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農作業その八

今日は珍しいことに、隣家のバーベキューに招待を受けた。私の記憶では、前代未聞の事に違いない。それにしても、近隣住民と接する事は、とても大切な事である。何故なれば、事件事故、或いは突発事態等が発生した時には近所、就中隣人の力を、借りる必要が有るからである。それにしても、先日の草刈公役には、目と鼻の先なのに、知らなかったとのこと。刈払機の音が、ガンガン響いているのに、気付かないとは信じられない。


夏その二十一

今日は広島原爆の日、3日後は長崎原爆の日である。私は当時は生まれてなかったので、親から聞いたのだが、連日B29戦略爆撃機が飛来して、日本中の都市に、焼夷弾を投下した。勿論飛来する前には「空襲警報」が鳴るので、身近にある防空壕に避難せねばならない。日本軍も手をこまねいていた訳ではなく、戦闘機が舞い上がったが、悠々と成層圏の高航度を飛行するB29には、手も足も出なかった。これこそが、技術格差であり、今現在に至る、国力、技術力の相違だと云うしかないだろう。そして最後には、惨めな無条件降伏をして、終戦となった。身の程知らずとは、将にこのことを指すのだろう。


夏その八

つらつら考えるに、昔は我家同様に、多くの家屋が竹山の近くに立地していた。処が近年は対称的に、山林を皆伐した跡地に家を構える人が増えたように思う。その結果、数か所で土砂崩れが発生している。そんな我家も、数十年前に、川沿いの土手が数十メートル崩壊した。結果蛇篭と呼ばれる石と、針金とで、土手の崩壊を食い止めたのだった。あれから数十年後の今年!同じ馬場川の上流の土手が、数か所崩落している。私なら大ショックなのだが、聞く処に依れば、地主が意図的に、災害を誘発させ、竹藪の跡地を、公共工事に掛けていると、聞いたからである。私は信じられなかったが、今起きている事象は、それを如実に物語っている。


P&Pその五

兎に角随筆を書くには、何処かに出掛けるか、誰かに会うかしなければ、新鮮な題材は見付からない。父が頻繁に立ち寄る場所は、大凡決まっていて、玉名民報社の他に、平山耳鼻咽喉科、岡村畳店、そして私が大好きな、玉名駅だった。当時の玉名駅は全てがSL。私は柵から身を乗り出して、貨車の入れ替えをする複雑な手順の作業を、それこそ目を輝かせ乍ら、飽きもせずに見詰めていた。後に機械工学の道に進むことになった原点は、此れだったのかも知れない。蛇足乍ら現在の玉名駅は、当時の面影は殆ど無く、偶に列車が通る位で、寂しい限りと云うしかない。


P&Pその四

然し父が綴った玉名民報の記事が、読者の評判に成るには、時間は掛らなかった。その第一は、フィクションではなく、実生活を巧みに取り入れた、内容だったからに違いない。中でも夫婦の機微や、子供の私も登場した、ドキュメンタリーとも言える内容だったので、忽ちに発行部数が増加して、玉名市を有名足らしめた功績は、決して小さくないと思う。然し乍ら、我が母の心境は、穏やかとはいえなかった。何故なれば、当時の家族は父母と私の3名。母は自分が題材にされるのは、とても嫌っていたので、私が頻繁に登場するストーリーになりがちだった。


P&Pその一

主題の意味は「パブリック」と「プライベート」を表現している。要するに公私の事である。これは個人でも、様々な受け止め方があり、勿論一律に論じることは困難である。我が父は共産主義を信奉していたので、私も子供時代にその影響を受け、その最たるものが「農業」だった。何故なれば、機械化以前の農業は、人海戦術が殆どで、動力は牛馬位しか無かったからである。それなのに我家の農地は、当時も圧倒的に広かった。従って沢山の人々を雇って、集団的農業(コルホーズ)を実践していたのである。


梅雨その十一

現役時代、私の一年後輩にY君がいた。とても変わった男だった。何せ入社時の挨拶で「自分にはフィアンセが居るので、女性の皆さんは、決して自分に近付かないで下さい」と堂々と言い放ったのである。私は勿論として、多くの社員はビックリ仰天した。一般的な型通りの挨拶と、余りに懸け離れていたからである。そんな後輩が、数十年後にはトントン拍子に昇格して、何と副所長に大抜擢!他方私は、コンプレッサーの騒音クレームで、身も心も打ちひしがれ、退職届を出す顛末と、成り果てた。これこそ「負け組」と云うしかない。それでも隣室アパートに居られた、総務課の人の発案で、同社熊本工場に転任!命を救われた。これこそが「不幸中の幸い」と云うのだろう。


春その九

陽気に誘われて、永らく会っていない同級生の友人H宅を訪問!矢張り施設に御厄介になっているとか!この年になると、何事も無い人が珍しい位で、誰しも体の何処かがおかしくなり、ケアをせねばならない時期になっている。根掘り葉掘り聞きただしても良かったが、大体は想像が付いたので、ほっとして帰宅した。それにしても、今は亡きH夫人は、嘗て田圃カフェの横の小部屋で、マッサージをされていて、私はその余りの心地良さの為に、何時も眠ってしまった。


鶏その三

私の鶏の飼い方は一貫して平飼い、即ち互いの鶏の接触を許す方法故に、様々な問題が発生する。その典型で最悪なのが、所謂「尻突き」と云われる現象である。勿論嘴同士での突き合いは常時なるも、尻を突かれた鶏は、肛門が傷んで、卵を産めなくなり、最後は死に至る。この対策はストレスとも言われるが、殊の外厄介な現象であって、私は未だ以て、決定的な対策を、持ち合わせていない。


韓国その十

欧州の地勢と比べて、日本とそっくりなのは、イギリスに尽きる。何せドーバー海峡が有ったお陰で、ヒットラーの怒涛の進撃を、辛くも食い止められたからである。仮にも朝鮮半島有事が起きた時には、日本海と東シナ海が、ドーバー海峡と同じ役割を果たすに違いない。そう考えれば、元寇にしても、豊臣秀吉の朝鮮征伐にしても、日本が島国である事の利点は、計り知れないと言って良い。


韓国その九

日本はれっきとした島国だが、韓国は半島国と云えるだろう。要するに常に「お隣」の北朝鮮を気にしていなければならない宿命にある。イタリアやスペイン・トルコ・ギリシャ等と、地政学的に共通点がある。対する日本は、イギリス、台湾、フィリピン、ニュージーランド等のインドシナ諸国等と、似通っているので、イザ戦争の場合は、朝鮮半島との距離があり、巻き込まれるリスクが少ない利点がある。


韓国その八

そもそも土地と云うものは、社会主義国では、国有地が殆どを占めていて、私有地は限定されている。従って我国に当てはめれば、日本国から長期的に借りていると考えた方が、現実に即している。処が社会主義国の農業は、慢性的な不振に陥ることが多い。それは労働力の受益負担が曖昧な為に、やる気を無くすからである。何事もそうだが、頑張った相当分の、見返りが必要なのである。


韓国その七

さあ大変、屋敷の出入り口を封鎖された叔父一家は、予想を超える反発に驚いたに違いない。然し頭を下げるのも癪だったようで、何と何と我が隣のK氏の屋敷下を経由して、我家の南側に在る、自己所有の広い畑の中央へ、家毎を移設したのであった。私の記憶ではユンボも無い時代、牛か馬を調達して、動かしたものと推察出来る。その後の数十年、近隣の障害者が住んでいたが、亡くなった後に、私が従弟に解体を持ちかけて、今は私が無償で畑に借りている。


韓国その六

父は四人兄弟姉妹の長男で、絶対権力者だったので、全資産を相続出来たのだが、祖母が共産主義に被れている父の将来を危惧し、土地(田畑)の半分を、叔父の名義に、秘密裏に替えたのである。この事が、我家を真っ二つに引き裂く、結果となった。我が母の言い分は「一族郎党、倹約して東大卒業までの学資の支援をしたのに、半分分けとは、納得が行かない」と、断絶を宣言したのだった。


韓国その五

太平洋戦争後、私は当時小学生だったが、我が国に「共産主義旋風」が吹き荒れた。その只中に我が父は巻き込まれ、我家は最大の危機に陥った。所謂スターリン旋風である。処が共産主義は、土地国有がテーゼなので、地主であった父は「自己矛盾」を抱え込むことに成ったのである。毛沢東・周恩来・スターリン等々に付いて、泥酔してラジオを聞いて、毎晩の様に、大声で叫んでいたのを記憶している。


韓国その四

嘗て半導体ブームが起きた時代、私もその関係の仕事をしていて、国内、台湾、ドイツと、それこそ世界中を飛び回っていたのであるが、或る時期から急に風向きが変わり、海外勢がドッと押し寄せて来て、日本は押されっ放しとなった。その時代に囁かれた言葉を、私は今も覚えている。それはExact Copyである。その心は、優秀な日本の生産設備技術(プロセス・プロダクト)を、そっくり真似をして、安い人件費で作れば、世界一に成れるとの発想であった。実に恐ろしい安直さで、まともな日本人なら到底付いて行けない。そしてこれこそが、一衣帯水と呼ばれる、日本と韓国の違いである。


韓国その三

韓国と日本は「一衣帯水」と言われ、地政学的にも、人種的にも近いが、その国民性は、正反対と呼ぶ程に異なっている。それは島国と、大陸国家の違いかも知れない。兎に角彼等は、何事に付いても「極端」である。日本人にある所謂「足して二で割る」ような発想は微塵も無い。だから半導体産業の全盛期には、世界一を窺う程に興隆したが、そのブームは長続きしなかった。


韓国その二

私は嘗て、夫婦で韓国釜山旅行をしたことがある。例によって船酔いには苦しめられたが、最も驚いたのは、女性ツアーアテンダントの振舞だった。何せ次から次に、店に連れて行き、買い物を促すからである。それも決して出来が良い品物ではなく、粗悪品と言って良い物が殆どだった。そして有名な「垢すり」の店にも連れて行かれたが、お世辞にも「衛生状態」が良いとは思えなかった。


韓国その一

韓国の「従軍慰安婦問題」に付いて、日本が10億円の被害者賠償をすることで、一件落着したと思いきや、今度はこの10億円とは別に、韓国が独自に「10億円」を調達して、慰安婦に支給するらしい。私はこのニュースを聞いて、何度思い返しても、しっくり行かかない。何故なれば、日本から恩恵を被ることを、良しとしない心理が、衣の下から、あからさまに、見え隠れしているからである。


犬その十

そんなこんなを経て、落ち着いたのが、現在の犬クックである。ネットで買った犬で、両手に乗るほどの子犬だった。処が暫くは放し飼いにしていたので、お隣の家に行き、其処らにある物を手当たり次第に引き出して、苦情を貰ったこともあった。然し今では大人になり、無駄吠えも殆どしない、賢い犬に成長した。クックと私の時間は16時!散歩の時間である。犬の最大の楽しみは、食事と散歩!雨の日も風の日も、私は365日、散歩を欠いた日はない。完


犬その九

私も、脱走癖がある犬にはホトホト困り果て、暫くの間犬を飼うのを止めていた。然し大事件が起きた。鶏がイタチに襲われたのである。それも一羽なら兎も角、数羽の「首無し死体」が鶏舎内に転がっている。夜間にイタチが、鶏舎の下に地下トンネルを掘って忍び込み、持ち運び易い首だけを持ち去ったのだった。これは私にとっても大ショックだった。矢張り犬が居ると居ないでは、こんなにも違うのだと、改めて思い知ったのであった。


犬その八

モカが死んだ後、私が寂しがっていた頃に、知人がラブラドール犬「ロン」を、譲って呉れた。全身真黒な大型犬だった。それ以前は、和牛牧場の番犬をしていたので、心強く思っていたが、とんでも無い事が起きた。この犬種は、首の大きさに比べて、頭が小さいらしく、所謂「首抜け」が得意なのである。幾度も「お宅の犬が来ています」と近隣の人から通報があった。私はその度に、首輪を持って、捕まえに行かざるを得ない。そして遂に行方不明となった。如何に外見が素晴らしくても、浮気な犬だけは、御免被りたいと思った次第である。


犬その七

モカは、私が飼った唯一の雌犬で、確かネットで探して、遠路遥々宮崎県迄、買いに行った記憶がある。当然乍ら高価で、全身が美しい栗毛に覆われていた。然し乍ら人に限らず、純血種は病気に弱い。晩年はフィラリアに侵されて、やせ衰え、全身毛玉だらけとなり、毎日石垣の下から梯子に手を掛けて、ホワンホワンと、悲しい鳴き声を立てていた。私も身につまされ、死んだ後には、柳の木を植えて、弔ってやった。今も尚、自宅下の石垣の下を通る時には必ず「モカちゃん」と呼び掛けている。


犬その六

テンは、シベリアンハスキー犬で、真っ白のふわふわとした長い毛に覆われた大型犬だった。従って暑さにはからっきし弱く、私が散歩に出かけると、真っ先に近くの川に行き、水に浸かり、その場を離れようとしない。そして渋々川から上がれば、体中を振るわせて、私にブルブルと水飛沫を振りかけた。一方体中に毛玉が出来て、見苦しいので、時々は嫌がるのも構わず、鋏で刈っていた。そしてこの犬も脱走壁があり、所謂「首輪抜け」が得意なので、県道に出て車に挽かれて死亡した。北国向きの犬だろうと思われる。


犬その五

私の相棒だった「ポチ」が死んだ後に飼った犬は、次郎、コロ、二代目ポチ、テン、モカ、ロン、そして現在のクックと、8頭もの多岐に及ぶ。その犬種は様々なるも、モカを除き、全てが雄犬である。何故なれば、雌犬を飼えば、野良犬が来て交尾すれば、望まない妊娠をして、沢山の子犬が、産まれる可能性が有るから。


犬その三

今年は犬年!私は一人っ子だったので、幼い頃から犬が最良のパートナーだった。一方当時の犬は、全て放し飼い!従って私が玉名中学に、自転車通学する時は、3km強の距離を、私の自転車に伴走して呉れた。そして私が帰宅する時には、既に自宅に帰っていたのだった。それを可能にしたのは、所謂マーキング即ち、時々オシッコをしているので、その匂いの為に、道に迷わず、自宅まで帰れたのだった。


犬その二

我国の代表的なペットは犬と猫だが、両者の役割は対象的である。今はそうでもなくなったが昔は、猫はネズミ捕りの役割を果たし、犬は泥棒避けの番犬の役目を果たしていた。然し今では、犬も猫も愛玩用に代わりつつある。従って犬も猫も小型種が多くなり、室内飼いが主流となった。


犬その一

今年の干支は犬(戌)年とのこと!私は一人っ子で寂しがり屋なので、小学生時代から(大学~サラリーマン時代を除いて)犬を飼っていた。犬は大昔から人間と共に生活をしていたので、人の心を読むらしく、相性が良くて、主人に対しては、絶対的に服従する。だから昔も今も、犬を飼う人は、減らないのである。


トイレその五

「トイレの神様」と言う歌があるが、これは「トイレを綺麗にすると、幸せがめぐり来る」と言いたいのだと思う。それは兎も角として、今や日本の温水洗浄トイレは、快適性からも、普及度からも、世界有数のレベルに到達している。と言うのも、ウオッシュレット等と言う技術では、他国の追従を許さない、細やかな技術が、随所に散りばめられているからなのである。


トイレその四

昭和のトイレは、所謂汲み取り式であった。何故なれば化学肥料が普及していなかった為に、人糞を肥溜めに貯蔵して腐熟させた後に、田畑に散布していたのである。当時の我家は、私を含めて4人家族だったが、それでも田圃の肥料は、絶対的に不足していたので、窒素・リン酸・カリ等の、化学肥料を購入せざるを得なくなった。


トイレその二

トイレは何処の家庭でも必須の設備であり、私が子供の頃は、3ヶ所のトイレがあった。一つは家人が使用するトイレ、二つは客人が使用するトイレ、三つは使用人用のトイレである。そして入浴の順番も決まっていて、最初が父親、次が母と私、最後が使用人だった。私は熱湯が大の苦手で、熱い熱いと抵抗していた記憶がある。それは未だに尾を引いていて、私は今も、家内の後に入らねば熱過ぎるので、水を相当量足さねばならない。


トイレその一

中国が、日本の「温水洗浄トイレ」を念頭に、自国のトイレ事情を改善すべく、検討を始めたらしい。何事に付いても、恥ずかしげも無く、平気でそっくり物まねをするお国柄だが、トイレの改善に付いては、私は大賛成である。何故なれば、彼是半世紀近く前、私が米国出張を命ぜられた時の事である。公衆トイレに入ったのは良かったが、ドアの上下は、所謂スッポンポンの状態で「顔のみ」が外から覗けない構造になっていた。そのことを仲間に聞いた処、同性愛者も多く、日本式のトイレでは、レイプ等の犯罪が起きるので、態と開放式にしているとか。このこと一つを採っても、野蛮なお国柄だと言わざるを得ない。


冬その二十三

年も押し詰まった今日この頃になって、予てより懸案となっていた、我が田圃の上空に、覆い被さっている真竹を、数十本伐採した。山主はサラリーマンなので、竹垂れが日差しを遮り、米の収穫が減る事等、全く実感していない。石貫の様な中山間地では、竹山が四方から田畑に迫っているので、結局の処、耕作者が汗水垂らして竹を伐採する他に、現状では日照権を確保する、有効な手立てが無いのである。


冬その二十二

南極は極寒の地で、人間は兎も角としても、動物が生きるのも厳しい環境である。それに加えて初期の南極観測船「宗谷」は、捕鯨船の改良型で、砕氷能力も弱く、一時は氷に阻まれて動けなくなり、ロシア(当時のソ連)の砕氷船オビ号に助けを求めざるを得ない、とても一流の海洋国家とは言えない、情けない有様だった。痛ましい悲劇も起きた。そりを引く樺太犬の餌が乏しくなったので、南極に止む無く犬を残して、帰国したのであった。当然解き放たれた犬は、自ら餌を求めねばならない。そして翌年再び南極に行けば、何と奇跡的に樺太犬の「タロー・ジロー」が、生き残っていたのであった。今は北海道の稚内近辺に、犬の銅像が立っていると思う。


冬その二十一

冬になると思い出すのが、南極探検!嘗てノルウエーのアムンゼンと、イギリスのスコットが、南極点一番乗りを目指して、激しいデッドヒートを繰り広げた。今では雪上車やヘリコプターがあり、一般人でも行けるようになったが、当時は命懸けの大冒険だった。私は冒険物語が大好きで、心躍らせた少年時代だった。それにしても、両者の明暗を分けたのは、人間ではなく、そりを引っ張る役目の、犬と馬の相違だったのは、皮肉としか言いようがない。何となれば、犬は肉食でアザラシ等の生肉をも食べるが、馬は草食の為に餌が枯渇したら、生き残れなかったからである。


冬その十六

米作りの私にとっては、冬が唯一のバカンスだと思う。だから私は秋頃から、せっせと冬に備えて、薪を集めて来た。その原料は種々雑多なるも、屋敷周りの雑木が大半である。処が今年は例年と様相が異なる。何故なれば、例年お願いしている庭師が、都合で来れなくなったのである。さあ大変、私が"臨時庭師"を務めざるを得なくなった。それも一ヶ所なら未だしも、アパート周りや、カフェの周り、駐車場etc、見渡せば限がない。嘆いても仕方ないので、コツコツと一人で、数日掛けて垣根の剪定をした。勿論、庭師の腕には程遠いけれども、見苦しくない程度には仕上がったと思う。


冬その十五

スケートリンク作りに拘らず、どんな業種にも、目に見えない技術・ノウハウと言うものが、ぎっしりと詰まっている。それを安易にコピペしようと考える輩も、相変わらず多いけれどもが、決して長続きするものではない。その代表格が中国だろう。彼等がそれを止めないのは、所謂「恥の概念」が皆無だからである。私は嘗て技術者だったが、その仕事の多くを、特許・実用新案の出願に費やしていた。これは恐ろしく根気の要る地味な仕事だが、その重要性は他に比べるべくも無い。

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冬その十四

私は現役時代、三菱電機で空気調和(=冷暖房・除加湿)の業務を、専門としていたが、他部門では所謂“低温”と称する、スケートリンク作りの様な、氷点下の業務も、受注していた。これには水ではなく「ブライン」と称する“液体冷媒”を使用する。何故なれば、ブラインは零度以下の環境でも、凍らないからである。これは陸上競技の、グラウンド作りと、とても似通っていて、スケートリンク作りには、絶対に欠かせない、特殊技術である。今や多くの電機メーカは逆風下に在るが、三菱電機は、斯様な「特殊技術」を持っているからこそ、今も尚「健全経営」が可能なのである。


冬その十一

今年の大相撲も千秋楽を迎えたが、兎に角色んな話題に事欠かない場所だった。その中でも私が注目したのは、立ち合いである。最近は平気で行司の軍配さばきにクレームを付ける力士も有るが、嘗てはそうではなかった。その代表格が、69連勝で有名な双葉山である。白鳳も連勝記録は素晴らしいけれども、双葉山は、相手が意識的に突っかけても、決して待ったをしない力士だったことが、何はともあれ素晴らしい。その双葉山が、九州巡業に来た昭和20年代、伊倉に立ち寄って、当時は子供だった、我が母方の従兄と(勿論ガチンコではなく)相撲を取ったことがあると聞く。


冬その十

今年も愈々、残り少なくなった。そんな時に書斎で、偶然私の目に留まったのが「08.3.5付南日本新聞」「西郷隆盛・無私と胆力の人」である。執筆者は熊本県宇城市の元農水官僚、上木嘉郎氏。氏は幾度か、我が田圃カフェにも来られて、造詣の深い近代史を分かり易く解説され、私もついつい、その面白さに、のめり込んだのであった。


冬その六

紆余曲折を辿った大相撲も、今日で千秋楽となった。私は今場所の相撲を見乍ら、遥か昔の頃の事を思い出した。それはエアコンの騒音クレームだった。エアコンに限らず、機械は何等かの音を出す。それが耐えられるか否かは、個人に拠っても異なる。私の場合は、多数のエアコンを天井裏に設置するタイプだったので、対策が難しく、苦慮した。こんな時には藁をも縋りたくなるものだが、品質管理責任者は冷酷な人で「アンタが設計したのだから、自分で始末しろ」見たいな態度に終始された。私は仕方なく、部下と二人で天井裏に潜りながら、出来るだけの対策を実施したが、顧客が満足するレベルまでには遂に至らなかった。私は責任を感じて「辞職願」を提出した。それは長期間上司の基に留め置かれた後、所謂「超法規措置」とやらで、全く業態が異なる、同社熊本工場に、配置転換されたのだった。

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性格その十

プラスチックが一般化したのは、昭和の時代で、高々半世紀程前である。それ以前は、所謂「エコ社会」の時代で、田圃の漏水防止には、畔塗りをして対応していた。勿論重労働なので、所謂黒マルチと称する、ビニールを田圃の周囲に敷き詰める行為が、あっと言う間に全国的に普及したのだった。然しこれは一過性の効果しかなく、破損したマルチを田圃の脇で焼却すると、真黒な煙が立ち上り、消防車が山火事と見間違うほどである。


性格その九

兎に角、プラスチックの廃棄対策は、何とかせねばならない。その端緒は学校教育から始めるべきである。所謂昭和世代は仕方ないとしても、平成世代は地域・学校・行政が連携して、活動することが肝要である。その活動の端緒は、所謂農業資材の波トタンである。毎年膨大な量の資材を使い、破損したら廃棄では、地球はプラスチックで埋め尽くされる。


性格その八

ゴミ問題は根深い!何故なれば、所謂昭和世代は、薪を燃料としていたが、急速に石炭石油にとって代わったので、戸惑いが有るからだ。処がこれ等のゴミに関する諸問題については、家庭と学校が連携すべきだったが、野放しの儘にされたので、未だに農業廃材のプラスチックに火を付けて、焼却する人が後を絶たないのである。


性格その六

他方、別の問題も惹起しつつある。所謂『空き家対策』である。これは田畑の「耕作放棄対策」と、似通っているが、解決は更に困難である。何故なれば、耕作放棄地は、借地出来れば、整備して田畑として使える。処が、空き家はそう簡単ではない。殆どの家に、堆く家財道具が置かれていて、勝手に処理出来ないからである。


性格その四

東京と石貫を比べたら、全てにおいて、東京が勝っていると思うかも知れない。然し乍ら一千万人の大都会よりも、数百人の田舎が、優れている点もある。それはコミュニケーションである。大都会は人数は多けれども、99.9%は「見ず知らず」の人達!他方田舎は、百人前後ならば、殆どの人々が「顔見知り」だからである。


性格その三

子供達が全員巣立ち、夫婦のみで家に居ても、新しい会話は始まらない。さりとて昼間から、TVを見る気にもなれない。そうなれば外出しかなくなる。振り返って考えると、田舎は都会とは正反対に、外出には持って来いの環境に在る。そんな秋たけなわのシーズン、バイクツーリングは最高で、心も体も癒される。


性格その二

人の性格は、幼児期から形作られる。私を例に採れば、昭和の20~30年代、私は病弱で自家中毒症を患い、食べても戻しの状態で、胸囲はクラス最低、骨と皮の体型だった。従って裸になるのが恥ずかしかった。その上、ヘチマと言う仇名まで貰って、コンプレクスの塊みたいな、毎日を送っていた。それを克服出来たのは、退職して農業を始めてからである。今では「皺くちゃ爺」かも知れないが、健康で、雨の日以外は、農作業をしているので、体力的には全く、他人に引けを取らなくなった。


性格その一

人間否・生き物全ては、何某かの性格を有している。例えば「大雑把」と将又「几帳面」とか、それこそ「千差万別」と云えるだろう。卑近な例を取れば、家内の実家に庭掃除に行き、帰途竹箒を、軽トラに乗せた儘、自宅に持ち帰った場合、私なら「何時か取りに行くからで庭の隅にでも置いといて!」位なのに「箒を返して!」のコールあり、態々往復20kmの道を、走らねばならない。このケースでは、箒を買った方が、ガソリン代より、安上がりだろう。


鶏小屋その五

我家の裏には、もう一つの鶏小屋がある。数十年前に飼っていたその鶏小屋は、元々は犬小屋で、頑丈で確りしているので、解体するには惜しく、何とか再利用出来ないか、検討している。勿論私一人では無理なので、助っ人を募らねば、小屋の移動は、重量的にも難しいかも知れない。それにしても、雀さえいなければ、ラフな小屋で良いのに、困ったものである。


鶏小屋その四

私は今年、数年振りに、鶏小屋を半分解体した。理由は老朽化と、雀の侵入対策である。勿論小屋の周りには、金網を張っているけれども、雀はその金網をかいくぐって侵入し、鶏の餌を横取りするからである。雀等小さな鳥と思ったら大間違い。米が実る秋の季節、山からは猪、上空からは雀が来襲するので、気が休まる暇が無い。


陰謀その十

私が若かりし頃は、日本も高度成長の時代で、良くも悪くも活気に満ち溢れていた。従って事件事故も多発して、多くの人が亡くなった。中でも最も悲劇的だったのは、日航ジャンボ機の墜落事故だろう。原因は補修ミスだったと記憶しているが、他の見方もあったと記憶している。松山空港沖での、全日空機の墜落事故もあった。


陰謀その九

物事には必ずと言って良い程に、例外と言うものがある。我が一年後輩の男は、入社時の挨拶で「自分には"許婚者"が居るので、女性は自分には近付かないで欲しい」と、堂々と宣言したのには、腰を抜かす位に驚いた。男というものは、こんなことは例え事実であったとしても、決して口には出さないものである。処が後年、その後輩が、三菱電機和歌山の、所長になったと聞き、私は二度目の腰を抜かした。


