から下流の玉名市内にかけては、それこそ湯水の様に金を掛けて護岸整備を行い、殆ど人も通らない河川敷に、立派な遊歩道まで整備されている。
それに引き換え、上流の石貫地区は県の管轄に属し、長年ほったらかしにされて来た。従って彼方此方に砂州が形成され、流れは蛇行し、砂州の上には夥しい女竹が群生している。それが県道を走る車両にも接触するようになったので、県も重い腰を上げたのだろう。業者を雇って手作業で竹伐りを始めた。然し竹は伐っても翌年には又元通りに生える。私が竹を伐っている業者に「伐った竹は何かに使うのか?」と尋ねたら「欲しければあげるよ!」と言われた。多分焼却処分するのだろう。
石貫は北から3・4・5・2・1・富尾の6区で構成され、内4・5・2・1区の川沿いの土手には、長寿会の努力で桜が植栽され、4月になると遠路遥々花見客が来る程の、見事な桜並木が出現する。(特に今年は寒冬の所為で開花スイッチが確実にONし、一斉開花の予感がする。)私はこれを育成保存すべく、昨秋も孫娘と協力して天狗巣病に罹った枝打ちを行った。“然し”である!最近犬の散歩で桜並木を歩くと、1区の桜だけがバッサリ伐られたり、押し倒されて無残な姿を晒している。恐らく水田に影が差すことを嫌い、桜の成長を喜ばない田主の仕業であろう。私は悲しい気持を抑えて、そっと押し倒された桜を助け起こす。然し何故に1区の桜のみが痛めつけられるのだろう?ひょっとして新幹線の影響かも?と言うのも、九州新幹線は石貫1区の真上を貫通したので、立ち退きにあった世帯が、多額の補償金を貰って、川向こうの団地に集団移転したからである。人間は弱いもので、持ち慣れない大金を掴んだばかりに、往々にして心が荒む。
私の夢は、繁根木川沿いを桜で埋め尽くして、花見の名所にすることである。何となれば、最初の桜10本程が、我家の真向かいの土手に長寿会の手で植えられたのは、半世紀近くも昔の私が大学生の頃だった。恐らく私の存命中に、4kmに及ぶ桜並木が完成するのは難しいかもしれないが、それでも挫けずに手入れを続けたい。終わり


右肩左腰

変な表題だが此処数年来、私のカラダには秋から冬の頃に掛けて、不平不満が溜まるのか、決ったように悲鳴を上げる。その部位は “右肩と左腰”である。数回マッサージに通ったが「幾分楽になったかなー」と感じる程度で、抜本的改善は望めない。要は年齢から来る体力の衰えが、その根底にあるのではないかと推察される。それにしても、何故左肩・右腰ではなく、右肩・左腰なのだろうと考えた結果「社会システム」に由来すると結論付けたのである。
詰り人類は、古来から狩りや農牧を営んで生計を立てて来たが、その過程に於いて様々な道具を発明し、それを活用することで、万物の霊長足らしめる発展を成し遂げた。そしてそのシステムは、圧倒的多数の右利きに合わせて設計された。代表的な例が、裁ち鋏みであり、ナタや鎌である。これらの刃物の大半は、取手や刃型が表と裏では非対称系に設計されていて、左利きの人間が、これらの道具を使うのは大変困難で、無理やり利き手ではない、右手を使わざるを得ないのである。(左利き専用工具は、入手困難な上高価である)
然し、そんなことで愚痴をこぼしても仕方がなく、私は多くの右利き農機具を、何とかして上手に使いこなせるようになった。その代表例が刈払機である。この現代では大変ポピュラーな道具こそ、究極の右利き用だと言って良い。即ち草を刈る刃の回転方向が、左回転の為に、右から左にかけてスイングしないと、草を上手に刈れないのである。という事は左足を軸として踏ん張り、右手でハンドルを押し、左手で引っ張る動作を、草刈の作業中延々と続けねばならない。然し人の体は、構造上引っ張ることが楽で、押すことがキツく出来ている。だから春から秋にかけての半年余り、私は毎日のように刈払機を使うことで、左腰と右肩に違和感を覚え、絶え間無い痛みに耐えねばならない。一方、鍬(クワ)やスコップ等の農機具は、左右対称で右利き用も左利き用もない。従ってこれらは、左利きでも全く問題ない。勿論工具を使わない除草作業や、物を持ったり、置いたりする作業も同様である。
そんなこんなで、先日は新年恒例、雨上がりのドンドヤだった。近年のドンドヤは手抜きが多くて上手く燃え上がらず、早々に倒れることが多かったので、昨年末Mさんと私と、Sさんとで、女竹・孟宗竹の枯枝・梅の剪定枝を現場に大量に運び込んでいたので、近来稀に見る素晴らしい燃え上がりを見せ、鏡餅も綺麗に焼けた。
処が午後の新年会で、私に突然難題が降りかかった。前夜の幹部寄合で、区費の財政悪化が問題となったらしく、いきなりアパート区費の3倍増を提案し、討論も許さず賛成多数で可決!。国を真似たのか、取り易い所から取る暴挙である。唯、反主流派の元婦人会長が「値上げする前に、きちんと決算報告をせよ!」と言われたのが、せめてもの救いだった。私はここ数年来、アパートの人々と地元民との融和に腐心して来たが、今回の件で考え方を変えた。と言うのも、過去の経験から区長会の腐敗を目の当たりにしたからである。みなし公務員の地位を利用して、会計にはイエスマンを登用し、会議費の名目で公費の多くを飲食費に流用し、挙げ句の果ては、体育祭等のイベントに、堂々とスナックのママやホステスを招待する有様。二次会に至っては、目を覆うばかりの乱痴気騒ぎである。こんな事に区費を流用されては堪らない。
それにしても、当区の住民は歴史的に我家への依存心(甘え)が強過ぎる。戦後を通じて公民館の土地は、我家から只同然で賃借し、現在の建物も我家の土地に、今は亡きOさんが建築した住まいを格安で譲り受け、使用している。本来なら、区民が資金を積立て、土地を買い、自らの手で建築すべきなのだ。そんなこんなで家内共々、区長と直談判して出した結論は、アパート区の独立である。私は早速農地の貸し剥がしに遭ったが、これしきの仕打ちにはめげず、断固としてアパートの人々の利益を守る。そう決心したら、不思議に力が湧いて来て、右肩左腰の痛みも和らいだ。お蔭で此処数日は、寒波をものともせず、田圃の整備に明け暮れている。終わり


give&take

“ギブアンドテイク”という英語は、今や半ば日本語化していて「相手に利益を与え、自分も相手から利益を得る」或いは「もちつもたれつ、支え合う、歩み寄り、共存共栄」などの意味がある。日本人は明治維新の後、欧米の文物だけでなく、多くの言葉を取り入れて日本語化したが、時が経るに従い熱意が薄れたのか、安易に英語そのままに、カタカナ言葉として受け入れるようになった。江戸時代以前において、この意味の日本語が存在しなかったのが不思議だが恐らく行為としては、日常的に行われていたのではなかろうか?
私は現役時代、この言葉の意味する行動が大変苦手で、随分損をしたし、周りに迷惑を掛けた。と言うのも、一人っ子だったこともあり、幼い時から取引とか駆け引きとか、他者とネゴする習慣が身に付かず、大人になった後も大きな欠点として残った。
私の現役時代のハイライトは、1980年代後半からの10年間で、年齢は三十代後半から四十代前半、勤務地は和歌山と熊本だった。当時はバブル期に当たり、業容は拡大に次ぐ拡大、行け行けドンドンの趣すらあった。仕事が洪水のように押し寄せ、あれもこれもやれと言われ、人を増やさねば対応出来ない、今考えると夢みたいな時代だった。生産拡大には人員増強と設備投資が二本柱だが、前者は人件費増大を招き、後者は償却費負担がのしかかる。
そんな時代、私は何の疑いもなく素直な心で、上長に自部門の人員増強を願い出た。そうしたら「マアそこに座れ!」と言われ、コンコンと説教された。「アンタは人を増やすことが、どんなことか分かってない。現業部門でも散々ネゴをして漸く人手を確保しているのに、間接部門で一人でも増やすのは至難の技である!」と。成程それが真実であっただろう。結果として、私は“現業部門が持て余していた問題社員”を部下として抱え込むことになった。然し、その男の生き様から自立心の重要性(アパート経営)を教えられたのは、不思議な巡り合わせと言うしかなく、私は今も彼に感謝をしている。
あの時代から30年、日本は終戦から長く続いた成長の時期を終え、今や収縮に向かい始めた。それは九州の片田舎でも如実に感じられる。先日のことであった。近隣のTさんが、畑仕事をしている私に 近付いて来て言われた。「龍さん!我家ン田圃を作らんかいた?勿論無料で」と。私はこの数年、多くの人から借地してコメ作りをしているが、先方から貸地を申し出られたのは、初めてである。Tさんは、私より高齢ではあるが、健康で、大工の息子も居り、自家の近くに田圃があり、農業機械も一通り所有されている。こんな恵まれた人までもが、農業を続けたくない日本は、今や農地荒廃の入口に差し掛かったと云えるだろう。
私は退職後、自己所有の優良水田を知人に貸し(give)、担い手が無くなった山裾の水田を借り受け(take)、若い人々と農業をして来たが、今や農地の供給過剰が起きつつある。と言うのも、我家の近隣でも、近年じわじわと、耕作放棄地が増加しているからである。
何故こんな事態になったのか?それは、農業では生活が成り立たず、担い手が居なくなりつつあるからだ。当地石貫の米作りの担い手は、50代以上が大半で、中心は団塊の世代の60代と言って良い。こんな時代の到来を見越して、国は一昔前に大半の農地を、多額の経費を掛けて基盤整備(集積化・矩形化・農道・給排水路整備)をしたのに、その優良農地すらもが、荒廃が始まった。
先頃の総選挙では、大方の予想を越えて自民党が大勝した。政権を握った自民党は、軍備増強を含めたインフレ政策に突き進みつつある。大勝の起因は地方農村部の組織票だったのに、安倍氏の持論であるインフレ政策を実行すれば、最初に痛め付けられるのは、高齢者を含む弱者(農業者・年金生活者・未組織労働者)であろう。米作りは、私の様な無農薬・無肥料栽培でも、土地代や燃料代の他に、材料(種籾等)、資材(田植箱・電気柵等)、機械(刈払機・トラクタ・田植機・稲刈機・脱穀機・籾摺機等)が必要不可欠で、例え中古機であろうとも、稼働率が低い上に、補修費も馬鹿にならない。
我が農業スタイルは、何故か嘗て共産圏で行われていた、コルホーズに似ていそうだ?ならば、歴史は繰り返すの例え通り、何れ滅びる運命か?嗚呼悲しき哉!終わり
追伸:10年程前に知人から貰い受け、可愛がっていた我家のガチョウ“シロ”二羽が、今夏の九州北部豪雨で、遥か下流まで流され、数度の捕獲作戦も失敗し、とうとう餓死してしまった。せめてもの救いは、その直前の6月末、RKKミミー号の取材を受け、私の腕に抱かれて「ガー」とひと啼きしたことである。


