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農作業その七

久方振りに、土手の草刈りをした。我家の土地の多くが、傾斜地であるので、草刈は欠かせない。今日はアパートの出入りに通る道の土手の草刈!何せ急激に伸びた雑草を、刈るには相当量の汗を搔かねばならない。この時期が過ぎると、愈々米作りの始動、即ち苗代作業に突入する。近年は北石貫の今村氏の田で、苗代作業ををする予定である。その理由は、湧水が豊富にある事、そしてアクセスが良い事である。


農作業その一

数年ぶりの見事な桜の花も散り、今年もそろそろ米作りのシーズンが到来した。昨年は梅雨の大雨で、借地していた馬場地区の水田が崩壊して、水が溜らなくなったので、今年は自宅裏の田を、主産地とすることにした。田圃の条件は、一に日当り、二に水利、三に土壌である。勿論全てを兼ね備えておれば、理想と言える。それにしても、近年は私も含めて、耕作者の高齢化が進行し、徐々に耕作放棄田が増加傾向にあるようだ。


KTTその五

我が父は、名前で「維一郎さん」とは呼ばれず、「長官」と呼ばれていた。何の長官か意味不明だが、敬称であった事は間違いない。それもその筈、飲み会の全てが父の付けであれば、多くの子分は、神様みたいに思ったに違いない。処が、父の死後、母は元子分と絶縁して、私と親子で農業を始めたのである。これが今現在に至る、半世紀にも及ぶ、農業、就中米作りの原点となったのである。振り返れば、父の人生を20年も超えた今現在、我乍らこれ程長生きするとは、到底思いませんでした。


冬その四

冬場の仕事は目立たぬが、実は重要な要素が隠されている。それは水利である。夏は雨が多いので、気付かないけれども、冬の間も地中生物(モグラ・ミミズ・オケラ等)が、盛んに活動している。従って、ほって置けば、畔は穴だらけになり、漏水が彼方此方から発生する。だから私は定期的に畔の上を歩いて、穴を塞ぎ、漏水を防止している。水田は畔在ってこそ、その役目を果たすのであり、その重要性は、今も昔も変わらない。嘗ては、自田を拡張する為に、少しづつ畔を切り崩して、自田を拡張する人がいたが、流石に今ではそんな人は見掛けなくなった。


冬その一

暖冬も一息ついて、漸く冬らしくなって来た。それにしても近年の冬は、嘗ての冬将軍の趣は消え失せ、木枯らしが吹きすさぶ程ではなく、暖かい雨が多くなってきた。寒がり屋の私には有難いことではあるが、農業にとっては困った問題がある。それは冬場に害虫が死に絶えないことである。従って、農家は各種の農薬を散布せざるを得なくなり、私の様な「無農薬農業」をしている人にとっては、厄介な事になるのである。


秋その十

自宅裏の空地に、架け干し竹を組み、天日乾燥を始めた。処が田へのアクセスが悪く、稲刈りも済んでいないので、脱穀作業を本格的に始められない。今では殆どの田圃にはアクセスが良くなったが、昔乍らの田は、相変わらず機械等を入れられない。従って田主が手前から作業すれば良いのだが、奥から始めようとすると、困ったことに成る。これ等の問題は昭和の時代に、改善されたが、山間地の田は資金負担の問題もあり、旧態依然の状態なのである。


秋その七

年間で最も過ごし易い秋のシーズンが訪れた。お陰で私は大忙し!何とか体力も回復して、米の収穫を漸く終えた今この頃である。然し手は二本しかないので、私が大好きなラッキョウが犠牲となり、雑草の中に埋没している。雨前にと今日こそは頑張って、漸く一時間ほどかけて、半分ほどを取り終えた。それにしてもラッキョウの香りは、他の食材とは似ても似つかない、一種独特の食感と云うしかない。それもその筈、成長するには、丸一年を要するのである。


秋その六

私は暇な日が殆どない。昨日は家内の実家から、ピストン輸送で運んだ伐採庭木を、我家の裏山で焼却作業。態々雨の日に燃さなくとも良さそうなものだが、雨の日が良いのである。何故なれば、雨の日は風が弱く、火事や延焼の心配がない。勿論着火作業も容易ではないが、私は得意である。そして生木に火が付けば、チョロチョロと、一晩中でも燃え続ける。昨晩は雨だったが、今朝に至る迄、火は消えず、燃え続けている。


稲作その二

斯くも嘗ての水田が、ジャングル化するのは、幾つかの要因が内在している。その一つが米の生産性の低さである。折しも我国の「米生産量と消費量」は、人口減少と同じく、ジリ貧状態にある。従って地主は、条件の悪い土地は、耕作放棄するので、それが周囲に蔓延して、更なる荒地が広がる、悪循環が起きる。そんな状況に逆らい、無駄とも思える抵抗をしているのが「私」何故なれば、何処かでこの悪循環を食い止めねば、自家用の米野菜等の、農作物を栽培する事すらをも、出来なくなるからである。


病気その六

病気は罹ってしまえば仕方ないけれども、良い事もある。何故なら、普段は考えない事でも、考えてしまう。要するに暇だからである。健康体ならば次から次へと、遣るべきことが押し寄せて来るが、ベッドに横たわって居ると、思考が歪んで、自分でも同道巡りみたいな状態に陥るのである。これは肉体と頭脳の連携が、ずれた為に起きる現象の様で、我ながら不思議な経験をした。「心技体」は互いにバランスが大切なので、矢張りまともな生活をすることが大切だと、改めて認識した次第である。


病気その四

前立腺肥大症の患者はとても多く、大半の人々は、病理を抱えたまま、日常生活を営んでいる。私もその一人で、内心手術なんかは、したくはなかった。然し数回尿閉を起こした為に、止む無く全摘出をする羽目となった。手術の結果は、未だ全快とは言い難く、少しでも無理をすると、てきめんに血尿が出て、休養を余儀なくされる。昨日は家の周囲がジャングル状態だったので、草刈をしたら、矢張り同じ結果となった。この分では、田圃の草刈作業等は、体力的に難しく、誰かに依頼するか、諦めるか、何れ判断を迫られる。


夏その十八

今朝は涼しいので、6時から畑の草刈作業。普段の手入れを怠った咎めは、数倍になって戻って来る。1mにも伸びたススキの如き雑草を、刈払機で切り倒す。毎年畑作はしている積りなるも、今年程に荒れ果てたのは、記憶にない。お隣の畑も私と大差ない荒れ様だが、流石にテンションが下がるのは仕方ない。だからケミカル農家が、草枯らしを彼方此方に振り撒く気持ちが、私にも何となく分かるようになった。この際は、種が落ちる前に、雑草を伐らねば、畑から荒地に、逆戻りしそうである。


夏その十七

ゴミの問題程に、高々半世紀程の間に、情勢が極端に変わった事象は無いだろう。何故なれば、私の子供時代は、頻繁にゴミ収集人が、各家庭に来て、ガラクタの中から、金属等の屑を集める業者が居たからだ。処が今では、殆どの物が厄介物になり、車の窓等から、ポイ捨てをする、ドライバーも後を絶たない。特にPL等の廃棄物は、川から海に流れ込み、深刻な「海洋汚染」を引き起こしている。対策は子供の教育、否大人をも、再教育が必要だろう。


夏その十一

私は定年を待たず、所謂50代で、肩叩きを受けて早期退職したが、その遺失利益は、大変な金額になる。何故なれば、給与体系が年功序列となっているので、一日でも長く勤務したいと望む社員が殆どだからである。勿論私も定年迄居たい気持ちはあったが、一人っ子であり、父も亡くなっていたので、早期退職の道を選んだ。これは大正解であったと確信している。何故なれば大半の社員が、居残ったとしても、何れ時間の問題になるので、一日も早く第二の人生に乗り替えることが、金よりも何よりも、決定的に重要なのである。


夏その一

夏が来た!思い出すのは父の事!私が石貫小学4年の7月16日に、石貫小のPTA会長もしていて、52歳の若さで、ぽっくりと亡くなったのである。殆どの人が信じられない程驚いた。死因は不明なるも、当時の主治医は「藪医者」と云われた皮膚科の医師だったので、処方を間違えたのではなかろうか。そしてこの日を境に我家には、谷底に突き落されたような、大悲劇が襲い掛かって来たのであった。


梅雨その十六

昨夜はJAグリーン会館で、知人の祖母の通夜が営まれ、私も同級生と共に参列した。それにしても葬儀に付きものは、僧侶が朗読する読経である。宗派に依り、同じ文句とは言えないが、何よりも心打たれる文句は「白骨の章」と呼ばれるくだり。この章を読むことにかけて、最も上手で涙を誘う住職は、浄土真宗、本願寺派、玉名市慶専寺の、先代の住職であった。下手な読経は眠くなるが、上手な読経は涙を誘う!この住職は洒脱な人柄で、決して威張らず、我家に来られても、頭が低い人だった。それも有って私はその時分、門徒総代の重職を、若造ながら引き受けたのであった。


働き方その十

何れにしても、人は働く事に依って、社会の一員として認められ、自らも前向きな、気持を持つことが、出来るようになる。今日に例えれば、田植を目前にして、自田の畔の草刈作業!地味なるも、気を抜けない、大切な作業である。何故なれば、水田は水が溜ってこそ「水田」と呼べるのであり、溜らなければ、畑と何ら変わらない。


働き方その九

私は台湾とドイツの仕事に携わったが、前者は成功、後者は失敗だったと思う。何故なれば、私が連れて行った相棒が、現地で尻込みをしたからである。恐らく社員の私と、身分が異なることを気にしたのであろう。私は「遠慮する必要はない」と諫めたのだったが、前面に出るのを躊躇したので、私より先に帰国して貰った。社外工を伴うことは、便利な反面、リスクもあることを認識した。


働き方その八

海外業務では性格の違いが、あからさまに露呈する。国内では偉そうに振舞っていた男が、海外に出ると、丸で借りて来た猫みたいに、大人しくなったのには、私自身が驚いた。恐らく周りのメンバーが全て、日本人ではなくなるので、内弁慶の気質が、馴染めなくなるのであろう。そんな経緯から、私は先発隊として、一貫して台湾人側に接していたので、仕事の進捗がとても遣り易かった。


働き方その七

海外と日本の仕事の遣り方は、180度違うと言っても過言ではない。何故なれば国内ではうるさ型の上司が始終干渉するのに、海外では全くそれは無い。従って私は「水を得た魚」の如く、生き生きと躍動して仕事に励んだ。勿論毎日欠かさず、当日のレポートを送っていた。すると日本の上司は、私からの情報を、最も頼りにするようになった。そして後日聞いたことによると、全体会議の席では、丸でご自身が海外に居るかの如く、最新レポートを吹聴していたとか!


働き方その六

海外業務は戸惑いの連続!特に発展途上国の業務スタイルは、日本では考えられない。その一つが、安全についての認識である。或る日現地作業員の一人が、足場から転落して亡くなった。これが日本なら大騒ぎになるだろうが、たった一日警察の現場検証があっただけで、翌日から何事も無かったように、仕事が再開された。私が現地の責任者に問えば、珍しい事ではないと、平然と答えられた。これこそが「賄賂の世界」だったのだろう。


働き方其の五

当時の私にも、思わぬ追い風が吹いて来た。それは海外での半導体工場建設だった。所謂世界的半導体ブームの到来で、日本に続いて台湾にも、半導体工場建設をすることが決まった。私の仕事は装置の搬入、即ち日米の工場で製造した、各種各様の半導体製造装置を、台湾に持ち込み、工場に据え付けるまでの仕事を任せられた。


働き方その四

今も記憶に新しいのは、所長主催の幹部会議である。定期的に開催されていて、メンバーは課長以上だったと記憶している。当時私も課長だったので、出席していたが、残念乍ら、発言の機会が少なく、目ぼしい成果をアッピール出来なかった。その最大の要因は、何と言っても「族」志向である。族とは「半導体産業に携わる人」を指し「鉄の結束を有する」と囁かれていた。その源流は、半導体事業が長年赤字続きで、冷や飯を食わせられていたのに、一転ブームとなったので、過去の怨念を一気に晴らすべく、巨大設備投資に突き進んだのであった。


働き方その三

私が今も鮮明に記憶しているのは、A氏の事である。関西出身で、所謂「口八丁手八丁」の人だった。何しろ話し出したら止まらない。延々と自説を述べて、ご自分の弁舌に酔っているかの如く、何時までも終わらなかった。話の内容は殆ど忘れたが、私は当時主幹(課長)だったが「何々をやり遂げたら参事(=部長格)に推挙して遣る」が口癖だった。勿論私の昇格云々を、氏の権限で出来る筈も無いものの、口から出まかせとは、このことを指すと云えるだろう。


働き方その二

私が現役の頃、正規の勤務時間は8時から17時位だったが、仕事量が膨大な為に、定時時間内では到底処理出来ず、毎日机の上に10センチを超える未処理の書類が、積み重なっていた。従って朝6時頃に家を出て、始業前に大急ぎで前日の積み残し物件を処理し、当日の仕事に繋げていた。当時私は課長職にあり、多くの部下を抱えていた為に会議も多く、てんてこ舞いの日々を過ごしていた。従って帰宅時間はまちまちで、遅い日は夜の8~9時になっていた。


冬その一

三寒四温を繰り返して来た今秋も漸く終盤を迎え、遅まき乍ら、冬の佇まいを漂わせる時期が到来した。それにしてもこの時期は、銀杏の葉が紅葉して、屋敷中が黄色く染まるのに、今年ばかりは、黄緑色のままで、中途半端な状態が続いている。それに加えて、秋らしくない雨が定期的に振り、渋柿の乾燥が進まず、青黴が発生して廃棄処理になれば、被る痛手は図りし得ない。


秋その四

秋の仕事は収穫の時期なので、楽しい面もあるが、思いの他天候が変わり易く、計画がとても難しい。最も気を揉むのは、稲刈りの時期である。近年は高齢化とも重なり、殆どの農家が、コンバインを使用するようになった。その理由は「稲刈り」と「脱穀」が連続して可能なので、田主は見ている間にそれこそ、あっと言う間の作業で終了するからである。


ベトナムその九

ベトナムの地勢は日本と良く似通っている。国土面積は約33万㎢と、日本よりちょっと狭い程度である。人口も、日本よりちょっと少ない8千万人位。と云うことは、日米や日中みたいな、大国関係ではなく、軍隊も程々の規模で、互いの疑心暗鬼も無いままで、お付き合いが出来るということである。これこそ理想のカップルとも、言えるのかも知れない。


メンテナンスその六

刈払機の心臓部は、草刈り刃取り付け部のべベルギア部分。此処が最も草が絡まりやすい場所で、ほっとけばどんどん抵抗が増して、燃費は悪くなり、摩擦で熱くなる。其処で定期的に分解して、絡まった異物を除去し、グリースを注入せねばならない。処がこんな面倒くさい仕事は、しない人が大半である。私は暇さえ有れば、べベルギア部のメンテをして、最高の状態で作業出来るようにしている。


メンテナンスその二

全ての作業にメンテナンスは不可欠であり、メンテ抜きでは、作業効率は必ず下降する。卑近な例で言えば、調理場で体現できる。例えば包丁が切れなくなれば、砥石で研がねばならず、鍋底が焦げ付けば、鋭利な刃物で削り取らねばならない。こんな作業は家庭でも行われているが、半導体製造ラインでも発生する。それは「スカム除去」と云う工程が、半導体の工程には幾度も出て来るからである。私は半導体の専門家ではないけれども、作業をし乍ら何となく理解したのであった。