陰謀その八

「陰謀」と言えば、聊か聞こえが悪いけれども、この世に「口外出来ない事柄」は、掃いて捨てる程にある。何せ、我が青年時代には職場に問題が発生する度に、私は所謂「秘密室」に呼ばれ、総務課長と、ひそひそ話をしていた。その内容は多種多様だったが、今も鮮明なのは「左翼思想」の取り締まりであった。何せ当時は、学生運動の全盛期だったので、総務はピリピリしていて、ちょっとでも予兆が有れば、徹底的に調べられていた。


陰謀その七

口八丁手八丁の人は、恐らく自らのエネルギーを使わずして、己の目的を達成しようと考える人らしく、周りを見渡せば意外と多い様にも思える。然し乍ら、サラリーマンなら兎も角としても、農業のような職種には、こんな人は100%通用しない。嘗ての、とんでもなかった上司も、私の様な部下が、それ以降、見付からなかった様で、奥方から「主人が他界しました」との報告が齎された。是こそが「浮き草稼業」と云うのだろう。


陰謀その六

そもそも我が上司は、口八丁手八丁で、管理職に上り詰めた人らしく、職務の中身に付いては、左程の知識を持っていたとは思えなかった。然し乍ら、私の様な田舎者を、自由自在に操るテクニックは超一流で、悲しき哉、私が格好のターゲットにされて、良いように振り回されていたのだった。


陰謀その五

私が許せなかったのは、延々たる演説ではなく、その中身である。田舎出身の私を、引き合いに出しては、「何々を達成したら、参事に昇格させて遣る」と言う、それこそ「口から出まかせ」の言葉であった。そもそも上司が、昇格云々の権限を持っていたとは、私には思えなかった。


陰謀その三

日本の警察力は凄い!何せ静岡で私がサラリーマンだった頃、私は連日、刑事から「尾行」されていたのだった。勿論私は、そのことを知る由もなかった。一体どの様にして、私が「浅間山荘事件」の関係者の「知り合い」であることを調べたのか、皆目分からない。


陰謀その一

人は、簡単に説明出来る「自然発生的なもの」が手近にある時「陰謀」だと見る傾向があるという意見を、紹介している。そもそも「陰謀論」とは「陰謀を探そうとする、我々自身の傾向」が作り上げるもの、ということらしい。


ゴミその十

近年は、ゴミ処理のルールが一段と厳しくなり、違反ゴミは、業者が受け取らなくなった。その為に、近くの山中等に、不法投棄をする人が居て、問題となっている。嘗て我が知人女性などは、何と橋の上から、川面に堂々とゴミを投げ捨てていた。これ等は家庭・学校教育の、初歩的課題であり、更なる改善が求められる。


ゴミその九

ゴミ処理で思い出すのは、嘗て玉東町の焼却炉に、誤ってプロパンガスボンベを投入したので、内部で爆発して、プラントが壊れ、数か月間、操業停止になったことである。原因は、ちゃんと分別して投入しなかった、極めて初歩的な、人的ミスに他ならない。


ゴミその八

ゴミで思い出すのは熊本地震!兎に角、大量の産業廃棄物が発生したので、玉東町に在る、焼却炉だけでは、処理しきれなくなった。私は知人女性宅で発生した廃棄物を、無理言って、数度軽トラに満載して運んだ。そうしなければ、破損した瀬戸物や、濡れたりした寝具等は、置き場所に困る処か、不衛生な上に、危険でもあるからだ。


ゴミその六

ゴミの概念はひと様々なるも、大きく分けて戦前は「バイオマス社会」戦後は「化石燃料社会」と云えるだろう。それ程に、戦前戦後の落差は大きい。中でも農業に与えたインパクトは、何よりも大きかった。例えれば、石器社会から鉄器社会に変わった程の落差だろう。


ゴミその五

所謂「ゴミ問題」言われる言葉の裏には、厄介者と言うニュアンスが含まれている。そしてその最右翼が、プラスチックである。然し今やプラスチック無しでの生活は、殆ど不可能となる程に、私達は様々な恩恵を受けて生活しているのである。一例を述べれば、年間を通じて「新鮮野菜」を食べられる事。これこそが石油の恩恵そのものである。


ゴミその四

ゴミに付いての認識程、世代間格差が大きい事項も珍しい。何故なれば、プラスチックを使い始めて以降、高々半世紀にも、ならないからである。恐らく包装紙や、各種の袋が、紙からプラスチックに代わっても、年配者は紙袋と同じ扱いを行い、腐らない事すら、正確に認識出来なかったと、思われる。


猪その一

猪は豚に似た体型と食性を持ち、多産系なので、近年は餌を求めて、田畑に侵入を図るようになった。その原因の一つが、所謂耕作放棄地の激増である。猪は極めて臆病な性質で、昼間は山中に潜み、夜間になると活動する。


盛夏その十一

今日は一念発起して、朝6時より、知人の田圃の草刈り。日が昇る前に終わらじと、頑張ったが、燃料切れで無念の中途終了!今頃の季節は、朝夕の涼しい時間に作業しないと、暑さで徒に体力を消耗する。明朝残りを頑張るしか無かろう。


盛夏その五

戦争体験は一人毎に異なる。母の嘆きは農地解放であった。戦前の我家は、今の4倍以上の農地を所有し、所謂石貫村の庄屋として、一定の権勢を振るっていたのであるが、米国が進駐して来て、日本の「意外なる抵抗力の源泉」が「庄屋階級」にあることを突き止めたのである。その結果、一町歩以上の土地は、何人も所有出来なくなった。従って、裕福な生活が出来なくなり、我家も一端の農家に、落ちぶれてしまったのである。


士農工商その一

我家は元々は農民階級なるも、私が物心付いた時分は、庄屋と呼ばれていた。それは所謂「年貢の徴収」を行う、今で言えば税務署みたいな仕事をしていた。勿論当時はパソコンも無い時代だったので、全ての収支を、手書きで管理していたのである。


キリスト教その五

私は理系の人間であり、元々宗教心は希薄なれど、地元石貫の歴史に付いては、大いなる関心を持っている。何故なれば、この地域は古墳の故郷と云える程に、大小様々な遺跡があり、未だ未発見、調査されていない史跡すらをも、存在している可能性が有るからだ。未来を俯瞰するには、先ず以て過去を学ばねばならない。


キリスト教その二

氏は将に無私の人であった。何故ならば、隠れキリシタンの、悲惨な現実を直視して、二度と不幸に見舞われないよう、幅広く社会に伝播すべく、老体に鞭打ち、活動されていたからである。こんな地道な活動は、余程の強い信念がなければ、とても行い得るものではない。私は氏の情熱にほだされて、微力乍ら協力をしたに過ぎない。


ベトナムその三

ベトナムと日本との共通点は、決して少なく無い。その地勢は、海岸線が南北に長く伸びている。今回の旅行は、タクシーとマイクロバスでの移動が多かったが、沿線には延々と農地(水田)が広がり、働く農民の姿を見て取れた。それにしても常夏のベトナムは、二毛作ならぬ二期作も十分可能であり、食料供給力についても世界有数と見て取れる。そして目下中国と争っているのが、新幹線プロジェクト!物真似大国なんかに負けず、是非とも入札に勝ち、私が生きている間に、ハノイホーチミン間の鉄道旅行を、楽しみにしています。


体育エピローグ

最初に戻るが、人間の体は只一つしか無く、掛け替えの無いものである。だから大切にせねばならない。それを如実に物語るのが、怪我である。この時期農作業中に、刺の一本でも刺さろうものなら、戦力は半減以下となる。要するに人間の体に、余計な物や無駄なものは、微塵すらをも、無いのである。


体育その八

私に悲劇が起きたのは、玉名高校でのサッカー競技中だった。あの日のことは一生忘れない。私がヘディングをした丁度その時、O君が私の顔面(顎)を蹴ったのであった。それがストレートに嵌ったので、私の下の前歯が二本折れて、口から血がドッと噴き出した。私は脳震盪を起こして医務室に担ぎ込まれた。それにしても、教師足る者、生徒が怪我をしない様に、的確な指導を行うのは、最低限の務めである。私は蹴った同級生よりも、教師が憎らしかった。生徒をこんな気持ちにさせるのは、教師としては完全に失格である。


体育その七

体育と言っても実に様々で、走力や、泳力、球技、武道、器械体操まで、実に幅広いジャンルがある。然し、これ等を大まかに括れば、体力や持久力、スタミナを必要とする競技と、運動神経を必要とする競技に、分類されるだろう。私に限れば、両者共に劣っていた。中でも最も苦手なのが、柔道と水泳だったと思う。柔道は技も重要だが、矢張り腕力が劣れば勝てない。玉名高校では、私とM君が最弱で、2人で最弱コンテストを遣らされ、引き分けに終わった。私はこれを切欠に、体育嫌いに成ったと言って良いだろう。何故なれば自分は「見世物・晒し者にされている」と感じたからである。こんな教師は、体育指導者としての、適格性を欠いていると言うしかない。


体育その五

体育の基本は、陸上競技即ち、走ることである。トラックを周回することが多かったが、記憶が鮮明なのは、何と言ってもマラソンである。特に玉名高校は、金栗四三氏の母校でもあることから、長距離走が盛んだった。その経路は、玉高の正門を出て、繁根木川沿いに北へ遡り、富尾地区から東へ折れ、菊池川の橋を渡って、南に折れ、川に沿って、玉名市内に戻るコースだった。私は町中を走る時には、良い処を見せようと、オーバーペースで走ったので、途中でスタミナが切れ、次々に追い抜かれて、ゴールの順番は、最後尾に近かったように思う。


体育その四

当時は道路もひどかった。勿論舗装道路は皆無で、凸凹を均す為に、定期的に砂利道をブルドーザーを走らせて均すだけの処置。泥濘にならない様に、かまぼこ型にしてあったので、自転車で走ると、ゴツゴツした感触で、乗り心地は最悪だった。私はこの悪路を、中学・高校の6年間、雨の日は傘をさし、危険な片手運転で通ったことで、体力が大いに付き、虚弱体質を克服することが出来た。


体育その三

小学生時代は、現在の様に子供自転車は無かったので、大人用の自転車に、三角乗りをしていたが、あんな無理な姿勢では、危険でもあるし、長距離はどう考えても、体力的に無理である。其処で懇意にしていた小畠の高浦氏から、運搬車を借りて、やっとまともな格好で乗れるようになった。何故なれば、運搬車は、所謂貨物自転車なので、後ろのタイヤが太く、車高が低かったからである。


体育その二

私は、子供の頃から病弱で、身体付きも弱々しく、胸囲はクラス最低、自家中毒を屡併発して、小学3年頃迄は、まともに学校に行っていない。従って体育の授業には、当然付いて行けず、徒競走等では中途脱落のビリであった。原因は定かではないが、兎にも角にも食が細かったので、胃腸が弱かったのだと思う。それを克服したのは皮肉にも、玉名中学に進学して、自転車通学を始めてからである。


体育プロローグ

スポーツ庁の昨年度の調査によると、運動やスポーツが「嫌い」か「やや嫌い」な中学生は16.4%。微増傾向にある。このままでは将来、運動しない大人が増えてしまうと、同庁は3月、5年かけて8%に半減させる目標を「スポーツ基本計画」の中で打ち出した。この計画が報じられると「強制しないでほしい」「余計嫌いになる」「嫌いで何が悪い」などの意見がネット上で飛び交ったとか。
スポーツが嫌いになるのは、体育の授業にも原因がありそうだ。フジテレビのトーク番組、「久保みねヒャダこじらせナイト」には、視聴者からの投稿による人気コーナー「体育への恨みつらみ川柳」がある。出演者の漫画家の久保ミツロウさん、音楽家のヒャダインさん、文筆家の能町みね子さんが全員体育嫌いだったことで意気投合し、生まれたコーナーだ。記者が取材を申し込んだところ、番組内での「公開取材」を求められ、3人の言い分を聞くシーンが5月上旬に放送された。
ヒャダインさんは「体育が嫌なのは恥をかかされるから。周りに迷惑をかけている申し訳なさ、馬鹿にされているんだろうなという自虐。ネガティブな感情ばかりが渦巻くんです」。能町さんは「体を動かすこと自体が嫌いなわけじゃない。うまい人とやるから嫌いになる。レベル別に完全に分けてくれればいいのに」と提案する。市民ランナー向けの雑誌「ランナーズ」を発行する「アールビーズ」の広報・小川久美子さんも、学生時代は吹奏楽やオーケストラに熱中し、体育の成績は「2」の文化系の少女だった。しかし10年ほど前、「自分の時間が欲しい」とたまたま始めたのがランニング。100キロのウルトラマラソンにまで挑戦するようになった。すっかりスポーツが好きになり、「子どもの頃の自分が知ったらびっくりするでしょうね」。


米作その二

今日は久方振りに、大浜の娘宅を訪問する。当地区は有明海に近く、今頃の季節は、所謂海風が吹き付けて、とても心地良い。その理由は、有明海の水温が、周囲の陸地よりも低いので、下降気流となるからである。他方、石貫は盆地に属し、夏の暑さは海辺よりも高くなる。従って寒暖の差が大きく、米の味が良くなるのである。


発言その十

我家は、何故か独身者は居らず、子供達も全員が巣立って、家庭を持つようになった。それが普通と言える時代もあっただろうけれども、今の時代は男女共に、独身者の割合が徐々に増加しつつある。それは、生活習慣が大きく変わり、結婚をしなくとも、日常生活には困らない、とても便利な時代が到来したからでもある。私は昨年末から今年の初めに掛けて、それこそ半世紀ぶりに、3週間程の期間、暫く一人暮らしを体験したが、何とまあ弁当配達までして貰ったお陰で、殆ど不自由は無く、快適な毎日を過ごすことが出来た。


発言その九

処が今や、結婚年齢等は、話題から外れたと言って良いだろう。何故なれば、独身者が多数となり、結婚しなくても、困らない時代に突入している。それは生活環境の大変化に起因している。即ち、単身者であろうとも、外食は何処でも得られるし、賄いも手軽に出来る時代になった。生らば、面倒臭い夫婦生活よりも、自由度が高い、独身生活を過ごすのが、良いと考える人が、多数になったからとも言えよう。


発言その八

家庭・家族の変遷も、社会変革を齎す。それは都会よりも農村部でより顕著である。即ち「一人暮らし=単身者」の増加である。ひと昔以前は早婚が多かった。それは女性側に、より強く現れ、何故か適齢期を逸することを、極度に恐れていた。所謂「塔が立つ」と云う言葉が、それを如実に物語っている。何故ならば、我が家内にしても「24歳」になる前に、何が何でも結納をしたいと、強く乞い願っていたからである。


発言その五

言葉は「魔物」である。かと言って黙り込んでいても、コミュニケーションは図れない。今や退職した身の私なれば、言葉の中身とて、以前に比べ格段に軽くなったが、私は前半生に於いて、数々の失敗(失言)を犯し、忸怩とした心情は今も尚、我が心中に淀んでいる。そして今将に自らを振り返れば、一人っ子と云う大きなハンデを、背負っていたのである。


発言その四

企業を退職して長くなると、世間の事情にも疎くなる。尤もマスコミ等の情報には接しても、現場のことは、現場に行かねば分からない。そんな今日この頃、昨年に続いて、今年も石貫小学校の米作りをせねばと、草刈り等の作業をしていた処、何と担任教諭は、転出されたと聞いて、私はビックリ仰天!その上、今年の米作りは、別人に依頼されたと聞いて、二度びっくり!事前に私が「米作りは今年もしますか?」と打診すべきだったと思えるが、完全に振られた気分!まあ後継者は「口八丁手八丁」なので、楽しく遣って呉れることだろう。


発言その三

嘗ての我が上司は、今考えても、まともな人ではなかった。何故なれば、部下を鼓舞して働かせるのは良いとしても「何々を成し遂げたら参事にして遣る」と、空手形を乱発していたからだ。勿論彼氏の一存で、昇進出来るものでも無いこと位は、幾ら鈍い私でも分かっていた。私はそんな彼氏を恨んだ時期もあったが、或る時に、彼氏の奥方から「主人=上司」が、他界されたとの報を受け取った時、私は全てを忘れて、水に流した。


発言その二

企業での会議は、日常茶飯事の如く、頻繁に実施されるので、事前に準備して臨む程の猶予はなく、所謂ぶっつけ本番、勿論原稿なしである。従って頭の回転が速く「口達者」な人が主導権を握りがちになり、私の様な、どちらかと云えば「口下手」な人間は、劣勢に立たされることが多かった。今も記憶に残るのは、所謂「東大出」である。例えば会議が長引き、結論が纏まらない場面になった時、彼等は「周囲を唸らせる名文句」を吐いて、議論をリードした。私は、その度に「ウ―ン」と唸るしかなく、後になり歯ぎしりしたのを思い出す。これこそが「熊大と東大の違い」なのかも知れない。


発言その一

今村復興大臣が「東日本大震災は、東北で良かった」等と発言して辞任となった。政治家足る者、自らの発言には、慎重であらねばならないのは、当然のことである。然しそんな私も嘗て、現役社員だった頃、会議の席での発言を、毎回のように咎められ、厳しい口調で𠮟責を受けた。恐らく大臣も「悪意」ではなく「軽い気持」で発言されたのではと、推察される。然し乍ら、言葉と云うものは、一旦発言したら、取り消しは非常に難しい。


新学期その一

今年も愈々新学期!花や草木が萌え出る季節が到来したのに、何か物足りない。それは学校である。何故なれば、永い伝統を有する石貫小学校は、今年限りで廃校となることが決まり、来年からは玉陵中横に、小中一貫校として併設されることになり、既に校舎建設工事が始まったからである。私は半世紀以上前の、石貫小6年の3学期に、寄留と云う違法行為で、玉名町小に潜り込み、玉名中学に進学した途端、素知らぬ顔で石貫に戻ったのである。
それにしても数奇なことは、私が本来進学すべきであった「玉陵中学校」のPTA会長を、後年引き受けることになり、挨拶の中で、後輩の面々に「申し訳無なかった」との「お詫びの言葉」を口にしたことである。自分としては、このことで、それ以前の悪事は許されたものだと認識しているが、当時の教育委員会との駆け引き等々、公には口に出来なかった、全く以て身勝手且つ、罪作りな事情が、今となっては懐かしく思い出される。


鶏その五

勿論の事、鶏は人間が野鳥を飼いならして、家畜にしたものなので、今尚原始の特徴を、色濃く残している。その最たるものが「共食い」と言われる現象である。これは所謂生存競争の原始系とでも云えるような、殺戮戦である。例えば10羽の鶏を飼えば、自然と10段階の序列が出来る。そうなれば、最強の鶏は他の全ての鶏を突くことが出来、最弱の鶏は、他の全ての鶏から突かれる。だから餌もまともに食べられず、卵を産む処か、朝から夕刻まで虐められ、次第に衰弱して死に至るのである。とても残酷な社会としか言えない。然し今の養鶏の大半は、独房式・24時間照明・ベルトコンベア式給餌であり、鶏体を酷使する点では、違った意味での「究極の養鶏」としか言えない。


東芝破産その三

今の栄屋は何でもありの店なるも、当時は所謂酒屋だった。従って店の奥には、腰掛けられる高さの畳の間が有って、アルコールは量り売り、所謂コップ一杯ずつ買うのが一般的だった。処がどっこい、我が父が店に出入りするようになった頃から、どんどん子分が増えて、父は皆から「長官」と言われるようになった。従って店へのツケがドンドン膨らみ、返済出来ない程の金額に達するには、そんなに長く掛からなかったように思える。そうなれば、店側はツケが膨らむのを危惧して、売り惜しむのが当然である。処が栄屋の当主は全く別の事を考えていた。即ちツケを帳消しにする代わりに、我家の土地を売って欲しいとの要求だったのである。


東芝破産その二

破産と言えば債務超過を意味し、多くの場合、債権者が資産売却等を実施して、清算するのが慣わしとなっている。過去を振り返れば、我家も嘗ては、東芝同様の破産状態に追い込まれていた。その原因は、父の過激なイデオロギーに他ならない。自らは「働かざる者食うべからず」等と、一端の講釈を垂れつつも、現実には酒に溺れて、売り食いの生活をしていたものだから、毎晩の様に夫婦喧嘩が絶えなかった。他方、当時最大の債権者は、高岡酒店(現在の栄屋)であった。当店の裏には広い畳の間が有り、近隣の酒豪が集って、談論風発、連日大賑わいだった。当時小学生の私は、母に促され、幾度も父を連れ帰るよう、頼まれた。処が私が迎えに行けば、大好きだったスイーツ等で、他愛もなく篭絡されて、ミイラ取りがミイラになる始末!


自転車その十

自転車のカテゴリーから外れるかも知れないが、一輪車も又自転車の範疇に属する(手押しの一輪車ではない)。私は自転車には乗れるが、一輪車には乗れない。我家で一輪車に乗れるのは、息子と、孫娘の二人!恐らく二人共運動神経が良いのだろう。サーカスで、ピエロが一輪車で綱渡りをしているのを見ると、同じ人間だとは、とても思えない私である。


自転車その九

自転車の変速方式は、外装と内装の二種類。前者は後輪に、5段階の歯車が並び、チェンジレバーで何れかの歯車に嚙合わせる遣り方。後者は後輪軸の中に、複雑な減速機構が内蔵され、ハンドルの回転で、切り替えが出来るタイプである。私は両方の自転車を持っているが、前者は玄人好み、後者は素人好みと云えるだろう。何故なれば、内装方式が切り替えが容易だからである。然し細かい部品で出来ているので、無理して使うと、破損する恐れがある。


自転車その七

自転車の故障個所の大半が、タイヤである。タイヤの内側にはチューブがあるが、釘や画鋲を踏むと、その個所から空気が抜けて、次第に乗り心地が悪くなる。そこで私の出番!中のチューブを引き出して、空気を入れて、洗面器の水に浸けると、小さな泡が出て来る。そこで穴の有る個所を軽石等でこすり、表面をザラザラにして、Eパッチと称する補修ゴムをゴム糊で貼り付ける。将に自転車店の仕事なるも、態々店に行く必要もなく、安価な部品代のみで、ばっちり蘇る。


自転車その五

玉名高校に進学すると、体力にも自信が付き、雨の日の片道4kmの通学も、苦にならなくなった。それは伯母が買って呉れた、山口自転車のお陰である。我が母は末っ子だったので、金銭に困れば姉に相談していた。この自転車はとても確りしていて、結局高校3年プラス大学4年。更に就職するまで乗った。友人の山下君に倣い、内装3段変速ギアまでも装備したのも、確りした自転車だったということである。


メンテナンスその十

農業をするには、様々な機械器具が不可欠である。それにしても私が幼き頃の農業と、現在の農業は、天と地の開きが有るほどの変貌を遂げた。それを一口で言えば「機械化」で、所謂牛馬から、動力機械への転換である。お陰で労働は随分楽になったが、設備投資が、重く圧し掛かって来た。其処で私が模索したのが、集団農業!所謂コルホーズである。尤もそれを可能にするには、幾つかの条件が有る。その一:借地を出来るだけ一か所に集約する。その二:農地への交通アクセスを良くする。その三:近隣住民とのトラブルを起こさない。中でも最重要なのが三項。嘗てトラブルを起した場所は、全て放棄したことで分かる。


メンテナンスその九

メンテナンスと聞けば、ハードウエアを想像するかも知れないが、実はソフトウエアこそ、メンテナンスが重要である。私はPCに詳しくないので、現役時代は、部下や情報処理担当の社員に、不具合処理をお願いしていた。処が退職してお願いしようとしても、部下はいない。そうなれば詳しい人を探すか、業者に助けて貰うしかない。現在最も困っているのは、画像を上手く投稿出来ないこと。機械屋の私にとって、Webの構造は分からに事ばかりで、何から何まで、その道の専門家に頼るしかない。こんなことなら、現役時分、ソフトウエアについて、もっと勉強しておくべきであった。


メンテナンスその三

メンテナンスは、英語でmaintenaceと書き、維持・持続・保守・管理・整備と、訳されている。私は、空調・冷熱部門から、半導体部門に異動したので、この意味が上手く理解出来なかった。要するに全ての事象は、劣化・混濁・分散に向かうのだから、それに逆らって維持する作業こそが、メンテナンスと呼べるのだろう。


軽トラその六

前輪のタイヤを、運転席下に置くには、エンジンが邪魔する、それを解決したのがスバルである。独自の水平対向エンジンを開発して、荷台後部の下に配置した。その結果四輪に掛る車重が平均化して、素晴らしい乗り心地と、走行安定性を生み出した。他社も真似をしたが、エンジンが邪魔して、座席下に配置するしかなかった。然し悲しき哉、スバルは軽トラから撤退して、名車サンバーは生産中止となった。私はこのサンバーを、今後も動く限りは、大切に使いたいと思っている。


川その八

熊本の大河菊池川は、その源を阿蘇にほど近い有名な菊池渓谷に発し、多くの支流を集めて、玉名市大浜と滑石に挟まれた有明海に注いでいる。私は嘗て毎年のように、夏になると家族や知人を伴い、菊池水源に出かけた。此処は一度行けば忘れられない、真夏の避暑地そのものである。更にその景色も素晴らしい。この清冽な水が、熊本北部の広大な農地を潤しているからこそ、熊本米は美味しいのである。一方我が孫子が住む大浜地区は、菊池川の最下流に位置し、水量は無限大なるも、水温が高く、富栄養価している為に、コメの味は良くなく、多くの水田には、野菜等の転作作物や、ハウス果物等が作られている。


川その七

玉名市中心部を流れる菊池川は、緑川・白川・球磨川と並ぶ、県内有数の河川。昔は物流の大動脈だったが、今では広大な河川敷が、スポーツや各種イベントの会場として使われている。そのハイライトが8月の花火大会である。県内外から大勢の人々が集まり、色鮮やかな閃光と、耳をつんざく轟音、そして対岸に走る、見事な仕掛け花火とスターマイン!夏の暑さを忘れさせる、玉名の名物行事となっている。


瀬戸物

私は石貫小6年生の3学期から、母方の伯母宅に寄留して、玉名町小学校6年に転校した。当時は戦後復興が漸く軌道に乗りつつあった時期で、何処の家庭も貧しく、特に蛋白質の不足が深刻だった。我家は山羊を飼っていたが、その乳はお産後、暫くしか出ず、手搾りは子供の手には負えない。その当時、米国から緊急援助物資として来たのが、粉ミルクである。バケツに入れた粉ミルクを水で溶かして、アルミカップに注ぐ。私は美味しいと感じて、喜んで呑んだが、町の子供は口が奢っていて、不味かったらしく、何人かが、私のカップに其の侭注いで呉れた。その代表がSさんである。以来、彼女と私は「脱脂粉乳の仲」となり、彼是60年来の親友である。注、脱脂粉乳は、牛乳からバターやチーズを取り除いた、所謂米国版「豆腐の粕」とも言える。
処が今回の熊本地震で、その瀬戸物屋のSさん宅が、被災したとのことにて、おっとり刀で参上。あれあれ、店内は陳列ケースから落下した瀬戸物類が散乱して、足の踏み場もない、ひどい状況。取るものも取敢えず、通路を確保するだけでもと、手伝った。然し軽トラ山積みのがれきを、処分するには罹災証明書が必要らしい。