東日本大震災は、未曾有の原発事故が重なり、国内のみならず世界各国に大きな影響を与えたが、その発端は巨大地震に起因する津波(水害)だった。この地球は水の星と言われる程、水が豊富である。中でも我が石貫は、玉名市と荒尾市及び南関町に跨る小岱山の東麓から、さながら無数の静脈の如く流れ落ちる沢の水が、全ての谷間の水田を潤す豊潤の地である。それが今や「昔は豊潤の地だった」と過去形で言わねばならない状況に陥っている。ことの始まりは、昭和40年代だった。日本が戦後復興をとげ、高度成長が始まると、小岱山の西に位置する、大牟田市から長洲町にかけての臨海工業地帯では真水が不足し、水源を熊本県三大河川の一つ、菊池川に求めた。現和水町の白石堰から、田畑と小岱山下に長大なトンネルを穿ち、有明海沿岸まで通水する、所謂“有明工業用水道事業”である。
当時我家は、長年親しんだ手押しポンプから、三菱電機製の電動井戸ポンプへ切り替えた時期だった。突然、その井戸水が出なくなった。それは我家だけではなく、近所の家も殆んど枯れてしまった。さあ大変!炊事も風呂も使えない。渇水の原因は、我家から200mほど西側の高台に建設された浄水場に、水を押し上げる為のポンプステーションが稼動を始めたからであった。ポンプは私の専門分野であるが、吐出側が正圧、吸入側は負圧となる。特に本件のように高揚程ポンプを使用した場合、一帯の地下水はどんどん吸入配管に流れ込み、地下水位は大きく低下する。(管路の負圧シールは技術的に難しい)
事業主体の県は、渇水の応急対策として、各家庭に地上パイプを引いて通水を始めた。然しこれがとんでもないイカサマだった。地上に黒いホースを引けば、夏場は太陽熱で水温が上がり、触れない程の熱水が吐出する一方、冬場は外気で冷やされ、手も痺れる位の冷水が吐出する。各家庭にとっては"踏んだり蹴ったり"である。余りの不評に、流石に県も気が咎めたのか、数年後には何本かの井戸を掘って、各家庭に通水したが、模範を示すべき市の幹部職員が“我田引水”をしたりして、全家庭に平等とはならず、自己負担で井戸を掘り直した我家などは、不満が鬱積するばかりだった。漸く抜本解決が計られたのは、それから更に十数年後、市の公共水道が開通してからである。
あれから既に数十年、私は現在米作りをしているが、その農業用水は昔とは劇的に変わった。つまり嘗て滔々と流れ下った沢の水は、あたかも“砂漠のワジ”の如く、地上から消えてしまったのである。
現在は、その渇水対策(補償)として、浄水場から態々地下にパイプを埋設して、多くの沢の上流まで水を押し上げて吐出させ、所謂“人工の川”を再現しているのである。と言う事は、今や我が石貫の田圃は、菊池川の水で灌漑され、清らかだった小岱山からの沢水は、大半が有明工業用水と新幹線のトンネルに流れ込み、坑口から滔々と流出し、我が田圃を潤さず、一気に下流に流れ去る。詰り、北石貫の水田は主に菊池川の水、南石貫の水田は主に新幹線トンネルからの水に依り、灌漑されているのである。水はH2Oという化学式は同じでも、含有する成分は微妙に異なる。
父は、その随筆の中で、北石貫の米は一級品と書いているが、これはそれらの田圃が、多くの微量要素を含む、清らかな沢の水で満たされていたからであって、現在の様に大河菊池川からの取水なら、何度も上流の田圃を潤した、云わば中古品の水であり、在り難味も落ちる。このような自然水系の破壊行為は、近代化の名の下に戦後延々と実施された大規模土木事業では、多かれ少なかれ起きているに違いない。
それにしても、今年の夏は珍しく秋雨前線が長居して、雨の日が多い。こんな年は小岱山の枯れ沢も久々に復活し、滔々たる流れが再現している。放射能を避けて、7月に東京から石貫に移住して来られたMさんは、スピリチュアルで素敵な女性であるが、小岱山のゾウメキ(ざわめき)の滝が、大のお気に入りだとか!きっと山の神も、遠路からの被災者を歓迎しているのだろう。終わり


地デジ

「地デジ」とは、地上のデジタル方式の無線局により行われるテレビ放送で、今や世界各国に普及しつつある。雑音障害が少なく画像が鮮明で、多チャンネルやワンセグ放送などに対応可能な、優れたシステムである。一方で、従来のアナログ放送は今夏で打ち切られることになり、アナログTVを見ている家庭では、少なからず影響があるようだが、テレビの受信障害を十年余り味わった私は、正直助かったとの気持ちである。
と言うのも、十余年前のアパート建設当初、入居者からTV映りについて苦情が寄せられ、私は何度も謝りに行った。特にKABが問題で、紫色の縞がTV画面をチラチラとよぎり、とても見辛い。私では対処出来ないので、業者を呼んでアンテナを調整すると、少し改善したように見えるが、暫くすると又同じ苦情が来る。終には私も堪忍袋の緒が切れて、窮余の策として映りが良かった我家のTVアンテナから、私設の電柱を建て、架線をアパートまで引く工事をした。我家の敷地がアパートより2~3メートル高いだけで、途中の山の影響が殆んどなくなるのだ。
別の問題も発生した。川向いのアパートは、山陰の為に電波塔がある金峰山が見通せず、熊本放送が全く映らない。近隣のご家庭は、仕方なく福岡や長崎の放送を受信していた。然しアパートの住人は、天気予報等やはり熊本放送を見たいと言われる。私は窮余の策として、近くの我が墓山の頂上に専用のテレビ受信塔を設置し、アパートまでケーブルを敷設した。然し台風が来る度に、受信塔周囲の木々の枝がアンテナに接触して、受信障害が発生する。私はその度に業者を呼び、薮蚊の襲来を受けながら、梯子を担いで山に登り修理して貰ったが、度重なるクレームに音を上げ、遂には山頂の大木を伐採した。
こんな厄介な問題の根源は、当地区の地形に起因する。即ち川沿いの幾筋もの谷間に集落が点在する典型的な中山間地なので、受信障害は避けられない。かと言って、障害の少ない衛星TVだけを見るわけにも行かない。だから地域懇談会の折には、この問題が毎回提起され、行政は集落単位で共同受信塔を建てるよう指導した。しかし相当の資金負担が伴うので、地元の意見集約が進まず、今日まで先送りされていた。それが今年になり急転直下、当地区の高台にある共同受信塔から、有線で各家庭に電波を配信することになった。即ち有線テレビ(CATV)である。この工事が又大変で、地域には電力会社やNTTの電柱があるのに、更にTV専用の電柱を建てている。架線に至っては更に複雑で、旧来のアンテナ架線も撤去しないので、我家の周りは電柱と架線だらけになってしまった。そして業者が、各家庭のTVを一台一台設定し直した。然し私は、今回の工事では何の負担もなかった代わりに、然したるメリットも受けていない。「じゃあCATVを断れば良かったではないか?」と言われるかも知れない。然し、私一人がこの工事を断れば、台風が来る度に、アパートの入居者からクレームが来るやも知れないと、びくびくしなければならない。詰りは安心料なのだ。
私は思う。CATVという有線方式は、多分アナログTVの時代から、都市の地下街などには設置されていた。ケイタイならいざ知らず、車載TV等を除けば、殆んどが固定受像機で受信するTVは、最初から有線方式で配信すれば、受信障害も無く、二重三重の投資をせずに済んだ筈である。そして、電力も、放送も、通信も、各戸に配信するのは共通なのに、行政が縦割りで、バラバラに工事するから、電柱と電線だけが際限なく増えて見苦しくなるのだ。
然し、唯一メリットもあった。10年程前に太陽電池パネル工事をした時、業者が持ち込んだ電柱3本が余剰になり、譲り受けて小川に架けた処、とても便利な私設歩道橋が出来た。私は折に触れ、この電柱橋の上に佇んで物思いに耽っている。終わり