メンテナンスその一

嘗て三菱電機に勤務していた頃、メンテナンス部門があった。要は何でも屋である。半導体は装置産業であり、全ての装置が正常に動いてこそ、ICが生産出来る。然し装置の多くが海外からの輸入品。故障した場合、部品を取り寄せるには、長時間掛る。其処で自分達で、何とか修理しようと思って出来た部門が、私が所属した「設備技術グループ」だった。処がイザ遣ろうとしたら、反対者が声を上げた。彼らの主張は「業者に任せろ、素人は手を出すな!」だった。これは業者が巧妙に仕組んだ罠である。要するに顧客が装置を触りだしたら、彼等の出る幕は無くなり、オマンマも食い上げになるからである。


トラクタその一

今や農業にトラクタは欠かせなくなった。何故ならば、牛が居なくなった現在、動力としてのエンジンが必須となったからである。そして過去半世紀に亘る間に、農業機械は革新的進歩を遂げた。それは自動車と同様に、単なる欧米の物まねではなく、日本の国土に見合った、農業機械を作り上げた日本人は、素晴らしいとしか言い様がない。私は現在3台目のトラクタを使っているが、これなくして米作りは、絶対不可能である。


刈払機その一

私が初めて草刈機を買ったのは、もう数十年昔である。それ以前は手鎌が一般的だったが、作業効率に勝る刈払機は、あっという間に、殆どの農家に行き渡った。そして今や老若男女、殆どの人々が日常的に刈払機を使うようになった。この世に草刈機は多けれども、我が国程に、多種多様な草刈機が発達したのは、日本の国土と密接な関係がある。起伏に富み、狭隘な農地が入り組んだ土地に、大型機械は似合わず、取り回しも難しいからである。


職業

人は誰しも、何らかの職業を持たねば、生きていけない。況や動物も同様である。鶏は卵を産むのが仕事であり、犬はその鶏を、外敵から守る役目を担っている。私は昭和22年生まれ、農家の一人息子である。幼き頃から農作業を手伝い、見よう見真似で技能を会得した。然し遣ってみて分かったのは、農業の生産性の低さである。何せ地勢が悪過ぎる。山地に近く棚田が殆どで、田圃の形状も矩形ではない変形田が殆どだった。そこで行政が乗り出して、昭和40年代から、圃場整備と名付けた土木工事が始まった。その目的は、集約化(点在している田を、持ち主毎に一箇所に集める)給排水路設置(他の水田経由ではなく給水路から直接水を引く)取り付け道路設置(他の水田を通らず農業機械が出入り出来る)の3点である。この事業実施の結果、確かに多くの地主が恩恵に浴したが、他稿に記した如く、我家への恩恵は少なく、負担金だけが重く圧し掛かかった。
あれから半世紀、今度は担い手の高齢化という難題が押し寄せつつある。と言うのも農業には適期と云うものがあり、皆が一時に同種の仕事をするので、所謂シェアすることが難しい。田植えを例に取れば、トラクタと田植機があれば、良さそうだが、今度は水の奪い合いが起きる。そんなこんなで、今年も田植えが済んで、一段落の今日この頃。最早還暦もとうに過ぎ、孫も小中学生ともなれば、そろそろ終活をも、考えねばならない時期が近付きつつある。何事も始めるのは勢いがあって良いものだが、終わり方は難しい。過去の反省をも込めて、今後は過度に出しゃばることは控えようと思っている。
その昔、私が現役の頃、専任社員制度というのがあった。通常は60歳で退職なのだが、例えば技術営業職で優秀な人なら、給与は下がるが、60歳以降も引き続き雇用して貰える制度である。私は当時技術職だったが、製品説明のための出張がとても多く、客先で説明をする場合、大抵はベテランの専任社員が上手にイントロをされ、それから私の出番だった。勿論これだけでは済まない。夜は顧客の好みに応じて、酒席が用意され、私も御相伴させて頂く事に!満足された頃合に、顧客をタクシーで最寄の駅まで送り届け、やっと自前の時間が来る。受注業務は、ブランド・技術・価格・実績・信頼性・etc.正に企業の総合力が問われる戦いだった。終わり


家電

私は昭和44年(1969年)の就職組で、日本が丁度好況の入口にあった時期である。大学時代は勉強よりも遊びに夢中で、成績も上位とは言えなかったが、首尾良く就職することが出来た。何故なら、当時は売り手市場で、各企業から大学へ、採用数の割当てが来ていて、大卒は所謂“金の卵”と云われた、学生にとっては稀に見る幸福な時代であった。
当時は自動車と電機が花形企業で、私もその一翼足る三菱電機に就職することが出来た。そして配属されたのが、冷蔵庫とエアコン・電子レンジを生産していた静岡製作所である。同期入社組は数人居たが、私は水力学が専門だったので、当時主力だった水冷式エアコンの職場に配属された。然し今考えると、水を使う水冷式から、使わない空冷式へと、大きく転換する時代だった。
今や日常生活に不可欠な自動車は、殆ど水冷式だが、オートバイはエンジンが露出している為か、殆どが空冷式である。当然乍両者は利点と欠点を有する。水冷式の長所は、エンジンの冷却効率が良く、静かだが、機構が複雑な為に大きくて重い。一方、空冷式は機構が単純で、小型軽量に出来るが、騒音が高い欠点を有する。(オートバイは、騒音が高いことが、或る種の売りにもなっている)。
丁度そんな時期、私が担当を仰せつかったのが、水冷式エアコンの開発だった。水は空気に比べて比熱が大きく、天井裏などの狭い空間に設置可能である。然し、クーリングタワーと言う放熱機が必要となり、大気汚染物質が溶け込むと、配管や熱交換器を腐食させる欠点がある。その上に水は漏れ易く、天井裏に漏ると、下の事務所や工場に被害を与え、クレームとなる。そんなことから私が担当した水冷式エアコンは、市場競争に敗れて、殆ど姿を消した。その後市場を席巻したのが、家庭用に一般的な空冷式エアコンである。これは水を使わないので、水漏れの心配が無いばかりか、配管も細い銅管で済むので、作業性が良い。その上、一台の室外機から、数箇所の室内機へ分岐出来るので、あっと言う間に市場を席巻した。
私はその頃から、自信喪失状態に陥った。仕事の殆どがクレーム処理になったからである。品質保証部門との折衝に、時間を費やす毎日が続いた。然し同部門は、問題のジャッジはするけれど、客先に出向いて自ら動くことは殆どない。結局の処、設計者足る私が、部下を連れて顧客と向き合わざるを得なかった。私は企業体を過信していたことに気付いた。何故なれば、法人であれ、個人であれ、降りかかる課題には社員が応じるしかなく、それは設計者足る私なのであった。
あれから早30年、私は今農業に専念する毎日である。そして気付いたことは、今も尚“水”と格闘していることである。米作りは水田が基盤であり、5月から10月までの半年間も付き合う。そんな今朝は本格的な入梅とも思える驟雨が降り頻る。こんな日こそが田圃の代掻きに最適であり、朝食も食べずに雨合羽を羽織り、トラクタで水田に向かう。満水になった水田を行ったり来たりして、思い描いた通りに田圃が整った。さあ次は田植えだ!終わり


性格

私が農業を再開して今年で6年。最も苦労しているのが苗代である。我家は昭和30年頃から米作りをしていたが、当時は今アパートが建っている所が、苗代の場所だった。一反近くの水田全面に、水苗代をしていたのは、近隣の農家と共同作業だったからだろう。此処は自宅の目の前で日当たりも良く、土地もベストだった。然し、15年程前この水田を埋め立てたので、以降は別の場所で苗代をせざるを得なくなった。当初は自宅から2kmほどの片白で苗代をしたが、田植砂や種蒔き機などの機械器具を持ち込む手間が大変なので、昨年からは自宅近くの休耕田を借りることにした。処が昨年は水不足により、畑苗代という水を使わない手法を採ったお陰で、雑草がはびこり、とんでもない事になった。そこで今年は、アパートに隣接して水の便も良い、T氏の水田を借地した。この半反ほどの田圃は、その昔父が酒代として、T氏(の父親)に売却した土地である。T氏は真面目な性格で、快く貸して下さったので、私は来年以降も此処を苗代にしようと決めていた。処が、最近になってT氏から「水路の浚渫をして欲しい」「畦の草刈をして欲しい」「ヒエを取って欲しい」挙句の果ては「粗起し(=耕耘)をして欲しい」と再三に亘って作業要請の電話があった。どうやら私の管理に不満があるようだ。一般的に土地を貸したら、借主に一任するのが常識だと思うが、T氏は頻繁に現地チェックをされているようである。私は「はいはい」と応え、氏の指示通りに作業をしたが、内心では「やりきれない」気持ちになった。考えてみれば、T氏は十余年前、私が田圃カフェ横の道路の法面にブロックを積んだ時、垂直ではトラクターの取り回しがやり難いので、傾斜面にせよとクレームを付けられ、工事をやり直した経緯もある位、神経質な人である。この分では恐らく「耕耘作業で凸凹になった土地を均して欲しい」「傷んだ畦を修復して欲しい」等々、今後も尽きせぬ要求が舞い込む予感がしたので、年度途中であるが丁重にお礼を言って地主に返還した。人の性格は十人十色とは良く言ったものである。私は自分の性格は几帳面だと思っていたが、T氏から私を見れば「アバウト」で「いい加減」で「チャランポランな男」と見えたのだろう。その証拠にT氏は先日私の目前で、老母と二人、畦の草刈りから、水路の浚渫、トラクターでの再耕耘、地均し作業を、それこそ半日掛かりで、一からやり直された。私は鏡のように見事に整備された田圃を見て「私は其処までは出来ません、恐れ入りました!」と云うしか、言葉が見付からない。お陰で、又しても来年の苗代の土地を探さねばならなくなった。
それにしても、今年の天候は異常事態である。年初から雨不足が続き、東日本の豪雨と対照的に、西日本は空梅雨の後、連日の猛暑。水の便が悪い田圃はカラカラ状態でひび割れし、殆ど稲が成長していない。一方水の便が良い田圃は豊作間違いなしと、両極端に振れてしまった。私の田圃も、M氏から借りた1反は、水が来るので豊作間違いなし。一方自宅裏の8畝は、水不足で蚊帳吊草が一面にはびこり、惨めな状態になっている。棚田の場合、水は下に流れるので、最上段の田はカラカラ・中段はそこそこ・下段はたっぷりと、三者三様に分かれたのだ。
こんな気象が現れるのは、地球温暖化の影響だろうが、私にとっては米作りの基本方針を見直すべき事態と受け取っている。従来は無作為に耕作放棄田を借地したが、今後は“地主の性格”を第一に、水利を第二に、日当たりを第三に吟味して、今回のような失敗を繰り返さないようにしたい。


日揮

最近、毎日のようにTVのトップニュースで報じられるのは、例のアルジェリアで起きたテロ事件で、10名の日本人技術者が殺害された。私はこのニュースを見る度に、一般の人々とは異なる感慨を覚える。世紀が代った2000~2001年は、私にとっても大きな転機の年だった。新規ビジネスを始めた三菱電機の子会社から乞われ、海外向けのICマーキング機(半導体チップの表面にレーザー光線で型名等を印刷する装置)の責任者として着任したものの、開発が難航し、やっと納めた台湾向けの装置はトラブル多発。部下と共に現地に赴いたものの、抜本解決には至らず、度々上司に呼び付けられ、延々と叱られた。それだけならまだしも、腰巾着の経理マンからまで皮肉られたのが堪え、私は56歳の若さで退職届を提出した。然しこの事実はどう見ても敗北者としか言い様がなく、その後暫くの間私はひどく落ち込んだ。
そんな時、荏原製作所の子会社が、南関町に半導体装置の製造拠点を設けるとのニュースを聞き、暗闇の中に一筋の灯火を見付けた如く、勇んで応募した処、目出度く採用決定。翌2001年から、3ヶ月間の神奈川県藤沢事業所での研修を経て、荏原九州に勤務することになった。専務の面接を経て、私に与えられた役職は、品質保証部長だった。荏原製作所は、元々ポンプで有名な企業であるが、先々の成長が見込めないことから、半導体装置に手を伸ばした時期で、社長の考えから、同社の旧態依然足る体質を変えるべく、新会社の社員には新人の他、様々な業歴を有する社員を雇用された。勿論、上級幹部の大半は荏原出身であったが、専務が“日揮”出身の人だったので、同社から引き抜かれた社員も多く、私の直属部下も元“日揮”だった。彼らは皆優秀な上に責任感がひと際強く、私は帰宅した後も幾度も部下から、仕事に関する相談の電話を貰った程である。
又私は、同社の社風にも驚いた。通常会社のトップは別室に座るのに、専務の席は我等と同じ大部屋の一角。私のような部長も、課長も、平社員と殆ど同格の扱いである。詰りは管理職は名ばかりで、専務のワンマン会社なのだ。新規事業にはユニークな人材が相応しいとの考えで採用したこともあり、人的トラブルも多かった。私は地元出身なので、専務の私的面のサポートをも担当した。車を運転されない専務の、お抱え運転手役を始めとして、マンション借り上げの仲介やら、外注先の社長との連絡調整、はたまた出張から戻らない問題社員の説得と、その業務は多岐に及んだ。中でも印象深いのが、外国人対応である。装置の心臓部がイスラエル製だったので、同国の技術者との応対から、休日の旅行ガイドまで何でもこなした。そのご褒美に、珠には専務の馴染みの店で晩酌のお供も!居酒屋で盃を酌み交わしつつ語られた日揮時代の話は、厳しく・暖かく・赤裸々で、私はグイグイ引き込まれた。
今毎日のように報じられている、アルジェリアでのテロ。日揮の社員10名が犠牲になったと聞き、私は深く同情し、到底他人事とは思えない。彼らは私のような一般企業の社員とは異なる、特別なスキルを有するコマンド、即ち現代の特殊部隊の戦士である。安全で平和が当たり前の日本とは全く異なる環境で、文字通り命懸けで業務を遂行している。原発事故以降、エネルギー確保が待ったなしの課題に迫った我が国は、欧米諸国に大きく遅れた資源外交を、抜本的に強化することを求められている。国はその尖兵として、民間企業をアテにしているようだが、東南アジア諸国なら兎も角、アフリカのような全く文化の異なる国で、エネルギープラントを建設するには、最初から国(含む自衛隊)が関わるべきである。さもなくば、日揮のような一民間企業が背負うには、重すぎる危機に直面した時、命を捨てねばならないのは、何の罪もなく、掛け替えのない貴重なスキルを有する、社員一人一人なのである。亡くなった皆様のご冥福をお祈りします。終わり