昨日も今日も雨!梅雨入りにはやや早過ぎるように思えども、これから暫くは雨傘が欠かせない毎日となりそうだ。それにしても雨に纏わる歌は数知れず。雨宿り・雨に濡れた慕情・雨が止んだら・雨の朝貴女は帰る・ETC.他方、晴れや曇りにちなんだ歌は殆ど聞いたことがない。それほどに雨は人の心を打ち、ロマンチックな気持ちに誘うのかも知れない。それにしても時が経つのは早いもので、6月から7月に掛けては、田植のシーズンとなる。昭和の時代、田植えは稲刈りと共に、ビッグイベントであった。今のように機械化が出来ておらず、代掻きは牛の動力。田植は人海戦術で成されたからだ。子供も駆り出され、私も必死に大人に負けじと頑張った。あれから半世紀以上が過ぎた近年、田植・稲刈等の作業は、殆ど機械化されたばかりか、専業農家への業務委託が一般化して、田主は殆ど何もしなくなった。私は未だに老体を酷使して、何とか自力で遣っているが、後数年で限界が来るだろう。そうなれば、昔乍らの田植の風景も一変し、詰らなく成りそうである。終わり


羽生善治

今夜のTVは、将棋の名人、羽生善治氏を招いての、囲碁・将棋・チェス等にまつわる対談。最近は人工知能の進歩が著しく、名人でも負かされる程になっているとか!私はこれらのゲームに強くないが、対談自体にはとても興味を持った。何故なれば、全く違う分野の農業に、大変似た面があることに気付いたからだ。と言うのも、今日は午後から、H君と二人で古城原の耕作放棄田、4枚をトラクタで耕した。昭和の後期から田畑の耕地整備事業がなされた結果、今や殆どの水田が、取り付け道路を有しているが、この地は事業に加わらなかったので、道路に接しておらず、他人様の水田を横切らねば、目的地に行けない。従って地主の了解を得て、通行しているのが実情である。加えるに田の形状も広さも様々で、一部は湿地帯となっている。こんな場所を耕運する場合は、田の配置を念頭に置き、どの場所から耕運作業を開始し、くまなく耕した後に、他人様の田圃を痛めることなく、入口に戻ることが求められる。更には、トラクタ掛けは、掛ければ掛ける程、凸凹がひどくなる。何故なれば、ローターが回転すると、土を後方に押しやるからである。これを避けるには、同じ場所を複数回耕すのではなく、所謂「一筆書き」で耕すのが、最も優れた遣り方である。


フェイスブック

私がフェイスブックに投稿を始めたのは、何時頃のことだろう?嘗ては、自己主張をするには、新聞・雑誌に投稿するとか、街頭で演説するとか、或いは、直接選挙に出馬する位しか、具体的な方法が無かった。処がSNSが全盛期を迎えた現在、多くの人々が、電話やEメールの他に、フェイスブック、ツイッター、LINE、ブログ等々に、自分の思いの侭を、投稿するようになった。それには、携帯電話の進歩が大きく寄与している。昔の携帯電話は、文字通りハンディフォーンだったが、今や所謂スマートフォンが全盛期を迎えて、一千万人以上の人々が、音声のみに依る情報伝達から、画像組み込みの情報交換に乗り換えたのである。その一大転機になったのが、4年半前の東日本大震災だった。私は当初、ツイッターを見て、情報入手をしていた。処が凄まじいまでの、情報洪水に辟易して、フェイスブックに乗り換え、今に至っている。
それにしてもフェイスブックに嵌ると、抜けられなくなる。何故なら投稿後、数分を待たずして、複数の反応が返って来るからである。将にテレビ電話とさして変わらない迅速さ。嘗ては所謂「文字情報」のみを発信していたが、今では文字プラス画像(但しカラーの静止画)を発信中である。家内はEメールとIパッドに夢中だが、私は携帯電話とPCを使って、写真と短文を投稿している。然しこれには問題もある。夜更かしで寝不足になることだ。朝寝が出来なくなった現在、夜更かしは老体には良くない。それでも止められない楽しさがある。
然し、私の投稿に対して、様々な異論も頂いた。例えば「文章だけの投稿では、内容が掴めない」「写真を投稿するには本人の了解が必要」「昔話が多過ぎる」「一日一投稿に制限しろ!」一々尤もな意見だとは思えども、当然「見ない自由」「開かない自由」もある筈なのだろうから、其処までも、批判を受けるのは、少々理不尽ではないだろうか?
私は思う。今の情報社会は、国民を結びつけるのか、分断するのか、何れだろう?私は両方では無かろうかと思う。所謂古典的な「言語や会話・表情に依る情報交換」が一つ、他はSNSによる、画像プラス音声に依る、情報交換である。それにしても情報機器の技術進歩は、止まらない処か、益々加速しているように見える。恐らく、遠からずして、人体と情報機器が一体化した、サイボーグならぬ、サイバー人間が現れるかも知れない。然し恐らくその時代に至るまで、私は生きられないだろう。終わり


韓国

昨年、韓国に来た中国人観光客が初めて600万人を超え、史上最高だったとか。これは現代自動車の70万台の輸出に匹敵する規模で「中国人のお陰で暮らせる」という話も分かる。然し韓国の顧客満足度は、先進16カ国中14位で、再訪問率も25.7%と低いとか?何故なれば、客が今旅に求めるキーワードは「深度遊」即ち「ヒーリング」で、中国人が行きたい国は、何と日本(39.6%)がダントツの一位、続いて米国(31.4%)ニュージーランド(26.8%)、オーストラリア(25.6%)の順だとか?円安の恩恵もあろうが、何となく分かるような気がする。その日本は今ビザ要件の緩和や免税店追加など、外国人観光客誘致に総力を挙げ、寿司や旅館等の所謂“日本文化”で勝負している。それはTVで有名な中国人の爆買いの裏で、顧客志向が次第に変わりつつあることを、見抜いているからだ。一方韓国は、企業の誘致競争が激しく、中国旅行社に過度なコミッションを与えた為に、ショッピングや特定観光を強要しなければ、収益を出すのが難しいとか。ソウルや釜山は、観光客相手に低価格品を売る店が多く、所謂「ダンピング観光」は、客が離れる元となる。「無料の場所だけに連れていく」「客を見くびり、モーテルや運転手向けの、簡易食堂に連れて行く」等々の愚痴がネット上にあふれているとか?客が真に望むのは「多様で充実した韓国体験」なのである。快適で合理的な価格の宿泊施設、1人でも気軽に利用可能な、公共交通の案内施設等は基本である。そのことを裏付けるように、今年2月の中国の春節期間に、日本を訪れた観光客は約45万人と、韓国を訪れた客(約12万人)の4倍近くにも達したとか!
私は十余年前に早期退職後、最初に選んだのが韓国旅行だった。家内と博多からフェリーで釜山に上陸し、予め旅行社に手配して貰った女性ガイドに案内して貰い、市内を観光した。ガイドは日本語に堪能で、有名な“垢すり”の店にも連れて行かれたが、お世辞にも清潔とは言い難かった。そしてショッピング。これも予め通じた店があると見え、半ば無理やり“欲しくも無い商品”を買わせる手口が透けて見えた。
その韓国では、例のセオウル号の沈没に続いて、地下鉄脱線、道路陥没etc.日本ではとても考えられないような重大事故が頻発している。これは一にも二にも、嘗ての日本同様に、経済発展を優先させ過ぎた所為である。私の現役時代、韓国人技術者が我社にも来た。当時は半導体産業の興隆期で、雨後の筍の様に新規参入が起きて、人々は成長が永遠に続くような錯覚に陥っていた。特に韓国のサムスン電子は、日本を追い抜き世界一になった。然しどうだろう。当時我家に来た韓国人Wwooferは、農作業は全くの“形だけ”で、知人と示し合せて、何処かにお出掛けの毎日!処が夕食時になると、ちゃっかり戻って来たのであった。そんな今朝のNHKTV「ガチアジア」で、偶然にも“対馬”と韓国の交流が紹介されていた。と言うのも、我が娘の嫁ぎ先の義母は、何と対馬出身なのである。
私は思う。東アジアの主要国、日中韓が今もギクシャクした関係にあるのは、先の戦争の影響もあろうが、何時までもいがみ合ったとて、互いに得られるものはない。米国がキューバと国交回復した如く、我が国も過去の戦争の謝罪をきちんと行い、未来志向の関係に立ち戻る事こそ、互いの利益になると思う。終わり
追伸:日常情報の発信はフェイスブック上で行っています。ご参考まで!


バイオレンス

私は嘗て静岡市に住んでいたが、出張で上京する時、新幹線が多摩川の鉄橋を通過する「ゴーゴー」と言う音を聞く度に、東京に着いた気持ちに成ったものだった。昭和47年、私はその多摩川に程近い、川崎市に住む女性と交際していた。切欠は、或る小冊子に並べられた顔写真と、簡単な自己紹介記事だった。一体誰が何の為に編集したアルバムなのか記憶に無いが、恐らく百名近くの女性が並んでいた。その中の一人に私は興味を持った。当時は勿論ケイタイも無い時代なので、葉書か手紙を出したのだろう。程なくして交際OKの返事が来た。然し遠距離交際は、言うは易く現実には難しい。それでも私は幾度か、360CCの軽自動車を駆使して、静岡から国道一号線を東上して、態々川崎まで会いに行った(後には新幹線と新横浜・武蔵小杉経由の東横線を利用した)。女性宅は、東横線沿線の文字通り“小さなオウチ”で、両親と兄の4人家族だった。処が頻繁に電車が通る度、丸でガード下に居るような音がして、会話が途切れる。直ぐ近くの多摩川沿いには南武線も通っていたが、東横線沿線は南武線沿線よりも、ハイクラスの住民が多い町だと教わった。それにしても感心したのは、私達のプライバシーを慮り、招かれた応接間に、家人が只の一度も、入って来られなかったことである。そればかりか、2頭のコリー犬を連れて二人で多摩川河川敷に、散歩に行くことを勧められた。
あれから早40年!先頃その川崎市の多摩川河川敷で、身の毛もよだつような残忍な殺人事件が勃発し、ニュースを賑わした。島根県隠岐の島出身の少年が、カッターナイフで首を切り付けられ、殺害された事件である。私はその仕業を想像しただけで戦慄した。丸で鶏でも殺すような方法ではないか!否、即死しないだけ、より残虐な遣り方かもしれない。当然乍こんなバイオレンスは、平常心ではとても行えない。所謂“狂気の虜”になった精神状態でのみ、成せる業だろう。私はこの事件を切欠として、今も尚バイオレンスが、私達の身近にあることを、改めて認識させられた。と言うのも “カッとなる人”は我々の身の周りにも、決して少なくないからである。
嘗て私がドイツ西部のアーヘンで、気心の知れた社外工を伴い、工場立ち上げをしていた時の出来事である。現地責任者(日本人)と私の考えが食い違い、設備搬入作業が停滞していた。私がそれについて意見したら、普段は大人しい彼氏が突然いきり立ち、大声を上げて私を罵倒したのである。余りの剣幕に、社外工は恐れを成して逃げ回ったので、私は已む無く予定を早めて帰国した(勝手な行動故に、帰国後上司からひどく叱られた)。その煽りで、楽しみにしていた、会社主催のイタリア旅行がフイになった(私は欧州主要国の中で、イタリアだけには行ったことが無い)。
それにしても、私の周りにも知る人ぞ知る“バイオレンス”で有名な人が居る。私がそれを知ったのは随分昔のことで、当時はとても驚いた。機械の調子が悪くて、エンジンが始終止まり、農作業が捗らなかった時のことである。私が文句を言ったら、彼氏が突然顔を真っ赤にしていきり立ち、大声を張り上げたのである。以来私はその人とは距離を置くようになった。
そんな私とて、バイオレンスの一人かも知れない。あれは彼此20年以上も前のことである。当時我が娘は、玉名市内の学習塾に通っていた。帰校後家内が塾まで車で送り、夕刻迎えに行く手筈である。処が或る日に限り、家内が迎えに行くのをウッカリ忘れてしまった。気付いたのは夜である。勿論今の様にケイタイも無い当時、慌てて迎えに行ったら、塾は既に閉まり、国道脇の真っ暗闇に娘が一人佇んでいた。私はその夜ばかりは平常心を失って、家内を叩いたのであった。
追伸、或る日のこと。会社に掛かって来た受話器を取れば、例の川崎の女性の母親だと名乗る。そして「娘は今も貴方のことを想っています」と!私は喉の奥から絞り出す様な口調で「結婚しました!」と告白した。終わり


スバル

昔から、日本人は物まねが得意で、諸外国で発明されたものを、逸早くコピーをして、オリジナルに勝るほどの物を、作ると云われて来たが、人間とはそもそも、親や兄弟の後ろでまねをすることから、知能を発達させてきた動物であり、物まね自体を悪と決め付けるのも、おかしなことである。
然し何はともあれ、現在我々の身の回りにある物の大半が、諸外国で発明されたことは間違いない。中でも最も身近な物として、自動車がある。今や世界中で数億台の車が走っているだろうが、その殆どが此処半世紀以内に生産されたものである。と言うのも、私が物心付いた昭和30年代初頭は、バスやトラックが殆どで、自家用車は、余程の金持ちか、商売人しか持ってなかった。私の主治医、松浦先生も、往診に来られる手段は自転車であった。
当時、石貫で車を所有していたのは、現栄屋(当時の高岡酒店)である。私の記憶では、その車種はフランスのルノーと、マツダのオート三輪ではなかったかと思う。勿論ルノーは親方の乗用車、オート三輪は貨物運搬用の商用車である。私は大の車好きで、路上駐車してあったオート三輪の運転台に跨り、勝手に運転手の気分を味わっていたが、そのハンドルは丸型ではなく、二輪車タイプだった。
その後、日本は高度成長の波に乗り、同時に自動車ブームが訪れて、一気に車社会に変貌した。それを牽引した一方の旗手が、スズキ・ダイハツ・ホンダ・三菱・マツダ等の、所謂軽自動車メーカである。軽は車体サイズやエンジン排気量が制限されていて、当初は360ccであったが、数度の改定で現在の660ccまで格上げされた。軽自動車の最大の特徴は、車体の大きさや排気量だけでなく、税金を含めた維持費の安さにある。今や日本の軽自動車は、多くの観点から世界に冠たる車だと言って良い。中でも隠れた優れものが軽トラックで、今や田舎では殆どの家に1台はある。然しそのレイアウトは各社毎に微妙に異なる。エンジンとタイヤの配置である。小回りを利かせるには、ホイールベース(前輪と後輪の距離)は小さい方が良い。又タイヤのスリップを防ぐには、前後輪の軸荷重が均等な方が良い。その為だろうか、近年多くの軽トラックメーカが、前輪の配置を、運転席前から後ろに後退させるモデルチェンジを行った。それを発売当初から採用していたのが、我が愛車“スバルサンバー”である。尤も、上記のレイアウトでは、前輪荷重が重くなり過ぎ、空荷で走る時や急な上り坂などでは、後輪がスリップし易い。処がスバルの軽だけは流石と言うべきか、発売当初からピストンを左右に水平に配置した、独特のレイアウトを持つ水平対向エンジンを、荷台の後ろ下に設置しているので、空荷であっても、四輪にほぼ均等な荷重が掛かり、悪路でもスリップし難いのである。
軽トラの用途は、2人乗用機能プラス貨物運搬は勿論のこと、パワステ・エアコン・四輪駆動機能を装備している車両が殆どで、狭い道や悪路もなんのその、一般車が泥濘に嵌った時等は、スーパーローギアに入れれば、驚くほどの牽引力を発揮して、引き上げることも出来る。
そんな軽トラ愛好者の私が、最近困ったことに見舞われた。運転異常である。上手に言い表せないが、何となくハンドル操作に違和感がある。戻り難いと言った方が良いかもしれない。車はハンドルを放せば、直進するように設計されているが、その力が弱くなった気がしたのである。それは間違ってなかった。ステアリングキットの不具合で、交換が必要とのこと。態々関東から取り寄せた中古部品と交換して、やっと愛車が戻って来た。
私は思い出す。彼此40年程昔、群馬県太田市の友人の家に遊びに行った時のことである。群馬にはスバルの工場があり、友人宅には往年の名車スバル360(通称カブトムシ)が有った。私は友人とその車に乗って、名峰赤城山と榛名山にドライブしたのである。当時既に相当のボロ車だったが、流石スバルである。低速で山上の駐車場まで登ることが出来た。あれから遥かなる時が過ぎ、スバルは今般軽トラの生産を中止して、他社のOEMに切り替えるとか!スズキやダイハツの軽トラには、どうしても乗る気がしない私は、これからも名車スバルサンバーを、大切に使い続けたい。終わり


言葉

私は、雨の日も風の日も、夕方の日課として、犬の散歩を欠かしたことがない(旅行等で不在の日はY氏に依頼する)。と言うのも、我家の犬クックは今迄に飼った犬の中でも最も綺麗好きで、私が散歩に連れて行かない限り、おしっこもウンコも決して漏らさず、丸一日必死に我慢しているからである。処が、漸く散歩の時間が来ても、いきなりするのではなく、他の犬の匂いがする場所を慎重に選び、幾度かに分けて、細切れに放尿・脱糞をする習性がある。所謂犬のマーキング行動である。
一方、夕方の散歩は、小学生の下校時間と重なることも多い。最近は事件事故対策として、集団登下校が行われているようだが、区長等の大人が付き添う登校時とは異なって、下校時間は学年毎に異なる場合もあり、どうしてもバラバラになり易い。何時かは石貫の北の外れにある馬場地区に住むMちゃんが、たった一人で下校していた時期もあった。彼女は数人姉妹の長女の為か、所謂“オマセさん”で、田圃カフェ前の椅子に座って、農作業中の私に馴れ馴れしく話し掛け、態々軽トラで「家まで送って!」と要求したこともあった。勿論これは校則違反である。
一般的に女児は男児よりも早熟で、両親の会話等を幼い頃から上手に聞き分ける。何故なら“言語処理を司る左脳の神経細胞”が男児よりも多く、使用頻度も高いので、話を聞く時、より多く左脳を使い、雑多の情報を効率良く処理出来るからだ。それは成人後も不変で、女性は男性よりも他人の言葉に耳を傾けるのが得意で、会話の内容を容易に理解・解釈する。他方厄介なことには、男性が軽い気持ちで発した些細な言葉も、女性は後々まで確りと覚えている。
私は若かりし頃、好きだった部下の女性Mさんから「私の予ての“言葉”に関する自分の想い」を書き綴った手紙を貰ったが、その最後に「そんな貴方が大嫌いです」と書いてあり、ショックを受けた。一般的に男性は言葉を甘く見る傾向にあるが、これは女性にとって軽視出来ないことである。男性が軽い気持ちで発した言葉も、無意識に言った事柄も、女性は確り受け止めて、その真意をアレコレ考え、言葉の持つ響きから、裏に隠された“本気度”すらをも読み取ろうとする。だから口先だけの男性は、昔から女性に嫌われるのである。デートに誘われた時や、付き合っていた時、口説かれた時、喧嘩した時に言われた言葉、落ち込んだ時や、悩んでいた時に語り掛けられた言葉、そしてプロポーズの言葉。その時々に男性が何と言ったか、女性はその言葉を確りと記憶している。「俺、そんなこと言ったっけ?」「もう忘れたよ!」では済まされない。女性の頭脳には、その時々の言葉が確りインプットされていて、各シーン毎に「ファイルに名前を付けて保存」されている。男性にとっては、大したことでなくても、女性にとっては深く傷ついたり、悲しんだり、逆に深く感動したり、感銘を受けたりと、いつまでも心に残している。ここぞ!という時に「感動を与えるような言葉」を言える男性は、容姿等には関係なく女性に持てる。マザーテレサの有名な格言がある。『男は目で恋に落ち、女は耳で恋に落ちる “言葉”には気を付けなさい、それはいつの日か、行動に現れるから』
追伸:私は現役時代、4社5事業所に勤務したが、その一社を退職した要因は、某副社長の“言葉”に他ならない。私の口の利き方から“言葉”の端々に至るまで、立たされたままの状態で、一時間近くもの間、微に入り細に入り、それこそ偏執的とも思える程、徹底的にしごかれた。それだけなら未だしも、腰巾着の経理マンが、席を外すのが常識だろうに、私の“無様な姿”を、恰も哀れむかの如く、せせら笑ったのは、どう見ても許し難く、涙を呑んで退職願を提出した。それにしても、たかが”言葉” と言えども、余程気を付けねば、我が身を滅ぼすことになる。終わり


おかしな話

東日本大震災から早3年を越える月日が過ぎ去った。それにしてもあの2011年の3月、九州新幹線が全線開業したのは、何か不思議な巡り合わせかも知れない。東北地方では、何十万人もの人々が生死の狭間をさまよっているのを余所に、九州では能天気に、開業祝いの旗振りをしていた私も、同罪の一人である。
最近は新幹線に乗る機会も殆どなく、新玉名駅に行くのは稀であるが、直ぐ横に広大な駐車場を有する、ホームセンターGoodyが開業したので、ちょっとした買い物にはとても便利になった。然し、道向かいの新玉名駅の駐車場を見れば、何時もの事乍、多数の車がびっしりと駐車していて、はみ出した何台かは、道路上や隣の公園にまでも、違法駐車をしている。この状態については、開業以来多くの市民が指摘しているにも拘らず、未だ抜本的解決の目処が立っていない。然し私が思うに、その原因は只一つ、駐車料金が只だからである。多分これを決断された方は「只より高いものは無い」という諺をご存知なかったのだろう(私が勤務した企業の駐車場は、竹林を切り開き、砂利を敷いただけなのに、月額3千円取られた)。人間誰でも考えることは全く同じで、有料駐車場と無料駐車場があったならば、99パーセントの人は無料駐車場を利用するだろう。それを拡大解釈すれば、大牟田駅と、玉名駅と、熊本駅があり、玉名駅の駐車場だけが無料なら、大牟田から熊本市近郊に掛けての地域に住む人々の多くが、少々遠くても新玉名駅を利用するのは極自然である。更に長期間出張する人々にとっては、その利得は一層拡大する。極端に云えば一ヶ月出張でも、日帰り出張の費用で済むからで、ちょっと考えれば誰でも判ることを、公用車にしか乗らない市長が、言い出したからとて、今更変えられないのも、おかしな話である。行政と云う処は、玉名市に限らないかも知れないが “市民目線の政治”等と、言葉だけは一見心地良さそうに聞こえるけれど、実態は責任逃れの形式主義と、事なかれ主義の権化と云える。それは市役所の公共放送を聴けば、たちどころに分かる。
その一:乾燥注意報「空気が大変乾燥しているので、火の取り扱いに注意しましょう」
その二:大雨注意報「川が増水しているので、近付かないように注意しましょう」
その三:行方不明者「○○さんが行方不明なので、見掛けたらお知らせ下さい」
多分、市役所には幾つかの放送事例集があって、その中から適当なものを選んで、形式的に放送しているに違いない。要は自分達の責任逃れである。
私は思う。放送事例集作りに時間と労力を割く位暇なのなら、消防団等と連携して見回りをし、危険箇所の応急工事をするとか、予防保全を行い、立札等で注意喚起するとか、遣り様は無限にあると思う。要は職員一人ひとりが、自分の身に降り掛かった事態と考えて、主体的に行動することこそが、真の意味での“市民目線の政治”なのである。終わり


不思議なこと

この世には実に不思議なこと、奇妙な縁があるものだ。彼此半世紀近くも昔のことであった。私は当時熊本大学の学生で、文字通り青春を謳歌していた。特に好きだったのが当時大流行していた社交ダンス。態々アルバイトをしたお金を貯めて、ダンスパーティーに行くのが最大の楽しみだった。当時、熊本市の繁華街、上通りには何軒かのダンスホールがあった。私はその一軒、アベダンス教室の女先生からレッスンを受けて、何とか踊れるようになった。すると次に欲しくなるのが、ガールフレンドである。然し当時の私には彼女が居なかったので、なけなしの小遣いを叩いて、足繁くダンスホールに通った。その甲斐あり数ヶ月後、一人の女性と親しくなった。県北出身のグラマーな女性SHさんである。彼女は当時、熊本市の繁華街、上通り入口にある小さな衣料品店 “イトーヨーカドー”で働いていた。然し当時の私にはケイタイもなく、店に電話するのも憚られるので、客を装って店内に入り(今ならストーカーと言われるかも?)、彼女を見掛けたら声を掛けるしか方法がなかった。彼女は仕事中なので、良い顔はしなかったが、幾度かは誘い出しに成功した。或る日は、熊本市内の画津湖に、親友共々ボート乗りに行った。然し彼女から見れば、当時の私は口下手で真面目一方の、全く退屈な男にしか見えなかっただろう。数ヶ月後にあっさり振られてしまった。これが私のほろ苦ーい“初失恋”である。
あれからやがて50年、当時の記憶も殆ど薄れた数年前の或る日、玉東町に住む家内の知人男性が、派手な女性を伴って遊びに来られた。そして四方山話をしていたら、ダンスの話から、イトーヨーカドーの話に及び、何と何と、男性のお隣に住む女性が、私の元彼女と同姓同名だったのである(勿論結婚前の姓)。私は俄かにこのことが信じられず、一目会いたいと申し入れたが、知人男性は「絶対に会わない方が良い!」と釘を刺された。会えば私の“夢が破れる”と言うのである。恐らく今では“皺くっちゃのお婆ちゃん”に成り果て、昔の面影など殆ど残っていない筈だからである。
それにしても、あれから半世紀の間に、イトーヨーカドーはセブンイレブン他、数社を傘下に置き、国内店舗数13000店超、連結売上高5兆円を優に超える、国内屈指のコングロマリットに成長した。他方、私は同じ半世紀の間に、何か小さなことでも、後の世に残るようなことを成しただろうか?
そんなことを考えていた今日、思いがけもなく東京在住の、母方の従姉の悦子さんから「九州の豪雨は大丈夫ですか?」との電話があった。私は降り頻る雨の音で、霞む電話の声から、一瞬“悦子さんの面影”を思い出そうとしたが、適当な言葉が見当たらず、在り来たりの応対になってしまった。然し、悦子さんは何と我が自伝「親父のつぶやき」を送って欲しいと所望された。勿論その本には島倉千代子のマネージャーだった悦子さんの弟、徳永三郎氏のことが書いてある。そして漸く今日、九州地方に梅雨入り宣言があった。
私は思う。人生に栄枯盛衰は付き物であり、一生を通して“日の当たる道”を歩き続けた人は稀だと言って良い。その意味では一年中で梅雨の時期ほど、物思いに耽るのに相応しい時はない。終わり