いつもの所

先日、公役(くやく)があった。公役とは“地方公共団体から委託された役務”の一つで、通常“期限付きの公務員である区長”が主催する。当地では「夏と秋にある、川沿いの土手の草刈り」が代表的な行事である。特に秋の公役は、翌年正月に近くの川原で開催されるドンドヤの会場整備が、もう一つの目的となっている。
私は過去数年間、校区の公民館長や神社総代を拝命したが、区長だけは経験しておらず、一体どんな指揮命令系統でこの種の行事が企画されるのかを知らない。通常、回覧板等でその通知は来る。そして近年の回覧板には、例えば「10月9日8時から“いつもの所”を草刈りします。」と書いてある。“いつもの所”とは、どうやら前回草刈りをした場所を指すらしいが、前回もそう書かれていたので、結局それを延々と遡らねば“いつもの所”が何処を指しているのか、特定することが出来ないのである。私はれっきとした公文書である回覧板に、このような表現(仲間内にのみ通用する“隠語”)を使うことを、とても奇異に思う。
こんな“奇妙な表現”が始まったのは数年前からで、それ以前は至極まともな表現だったと記憶している。何故ならば“公役”とはどう考えても、区民全員が分け隔てなく区全体の公用地、即ち道路や水路沿いや、川岸の草を刈ることである。多分“悪知恵に長けた誰か”が言い出したのだろう。「自分達は予てから小まめに田圃沿いの土手の草刈りをしているのに、公役になると何故“徳永さんの田圃の草茫々の土手”まで刈らねばならないのか!」と。
何となれば、当区の中心部に私の田圃と埋立地(畑)が“でん”と鎮座し、面積的にも全体の1/3位を占めているからである。私は現在この田畑を知人のYさんとIさんに貸している。そして貸与条件として、周囲の土手の草刈りをお願いした。然しご両人とも自分のやるべき仕事とは考えておらず、殆んど草刈りをしないので、私の所有地周りの土手だけが、いつも草茫々なのである。
仕方がない。私は先日の公役でも区長と二人で黙々と、全長150mはあろうかと言う、我が所有地向いの長大な土手の草を刈った。然し、たった二人で草刈りをしても短時間で終わる筈もなく、時間だけがどんどん過ぎる。そして小一時間経過して、私達が漸く半分位刈り終えた頃になって、10名程の集団が、北側からガヤガヤ喋りながらやって来て、私の田圃周りの土手を「仕方がないなー」と言いたげに、形ばかり刈り始めるのである。従って完了時の出来栄えが、他の田圃廻りと比べて、大きく見劣りするのは否めない。
私は思う。一般的に田圃は周囲を畦で囲まれ、傍を給排水路が走っている。従って昔から、田圃(私有地)に属する畦(あぜ)は、各耕作者が草刈りすべきものであり、土地改良組合の所有地である給排水路は、受益者足る耕作者全員でメンテナンス(浚渫)するのが慣わしになっている。さすれば、それらの更に外側にある河岸堤防上の里道(通学道路となっている県管轄の国有地)や、その則面(=土手)の管理責任は、どう見ても田圃の耕作者ではなさそうだ。然し何時の頃からか、公役の範囲を狭める(楽にする)為に、田圃沿いの土手は当該耕作者がメンテナンスすることになったのだろう。
それにしても“いつもの所”とは何と言う“摩訶不思議な言葉”だろう。私はこの“いつもの所”という言葉から、学生時代にデートの待ち合わせ場所だった、熊本市下通り地下の喫茶店「トレビアン」を連想する。即ち「今度の土曜7時に“いつもの所”で」といえば、彼女には直ぐ通じたのである。私はあれから45年も経った今も、待てど暮らせど来ない人を今か今かと待ちつつ、心の中で「トレビアーン」と叫びながら“いつもの所”で草を黙々と刈っている。終わり


宮総代

2007年の3月、公民館で行われた隔年度末の地区役員立替え(改選)の時だった。今考えると、どうも有力者数名が事前に打合せていたと思われる。いきなり某氏が発言した。「徳永さんを宮総代にという声があります!」と。私はビックリ仰天した。現役サラリーマンだった2002年に引き受けた公民館支館長という重職を5年間務め上げ、後任もやっと決ってほっと一息ついていた時期だった。神社尊崇の念が乏しい私は必死に断ったが、又しても断りきれず、和歌山県田辺市の熊野本宮大社の流れを汲み由緒ある、石貫熊野座神社の責任総代に就任した。
 そして4月着任して驚いた。会計簿はなく、僅か数万円の残高の貯金通帳と領収書綴りがあるだけ。間違いなく私は“ババ”を引いた。最初の仕事は財政再建だった。これは二つの方法しかない。収入増か支出減である。お宮の主な収入は、氏子から夏の土用篭り費500円徴収と、年末のお札配布手数料(10%)及び賽銭で、全て合わせても年間15万円程しかない。その上貴重な賽銭も度々泥棒の被害に遭っている。一方で社殿は老朽化し、特に神殿周りの木塀は朽ちて倒れ掛け、参道の石段は傾いて危険な状態だ。
 早速会計総代と、神官在籍の式内社への上納金値下げ交渉に行った。上納金とは神官給、各種お札代、氏子総代会負担金、神社庁支部負担金、伊勢神宮式年遷宮負担金等々で、年間80万円超と、自主財源の5倍以上にもなる。私は懸命に窮状を訴えたが、昔から懇意だった式内社から“生活が掛かっていると言う理由”できっぱり断られた。私は仕方なく氏子に負担金倍増をお願いした。そして会計総代は“毎日欠かさず賽銭回収をする”ことにして、盗難防止を図った。
 或る時、会計総代と隣の部落のお宮を見に行った。その神殿周囲には、数十本の玉垣(記名石柱)が立っていた。私達はこれを見習って木塀の建替えをしようと決意した。そして7月、11名で構成された役員会(区長5名・総代6名)に諮り「石貫熊野座神社玉垣建立計画」が目出度く承認された。玉垣とは、コンクリートや石柱に寄進者の氏名を彫り込み、これを神社の周囲に設置するものである。永大物なので従来の木塀に代わり、最近ではあちこちの神社で建立されている。然し寄進の度に逐次建立する遣り方と違い、木塀を取り壊した後地なので、一気に建立せねば格好がつかない。
 200本近くの寄進をどうやって集めるかが大きな課題だった。私は任期の2年間で集める方法を考えた。先ず、石材業者にお願いして玉垣2本を見本として境内入口に立てた。最初の難題は玉垣の値決めである。高ければ寄進が集らないし、安ければ赤字となる。業者の見積もりと、本数を見比べ、最後は私の勘で、玉垣18,000円・親垣25,000円にした。これは何とその昔、私が設計していたエアコンの機種名にあった数字である。そして氏子全員に建立の趣旨を文書で開示した。これが見事に当った。神社氏子が属す行政区(一~五区)の内、一区と二区は私が自ら新年会の席上に乗り込み、玉垣の写真と申し込み葉書を配布して直接寄進を依頼した。その後数日はドキドキだったが、1週間後位からパラパラと葉書が来始め、その内に次から次へと舞い込んだ。多分近所の話題になり、我も我も!となったのだろう。三・四・五区は、総代が申込書を各戸へ配布したが、同様に多くの寄進が集った。そして翌年度早々に総代が寄進者宅を訪問し、記名内容と代金を集めた。
 次は玉垣・親垣の並べ方である。全員が納得する方法を見出さねばならない。私は区長にくじを引いて貰う方法を思い立った。お宮関係の行事では区長の出番は殆ど無く、何かに責任を持って頂かねばならないのと、クレームが来ても、地区長老格の区長なら釈明が出来ると思ったからである。先ず地域を南北に二分して、くじ引きをしたら、南側の元石貫は2区・1区・3区の順、北側の北石貫は4区・5区の順となった。次には玉垣の並べ方、これには苗字の50音順と住宅番地順の2案を比較して後者に決めた。然しこれだけでは並んだ姿が綺麗にならない。玉垣と親垣はランダムでなく整然と並べてこそ美しいからだ。正にパズルを解く感覚、ああでもない、こうでもないと、パソコンを操作して幾晩呻吟した事か。そして“これしかない”配列と記名内容一覧表を作り、寄進者宅に回覧して記名内容確認の押印をお願いした。
これが大きな混乱の基になった。寄進者の多くは配列のみの確認と思い込み、自ら申し込んだ記名内容を再度しっかりと確認しなかったのだ。記名内容には様々なものがある。特に人名漢字は色々あって難しい。又碑文も一人の名前ばかりでなく、還暦記念や同級生の連名や家族名等が入り混じり、複雑な様相を呈していた。中には正面のみでなく、側面にも碑文を入れて申し込んだ人もあったが、私はそれらを勝手に削除した。然し寄進者はこれでは収まらない。私は電話で「勝手に碑文を削除するな」と怒鳴られた。そして当人は、翻意しない私を飛び越えて、会計総代に直談判し「叙勲記念云々」の文字を強引に彫り込ませた。別のグループは、文字の色を黒から赤に変更させた。私は危機感を持ち、或る日業者を訪問し、責任者の私を介さない個々の要求には応えないで欲しいとお願いした。配列についてもクレームが来た。家族で3本申し込んだのに、ばらばらで設置しては困ると言う内容である。私は悩んだ挙句、目立たない角地に親垣を3本並べる奇策を編み出して乗り切った。又玉垣(小型)と親垣(大型)の比が南側と北側とで大きく異なったので、前者は3:1、後者は2:1で設置することにした。然し当然のことながら綺麗に整数比にはならない。その辻褄は業者のご好意で10本の無記名碑(玉垣8本・親垣2本)を建てることで解決した。しかし建立後も混乱は続いた。石柱の配列や誤字である。親子の石碑が逆に並んでいたり、パソコンの漢字変換ミスで名前の字が間違っていたり。その度に寄進者宅に謝りに行ったり、勘弁を願ったり。
話は遡るが、ある会合の席で会計総代が発言した。役員(区長5名・総代6名)は一般寄進者とは別途に、役員だけの集合石碑を作ろうと!私は皆と一緒に建立する積りだったが、親垣が11本(役員は全員親垣寄進)も増えるとバランスが悪いこともあり、仕方なく了承した。しかしこのことが又後々の大きな混乱の火種となった。私がその役員碑の詳細を会計総代に任せきりにしたのが不味かった。完成後にそれを見た時、あまりの小ささに私も言葉を失った。原因は、手水鉢の屋根から境内の整地・覆土等に役員碑の予算を一部流用して予算不足になったのと「役員碑が大きすぎると一般寄進者からクレームが付く」との業者からのアドバイスを真に受けたからである。
目出度かるべき落成式当日、私はある区長夫人から恐ろしい剣幕で詰られた。「自分達も人並みにお金を出したのに、このみすぼらしい役員碑は一体何ですか?お金を返しなさい」「それがダメなら皆と一緒に人並みの親垣を建てなさい」と。一見尤もな意見であるが、最早手遅れである。私は下を向いて「申し訳ありません」と謝った。そして後日追い銭をかけて、役員碑も大きな土台の上に嵩上げし、役員の不満を鎮めるしかなかった。
事業は政治と良く似ている。とことん考えて無私になって取組んでも、やはり不平不満が発生する。全員が納得するような手法など、この世には存在しないのかも知れない。然し私は自分で自分を慰めている。大多数の人々から私は、感謝と労いの言葉を頂いたから!終わり