はやぶさ

終映も間近に迫った先日、映画“はやぶさ/HAYABUSA”を観に行った。この映画は小惑星探査機の実話に基づいた作品で、今後米国でも上映されるとか?はやぶさは今から遡ること8年半前の2003年5月9日、多くの人々が見守る中、鹿児島県内之浦宇宙空間観測所よりM-Vロケット5号機により打ち上げられ、搭載された「ミューゼスC」に「はやぶさ」という愛称が冠せられ、惑星間宇宙への旅に出た。そして実に7年後の2010年6月13日に、小惑星“イトカワ”で採取したサンプルを、オーストラリアの砂漠まで持ち帰る、世界初の快挙を成し遂げたのである。
映画は2002年、文部科学省宇宙科学研究所(現在のJAXA)の対外協力室室長だった的場泰弘(西田敏行)が、小惑星探査機「ミューゼスC」について講演するシーンから始まる。当時、小惑星探査機についての世間の関心は極めて薄かった中で、的場の講演に感動した北大出身の所謂“リケ女”水沢恵は、JAXAの研究生として採用される。そして、広報と雑用を担当し、宇宙の出来事を見学者に出来るだけ分かり易く、然しそれでも専門用語を乱発しながら早口で解説する。一方はやぶさは、目指すイトカワに着陸するも、姿勢が定まらず通信も途絶して、その後暫く行方不明となった。当然ながらJAXAは“税金の無駄使いだの非効率だの”と、マスコミや国会などから散々非難される。そんな逆風下の最中に、はやぶさは様々な困難を乗り越えて、目出度く地球に帰還するという筋立てである。
私はリケ女ならぬリケ男であるが、その切欠は石貫小学校5・6年の担任だった澤田先生である。1年から4年まで女先生が担任だった後に、初めて担任となった男性の澤田先生は、特異なキャラクターの持主だった。やや酒乱気味で、屡特大のマスクをはめていたのは、酒酔い運転で自転車から転倒した時の、顔の傷を隠す為だった(マスクを外した後の顔には大きな絆創膏が張ってあった)。澤田先生の専門は理科、それも屋外授業が多かった。幾度か見せて貰ったのが、運動場での花火の打ち上げ実験である。火薬の材料は砂糖と硝酸だったと思う。炭化水素の砂糖に、硝酸基が結合すると爆発的な燃焼を起こす。まるでロケット発射の瞬間のように、オレンジ色の火炎が高々と吹き上がると、クラスメート一同、大歓声を上げた。
私はこの実験を切欠に物理や化学に興味を持つようになり、アルミ製の鉛筆キャップにマッチ棒の先の火薬を詰め、歯で噛んで口を確り閉じ、外からローソクで熱してペンシルロケットを発射したり、投網の錘の鉛を溶かして型に入れて成型したりして、文系が殆んどの我家では珍しく、理系への道を歩み始めた。勿論、大学も機械工学専攻である。然し4年次の卒業研究で、私は水力学教室に割り振られた。従って熱やエンジンとは殆んど無縁の、パイプを流れる水の挙動解析という大変地味なテーマに取り組むことになり、ロケットの発射実験のような、ワクワクドキドキの体験もなく、就職先も冷蔵庫やエアコンと言う、云うならば“大人しい機械”を設計する技術者になった。
その私は、現在農業をしているが、農業には各種の農機具を使用する。秋の主役は、稲刈に使用するバインダーと、脱穀に使用するハーベスタである。ところが、この両者は今年もトラブルを起こした。前者は昨年と同じ締結不良で、刈り取った稲を束ね損ね、バーンとばら撒く。従って手作業で括り直さねばならない。とうとう最後は修理の為にメーカ行きとなった。それに比べてハーベスタは、絶好調だったのに、最後の日に脱穀不良のトラブルが発生した。原因は架け干しの乾燥不良である。今秋は「女心と秋の空」を地で行くような不安定な毎日で、架け干しの稲は乾燥不良。私が目指す「3日連続の晴天」が未だに到来しない。架け干し10日というように、長く掛ければ良いと言うものではなく、適期に脱穀するのが一般的なのに、今年はタイミングが悪く、稲刈後やがて一ヶ月にもなる。こうなると穂先が千切れたり、猪に喰われたり悪い事が起きる。
私は思う。一年の計足る収穫の日位は、土日といわず平日に休暇を取ってでも、来て欲しいと懇願すべきだった。私の脱穀日は10月27日木曜日。当日は5日間連続の雨無しに続く快晴の日で、カラカラに乾いた稲束を、これでもかこれでもかとハーベスタに投入したが、只一度のトラブルも無く、半日で3枚の田圃の脱穀を済ませた。然し悲しき哉“はやぶさ”と違い、もう二度と“あの日”は戻って来ない。終わり


菅野さん

言うまでもなく、今の首相は菅さんである。そしてこの菅という字は、管理者の管(竹冠)とも、官僚の官(ウ冠)とも異なる草冠である。私が住む九州地方では、菅野という苗字は聞いたことがないが、TVを見ていると、東北地方には“菅野さん”が大変多いことに気付く。
私は15年前「菅野さん」の下で1年間働いた。当時、会社は半導体の一大投資を実行中で、私は上司からプロゼクトリーダに指名された。然し菅野さんは私と言う人間を殆んど知らず、不安に思ったようだ。菅野さんから見れば、己は入社以来30年間以上、半導体一筋の生え抜きなのに、私は他の事業部から流れて来た、何処の馬の骨か分からない人間に見えただろう。丁度その時期に、菅野さんは部長から工場長に昇格した。
それから私は、菅野さんから頻繁にお呼びが掛かるようになった。氏は私を机の前に立たせ、瞬間湯沸器の如くエキサイトして、東北訛りを速射砲のように浴びせた。要はそのプロゼクトには社運が掛かっていて、失敗が許されないこと。その仕事はプロでなければ無理で、私は“アマチュア”であること云々。これは氏が“業者から刷り込まれた固定概念”だと思う。ビジネスは如何に付加価値を高くし、利益率を上げるかがキーポイントである。下請企業たりとも、自社の業務を専門化・高度化して、請負単価を少しでも上げたい。それがハイテクの半導体投資となれば尚更で、菅野さんは業者から「自分達は他の者では出来ない高度なスキルやノウハウを持つ専門家集団である」と吹込まれていた(実際はピアノ引越し業者みたいなもの)。
今、東日本大震災で被災された方の名前に「菅野さん」を見かけると、私は嘗ての上司を思い出す。そして原発絡みのニュースにも、最近変化が出てきた。それは経済界から推された経済産業相が、原発の安全性に楽観的で、再稼動を目論んだのに対して、菅総理が突然、ストレステストを言い出し、政府内が混乱しているからだ。これは、私が菅野さんから「アンタでは不安なので業者に任せろ!」と言わたれたのと良く似ている。ストレステストはコンピュータを使った一種のシミュレーションで、多数の入力条件の内の二つ(例えば地震と津波)がandかorの違いだけであっても、正反対の結果が出得る(=結果を恣意的に変え得る) 。こんな初歩的なこと位、先刻ご承知の経産相は、さぞや困惑されたことだろう。
今の日本は、震災を越えて新しいフェーズに踏み出す、大切な時期に当たる。こんな時、日本国の舵取り役の政府自体が混乱していては、国民はどうして良いか分からない。中でも復興担当大臣に指名された、松本龍氏に至っては論外で、私は同じ名前を持つ人間として、あの岩手での振舞いは「ヤクザ」としか言い様がなく、恥ずかしさを通り越して、怒りが込み上げた。
物事は須らく、部下を信頼して出来るだけ任せ、やる気を出させることが肝要で、これは時代や職種、場所や人を問わないし、それには組織トップの器量が大きくモノを言う。あの超短気だった「菅野さん」も、私が雨嵐の中で、計画通りの仕事を成し遂げたのを切欠に、すっかり信頼され、その後は一言もクレームを付けなかった。
私は思う。非常時のリーダーは数え切れない位居れども、歴史に名を留めたリーダーは数少ない。その中でも有名なリーダーの一人が、西郷隆盛ではなかろうか?薩摩の不満分子を引き連れて九州山脈を敗走し、最後に城山にて自刃した。今の菅さんは、嘗ての西郷さんの立場に近い。部下に全てを任せて、自身は全ての責任を取ってこそ、総理大臣の名に値する。きっと菅さんも今、そんな事を考えて居られるだろう。終わり


現代の名工

“現代の名工”とは、卓越した技能者のことを指し、皇居に於いて厚生労働大臣により表彰されるとか!その受賞者の一人、M君の受賞記念祝賀会が先日あったので、私も出席した。会場の居酒屋には、嘗ての職場仲間数十名がお祝いに駆けつけ、大盛況だった。
私が昭和59年、母の病気を切欠に、和歌山から玉名に引き上げざるを得なくなり、会社の好意で三菱電機熊本工場に配置転換して頂いた当時、M君は若手技能者の一人として、生産設備の組立に従事していた。当時はバブル前の好景気で、半導体も羽が生えたように売れたので、会社は増産に躍起となっていた。増産対策は大きく分けて二つの方法がある。人員増強と設備投資である。一般的に製造現場は前者、即ち人員増を求める。それは手っ取り早いし、自分達の権限拡大にもなるからだ。然し不況になった時、一旦雇用した社員の首切りは、当時の雇用慣行上、簡単ではなかった。だから私の属した設備技術課は、設備投資による増産を使命としていた。然し、本格的な設備投資には多額の資金が必要で、実施に際しては社内各部門の複雑な稟議を経ねばならず、手間や時間が掛かる。そこで小回りの利く社内の固有技術を活用して、生産のネックになっている工程の合理化を計るのである(これは日本発“カイゼン”の名称で、今や世界中に普及しつつある)。
それは主に後工程と呼ばれる、ICの組立やテストについて行われていた。私の上司は、社内の技能者から有能な若手をどんどん抜擢して、我が課を積極的に強化された。当時はメカを担うO君と制御を担うF君がエース格で、次々にユニークな装置を設計した。その装置を組み立てるのが、M君の役目だった。然し誰が設計しても、最初から装置が上手く動作するほど生産現場は甘くなく、トラブルが連発する。その最たるものがJAM(ジャミング)と称する引っ掛かり、即ちICが機械の何処かに詰まって動かなくなる現象であった。この現象の要因は実に様々である。M君は組立調整が専門だったが、何時もトラブルのことで、設計者に噛み付いた。国会で、野党議員が政府提出の法案に噛み付くのに似ている。M君の主張は「設計変更(法案修正)が不可欠」対するO君の回答は「機械の調整(制度運用)で対応すべし」。両者の言い分は国会同様に真っ向から対立したが、多くの場合M君が折れて、顧客の矢面に立つ羽目となり、結果的に多くのノウハウを身に付けた。
私は当時課長で、最終決断をする立場にあったが、専門外だったので個別事案への深入りは避け、横で見守った。そんな時O君は大抵(役立たずの)私に、寿司の差し入れを求めた。流石にアルコールは無かったと記憶しているが、休日の土曜の半日、関係者が一室に篭り、寿司を食べながら、喧々諤々の検討会が催された。その場でのM君は所謂口下手で、必死に何かを訴えようとするが、適切な言葉が見つからない。要するに、今で言う“顧客指向”を言いたかったのである。製造現場はノルマを課せられ、機械の調子が思わしくなければ最悪の場合“手作業”に追い込まれる。そんな修羅場での苦しい経験が、彼の掛け替えのない資産となり、今回の受賞につながったのだろう。
私は今、自分に問い掛ける。「己には修羅場の経験があっただろうか?」と。多分M君と比較しても、私は見劣りする程度の経験しか、持ち合わせていないように思う。そんな凡庸な私が、彼らの管理者として長い間“偉そうに”振る舞えたのは、一にも二にも当時の上長のお陰と言うしかない。その方は今現在、何と我が娘が働く会社の社長なのである。終わり


モラルハザード

私がウーフホストに加入したのは2004年11月なので、やがて6年になる。最初に我家に来た外国人は、コロンビアの美人女性グローリアだった。コロンビアは有名な誘拐国家で、近年は半ばビジネス化していて、日本人も過去何度か誘拐された。彼女はそんな自国に愛想を尽かしたのだろう。ジャマイカの大学に留学して英語を学び、日本で農業体験をしてから、有機農業で有名なコスタリカに渡り、それを実践すると言っていた。私は“その志や尊し”と惚れ込み、次の島原のホストに向かう日の朝には、家内共々態々熊本港まで車で送り届け、エールを送った。
続いて来たのは、色白で大柄なオーストラリアの女性カトリーナだった。時節は初冬で、手が悴む寒さの中、大量に採れた大根を二人で川で洗い、千切りして“切干大根”を作り、大きな笊を沢山並べて干したのを、昨日のように覚えている。その当時、偶々我家に来たミカン農家の友人が彼女に一目惚れして、半ば強引に2~3日間自宅に連れて行った。
以来今日に至る6年の間に、日本人男女29名、外国人男女34名のウーファーが我家を訪れ、各々数日間滞在した。来訪者を年別に見ると16,17,11,11,5,3名となり、年と共に減少していることが分かる。今年はたったの3名なのだ。これには様々な要因が考えられる。
加入当初は、ホストリストも冊子となっていて、ウーファーはその一覧が可能だった。勿論ウーファーからホストへは、直接(受け入れ打診の)メールや電話が来るので、私はそれに返事すれば良かった。詰り両者の直接コンタクトが可能だったのだ。そして毎月末、事務局へ前月のウーファー受入状況報告をすると、事務局長のHさんから丁寧な返事と、問題点に対する適切なアドバイスが来た。勿論事務局も、全てのホストやウーファーからのメールに返事を出すのは大変だったろうと思う。「毎日髪を振り乱して返事している」とのメールもあった。中には会費を払わずウーフする不法者もいて、とても神経質になられた時期もあった。だからかも知れないが、近年ウーフの仕組みが大きく変わった。現在は全ての作業が、同会のホームページにアクセスしてパスワードを入力し、細かな字でびっしり書かれた規約にサインし、必要事項をインプットする仕組みである。一方受入報告の要請は殆ど来なくなった。私が類推するに、ホスト・ウーファー両者が増大の一途を辿り、人を介した情報伝達が不可能となり、システム化を図ったのだろう。
これは何処の世界にも起きる変化である。事業が立ち上がる初期過程では組織も小さく、小回りも利き、互いに顔が見える心地良い関係が構築される。しかし組織が次第に大きくなり、個人の力でハンドリング出来なくなると、システム化が進行し、細かなルールが沢山ある官僚的組織に変貌する。問題はこの変化を利用(悪用)しようと考える者が出ることだ。
今日起きている最大の問題は、ウーファーの急激なモラルハザードである。2年程前に来た韓国女性がその奔りだった。私を菊池まで迎えに来させた上に、滞在中は農作業は形ばかりで済ませ、連日のように日本の友人と熊本市内観光をした。又最近ドタキャンも急激に増えた。それも当日である。私は仕事の段取りをして待っているのに、平気でキャンセルする。その多くが外国人カップルである。きっと数箇所のホストにダブル・トリプルブッキングをしているのだろう。昔“悪貨は良貨を駆逐する”と習ったが、ウーフ制度にも言える様だ。
私は思う。人間は欲が深い。何事も上手く行き始めると欲望も肥大し、次第に周りが見えなくなる。そして最後には墓穴を掘る。然しそれは自分とて同じなのかも知れない。あれもこれもと手を広げ過ぎた。今年限りでウーフホストは退き、来年以降は身の丈に応じた仕事をコツコツやろうと思う。終わり