モンローマチック

今年は関東地方で長雨が続いている一方、九州は入梅の季節を迎えても、連日の晴天続きで空梅雨模様、お陰で田圃は何処もカラカラ、とても田植え出来るような状態ではない。然し仲間の皆さんの都合で、例年通り6月第一週に、片白の6枚の田植えをすることになった。昔から、田圃は上流から順次田植えするのが慣わしなのだが(田植えが済んだ田からの余剰水を再利用出来る)近年は田主の高齢化と、耕作放棄地の拡大に伴い、そんな基本的なルールも適用が難しくなった。
田植作業は、①畦の草刈り、②溝掘り、③畦塗り、④粗起し、⑤仕上げ起し、⑥水入れ、⑦代掻き、⑧地均し(トンボ)⑨田植え⑩補植の10工程を要する一大イベントである。この内①④⑤⑦⑨の5工程は近年機械化が進展し、昔に比べて随分と省力化された。加えて残りの5工程中の②と③も、トラクターに特殊なアタッチメントを付ければ、機械化出来るようになったが、それには多額の費用が掛かるので、私は相変わらず手作業に頼っている。
然し今年は一念発起、新しいクボタ歩行型田植機、モンローマチックを購入した。と言うのも、手持ちの田植機が古くなり、信頼性に疑問があるからだ。そこで新型機を徐に田圃に下ろして動かした処、所謂多関節機の為に、姿勢制御が大変難しい。それでも、前々日に代掻きしていたIさんの2枚は、何とかまともに田植えが完了した。処が次のKさんの田は、前日代掻きだったので圃場が軟らか過ぎて、田植機が真っ直ぐに進まず、左右に蛇行しながらの田植え作業。左右のレバーで姿勢制御をするのだが、足場が悪いと、田植機だけでなく、運転手自身が田圃に足を取られて、文字通り右によろよろ、左によろよろ、まるで酔っ払い運転のような、田植えとなってしまった。
それだけなら未だしも、残りの3枚の田圃は日程の都合から、前代未聞の代掻き即日の田植えとなったのである。そうしたら案の定、田圃はドロドロの状態の為に、植えた苗が落ち着かず、圃場はひどい有様となった。昔から、代掻きと田植えの間隔は2~5日が一般的で、私は2、3日後にすることが多いが、今年ばかりは皆さんに余裕がなく、非常識な日程の田植となった。
それにしても“モンローマチック”とは、良くぞピッタシの名前を付けたものではある。あのマリリンモンローに肖った名前であろうが、余程のじゃじゃ馬馴らしでもなければ、この田植機は使い難い。私は今年で古い田植機を退役させようと思ったが、思い直した。きっと古い機械にはそれなりの良さがあるに違いない。見境なく最新式に飛び付くよりも、一年位は両者の特質を見比べ、各々の特徴を生かした使い方をするのが、賢い消費者であろう。
そんな忙しい最中の先日、一日位は骨休めをと考えて、家内と外食に出掛けた。そしてほろ酔い気分で店を出たら、思い掛けもなく同級生から電話が掛かって来た。「居酒屋で一杯遣っているから来ないか?」との誘いである。私はこれ幸いと二つ返事で家内に送って貰い二軒目の酒宴へ。そうなると調子に乗り、酔いに任せて三軒目のスナックへ!こうなったら最早止まらない。カラオケにダンスと、延々深夜まで遊び呆けてしまった。
然し其のツケは確実に翌日出て来る。今日こそはモンローマチックを操作して、田植えしようと思ったが、肝心の私の体が二日酔いでモンローマチックになり、言うことを聞かない。やれやれ!昔から田植の時期は酒宴が付き物であった。されば逸早く飲み会をやったのだから、今後は節制に努め真面目に田圃の仕事に取り組まねばなるまいと、反省している。終わり


拡散

私は、30代半ばから50代半ばに掛けての20余年の間、半導体メーカーで仕事をした。然し中途入社の為に、一般社員のように一から勉強をしていないので、半導体の専門用語(英語)がチンプンカンプンで、殆ど理解出来なかった。従って上司の特別の計らいで、先ず先輩技術者数名からマンツーマンで “ウエハプロセス”の基礎理論についての特訓を受けた。そして早速現場に入り、半年余の間、上記の各プロセスを順次自ら作業体験して、半導体の基礎知識を、徹底的に頭と体に叩き込んだのである。
それにしても、半導体プロセス(通称前工程)の現場作業は、私にとって海外企業に転勤した程の大変化であった。何せ現場の作業者が話している言語は、日本語には違いないが、その単語は殆ど英語、それが何を指すのか全く分からない。おまけにクリーンルームの中では、無塵服を着用せねばならない。これはポリエステル製の所謂ツナギで、頭から足までスッポリ全身を包む構造になっている。そしてその上から特殊な手袋とマスクをはめるので、肌が見えるのは両目だけで、殆ど全身を覆った状態で、胸の名札を見なければ、年齢から男女の区別さえはっきりしないのである。
そんな半導体の製造現場は、殆ど24時間連続操業である。それは夥しい種類と台数の装置を一旦停止すると、再稼動するまで様々なチェックが必要になり、長い時間と工数を必要とするからで、その意味では原発に良く似ている。日本は今でこそ、先進国の一員として大きな顔をしているが、当時の半導体工場は、殆ど米国生産ラインのデッドコピーに過ぎなかった。
勿論私が現場体験をさせられた目的は、自らのスキルアップ等ではなく、現場の理解と問題点の発掘、及び作業改善の提案であった。半導体の前工程は、大きく分けて「写真製版・化学処理・インプラ・拡散」と呼ばれる。その中の拡散とは、上記ウエハ4ロット(通常100枚)を石英ガラス管の上に並べて、1000度以上に熱した電気炉の中で、酸化膜を醸成したり、ボロンやヒ素などの微量物質を蒸着させる工程である。当時はウエハ搬送の自動化が未完成だったので、熱気が篭る現場で作業者が真空ピンセットを使い、慎重にウエハの整列作業をしていた。その頃のある日、私はある工程から、次の工程にウエハを運搬した。勿論検移票と称する記録紙を伴って。処がそれが大きなミスで、中間の一工程を飛ばしたばかりに、4ロット100枚のウエハをパーにしたのである。これはロットアウトと称し、最も気をつけねばならない作業ミスである。そんなこともあって、私は自分の不注意とお粗末さを痛感し、改めて日夜3交代で作業をしている、男女一般技能者の優秀さに、敬意を表したのであった。折りしも職場の掲示板には、私を叱咤するかの如く「ロットアウトを無くそう!」との、小集団活動のスローガンが掲げられていた。
その「拡散」と言う所謂“物理用語”が、最近多くの人々により、全然違った対象に付いて使用されているのを聞くに付け、私はどう考えても不見識としか思えない。その言葉の真の意味すら深く理解せず、単に周りの人々に、安易に他人の意見を吹聴する手段として用いるならば、毎日真面目に仕事をしている半導体産業の関係者は、決して良い気持ちはしないだろう。終わり


歯科

私は昨年末から今年に掛けて、人生幾度目かの歯科集中治療中である。右下の奥歯が突然欠けて、食べられなくなった。然らば左で食べようとしたら、今度は圧迫痛があり、冷たい水にも沁みる。その上、高校時代のサッカーの試合中に、蹴られて折れた前歯の古傷も痛み始めた。そんなこんなで最近は数日おきに、合志町のS歯科まで小一時間掛けて通っている。
それにしても近くの玉名市内には何軒もの歯科医院があり、義弟も隣の玉東町で歯科を開業しているのに、何故に態々遠くまで行くのかと思われるだろう。それは医師の考え方が各々で大きく異なるからである。義弟は “出来るだけ触らない方針”である。何時か、奥歯の冠が剥がれたので治療を頼んだら、突起をなだらかにしただけで、それ以上の治療はしてくれなかった。然しそれでは不具合が根本的には改善しないので、私は時間を掛けて遠路遥々通うのである。
S歯科への最初の関わりは十数年前の現役時代だった。当時私は半導体工場建設の仕事で、台湾やドイツに頻繁に出張していた。処が海外の食事は肉食が主体で、然もその肉がとても硬い。従って少しでも歯が悪ければ、食事自体がまともに摂れず、挙句の果てには仕事にも差し障る。その当時、総務課の主任格の女性Aさんが紹介して呉れたのが、会社に程近いS歯科だったのである。Aさんは幾度も海外に行く私に大変好意的で、航空券の手配や旅費清算等のこまごまとした雑事を、まるで私の秘書でもあるかのように、親身になって世話をして呉れた。私もAさんの好意に応えるべく、チョコレート等のお土産を買って来た。
そんな経緯もあって、私は退職して10年を超えた今も、依然としてS歯科を主治医としている。何故ならば、絶対的な信頼が置けるからである。S歯科は予約制にも拘らず、何時行っても数名の患者が待っている位繁盛している。そのS歯科の主治医は実は女医さんなのだ!然しマスクをしておられるので素顔ははっきり分からない。然し先生の性格は、私にも手に取るように分かる。大変に厳しい人である。患者にはともかく、衛生士や業者に対しては専制君主以上の言葉遣い。聞いている患者の私がハラハラするほどである。例えば「〇番の患者さんは今どうなっているの?」「貴女何度言えば分かるの?器具は使う順序で並べなさいと言ったでしょう?」「そんな方向では陰になり見えないわよ!反対側からかざすのよ!」etc。勿論患者に対してもはっきり仰るが、その口ぶりは普通で、私は全く悪気を感じない。
S歯科での最初の大きな治療は、数年前に右下の奥歯に入れたインプラントだった。治療後数ヶ月は歯磨きのチェックに通わされた。然しインプラントの歯は自然の歯よりも小さ目で、どうしても咀嚼に時間が掛かる。その為に左に負担が掛かり、今度は左が痛くなったのである。こうなるともういけない。右も左も駄目ならば、おかゆでも食べるしかなくなる。そんなこんなで先日は先ず下前歯の歯根幹切除術。沢山の器具を使って歯茎を切開し、歯根を切除し、再び縫合する手術を受けた。
私は思う。人間の体の組織は、全て細胞から構成されており、それは日々更新されている。然し歯の組織だけは、乳歯・永久歯(含む親知らず)と生涯に二度発生するのみで、それ以上は発生しない。その為に歯科と言う職業が誕生したのである。若しウサギの様に人間の歯が伸び続けるならば、歯科と言う職業も今とは全く違っていただろう?終わり


困ったこと

この世には色んなことが起きる。良い事・悪い事・嬉しい事・悲しい事・驚く事、ガッカリする事etc そんな昨今、私には“困ったこと”が起きている。
その1:我家の犬が啼き止まないのである。かれこれ2週間位前から始まり、誰もいない方向を目掛けて吠える。ウーッツ・ウーーン・ヒューン・ワンワン・ワンワンと文字通り日夜吠え続けるのである。最初は「今に止むだろう」とタカをくくっていたが、それが連日続くと流石の飼い主の私も絞れを切らし、餌をやったり、散歩に行ったり、撫でてやったり、叱ったり、居場所を変えたりしたが、何をしても啼き止まない。飼い主の私でも煩くてイライラするのに、近所迷惑にならない訳がない。私が犬の近くに行けば、以前と変わらず戯れついて来るのに、遠ざかった途端に又吠え始める。ホトホト困り果てた先日、私は思い余って軽トラに乗せて、動物病院に連れて行った処、特に異常はないが、フラリアかも知れないとの頼りない返事である。
その2:我家の裏には孟宗竹の林が広がっている。数年前、近隣のI夫人が私に囁かれた。「Oさんがお宅の山に竹枯らしを撒かていますよ!」と。私はまさか?と思いつつも、O氏とI氏は犬猿の仲であることを知っていたので、親切に教えて頂いたI夫人に取り敢えず御礼を言った。処がそれが近年現実となり、竹山が枯れ始め、以前は鬱蒼と茂っていた竹の間から、O氏宅が透けて見えるようになったのである。どうやら我家の竹山の影で日照が遮られ、農作物の育ちが悪いので、こっそり私の敷地に農薬を撒いたようである。私はその現場を見ていないので、クレームを付ける訳にもいかず、それかと言ってI氏から告口されたことを言うことも出来ない。仕方なくこの冬、立ち枯れしている数十本の孟宗竹を伐採し、空き地まで運び出した。処分方法は冬季に時間を掛けて焼却するしかない。
その3:代表的な春野菜にエンドウ豆(グリーンピース)がある。これは秋に種を蒔き、冬を越した4~5月に収穫期を迎える。処が冬場は野鳥の餌が乏しくなることから、ヒヨドリ等がエンドウの若葉を啄み、文字通りスカスカの状態に食い荒らすのである。そうなると光合成が阻害され、成長が妨げられ、下手をすると枯れてしまう。仕方ないのでネットでマルチングするか、釣り糸を張り巡らす他ない。愛鳥保護運動がなされる時勢の今日、捕獲も出来ず私にとっては全く余分な作業である。
その4:借用田の一枚に大豆を作ってある。処がその畑の大部分は、耕作放棄地同然で雑草が茂ったお陰でミミズが沢山いたので、夜な夜な猪の格好の餌場となり、まるで東日本大震災後のような荒地となった。私は気が咎めてある日トラクターで耕そうと試みたが、雑草がローターに巻き付き、忽ちロック、逆転モードをかけて漸く雑草の塊を取り除いた。さればと思い、態々消防署に連絡をして、孫娘と一緒に雑草の焼却を試みたが、意に反して燃え広がらない。原因は猪の跋扈のお陰で、雑草と土塊が混じり合った為である。お陰で表土は肥沃になった。きっと来年は大豊作になるだろう。
その5:今年は銀杏の表年で、とてつもない量の収穫があった。新たに大型のポリバケツを二つも調達したが、何れも満杯となり、後処理が大変である。それと言うのも銀杏のカブレはひどく、素手では触れずゴム手袋をして、種を出さねばならない。バケツの中で長靴で踏んづけても良いが、最後はやはり手作業で種を撚り分けるしかない。私は流石に手に余り、隣人に分けたり知人に差し上げたりしたが、それでも未だ膨大な量が残っている。されば拾わなければ良いのにと思われるかも知れないが、翌年が大変である。アタリ一面に銀杏の若葉が芽吹き、伐っても踏んでも又芽吹く。中生代からの生き残り樹種はとにかく強靭である。注:銀杏をご所望の方には、無償でお好きなだけ差し上げます。
その6:私は毎日の夕刻、犬を連れて散歩する。此処石貫には車が通らない畦道が縦横に巡らされており、犬の散歩には最適の地である。当然同時刻に多くの犬が散歩しているので、お互いの犬が接触しないように、飼い主は互いに心配りをしなければならない。然し当の犬はそんなことにはお構いなしに、勝手気ままに彼方此方へ行きたがる。そして自分が気に入った場所一帯を嗅ぎ回り、幾度もおしっこやウンコをし、所謂マーキングを行う。その仕草が実に独特で、恰もうっとりとしたような表情で、何の変哲もない叢やアスファルトの表面を舐めるのである。
それはそれで良いのだが、私は他の面にも目が向く。前日にはなかったゴミのポイ捨てである。私は毎夕犬の散歩時、レジ袋を手に持ち、路端のゴミを拾うのだが、翌日には必ずと言って良いほど、ゴミが捨ててある。空き缶・空き瓶は勿論のこと、レジ袋やアイスクリームのカバー、ティッシュペーパー、ワンカップ大関、ひどいのになると、家庭ごみを袋詰めして、土手や川岸にポイ捨て。こんな人々はきっと自分さえ良ければとの考えで、有明海まで流れ着き、松原海岸に打ち上げられた膨大なゴミを、毎年大勢のボランティアの人々が拾い集めていることなど、ご存知ないのであろう。更に最悪は家庭ごみの大袋を我が自販機の前にぽい!きっと職場への行き帰り、コーラやジュースを買うついでに、只で捨てられる自販機に置くのである。こんな大人が多いので、私は業を煮やし自販機に貼り紙をした。本当に困ったことである。終わり


脱原発

先頃、小泉元総理大臣が脱原発を主張したことから、マスコミがこれを格好の話題として取り上げ、ニュースを賑わした。小泉氏といえば、一に郵政民営化、二に北朝鮮の拉致問題と、私の脳裏にも鮮明に残る総理であるが、今回原発再稼働を目論む安倍政権に対して、公然と異論をぶつけたのは、如何にも一匹狼を自認する小泉氏らしい。氏の持論は、政府が脱原発を決意さえすれば、様々なアイデアや技術が生み出され、国民的課題が解決に向かうというものである。それにしても、2年半前の大震災と原発事故以来、この問題ほど国論を二分した国民的テーマは無かっただろう。私は当初、原発無しでは日本のエネルギー供給は立ちいかないと思っていたが、何だかんだ言われ乍も、一度も停電に見舞われることもなく、今日に立ち至ったのは、流石と言うしかない。然し裏を返せば今日の事態は、火力発電所の燃料足る天然ガスや石炭が、無尽蔵に供給されることを前提としており、若しも嘗ての石油ショック同様に、諸外国が少しでも輸出を制限すれば、忽ちエネルギー不足の事態になるのは明白で、綱渡りをしている状況に何ら変わりはない。私はこの問題について、以下のように対処した。
1. 省エネルギー
①生活空間を限定する。リビング・ダイニングルームを仕切り、各々を個別空調とする。
②エアコン使用は酷暑時の冷房に限定し、暖房は石油ファンヒータか電気カーペットで賄う。
③夏場の寝室冷房は扇風機のみとし、冬場は布団を重ね着して電気毛布は使用しない。
④風呂の残り湯を、翌朝小型ポンプで汲み上げて、洗濯機に移送し、洗濯・濯ぎに再使用する。
⑤梅雨時期も電気乾燥機は使用せず、雨天時は縁側に干して除湿機で乾燥する。
⑥窓ガラスにヒートシールを水張りして、夏場の輻射熱・伝導熱を遮断する。
⑦夏場は東西の窓側にヨシズを設置して、朝日と夕日の輻射を遮断する。(南側は不要)
2. エネルギー自給
①屋根に太陽熱温水器を設置して、台所給湯と風呂水加熱に利用する。
②従来の加工所屋根に加えて、新たにアパートの屋上にも太陽光発電設備を導入する。
3. バイオマス発電
それにしても、日本のエネルギー政策は、諸外国に比べて硬直的で、事態の変化に大きく立ち遅れている。私が物心ついた昭和20~30年代の頃、我家の西側に連なる小岱山は、殆ど禿山の状態だった。原因は山の木材が専ら家庭の燃料に消費されていたからである。然し、昭和30年代以降の、所謂エネルギー革命に依り、短期間に海外からの化石燃料(石炭・石油・ガス)に取って代わられたお陰で、嘗ての山林は登山者を除いて殆ど人間が立ち入らない原生林に戻りつつある。この森林資源をほったらかしにしている現状は、実に勿体無い。然も近年は、入山者の減少と共に山火事は殆ど起きなくなり、膨大な森林資源(バイオマス)が蓄積されつつある。それに加えて、近年防火林道と称する、中腹部を一周する二車線の立派な山岳道路が完成し、木材の搬出も容易になったので、これを積極的に発電燃料に活用すべきである。
又、聞く処に拠れば、今後新幹線トンネルの坑道から流出する大量の湧水を、防火林道沿いに敷設するパイプを通じて再びポンプアップし、山岳地帯の農地(ミカン山や、牧草地、棚田等)に供給するとか?何とも自然破壊と化石エネルギーの無駄使いの見本の様な話だが、これが我国の政治の現状と言うしかない。然し折角完成した防火林道を、文字通り山火事対策の道路に限定するのは勿体無い。私は今年この道路をバイクで一周してその魅力に取り憑かれ、この夏には孫娘と一緒に、東京の女性2人を軽トラの荷台に乗せて走り(公道では違反行為)熊本の雄大な自然を大いに満喫して頂いた。
あれから数ヶ月、私は健忘症がひどく最後まで躊躇したが、家内共々息子夫婦に招かれて、今秋一年振りに上京した。然し、私にとって大都会はやはり住み辛い。マンションは超清潔で超奇麗、ゲストルームまで有って至れり尽せりだが、所謂遊びが全くない。例えばタバコを吸うにも喫煙所が何処にもない。仕方なく、階段の手摺に寄りかかり、隠れてこっそり吸うしかない。そして名所のスカイツリーは延々長蛇の列。新築成った歌舞伎座は、客席を欲張ったのか大変窮屈で、折角の仮名手本忠臣蔵が、足の痺れを我慢せねばならない状況。然し、築地市場のマグロの味は忘れられない。さながら迷路のような店に山積みされた新鮮な魚介類は、猫族の私には堪らない魅力であった。そして息子嫁の実家にも招待を受けて食事を頂き、帰途は懐かしいMさんとの再会。大好物のチョコレートブラウニーを頂き、家内に冷やかされつつも、今日まで掛けてじっくりと味わった。終り


終戦のエンペラー

映画“終戦のエンペラー”を見た。「トミー・リー・ジョーンズ」がマッカーサー元帥。昭和天皇は歌舞伎の「片岡孝太郎」。木戸内大臣の「伊武雅刀」東条英機の「火野正平」近衛文麿の「中村雅俊」等々が出演。主題は昭和天皇の戦争責任を問うサスペンス。主人公の「ボナー・フェラーズ准将」が、マッカーサー元帥と昭和天皇の会見のお膳立てをする。話は遡って戦前の1930年代、米国の大学に留学時、准将との恋に落ちたヒロインの「あや」を演じるのが「初音映莉子」その叔父で、ワシントンの日本大使館に、2年間勤務した「鹿島将軍」が「西田敏行」その妻を「桃井かおり」が演じる。
僅か10日間で、昭和天皇の戦争責任を問うか否かを決めるべく、ワシントンから命じられたマッカーサーが、部下のフェラーズに「ワシントンは(真珠湾攻撃に対する国民感情から)天皇を絞首刑にしたいが、占領統治が困難にならない形で、昭和天皇の戦争責任の真相を解明せよ!」との難しい命令を下す。フェラーズ准将は不眠不休で、天皇の近辺で影響を及ぼしたとされる宮内庁、政府、軍部の高官達を包囲しつつ、戦争責任の真相を解明していく。この映画では、昭和天皇が開戦に果たした役割については明言されない。現に現人神と奉られた天皇に殆ど実権は無く、強硬派の陸軍が慎重派の海軍を押し切って暴走し、なし崩し的に戦争に突入したのが実態である。それでも原爆投下後の悲惨な状況の中で、敢えて終戦を決断したのは昭和天皇だった点が決め手となり「証拠はないけど、天皇が戦争を終わらせた」とフェラーズはマッカーサーに報告する。
当時“マッカーサー元帥と昭和天皇が並んだ写真”は有名で、大柄で腰に手を当て、ふんぞり返ったマッカーサーと、対称的に小柄で直立不動の天皇のお姿に、子供乍私も敗戦国の悲哀を感じたものであった。この会見の内容は未公開だが、映画では「戦争責任は自分にあり、国を罰しないで欲しい」となっている。この陛下の態度に感銘を受けたマッカーサーが、天皇を戦犯として裁判には掛けず“国の象徴としての地位を維持すべし”との決論に至ったとされている。
私は、物心がついた当時の我家の寝室を覚えている。頭側の鴨居中央に昭和天皇の写真。足側の鴨居にバッハ・ハイドン・ベートーベンの写真。天皇はともかくとして、3名の音楽家が飾られていたのは、誰の趣味だったのか謎である。我家には蓄音機2台と、百枚ほどに及ぶSPレコードもあったので、きっと音楽鑑賞が趣味だったのだろう。
私はこの映画を見つつ、戦争が我家に及ぼした影響について想い起こしていた。昭和30年前後は、戦争の痕跡が生々しく、白亜の土蔵(現右馬七亭)には、B29爆撃機の目標とならぬように、墨が黒々と塗られていた。裏山には空襲警報が鳴り響いた時、逃げ込む為の防空壕が有り、錆付いた軍需物資が隠されていた。父は肋膜の為に戦役を免れたが、叔父は海軍士官として出征している。古いアルバムをめくれば、沢山の出征兵士の壮行会の写真が出てくる〔写真の中央に座るのは当時の石貫小校長と村長の祖父(昭和19年死去)及び父である)〕。そして兵士の多くが帰らぬ人となった。戦争は日本から多数の命を奪い去ったが、代わりに平和憲法が齎され、今の若者は死の恐怖からは免れている。我家の近所に、100歳になんなんとする老婆が居られる。この方のご主人は、将校として出征後戦死された。嘗て母は、軍人恩給だけは減額措置もなく、戦死者の伴侶が生きている限り、十二分な生活費を貰えると羨んでいたが、これこそ命の代償であり、当然のことと思う。今夏も靖国参拝の時期となった。外国から何と言われ様とも、政治身上の如何を問わず、平和の礎となった戦没者の冥福を祈りたい。終わり


シンガポール

今回の豪州行きに先立ち、長女夫婦とシンガポールで落ち合い、5日間滞在した。事前の打合わせで、長女からこの案を提示された時、私は余り乗り気でなく、対案としてシドニーかメルボルン行を提示した。5年程前に、パーマカルチャーの仲間と豪州に行った時、東海岸のブリスベーン迄行きながら、首都キャンベラは兎も角として、大都市のシドニーにも、メルボルンにも行けなかったからである。然し今回、長女の意思は固く、当初の予定通りシンガポール行きに決った。同国は彼此30年前、エアコンを売り込みに行き、現地のバイヤーを集めた会場で、拙い英語で説明会を開いた、懐かしい想い出の地である。チャイナ服を着た若い女性連から、独特の英語(所謂シングリッシュ)で、矢継ぎ早の質問を受けて、タジタジとなり、現地責任者に助けを乞うたのが、今も記憶に残っている。私は当時、現地担当者と海辺の屋外レストランで食事したのを思い出し、今回再び訪れて夕食を摂った。恰も私の再訪を歓迎するかのような、凄まじいスコールの中にて!
シンガポールは、マレーシアから独立した、赤道直下にある東京23区程度の小さな国だが、リー・クアン・ユーと云う稀代の日本贔屓の名君に導かれて、東南アジア諸国の中では逸早く、先進国の仲間入りを果たした。極めて教育熱心な国で、国際学力コンテスト等では、例年日本を凌ぐ優秀な成績を修めている。又地理的に、殆どのタンカーが通過する、要衝マラッカ海峡の出口に当り、多くの船舶が立ち寄る外、世界有数の便数を誇るチャンギエアポートを有し、東南アジアの交通の要衝に位置している。今回の旅行は、往復共にシンガポールエアラインを使用したので、八等身美人揃いで、サービスも世界一との評価が高い、キャビンアテンダントのサービスを受けて、目の保養にもなった。
シンガポール滞在中は、ホテル住まいで、連日の観光地巡り。動植物園から始まって、蘭で有名なボタニックガーデン、夜の動物が見られるナイトサファリ、マーライオン公園と、その向かいにある、ビルの上に船が乗った形のマリーナベイ(内部はカジノやレゴワールド)、そしてセントーサ島のユニバーサルスタジオ等々、観光には事欠かない毎日だった。ある日私は我が儘を言い、シンガポール最北端のマレーシア国境を見に行った。シンガポール側には通関施設が有り、海峡には鉄道と道路の陸橋が掛かっていた。此処は観光地ではないので、交通の便も悪く、かなり歩かねばならなかったが、海峡の先にマレーシアの街を望むことが出来た。パイプラインもあったので、マレーシア側から水の供給を受けているのだろう。然し、ゴミの無い街で有名なシンガポールも、海岸沿いや道路沿いにはポイ捨てのゴミがあり、ちょっとがっかりだった。
マレーシアでの私の一番のお気に入りは、ホテルから程近いビルの一角にある大衆食堂だった。20個程のテーブルの周囲に、10軒程の店がズラッと並んでいる。何れも中華料理で、写真を指し示して金を支払えば、あっと言う間に食事が出てくる。これが安い上にとても美味しく、私は毎朝毎朝「今日はどのメニューにしようか?」と此処で食事するのが、最大の楽しみになった。其処で食事しつつ、周りを観察すると、何時も“雑巾を手に持った70絡みの小柄な老人”が、空き丼や箸を片付け、テーブルを拭いている。その仕草が何とも“さり気なく・手際良く”私はついつい見とれてしまった。そして、この老人はひょっとして、この店のオーナではないかと思ったのである。それは、普通は若いメイドがやるような仕事を、全く嫌味なくされている姿が、気品すらをも感じられたからにほかならない。その数日後、我等はシンガポールを立ち、豪州に出立したのだが、何と同国のチャンギ国際空港内にも、全く同じスタイルの中華料理店があった。私は懐かしく感じて、又々空港内で同じようなメニューを注文したが、残念乍その味は街中の店程ではなかった。
私は何故か、外国に行くと日本を想う。今回もそうだった。今や日本の存在感は自動車に尽きる。シンガポールは欧米の車も多かったが、日本車も健闘していた。然しオーストラリアはトヨタ・トヨタ・ホンダ・日産・ETCである。恐らくその多くが現地生産だろうが、斯も多数の日本車が走っているのを見れば、自分が日本人であることを誇りに思う。アベノミックスで円安に振れた今、自動車は日本の生命線として、益々諸外国に売れるだろう。それで外貨を稼いだお陰で、我等日本人は、地下資源の殆どない国でありながら、何不自由ない生活を送れるのだ。終わり