校長(その二)

O校長は又、防犯活動にも熱心だった。当校区は面積が広く人口が少ない為に通学距離が長い。児童は冬場になると、長く暗い道を通学しなければならない。折から、各地で子供が犠牲になる事件が頻発した。そんな中でO校長は、事件を未然防止する為に市当局に掛け合って、防犯灯設置の許可を得られた。それまで当市では、各校区毎年3灯限りの設置補助しか出していなかった。先生は他の未設置校区の分を、まとめて10灯設置する許可を取られたのである。然し、何処に設置するかが問題となった。私はある夜間地域を車で一巡し、設置済の防犯灯を一灯一灯ゼンリンの地図に書き込んで役員会に諮った。然し某区長から私の調査は不十分で、実体はもっと多いとの異論が出た。然もその電気代は、地域(行政区)負担分ばかりではなく、子組合や個人負担分も混在していたのである。
そこでO校長は「自分達で地域を廻って設置場所を決めましょう」と提案された。そして私も参加して数人が半日掛りで地域を巡回し、候補地を決めた。処がいざ設置するとなると、問題が発生した。設置候補地は、人家のない田畑沿いの道路が多い。先ず傍の水田の所有者が反対した。「夏の夜、虫が来て稲に被害が出る」と。私はその偏狭さに驚いたが、有効な打開策は無かった。更に某区長も反対した。「自区内であっても、主に他区の児童が通学に利用する道路沿いの防犯灯電気代を、自分達が負担するのはおかしい」詰り「受益者負担にすべきだ」と。こんな偏狭な意見が出始めると、収拾が付かなくなる。私はO校長の熱意を無にすまいと、意を決し発言した。「皆がそんな事を言い出したら話は纏まらない。電気代は公民館費から助成するので、PTAが責任を持って、地権者と交渉して欲しい」と。1灯当たり年間3千円で、先ず10灯設けるので3万円の負担となる。然し公民館費も、各戸から毎年お金を頂いて運営しているから、結局地元負担なのだが。私は翌年以降も年間3灯ずつ増設する事に決めたので、当校区には着々と防犯灯が設置される筈である。然し限られた収入の中から際限ない負担など出来ようもない事も又確かである。
これには後日談がある。最近の事件多発に鑑み、市当局から防犯灯設置状況調査が各区長に成された。処が、区長は偏狭な意見を言って区費負担を避けたので、今度は実情報告が出来ないのである。私は、市当局に出掛けて設置の顛末を説明した。担当者は(主旨が異なる)公民館費から電気代を負担している事に驚いた様子だった。
今全国で、子供が犠牲になる事件や事故が多発している。処が防犯灯一つにしても、増設は簡単ではないが、事が起きてから泣き言を言っても始まらない。私は思う。折角O校長が尽力されて、増設の道を開いて頂いたからには、校区民が納得すれば、例え主旨の異なる事にお金を使っても、校区の人々からは許して頂けるだろうと。終わり


校長(その一)

私が、公民館の支館長という役職についてもう今年で5年目を迎える。この間に、色々な事があった。特に校区の小学校との関わりは格段に深くなった。私が就任した当時から、今年までに既に3名の校長が着任したが、2人目のO校長は特に印象が深い。その女性校長は着任の時から異色だった。いきなり長々と口上を述べられた。私は最初、仰っている意味が良く理解出来なかったが、お付合いするに従い、次第に分かってきた。
O校長のモットーは、子供達に逞しい精神力を身に付けさせる為に、地域社会との絆を再構築して学校を活性化する事だった。O校長は兎に角行動派だった。自らのジープを駆って、地域を廻られ「学校便り」を一々配布して廻られた。そんな事をする先生はそれまでは居なかった。近くの児童に持たせれば良いからである。私が畑で農作業をしていると、いきなり現われて「がまだしよんなはりますね!(=働いてますね)」と言われてびっくりする。そしてあっという間に、地域の人々の名前や人となりについて、地元の人間より詳しく成られた。そのお陰で、学校便りは「誰是に何々を教えて頂いた」と言った記事のオンパレードとなった。そして最後に文責○○と、自らの名を記されている。
わが子が通学している家庭なら兎も角、そうでない家庭では、学校便りなど一瞥する位で、深くは読まないものである。然し、その中に個人名が記されていると、人々は俄然興味を持つ。「へー、あの人はこんな事も出来るのだ!」等と、長く住む私でも知らない事も少なくないからである。そして年間に何度か「学習支援の会」と銘打ち、地域の主だった人を集めて、学校の現状についての説明と、意見交換会が催された。先生のモットーは「明るく元気な子供」に育てる事だった。その為に児童の名前をいち早く覚えて、固有名詞で「○○ちゃん△△ですよ!」と呼び掛けられていた。朝は、グラウンドを児童と一緒に走られていた。運動会の時は自らマイクを持ち、○○君頑張れ!と声を張り上げられた。私は横に座っていたが、とてもそんな芸当は出来なかった。その効果は程なくして現われた。最下位常連の弱小校区だった我が石貫が、校区対抗の駅伝大会や市民体育祭で、何れも上位に進出し、後者では連続優勝までしたからである。
O校長は又、各種文化活動にも熱心だった。当地には昔から神楽があるが、特に指導者層の高齢化が進み、このまま推移すると将来途絶える恐れすらある。其処で先生は昨年度自ら神楽保存会幹部に頼み込み、3年生の全員(含む女子)に総合学習の時間を使い、神楽の特別指導を実施されたのである。こんな試みは初めてだった。そして今年の10月15日の夜、その教え子が当地熊野座神社の拝殿で、見事な舞を披露した。私はその夜、もう一つ驚いた事がある。それは神社の拝殿は昔から女人禁制で、女性は拝殿前までしか行けなかった。何でも「女神が邪気を起こすので」と言った、謂れのない理由からである。処が今年はどうだろう。女子児童のみならず、観賞の小母さんまでもが拝殿に上がっているではないか!先生の行いは、当地に根付いた時代遅れの因習までも、消し去ったことになる。然しその場にあのO校長の姿はなかった。私はその夜の舞の写真を何時かO校長に届け、御礼を言わねば成らない。
ある時私の友人のK君が、米国ボストンバークリー音楽大学から、数名のジャズミュージシャンを当地玉名へ招聘した時、彼等の一人(アルゼンチン出身のトランペット奏者)が数日間我家にホームステイした。私がその事をO校長に述べたら、早速小学校で俄か作りのコンサートを開かせて頂いた。それが余りに受けが良かったので、私は別のF校長(女性)の小学校へも同様の申し出を行って成功裏に開催し、とても喜んで頂けた。F校長とは、以前私が訪タイする時にある里親の紹介で、日タイの小学生同士の絵の交換をした事で、親しい間柄だった。
私は仕事柄、教育委員会主催の行事に招かれる事が年に何度かあり、その時は大抵、当市内の小中学校長も同席する。その20名程の内3~4名(男性)は、私の同級生や元クラスメートである。本来なら彼等の学校で、この様なコンサートが開かれてもおかしくない筈だ。然し理由は定かではないが、どう考えても彼等には“その様な雰囲気”が全く感じられない。
私は思う。今小中学校で子供のいじめや自殺が相次いで、その度に校長が苦しい記者会見を強いられている。男性校長が圧倒的多数だからなのかも知れないが、その全てが男性校長である。然し果たしてそれだけの理由だろうか?私の脳裏に浮かぶのは“功成り名遂げて校長室に座る姿”で、あのO校長の様に、子供達と一緒にグラウンドを走ったり、神楽の練習をする姿ではない。続く