運動神経

運動神経とは、脳から身体各部の筋肉へ運動指令を伝える(遠心性)神経で、これがスムーズか否かで“運動神経”の良し悪しが分かれるとか!私は運動音痴なので、きっと体のどこかで指令が滞るに違いない。母は若い頃テニスをやっていたし、従兄にはノンプロのピッチャーや柔道家も居るが、父方は学研肌で公務員が多いので、私の運動音痴はきっと父方譲りなのだろう。その証拠に父は小学校のPTA競技はいつも飛び抜けてビリ。一方母は、私が若い頃に柿の高木に登り、樹上から実を投げ落すと、百発百中、上手にキャッチしていた。
私はバトミントン位なら何とかまともに出来るが、卓球のスマッシュなどには体が反応出来ない。だから三菱電機静岡・和歌山時代の15年間は、社員の昼休みの楽しみだったテニポン(バドミントンコートを使用し、テニスと卓球を組み合わせたスポーツ)が大の苦手だった。この競技は軟式テニスボールを使うが、ラケットの使い方次第では、ボールが極端に変則バウンドするので、体が全く反応出来なかった。
そして熊本帰省後も、年に一度の校区球技大会にどんなに誘われても、怖気づいて行かなかった。それはソフトボールで外野を守った時、頭上を越された打球を追いかけても、肩が弱いので内野まで返球出来ず、走者一掃を許してしまうからだった。勿論内野を守れば良いが、ライナーは捕れず、捕れても肩が弱いので内野安打にしたり、悪送球を誘ってしまう。球技以外のスポーツも得意種目は無いに等しい。水泳・登山・サイクリング・短長距離走、どれも苦手である。唯一自慢出来るのが、中距離走(約1500m)で、恒例の校区新春マラソン大会では、2年連続で高齢者部門(50歳以上)のトップだった。
そんな運動音痴の私が、最近地域の人々から“龍さんと修ちゃんが石貫で一番強い”と褒められる。修ちゃんは私の小学同級生。手広く農業をする傍ら、熊日新聞の夕刊を配達し、夜勤で某電気メーカに勤めている。私は子供の頃虚弱児童で、501mの小岱山登山にも付いて行けず、修ちゃんの肩を借りて青息吐息で登ったことが、今も語り草になっている。そんな体格も体力も図抜けていた修ちゃんと今並び称されるのは、誉れと言うしかない。私は修ちゃんにはとても敵わないが今年の1月中、雪の降る日も欠かさず山仕事に精を出し、クヌギ山の過半の雑木を伐採した。この仕事の切欠は家内の知人、Kさんとの出会いだった。Kさんが椎茸栽培をしたいと言い出したので、クヌギ山の下刈りを条件に、ホダ木の提供を承諾したのだった。然しKさんは体力が続かず一週間で脱落し、以降は私一人の作業になった。毎日チェーンソー、刈払機、手鋸・鎌を駆使しての作業。昨日は、蔦が摑まった木が枯れていたので折れ、私は急斜面を仰向けに崖下まで転落し、危うく大怪我する処だった。このように山仕事には危険も伴うが、一方では高齢者向きの仕事とも言える。傾斜地での仕事には身体のバランス感覚が不可欠で、下半身の強化になるし、鋸や刈払機を操作すれば上半身が鍛えられる。
そんな昨日、友人から一通のE-Mailが飛び込んだ。元三菱電機静岡の一年後輩S君の訃報だった。彼は埼玉出身、身長180センチのスポーツマンで優男だった。新人歓迎会も、結婚後のストームも、私が彼の幹事役を務めた。私が中小企業出向中に、東京本社に勤務していた彼を訪れ、会ったのが最後となった。この年代は10人中3名が既に他界したとか。私の同期7人では、入社間もない時期に沢登り中、滑落したS君一人しか訃報を聞いていない。
子供の頃、虚弱児童だった私は、今自分でもビックリするほど健康になった。健忘症と肩こり、腰痛を除けば、前立腺肥大位しか身体的不都合は無い。例年幾度か引いていた風邪にも、今冬は一度も罹っていない。全て農林業のお陰である。
私は思う。今更運動神経が鈍いことを悔やんでも、どうにもならない。昨日は枯木が折れた時、咄嗟に何かに摑まれず崖下まで転落したが、今後は枯れていないかを“事前確認”すれば良いのだ。終わり


取掛かり

「取掛り」とは何かに取り掛かること、即ち着手することを指す。何事も始まりがあるから終わりがある。始まりがなければ終わりもない。始まりと終わりは一対のものである。この世には、物事を始めるのが得意な人も居れば、終えるのが得意な人も居る。私はどちらかといえば後者に属すると思う。
特に中学・高校時代は勉強が嫌いで、ついつい始める時間を先延ばしした挙句、幾らもしない内に眠気が襲って来て、飯台に突伏たり、畳に仰向けになって、寝込んでしまうが多かった。特に冬場は木炭使用の掘り炬燵で勉強していたが、私は態々横になる為の板まで用意して、眠気に襲われると中にもぐって寝た。然し火が消えて寒くなった夜中に目が覚めても、もうその時は意識が朦朧としていて、再び勉強する気にはなれない。そしてとうとう本式に布団に入って寝てしまうのだ。これではちっとも勉強は捗らない。だから高校一年の後半から成績は一気に急降下、全校ベストテン以内から、二年の時には50番以下に転落してしまった。相撲で言えば三役から十両まで陥落したようなものである。(注.成績が公表されるのは上位60番位まで)
のんびり屋だった私も、流石にその時点で「これではいけない!」と一念発起、帰宅後早めに食事を済ませて1~2時間仮眠、20時頃起き出して深夜まで勉強する方法に切り替えたら、徐々に成績が向上した。これは旺文社の大学受験ラジオ講座を欠かさず聴いたことも大きいが、私は眠気との戦いに勝ったことが主因だと思っている。
当時を思い起こせば、取り掛りの重要性にも気付く。人間“しんどいこと”に着手するのは、誰でも気が進まないものである。例えば毎日の食事を億劫に感じないのは、空腹を覚える為もあるが、しんどくないし、“習い性”になっていることが大きい。それに引き換え、労働や勉強を習い性にするのはとても難しい。
今の私もそうである。夏になると暑さを理由に仕事をサボり、冬になると寒さを理由に仕事をサボる。然し敢えて比較すると冬場が良い。どんなに寒くても、しっかり着込んで外に出て働けば、体は温まって寒さを感じなくなる。それどころか体が温まるに連れて、寒さが心地良くすら感じるようになる。然し問題は夏場である。寒さは労働でカバー出来るが、暑さは労働で更にひどくなる。夏場の典型的な作業は屋敷や田畑、道端や山林の下草刈である。出来れば毎月、最低でも二ヶ月に一回は刈らねばならない。だから私は主に早朝と夕刻に作業する。腰に蚊取り線香をぶら下げて、首にはタオルを巻き、長袖長ズボンに長靴、そして麦藁帽子がお得意のいでたちである。然しどんなに頑張っても2~3時間が限度である。終わりの頃は、全身汗まみれ!喉はカラカラ!一刻も早くずぶ濡れの衣服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びて冷たい水をゴクリ!何とも言えない爽快な瞬間である。
私はこの夏の辛い仕事を出来るだけ減らす方法はないかと、先月の英国旅行中も考えていた。英国は日本とは気象条件が異なるが、それでも夏場は日照時間が長いので、草の生長は日本同様に著しい。然し日本と違い、国土が平坦である。そして何処にも大木が多く樹間も広い。その周りを大型の芝刈機が頻繁に巡回して、芝生の草を刈っている。それに引き換え、我家の周辺は起伏が大きい上に石などの異物も多く、芝刈機は向かない。やはり刈払機に頼るしかない。しかも成長途上の木々が多い為に、枝打ちや間伐も不可欠である。英国の公園のような大木が欲しい私は、狙いを桜・銀杏(イチョウ)・椋(ムク)・柳・櫨(ハゼ)の5種に絞った。これらは何れも成長が早く、冬場に葉を落す落葉樹である。
私は思う。今地球は温暖化の進行が止まらないのに、先のサミットでも先進国と発展途上国との溝が最後まで埋まらなかった。従って今後も、特に夏の暑さは益々過酷になるだろう。この一番の対策は、家を大木で取り囲み、夏の直射日光を遮ることだ。然し問題もある。雨樋の詰りである。落ち葉が樋に詰れば雨水が捌けないので、誰かが取り除かねばならない。然し私は、こんな高所作業は後10年位しか出来ないだろう。その頃は40歳になる息子に戻って来て欲しい。そんな事を一人考えているこの頃でもある。終わり


ファミリートレーニング

私がこの言葉を知ったのは、多分30代前半の和歌山勤務時代だった。昭和55年、静岡から和歌山に事業移管された業務用エアコンと共に、私達三十余名の社員も転勤した。移管されたエアコン製造部のトップはK氏だった。K氏は小柄でとてもエネルギッシュな方で、東大出ながら中小企業診断士等の資格を取得して、休日には会社業務以外の多彩な活動をされていた。
多分転勤後半年位の週末だったと思う。K氏から「ファミリートレーニングをするので、一泊の準備をして夕刻までに保養所に集れ!」との指示があった。氏は20名程の主力メンバーを前に、滔々と持論を披瀝された。私は話の大半を忘れたが、一点だけはっきりと覚えている。平たく言えば「エアコンを上半身と下半身に切り分け、下半身は共通化し、上半身は色んなバリエーションを持たせて、多様な市場要求に対応する」という提言だった。これは氏のかねてからの主張であったが、実現性には疑問があった。
プレゼンテーション後はメンバーを数組に分け、各々のグループ内で氏の提言に対する意見を出し合い、それを纏めるのである。この作業は途中の夕食をはさんで深夜まで及ぶ。当然アルコールも出る。そして翌朝はグループ毎に、模造紙にまとめた意見を発表するのである。発表に対しては他のグループから質問や意見も出る。それを最後にK氏が引き取られ、結論を述べられる。これがファミリートレーニングであった。
私はその後熊本に転勤したが、その熊本でもファミリートレーニングが幾度も開催された。それは当時の所長が大変ファミトレ好きだったことによる。熊本でのファミトレは製作所単位、つまり所長が主催された。バブルの頃は、態々貸し切りバスで宮崎のシーガイヤホテルまで出かけた。テーマは新工場の生産システムだったと思う。私は当時半導体の素人だったので、書記を志願して、メンバーの好き勝手な意見を徹底して模造紙に書き込んだ。当然乍ら吾がグループの模造紙は、他グループを大きく凌駕する枚数だった。それは私自身の頭に半導体の知識を叩き込むのに大変役に立った。
私はその後これを自課でも開催した。主催者は勿論私である。しかしテーマが重すぎたのか、メンバーの力量不足か、満足する結果は得られなかった。私は当時自課のジリ貧に苦しんでいた。然しその挽回策は遂に見出せず、数年後吾が課は雲散霧消し、私も定年を待たず会社を去った。私は今リストラした経営者を全く恨んでいない。
ファミリートレーニングは、問題点を前に、頭の整理をするにはとても良い手法である。それは自分の頭だけではない。他人の頭の中が良く分かる。わたしはこの手法を、今こそ行政機関、就中政府で実施して欲しいと願っている。テーマは勿論「日本再生」である。麻生首相お願いします。


気付き・お伺い・根回し

私は木下籐吉郎と対照的で、全く気付きが悪い(気付かない・気が利かない)。今でも平気で“社会の窓”を開けたまま外出したり、買い物をする時になってメモをして来なかったことに気付く。これらは不注意とも言えようが、中々直らない。然しこれ位のことなら、まあ笑い話で済まされようが、社会人として責任ある地位に立った場合は、大きな問題である。
私の20代から30代にかけては、担当者か主事クラスで責任も軽かったので、気付きが悪いことが余り表面化せず、自覚もしていなかった。然し40代から50代にかけて課長以上の管理職になって、この欠点が俄に表面化した。例えば会議を開催するような場合、予め関係者に開催通知を出し、決定事項は議事録にして、後日出席者に報告する。これ位は当時の私でも出来た。しかしこれだけでは不足だった。
出席者には通常直属上長も含まれる。私は当時、自分の上長も出席者の一人だと考えていた。しかし上長は生殺与奪の権限を持つ“特別な人”であり、予め“お伺い”を立てるべきだったのだ。お伺いの内容は、議題から結論の導き方まで、詳しい程良い。そうすれば上長は、会議中も安心して意見を言えた筈だ。ところがこの“根回し”が不足だったので、会議中に上長と私が対立する図式が起き、気まずい雰囲気が流れ、結果として上長の不興を買った。この“根回し”とは極めて日本的な言葉で、その発祥は植木を移植する時、予め主根以外の根を切って細根を発生させ、移植を容易にすることから来ている。
私は40歳代終盤の1年弱、日本・台湾・ドイツの半導体設備搬入プロジェクトに関わった。この時期だけは特別だった。上長は国内に居て、しかも殆どの業務がぶっつけ本番だったからである。お伺いや根回しどころか、毎日がトラブル・ハプニングの連続である。それ故に毎日夕刻、関係者が集ってその日の業務反省会を開いた。ここで国民性の違いが出た。日本での反省会は短時間で終る。何故なら大半の出席者が会議中は発言せず、会議終了後、個別に私に相談(根回し)に来た。ところが台湾は全く日本の逆、会議中に殆ど全員が手を挙げ、自説(自己主張)を延々と展開する。私はそれを途中で遮り、議事を進行せねばならない。これには咄嗟の判断が求められた。ドイツは日台の中間であった。
私は一人っ子の為か、お伺いや根回しの習慣や訓練が出来ていない。だから日本的慣習の組織にはそぐわなかったが、海外では皆が自己主張するので、根回しの不得手な私でもどうやら通用した。
今退職して、この気付き・お伺い・根回しの意味を改めて考える。差し詰め上長はカミサンだろう。あのー、又オークションで○○を買いたいのですが、如何でしょうか??