柔道

女子柔道の指導で、昨年のセクハラに続いて今度は暴行の実態が明らかになり、連日TVニュースを賑わしている。そもそも日本古来の武術である柔道や剣道は、相手を倒すことよりも、心身の鍛錬に依る護身を目的としており、極めて精神性の高いスポーツであった筈である。然し近年は、オリンピックに見られるように、メダル獲得至上主義が加熱し、その為には手段を選ばず、指導する傾向が強いようである。私は最近の柔道に関するニュースを見る度に、半世紀も前の忌まわしい記憶が蘇り、ついついTVのチャンネルを変えてしまうのである。
私が高校に進学した昭和30年代後半に、体育の授業で武道が始まった。男子は全員、柔道か剣道を選択せねばならず、私は深く考えもせずに、柔道を選んだ。その最初にやらされたのが、ウサギ跳びと受身の訓練である。前者は道場の周囲をグルグル回るのだが、次第に太ももがパンパンになり、とても辛かった。次に畳の上で投げられた格好をする受身の動作で、道場の上を幾度も往復せねばならない。当時の私は今以上にガリガリの体型の上に、体が硬かったので、この受身の練習も大変に堪えた。そして暫くすると、今度は乱取りと云う、二人一組で襟足を取り合い、投げ技を掛ける練習をさせられる。これが又辛い。相手から背負投を掛けられると、下腹に相手の腰が激突するので息ができない程痛い。それを避けようと腰を引くと、逆に腰高になって投げられ易くなる。そんなこんなで、相手を次々に代えて、乱取りを繰り返すのである。
この乱取りコンテストでは、痩せ型のM君と私が最弱と見なされて皆の前で“最弱コンテスト”をやらされたが、私の唯一の技、大外刈りも不発で、遂に引き分けに終わった。次にこの体育教師は最弱の私と、当時既に私の倍近い100kgになんなんとする、巨漢で最強のK君を対戦させ、軽々と宙に舞う私を見世物にした。こんな意地悪教師は、今考えてもマトモな指導者とは思えず、それ以来、私は柔道が大嫌いになった。尤もこの種の問題は他所でもあったと思われ、その後柔道にも体重別階級が定められたのだと思う。あれから既に半世紀、当時最強だったK君は、数年前に脳卒中であっけなく他界したが、当時最弱だった私は、今も健康で頑張っている。
私は、健康の秘訣は仕事(農業)と孫だと思っている。最近は略毎週のように、孫が週末に我家に遊びに来る。その孫娘は小学2年にもなって未だに、私にオンブせよと要求するのである。私はヤレヤレと思いつつも意を決して、背負った孫を持ち上げてヨタヨタと歩く。子供の成長はとても早い。どんどん大きく重くなる。以前は何時までも背負えたのに、今は長距離は無理になった。背負えるのも、そう長くないかも知れない。以前は軽々と出来た肩車は、最早腰を痛める危険があるので止めた。
肩車と言えば、吉田沙保里選手を思い出すが、先頃IOCがスイスのローザンヌで理事会を開き、2020年五輪からレスリングを除外するとのニュースが連日報道されている。日本がこれまで28個の金メダルを獲得した競技を除外した明確な理由は示されず、東京が招致を目指す20年五輪で、レスリングは危機を迎えている。一方国際柔道連盟会長は、女子日本代表での暴力問題が、16年リオ五輪に悪影響を与えることを懸念し、各選手に対して「規律を持って行動しなければならない」と話したとか。誰が考えても、当然のことである。 終わり


蜂の一刺し

ロッキード事件は、1976(昭和51)年に明るみに出た国際的汚職事件で、米国ロッキード社の旅客機の受注をめぐり、日米の他にオランダ、ヨルダン、メキシコなど多くの国の政財界を巻き込んだ。
当時の首相は田中角栄、米国大統領はニクソンだった。そしてこの事件では全日空(現ANA)の新機種導入選定に絡み、田中総理の他、運輸政務次官佐藤孝行、元運輸大臣橋本登美三郎が逮捕された。
さらに、収賄、贈賄双方の立場となった全日空の若狭得治社長以下数名の役員及び社員、ロッキードの販売代理店の丸紅の役員と社員、行動派右翼の大物と呼ばれて暴力団やCIAと深い関係にあった児玉誉士夫や、その友人で「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治と相次いで逮捕者を出した。そして関係者の中から多数の不審死者が出るなど、戦後の日本の疑獄を代表する大事件となった。
中でも1981(昭和56)年ロッキード事件の公判に、田中元首相秘書官・榎本敏夫被告の前妻、三恵子さんが検察側証人として出廷し「夫が5億円の受領を認めた!」と述べた爆弾発言は特に有名である。この証言で田中被告は決定的ダメージを受けた。三恵子さんは記者会見で「真実を述べるのは私の国民としての義務だと思います。夫が『どうしようか?』と言いますので、お金は受け取ったのかと聞き返しますと、顔を上げる際に軽くうなずいておりました」と説明。元首相を相手に、勇気を持って証言した理由については「蜂は一度刺したら命を失うと申しますが、人を刺すという行為で私も失うものが大きいと思います」と話し「蜂の一刺し」と云う言葉が、当時の流行語になった。三恵子さんは、その後バラエティー番組に出演したり、週刊誌にヌード写真を披露したりして一躍“時の人”になったが、現在は第一線を退いている。
私は、米国のアポロ11号の着陸船「イ-グル」が月面「静かの海」への着陸に成功した昭和44年に就職し、ロッキード事件が発覚した昭和51年には、二人目の子供に恵まれた。今も思い出すのは、会社で仕事中に産科医院の看護師から「女のお子さんでした!」と云う電話が掛かってきたことである。私は二人目は息子を期待していたので、少しがっかりしたのを覚えている(当時は現在のように、出産前に子供の性別までは分からなかった)。然し今考えれば、この娘が生まれたお蔭で、私は現在毎週のように孫と会えるのである。(他の孫は海外在住)
私は、これまでに幾度も蜂に刺された。蜂は夏に活動が活発になるが、今年は夏早々、思いがけなくアヴァンギャルドに刺されてしまった。その原因は只一つ、私の不注意である。そして人を刺す蜂は全て働き蜂(雌)であり“セグロアシナガバチ”という文字通り脚が長く、全身が黒と黄の縞模様の蜂が殆どである。蜂に刺されると、蟻酸の毒によりズキズキとした激痛が全身に走り、見る見る内に刺された箇所が赤く腫れ上がり、数日間は腫れが引かない。その上、治り際には刺された箇所が痒くなり、掻けば掻くほど痒みが増して実に厄介である。蜂の巣は、低木の枝先や大きな葉の裏などにあることが多い。そして刺される原因の多くが、蜂の巣があるのに気付かず、刈払機などで不用意に巣を切った場合である。それにしても、妻に告発された榎本氏は気の毒と言うしかないし、やはり女は恐ろしい。終わり


小沢思考

戦後の日本政治、中でもこの20年間で際立つ政治家は、小沢一郎氏を於いて他には居ないだろう。氏は、衆議院議員を通算14期務める中、議院運営委員長、自治大臣、国家公安委員長、自民党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表、民主党幹事長などの要職を歴任し、90年代以降の日本の舵取りをした政治家である。その手法は新党を作っては壊し、党首になったかと思えば辞任と目まぐるしいが、今も尚政治の中心的存在であるのは、例の東京の、ちっぽけな土地取引に纏わる政治資金規正法違反で、指定弁護士により控訴された、最近のニュースでも明らかである。
氏のもう一つの特徴は“言葉遣い”である。一言一言を噛み締めるように、ゆっくりと丁寧に発言されるのは、早口で滔々と喋る政治家が多い中では、際立つ存在である。その小沢氏は昭和17年生まれ、私より5歳年上の今年70歳である。岩手県出身で昭和44年(私が就職した年)の第32回衆院選で、岩手二区からトップ当選を果たし、私と同じ昭和48年に夫人と結婚して、私と同じ翌49年に第一子を、私と同じ昭和52年に第二子を授かっている。という事は氏と私は、謂わば同世代なのである。
勿論私は、氏の政治活動について論評する資格も実力もないが、個人的な分野、特に人間関係については少なからず興味がある。それは所謂“純化路線“である。最近も氏を支持する3団体(衆院当選2~4回の一新会・衆院当選1回の北辰会・参院議員の木曜会)が、小沢グループとして統合後も、其々存続する方向になったらしい。小沢グループへの帰属を明確にする“純化路線”が党内の反発を招くとの懸念が広がった上、団体を解体すれば同グループに参加しないという議員も出た為である。
斯様な現象は何処でも起きる。私が勤務した会社内でも何度か起きたし、地域活動でもNPO団体の活動でも起きた。中でも記憶に新しいのは丁度3年前の出来事である。5月の連休を利用した10泊11日のパーマカルチャー集中講座が、石貫ナギノ交流館で開催された。主任講師は今は亡き“デジャーデンゆかり”さん。参加者は国内外から東大生やマレーシア人を含む20名、スタッフを加えると総勢25名もの集団による、空前絶後の大イベントになった。今になって考えると、この人数の多さが裏目に出た。
10日間にも及ぶ活動の終盤、講座で学んだことを全員で実践しようということになった。私は米作りを始めた頃だったので、会場から遠くない片白の田圃にメンバー全員を案内して、5枚ほど余っていた休耕田を利用して、更なる米作りの普及を目指そうと考えた。処が何名かの男女が唐突に(私の友人がボランティアで焼いて呉れた) “竹炭を河川浄化の為に投入したい”と言い出したので、止む無く最初から2グループに分かれて行動することになった。私は何故“あの人達”は事ある度に分派行動を画策するのか理解に苦しんだが、勿論強制力はないので渋々認めるしかなく、後味の悪さが残った。
あれからもう3年、私は“このこと”について、すっかり忘れていたが、今年になり友人から、竹炭の在処が分かったと聞いた。それは意外なことに“花しょうぶ祭り”で有名な旧高瀬裏川の上流だった。何箇所かの投入場所で地権者に断られ、転々とした挙句、仕方なく此処に投入したらしい。それは兎も角、幾人もの大人が関与し乍ら肝心の後始末が全く出来ていない。3年近くもの長期間、竹炭を入れっ放しでは、ヘドロがこびり付いて、河川浄化機能がなくなる事位は、容易に想像出来る筈である。私は友人と2人で膝位までの深さのドブ川に入り、ロープを解き、力を振り絞ってドロドロの竹炭袋を川岸まで引き上げ、半月ほど現地でヘドロの水切りを行い、軽トラックに積んで自宅まで持ち帰った。そしてファスナーが絡まり、開かなくなった袋をナイフで切り開き、悪臭を放つヘドロまみれの竹炭を更に半月程天日で乾燥し、最後は我家の庭先で焼却処分した。
私は思う。エコ活動に限らず、誰かに唆され、行き当たりばったりの行動をするようでは、殆ど満足な結果は得られないし、周囲からも感謝されない。事前に綿密に現地調査して状況を把握し、地元に迷惑を掛けず、自分がしたことには最後まで責任を持つのが、常識ある大人の行為である。こんな当たり前の事こそが大切であると、今は亡きゆかりさんは仰ったように思う。終わり


弁当

今年のドンドヤ・新年会は特別だった。何せこの類の伝統的な地域イベントには、地元の人間以外は参加しないのに、昨年東京から石貫に移住された二人を“農業志向の人は地域との人間関係が肝要”と考えて誘ったからである。勿論地元の人は大歓迎、堅苦しい席とは異なり、川原で餅を焼き酒を飲み交わせば、忽ち両者は打ち解ける。
そこまでは大成功だったが、その後が良くなかった。午後から開催された、公民館での新年会にも出席して貰ったら、区長が私の席に来て、困惑の表情で「弁当は“丁度”しか用意していない!何故事前に申請をしなかったのか?」と、クレームを付けたのである。私は“人物紹介”が目的だったので、そこまでは考えておらず「申し訳ない」と謝った。然し後で考えると矢張り変である。何故なら、弁当の注文数を確定する為の、出欠確認など過去一度も無かったし、全戸数分注文すれば、欠席者分は“相当数余る”筈である。それを欠席者に満遍なく配るとしても、寝たきりの家庭などもあり、2個位の誤差はどうにでもなる。現に隣席の女性が「余っているので食べたら?」と勧めたらしい。
私は過去、PTA会長・公民館支館長・宮(神社氏子)総代等の役職を拝命したが、今も印象に残っているのは、イベントそのものよりも寧ろ“弁当”である。中でも支館長時代の球技大会や市民体育祭は、出場者も100名内外と多数で、その手配は複雑極まりなかった。即ち、区長会・消防団・長寿会・婦人会・子供会等々、各種団体毎に注文を受け、正確な数を手配せねばならない。私は会計担当区長と二人で、イベントはそっちのけで会場を抜け出し、正門前で業者から弁当を受取り、個数を確認し、お茶やジュースをセットにして、正午前に団体代表に配布した。当然、予約数と実需には誤差も生じるので、その調整もせねばならない。
漸く弁当配布を終えた頃、会計担当区長が私に「良い所に行きましょう」と囁く。そのアルプススタンドの隅には、一目で“水商売”と分かる厚化粧の女性数名が既に陣取って居て、私達はその“お姐さん方が用意された手作りのお弁当とお酒”を、昼間の“仕事中”にも拘らず、密かにご馳走になったのである。然しこの“ご相伴代”は高くついた。区長連とは違い、私はスナックの“常連さん”ではないので、結局弁当の回収と処分は私の仕事。軽トラ一杯の膨大な弁当ガラ(残飯)を自宅まで持ち帰り、犬や鶏の餌とゴミとに分別して処分した。
この弁当問題は、宮総代の時代も大同小異であった。年4~5回のイベント時、宮司が来て祝詞を上げている最中にも拘らず、会計担当の副総代は、行事はそっちのけで、弁当と缶ビールを買いに走った。それは出席者数の把握が難しく、追加手配が避けられなかったからである。
私は思う。現代の飽食の時代にあって、この類の人々は何故に異常とも思える程“飲み食い”に拘るのだろう。ひょっとすると“昔の食糧不足の時代が忘れられないのか、或いは食い物の恨みは恐ろしい”と言われるからかも知れない。
私は今も小中学校の同級生から、時々飲み会のお誘いを受ける。そのメンバーの一人は今もタバコを嗜(の)んでいて、私を見れば必ず「龍さんも嗜まない?」と私を戸外へ誘う。タバコを止めている私は当然の如く最初は断るが、心中では嗜みたいと思っている。そして酒が廻るに従って次第に自制心が薄れ、それを見透かした彼女の誘惑に負けて、最後はご相伴する羽目に陥る。その久方振りに嗜むタバコは「何とも言えない至高の味」である。
巷では禁酒以上に禁煙は難しいとも聞くし、私もそのように思う。私は二十歳から十年程前までタバコを嗜んでいたが、現在は止めている。然し、最早肺癌を恐れる年齢も過ぎたし、偶に嗜んだところで、寿命に影響するとも思えない。ならば恰も“北の蛍”の如く、夜の戸外で震えつつ、女性とプカリプカリやるのも、結構乙なものである。終わり


大阪市役所

今、大阪が燃えている。橋本前知事が任期途中で辞職し、新に大阪市長に就任したからである。そして氏は大阪都構想を引っさげ、現大阪市役所を目の敵にして潰そうとしている。橋本氏が何故にあれ程大阪市役所を嫌っているのか、大方の人は恐らく不思議に思うに違いない。
処が、私は不思議に思わない人間の一人である。と言うのも静岡と和歌山に勤務していた会社員時代に、私は数え切れないほどの回数、大阪市役所を訪問した経験を持つからである。私は、社内でも出張の多さでは群を抜いていた。その殆んどが、私の手がけたマルチセントラル空調システムを、売り込む為の訪問だった。
私の出張先は、本社を含む東京・関東が約半分、大阪近辺の関西が1/4、その他の地区が1/4位だった。大阪出張の時には、先ず会社の関西営業所に出向き、担当者と打ち合わせの後、歩いて行ける距離に在る大阪市役所に向かった。
此処は、今考えても“異様な役所”だった。大抵の訪問先には業者との面談室があり、そこで打合わせるのが普通で、お茶位は出て来る(出なくても自動給茶機位は備えてある)。処が大阪市役所は、お茶処か、段ボール箱や書類が無秩序に山積みされた、トイレに続く薄暗い埃まみれのカウンターが面談所なのだ。当然廊下には椅子もない。同行の営業担当者が、カウンター越しにぺこぺこ挨拶をすると、担当者が不機嫌そうな顔付きで、椅子を引き摺りながらカウンターに近付いて来る。そして自分だけその椅子に腰掛け、我等は立たせたまま、面談が始まるのである。勿論その前に、目立たないように、私が工場営業から託った菓子折りを“こっそり”手渡すのは怠りない。
そして面談の最後に、市役所員が小声で告げるのは、建築許可の下りた(又は申請を受付けた)ビル部件の情報であった。私達はその情報を元に、先ず設計事務所に出向き、空調方式と発注先の情報を聞き出し、施主に挨拶に向かった。今考えると、橋本氏が言うように、大阪市役所は許認可権を一手に握り、業者を手玉に取る役所だったに違いない。だから関西営業所員は、何が何でも“いの一番”に大阪市役所のご機嫌伺いに出向いたのだ。それに引き換え、東京の本社では、都庁や区役所は素通りで、殆んどが設計事務所、設備業者、施主への挨拶であった。きっと役所関係は別の担当だったのだろう。
振り返って我が町、玉名市はどうかと見てみれば、とても褒められた状況にはない。今年は東日本大震災の影響で、多くの人々が首都圏から全国各地に避難された。熊本にも阿蘇を始めとして、相当数の方が避難されている。処が当玉名市が、被災者の為に用意したのは、住む人も居ないオンボロ市営住宅一戸である。私は“馬鹿にするにも程がある”と言いたい。それもあって、私は今年懇意にしていた筈の玉名市長に、二度も面会を求めた。一回目が放射能瓦礫を、熊本に持ち込ませないで欲しいということ。二回目は、玉名市も被災者を積極的に受け入れて欲しいということであった。
然し、今回の市長の態度は、被災者に好意的とはお世辞にも言い難く、私はひどく失望した。市長が、この問題に少しでも興味を持たれたら、担当部者の責任者を呼び、現状を聞かせ、受け入れ可否を検討させる位の事は、して頂けるものと期待していた。それなのに、市長が得意げに喋ったのは、自宅の屋根に逸早く太陽光パネルを設置した、自身の先見性を誇る自慢話であった。私は大阪市役所だけでなく、玉名市役所も嫌いになった。そんな状況下で、玉名市周辺部の和水町、南関町では震災後、町営住宅を整備し、被災者には一年間無償で貸し出している。これがヒューマニズムと言うものである。玉名市は、九州新幹線の新玉名駅も開業し“県北の雄都”等と自慢しているようだが、弱者に優しくないイメージを持たれぬ様に、私個人でも出来る範囲の活動は、これからも続けたいと思う。終わり


学校規模適正化

過日の玉名市議会便りに、学校規模適正化委員会が発足し、審議が始まったとのニュースが出ていた。やっと始まったかと言う想いと余りにも遅きに失したという感は否めない。昭和30年代、私が通った石貫小学校の生徒数は約240名、私のクラスは45名ほどだった。(私の2級上は2クラスだったとか)それでも私は6年の3学期から、寄留と言う違法措置で、2千余名(11クラス)の規模を誇る玉名町小学校に転校して、玉名中学に進学した。
それが今や、石貫小学校は全校生徒70名。当時の3割である。勿論玉名町小学校も、730名と当時の1/3になっている。この間半世紀余り、世帯数はそう変わらないのに、一世帯当たりの子供の数が約1/3に減ったのが大きく作用している。多分これは全国的傾向だろう。
私は嘗て5年間に亘り、石貫校区の公民館支館長をしていた。その当時、教育委員会の行事が開催され、市長も同席されていたので、私は思い切って持論をぶつけた。その内容は『玉名市の小学校で、石貫・三ツ川・月瀬小は、下から数えた方が早い小規模校であり、このままでは早晩複式学級になる。そうなれば、親は益々自分の子供を小規模校には入れたくなくなり、更なる生徒減少の悪循環が始まる。自分はアパートを建設して、一人でも石貫小の生徒を増やそうとしているが、現実には子供が石貫小学校に入学する年齢に達すると、判子で押したように他の校区(大半が玉名中学に進学出来る築山小学校区)へ転出される。過去、アパートを退去して、石貫に定住されたのは僅か一家族である。これでは将来、石貫には若者が居なくなり、地域が崩壊する。従って上記の小規模3校を統合して、バス通学に出来ないか?仮に3校を石貫小に統合することに、他の2校区が反対なら、低学年・中学年・高学年に分けて、従来通り3校を活用する方法もある』と。
この私の提案は、かなり新鮮だったと見えて、教育長に代わり市長自らが回答された。「徳永さんの提案は一理あるが、各校区には昔からの“歴史や伝統文化”があり、小学校の廃止統合は、それらを断ち切ることで、簡単なことではない」との回答だった。私はその日それ以上の深追いは無理だと諦めたが、後日懇意の2議員を通じて、この問題を議会で取り上げるよう、お願いした。
時代の変わり目に必ず起きるのは、変化を嫌う人々の抵抗である。今、漸く議論の俎上に上った学校統合に最も抵抗するのは、当該地域よりもむしろ教職員組合だろう。私は昔から日教組嫌いである。何故なら、倒産やリストラの心配がない恵まれた職場に居ながら、権利を振り回し、自分達の利益(=我儘)を守ろうとするからだ。私が、玉名中学を卒業して進学した玉名高校は、今考えれば紛れもなく、教員養成高校だった。進学クラスの半分近くが、熊大教育学部志望だったからである。と言うことは私の問題提起は、玉名高校出身の後輩達の職場を、奪うことになるかも知れない。
それでも私は言いたい。学校は教職員の為ではなく、児童生徒の為に有るのだ。そして何よりも、私自身が同級生のお陰で、今尚楽しい思いをしているからである。今年の玉名市納涼花火大会は、東京から放射能を避け、遥々九州まで来られた人々と一緒に、打ち上げ場所から間近の菊池川土手で見学した。そして私はその夜、半世紀前に玉名町小学校に転校した当時、クラスメートになったKさんを呼び出し、一緒に花火を見て、更にその友人Mさんのお宅にお邪魔して、私達はとうとう深夜までご馳走になった。こんな楽しい一夜は、私がマンモス校の玉名町小学校に行かなかったら、到底実現し得なかった。
教育委員会の皆様、お願いですから先生方の職場を維持することばかりに注力せず、私のような楽しい思いが可能となる学校環境を、今の子供達にも残してあげて下さい。その為には、小規模小学校の統廃合は最低限必要です。終わり


冷却

大震災からもう2ヶ月以上が経過したのに、TVのニュースは今以て、福島第一原発の事故対策が延々と報じられている。私はこのニュースを見ながら、大方の国民は「今日も又か!」と無力感に苛まれ、聊か憂鬱な気分になっていると思う。と言うのも、事故後の推移が今尚流動的で、複雑且つ専門的過ぎるからである。燃料棒が解け落ちるメルトダウン、汚染水の海への流出、保管場所の不足など、今頃になって分かった様な言い振りである。関係者は最初から分っていた筈だが、国民の動揺を危惧し、事実の発表を押さえたに違いない。この種の話は企業内では良くある。私の現役時代にも、半導体工場から有毒の液体を誤って河川に流し、魚が死んで浮いたのを、関係者が密かに回収していた。(メルトダウンが起きると、棒状の核燃料集合体の表面積が縮小して高温になり、最悪の場合は圧力容器と格納容器を破損させ、地下まで突き抜けて大量の放射能を拡散して、チェルノブイリと似た状態に成る)
私は若い頃、エアコンの設計者だった。エアコンはフレオンガス(注)を使って室内を冷暖房するシステムである。このガスは無色透明で無味無臭、不活性で人畜無害とされていたが「男子が出来なくなる」と言う変な噂もあった。(何だか放射能に似ている)確かに毎日のように試験室でフレオンガスを吸い込むことが多い設計部門の人々の子供は、何故だか殆んど女子だった。私は一笑に付していたが、新製品開発が失敗続きで、試験を何度もやり直し、人一倍フレオンガスを吸い込んだ上に、自分の子供も二人続けて女子だったので “若しや” と危惧したが、幸いにも三人目は男子に恵まれた。 注:フレオン=CHCLF2(オゾン層破壊と温室効果の為現在使用禁止)
当時は、今とは異次元の世界と云えるほど、大らかな職場環境で、勿論「セクハラ」などの言葉すらない時代であり、ベテランの男性社員は、女性社員の脇を通りすがりに“電光石火の早業”で胸や尻を撫で「キャー!触らないで」と言わせて喜んでいた。私が奇声に驚いて顔を上げると、触ったご当人は既に数歩先を“何食わぬ顔”で歩いている。尤も、触られるのは特定の女性であり「大袈裟な奇声」とは裏腹に、格別嫌な顔もしていなかったので、触られない女性は女性で “複雑な心境”ではなかったろうか?他方お触りのご当人は、本業の設計でも、一目置かれる位の“テクニック”の持ち主であり、管理者からのお咎めは、なかったと思う??
話が脇道にそれたが、エアコンの冷熱源は水か空気で、昭和30年代までは主に地下水が使われていた。小学生時代、母に連れられて、熊本市の国立病院に通っていた頃、上熊本の駅前にはパチンコ屋があり、その店先の用水路には、水が滔々と流れ出ていた。後に知ったことであるが、これはエアコンの冷熱源として、井水(地下水)を利用していたからである。地下水の温度は年間を通じて18度前後で、理想的な冷熱源だった。然し、日本全国で地下水の汲み上げが増えると、地盤沈下や地下水の塩水化現象が起きて、汲み上げ規制が始まり、このシステムは昭和40年代以降、急速に廃れた。つまり地球が長年の間に蓄えた地下水といえども、無尽蔵ではなかった。
次に出たのが、冷却水を空気に触れさせて冷やし、再循環して使用するクーリングタワー方式である。これは温排水を繰り返して使用するので、節水出来る優れたシステムだった(但し暖房は電気や蒸気や温水を使う)。然し、昭和40年代以降の高度成長と、自動車の排ガス等、大気汚染物質の急増により、水の酸性化が起きてエアコンの熱交換器に穴が開く問題が生じた。その対策として出てきたのが空冷式、即ち水を使わず、空気で直接フレオンガスを冷やすシステムである。これは今以て主流であるが、無尽蔵とも言える空気でも、大都市で夥しい台数のエアコンが一斉に稼動すれば、その排熱で空気が熱せられ、今度は所謂ヒートアイランド現象が起きるようになった。
今、福島第一原発で、放射能汚染水の処理が大問題になっている。最初は原子炉を冷やす為に真水を注入し、それが尽きると次に海水を注入し、その排水の捨て場がなくなり、海に捨てて批判を浴びて、やっと今度は熱交換器を設置する計画らしい。ちょっと考えれば分かるように、こんな手法は持続性がない点で、前記の地下水枯渇と同じである。東電という大企業の技術者が、凡人の私でも気付くような問題への取り組みが遅れる。大震災が起きてもうやがて2ヵ月半。メガフロート等の“まがい物”に頼らず、事故発生後、直ちに日本全国からデイーゼル発電機と、チリングユニット(チラーとも言う水冷却システム)を掻き集めたら、今頃は安定的な原子炉冷却システムが完成していただろう。
私は勿論一人の評論家に過ぎないし、放射能の為に、現場作業は簡単ではなかろうが、東電の対応がここまで後手後手になったのは、放射能の問題だけだろうか?きっと彼等は頭が良過ぎて、色んなアイデアが整理出来ず、結果として手遅れになったのだろう。賢過ぎる人間はパラメーターが多過ぎるので、得てして優柔不断。一大事には“単細胞的な割り切り”が肝心である。私は単細胞なので、これまで何度か遭った危機的状況を、首尾良く乗り切った。東電さん!チラーを全国から掻き集め、原子炉と頭を冷やしなさい!終わり