土地問題

我家は昔から人が住んでいた所らしく、低い台地の上にある。従って、どんな大雨の時でも、水害の恐れはない。然し、昔から人は水無しでは生きられないので、井戸を掘って水を得てきた。又昔から、台地は畑として、周囲の低地は水田として利用されてきた。そして大地と低地の境界は小河川や水路となっていて、地形的には今も昔のままである。従って境界紛争も殆ど発生しない。
然しその他の場所、即ち人工的に区画された場所は境界紛争が起き易い。私が子供の頃、隣家が売りに出され、持ち主が代った(別の人が移り住んで来た)。当然、境界を画定する必要がある。私は当時未だ小学生だったので、記憶が定かではないが、それまでは隣家との境界もいい加減だったようだ。然し、新しい隣人が境界にあった大きな梅の木を伐採したのは記憶にある。そしてそれから境界紛争が始まった。母は「いつも隣人が石垣の下を掘るので崩れる」と言って気にしていた。とうとう何時だったか、土蔵の基礎の石垣が一部崩壊した。怒った母は仲介者を交えて現場検証を行い、子供の私も立ち会わされた。その後その石垣は、コンクリートで補強して一段落した。ヤレヤレと思ったのも束の間、隣人が境界付近に廃物を埋めていると母が言い出した。そして何と、近くの駐在所の巡査を立ち合わせて、現場検証をした。然し警官は本来刑事事件が専門であり、境界紛争のような民事は不得手というか門外漢に近い。多分「当事者同士で解決しなさい」とか何とか言って、逃げたのだと思う。元隣人が駆り出され、その人の記憶に基づき、暫定境界が決まった。
ところが此処は、石垣も無くてなだらかな傾斜地なので、何時又侵食されるか母は気が気でない。私にフェンスを作れと言い出した。私は母の被害妄想だと思ったが、仕方なく孟宗竹を切り出し、それを材料に簡単なフェンスを作った。隣人注視の中での作業は決して心地良いものではなかったし、所詮子供(多分中学生)の作ったフェンスは耐久性に乏しく、2~3年後には呆気なく崩壊した。仕方なく又再建、それを何度か繰り返した後、私は其処に十本程の杉苗を列植した。隣人からは、大きくなると日陰になるとクレームを付けられたが、毎年剪定をすることで了解を得た。この生垣は今も残り、毎年庭師に剪定をお願いしている。
然し、農地や山林の境界はもっと問題が起き易い。農地の場合、境界の土手や畦(あぜ)はスコップや鍬(くわ)で容易に削れるからだ。今は圃場整備されたので殆ど問題が起きなくなったが、昔は畝を少しずつ削り取り自分の田畑を拡張する人が居た。お陰で、我家の田畑は中央部が凹んだ矩形の農地が今も何箇所か有る(四隅は石や木等の目印が有って動かし難い)。
山林の場合はもっとひどい。某爺さんは、我が墓山を少しずつ削り取って、自分の畑を拡張していたらしく、母は何度もクレームを付けた。そして終には本人では埒が明かないとその孫(私のクラスメート)まで呼びつけて注意した。又こんな事も有った。長らく部落の世話役をしていたAさんは、納税奨励金(地方税を完納すると還付されるお金)を納税者に返金せず、着服するような問題の人だった。そして自己の山林からではなく、隣接する我が家の山林から大きな杉を無断で切り出して、玄関の上がり框(所謂腰掛け)を新築していた。これを知った母は烈火のごとく怒り、Aさんに直言した。Aさんは顔を真っ赤にして、一言も抗弁出来なかったとか。その大きな切り株は今も残っていて、私はその山に登る度にその事を思い出す(Aさんの山は谷川の対岸で、明らかに違法伐採)。母は事ある毎に「女子(オナゴ)だと何かに付け馬鹿にされる。早く大人になって見返せ」と私に言っていた。
私は思う。人はどんなに欲張って自己の土地を広げても、寸土たりともあの世までは持って行けない。それどころか世代交代する度に、相続税や贈与税として国に吸い上げられる。即ちある人が言った言葉「資本主義の日本といえども、土地は所有者が一時借用しているもので、結局は国のものなのです」を思い出す。こんな土地に何で日本人は異常に執着するのだろうか?私は不思議でならない。終わり


戦争の傷跡

私の年代、即ち団塊の世代は戦争を知らない世代と言われている。然し、私が幼少の頃は太平洋戦争の名残が彼方此方に残っていた。我家の庭には数本の松の木と、一際大きな松の切り株の跡があった。それは先祖が唐崎に旅行して海岸を散歩中、落ちていた松毬を着物の袖に入れて持ち帰り、庭に植えたとかで、その後大きく育ち、更にその子孫の松も育っていたのだった。然し太平洋戦争末期、日本軍は燃料不足に陥り、松根油採取の為、何と我家の宝だった庭の松の木さえ犠牲にしたのだった。私は此の話を母から何度も聞いた。そして日本がこんな事をするようでは、戦争は負けだと女の自分でも悟ったと言っていた。現在も我家の庭には、当時の石碑(袖つての松)が残っている。然しあの松の子孫はその後全て松喰虫にやられ、今の松は庭師が植えた子孫とは言えない別の松である。
又我家には土蔵(米蔵)が今も残っている。その漆喰の外壁は数年前に老朽化で剥げ落ちたので、仕方なく全体をトタン板で覆い、今は見る影もないが、幼少の頃は漆喰の外壁が確りと残っていた。然し、本来白亜であるべき外壁は、墨の跡が黒々と残ったままだった。これは戦時中、米軍機の標的にならないように、態と墨で真っ黒にした名残だと親から聞かされた。そして戦争末期には軍の要請で空襲を避けて、中に軍需物資(戦闘機の部品等)が隠されていたらしい。
一方、我家の裏の竹山には、立派な防空壕があった。最近鹿児島県で子供がその中で火遊びをして事故死したニュースが報じられていたが、何を隠そう自分も子供の頃、同じ遊びをしていた。下り勾配の入り口は座敷から程近い目立たない所にあり、子供の背丈では立ったまま中に入れた。2~3m進むとちょっと広くなった場所(2帖ほど)があり、周囲は太い丸太を組み合わせて補強されていた。私は其処に友人と入って、ローソクを灯して遊んだ記憶がある。そして更に奥へ進むと、左にカーブして隣家の裏庭に出ることが出来る、凝った構造になっていた。然し、残念ながらこの防空壕は、私が未だ子供の頃の或る大雨の夜、轟音と共に一瞬にして崩壊した。其処の上には大きな陥没穴が出来、孟宗竹が斜めに倒れていたのを覚えている。勿論その後はその壕へは入れなくなった。そして数十年後、私は帰省して家を改築する時、思い切ってその陥没穴に、古家の瓦を投入して埋めてしまった。従って私の子供には、戦争の(跡地の)記憶は全く残っていない筈である。
現在、戦争の跡が残る地域として、熊本県内には菊池市泗水町がある。私の茶道の先生、谷口恭子先生のご自宅の辺りである。当地には陸軍の旧飛行場が在ったらしく、今も給水塔に残る機銃照射の弾痕や、トーチカに当時の面影が残っている。又、何度か行った鹿児島県の知覧には、立派な施設があり、当時の特攻隊の手紙や戦闘機を見ることが出来る。
私は戦争の実体験者である親から、生々しい話を繰り返し聞いたし、子供の頃から戦記物が好きで本だけでなく映画も良く見た。然し自分の子供にはそれを全く伝えていない。人間は実体験した事でなければ、それを後世に伝える事は難しい。一方では現在も中東を始め、世界の彼方此方で戦争が起き、多くの人々が犠牲になっている。然し国内では原爆投下日の慰霊行事や、イラクへの自衛隊派遣、政治家の靖国神社参拝問題等でしか、戦争について考える機会がない。
私は思う。今日本は平和であるがこれが永遠に続く保障はない。現実に近い将来、日本人の戦争体験者が全て没した時、一体誰がどんな方法で、戦争体験を子孫に語り継ぐのであろうか?そして自分は今、何をしたら良いのだろうか?終わり


農村公園(その二)

そして5月の或る日、その工事が始まった。私は現場監督宜しく担当者に“解体撤去施設”の指示をした。一番大変だったのは、砂場の撤去だった。表面上は何の変哲も無かったが、地中から膨大なコンクリートとゴムの欠片が出て来た。これは業者が廃棄するしかなかった。簡易トイレも問題があった。元市議が、残すべきと強く主張していたからである。然しこの時期を逃せば永久に残り“し尿処理費”も必要となるので、敢えて残さなかった。水道栓(水飲み)は逆だった。遠く離れた本管との分岐点以降が“死に水”になるとの理由で、撤去出来なかった。(後日別の業者に聞いたら、それは“建前”で現実には日常茶飯事とのことだった)
その日の私の頭には、思い通りにならない“鬱屈感”が充満していた。そして私は“胸に秘めていたアイデア”を言葉にした。「ブランコと滑り台だけは、私の所有地に捨てて欲しい」と。業者はちょっと戸惑ったが、渋々私の指示に従った。私も解体を手伝った。その日の午後、解体業者の社長が現われ、私はクレームを付けられた。「勝手に従業員に指示して貰っては困ります。撤去品のスクラップ価格も含めて見積もりしているのです!」と。私は自分の不明を恥じて頭を下げた。然しその社長は、私の“私心の無さ”を認めて“遊具の置き去り”を不問に付して呉れた。
其れから一ヶ月、私は“私設広場”の実現を目指して、各方面に働きかけた。色んな意見があった。先ず遊具メーカの担当者(偶々私のアパートの住人)からは、50万円程の設置見積りを貰った。予想外だった。複数の土建業者からは(安全)責任が持てないとの理由で断られた。某社長は言った。「万一人身事故があった場合、貴方はその保障が出来ますか?」と。建機を借りて自分で設置したらと言った人も居たが、私にはとてもその自信はなかった。そして先日、万策尽きた私は例の“社長”に電話した。「折角ご好意に甘えて遊具を置いて頂いたのに、使い道が無いので再度引き取って欲しい」と。社長は嫌味も無く承諾され、私は胸を撫で下ろした。然し最後に一言あった。「遊具の置き場にはロープを張って立入り禁止にしておいて欲しい」と。
私は思う。今日本中に一体何箇所“農村公園”が有るのだろう?多分大半は、管理のみ現地に押し付けられ、時代が大きく変わった今日“管理者は”その扱いに“多かれ少なかれ苦慮している”のではないかと。そしてこれは何も農村公園に限った事ではない。中央官僚が頭の中で考え、地方政治家がそれに乗って建設した多くの施設が、今の時代“厄介者”になっている。そしてその建設費を払わされたのも、始末のツケを払うのも、私達国民である。
私は幼い孫娘を保育園に送る車の中で思った。業者が子供の事故をあれ程に恐れるのは何故か?それは、この国が今急速に“米国型の訴訟社会”に移行しているのを、誰よりも敏感に察知しているからではないのだろうか?と。あどけない孫娘の表情を見つつ、遊具を提供出来なかった無力感も加わり、とても複雑な気持だった。