いひゅ

あれは、多分30年程前のことだろう。当時私には娘(長女)が一人居て、多分家内が二人目を身篭っていた時期だったと思う。それまで殆どの盆正月には、家族全員が揃って帰省していたのに、流石に妊娠8ヶ月の家内を車に乗せて、長旅をするのは危険だと思ったのだろう。私はその年の暮れに一度だけ、家内を静岡(焼津)に残し、幼い長女と二人で帰省した。そして再びの帰路は長女を母に預け、家内の両親を載せて静岡まで戻った。この事で、長女は暫く私の母との二人暮らしをすることになったのである。母にとっては一人暮らしの寂しさを癒すには、孫娘との暮らしは何よりの手段だったと思っている。そして、おませの長女は近所の人に自己紹介などして、気の利いた子供だと褒められていたと聞く。然し母は、困った事もあるとぼやいていた。長女は“いひゅ”だというのだ。“いひゅ”と言う言葉はそれまで私も知らなかったが、熊本県人の代表的気質である“もっこす”や“こだわり”と似た様な意味らしい。当時の我家は築後300年とも言われた古い家で、座敷の外は周り縁側になっていて、建付けの悪い10枚の雨戸があった。ある夕刻、母は何時もの様に雨戸を閉めたらしい。処がその日に限って、長女がその場に居なかった。そしてそれを後で知った長女は、母に散々駄々を捏ねて、とうとう全ての雨戸を再び開けさせ、それから自分で(母と一緒に)閉め直したとか。これには流石の母も驚き“いひゅ”だと言ったのだ。
この拘りの強さは、我が徳永家の“伝統”とも言える。私が他のブログで書いた、多くの上司との軋轢も、その多くが私の“いひゅ”に起因するのは、紛れも無い事実だろう。然し、毎年の様に人事異動が発令され、上長が目まぐるしく交代する大企業では“いひゅ”は生き辛い。相撲で言えば、千代大海か、高見盛であろう。相手に拠って取り口を変える器用さに欠けるので、相性が悪い相手には全く歯が立たない。即ち企業では“なまくら四つ”の様な、どんな相手とでも相撲を取れる人間が、結局は出世する。私は千代大海程に出世も出来ず、高見盛程の人気も無かった。然し両関取に劣らず、上位には人一倍闘志を燃やした。お陰で、再三再四土俵に叩きつけられたが、挫けずに歯向かった。そんな“打たれ強い”私が、56歳の若さで退職したのには訳が有る。私は上位にはめっぽう強かったが、下位にはからっきし弱かった。
私の退職の引き金は“部下との軋轢”である。サラリーマン最後の年、私は某社の技術部長の職にあった。若い頃設計技術者だった私にとってそれは得意分野の筈であった。処がそれまでの20年の間に、人心も技術も大きく変わっていた。一昔前の設計技術者は、殆どが新入社員からの叩上げで、上長とは云わば“以心伝心”の間柄。処が最近は、即戦力として中途採用した社員が大勢を占める。彼等所謂新人類は“上長=利用する人”位にしか思っていない。何故なら技術的にも権限的にも、昔の部長とは大違いなのだ。即ち設計は殆どがオンラインのCADシステム、部長と云えども人事権も持たない。そんな技術部長の存在価値は、偶の息抜きの宴会でのスポンサー役だった。然し私はそれでも良いと思った。彼等が私の奢りでストレスを解消し、明日への英気を養って呉れれば!然し彼等にとって、たった1~2万円を惜しそうに出す上司に、哀れみこそ感じても、尊敬の念は抱かなかっただろう。それかと言って私には、10人程の部下に只で奢る程の器量も財力もなかった。私は特に信頼していた部下3名との軋轢を切欠に、34年間の会社員生活にお別れをした。
私は思う。“いひゅ”の本領を発揮すべきは、実はあの時だったのだ。「今夜の飲み代は全て俺が持つ。その代わりこれからは、俺が理解出来るまで説明してから判子を押させろ」と。終わり


ホワイトカラーエグゼンプション

標題のニュースが毎日の様に報じられているが、私はこの制度に全面的に賛成である。と言うのも今から40年近く前の1970年当時、私が入社した企業では、こんな横文字の言葉こそ無かったが、これに類する制度が既に存在していたからである。私は大卒で入社したので、所謂ホワイトカラーに属したが、この制度は高卒であっても、間接部門の社員には洩れなく適用されていたと思う。
当時の制度概要は以下である。時間外(含む休日)労働時間は、原則として40時間/月まで。それを超える場合も、上長の了解を得て50時間まで。これ以上は申告してはならず、仮にやむなく越えた場合には、健康保持の目的でビタミン剤(ドリンク)が支給されていた。当時の間接部門には、タイムカードはあった様に記憶しているが、それは形式的なもので、実質的には各自が毎日の時間外を記入して上長に提出する自己申告制度だった。然し私が属していた設計部門は、こんな制度で縛れる程楽な職場ではない。何時何時までに、新機種を発売するとの目標があれば、労働時間とは関係なく、仕事をしなければならない。然も当時から、景気の好不況は今以上にあったので、一旦不況が到来すれば、残業・休日出勤の規制は当然きつくなる。詰り冒頭の40時間が30時間とか20時間に短縮されるのである。そうすれば、いきおいサービス残業が増えるという実体である。私は所謂見習い期間が終った2年目から、毎月の様に40時間処か、50時間を越える残業/休日出勤をしていた。(不思議なことに一度もビタミン剤を貰った記憶が無い)
私は入社以来15年間一貫して設計部門だった。私が設計に残った理由はひょっとして、サービス残業を全く厭わなかったからかも知れない。何故なら当時は、大卒(及び高専卒)技術系新入社員の殆どが設計部門に配属され、その中の幾名かは数年後他部門に配置転換された。配転された人の適性がどうだったかは知らないが、他部門特に管理部門は設計部門程、慢性的にサービス残業をする程に忙しくはなかった。然しこれは私の静岡時代の事である。
その後3年半働いた和歌山はもっと凄かった。私は当時主任で、組合員且つ末端管理職の地位にあったが、和歌山の同僚H氏は毎日必ず私より遅くまで残業する。私の退社時間は、平均して夜の8時から9時である。然しH氏は、聞けば10時から11時頃らしい。それに休日も殆ど出社しているとか。そうなれば、自宅は就寝するだけの場所になる。然も入社以来ずっとそんな状態だったとか。これには大きな理由があった。和歌山の業績(=損益)が悪かったからである。企業は損益が悪化すると、いの一番に原価低減を言い出す。その場合の主担当は設計部門である。H氏は新製品開発と原価低減の双方を一人でこなしていた。従って当時、私は一体何時間働いて、何時間申告していたのかも覚えていない。然し当時の私は、仕事上の悩み苦しみは多くとも、給与には一切不満を持ってはいなかった。何故なら、家族全員が健康で平和な生活が出来、偶の休日には近郊にドライブしたり、盆暮れの連休に故郷の熊本に帰省することが出来れば、それ以上望むことは無かったからである。
こんな状態は、熊本に転勤して管理職になってからも基本的に変わってはいない。仕事こそ管理業務が増えて設計の一線からは退いたが、退社時間は担当者時代とそう変わらず、やはり午後8時から9時、通勤時間を入れると帰宅時間は平均して10時近かった。それから食事して風呂に入り、暫くニュースを見ればもう就寝時間。自由時間は殆ど無い。然し私はこの間、上司に対しては多少不満もあったが、給与に関して不満を持った事は一度としてない。それは、誰かから命令されて残業したのではなく、自らの意思でしたからである。そもそも上長から目標は指示されても、仕事内容については指示されず、自分の権限と責任によって専門的な仕事を進めるホワイトカラーは、残業代を支払わない雇用形態が合っている。それが嫌なら、現業に配置転換を求めれば良いからである。そもそも今声高に“ホワイトカラー・エグゼンプション反対”を唱えているのは、組合員より寧ろ組織率低下に悩む“労働組合”ではないか。終わり


天草の人(その三)

そのIC挿入抜取機(挿抜機)は、その後ベストセラーとなり、数十台が社内各工場に納入された。多分その何台かは今も現役で活躍していると思う。
然し装置メーカを目指すHさんは、この仕事だけでは満足しなかった。定期的に来るアタッチメントの製造だけでは、仕事量も限られていて、社員も食わせられないからであった。私は何とか彼氏の夢を実現させて遣りたかった。そしてあのIさんが主張した、多数同時移し替えのテーマを彼氏に与えた。彼氏はそれを何とか実現してみせると公言した。然しその条件は、装置全体を自分(Hさん)に任せる事だった。Hさんは以前失敗した多列式(2列3段)の考えをすっぱりと捨て、新しい着想で取組むと言った。私はその言葉を信用して彼氏に全てを任せた。但し装置をコントロールする高速のマイコン制御については、予てより懇意だったN社を推奨した。その頃は、先輩格のI氏も別部門に移動していて、私は誰に気兼ねすることもなく、それを決断することが出来た。
それから半年余り後、彼氏から試作品が出来たので、見に来て欲しいと連絡が私に舞い込んだ。その頃私は、あの別ブログ「忘れ得ぬ人」で述べたH氏の下にあった。そして何時か私は、そのH部長とF次長を伴い、態々天草までその試作機を見に行ったのだ。あの時は誰の車で誰が運転したかも、私は全く記憶がない。然しその小さな工場に在った、試作機の姿ははっきりと覚えている。其れにはベルトコンベアが使われていた。そしてその上に一定間隔で並んだICが遣って来る。すると上からヘッドが下りて、其れを次々に吸着し、満杯になるとヘッドがボード上に移動して、それに移し変える機構だった。お二方とも、そのユニークな動きと装置の出来栄えに感心された。
その新型マルチヘッド装置は、その後実用化され、協力会社数社に導入された。然しその装置について私の関与度は小さく、一号機の導入の現場で数時間眺めていたのが記憶に残る位で、残念ながらその後私は、例の装置搬入プロゼクトに巻き込まれて、課長をO君に譲ったので、その件から遠ざかってしまった。
それから2~3年後私がHさんと会ったのは、熊本市内の焼肉屋であった。その時彼氏は落ち込んだ様子で「仕事が減り困っている」と私に悩みを打ち明けた。半導体不況である。その時は久方振りの再会で、互いに昔の思い出話が尽きなかった。私は何度も天草に行き、互いに名産の蟹を食べながら“尽きせぬ夢”を語り合った。彼氏も毎年の様に、我が家に年始で訪れ、酒を酌み交わしつつ、語らいは尽きなかった。然しその時の彼は疲れた顔で悩んでいる様子だったが、その当時無役に近かった私は、彼氏を励ます“ネタ”も“権限”も殆ど失っていた。私は思いあぐねた末、たった一言言った。「もう我社へ頼るのは止めた方が良いだろう。そして他の顧客を得る為に、天草から本土に出て来たら!」と。
それから数年後、Hさんは本当に“本土”に移住して、大津町の一角に新社屋を構えた。そしてその後、子息をも含めて努力した甲斐があり、最近では大手の半導体装置メーカとの継続的取引も軌道に乗り、社は発展のレールの上を走っている。それだけではない。Hさんの子息の一人は、何とあの別ブログ「産官学」で述べたK教授の教室生となり、その後大見先生の研究所に行っているとか。
私は思う。男女の偶然の出会いから夫婦や家族が生まれる様に、人の“出会い”程不思議なものはない。若しあの時Hさんが私に会わなかったら、その後の彼だけでなく、私も無かったかも知れない。彼が初めて我社に来た時、私に会う様に薦めて呉れたのは、当時の資材部門の“誰か”である。ならば私はHさんと連れ立って、その人を探し出して“お礼”を言わねばならない。終わり


天草の人(その二)

私は恩師S氏からの軌道修正をも受けて、本来業務である“生産性向上”に関わるテーマを探していた。既に別ブログでも述べたように、当時は急速にICパッケージの小型化が進展した時期で、それまでの大きくてごついイメージのICに代わって、小さくて軽い各種ICが出回り始めていた。然し工場設備だけでなく人間の頭脳も、急速な技術進展には中々追従出来ない。従って当時は、生産現場の其処此処で深刻な問題が発生していた。その一つにバーイン工程があった。これはテスト工程の後半で、ICの信頼性を確保する為に、専用ボードに装填したICを高温炉に投入して、電流や高温に対する耐久力を確認する工程である。
その専用ボードにICを着脱する工程には、それ以前から各種の自動機械が使われていた。然し従来の方法は「金槌で打込み、釘抜きで引抜く」様な遣り方だった。然も一個ずつである。処が、新型ICをそんな方法で扱おうものなら、それこそ全数破壊してしまう。だから大勢の“小母ちゃん”が、真空ピンセットを使って“おっかなびっくり”その着脱作業をしていた。私は此処に目を付けた。
この問題の解決には幾つかのキーワードがある。一言で言えば生産性向上だが、細かく言えば「スピードと信頼性と柔軟性」とでも言おうか!それらは結構並立が難しい。スピードを上げると、信頼性が損なわれ、柔軟性を高めるとコストが掛かる。私はこの問題を課内で論議したが、意見は大きく分かれた。ライバルのI氏は、多数同時移し替えを主張した。私は2個ずつの着脱派だった。
その当時私は課長、I氏は係長だったので、私は自説を強引に押し通すことも出来た。然しI氏は私の先輩格、所謂“半導体の玄人”なので、私は敢えてそれをせずに回り道をする事にした。先ずI氏の案をH氏に説明して、ヘッドの試作品を作らせた。そして制御担当のF君がアルゴリズム(制御手順)を考えた。これは数学の一つ行列式の問題である。配列も個数も様々なバーインボードと、同じく移動保管用のパレットに、隙間なく整然とICを着脱するのに、3個以上の同時移し替えが簡単な筈がない。天才肌のF君も流石に音を上げて、消去法で私の主張する2個式に決まった。
私はこの装置の鍵は、汎用性と睨んでいた。即ち将来続々とデビューするであろう、新型ICに対応するには、如何なる変化にも柔軟に対応出来る“柔軟性”こそが、その成否の鍵を握ると考えた。そして、全部を自分に任せて欲しいと主張するH氏を制止し、着脱アタッチメントのみ担当するように説得して、全体装置は自部門で設計することにした。
それから数ヶ月後、その装置の第一号がデビューし、協力会社のN社に納入された。その装置の原型は関西本部が設計し、当時既に稼動中のIC分類機(ICの性能ランク毎に幾つかのパレットに移し変える)と良く似てはいたが、それとは全く異なる大きな特徴を備えていた。H氏は元工作機械メーカ出身。従って「マシニングセンタ」と呼ぶ、様々な加工を一台でこなす機械とそっくりだったのだ。即ち、予めプログラムしてあるICの機種を指定すると、ロボットが自動でそれに合うアタッチメントを取りに行き、それを装着して作業を開始する。しかも二つのヘッドは、その相互ピッチが調整可能になっていたので、千差万別ともいえる様々な形態のICを、ボタン操作一つで自在に適用する事が出来た。
私はこの装置を始めて見たと言う、同僚I課長の当時の“言葉”が今も忘れられない。彼氏は当時“技術管理”を担当していて、私よりかなり年上だった。「徳永さん。あの新型装置は素晴らしい。何時まで見ていても、飽きない動きだ。貴方は一体どんな頭をしているのかね!」それは私に対する、最高の“お褒めの言葉”だった。然し何を隠そう。その頭の持ち主は私ではなく、H氏だったのだ。続く


天草の人(その一)