パラダイムシフト

東日本大震災の被災者の皆様には心よりお見舞い申し上げます。
地震が起きた時刻、私は裏山の椎茸ホダ木に、日除けの覆いを掛ける作業をしていたが、地殻の揺れを全く感じなかった。然しその夜から、TVで流れる映像は一変した。全てのチャンネルが震災関係の特別番組に切り替わり、まるで特撮映画のシーンのような信じられない光景が、これでもかこれでもかと放映され始めた。最も衝撃的だったのは、上空や高台から撮影された、全てのものをアメーバのように飲み込む、恐ろしい津波の映像だった。私は、家が土台から引き剥がされたり、車が水に浮く事にとても驚いた。津波の犠牲者は、戦後最大の2万人を超えたとの事。一つの町が、そっくり地上から消えたに等しい。
福島第一原発の深刻なダメージと危機対策も連日報道されている。視聴者の多くが、ウクライナのチェルノブイリや、米国スリーマイルアイランドの事故を連想したに違いない。私は小さな頃、父に連れられて玉名(旧高瀬)駅に行き、SLによる貨車の連結作業や、高瀬火力発電所(大正14年完成、熊本県内唯一の石炭火力発電所、昭和31年廃止)の大きな煙突とか、鉄塔などの大型構造物を見るのが大好きだった。当時は冷戦の最中で、米ソが核実験でしのぎを削り、南太平洋ビキニ環礁では、焼津の漁船第五福竜丸が、死の灰を浴びて久保山愛吉氏が亡くなった。ストロンチウム90やセシウム135は、当時良く聞いた単語でもある。そんな私が、長じてエンジニアになったのは、ある意味で自然の成り行きだったのかも知れない。
当時から半世紀有余、科学技術の進歩は止まるところを知らず、機械設備の高度化・複雑化が急速に進行し、今では殆んどの設備が、コンピュータをフルに駆使せねば、管理出来ないレベルに至った。
問題は原発設備が、今回のような大地震と大津波をも念頭に置いた“フェイルセーフ思想”に基いて造られていたかである。恐らく内陸では、原子炉冷却用として海水の利用が難しくなるので、海岸沿いに立地し、その結果今回の津波を被ったのだろうし、配線・配管を含む、機器の耐震強度も不足だったに違いない。
それにしても原発は厄介な代物である。殆んどの機械設備は、地震や津波に遭えば、瞬時に機能が停止するが、原発だけはその逆に動く。即ち、核反応を抑制する制御棒の機能不全や、冷却水の不足による燃料棒の溶解(メルトダウン)挙句の果ては放射能漏れとなる。車に例えれば、事故で運転手が気を失い、アクセルが踏み込まれたまま、暴走を始めた状態に似ている。こんな時は、安全な場所に乗り上げさせて、エンジンを切るしかない。今、東京電力が命がけでやっている仕事は、正にこれである。
諸外国は、今回の震災で日本人が略奪に走らなかったことを賞賛しているが、私は、今回の震災を経験して、日本はもう一段上へと、パラダイムシフト(国論統一)をするような気がしてならない。あたかも中世において、それまで長い間支配的だった天動説が覆ったように、全知全能に思えた科学技術が、自然災害に対して非常に脆弱だったことや、所謂“平凡な日常生活”が、如何に素晴らしいものであるかを、多くの国民が改めて悟ったからである。地震が昼間に起きたことや、まさに小沢氏が「生活が第一」と標榜した民主党が、政権の座にあったことは不幸中の幸いだった。自衛隊の存在意義が与野党を通じて統一されることも大きい。一方、今後原発の新規立地は殆んど不可能になり、太陽熱や地熱、風水力やバイオマス等の自然エネルギーが見直されるだろう。今回の津波の被災地では、鉄とコンクリートで築かれた巨大な防潮堤に変わり、ハイテクを駆使した革新的な避難システムや、より高地での新規住宅地造成、大規模移住による漁業スタイルの大きな変化が生じるに違いない。魚好きな私には辛いことだが、復興までの数年間は漁獲量が減少し、魚価が高騰するだろう。それは日本人の食生活の変化にも繋がる。
そして日本人も、これまでの“大国意識”から、所謂“普通の国”へ徐々に変貌するだろう。これは決して悪いことばかりではない。今までの日本は、米国や中国、ロシアなどの所謂大国とのせめぎ合いに注力し過ぎ、聊か背伸びをしていた。これからは身の程をわきまえて、これらの国々とは一線を画し、小さくても“国民一人一人が安全に暮らせて、幸せを感じる国づくり”を目指さねばならない。終わり


自転車

数日前のことだった。軽トラで日課となっている田圃の見回りに行くと、傍の川底に何か黄色い物体が沈んでいる。草や木の枝が引っ掛かっているそれを引き上げると、真新しい自転車だ。良く見ると、後輪はパンクし、スタンドは曲がり、ハンドルはそっぽを向き、鍵も壊れている。然し錆も殆ど無いので、投げ込まれて間もないようだ。私はこの自転車を自宅に持ち帰った。仕方がない、又修理するか!
1.パンク修理
治具を使って後輪のタイヤを外し、中からチューブを引き出し、空気を入れて水に浸けてピンホールを探す。何と数箇所から泡が出ている。これは駄目だ!仕方ないからチューブを買い、取り付けたらマタマタ同様の空気洩れ!どうも交換治具にシャープエッジがあってチューブを傷付けたらしく再度の交換。今度はエッジの無いプライヤーの柄を使って慎重に交換、やっと成功。
2.スタンド修正
スタンドを取り外し、パイプベンダーを使って「あーでもない、こーでもない」と試行錯誤の末にどうにか修正に成功。勿論機能は果たすが、外観は新品同様とまでは行かない。
3.ハンドル調整
どうも突き落とした時の衝撃でハンドルの軸が僅かに曲がった様で、中々抜けない。やっと抜いて見て、私は初めてハンドル固定の仕組みを理解した。
私は小学5年の時、漸く自転車に乗れるようになったが、親父の自転車は28インチ(今の普通車は26インチ)だったので、サドルが高過ぎて足が地面に届かず、三角乗りだった。そこで伯母が、中学進学祝いに山口の新車を買って呉れた。私はこの自転車を中学・高校・大学そして就職後と10年間以上愛用した。大学時代には、夏休み前など30km程ある自宅まで自転車で帰る為に、シマノ3ハブ(内装3段可変速ギア)を取り付けた(途中の長い田原坂を登り切るには、可変速ギアが必須)。そして就職後は職場女性(自家が自転車店)の薦めにより、外装10段変速のサイクリング車を購入し、サイクリストの三浦さんに誘われ、静岡県内をあちこちサイクリングした。然し昭和45年に車を買って以降40年、私は自転車とめっきり縁が薄くなった。
そんな私がこの2~3年で6台の自転車を集めた(拾った)。内一台は長女が福岡時代に使っていた、ステンレス製内装3段ギア付きの高級車(?)だが、他の5台は全て、我家の田圃の周辺に捨てられた放置自転車である。今の時代、駅周辺や繁華街での放置自転車は珍しくないかも知れないが、田舎も同様である。ちょっと草刈りを怠り、茂みが出来ると不法投棄場所に早代わりする。だから好む好まざるを問わず、捨てられた物は拾って来るしかない。然し今の時代、うるさいように廻って来る廃品回収業者も贅沢である。私が不法投棄品を置いている中から、金目の物だけを抜き取り、残りの品には見向きもしない。自転車もその部類に入る。そして我家の自転車置き場は、遂に“立錐の余地も無い状態”となった。
私は思う。団塊の世代は子供の頃「物を大切にしなさい。粗末に扱うと罰が当たりますよ!」と教えられて育った。だから放置自転車でも立派に役立つことを証明したい。その格好の舞台が近づいている。8月のチキントラクターワークショップと、10月の稲刈り体験だ。何れのイベントにも県外を含めて10名内外の人々が集まる予定だ。「さあ皆さーん!今から片白の田圃と少岱山ぞうめきの滝の見学に出発しまーす。各々好きな自転車に乗って下さーい。」終わり


英語

過日のTVで楽天とユニクロの社長が、社内の公用語を英語に切り替えるとのニュースが流れていた。私はこのニュースを見て15年前のことを思い出した。当時は日本企業が海外進出に躍起になった時期で、私が勤務していた企業でも、半導体メモリーの生産拠点を世界規模で展開する為に、米国に続いて、アジア(台湾)、欧州(ドイツ)の拠点を築く為のプロジェクトが立ち上がった。私は課長を降ろされ、急遽そのプロジェクトメンバーに指名された。そして間も無く社内で準備会議が始まった。そのメンバーは、台湾提携企業の幹部とエンジニア、当社の本社幹部と営業マン、熊本工場の部課長・エンジニア等々、総勢20名位だったと記憶する。
当時の会議の公用語は「英語」だった。然し当時は、パソコンを駆使してプレゼンテーション出来る人は少なく主流はOHPだった。私は台湾企業の社員の英語力に舌を巻いた。彼らは殆ど私より一回りも若かったが、堂々と壇上に上がり、流暢な英語で延々とプレゼンテーションをした。私も装置搬入業務の責任者なので、当然プレゼンをせねばならない。然し私の英語力では、彼等に到底太刀打ち出来ない。初回は“しどろもどろ”になって恥をかいたので、以後は中身で勝負しようと、小泉流のキャッチコピーを駆使して対抗した。それが「Preparation(準備)・Safety(安全)・Clean(清潔)」だった。然し日本人と台湾人の合同会議では、やはり日本人の英語力の劣勢が顕著で、どうしても彼らのペースに巻き込まれ、日本人の出る幕は少なくなる。日常的に海外と英語でビジネスを展開している台湾企業と、海外とのコンタクトは海外営業部や商社に任せ、普段は日本人だけで仕事をしている日本企業の格差は歴然としていた。そんな中で、当時の日本人の口癖”Should be done.”(やらねばならない)だけは、不思議と今も私の脳裏に残っている。
今世界には100以上の国々があり、言語の種類も方言などを加えると、それ以上だろう。然しその中で殆どの国で通用するのは英語である。国際化が進んで国境の垣根がどんどん低くなる現状で、英語が不得手な日本人のハンデは想像以上のものがある。私はこの問題について以下のように考える。即ち日本は国土面積を除けば、世界でも有数の大国となった。従って教育についても未だに“日本語が大事”との意見が主流である。処が台湾ではそんな国粋主義的な考えは少数派で、如何に他国語(英語・日本語etc)をしゃべれるかが評価基準になっている。私が台湾時代に接したFacility(工場施設)部門の責任者などは、6ヶ国語(北京,福建,広東,高砂,英,日)を自在に駆使していた。つまり個々人の言語能力は、言わば国力に反比例するのだ。
日本は太平洋戦争後、廃墟から立ち上がり、世界第二位の経済大国にまで成った。然しその栄光も最近では陰りが差し、今後は嘗ての大国イギリスの後を追う運命にある。処が世界の中での日本語の地位は低く、言語力ではイギリスよりも遥かにハンデが大きい。そんな厳しい情勢の中で、一筋の希望は中国の存在だろう。今や中国の国力は日増しに増大し、日本ばかりかアメリカをもキャッチアップする勢いである。その中国と日本は漢字という共通の文字を使用している。私は嘗て台湾で得がたい経験をした。それはプライドの高いエンジニア連中が英語で苦労する中、私が連れて行ったテクニシャン数名は、漢字を使った筆談とゼスチャーで、台湾人と上手にコンタクトしたからだった。
この文字の共通点を生かし、日中の文化交流・人材育成を図ることが、両国の将来にとって極めて大切になる。そして私は今後の日中関係の鍵は、日本人の“心の中次第”だとも思う。日本人が敗戦をきっかけに抱いた“欧米人に対する過度の劣等感とアジア人に対する過度の優越感”の両方を捨て去り、人類皆平等の思想を持てれば、世界中の人々が日本に憧れて学びに来るだろう。終わり


辞職

先日、鳩山首相が小沢幹事長共々辞職したとのニュースが飛び込んだ。昨年8月末の歴史的な政権交代から9ヶ月、余りにも短い政権であった。それにしても昨年末からの半年間、TVのトップニュースは毎日の様に、沖縄普天間基地の移設問題を報じた。私は過去数十年間に起きた各種の政治的問題の中でも、この問題はかなり異色だったと思う。それは須く軍事的見地から論ずべきテーマを、もっぱら周辺住民の被る騒音や、事件事故の観点から論じたが故に、問題の本質が歪められ、百花争鳴の如き様相となったからだ。そして土壇場になって鳩山首相が(中国の膨張に対する)抑止力の観点から、沖縄以外への移設は難しいと気付き、辺野古沿岸区域に戻してしまった。首相に限らず、日本人は問題の本質を見極めることが不得手で、多くの場合情緒的に反応する。首相辞職の引き金ともなった社民党の主張などは、昔の日本社会党が一枚看板の様に安保反対を唱えていた発想と殆ど違わない。私は今回の政変劇を見ながら自身の過去を思い出した。私は現役時代に4度も辞表を提出した経験を持つからである。
その一:1984年(37歳)
私は業務用エアコンの事業移管に伴って、三菱電機静岡製作所から和歌山製作所に転任し、当時は設計主事だった。大所帯の静岡から小所帯の和歌山に移ったので、私の担当するエアコンは、和歌山製作所売上げの半分近くを占め、私は文字通り和歌山の運命を左右するキーマンになった。そんな前途洋々の立場にありながら、自身が静岡時代に設計したマルチセントラルエアコンの市場クレームが切欠で、辞表を出す羽目に追い込まれた。丁度鳩山首相が、自ら手をつけた普天間基地問題で躓き、辞職したのと良く似ている。然し私の辞表は結局受理されず、同年末同社熊本工場に転任となった。和歌山製作所での勤務期間は僅か3年4ヶ月であった。
その二:1997年(50歳)
十余年務めた三菱電機熊本工場の課長職を後進に譲り、台湾とドイツの子会社に9ヶ月ほど出張して、半導体工場を立ち上げた。台湾は大成功だったが、ドイツではチームワークの乱れから上司の意向に添えず、終了を待たず帰国した為に、その後一年半殆ど仕事がない閑職に追いやられた。堪らず辞表を提出したところ、懇意にしていたN社の専務が、社長室長の肩書きで出向を受入れて頂いた。
その三:2000年(53歳)
三菱電機の子会社に出向となり、新規事業の半導体製造装置の外販に取り組んで僅か1年。クレームの連発に加え、海外事業の失敗もあり、詰め腹を切る形で辞表を提出した。これは受理されて、私は60歳の定年を待たず、53歳の若さで三菱電機を早期退職した。
その四:2003年(56歳)
郷土玉名に進出した荏原製作所の子会社の荏原九州に再就職し、品質保証部長の肩書きを貰ってISO9001の取得に成功した。翌年には技術部長に昇格し、前途が開けたかに見えたが、思いもよらぬ腹心の部下の離反が切欠となり、志半ばで最期の辞職をする羽目となった。
人間は欲の塊かもしれない。若い時分の私は欲もなかったので、多くの人々に可愛がられた。特に静岡時代は客先への出張には、本社や営業所から私を直々に指名されることもあった。和歌山時代には、所長室に何度も呼ばれ、直々に期待の言葉を頂いた。(この所長はその直後、交通事故でご夫人共々他界された)然し年を経るに従い地位も向上すると、ライバルとの対立や、上司との軋轢も比例して増す。
きっと鳩山首相も、若い時分は周りの皆に可愛がられたのだろう。然し首相にも登り詰めればそうは行かない。僅か9ヶ月の政権期間は本人にとっては不本意極まりないかも知れないが、故佐藤首相の様に長ければ良いというものでもない。私は鳩山氏にエールを送りたい。あの普天間基地移設問題を白日の下に晒して世間の耳目を集めたのは、功績とも言えるからだ。そして後事を託された菅首相は、鳩山氏が説明し得なかった“抑止力の実態”を国民に分かり易く説明し、理解を得て欲しい。終わり


懐かしい未来

首題の言葉は、現代のグローバル化社会に逆らい、ローカル化・コミュニティの再構築・伝統文化の見直しなどを通じ、持続可能な社会を目指す一種の「エコビレッジ運動」で、最近では「トラジションタウン」活動とも呼ばれ、小さなブームになっている。私は昨年6月訪英した序に、従姉夫婦と一泊二日の行程で、トラジションタウンの先進地、トットネスまで足を伸ばした。当初は、私一人で鉄道を使って行く積りだったが、私の英語力(特にヒアリング能力)の不安と、従姉夫婦の興味もあって、結局車で同行して貰うことになった。トットネスはロンドンから東に高速道路経由で約5時間、その昔メイフラワー号が新大陸に出発した港「プリマス」にほど近い、坂道の多い小さな田舎町だった。
私達3人は川の畔に車を停めて、1~2時間街中を散歩した。当初はトラジションタウンと聞き、一体どんな町だろうとの期待もあったが、一見何の変哲もない小さな港町に過ぎず、それらしい光景は、川の畔にあった古い“水車小屋”位しか見つけることが出来なかった。私達は遥々遠くの町まで来たので、辺りを散策しつつ、彼方此方でトラジションタウンについて質問した。処が殆どの人が「そんな所は知らない!」と応える。何人目かの人がやっと教えてくれたその場所は、パソコンと沢山の本が置かれた小さな店の奥の、狭くて暗い2階の一室だった。然も当日は生憎日曜日で責任者は不在。留守番の女性が、そこらに置いてあるパンフレットを適当にまとめて渡してくれた。私達は仕方ないので、町を散歩して壊れかけた古城や、伝統的な住宅街の写真を撮り、坂の途中にあった食品店に立ち寄り、私はパーマカルチャーの友人に、シリアルをお土産に買い、歩き疲れたのでレストランで早目の夕食を摂った。
然しその日、トットネス郊外に予約していたB&B(Bed and Breakfast の略語で朝食付きの宿舎、イギリスの田舎ではホテルよりも人気)は私の予想以上だった。ロンドンシティーも勿論素晴らしいが、イギリスの田舎は正に絶景である。低い陸が遥か彼方までうねり、広大な牧場の中では数百頭の牛がのどかに草を食んでいる。そして今では人が住まなくなった見事な藁葺屋根の住宅を、公園として大切に保存してある。私は何時までも日が暮れない夕刻の1~2時間、辺りを散歩しながら夢中でカメラのシャッターを切った。
その夜宿泊したB&Bは、我等と同年代の老夫婦と子供が2人、父と息子は牧畜、娘は勤めで、老婦人がB&Bの主だった。建物は自宅兼用のレンガ造りの一部3階建てで、3ベッドルーム、2バスルーム仕様。私達はその内の2室を借りて宿泊した。私の宿泊室はダブルベッド。その数日前に行ったパリの安ホテルとは別世界のような、素敵な飾り付けの寝室だった。そして翌朝の食事は、ホストのご夫人が腕によりをかけたご馳走の数々。私はイギリス料理は不味いとの先入観を持っていたが、乳製品をふんだんに取り入れた朝食はとても美味しかった。
このように、態々遠いトットネスまで足を伸ばしたのは、パーマカルチャーの先進地を視察して、帰国後日本の皆さんに報告するのが目的だった。然し私が積極的に発表の場を求めなかったこともあって、その機会も逸し、資料も何所かに散逸してしまった。私は思う。そもそも「懐かしい○○」と言う表現自体、実体験した人にのみ当てはまる言葉であって、高度成長期以降の「豊かな日本」で成長した若い世代には所詮バーチャルの世界でしかない。そして私は、昭和30年代前半までの所謂“エネルギー革命以前の日常生活”を「夏暑し」「冬寒し」「家暗し」「仕事辛し」「時永し」等々否定語では語れども「懐かしい」等と言う形容詞で語ることなど、到底出来ないのである。終わり


チキントラクタ

先回のパーマカルチャー理事会で、今年のスクールは講師の都合で開催出来なくなったことが報告された。その代わりに各理事が主体となり、何らかのプロジェクトを主催することが決まった。私も理事の一人なので、チキントラクターの建設を表明した。何故なら、我家に今ある鶏小屋は、2000年と2003年に建設したもので、前者は既に壊れて使い物にならず、後者は今年になってキツネと思しき動物が夜間に侵入し、数羽の鶏が殺されて首を持ち去られた。一昨年20羽飼った鶏は、この1年半の間に事故死や病死で12羽までに減り、おまけに殺戮のショックからか、暫くの間は産卵率が低下した。春の繁殖期にキツネが来るのは分かっていたが、広い養鶏場の全周に地下トンネル防止を施すことも出来ず、むざむざと殺されてしまった。そんな訳で、私にとって新鶏舎建設は焦眉の急だったのだ。
チキントラクターとは、鶏をトラクターに見立てて、土を耕させ、糞をさせ、その跡地に野菜などを栽培する、極めてパーマカルチャー的な農法である。やり方には大きく分けて二通りあり、一方は小さな移動式鶏小屋を作り、移動させながら、その場所の草を食べさせるやり方である。他方は、固定式の鶏小屋を数区画に分け、定期的に鶏を移動させて、空になった区画で野菜を栽培する手法である。
私は最低20羽は飼いたいので、後者を選択した。然し、パーマカルチャー代表理事のご照会で三重のMさんから取り寄せた資料は、7区画になっていた。私は設置場所を自宅前のマンダラガーデン跡地と決めたが、20羽飼うとなると面積的に3~4区画が限界で、結局3区画とした。勿論この方式でも、4ヶ月毎に鶏を移動させれば、鶏のいない区画を最低8ヶ月間は畑として使うことが出来る。
3月下旬にワークショップを企画して、パーマカルチャー関係者に広報して頂いたが、意外に反応が鈍く、応募されたのはFさんとNさんのお二方だけだった。私は10年余り茶道を習った谷口恭子先生から何度も聞いた「困った時には何所からか“救いの神”が現れる!」と言う“言葉”を思い出した。そして希しくも今回その通りになった。ドイツ人パトリックとスイス人マルチナのwoofer2名が、ワークショップの前夜、突然我家に来たのだ。
そして、翌日の日曜日は5名で作業し、何とか小屋本体の移設を完了した。私はその夜、何とか一区画だけでも作り上げたいので、協力して欲しいとwwooferに懇願したところ、滞在を一日延長して呉れた。そして私が予め解体しておいた木塀を、マルチナが切断し、二人で設置場所に運び、本当に2日間で一室を完成した。私は息の合った二人の仕事振りに水をさすまいと、2日間は敢えて建設作業には手を出さず、裏方作業に徹した。数々の素晴らしい建築様式を生み出したヨーロッパ人は、押並べてクラフトマンシップが豊かである。女性でも日本人男性並み、男性はそれ以上の仕事が出来る。嬉しくなった私は月曜の夜、天水の草枕温泉に二人を誘って労を労った。その日は快晴で、露天風呂から眺めた日没は、私が過去に見た中で最高だった。私は今回、チキントラクターのワークショップをやり、ふと岐阜県美濃加茂市にある“墨俣の一夜城”を思い出した。(以下参照)
永禄4年(1561)美濃攻めにとりかかった信長は、美濃国内に橋頭堡を築くことを決意。長良川や犀川などが合流し、洲の股の形となっている墨俣を築城の地に選んだ。しかし、敵地であるため、妨害する敵を防ぎながら資材を運び、短期間に築城しなければならず、難工事が予測された。 永禄9年(1566)まず信長の重臣・佐久間信盛が築城工事に着手したが斎藤方の攻撃を受けて失敗。次いで柴田勝家が着工するがこれまた失敗に終わる。この時、まだ軽輩だった木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)がこの難工事を買って出て、信長の許可を得ると、藤吉郎はこのあたりの地形に詳しい蜂須賀小六正勝ら近郷の野伏たちを駆り集め、長良川の上流から資材を筏にくんで流し、あっという間に砦を築き上げてしまった。世にこれを「秀吉の一夜城」と呼ぶ。終わり


ウッキャー

相撲に「うっちゃり」という決り手があるが、これは土俵際まで寄られたり、又は土俵際で吊り出されそうになった力士が、腰を落とし体を捻って、相手力士を土俵の外へ投げる技で、「捨てる」を意味する「打ち遣る」が語源で、そのままでは寄り切られるところを、逆転する技である。だから、ぎりぎりで何事かを逆転することを「うっちゃる」と表現する。
熊本弁には、これに似た発音の言葉がとても多い。「うっ立つ」「うっ座る」「うっ走る」「うっ止まる」「うっ散らかす」「打ったくる」等々、動詞が殆どである。似た言葉に「キャー」というのもあり「キャー言う」「キャー使う」「キャー脱ぐ」「キャー見せる」「キャー食う」「キャー燃やす」等々で、これも動詞である。然し全ての動詞に付く訳でもなく「うっ下がる」「うっ散らかす」とは言うが「うっ上がる」「うっ片付ける」とは言わないところが面白い。
これらの接頭詞は独特のニュアンス若しくは意味を含む。例えば単なる「立つ」と「うっ立つ」はどう違うかと言えば、前者は「起立」即ちstand upであり、後者は「着飾る」即ちdress upの意味となる。日英両語共に相関があるので、ひょっとしてこれらは外来語なのかもしれない。一方座る方は「うっ座る」となるが、これも独特のニュアンスがある。単なる「座る」よりも「うっ座る」が強く「座り込み」に近いのだ。例えば酒席で誰かが私の前に座り込み、議論を挑んだような場合は「うっ座る」がピンと来る。
先日、隔年開催の小学校同窓会があり、私が幹事を務めた。出席者は男性8名、女性7名だった。同級生は在学当時45名だったので、丁度1/3の参加率となる。私は熊本に帰郷した翌々年、即ち昭和60年以来の二度目の幹事役だった。一次会は何時もの温泉旅館の尚玄山荘、過去の二次会は大抵カラオケスタジオだったが、今回は我家に誘ったら男女共に全員が来てくれた。こんな時は懐かしい熊本弁の会話が花盛りとなる。近くに住むK君は珍しく和服姿で、稲藁で巻いた1m余りの自然薯をお土産に持参してくれた。私は何をボケッとしていたのだろう。何気なくそれを受け取った瞬間「ポキッ」と小さな音がして、先端が折れ曲がった。「アーアーうっかいだ!」。これぞ絶妙のトークである。
今カナダ・バンクーバーにて冬季オリンピックの真っ最中である。昨日は長島選手と加藤選手が夫々メダルを獲得した。特に長島選手は力を出し切り、ゴールして後に態とこけたのか、偶然なのか分からないが、暫くの間リンクにひっくり返って、喜びに浸っていた姿がとても印象的だった。この場合はやや異なり「つっこけた」がぴったりである。
一方農業関連では、作物を植えたり扱(こ)いだりする作業が多いが「うっ扱ぐ」とは言っても「うっ植える」とは言わない。どうも吃音との関係もあるようだ。だから折り取る意味の「かぐ」には「うっかぐ」があるが、繋ぐ意味の「うっ繋ぐ」や「うっ接ぐ」とは言わないのだ。
昨日は私の63回目の誕生日、念願のインプラント治療の日と重なった。行きつけの歯科は、私の手術の為に3時以降休診の札が下がっている。目隠しされ、局部麻酔で歯茎を切開し、骨にドリルで穴を穿ち、セラミックの歯根をねじ込む治療手順が大体分かる。私は、ガリガリと骨にドリルが食い込んでいく様を思い浮かべつつ、椎茸駒を打ち込む前のドリル穿孔作業を連想した。
一年前に入歯を作ったが、とうとうモノにならなかった。片持ちなのでとても外れやすく、寝る前に外して洗うのも面倒くさい。そして何よりも、口を大きく開けて入歯を出し入れする様が、何とも“爺臭く”嫌で堪らなかった。これからはインプラントのお陰で、食べ物が奥歯に「うっ挟まり」肉や餅を食べれば入歯が「おっ取れたり」「キャー外れる」心配も無くなるだろう。終わり