農村公園(その一)

ここ玉名市には、私の校区“石貫”を含め、現在数箇所の“農村公園”がある。そもそも“農村公園条例”は、私が生まれた昭和22年に成立した“地方自治法”に基づき定められている。この条例によれば、管理者は村長となっている。当時はここも石貫村だったので、それは当然かも知れない。処が昭和の大合併で数ヶ町村が合併して玉名市になり、村長や町長から市長に代った。然しこの条例はその後も生き続け、あちこちに農村公園が造られた。然もその造りは何処も大同小異で、広場にブランコ、滑り台、砂場等の遊具、ベンチ、水道、トイレ等である。一方、町村合併後は殆どのイベントが市主催になり、その為の施設(公園・グラウンド・体育館・プールetc.)も昭和から平成にかけて格段に充実した。一方“農村公園”の存在価値は、それに反比例するように近年急速に薄れてしまった。
私が公民館支館長(小学校区)を承ったのは4年前で、同時に“農村公園”の管理者も私となった。前支館長からの申し送り事項は“年2回のグラウンドゴルフ大会”と其の為の“公園整備”だった。私は過去4年間に雨天中止を除き、5~6回程この大会を実施した。其の場合、大会前に区長さん達と草刈りや焼却等の“公園整備”をする必要がある。普通なら先ずイベントありきで、其の為の整備である。処がこの場合、整備の“理由付け”に無理矢理グラウンドゴルフ大会を持って来た。学校グラウンドより狭くてプレーし難いのに、そうでもしなければ、誰も利用しない農村公園は“荒れ果てる”のである。先ず谷間の湿地で立地が悪く狭い。土地の段差が3段もある。遊具近辺には蛇も多い。聞けば此処の“選定理由”は、小学校から山越えで近かった為とか。然しその山道は現在、藪の中に埋もれた“獣道”になっている。
私は区長会長から“農村公園の処理”を頼まれた。それを受け、公民館長会議で何度か“対策”を発議した。然し他校区の事情はまちまちで、反応は鈍く事態は動かなかった。そこで他所の公園も独自に視察した。何処も立地や整備状態は私処よりは良かったが、利用状況は余り芳しくない様で、人影も疎らだった。そして昨年度、業を煮やした私は遂に“農村公園の廃止”を市当局に申し入れた。そして廃止後の土地返却についても、地主の意向を打診した。一人は「返して貰っても、使用計画はない。」他の一人は「畑にしたいので、段差をなくして欲しい。」との事だった。
度重なる私の陳情を受け、市当局も腰を上げて動き始めた。そして昨年度末遂に結論が出た。それは、遊具等の施設の撤去は“減価償却済み”なので可能なるも、土地及びその付帯設備(水路等)は“未償却”に付き、当面現状維持との事である。私は自分の描いたシナリオと大きく異なる結論に戸惑いを禁じ得なかったが、渋々ながら従うより他なかった。そして今年度の“校区運営委員会”に当局も招き、この事を発議して承認を得た。然しこの結果、子供が蛇に噛まれる様な危険は無くなるが、最も問題視していた公園整備作業(=草刈、焼却等)の責任は、依然として私に残ることになった。地主へも“狂ったシナリオ”を説明して了解を得るしかなかった。続く


ゴミ拾い日米同盟

私の住む此処石貫は、山と川に挟まれた南北に長い校区である。校区の中央を流れる錦川沿いには、私の子供時代は今より多くの木々があったが、川沿いの県道の拡幅整備に伴い、現在は所々に残るのみとなっている。然し20余年前、当時の老人会長M氏の発案で、川沿いの土手に桜を植え始めた。その第一号が我が“ファームステーション庄屋”正面の一帯で、今では十数本の染井吉野の大木が辺りを圧し、3月末から4月にかけては桜吹雪が舞う一大“プロムナード”と化す。その後、此処に連なる上下流の土手にも徐々に桜の苗が植えられるようになった。然し問題もある。付近の田圃の地主が(桜の)木垂れ(日陰)を嫌うことである。然し田舎人は、都会人の様に自己の意思をストレートには表現しない。植えられた桜を“そっと”引き抜くか、草と一緒に“目立たない様”に伐り倒す。其処に後年植え直すと、周りに比べ当然成長は遅れる。そんな訳で、場所毎に大きさの異なる桜が南北3kmに亘って並んでいる。私はこの桜に対して、或る事をした。それは“天狗巣病”に冒された枝の切除である。この病気は“桜の癌”とも言われ、箒状の枝となり一見して分かる。私はこの病気を数年がかりで退治した。今年の春は“評判”を聞きつけた、某区長さんから横穴古墳や公民館一帯の桜の病気対策を依頼された。然し問題も或る。景色に惹かれて大きな車を狭い土手沿いの道に乗り入れる人が後を絶たないことである。お陰で道路は痛み、今年は2度に亘り区長さんが補修に汗を流された。
そしてこの“桜通り”は今や小中学生の通学路と共に、周辺住民の格好の散歩道になっている。私も、其の一人で、毎夕2匹の犬と共に此処を散歩している。然し、私は他の人とちょっと違う事もしている。其れは“ゴミ拾い”である。スーパーの袋をポケットに忍ばせ、路端のゴミを拾って持ち帰る。毎日拾っても決して無くならない。いたちごっこである。然し、何時かは分かって貰えると信じて続けている。あれは昨年来た米国人wwooferのP君との散歩の時だった。何時もの様にゴミ拾いをしていると、彼氏が私に言った。自分の父親も“同じ事”をしていると。そして其れは父君の“pride”になっていると。私は“俄然”意を強くした。そして会った事もない彼氏の父君と「日米同盟」を結んだ気になった。
私は思う。ワシントン名所のポトマック河畔の桜並木は、明治時代に尾崎行雄東京市長が送られた桜である。其れならば、此処石貫の桜並木は私が作ろうと。そして何時の日か、あのP君の父君と一緒に「ゴミ袋を提げて」散歩したいと!


新幹線

博多~八代間の九州新幹線工事が今真っ盛りである。当玉名市でも北西から南東に横切る形で、今其の沿線の至る所で建設工事が行われている。私の家からも橋脚が見える。そして西側にある小岱山(501m)を縦貫する10kmのトンネルは、つい先頃貫通したとのことだった。然しこの新幹線は、様々な点で地域に大きな影響を与えつつある。
数年前工事開始に先立って、現地説明会が実施された時の事だった。私の土地は山林がほんのちょっと掛かるだけであったが、一番驚いたのは地域住民の反応だった。立ち退きを迫られた人が反対するのなら分かるが、事実は逆だった。僅かな差で立ち退きを免れた人が、自分の屋敷を通るようにルート変更を陳情したのである。我田引水ならぬ“我田引鉄”である。理由は多額の補償費を貰って、別の場所に引っ越した方が良いからである。勿論こんな事が出来る筈がない。
然し其れから数年後の現在、立ち退いて引っ越した家々が並ぶ一帯は一際“威容”を誇っている。親子2人の家が、料亭とも見紛うばかりの豪邸を建設している。何でも補償費は全て建設費に使わなければならないとか。果たしてこんな家に住んで幸せだろうか?等と“要らぬ事”を考えてしまう。然し影響は其れだけに留まらない。トンネル工事のお陰で山の谷川が涸れ、山間の水田では米が作れなくなった。又川の水系が変わり、農業用水に多大の影響を及ぼしている。要は“大方の水がトンネル出口に集中する水の偏在化現象”が起きているのだ。この事は地域の人々の“心”にも亀裂を生じさせることになる。得をした人は黙っているが、損をした人は不平不満を云う。これは、先祖伝来“仲良く”暮らしてきた人々を“引き裂く”事にもなる。
私も何度かクレームをつけた。ある時は、近くの川の水量がトンネル完成後激減すると聞き、工事担当者に説明を求めた。此処は蛍の名所でもある。彼氏(技師)は、我家に大きなトンネルの図面を持ち込み、専門的用語を駆使して、滔々と自説を展開した。結論は“どうしようもない”との事だった。然し私は納得出来なかった。現在の土木技術を以って、河川の水量コントロール位出来ない筈がない。要は予算や工期の面から遣りたくないのだ。其れならそう云えば良いのに、回りくどい説明をする。
私は別にも云う事が有ったが止めた。それはアパートの住人から「TVの映りが悪くなった」との苦情が相次ぎ、何度もアンテナ工事やブースタ増強をさせられ、最後はアンテナを別の場所に移設し、多大の経費が掛かってしまった。然しこれを云っても、新幹線工事の影響だと“証明”出来ねば、保障は得られまい。
私は思う。科学技術の発展は、人々に“幸福”を齎すか、“不幸”を齎すか分からないと!