昔「小樽の人」とか言う歌詞の歌があったが、私が印象深いのは「天草の人」Hさんである。私が彼と初めて会ったのは、熊本転任の2~3年後だったと思う。当時は業者との打ち合わせ場所は、事務所とは別棟のプレハブの一室だった。彼は幾度もその部屋に私を訪ねて来た。「何でも良いから仕事をさせて欲しい」との事だった。Hさんは当時大阪の工作機械メーカを中途退職し、天草の実家に戻って小さな会社を設立していた。「どんな仕事でも」と言われても、逆に何が得手か不得手か分からない。私は困った。
其の当時、我社では安全対策が叫ばれていた。何故なら、同業他社で大きな火災が発生したからである。然も其の原因はシラン(HCF)ガスであった。このガスは一旦火が付くと、水や消火剤を使用しても容易に消えない。事実、当時別の工場でボンベが火を噴いて止まらなくなった。その時其処の担当者は“咄嗟”の判断でそのボンベを担いで、工場の外まで走ったと言う武勇伝すらあった。そんな緊急時の最も確実な消火方法は、元栓を閉めてガス供給を遮断することだった。然し通常工場のボンベ庫は作業現場とは別室で、殆ど無人だから手遅れになる可能性がある。其処で当時ガスメーカは“緊急遮断弁”と称する装置を売り出していた。それはボンベ庫の上にモータと火災検知器を設け、火が出たらモータが作動して、ボンベの元栓を締める仕組みだった。然し既に多数のボンベが並ぶ現場で、新に其の装置を付加するには、工事費用が馬鹿にならない。それに短時間ではあっても、ガス供給を止める必要がある。連続操業中の工場にとって、決して簡単な事ではなかった。
私はこの問題をHさんに説明した。彼氏を“テスト”する為だった。Hさんは暫く時間が欲しいと言って帰った。そしてその1~2週間後、ポンチ絵を持って来た。それは驚嘆すべきアイディアだった。何と火災検知センサーに“釣り糸”が使われていたのである。流石に“天草の人”は発想が違うと私は感心した。其の仕組みはこうである。ガスが漏れて火が出ると、釣り糸が焼き切れる。すると掛け金が外れてバネが作動し、ボンベが閉まるという仕組みである。この装置の大きな特徴はもう一つある。それはガスボンベに簡単に取り付ける、所謂“アタッチメント方式”になっていて、然もメカニズムのみで動くので、配線工事も不要だった。私はそれに飛び付いた。そして直ぐに試作品を発注した。
それは忘れもしない。昭和62年2月の寒い朝だった。私は技術部門の関係者十余名を会社グラウンドに召集し、その緊急遮断弁の作動実演会を開催した。その場には、関西の本部から駆け付けた中堅論客のN氏、ウエハ部門のY部長や其の配下の技術者が勢揃いしていた。勿論私の部下数名も。私は準備完了を見届けてGOサインを出した。S君がやおらガスボンベのバルブを開くと、ホースの先端から勢い良くオレンジ色の炎が吹き上がった。そして部下のIさんが、ライターを取り出して、釣り糸の傍に近付けた。すると「ピシャーン!」と言う音と共に、その緊急遮断弁が作動し、火は瞬く間に鎮火した。「オー!」と言う歓声が上がると共に、その場に居た何人かが思わず“拍手”した。私は、その成功を確信してはいたが、其の瞬間流石にほっとしたのを覚えている。
然し、その日の反省会では、終始N氏が議事をリードした。氏の論旨はこうだった。確かに「“徳永式緊急遮断弁”は良く出来ている。然し自分はその採用には慎重である。」その理由は「徳永さんが作った物だから!」それは私が“半導体の素人”だと言う意味と、社内の人間を万が一の工場火災の責任者にしたくはないとの“親心”もあったと思う。私はN氏の真意を慮り、深追いはしなかった。翌日私は関西に出張して、元上長のS氏(其の時は関西本部勤務)にも相談したが、氏から「君の使命は、そんな問題の解決ではないだろう?」と窘められたことで諦めが付いた。
然しこの事は逆に私の“Hさんへの信頼感”を急速に深める事に繋がり、私はその後真剣に“彼氏に見合うテーマ”を探すことになる。続く


Contact Factor(その二)

H氏は10名程のテスト技術者を会議室に集めて、私を迎えられた。私はそのメンバーに、2~3通りの案を纏めたシートを配り、その要旨を説明した。然しその全員が、電気・電子関係のテスト技術者に対して、私の述べた空調システム(冷房設備)が、どの程度理解されたかは不明である。質疑応答が始まると、何名かが手を挙げて口々に反論した。「徳永さんの何れの案も、テスタの上に水を流す仕組みになっている。若し水が漏れたらどうなるのか?」「貴方はテスタが一体“幾ら”か、知っているのか?」「上手く行かなかったらどうするのか?」そんな“反対意見の洪水”だった。私はその時、大学卒の彼達が「業者が云う事」は鵜呑みにしても「半導体の素人の私が云う事」は信用出来ないと、その顔に描いてある様に感じた。何故ならば、私が見たA社の最新式テスタも、私の案とそう違わなかったからである。私はムキになって“反論”を始めた。然しその時、H氏がそれを押し留められた。自分が彼らを説得するからと!
然しH氏は私に“更なる要求”をされた。その“経済的効果”も算出しろと。私は、その日大急ぎでその金額を算出した。数値は忘れたが、結構大きな金額が出た。それにH氏は大喜びされた。然し、ミスがあった。古いハンドブックを見ただけだったので、その後和歌山から技術資料を取り寄せて、正確に計算したら、その金額の数分の一しか無かった。私のうっかりミスであった。私はH氏から叱られたが、氏はそれでもその案を推進された。その理由は別の所に有った。当時は、生産変動が大きく、テスタの配置を始終入れ替えていたからであった。従来だとテスタ入れ替えの度に、建物の空調設備を手直し(その多くは増強)せねばならない。然し私の案だと、只水配管を接続さえすれば良かった。水配管は工場内には何所にでもある。
その後私は部下のIさんを呼び、製缶の得意な業者を選定するよう依頼した。何故なら、和歌山製のファンコイルユニット(熱交換器に冷水を流して冷房をする装置)を、其のままテスタに載せたのでは、意匠的に違和感があったからである。そして、環境課のH係長に、冷水パイプをテスタ近辺に引く様に依頼した。その一ヶ月後に待望の第一号が完成し、恐る恐るテスタの上に載せ、配管して運転スイッチを入れた。其の吹き出し口から出て来る風は、それまでの熱風から一変、爽やかな冷風だった。
然し当時私は聊か心残りがあった。私の計算に依ると「熱交換器も配管も、15℃の水で運転すれば“顕熱比”の関係で“結露”しないので、風路を遮る邪魔なドレンパン(水受け皿)も配管断熱も、元々テスタに付属している多数の廃熱ファンさえ不要である」のに、Iさんも、H係長も、あのテスト技術者達の“神経衰弱的な脅し”が脳裏から離れず、私が幾ら言っても其れを外そうとはしなかった。私は彼等の説得を断念した。そして心の中で独り言を言った。あのテスト技術者連は、私を信用しようとせず、万一の事ばかりを恐れる“蚤の心臓”の持ち主なので、この三つ位は過剰設備と分かっていても、保険の積もりで目を瞑ろうと!そればかりではない。私は誰にも言わなかったが、同種のファンコイルユニットは、そのずっと以前から、テスタの上の屋根裏には何台も設置されていたのだった。人は、知らない物も目に見えなければ恐れないが、それが目の前にあると“うす気味悪がる”ものである。
その後このシステムは“社内スタンダード”になり、社内他工場からも見学者が何名も来た。然し私は其の時期、何故か殆ど“達成感”が無かった。それは折角成し遂げたこの仕事に、我が配下の“下士官”の出る幕が、殆ど無かったからであった。そして私は一人心の中で“総括”した。A社製の1/10程度の費用で出来た“鍵”はContact Factorだったと!終わり


Contact Factor(その一)

私は別ブログ“低温テスト”で、又しても“詰めの甘さ”を露呈し、ライバルに名を成さしたばかりか、部下の“下士官”に対して、付加価値のある業務を与えることが出来ず、現場に着々と導入される冷凍機式の低温テスト装置を、恨めしげに見守るしかなかった。然し何時までも落ち込んでは居られない。何せ私の部下は最盛期、30名を越えていたが、その頃には、櫛の歯が欠けるように減って、25名程だった。漸く育った若くて優秀な部下ほど、他部門からスカウトされる危険があった。
丁度その頃の事である。私は部下のIさんからある情報を聞きつけた。現場が暑くて困っていると。早速見に行くと、テスト現場の一角に大型扇風機を並べて仕事している。作業者に聞くと、新しいテスタが来た後、急に暑くなり“たまらない”との事だった。確かにムッとするような作業環境である。私は「環境課に相談したら」と言った。作業環境を管理するのは環境課だった。その作業者は言った。「何度も相談しました。そして今対策中です。」と言って、隅の方を指差した。其処にあったのは、昔私が担当していた和歌山製の直吹エアコンだった。それも2台並べてある。然し狭い場所に2台置いても、その近辺は風が強くて寒すぎる位なのに、肝心のフロア中心部は暑くてたまらない。これはまずいと思った。そして早速環境課長に相談したが、名案がないとのことだった。私はその意味を理解した。逐次導入されるテスタは“膨大な発熱源”である。それに対応して、タイムリーに冷房設備を増強するのは、スペースや工事の面から至難の業であった。何故なら、室内中央部に冷風を供給するには、天井裏のダクト工事をせねばならない。然し24時間連続創業している現場で、天井を壊す事等、先ず不可能である。おまけに下手に冷房設備を増強すると、絶対湿度が下がって、静電気が起き易くなり、ICを破壊する恐れもある。其処で室内には、多数の加湿器を並べてある。まるでその現場は、“マッチポンプ”の様相を呈していた。
私はこの問題に“新しい手法”で取組む決意をした。その“ヒント”は直ぐ横にあった。それは、最新式のA社製テスタには“専用の冷房設備”が備わっていたからである。私は早速テスト技術者にその価格を聞いた。何と500万円との事だった。私はその日帰宅後、自宅の書棚を漁って古い本を取り出した。冷凍空調ハンドブックである。それは手垢が付いていたが、紛れもなくその昔、私もその一部を担当して編纂したものだった。
空調用語の中にContact Factorと言う言葉がある。これは冷暖房の効率を表す数値である。卑近な例で言えば、ポリ袋に入れたゴミと、散らかったゴミの収集効率を思い浮かべれば良い。当然前者が、圧倒的に収集効率が高い。私は数日後、そのハンドブックを参考に、2~3の対策案を纏めて、テスト技術者に提出した。
日を置かず、思い掛けない反応が返って来た。テスト部門の統括責任者で、あのW氏の上司にも当る、H氏からだった。続く


低温テスト

別ブログ「工兵隊」で述べたM部長の配下だった頃の事である。私は工兵だけではなく、配下の“下士官”にも相応しい仕事を探さねばならなかった。私は低温テストに着目した。これはICの低温環境下での作動確認を行う試験で、-5℃と-30℃の二種があったと記憶している。当時はこの低温環境造りの方法として“液体窒素”が用いられていた。然しこれは手軽ではあるが、定期的にボンベ交換の必要があった。そのために巨大なガスボンベを2本並べ、交互に空になったボンベを、新しいボンベと交換していた。その為に、テスト現場にはちょくちょくガス業者が出入りせねばならず、その面でも問題があった。
私はこれを“昔取った杵柄”所謂冷凍機方式に代えようと目論んだのである。然し流石に、その前の現場応援の件で、M部長にこっぴどく叱られたので、今度は事前に相談することにした。その時のM部長は珍しく機嫌が良かった。私の提案を聞かれた後「着目点は良い。然し冷凍機を使うとお金も時間も掛かるし、第一大きくなって、現場に置けないかもしれない。それよりも“ペルチェ効果素子”を使ったらどうか?」と逆提案された。
私は予想外の反応に驚き、正直困った。ペルチェ効果なる言葉は聞いたことがあっても、その中身は全く分からず、一から勉強せねばならない状態だった。何を言おう。私は昔からの勉強嫌い。その内に次第に熱が冷め、部長の督促を受けても「検討中です」位の返事でごまかし、勝手知ったる“冷凍技術”で検討を始めた。パートナーには、テストハンドラメーカのT社を選んだ。T社の技術本部長I氏とは予てより懇意だった。氏は何度も来社され、私も試作試験の立会等の為、2~3回上京した。この頃になるとM部長も私の進める冷凍機方式については黙認されていた様に思う。然し開発は予想外に難航した。特殊な2段圧縮方式を使用しても、目的の温度(-30℃)に下がらなかった。最初から-5℃に限定すれば成功したかも知れない。然しユーザーのテスト技術部門は、あくまでも両用を主張して譲らなかった。それから半年余り経過して、私は開発を中断する苦渋の決断をした。コストが見合わないと判断したからだった。何故ならこの開発に不可欠な冷凍技術をT社は持ち合わせておらず、心臓部の冷凍機を外部からの調達に頼っていたからである。
今考えると私はこの時、致命的な判断ミスを犯していた。それはT社との2社共同ではなく、冷凍機メーカを加えた3社共同開発にすべきだったのだ。その後1年を待たず、ライバルのW課長から私に逆提案があった。大阪の某冷凍機メーカを加え、3社で再出発したいと!私は「遣られた!」と思ったが、後の祭りだった。然しW課長は“紳士”である。私のお株を奪う“見返り”に、花を持たせられた。冷凍機のコンプレッサを製造している“あの和歌山”に、同行して欲しいと。
私はW課長と共に、ほぼ6~7年振りに、古巣の和歌山を訪問した。その時の所長は奇しくも、私の最初の上司で“大恩人”のM氏であった。私はその夜、所長のお宅に呼ばれて、時の経つのも忘れ、深夜まで歓談した。勿論元部下数名も一緒に歓待してくれた。もう一つ思い掛けないことがあった。それは別ブログ「山と海」で述べた“噂の美女”を娶ったA氏が、私が在籍した部署の部長として着任されていた事だった。私はA氏と名刺交換を交わした後、即座に尋ねた。あの「静岡一の美人の奥様はお元気ですか?」と。氏はニコニコして応えられた。「徳永さん!家内も今は“普通のおばさん”だよ!」と。私はそれでも“未練”が残った。“普通のおばさん”でも「一目お目に掛かりたかった」と。終わり