主体

主題からお堅い話で、申し訳ありません。興味がない方は、どうぞ本項は読み飛ばして頂きたい。
私は今、先日何気なく立ち寄った書店で目に付いた「日本辺境論」を読んでいる。この本の著者は、日本人は「他者との比較でしか自分を語ることが出来ない」即ち「自分の立ち位置を他者から測らねば特定出来ない習性(欠点)を持っている」と述べている。私は全くその通りだと思う。私がその典型だからだ。否、昔はそうだったと言い換えたい。
私は課長時代の10年間近く、設備管理を担当していた。これは大変地味な仕事だった。半導体産業は、最先端設備を使用するが、その殆どは社外から購入していた。総投資額は、毎年数百億円に達し、全社の設備投資の半分以上を占めていた。(この異常状態を解消する為に、その後多くの企業が半導体事業を分社化した) 然も需要は絶えず変動するので、それに追従する為に、生産設備を速やかに新設・移設・貸借・売却・廃却しなければならない。その実務は生産部門が行っていたが、管理責任は私の課だった。
バブル当時は、生産増に伴う設備投資の激増、関連会社や協力会社投資の急拡大に、管理体制が追い付かなかった。何時かは国税局の立ち入りがあって、中小企業に対する設備投資の優遇税制を利用して、自社投資を下請け企業が導入したように見せかけていると指摘された。
私は部長から「何処何処が問題だとか、受身の話なんか聞きたくもない。アンタ自身はこの問題をどう解決したいのか?」と問われた。氏の“辛口”は際立っていた。然し沢山ある設備管理規定を何度読んでも理解できない。関西本部の規定をコピーして、改定を繰り返した上に、何枚もの帳票が添付され、それには幾つもの押印欄がある。関係者全員の連帯責任になっていた。こんな“持ち回り閣議”の様に、判子ばかり押させるルールを作ったら、中の一人でもサボれば、手続きはドンドン遅れるし、無責任体制になるのがオチである。
切羽詰った私は、部下の女性の助けを借りて、規定の流れを一目瞭然で理解出来るように、模造紙の上にフローチャートを作った。それを見た部長は「やっとその気になったな!」と評価された。その後H氏に部長が代わった。氏はこの問題を私に一任された。私は「全規定の抜本的書き直し」を決意した。コンセプトはSimple is best.とした。規定も帳票も一枚がベストと考え、一字一句を吟味して簡素化した。従来のルールは“主体性”が欠けていたので、私は全規定の冒頭に「この規定は○○部門が主体である。」との“文言”を挿入した。つまり規定が上手く運用されない場合は、主体とされた部門が責任を持つのである。
主体(チュチェ)思想は、核開発・ミサイル発射・パキスタンやイランへの核技術移転で世界を騒がす、北朝鮮を牛耳る朝鮮労働党のバックボーンになっている。その解釈権は同党が一元的に握り、局面に応じて自己を正当化しているらしい。米国とも対等と考える北朝鮮は特別としても、余りに主体性に欠ける日本人の考え方は、どう考えてもまともとは思えない。そしてこれこそが、日本の存在感が国力に見合うレベルに程遠い、最大の原因ではなかろうか?私はある時期、海外業務も経験したが、どの国の人々もはっきりと自己主張した。周りとは関係なく「自分はこう思う」と言い切った。
私は思う。日本人はもっと主体性を持つべきだ。それは今や民主党の頭痛の種となった“普天間基地移設”問題でも如実に出ている。鳩山首相は時間ばかり引き延ばして、何故結論を言わないのだ。「私はキャンプシュワブでもやむなしと思っているが、社民党が反対なので参議院で否決され、今はどうにもならない。来るべき参議院選挙で民主党が過半数を取れば“辺野古案”に賛成します。そうならなかった場合は、内閣総辞職をします」と。終わり


えーじゃないか

謹賀新年!私は来月、満63歳になる。私の父は52歳、母は74歳で亡くなった。今年私は丁度その中間年齢に達するので、ある意味では“親を超える”年とも言えるだろう。現役時代に就任した公民館支館長を5年間、宮総代を2年間務め、昨年3月やっと一切の公職から解放され、私は全く自由の身となった。そのお陰で昨年は米作りを主体に、パーマカルチャーの皆さんのお世話を、存分にさせて頂いた。沢山書いたブログも、パーマカルチャー関連が大半だった。そしてその多くが“辛口のコメント”になったと思う。然しこれは、私がパーマカルチャーを大いに評価し、そのメンバーを愛するからこそ、出た言葉だと分かって欲しい。又こんなことが出来るのは、我家に先祖伝来の家屋敷や、田畑・山林があり、地域の人々の理解と協力があったからこそでもある。その意味では、戦争の時代をくぐり、辛酸を舐めつつも、子孫に美田を残してくれた我が先祖に、感謝しなければならない。
今日本だけではなく、世界が大きな転換期に差し掛かっている。右肩上がりの経済が永遠に続かないことを、少しづつ自覚させる事象が出始めたからだ。地球温暖化然り、オイルピーク然り、マグロ等の海洋資源枯渇然り、私が関わっている農林業も又然りである。政権が代わっても、これらに対する有効な対策が出たとは言えないし、今後も出ないかも知れない。その一例として民主党の“農家個別所得補償制度”を知った地主が、中身も知らず甘い期待を抱き、遊休農地を貸したがらなくなっている。
そして私が最近自覚したのは、これらの諸問題は、我々の世代では解決が難しいと言うことだ。と言うのも、多分私のDNAには“右肩上がり”が刷り込まれている。現役時代のテーゼは、一言で言えば“右肩上がり”だった。だから私は(異なるテーゼを持つ)パーマカルチャーの皆さんに、絶えずフラストレーションを感じるのだ。ではどうすれば良いのか?引退か!黙認か!答えは簡単には見付からない。私は暫し沈思黙考した。そうだ!良い考えがある。“無責任”だ。私は30歳で主事に昇格して以来、30年以上もの長期間、高い目標を掲げ、常に責任を背負い、自らと周りの人々にノルマを課してきた。退職した今は、それとは異なるテーゼを持たねばならないのに。
そんな私の脳裏に、ふと思い浮かぶのは、江戸幕末の庶民が「えーじゃないか、えーじゃないか」と新しい時代の幕開けを囃した姿である。それだ!それだ!政権交代は第二の明治維新だ。「えーじゃないか」の精神が今や不可欠なのだ。世の中はなるようにしかならない。ジタバタしたところで自分が疲れるだけだ。何事も自分が思っている程に相手は思っていない。私はそのことを34年間の会社員生活で痛いほど味わったのに、退職した現在、性懲りも無くそれを繰り返そうとしている。何と分からず屋のコンコンチキだろう。
そう考えると気分は随分楽になる。今年は「えーじゃないか」の精神で行こう。遅れたって、えーじゃないか!サボったって、えーじゃないか!損したって、えーじゃないか!
そうだ!私は今年の年賀状に「四国巡礼をしたい」と書いた。若しそれが出来なかったら、来年の年賀状には「出来なかった、えーじゃないか」と書こうと思う。終わり


カンボジア

カンボジアと聞けばシアヌーク殿下を連想するのは、私が既に高齢者だからなのかもしれない。嘗てカンボジアは王制を敷き、同殿下は大変な中国びいき、且つ日本びいきでもあった。その王制が倒れた後、カンボジアは悲惨な時代を迎える。政権を握ったポルポト派がナチス並みの民族浄化の旗印の下、国を閉ざし国民を虐殺したので、働き盛りの男がめっきり減り、肝心の国力まで疲弊してしまった。そして掛替えの無い援助国日本の国連ボランティアとして、カンボジアの平和構築のため働いていた中田厚仁さんが、ゲリラの犠牲となり、その後長い間日本人観光客の足も遠退いてしまった。
私はこの秋のベトナム旅行の序に、カンボジアのアンコールワットも見たいと娘に言った。そうしたら自分も(健忘症気味の私のボデーガードを兼ねて)来ると言う。そんな経緯で私と長女は、田中角栄と真紀子ならぬ、父娘でのカンボジア旅行となった。私は陸路を希望したが、危ないとの娘の意見で空路にした。ホーチミンからアンコールエアーでシュムレアップまで約一時間、到着したのは夕刻だった。カンボジアの空港は意外に綺麗だった。
ベトナムを男性に例えるなら、カンボジアは女性だろう。人々の話し振りは小声、係員の手付きまでが女性的で優しく感じられる。空港にはタクシーの他に沢山のトゥクトゥク(バイクでリアカーを引っ張るタイプの乗り物)が客待ちをしていた。私達はその一台に乗って市内を目指した。カンボジアは日本の半分程の国土面積だが、地勢は平坦で農業に適している。道路もひたすら真直ぐだ。しかし雨も降っていないのに、あちこちが冠水していた。近代的なホテルと、トゥクトゥクのアンバランスが面白い。そして翌日から2日間、私達親子は、そのトゥクトゥクの運転手のガイドで、アンコールワットとアンコールトムを心行くまで見学した。
その一:アンコールワット
「何時の日か行って見たい!」と長い間思っていたアンコールワットが、突如として眼前に現れた時、私は言葉に表せない感動を覚えた。とにかく壮麗の一語に尽きる。堀に囲まれていることから、私は咄嗟に皇居を連想したが、良く見ると全く異なる。そして此処を訪れる観光客は、一位中国人、二位日本人、三位米国人、四位フランス人とのことだったが、正に現在の国力を現しているようである。数が多いことと相まって、兎に角中国人観光客は騒々しい。私は出来るだけ彼等に近づかないように廻ったが、それでも容赦なく四方から中国語が飛込んで来た。遺跡入口の桟橋修復には日本人石工の技術が役立ったようだ。破壊がひどい遺跡の修復には、中国はじめ世界各国が協力しているが、こんな文化事業こそ日本の存在感を高めるには最適だろう。
その二:アンコールトム
アンコールトムは、シュムレアップ市内からやや離れているが、城壁内まで車で行くことが出来る。此処には複数の遺跡が散在しており、やはりその多くがひどく破壊されている。何れもヒンズー教徒の仕業だと聞いた。中の一つの建物(小さな書庫)は日本に依り修復中だったが、見事な石積が見るも無残に打ち砕かれ、山積みになっている現場を見ると、宗教の恐ろしさを実感する。ここで事件が起きた。何と娘がお金を掏られたのである。それは遺跡中央部の礼拝堂だった。多くの観光客がお金を供えている場所があった。そこで財布を掏り取られたらしい。私はパスポートを取られなくて良かったと思ったが、折角の観光旅行に水を差されてしまった。
今のカンボジアは、云うならばツーリズム国家である。つまり自国で富を形成する力が弱いので、外国からの援助やツーリスト(観光客)の財布に頼るしかない。その為に、ホテルもデパートも自国通貨より米ドルを好む。これは北朝鮮と同じである。そして大の男が大勢、一日中道端でタバコをふかしながら客待ちをしている。運良く私達親子を射止めた男も、日本語が話せる利点で2日間仕事にありつけたが、次は何時か分からない客を今日も待っていることだろう。こんな国家は離陸が大変だ。私はしつこく付き纏い、何とも知れない物を買ってくれとせがみ続ける幼い女の子を振り切りながら、やりきれない想いに陥った。この不幸な過去を背負った小国が何時の日か、例えばスイスやルクセンブルグの様な“キラリと輝く小国”に変貌することを願ってやまない。終わり


ベトナム

鳩山首相が東アジア共同体構想を実現する為に、日・メコン首脳会議を開催したとのニュースが流れている。何でも3年間に5000億円のODAを供与するという。メコン諸国とはインドシナ半島に位置するタイ・ミャンマー・ベトナム・カンボジア・ラオスの5ヶ国を指し、何れの国も国土の一部がメコン河に接していることからその名が付いている。又これらの国は何れも仏教国と言う共通点もある。
私はこの5ヶ国の内、タイとミャンマー(国境の町メサイのみ)には5度も行った。タイ北端のチェンライ近郊に二十一世紀農場を開き、数々の国際支援活動をされている谷口巳三郎氏にお会いする為である。そして幾度かタイ・ラオス・ミャンマーの国境が接し、麻薬で有名なゴールデントライアングルを訪れ、展望台からメコン河の対岸に広がるラオスとミャンマーの台地を眺めた。ここから中国雲南省までは約200km、広いインドシナでは目と鼻の距離である。谷口先生はそこで不気味な中国の存在を語られた。「大型船が通れる様に軍が上流の渓谷を爆破している」と。
然し私はこれまで、同じくタイの隣国であるベトナムとカンボジアに行く機会は一度もなかった。それが今秋現実となった。私の娘はベトナム系オーストラリア人と結婚し、現在西海岸の町パースに住んでいる。その娘一家がベトナム経由で日本に帰省すると聞き、私は即座にベトナム行きを決断した。私とベトナムとの関わりは昭和48年の新婚旅行に端を発する。私が宿泊したグアム島アガナの上空には、アンダーソン空軍基地からB-52大型爆撃機がひっきりなしに飛んでいた。当時はベトナム戦争の最盛期で、米軍は補給ルートを絶つべく、連日北ベトナムを空爆していたのだ。(今回訪れたホーチミン市の戦争博物館で、私はベトちゃんドクちゃんに代表される、様々な奇形を生んだ枯葉剤の恐ろしさを見て思わず目を背け、能天気だった新婚旅行を恥ずかしく思った。又、ホーチミン市から車で2時間位のベトコンの戦場見本は、今や有名観光地となっている。)
その数年後、北ベトナム軍が首都サイゴン(現在のホーチミン)を陥れ、南ベトナム政府は崩壊してベトナム戦争は終結した。そして戦後の混乱期、南ベトナムの体制側だった人々は、雪崩を打って国外脱出を図ったが、成功したのはほんの僅かだった。娘婿の両親はその幸運をつかんだ。
10月5日、私は初めてホーチミンのタンソニュット空港に降り立った。機上から見たホーチミン市は、マングローブが生い茂る海岸線が複雑に入り組み、郊外には真新しい工場群が沢山立ち並んでいた。
ホーチミン滞在中は娘婿が終始私に付き添い、フランス植民地の面影が色濃く残る屈指の繁華街、ドンコイ通りに住む親戚一人一人を紹介してくれた。市内は大変な活況だった。親戚はきっと商才があるのだろう。二軒の店は大繁盛していた。メニューは典型的なベトナム料理なのだが、来客には西洋人も交っている。私が朝、店の前の歩道に漫然と座っていると、目の前をモーターバイクが怒涛のように走る。勿論四輪車も多い。しかもそれらの殆どが日本車、二輪はホンダ車、四輪はトヨタ車が圧倒的である。当然日本についてのイメージはすこぶる良い。このベトナム人の大集団は、郊外に続々と建設されている工業団地に通勤しているのである。
私は娘婿一家と、実家から程近い「サイゴンピンクホテル」に一週間宿泊した。ホテルの外装がピンク色なのでその名が付いたのだろう。勿論ピンクホテルと言っても、ごく普通のビジネスホテルで、日本のラブホテルとは全く関係ない。滞在中は娘婿の実家のレストランや、ホーチミン市内の有名レストランに連日連夜招待され、私は大好きな魚や海老に舌鼓を打った。と言うのもベトナムはインドシナ諸国随一の長大な海岸線を有する、海産物に恵まれた国なのだ。そして晩餐で私は何時も最上席に座らされた。彼等にとって私は、憧れの国日本から来た岳父だった。ベトナムは、戦争でインフレが高じて貨幣価値が下落したのに、デノミを実施していないようで、お金のゼロがやたらに多い。一回の食事で何十万ドンと言う金を支払わねばならない。当然財布も大きく、これでもか!これでもか!と延々と紙幣を出す叔父の横で、私は小さくなっていた。
ホテルから見るホーチミン市は、目下すさまじい勢いで変貌を遂げている。直近のビルは30階建程、ゼネコンは韓国の現代建設で、24時間連続の突貫工事である。又ホテルや公共施設には、全てと言って良いほど韓国製の液晶TVがあった。フランス植民地名残の旧市街のレンガ造りの建物は、今どんどん壊されているので、数年後には近代的ビルが林立する首都に生まれ変わるだろう。
私はベトナム語を話せないので、殆ど一週間(英語とベトナム語が話せる)娘婿と共に行動したが、四六時中付きっ切りでは申し訳ないと思い、或る日一人で外出して、街中をうろついていたら、忽ち罠に嵌った。バイクに乗ったハンサムな青年が、流暢な日本語で話し掛けて来た。不思議に思うのだが、彼等彼女等は、言葉も交わさないのに町を歩く私が日本人だと分かるらしい。その証拠にカンボジアを含めて、今回数多くの現地人から声を掛けられたが、一人として私を中国人や韓国人と間違えなかった。“生きる知恵”とはいえ、彼等の観察眼の鋭さは見事と言うしかない。
そんな訳で、私はその青年のバイクに跨り、ホーチミンの名所旧跡を巡って記念写真を撮ってもらった。驚いたのは彼の運転である。殆ど信号を守らない。否、交差点に信号そのものが無い。大都会の大きな四つ角で、四方向から押し寄せるバイクと車の大集団が、それこそ”押し合いへし合い”ビービー警笛を鳴らしつつ何とか通り抜けて行く様は、蟻の行列よりもすごい。あたかも15年前の台湾を彷彿とさせる光景であった。私は縦横無尽に走り回るバイクから振り落とされまいと、必死でその青年にしがみ付いていた。彼は走りながら私に身の上話をした。「彼女も居るが、金が無いので結婚できない」と。そして段々と行動がエスカレートしていった。先ず土産物屋を数軒巡り、次に馴染のコーヒー店に連れ込まれた。と言っても場末の露店である。そこでコーヒーを一袋売り付けられた。次には「彼女の店に行こう」と言うのである。私は「ハハー!」と思って「金が無い」と言った。そうしたら「ホテルへ取りに行こう」と言う。私はここらが潮時と思い、ホテルの前で金銭交渉をした。そうしたら、突然態度が変わり、粗方財布の金を巻上げられた。私は少し後悔したが、グアム新婚旅行の罪滅ぼしにはなったと思っている。終わり


天下り・渡り

今年の夏は長雨で遅れて来たが、最近は連日の猛暑と総選挙が重なって一際暑い夏になっている。それにしても今回の総選挙が過去と最も異なるのは、民主党の政策に「公務員の天下り・渡りの禁止」が大きく取り上げられていることだ。天下りとは「神道の“天孫降臨”から来た用語で、退職官僚が出身官庁所管の外郭団体や、関連企業・特殊法人などの役員に迎えられることを指し、民間企業の幹部が子会社の要職に就く際にも使われる。」とある。これを私に当て嵌めると以下の様になる。
尤も私は企業幹部でもなく、子会社の要職にも就かなかったが、取引先や子会社に出向したのは事実なので“天下り・渡りもどき”とでも言えば良いだろうか?国家公務員は、同期の一人が次官になると一斉に天下りするらしいが、私が勤務していた企業では、課長クラスまでは何とか横並びの昇進が可能だったが、部長になるには数倍の競争を勝ち抜かねばならない。当然企業はこぼれた人の処遇に困る。こぼれ組の私は幸いにも、懇意にしていた中小企業の専務に、出向と言う形で受入れて頂いた。出向は転籍とは異なり、身分は元の企業の社員のままで、身柄だけ出る事を言う。私の場合は、給与の8割は出向先負担だった。即ち在籍企業は人件費負担が1/5に減るのだ。一方受入側は、私に高給を支払う重荷を背負う。私は2社に出向後、早期退職して3社目には再就職したので、渡りは1社のみである。そして退職金も2社目の退職時(2000年12月31日)に1回限りしか貰っていない。
そもそも日本企業の退職金は、社員の忠誠心を持続させる為の、給与の後払いと言う性格が大きい。だからこそ中途退職と定年退職とではその金額が桁違いなのだ。それを公務員は何度も貰うとは、国家国民に対する背信行為である。若し民間が同じ事をしようものなら、忽ち倒産の憂き目に遭うだろう。私は民主党に問いたい。天下り・渡りを禁止して、行き先のない高級官僚をどう処遇するかという解決策を!
私は2社に出向し、一社目では営業を志願して、新規顧客の獲得に携わった。結果は捗々しくなかったが、アポを取る事の難しさと、頭を下げる事の大切さを学んだ。2社目では海外営業の難しさと、クレーム処理の大変さを学んだ。又、退職して再就職した企業では、中途採用で寄せ集め部下の掌握に苦労した。公務員の再就職先でも、私が出向先で遣ったような仕事は必ず存在する筈である。個室を貰い、肘付き椅子に座っただけでは給与を貰う資格はない。暑い夏の最中、ワイシャツの腕をまくり上げ、ネクタイをたくし上げてタオルで汗を拭き拭き、顧客廻りをすることから全てが始まる。
今日は我が玉名にも麻生総裁が演説に来ると朝から宣伝カーが回った。私は今回の選挙では政権交代を願っているが、玉名まで態々お出でになる麻生さんの演説も聞きたくて、玉名温泉の会場まで態々バイクで行った。物々しいSPが目を光らせる中、30分近くにも及ぶ麻生さんの演説は、やはり出色だった。然し一つ残念なことがあった。あれ程民主党が官僚の悪口を言っているのに、麻生さんがそれに対する反論を一言もされなかったことだ。高速道路無料化や、北朝鮮への対応、自衛隊海外派遣では民主党を厳しく批判しながら、官僚支配に全く言及がなかったのは、やはり民主党に言われる通りなのだろう。一方で私は、民主党の最大支持基盤となっている連合などの労働組合が昔から大嫌いで、未だどちらに投票するか迷っている。こんな時は“渡り”に船のやり方がある。家内と“渡り”を付けて一票ずつ両党に入れるのだ。終わり


ててんご

「ててんご」とは熊本の方言だと思うが、何とも不思議な言葉だ。漢字でどう書くかも勿論知らない。その意味は、手持ち無沙汰故に、半ば無意識に手遊びをすることを指す。我家は嘗て3年半ほど和歌山市の中心部高松に住んでいた。当時丁度小学一年に入学した娘の遊戯会があった時の事である(私は仕事で欠席)。義母はそれに合わせて態々熊本から来て、家内と一緒に高松小学校体育館の最前列に座って、孫の出番を今か今かと待ち構えていた。処が娘はお遊戯が始まっても、皆と一緒に演技をするでもなく、一人黙々と“ててんご”即ちセーターの毛玉を毟っていたらしい。義母は「サトちゃん!サトちゃん!」と何度も呼びかけたが、とうとう娘は最後まで“ててんご”をしただけで終わったとか。
今近くに住み、二人の孫を連れてちょくちょく我家に来る娘からは、当時の姿は想像も出来ないが、保育園のお遊戯会に家内共々行き、孫の出番を待つ時間になると、私は何故かこの“ててんご”事件を思い出してしまう。と言うのも、私は子供時代から現在に至るまで、この「ててんご」が大好きだからなのだ。別項にも書いたが、私は子供の頃山羊や犬を飼っていた。一人っ子の私は、これらの動物と戯れるのが一番の楽しみで、暇さえあれば家畜に“ててんご”をしていた。そしてこの癖は大人になってもやはり直らなかった。独身時代は幾人かの女性と交際したが、その中の一人からは悪い意味ではなく「徳永さんは手癖が悪い!」と言われた。事ほど左様に私は、昔から手に何かを持たないと落ち着かないのだ。例えばクワを持てば畑を耕し、鎌を持てば草を伐り、鋸を持てば木を切るならばそれは良い。然し耳掻きを持てば耳を掻き過ぎて外耳炎を起こし、キーボードを持てばついつい余計なブログまで書いてしまう。私にとってブログは“ててんご”なのである。これは多分父親の遺伝だろう。私の父は随筆家であり、手先が器用で襖の修理などはプロ級の腕前だった。昔は今の様に出版物が安くはなく、書物は貴重品であり、代々使うのが普通だった。辞書や地図などは特に高価だったので、父は痛んだ背表紙に和紙を幾重にも貼り付けて、立派に修復していた。私は表具士としての腕前はとても父に及ばないが、農業の腕前は既に父を超えたと思っている。
と言うのも、私は昨年から近くの休耕田十余枚を借り受け、若い人々と共に米作りの2年目に突入しているからである。農業は表具士とは似ても似つかなさそうだが、ある意味ではとても近い。襖や障子は小さな子供が破いたり壊したりするが、田圃の畦もモグラや猪だけでなく、人間が踏み荒らしてしまう。それを修理するのは管理者たる私の仕事である。棚田の欠点の一つは、落差がある為に漏水が起き易いことである。その大半はモグラの仕業で、穴の出口は見れば直ぐ分かる。然し当たり前の事だが、出口をどんなに塞いでも漏水は決して止まらない。穴の入口を探し出すしかない。それには一寸したテクニックが必要なのだ。モグラの穴は直線ではない為に、目星を付けた辺りの畦を“ててんご”しながら探るのである。そして指先に感じる水流で穴を探り当ててそれを塞ぐ。これはかなり高度のテクニックが必要である。
今日本の多くの水田は構造改善事業、即ち圃場整備が完了して畦はコンクリートになったので、“ててんご”の業を発揮する必要もない。然し山間の棚田は依然として昔ながらの土の畦である。これは始終補修が必要で、とても手が掛かる。今年は米作りを始めて2年目だが、数年後には若い人達だけで米作りが出来るようになるだろう。そうなればロートルの我輩の出番は無くなる。しかしそれも淋しい。私はこの“ててんご”の技術だけは、将来も“秘伝”として残したいと思っている。終り