子供の遊び

私は子供の頃、体は弱かったが、遊びは人一倍好きだった。当時の男子の代表的な遊びは「カッパ(面子)」「ビー玉」「缶蹴り(隠れん坊)」「陣取り」等の屋外遊技であった。そして、その師匠は隣のY君であった。Y君は私の一級先輩、遊びの天才でもあった。彼氏の秘密の小屋には、勝って手に入れた膨大な面子やビー玉があった。私は其れを少し貰い、勝負したが非力の為中々勝てなかった。
一方こんな遊びもあった。先輩が後輩を連れて行くアドベンチャーゲームである。先ずボスが先頭で崖から飛び降りたら、後に続く皆も飛び降りる。次に棒を使って川を跳び渡ったら、これも真似る。その難度が段々高くなり、何処かで脱落する勝ち抜きゲームである。此方の方は結構無鉄砲で、頑張って付いて行った様に記憶している。然しY君には大きな問題が有った。盗癖である。何度か我家のお金が紛失したので、母がY君と遊ぶのを禁止した。以降私は一人での遊びを、開拓することになる。
その1:当時我家には山羊が居た。山羊は独特の団粒状の糞をする。私はこれが面白くて棒でお尻を突いた。そうすると山羊は脱糞する。又突くと又脱糞する。何度遣っても終わらず、遂にお腹の中にどの位の糞が滞留しているのか、確認する事が出来なかった。
その2:私は大変な甘党で、砂糖が大好物だった。時々食器棚の中の砂糖をこっそり舐めていた。ある時の事である。私は味噌部屋(=物置)の中に大好物の白砂糖を見つけた。そして口に入れた途端「ゲーッ」と吐き出した。何とそれは化学肥料の硫安(硫酸アンモニウム)だったのだ。私は今もその“もの凄い味”を忘れていない。
その3:我家には破れた古い投網があった。それには沢山の鉛の錘も付いていた。私はある時、友人のS君と一緒に、それをブリキ缶に入れて火で炙り溶かした。そして竹の型に入れた途端、鉛は一瞬の間に辺りに飛び散り、危うく大火傷をする処だった。原因は生竹を使用した為である。今もS君は私と会ったら必ずこの話をする。
その4:我家の二階の床下には十数本の刀が隠してあった。祖母の実家のN家(士族)の所有物である。私はこれを裏山に持ち出して、時代劇宜しく孟宗竹に向かい「エイ」と振り下ろした、結果は全く切れなかった。この話も同級生が集まると、今も必ず出て来る。然しこの刀剣類は、今はN家に返却されて1本も無い。
その5:我家の二階には、古いビクターの蓄音機と沢山のSPレコードがあった。時々其れを掛けて聞いたが、中身は浪曲とか童謡(ex.浜千鳥)だった様に記憶している。ある時、螺子を巻き過ぎて壊してしまった。そして其れを修理しようとして、分解に掛かった。最後に発条を外した途端、それは一瞬にして直径1m位の大きさに広がり、とうとう元に戻らなくなった。
私は思う。可能なら今の子供にもこんな遊びをさせてあげたい。一見危険も多い様だが、人間は頭ではなく、体で危険を体得するものである。その証拠に、私は今も五体満足の体で農業に勤しんでいる。


忠犬ポチ

「犬」と言う言葉に余り良い響きは無い。昔は「忠犬ハチ公」の様に「主人に忠節を尽くす」良い意味の言葉だったが、現在では「善悪抜きに盲目的に主人に従う」「偉大なるイエスマン」みたいな、やや否定的意味を持つようになった。
私は歴代「ポチ」「次郎」「コロ」2代目「ポチ」「テン」そして現在の「モカ」「ロン」の合計7匹の犬を飼った実績を持つ。この内、天寿を全うした犬は2代目「ポチ」のみである。他の犬は何れも悲劇的な最期を遂げた。この内の初代「ポチ」はシェパードの雑種でとても賢く、私の子供時代の親友であった。当時の犬は放し飼いが普通で「ポチ」もそうだった。私が中学へ自転車通学する時、何時も前後を走って約4km離れた学校まで付いて来た。そして帰宅すると、ちゃんと家に戻っていた。冬の朝等、竈の前で「ポチ」と並んで暖を取りながら食事を摂っていた。「ポチ」は、どんなに空腹の時でも、私が与える物以外には決して手を出さなかった。私は一人っ子の為、そんな「ポチ」を弟の様に可愛がっていた。それには悪戯も含まれていた。ある時、輪ゴムをアゴにはめたら、外そうとしてとても面白い仕草をした。私は面白がって何度もした。そして、はめたままにしたことを忘れてしまった。それからどれ位経ったであろうか?隣人が「お宅の犬はアゴが垂れ下がって変ですよ」と云って来られた。よく観ると、輪ゴムが下アゴに深く食い込んでいる。これは大変だと取ろうとしたが、暴れて手に負えない。最後は大人が3人掛かりで、大声で泣き喚く「ポチ」を無理やり押さえつけ、鋏でアゴの輪ゴムを切り取って下さった。実に恐ろしい光景だった。お陰で「ポチ」の下あごは更に醜く、血だらけとなり、輪ゴムの切れ端がぶら下がったままだった。軽い悪戯の結果の重大性を、私は身に染みて感じた。
その「ポチ」が何時も吠える人がいた。近所のKさんだった。母は「この犬は良く人を観る」等と、悪い冗談を言っていたが、Kさんは青年時代に喧嘩で誤って人を殺めた過去があった。私の祖父がその後始末をしたので、Kさんは恩義を感じ、我家の為に色々尽力して呉れた。それなのに「ポチ」が吠えるので、Kさんは怒って、繋いで置くように云われた。それが次の不幸を招く結果となった。「ポチ」は主人に付いて行くのが最大の楽しみで、主人は私であり、母であった。ある日、母がバスで街に出かける時、鎖を引き摺ったたまま、バス停まで付いて行った。母は「付いて来るな」と止めたと言うが、犬に分かる筈がない。鎖もろとも県道を横断中、トラックの下敷きとなった。確り杭を打ち込んで置かなかった私の落ち度だった。私は学校から戻って、血を流して死んでいる「ポチ」の亡骸にすがり付いて何時までも泣いた。
今「ポチ」の墓の上には、富有柿が大きく育ち、毎年多くの甘い実を付ける。私は今もそれを食べながら、あの「ポチ」と遊んだ、懐かしい昔の光景を思い出している。


稲藁の火

昨年、小学生に「稲村の火」という、有名な和歌山の津波騒動の話を聞かせたことがある。又私が火遊び(女遊びではない)が好きだったことは、別のブログでも書いた。これ等とは無関係だが、小学5・6年生の時、他の一人(誰だか忘れた)と私は、塵焼き担当だった。塵焼きとは、校庭の隅で、学校から出る諸々のゴミを焼却する仕事である。当時は現在のようなゴミ処理システムも、焼却炉もなく、只屋外でゴミの山に火を付けて、焼却するのが仕事だった。私はこの仕事が好きだった。焼き方も段々上手になった。
又、当時「肝試し」という遊びがあった。例えば夕刻「墓場に一人で行けるか?」と言うような“度胸”を競う遊びである。出来ない子供は「意気地なし・弱虫」と言われた。
そしてその時そのゴミ焼き場には、恐ろしい悪魔が忍び寄っていた。確か其処には同級のS君、K君、その他何人かが居たと記憶している。多分10月頃だったと思う。校庭の脇の田圃では既に稲刈りも終了し、一面に「掛け干し」がしてあった。
誰かが私に言った。「あの掛け干しに火が付いたらどうなるか?」「試す度胸(肝)があるか?ないか?」私は一瞬戸惑った。無いとも云いたくなかったし、有ると云うのも怖かった。その後のことは良く覚えていない。私が「火を付けろ」と指示した「こと」になっている。其の「指示」でS君が先端に火の付いた何かを持って行った。
「あっ!」と言う間も無かった。彼は慌てて火を消そうとしたが、忽ち“大きな紅蓮の炎”が燃え上がった。その時機転を利かせたのは、体力に勝るK君だった。彼は掛け干しに力任せに体当たりし、それを押し倒した。そして燃え続ける稲を踏み付けて、皆で必死に消し止めた。学校中が大変な騒ぎになっていた。
私は、その後の記憶が定かでないが、翌日、関係者一同が「雁首」を揃えて、地主のTさんのお宅に謝りに行ったこと。「済んだ事は仕方が無い」と許されたことは覚えている。
今も、当時の同級生が集まると、必ずこの「放火事件」の話が出る。皆は担任のS先生から「恐ろしく叱られた」と言う。そしてその首謀者は「私」となっている。私はこれを今更「否定」も「言い訳」もしようとは思わない。何故なら「50年間」も語り継がれる話題など、他にはないのだから。