ヨークタウン

あれは、多分バブルの頃だったように記憶している。その頃、私は熊本で3人目の部長M氏の下にあった。M氏は私と同じ大学の電気科の先輩に当り、とてもユニークな方だった。私は何度も部長室に呼ばれて、M氏から“懇々”と説教を受けた。その中には“天動説”や“地動説”が出て来た。私は天動説の人間との事だった。その言葉には「だから君は何時までも参事に昇格出来ない」若しくは「自信を持って推挙出来ない」との底意が込められていたと思う。私は当時その事に“薄々”気付いては居たが、言葉や態度にはおくびにも出さなかった。
あれは多分3月の事だった。毎年その頃になると、企業では決算対策が行われる。半導体部門は当時、それに大きな力を注いでいた。何故なら当時の半導体事業は設備投資が巨大化し、会社全体の決算に与える影響も年毎に大きくなっていたからだった。方法としては幾つかあるが、最もオーソドックスな方法は、月末までに可能な限りのICをテスト完了して“倉入れ”をする事である。そうすれば、工場売上げに計上出来て、会社決算の数字を良くする事が出来るからである。
従って期末(9月と3月)のテスト現場は、仕掛品の山が出来て戦場の様な状態となる。その為に課長会議で、所長から(早くテストしろと)火の粉を浴びるのは、決まってテスト部門のH課長だった。然しH氏は幾ら火の粉を浴びても“平然”と対応された。私はその“打たれ強さ”に対して “一目も二目”も置いていた。その上テスト部門は、我が課のベストセラー装置の最大ユーザでもあった。
そんな状況で、私はH氏から“緊急応援要請”を受け、自課の数名を月末の1~2週間、現場応援に出すことを承諾したのだった。その数日後、私は部長室に呼ばれ、M氏から“烈火の如く”叱られた。「君は自部門の使命を一体何だと思っているのか?実戦部隊か?工兵隊だろう!」「それを安易に“前線”に出すとは何事か!」事実は部長の仰せの通り。我が課の本来業務は“生産性の向上”であって“生産量の向上”ではない。私はその時だけは、何時もの様に“言い訳”をせず、部長の前でひたすら小さくなって、怒りが静まるのを待っていた。部長は一頻り言われた後「でも済んだ事は仕方がない。課長の君が約束をしたのなら!」とお許しが出た。私は少しではあったが、H氏に対して“お返し”が出来た。然しこれに懲りた私は、以降“工兵隊らしい仕事”を探す事になる。
バブルの頃は何もかもが異常だった。ある時は、関西の本部からテストの総責任者Y部長(熊本にとっては大御所とも言える方)が、其の件(テスト推進)の為に熊本に来られ、現場(協力会社)を巡回された。その御一行には、熊本工場の幹部がぞろぞろとお供していた。あれはその一協力会社での、会合の席での事だった。私は偶々その時、その工場に居て、その会合を後で立って聞いていた。Y部長は「何としてでも、目の前にある“仕掛品の山”を早急に片付けよ!」と厳命された。然し並み居る幹部には名案が無く、困り果てていた。最もオーソドックスな方法は、設備投資だったが、バブルの頃は他社も同じ状況の為、納期が長くて急場には間に合いそうになかった。
私はその時“突然”後ろで手を挙げた。「BHが使えます?」と。その場に居た全員が後ろを振り返り、私の顔を見た。それは古いテスト設備で、社内製だった。私は熊本転任後、1年間現場実習をした時、“其れ”も体験済みだった。然し、それから数年経った当時は、BHは既に現役を退き、その大半がお蔵入り(遊休化)していたのだった。先ずテスト技術者が反論した。「BHは旧式でジャム(トラブル)が多く、然も300milと400mil専用で使えません」と。と言うのも、その時問題になっていたのは600milのICで、確かに“其の儘”では使えなかった。(milとは米国の単位で、ICの幅を表す)私は更に発言した。「使える様に改造します」と。幹部連は皆、懐疑的な顔をしていたが、Y部長は即断された。「彼(=私)が出来ると言うではないか。遣らせなさい!」と。
私は“大変な事”を約束してしまった。然し最早後には引けない。早速部下を集めて協議し、BHに詳しいS君に改造可否の検討をさせた。S君に拠れば、レールの幅を広くすれば何とかなりそうとの事だった。私は他の業務は一時ストップして、これを最優先で進める様に指示した。そして殴り書きの図面を片端から特急製作に廻して、月内に数台のBHを使える様に改造した。その後、この旧式のBH数十台は、倉庫から再び現役に復帰し、それから10年近くの間、現役として活躍した。
私はこれに掛けて、何時も“或る史実”を思い出す。それは、太平洋戦争の序盤、南太平洋“珊瑚海海戦”の最中、米空母“ヨークタウン”が雲の切れ間に差し掛かったばかりに、日本海軍の索敵機に見付かって、激しい攻撃を受け、飛行甲板はめちゃくちゃに破壊され、傾きながらも何とか沈没だけは免れた。然し当艦の熱血艦長フレッチャー少将は、正体不明の皮膚病にもがき苦しみながらも、日本人艦長の様に潔く艦を捨てたりせず、ホウホウの体でハワイのパールハーバーまで逃げ帰った。そしてそのぼろぼろの艦を、米国の“工兵隊”はそれこそ三日三晩の昼夜分かたぬ突貫工事で応急修理して、本番のミッドウエー海戦に復帰させた。私は居眠りしつつ飛行甲板のリベットを打ったという記述を今も覚えている。太平洋戦争の帰趨を決定付けた同海戦の結末は読者ご存知の通りだが、この海戦の勝因の一つは、紛れもなくハワイの“工兵隊”であった。
私は思う。若い頃に戦記物に夢中だったお陰で、あの時“手を挙げた”のかも知れない。正しく“BH”はあの“ヨークタウン”だったのだ。終わり


産官学(その二)

K先生は東大大学院卒で、あの有名な東北大学の半導体の権威者、大見先生の愛弟子でもあった。そして専門は半導体で、私の出身大学の電気情報工学科で教鞭を執られていた。私はその後K先生に何度か、同じ方法で計測器を“無償譲渡”したように記憶している。それは勿論、社内的には“廃却処置”だったが。
K先生はその後助教授に昇格され、米国カリフォルニア州の大学に1年間留学されたので、私とK先生の交流はその後暫く途絶えた。それから半年位後のことである。私は、K先生から絵葉書を貰った。それは、会社宛だったと思う。それには丁寧な“御礼の言葉”が添えてあった。私の家内の妹はロスアンゼルスに住んでいる。其処で彼女にお願いして先生のお宅に、中身は忘れたがささやかな“プレゼント”を届けて貰った。然し、義妹が先生のお宅にお邪魔した時、奥様もご在宅だったらしいが、“何故か出て来られなかった”との事だった。そうしたらその後K先生から更に丁寧な御礼の手紙が来た。其処の行間には慣れない外国での“苦労”も見て取れた。後述略
それから10年後位のことだと思う。熊本県で産(地場の半導体関連企業及び当地に工場を持つ半導体大手企業)官(熊本県および県内各種研究施設)学(熊本県内の数大学及び九州大等)から成る半導体要素技術研究組合(?)が立ち上がったのが。そして其処には、その長に大見先生を頂き“実質的指導者”として、あのK先生の名前が連なっていた。
K先生は兎に角エネルギッシュである。関係する全てのメンバーに、メールを機関銃の様に発送される。そして聊かでも異論が出たりすると、とことんまでその問題に付いて議論を挑まれる。その上K先生は腰が軽い。私が当時出向していたN社まで態々足を伸ばされた。そして、例え僅かでも(その組合と)関わりを持てないかと言う“目”で工場を見て、組合への参画を要請された。然し当時、私は名前こそ社長室長となっていたが、実質的には殆ど発言権がない“客分”に過ぎず、先生の滔々と流れるような技術論を、ニコニコしながら聞くだけであった。先生は帰り際私に「是非一度大学の研究室に来て下さい」と仰った。
私は後日、N社の設計者W君を伴って、大学新館のK先生の研究室を訪問した。先生は何と米国流の半ズボン姿で我々を出迎えられた。私はその日、先生との応対はW君に任せ、横で黙って聞いていた。然し私はその時“心の底から湧き上がるような満足感”を覚えた。それは恰も、遠い昔にダイアモンドの“原石”を見つけた男が、加工され、燦然と輝く王冠を見て、一人で悦に入るが如く!終わり


産官学(その一)

あれは私が熊本に転任して間もない37~8歳の頃である。私は30歳で主事(主任・係長クラス)になったので、その頃は次の主幹(課長クラス)の受験資格を得ていた。然し本来、和歌山で受ける筈だったこの試験を、熊本で受けるからには、テーマも“半導体関連”でなければならない。然し私は当時未だ半導体の素人。そこで論文のテーマを“産官学”とした。多分マスコミで少しずつ話題になり始めた時期だった記憶している。
私はS部長の求めに応じて、予め認めたその受験論文を提出した。S部長は私の熊本での最初の上司、大恩人である。今の自分はこの方の存在を抜きにしては有り得ない。私はS部長の前で1~2度リハーサルをさせられ、何箇所か訂正指示を受けた。そしてその後間も無く、所長室で本番の面接があった。私はその時の記憶が殆どないが、相当緊張して“硬い受け答え”になった様に思う。然し結果は合格、私は二度目の挑戦で主幹に昇格した。(注.前年度は不合格)そして、その後1年も経たず課長を拝命した。半導体以外の部門からの新参者としては異例のとんとん拍子の出世だった。然し“産官学の推進”をうたい文句に昇格しながら、課長になったら忘れましたでは、済まされない。私は何か“行動”を始めねばならなかった。
私が目を付けたのは、自部門で管理している“遊休設備”だった。半導体産業は進歩が早く、デザインルールの変更等に追従出来ねば、どんなに高価でも、新品同様でも遊休化する。それが、社内他場所で使えれば良いが、ウエハ口径やプロセスの違い等の為、転用が難しかった。私は部内会議の席上で、これを社外で活用すべきと提案した。然し当時は、半導体設備を社外に出すのは、非常識に近かった(現在は常識)。何故なら、半導体産業そのものが黎明期で、進歩が早く、他社への情報漏洩にとても敏感だったからであった。私は、社内で流用出来ねば、屑鉄にしかならないので勿体無いと主張した。当時は遊休設備を、専門の解体業者に依頼して、定期的にスクラップ化していた。(これをするには逆に追い銭が必要)
S部長は熟慮の末に、同業他社等は除いてGOの結論を出された。私は早速行動に移った。そして先ず目を付けたのが、大学であった。当時、私は後輩のリクルートの為、時々出身大学に行く機会があり、大学が研究施設の整備に苦慮している事を知っていたからである。私はS部長の了解を得て、遊休設備(含む計測機器)のリストを作成して、出身大学の機械工学科、電気工学科の“主任教授”宛に提出した。
電気工学科からの反応は早かった。早速K先生(当時は講師)が来訪され、私は遊休倉庫に案内した。然し先生はがっかりされた。先生が所望されたのは、研究開発用のプロセス装置(例えば拡散炉)や計測器類だったのだ。企業の生産設備は大学の研究室には大きすぎて合わなかった。子供に大人の服を着せるようなものである。然し計測器の中には、先生が欲しいものが幾つもあった。先生は幾つも○が付いたリストを私に渡して、教務課に申請して欲しいと言われた。
私はその数日後出身大学の教務課に、それこそ20年振りに行った。そして其処で、昔と全く変わらない、単位不足の私に接した時と同じ、尊大な態度の事務員に面会した。事務員は如何にも“面倒臭そうな顔”だった。そして私に言った。“それ程”寄付をしたいのなら、ちゃんと理由を添えて“寄付申請書”を提出せよ!と。その文書には「斯く斯く云々の理由で、大学に受入れて頂きたい」旨の文面だった。私は急激に“頭に血が上る”のを必死に堪えて大学を後にした。
そして、数日後K先生に電話した。「教務課と話が付かなかったので、何時でも会社に来て下さい。ご希望の品物(計測器)を渡しますから」と。私は計測器担当のNさんに、予めその計測器の“廃却手続”を指示していた。先生は早速その日に自分の車で来られた。そして数点の計測器を受け取り、車のトランクに入れた後、私に向って“何度も何度も”それこそ“米搗きバッタ”の様にお辞儀をされた。続く


米国出張(その四)

シアトルは“シーフード”が美味しい所だと聞いた。何を隠そう、私は子供の頃から“猫族”で、魚には目が無い。書くのを忘れたが、あのラスベガスで一度だけ見に行った“ショー”の席に出て来た、“アメリカンビーフ”など“雑巾”の様に大きくて硬く、私は一口食べただけで諦めてしまった。横でむしゃむしゃ食べているアメリカ人を見ると、とても同じ人間とは思えない。同様に、缶ビールみたいに大きな“コーラ”も苦手であった。甘いだけで、半分も飲めない。
ツアーもこの時期、即ち終盤に差し掛かると、メンバー同士の気心も次第に分かり、幾つかの仲良しグループが出来る。私の相棒はT社の人だった。T社は例の“マルチセントラル”で述べた中の一社で、我社は私が開発に失敗したローボーイタイプのエアコンを、プライベートブランド(他社の製品に自社のマークを付けて売る手法。現在日産ブランドの軽自動車は三菱自動車製)として購入する関係でもあった。それは兎も角、T社の社風は都会の坊ちゃんタイプ。アクが無く、付き合い易い。私は大抵彼氏と共に行動していた。そして二人で何軒かのシーフードレストランを廻った。然し、魚は兎も角、その味付けが全く駄目だった。醤油と山葵で食べる日本の刺身とは全く異なる味付けである。これでは折角の、魚の上手さが味わえない。
翌日は早くも次のサンフランシスコに旅発つ日。ホテルでの朝食の後、ツアーコンダクタが立ち上がり、午前中に簡単な市内観光をして中食の後、空港に行きたいと提案した。私は手を挙げた。「そんな“在り来たり”のコースではなく、折角シアトル迄来たのだから、あのボーイング社を見たい」と。彼氏はちょっと驚いた様子だったが、メンバーの何名かも私の“提案”に同調したので、当って見ると言って、電話で交渉していた。然し、その交渉に思わぬ時間が掛かった。出発したのは昼前だった。そしてバスで同社の玄関に近付いた時、彼氏は申し訳なさそうに“言い訳”した。「ボ社を見学するには時間が足りませんので、このままバスから見学して空港に向います」と。私は歯軋りした。そしてツアーコンダクタと、リーダのG社の男を睨みつけた。それまでの一年間、我々の空調工業会の議長として、議事をリードして呉れたあの男にしては、お粗末な対応だった。こんな事なら私がリーダに名乗りを挙げれば良かった。私達はフェンスの外からボーイング社の、広大な敷地に広がる工場群と、引渡しを待つ何機かが並ぶ、専用滑走路を横目で見ながら、歯軋りしつつ、後ろ髪を引かれる想いでシアトルを後にした。私は今も、あの“空白の半日”を残念に思っている。
サンフランシスコでは、有名なゴールデンゲートブリッジ、フィッシャマンズワーフ、ケーブルカー等々、其れこそ“誰も”が行く“在り来たり”の観光コースだった。私はもうその時は殆ど諦めていた。団体旅行は所詮、決まり切った観光コースを“ぞろぞろ”と歩く事だろうと。そしてその時私は思った。もう“金輪際”幾ら会社の“出張旅費”であっても、“お仕着せの団体旅行”は御免だと!あの時私が“若し”リーダだったら、少々無理してでもシリコンバレーの一社、出来れば「マイクロソフト」か「インテル」を見学する処だった。終わり


米国出張(その三)

ニューヨークの二日間を満喫した我々一行はその後、ワシントン、シアトル、サンフランシスコを周遊した。ニューヨークからワシントンへの道程も飛行機だったと思う。私はその時も通路側の席で、偶々隣り合わせた米国人の若い女性と一頻り話した。会話の内容は殆ど忘れたが“只一言”覚えている。彼女は私に「Are you a architect ?」と尋ねたのである。私はその一瞬、その単語の“意味”を思い出せずに答えに窮し、会話は其処で途切れてしまった。今ならその意味や、何故彼女が私を“建築家”と思ったかを、更に聞くことも出来たのに!当時の私は、自身のvocabulary不足を嘆くしかなかった。
ワシントンでは、お馴染みの名所巡り。ホワイトハウス、連邦議会議事堂、ペンタゴン、リンカーンメモリアル等を見学した。そして別ブログで“感動体験”を記した、あの“スミソニアン博物館”にも。然し私は米国の都市の中で、このワシントンに最も好感を覚えた。何故ならば、他都市と異なり、街が小奇麗で、然も馬鹿でかいアメ車が意外に少なく、日本車やドイツ車が多かったからである。私は早速、案内者にその理由を聞いた。その人は応えた。米国では黒人や低所得者層がアメ車を好む一方、インテリや上流階層は外車(日独車等)好みであると。これは、其れまでの私の感覚を“一変”させる言葉だった。折しも当時は、日米自動車摩擦が激しい時期でもあった。名所の他にも、街中のありふれたスパーマーケットや書店にも立ち寄った。何処もその規模において、日本の比ではなく、整然と並んだ商品のスケールに目を奪われた。私は此処で日本へのお土産に、お菓子や雑誌を数札購入した。
次のシアトルに発つ前、ツアーコンダクタから一つの提案が成された。「このまま西部に戻るか、それとも中西部に“オプショナルツアー”で行くか?」と。確か数名が其れを希望し、其処で我々一行と別れた。私も勿論行きたかったが、何せ公式には“出張”の名目で来た米国。何がしかの“自己負担”はあるとしても、余りの“物見遊山三昧”に私は“良心の呵責”を覚えたのである。
ワシントンから次のシアトルへのフライトでは、初めて窓際の席に座った。私は日中の数時間、隣席の人には目も呉れず、一心に下界の“米大陸”を堪能した。それは非常なる驚きだった。私は地理が大得意で、頭にその位置や標高が“確り”とインプットされている。然し、窓下の景色は私の予想を裏切り、山岳地帯が殆どない真平な平原で、スプリンクラーを中心に広がる円形の圃場が延々と並んでいた。私は、田畑は矩形しかないと思い込んでいた自分の常識が覆ると共に、米国の巨大さを、身を以って体感した数時間でもあった。
そして、次第に太陽が西に傾き、ロッキー山脈の山影が、次第に姿を見せ始めた夕刻、シートベルト着用のアナウンスが流れ、私はその時初めて“シアトル到着”が近い事を知った。続く