英国

私は今年の6月20日から10日間英国を訪問した。その途中フランスに2日間旅行したので、正確には8日間ほど英国に滞在したことになる。その間の多くの時間を従兄姉のお世話になり、ロンドンを主体に各地へ案内して頂いた。私は数ある名所旧跡にも興味は有ったが、それよりも英国人そのものに興味を覚えた。その昔、英国は世界中に植民地を持ち、日が沈むことのなかった大英帝国であり、産業革命を世界で初めて成し遂げた国であり、米国と共に江戸幕府をして開国せしめた国であり、何よりも世界共通語たる英語の母国である。そのステータスの高さは、日常会話のみならず、殆どの歌詞が英語であることや、デンマーク人のwwooferやフィンランド人の元部下が、私がどんなに促しても(恥ずかしがって)自国語を喋ろうとしなかったことでも明瞭である。丁度私が静岡に就職して、熊本弁を封印したのに良く似ている。要するに欧米では英語を標準語とすれば、フランス語やドイツ語でも関西弁や東北弁程度、その他の言語に至ってはそれ以下なのだ。それにしても、日本の本州程の面積で、人口も日本の半分程しかなく、大陸から離れた高緯度に位置する小さな島国が、何故このように世界的な地位を獲得したのか?
そのⅠ:気候は冷涼湿潤な上、地勢が平坦で農業に向き、食料自給率が高い。(特にイングランド)
そのⅡ:島国なので、守り易い一方で、陸軍は攻め難い。(ナポレオン戦争・第一・二次世界大戦)
そのⅢ:ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ、スエズ運河経由でアジアへの海運が便利である。
そのⅣ:各種の法律や規格を制定し、民主主義の政治体制を確立し、世界各国に普及した。
これらを成し遂げた人種は、大陸から移住したアングロサクソン人である。然しそれが何故、フランス人でもドイツ人でもイタリア人でもスペイン人でもなかったのか?この解は今私にはない。それでも今回の旅で幾つかの驚きがあった。英国民は白人が殆どだと思っていたが、事実は全く異なり、米国と同じく世界中からの移民が混住する多民族国家である。当然このことは、国家運営に関して様々な問題と困難を惹起し、大きな負担を強いられるに違いない。然し単一民族の日本と違い、異質のものが接触した場合にのみ起きる大きな可能性を秘めている。
もう一つは、その政治・経済システムである。車は左、人は右。鉄道も郵便も、船舶も、政治体制も、それこそ何もかも、日本には英国から導入したシステムがとても多い。然し日英の相違点も勿論沢山目に付いた。
そのⅠ:都市計画。英国は緑がとても多くロンドンも然り。東京では街の中に公園が在るが、ロンドンでは公園の中に街がある。従姉の家の前も公園で、毎朝一周すると2km位のジョギングが出来た。
そのⅡ:建造物。古い建物や施設を大切に保存している。東京ではスクラップ&ビルドで始終建替えているが、ロンドンでは、数百年前の建造物がそこら中に溢れている。
そのⅢ:大学。ケンブリッジにバス旅行したが、風光明媚な田舎町で世界中から来た俊英と、宗教を含めて自由闊達に学ぶ環境が備わっている。因みにケンブリッジ大卒のノーベル賞受賞者は31人とか。大学内の博物館には、世界中から収集した動植物の標本が、ところ狭ましと並んでいた。
そのⅣ:住宅。地震のない国なので、石(レンガ)造りの家が大半。築年数が古くなっても資産価値が殆ど落ちない。室内のみをリニューアルして賃貸や売買するのが一般的で、日本のように20~30年で建替えるシステムより遥かに合理的である。
そのⅤ:交通。国中に道路・鉄道網が引かれ、空港もロンドン郊外に5つもあり、世界中に行ける。又鉄道やバスにはワンデー(1日)チケットがあり、料金を気にせず乗り放題が出来る。
然し、以上の事柄だけで英国が世界標準になれたとはいえない。私は英国民の心の中にその鍵が秘められているように思った。彼等は自国の規模と発展性、そして限界を早くから自覚していたに違いない。日本人が農地不足から個人の移民と言う形で、中南米に渡って成功したのとは違って、国家の意思で海外進出し、その仕組み、即ち政治経済社会システムを世界中に広めた。これは発想の違い、或いはスケールの違いと言うしかないだろう。恐れ入りました。終わり


ロンパリ

斜視、所謂“やぶ睨み”のことをロンパリと言う。今は眼科医療が発達した為に余り見かけなくなったが、昔は視線の定まらない人が私の周りにも何人か居た。私は今年の6月下旬の10日間、ロンドンに住む従姉夫婦の招待を受け、初めてイギリスを訪問した。内訳はロンドンシティが2日、従姉が住むロイドパークが2日、パリが2日、ケンブリッジが1日、トットネスが2日だった。
到着3日目の夕食時だった。或る日本人をフランスとイタリア旅行に案内した話を従兄から聞いた瞬間、私の体に突然“ビビッ”と電気が走った。それは忘れもしない1996年の6月、ドイツ出張時代のことだった。私は日本・台湾の半導体工場立上げプロジェクトを成功に導き、最後のドイツで有終の美を飾る目前まで来ていた。然し最後の最後で躓いた。もう一人の日本人リーダーと方針をめぐって鋭く対立した。私は上司の唱えるクリーン搬入に拘ったが、そのリーダーは日程優先だった。我達は幾度か現場で口論し、最後は私が折れて志半ばで無念の帰国をした。根本原因は二頭政治、即ち指揮命令系統を一本化しなかった会社の責任だが、上司の言いつけを金科玉条の如く唱えた私も馬鹿だった。日本・台湾と終始私のパートナーとして、助けて呉れた腹心の部下とも疎遠になっった。私はその煽りで休日に予定していたパリへのドライブも、プロジェクト打ち上げのイタリア旅行にも行き損ねた。そればかりか帰国後は、この件で上司の不興を買い、その後はツキにも見放されたように悪い事が次々と起きて、翌年に出向、その6年後には志半ばで早期退職した。今考えると、あの時は適当に目を瞑って上手く立ち回れば万事丸く収まったのに、当時の私は余りにも純粋だった。
あれから13年、今回私の心にパリ行きの想いが再び込み上げ、翌日から一泊二日でユーロスター(ドーバー海峡を跨ぐ海底トンネルを走る超特急)に乗って、一人で勇躍乗り込んだ。従兄から頂いた市内地図と、メトロ(地下鉄)路線図だけが頼りだった。ロンドンのセントパンクラス駅からパリまで一直線、その日の昼にはパリの北駅に到着。駅を出た途端、眼前に展開する街並は、量感溢れる歴史建造物で埋め尽くされ、薄っぺらでキラキラした日本とは全く別世界だ。ホテルに荷物を預けると、メトロに乗ってルーブル美術館へ!然しそうは上手く行かない。どの駅から、どの線の地下鉄に乗れば良いのかさっぱり分からない。こんな時は聞くしかない。道行くパリジェンヌを手当たり次第捉まえて、地図を広げ、どのホームに行けば良いのか聞きまくる。恥も外聞もない。然し乗ったらどうも逆方向らしい。今度は車内で別のパリジェンヌに聞く。やはり逆行で一度降りて乗り直し。日本の地下鉄はくどい程車内アナウンスがあるが、パリのメトロは停車前に一言、駅名のアナウンスがあるだけ!薄暗い車内で小さな地図と睨めっこ。ここかと思って降りて外に出たら、ルーブル美術館は何処にも見えない。今度は道行く人に聞くしかない。どうも行き過ぎたらしく、セーヌ川の対岸まで後戻り。とうとうお昼も過ぎてしまった。30分以上歩いてやっと到着。膨大な美術品を一通り眺めて、目玉のモナリザとミロのビーナスを写真に納め、次のオルセー美術館に着いたのはもう夕刻、閉館間際にちょっと覗いて再び対岸のコンコルド広場へ。この近くの地下道で、例のダイアナ妃が事故死したのは、もう10年も前のことだった。何時までも日が暮れない欧州の夏の夜、私はあの有名な凱旋門を目指した。その前のカフェで夕食、次はエッフェル塔へ。然し余りに長蛇の列で、とうとう登るのは諦めた。この日は歩き過ぎてクタクタ、外は明るいのにもう夜の10時である。タクシーで宿まで。然し降ろされた場所からホテルが遠い。何人に聞いたことか、やっと到着したのは11時過ぎ。バタンキューである。
翌日はベルサイユ宮殿に直行。直ぐ横を走るTGVに乗れば、イタリアやスペインにも行ける。ヨーロッパは何処も陸続きなのだ。ここはフランス革命が起きたルイ14世時代の建造物で、見るもの全てが絢爛豪華である。宮殿後の広大な庭も幾何学模様で見る者を圧倒する。私は迷路に迷い込んだ。そして帰路はシャンゼリゼ通りを散歩。交差点にあるオープンカフェの最前列に座って夕食。道行く人々が私の食事を見て通る。“オーシャンゼリゼー”これぞフランスの醍醐味。隣席のおばさんにシャッターをお願い。何でも娘が日本びいきとか!フランス人は誇り高く、英語は話さないと聞いたがそうでもない。流石観光大国、皆さんとても親切だった。
私は今回の旅行で、欧米主要国のうち米英仏独を一応経験した。残るはイタリアである。元気でさえ居れば何時か行けるだろう。終わり


おもてなし

スイスのシンクタンクが先日発表した2009年版観光の競争力ランキングでは、トップのスイス以下・オーストリア・ドイツ・フランスと欧米諸国が並び、アジアからも香港やシンガポールが15位以内に入っている。日本は25位である。その中でも特に「外国人に対する人々の態度」即ち“親しみやすさ”では何と133ヶ国中の131位とか。これでは“GNP世界2位”と首相が幾ら威張っても、外国人から尊敬されない筈だ。
私は今も鮮明に覚えている。かなり以前のJR東京駅での出来事である。朝夕は凄まじいラッシュの東京駅も、昼下がりは人も少なくがらんとしていた。東京駅のホームの階段はとても長い。確かその階段には当時エスカレータが無かった。ホームの階段下で、一人の外国人女性が特大のスーツケースを持て余していた。何度も引っ張り上げようと試みるが出来ない。然し乗降客は皆そ知らぬ顔で通り過ぎるだけである。階段の上からそれを見ていた私は座視出来ず、彼女を助ける為に態々階段を下りた。そのスーツケースは途轍もなく重かったが、二人で引っ張って何とか電車内まで運んだ。その女性は車内で、私に何度も御礼の言葉をかけてくれた。私はこれが田舎の駅ではなく、日本の表玄関・東京駅で起きた事だけに、とてもショックで“何故日本人はこんなに冷たいのだろう”と思った。
私は他稿で述べた如く、十数年前の一年足らず、海外勤務を経験した。特にヨーロッパではレンタカーでドライブをしたり、買い物に出かけたりした。私は当時地図を持参していたが、やはり時々は道に迷う。そんな時、私は地図を広げて行きずりの人に手当たり次第に道を聞いた。大抵の人々は親切に教えてくれた。中には一緒に目的地まで私を案内してくれた人もあった。言葉が通じなくても身振り手振りでも、双方に意思さえあれば何とかなるものである。
私は、日本人は決して他人の困難を座視するような冷淡な民族ではないと思う。他人が困っているのを見た時助けるのは、人間としてごく普通の行為であるし、スーツケースを持つこと位は、英語が話せなくても誰でも出来る。それなのに日本の表玄関、東京の人々が知らん振りするからこそ、外国人の評価が最悪なのだろう。外国人の多くは東京に来る筈だから“東京の皆さん、外国人に親切にして下さい。”
話は変わり今年の1月、私は2週間の旅程でオーストラリアに行った。後半はブリスベーン近郊を団体で廻った。その間他のメンバーは殆ど仲間内だけで話していたが、私は多くの現地の人々と簡単な挨拶を交わし、短い会話をした。当地の誰もがとても親切だった。カメラのシャッターも気軽に押して呉れた。こんな国オーストラリアが、おもてなしランキングでは9位となっている。
先日、我家にデンマークから若い女性wwooferが来て10日間滞在した。生憎期間中の天候が悪く、屋外で仕事が出来た日は半分位だった。雨の日、彼女は部屋で編み物をして過ごしていたが、それでも家内は毎日3食を提供しなければならない。しかし彼女は好き嫌いが多くて、出された食事を半分位しか食べず、食器洗いも手伝わず、近くのコンビニまで毎日牛乳や菓子を買いに行った。それを見て、家内の機嫌は当然悪くなる。お陰で次のカナダ人ペアwwooferは受入れお断り!“おもてなし”は、簡単なようで意外に難しい。


東大出

先頃オーストラリアに旅行した一行の中に一人「東大出」の好青年がいた。この「東大出」と云う言葉には昔から独特の響きがある。私は熊本大学卒業なので、差し詰め「熊大出」と云う事になろうが、この言葉には勿論そんな響きは全くない。「東大出」は即ち第一級のエリートであり、「熊大出」はそうではないということだ。私は今回の旅行で、何故こんなことが話題になったかの方に興味がある。それは御本人がそれを口にしたからである。殆どの人々(東大出でない人々)は、東大出と聞いただけで見る眼が大きく変わる。それを一番良く知っているのはご本人であり、だからこそそれを口にしたのだろう。
私はこれまでの60余年の人生で、幾人かの東大出の人々と仕事を共にしたが、家系に「東大出」が2人居るからか、彼等に対するコンプレクスも持たなかった。彼等の多くは自らが東大出とは言わなかったが、周りの誰かがそう言ったので知った。東大出の人もそうでない人も、様々であることに何の変わりもない。それなのに何故か、この言葉を聞く前と聞いた後とでは、話す構えも微妙に違ってくる。東大出の人々の共通点は、当たり前だが頭脳明晰なことである。しかしそれ以外に殆ど違いはない。むしろ優男と言うか、気の弱い人の方が多かったように思う。人間の評価基準は頭脳の他に、気力、体力、気質(性格)、体質、筋力、金力etcである。これらの多様な評価基準を総合してこそ人間力(?)が測れるのに、出身大学それも特定の大学を出たか否かで特別の目で見るのは、日本人の不思議と言うほかない。
人間は万物の霊長であり、動物の頂点に君臨するが、進化の過程で獲得した本能は、他の生物と大同小異である。私は鶏を飼っているが、鶏は10羽なら10段階、20羽なら20段階の序列が出来る。最上位に君臨するのは雄鶏である。だから雄鶏は餌をやる私に攻撃を仕掛けて来る。私は東大出に言いたい。「雄鶏になれ!」と。自分より強いものが何かは、頭脳明晰な東大出なら、たちどころに分かるだろう。終わり


瞑想

瞑想を英語で言えばmeditate(メディテイト)。私は数年来wwoofホストをしているがmeditateをしたいというwwooferがこれまでに何名か我家に来た。西洋人に多いが、彼等は庭などに座り、目を瞑って瞑想している。私は勿論そんな経験はなく、仏前でお参りしても特段の気持の変化が生じたことはない。
そんな私が今年の1月、オーストラリアのブリスベーン近郊を一週間旅した。パーマカルチャーの仲間十余名との団体旅行であった。その間の宿舎は、山中のエコビレッジに2泊、海岸のロッジに2泊、山中のチベット寺院に3泊だった。私は最後のチベット寺院が最も気に入った。現地は沖縄と同じ緯度の亜熱帯気候。しかも山中なので大変蚊が多い。私は人一倍蚊に刺され易く、食堂で話している最中も手足をボリボリ掻かねばならない。
私は毎朝6時前には目が覚める。その朝も同じで何の気もなく石段を登り、礼拝堂の中を覗き込むと、西洋人の若者が一人一心に瞑想しているではないか!私はその青年に吸い寄せられるように中に入り、そっと青年の斜め後ろに座り目を瞑った。その朝は座り方が悪かったと見えて、30分ほどで痺れが切れ、中断してしまった。然し何だか不思議なほど気持が良くなり、翌日と翌々日も同じ青年と二人で1時間ほど瞑想した。瞑想のコツは全身の力を抜き、楽な姿勢を保ち、何も考えない事である。暫くすると、耳に聞える音が明らかに変化してくる。小鳥のさえずりや木の葉のそよぎなど、微かな音が手に取るように聞えてくる。そして1時間がちっとも長く感じられないのだ。
そして瞑想後の朝食は一際美味しい。宗教施設なので基本的に精進料理、つまり肉や魚はない。パンとミルクに野菜と果物が主食である。寝ぼけ眼で摂る食事とは全く違った味わいであった。
瞑想など、自宅でやろうと思えば何時でも出来るようだが、自宅ではやるべきことが沢山あって、ちっともその気にならない。やはり非日常的な環境に身を置いた時に初めて起きる感情だと思う。
日本にも有名な座禅がある。禅宗の修行の一つである。チベット寺院のラマ経と同じく仏教の一派であり、形式はやや異なるが目的は同じなのだろう。私の部落には廣福禅寺という禅宗の寺院がある。ここで今春、パーマカルチャーの仲間と座禅にチャレンジしたいと思っている。終わり


徳永維一郎(父)論

1950年10月21日付玉名民報「人物評論」より
玉名人物評論のA級で落としてならぬ男がいる。それが徳永維一郎だ。幸徳秋水事件で死刑になった、松尾卯一太との血統が「徳永価値説」に影響していると言えば、本人は怒るかも知れぬが、玉名の革新運動を語れば、松尾と徳永を抹殺するわけにはいかぬ。
彼自身も(公職)追放前など、酔うと必ず「玉名革新運動の草分け」だと自惚れていたが、それは真実である。その点、何処で運動して来たか訳も解らぬ自称天狗よりましだ。彼は身を以て弾圧を経験し、実際種を播いている。その芽が今脈々と玉名の平地に成長しつつあることは事実である。
昭和8年2月17日、日本共産党九州地方委員会再建事件で大検挙があり、玉名郡でも10人余りパクられたが、徳永はその中心人物の1人で、180日間高瀬署の留置場にムサれた。彼は、死んだ河上肇博士式で「病弱以て運動に耐えず」の理由で、転向書を書かされ不起訴になったが、親の威光で目こぼしされたとも言われている。
彼の親父右馬七は早稲田出身に似合わず、漱石門下で俳句などひねり、済々高の英語の教師など勤めていたが、後に小橋一太との交友から政界に転じ、当時華やかだった自由民権の玉名政界を牛耳って、死ぬ間際まで石貫村の村長を勤めていた。彼維一郎は親父のボス性と異なり、帯に短し、タスキに長く、一寸つぶし兼ねる男である。政治家には向かぬし、実業家には勿論駄目だ。
彼は優れた知性を持っているし、万巻の書を読んでいるクセに井の中の蛙だ。若くして胸を病み、東都に遊学出来なかった事は、彼も人も惜しむ痛事だが、彼は彼の知恵で彼自身を余りにも割切り過ぎて「徳永式箱庭人物」を自ら形成している。井戸の中なら何でも知っている蛙なのだ。
親父の没後石貫村長を勤め、洗濯板が国民服を着た格好で、村民を睥睨した事が祟って追放になり、一族郎党を引具して神社に詣で「共産党万歳」を言うたとか言わぬで物議をかもし、一時は進歩党あたりをウロツキ廻り、追放で鳴りを静め、今は専ら美人の奥さんと仲良く百姓をやる傍ら、養鶏でもやっているらしい。徳永維一郎は、革新運動が「お駕籠に乗って」やれない限り絶対に出て来ない贅沢な日和見主義者だ。
処女が暴力に依って貞操を奪われると、性生活に恐怖と戦慄を感ずる様に、当初の弾圧で拷問された苦い経験が、温かい妻のねぐらを蹴る勇気を押え付けるだろう。徳永維一郎は死火山だ。金峰山が噴火しない限り再起出来ぬ男だ。
「草に寝て雲足を見る心かな」嘗て彼が転向後示した句だが、徳永維一郎よ、以て瞑すべし。君が如何に日和見主義の床の中で、仮眠をむさぼるともだ。民主主義革命の歴史は、正しい歩みで歩一歩と近づきつつあることを知るべし。「生きて居れば味噌汁なりと吸えるもの也」病弱な彼の健康を祈るや切である。
父:徳永維一郎の随筆集は、以下のページよりご覧下さい。
ピアストーン:BLOG 〜維一郎の随筆〜


プチと抱擁

義父は現在83歳で既に介護施設に入所し、今やベッドと車椅子の毎日である。元は歯科医師であった。戦後軍医から復員して、玉名の地で開業し、一時は町の唯一の歯科だったこともあり、大層流行っていた。然し、義父はそれこそ虫も殺さぬ穏やかな人格である一方、とてもユニークな面もあった。始終名詞を持ち歩いていた。それは誰かと名刺交換をする為ではなく、メモ用紙である。其処には細かな字で沢山の事が書いてあった。私も幾度か見せて貰った事があるが、内容は大した事ではない。例えば「掛時計の位置をずらすとか、ドアの建付けを微調整するとか、照明ランプを交換するとか」。私など「自分で遣れば良いのに」と思うが、義父は決して自分ではそれをせず、大工のTさんにさせていた。Tさんは若い頃歯科で技工士をしていたとか。義父にとっては何でも頼める気心の知れた人だったのだ。然しTさんは何時かこぼしていた。「あの名詞は幾ら処理しても、際限がありません」と。私はその意味を直ぐに理解した。この様な仕事は日常生活の中では、それこそ毎日の様に発生する。そして普通の人は、その殆どを態々大工の手間を煩わす、自ら気付いた時に処理している。
然もこの性格は遺伝する。その証拠に、私は今現在も家内から、それこそ尽きせぬ細かな要求を突き付けられ、それは処理しても処理しても次から次へと発生し続ける。そして私は何時もその要求を“処理する側”に立たされるのを、何か運命の様に思う。然しこれには良い事も又ある。それは、次から次へと来る仕事を処理する中で、色んな経験を積み重ねることで、知識は深まり、手先は器用になり、大抵の事を自分で出来る様になる事だ。然し問題もある。“この類の人”は或る分野に付いては決して他人任せにしない。家内は料理と洗濯・掃除は決して私に任せない。だから、私は未だに家内が居ないと3食に不自由するばかりか、着替えの保管場所さえ良く知らないのだ。
然し、以上の事は言うなれば“プチ問題”である。義父にはもっと“重大な問題”があった。其れは「自分は医業一筋の人間だったので、子供(4人)を抱いた事がない」と“然も自慢げに”言った事だ。幼児期の子供は理屈抜きに、親に抱かれるのを何よりも悦ぶ。それは子供の情操教育にとって、格別に重要な要素である。それをしなかった事は自慢処か、大変な“過ち”と言える。私は一連のブログで述べた如く、母一人子一人で、閉鎖的環境と絶え間ないストレスの中で育ったが、私の母は幼児期に始終私を抱擁し、顔に“キスの雨”を降らせていた。この幼時体験があればこそ、その後の様々な親子の葛藤にも耐え抜いて、無事に成長出来たのだと思う。然し流石に職場の女性は鋭いし、騙せない。入社当時の私は“マザコン”と言われて聊か傷ついた。
然し、私は義父を批判する立場にない。自分も若い時分は仕事にかまけて、3人の子供とのスキンシップを怠っていた。それにも拘わらず、我が子が“まともに”育ったのは、家内のお陰か、僥倖と言うべきかも知れない。然し今や、それを我が孫にお返しをする時が来た。次女の孫娘は、私が大好き!それは私が“理屈抜きに抱擁する”からなのだ。人間は誰しも、どんな言葉よりも自分が抱かれた時に、自己の存在感を感じる。然もこれは、人間に限らない。我家の犬や猫でさえ、私がどんなに叱っても、子供の頃に抱かれた記憶が残っているのであろう。私が大好きなのだ。終わり


インプット

私は丁度バブルの頃、シャープのワードプロセッサ“書院”を購入して会社に持ち込んだ。その目的は、課長自らが模範を示して、課員にキーボード操作を覚えて貰う為であった。その当時、我が部門で日常的にキー操作をするのは、ソフトウエア製作担当の電気電子関係の課員のみであった。その他の課員は全て手書き。若し印刷文が必要な場合は、専従の女性に申込書と原稿を渡して頼む必要があった。その担当女性は、朝から晩までひたすら依頼文書のワープロインプット作業。肩こりと目の疲れを訴えていた。然し問題はそれだけではない。通常作文には添削が付き物で、自ら下書きした文章が綺麗に出来上がったのを見直せば、必ず“粗”が目に付いて修正したくなる。それを又その女性にお願いするから、その女性は堪ったものではない。早晩この制度が行き詰るのは目に見えていた。
私はワープロ作業を課長方針等から始めて、他部門への宛発(=社内依頼書)や、部下への各種通達、社内規格類の作成等へと、その適用範囲を広げた。その内に徐々に社内へのパソコン導入も開始されたので、私は工事費や経費を流用して、他課に先がけパソコン導入を進め、業務の本格的電子化を図った。それにしても若い課員は覚えが早い。それから何年も経たず、我が課員の大半が自分でパソコンを操作して、インプット出来るようになった。
それから数年後、あのF氏が私の上長として赴任された。その頃には、社内には既にRANが構築され、課員の殆どが自前のノートパソコンを持っていた。勿論各自の社内Eメールアドレスも。F氏は早口で多弁、話し出したら止まらないが、パソコンは苦手だったらしい。当時社内技術部門ではMackintosh が優勢だった。情報処理部門はWindowsで統一したかっただろうが、所長がカラフルなプレゼンテーション資料が作れるMacの大ファンで、強引に導入した為だった。従って当時の社内は両機種が混在し、複雑な様相を呈していた。私は自宅ではMacを使っていたので、何れも扱えた。お陰で我が課にはF氏から、頻繁にプレゼンテーション資料のインプット依頼が来る。それも全て“特急”である。私が本来業務を中断し、それを作ってF氏に差し出すと、其処此処に赤点が付いた修正依頼が来る。それを修正すると又再修正依頼、何時までも限がない。私はパソコン室に篭り、時々出る原因不明のエラーに苦しみつつ、Macで“お絵かき資料”の作成をシコシコさせられた。
然しプレゼン資料作成は、文書ワープロとは異なり100点と云うものがない。夫々が自分で工夫しながら作成すべきなのに、F氏は決して自分で其れをされなかった。お陰で私の本来業務は滞りがちだったが、PC操作技術は上達した。勿論部下の課員も。
然しF氏も流石に、Eメールだけは自分で操作されていたようである。その証拠に毎日多数のメールが、F氏から私のパソコンに送られて来た。そして氏のメールには二つの特徴があった。つまり宛先が数十名と桁外れに多く、冒頭に「転送します」とだけある。その99%が転送メールで、自ら発信されたEメールを貰った記憶がない。Eメールは地位が高くなる程多く来る。其れを「転送します」の一言で、どんどん部下に流されたのでは堪らない。然もその中の何割かは、発信者からも私に直接来ていて、ダブルとなっている。私はその膨大なメールを毎朝読んでいたが、その内に馬鹿らしくなって、後には標題だけを見て、削除するようにした。全く“有り難迷惑”だった。
処が、私はそのF氏の下から離れて最早10年も経ったのに、未だ同種の作業をする身にある。それは“タイとの交流の会”の仕事である。谷口先生は数百名の会員宛に、毎年年賀状に代えて“会報”を発行される。処が今年は原稿が遅れたのか、その編集作業が年明けにずれ込んだ。私は先生から依頼された手書きの原稿を今年もインプットした。先生の依頼も、特急まではないが毎回“急行”である。そして私は、出来た原稿を片端から先生にFAXする。すると、折り返し訂正依頼が来る。その多くが所謂「てにをは」「句読点」「改行」「フォント」「書式」に関する修正なのである。これも又、弄り始めると限がない。私は先生と幾度も幾度もFAXの遣り取りをしなければならない。数度の遣り取りの後「もうこれ切りだろう」と思い、職場が会長宅と近い娘に持たせた。そうしたら、又々修正依頼の電話。予算決算のエクセルリストに空きスペースがあり、勿体無いから詰めて欲しいと。此処まで来ると最早趣味の世界!エンドレスとなってしまう。
私は思う。“拘りの強い人々”は、自分でインプットすれば“心行くまで推敲出来る”のに、何故それをされないのか、不思議でならない。終わり