イスラエル人&デンマーク人

私は、53歳で早期退職後、2年半ほど別の企業で働いた。仕事は以前とは違って品質保証部門であった。この会社には、国内外から多数の来客があった。私は外国人が来ると、昼食の時は大抵彼らと同じテーブルに座り、親しく言葉を掛けた。彼等は例外なく非常に喜んでくれた。それは、私が逆の立場だった時の気持ちと同じ筈である。
イスラエル人のI君もその中の一人であった。私は、同伴のフランス人と共に、週末自宅に招待した。勿論プライベートで!I君は、長崎の原爆記念碑見物を強く希望した。そして翌朝、長洲からフェリーで対岸の平良に渡り、島原半島の北側海岸線に沿ってドライブの途中、そのI君が私に突然停車を命じた。そこは長閑な田園が広がり、遠くになだらかな山容が望める、全く平凡な田舎道だった。彼氏は車を降り、何枚も辺りの風景写真を撮り、最後には私にカメラを渡して、自分の写真を撮れと言った。私は不思議だった。何故その場所で写真を撮るのか分からなかった。後で聞いてみたら、とても景色が良いと言う。イスラエルには無い景色だそうだ。後述略
先日、デンマーク人wwooferが来た。wwooferとは、農業体験希望者とホストが、宿泊・食事と労働を等価交換する制度であり、イギリスから始まり、今や日本のホストも200を超えている。“ファームステーション庄屋”もその1つである。彼は兎に角“雨男”で、大抵雨天の日はカメラを提げ、近隣をwalkingしていた。そして「雨に煙った景色が素晴らしいので、何枚も写真を撮った」と言う。それは、例の島原の景色とそっくりの“山と川と田圃と民家”しか見えない景色である。
私は早速このことを、今年の長寿会総会の席上で、地域のお年寄りの皆さんに話した。生前、母は「此処は田舎で何もない!」と自嘲気味に言っていた。その言葉に誇りは感じられない。私はこの言葉を以下の様に訂正したい。「余計なものがない田舎こそ素晴らしい!」と。


つぐない

テレサ・テンの歌の題名ではない。私が小学4年の夏、父は53歳の若さでこの世を去った。前日までは元気だったのに、全く突然とも言える死だった。その後我が家は母とお手伝いさん(この人も3年後に亡くなる)との3人になり、文字通り家庭環境が激変した。母の唯一の生き甲斐は一人息子の成長となり、私(の成績)に対する期待(要求)は日増しに高まった。そして、相談相手の叔母からのアドバイスもあり、何と6年生の3学期から叔母の家に寄留して、町の小学校(規模が約10倍のマンモス校)に越境入学させられたのである。つまり田舎の中学を敬遠して、町の中学に入学する為の知恵だった。当然ながらこれは大きな問題となり、母校の校長や担任教師は激怒し、教育長からは元に戻せと言ってきたようだ。それをなんとか凌ぎ、私は目出度く(?)町の中学に進学した。(後述略)然し、このことの代償は大きく、45名の小学校の同級生からは、今日に至るまで「あんたは逃げた」と痛い言葉を浴びせられる。私はこのことに対する償いを、常日頃から考えていた。最初の取り組みは20余年前に同窓生で実施した「小学校への記念植樹」であった。然し樹種と土地の相性が悪いのか、その後樹勢が衰えてしまった。今回は「還暦記念の灯篭建立」を思い立ち、同級生に呼びかけたら大方の賛同を得、地元在住の友人と計って、目出度く御影石製7尺の灯篭を、お宮参道階段の両脇に建立した。(添付写真)こんなことが罪滅ぼしになるとも思えないし、私自身には罪は無い筈なのに、何と無く感じる罪悪感、せめてもの救いは我が子3人が、都会から逆に我が母校に転入(卒業)し、目出度く友と共に、田舎の中学に進学したことであろうか。


ピアストーン(万延橋)


此処石貫を流れる繁根木川(昔は錦川と呼んでいた)には、現在多くの橋(一橋を除きコンクリート製)が架かっているが、我が“ファームステーション庄屋”前の廣福寺橋は、ピアストーンのデザインの由来としたように、特別な歴史を持つ橋である。即ち、昭和30年代までは、此処には「万延橋」いう眼鏡橋が架かっていた。私も幼少の頃、手造りの木車で橋の上から坂を下ったり、小学生時代には友人と手作りの竹筏に乗り、橋の下を行き来しつつ上を眺めては、その芸術的とも言える見事なアーチ型の石組みに見惚れたのを覚えている。
この「万延橋」は江戸幕末の万延元年(西暦1860年=明治維新の8年前)9月に、旧石貫村庄屋徳永圓八(筆者のお祖父さんのお祖父さん)に依って架けられた橋である。橋の長さは約12m、幅は約2.7mの小さいが均整の取れた形の眼鏡橋だった。しかし私の幼少時代は、折りしもリアカーや牛車・馬車から自動車に移るモータリゼーションの黎明期、所謂オート三輪と言われたトラックが荷物を満載して通過しても、びくともしない見事な造りに子供ながら感心していた。当時も石貫には幾つかの橋があったが、他は全て木橋だった。
圓八さんの頃はこれらは土橋だったらしい。だから雨季の増水に依って流されることは珍しくなかった。「だからどうにかして流されない石橋を作りたい」と思ったのは当然であろう。惣庄屋を通して郡代にお願いした。即ち「足場作りの為に小岱山(細川藩の御山=現在の国有林)の木材を拝領させて欲しい」という内容で、詳細な見積帳(工事積算書)が添付されていた。中身は、橋の各部分毎に、部品名、数量、寸法、単価、総額、石工や大工の人数、運搬人の延べ数、運搬回数等々の後に、部品総額と総労働者数が記されていた。この見積書によると、橋の建設費は一貫三三五匁五分(石代と石工・木挽・大工等の賃金合計)で、用木は御山から頂くとして、人夫1468人日は村民の公役(労働奉仕)だけでは無理があった。そこで圓八さんは内田手永(郷)の御会所御用銭(臨時支出準備金)から、建設費の中の一貫目を前借したいと言う願いを出した。勿論この金は後に10ヵ年賦で返済しなければならない。又労働力不足に対しては、「他の村から応援に来て下さいますように」という依頼文書を郡代宛に出している。と言うことで、万延元年の2~3月頃に着工した架橋工事は、早くも同年9月には完成した。丁度明治維新の10年前のことである(後述略)
圓八さんの息子嫁(写真は残っていないが、名を登志と言い92歳の長寿を全うした)の言葉として「圓八お父さんはね!橋架けの時にね!郡代さんの所からお呼びが来て、役所に座りに行きなさったそうな。それは御山の木を伐り過ぎなさったからなそうな」つまり処分を受けたと言うことで、恐らく自分で知りながら余計に伐ったのであろう。それも私服を肥やす為ではなく、橋の土台をしっかりする為に。余計に伐った材木を川底に埋めた。だから役所にも下を向かず、前を向いて行ったらしい。その為か、この橋はそれから100年間流されることもなかった。
その橋が、昭和37年の洪水で半壊した。筆者の伯父(前出)は当時天草勤務であったが、帰省して「この橋だけは何とか残して欲しい。無理なら横に別の橋を架けて通行できなくても良いから」と懇願したらしいが、石橋を組める技術者が居ないということで、跡形もなく取り壊されてしまい、今は何の変哲もないコンクリート橋に代わって、僅かにその欄干に昔の面影を残す絵が描かれているのみである。そしてその石も何処に持ち去られたのか、埋めたのか知る由もなく、復元の可能性もない。恐らく当時の大方の意見は、不便な眼鏡橋より便利な平橋をとなったのであろう。文字通り掛け替えのない貴重な史跡をむざむざ葬り去った近視眼的思考の行政と地域の対応、嘆かわしい限りである。筆者は当時中学生、そんな話に加われる立場でもなく、また意識もなかった。当時が今なら、橋の下に“座り込み”をしてでも解体を阻止したいと思うこの頃である。(玉名会議所だより依り一部引用)


石貫についてPart1

現在の石貫は玉名市に属しているが、明治の大合併前は石貫村と富尾村から成り、人口は少なかったが面積では玉名市でも最大級の村だった。東西を小岱山と丘陵に挟まれた南北に長い地形で、中央部を北から南に向かい、小岱山を源流とする清流、錦川(現在の繁根木川)が流れている。一方、道路は北の南関方面から南の玉名市中心部に通じる県道4号(玉名‐八女線)が走る。
この道路は今でこそ片側1車線の何の変哲もない道であるが、明治初頭の西南戦役では、官軍が南下して玉名に拠点を設け、あの田原坂の戦いをした道である。其の時は曾祖母が軍隊を恐れて一時裏山に隠れたと云う逸話も聞いた。更に、県道から200m程東に入った所に建つ日本最後の仇討ちの碑は、此処が歴史的にも由緒のある地であることを物語っている。
石貫は地勢的に平地が狭く、然も東西が山地の為、海岸部に比べて日照時間がやや短い。産業としては農業が主体で、特に米は砂地で水も冷たい為美味しく、消費者に喜ばれている。然し特産品と出来る程の生産量はなく、住民の高齢化や減反政策の影響もあり、典型的な第2種兼業農家(日曜農業)地帯と化している。然も、新幹線工事(後述)の影響で小川の水が干上がり、このままでは貴重な棚田での稲作農業が壊滅的打撃を蒙る恐れがある。
この石貫を九州新幹線(博多—八代)が通ることになり、2004年現在小岱山を貫通するトンネル工事の真っ最中である。数年後に完成すれば、ほぼ中央部を北西から南東方向に新幹線の線路や橋脚が分断し、地区の景観は大きく変わると予想される。又近くに新玉名駅が出来れば、博多まで30分程で結ばれ、福岡都市圏との人々の往来は益々容易になり、広い意味での通勤圏と化す事になるだろう。