米国出張(その二)

ラスベガスでの楽しみ(私にとっては苦しみ)の後、シカゴに飛んだ。ASHRAE-SHOW見学が目的である。夕刻にシカゴに到着、オヘヤ空港から宿泊地のミシガン湖畔のホテルまで、辺りには薄く雪が積もっていたが、この地は米国内陸部、車窓から見る景色は、西部とは又異なる米国そのものだった。その途中に、当時世界最高を誇るシアーズタワーも見えた。そしてホテルの外は、鼻毛も凍る氷点下10℃以下で、ミシガン湖は硬く凍り付いていた。
翌日から2日間、私達はその“米国版冷凍空調システム展示会”を見学した。処が不思議なことに、この2日間、私は“或る人”と一緒だった。その人は我社の熱交換器を一手に供給するC社の副社長だった。今考えると、この副社長は我々とは別に、直接シカゴに飛ばれていたと思う。そしてこの方は私の傍を“片時も”離れられなかった。何故なら英語が全く話せないと仰っていたからである。私は副社長と彼方此方のブースを見学して廻った。此処はとても広い会場で、ラスベガスの様に裸のモデルは居らず、製品主体の展示だった。世界中から色んなバイヤーが詰め掛けて、其処此処で商談をしていた。展示品には初めて見る物が多く、中にはどんな機能か理解出来ない代物も多かった。私は俄か英会話の勉強をして渡米したが、そんな付け焼刃で通じる筈がない。否通じても、相手の云う事が殆ど理解出来ず、只カタログや資料を集めたり、写真を撮ったりするのが関の山だった。氏はそんな頼りない私に、終始お付合いされた。(後で氏に伺ったら、氏は例年英語の堪能な娘さんを伴って来るとの事で、その年はそれが出来なかったのだった)
そして次の目的地は、多くの日本人が憧れる、あのニューヨークだった。私はシカゴからニューヨークに向う機内(米国内便では、渡米メンバーの席はばらばらで、隣は知らない人)で、初めて米国人と会話した。その若い青年はロングアイランドに住んでいて、私を日本人と知ると、しきりにオートバイの話をした。何でもカワサキ製を愛用しているとの事だった。私はその頃から序々に、現地人と気負わず会話が出来る自分を感じた。ニューヨークでは、有名な中心街にあるシェラトンホテルに泊まった。空港から其処までは、これ又有名なイエローキャブ(黄色の古いワーゲン)で、運転手は黒人だった。その夜は、有名なエンパイヤステートビルから夜景を見学した後、その副社長のお供で、ライブショーや、日本人経営のラーメン店を廻った(此処での会話は別ブログで述べた)。そして翌日はあの有名なハーレム見学だった。然し流石にバスを降りる事は許されず残念に思った。時間があれば行きたかったのが、セントラルパークと、あのテロで破壊された貿易センタービルだったが、当日は時間の関係で、目と鼻の先の自由の女神だけにしか行けなかった。
然し我々はニューヨークで観光だけをしていたのではない。私は、この2週間の渡米で一番印象に残ったのは、元上司のM氏から録音を頼まれた“バーサキセミナー”ではなく、当地ニューヨークのSECを訪問した時の話だった。この時はちゃんとした通訳が付き、説明も平易で分かりやすく、当時の私にも容易に理解出来た。私はその時質問もした様に記憶しているが、その内容までは記憶に無い。
処がどうだろう。あれから20年余に至って、漸く日本でも証券不祥事(損失補填問題等)への反省から、日本版SECとして「証券取引等監視委員会」が出来た。然し米国SECに比べて権限も資源も乏しく、今でも毎日の様に証券不祥事がニュースを賑わしているではないか?先日は私が取引している、日興コーディアルでも其れが起き、社長が責任を取って退任した。今や日本人は自国を一等国と思っているかも知れないが、この面では20年どころか、80年位米国に遅れているのではないだろうか?続く
注)証券取引委員会(通称SEC: Securities and Exchange Commission)
1929年の大恐慌の後、株式市場復活の為に設立され、その役割は、証券取引を監視し、企業に財務諸表を提出させ、公認会計士が監査を行う基準となる会計原則を制定する。


米国出張(その一)

米国と言えば、日本の同盟国で世界一の大国、そして家内の姉妹が住む国、長女が1年留学した国、私が初めてホームステイを受入れた国、等々色んな形容詞が付けられる。然し私にとっては、初めて出張した国である。それは昭和57年即ち1982年ではなかったかと思う。当時私は別ブログで述べた様に、空調工業会の幹事を仰せ付かっていた。そしてその年度の総集行事として、米国出張が命じられた。それは私が予てより批判的な所謂団体旅行で、メンバーは業務用エアコンを製造する十数社の代表だった。
私はそれまでの1年間、毎月上京して他社と多面的な協議を行った。その中で最も記憶に残っているのは、エアコン能力表示の適正化だった。当時の能力表示には大きな下駄=上げ底があって、実力値はカタログ値の80%程度だった。こんないい加減な表示をして、顧客からクレームが来ないのが不思議だったが、良くしたもので、設計/設備業者もその辺の事情を良く知っていて、その分余裕を見て負荷計算をするので問題が起きないのだった。然し当時は、消費者団体等が発言力を増した時期でもあり、行政指導もあって、適正化を計ろうと言う事になったのだろう。もう一つ問題があった。省エネルギーの推進であった。この二つのテーマは関係ないようで大いにある。何故なら、不当表示を改めて実力通りの表示を行えば、能力は下がる一方、入力は下がらない(元々実力値を表示している)ので、省エネルギーの意図に反する改定になってしまうからである。
我々各社の委員は、この厄介な問題に付いて喧々諤々の議論をした。そして結局「嘘をつくのは良くない」との結論で、各社が努力して性能表示の適性化を図る事にした。その際の基準はJIS(日本工業規格)に準じる事になった。私はそれを自社に持ち帰り、上長に報告し対策を立てた。そして得た結論は、コンプレッサの積み替えだった。カタログ値の80%も出ないコンプレッサからJIS規格の最低92%まで能力を出すには、どうしてもパワーアップしたコンプレッサが必要だった。然し、どんなに改良しても、10%以上もの能力アップを図ると、入力も増えて、結局エネルギー効率は以前より悪くなる。そんな“遣り切れない作業”をするしか解決方法が無かった。丁度銀行が“不良債権の処理”をするのに似た作業である。然しこんな厄介な問題を、各社が胸襟を開いて協議した事は、各委員同士の信頼関係を深める上では大いに役立った。
我々はその翌年の1月、揃って成田から米国に飛び立った。最初の訪問地はロスアンゼルスだった。夜遅く日本を発ち、着いた時には既に昼近く、途中で時差修正をした為だった。ロスの空港には義姉が態々来て呉れて、ロビーで暫く話した。私はその後の記憶が全く無い。単なるトランジットだったのか、ロス市内を見学したかを。次の目的地はラスベガスの“ホームビルダーズショウ”即ち建築設備展の見学だった。エアコンもその展示には含まれていたが、主役ではなかった。私は白人モデルが泡風呂に入って、愛嬌を振りまいていたのを、写真に取った事位しか覚えていない。勿論その時、私は予め言った。「Can I take your picture?」彼女はにこやかに応えた。「Sure」と。
処がそれから数日は地獄だった。夜中の3時頃まで目が冴えて一睡も出来ない。同室の男は高鼾なのに!明け方ちょっとまどろんだら朝が来て、朝食が出てもムカムカして殆ど食欲が無い。昼間の行事も、楽しみより寧ろ苦痛だった。一人集団から離れてホテルで仮眠したりした。お陰で皆が楽しんだであろう、カジノや、夜のショウも殆ど記憶が無い。そして最悪の日がやって来た。グランドキャニオン見学である。私は何としたことだろう。ホテルで休んで居れば良かったのに、のこのこ出掛けた上、何と軽飛行機の先端座席に座ったのだった。其処はパイロットの真横で、殆ど四方が丸見えの特等席である。飛び立って暫くは良かった。例のグランドキャニオンが迫ると、パイロットは操縦桿を倒して急降下体制に入る。後部座席からは“歓声”が上がったが、私の胃の中からは“怒声”が上がった。その後の数十分は、私の“歴史に残る苦悶”の時間だった。ほんの30分程度のフライトが何時間にも感じられた。そしてグランドキャニオンがどんな所だったか、私は殆ど覚えていない。続く


私塾(その三)

私は早速、家内の実家と掛け合い、その旧歯科診療室を借り受ける承諾を得た。そして、我家を建設した大工のTさん(この方は元当歯科の技工士)の助言を得て、改装に取り掛かった。費用は最低限に抑えたかった。そこで、壊れた床や壁の部分補修と、間仕切りの撤去をTさんに頼み、残りの作業は自分でした。一番大変だったのは、天井のペンキ塗りだった。その診療室は戦後数十年使用しただけあって、天井は黒く汚れ、とてもそのままでは塾には使用出来ない状態だった。大きなローラーを使い、体中ペンキまみれになりながら、何度も塗り直した。古びた木の窓枠や、手摺も同時に塗り直した。次に蛍光灯一式を取り替えると、室内が一変、明るくなって何とか塾として使える状態になった。
そして平成元年、私は義母と折半出資で「平成学園」と名付けた、小学5,6年から中学生を対象とする“私塾”を玉名郡玉東町に開業したのである。確か開業資金は150万円位だったと記憶している。入金後間も無く、長机と椅子、そして英語と数学(算数)のテキスト一式が業者から送られて来た。それを見た時、私はたったこれだけで150万円か!と思ったものである。問題は教師だった。私は出来れば“数学”は自分で教えたかった。然し当時私は製造管理部の一課長。幾ら退屈でも、サイドビジネスを大っぴらに始めるにはちょっと抵抗があった。其処で私は、その業者に紹介して貰った英語と数学の先生を“面接”した。その立場は正に私立「教育長」だった。そして次が“生徒募集”である。色々工夫して紙面を作り、広告業者に依頼して、新聞の折り込みチラシに入れて貰った。勿論私個人の名前は其処には無い。それから開業までの1ヶ月余りは「ハラハラドキドキ」一体何人生徒が来るのか、皆目見当が付かず、その開業の日を待つしかなかった。一人でも生徒を増やそうと、当時小学生だった次女もその一人に加えた。中学生の長女は辞退したか、別の塾に行っていたかもしれない。長男は未だ小さくて対象外だったと思う。
そして開業の日、私は固唾を飲んでその時を待った。その日に来た生徒は10名前後だった様に記憶している。その多くは近くの小中学生だった。私はそれで一安心し、以降は義母にその管理を一任し、自分は一線から退いた。然し先生にも色々問題があって、その後何回か交代された。そして時代とともに次第に生徒の数が減少し、経営的に成り立たなくなった。何故ならば、毎月収入の大半を業者に、教科書代として吸い上げられたからである。その開業から数年後、私はその業者と縁を切った。何故ならば、M先生が自分で経営したいと申し出られたからである。それから十数年、その塾は名前は変われども“連綿”と続き、今年度、その先生との契約も終了、当塾は20年近くの歴史に幕を閉じた。
私は思う。あの時分、私は何か物足りなかった。そしてその“有り余るエネルギー”を“サイドビジネス”に注ごうとした。然しそれも中途半端に終った。そして今日、日本中に溢れている塾は、ガラス張りの近代的設備と、整った教育システム。然し、教えるのは所詮生身の人間。その証拠に昨年、生徒を刺し殺した塾すらあった。我が平成学園は、経営は上手く行かなかったが、子供が犠牲にならず良かった。そしてもう一つ思い出した。このブログを書いている私の書斎の“椅子”は、義父が長年院長室で使っていたのを、あの改装時に譲り受けたのだった。終わり


私塾(その二)

あれは多分、私が郷里の熊本に戻って数年後の20年前頃の事だったと思う。私は当時、何故か毎日が退屈だった。職位こそ課長だったが、所属が“製造管理部”だったかもしれない。勿論、静岡にも和歌山にも製造管理部はあったが、私のイメージは極端に言えば“姨捨山”か“意地悪爺さん”だった。何故なら、当時の企業では技術系新人は殆ど全員、設計/製造部門に配属され、製造管理部門への配属は殆ど無かったからである。従ってその在籍者の多くは元製造部員で、その後製造管理部に移った人達だった。
私には“暗い思い出”が一杯ある。既に別ブログ“マルチセントラル”で述べた如く、市場クレームが発生すると、先ず窓口になるのは営業、次いで品質保証部である。その品質保証部は殆どの場合、製造管理部に属している。そして其処は“出荷停止”という権限を持っている。この権限は“絶大”である。製造ラインでトラブルが発生した場合は、設計が直接指示して“応急措置”を講じることも出来るが、一旦工場を出るとそうは行かない。彼等の“指示”に従うことが求められる。
市場クレームが発生したり、抜き取り検査(品質保証部が行う独自の試験)で問題が見付かると、既に同じ製品が複数の客先に届いていたり、流通倉庫に残っていたりする。私は幾度も倉庫に山済みされている製品を引き出して、部下と一緒に木枠開梱/手直し/再梱包作業をした。お陰で開梱作業に必須の“釘抜き”はセミプロ級と自負する位に上達した。然しそんな時、製造管理部の私に対する態度は、必ずしも芳しくなかった。「又徳永がチョンボを出し由って、自分達の仕事を増やしたな!」と言わんばかりの態度だった。そしてその後に待っているのは“設計管理強化の締め付け”であった。
それだけではない。静岡から和歌山に事業移管した当時、我々は数千枚の図面を同時に持ち込んだ。しかし大きな問題があった。図面方式が両者で全く異なっていた。静岡は米国W社流の英語方式、和歌山は何とカタカナ方式だった。私は着任早々、和歌山“製造管理部”の総攻撃の矢面に立たされた。特に技術管理課のM氏は強硬だった。全ての業務に先行して「全図面を和歌山方式に書き直せ!」と私に迫った。私は“抵抗勢力の旗頭”となって必死に抵抗した。たかが“そんな事”に“なけなしの設計者”を使ったら、只でさえ山積している設計業務が、更に滞るに決まっているからである。その後M氏とは幾度も話し合いをしたが、とうとう平行線のまま、互いが歩み寄る事はなかった。
今考えると、彼氏の頭の中にあったのは“設計システムを完璧に一元化する想いのみ”だったに違いない。その証拠に、彼氏が主張していたのは、英語→カタカナへの変換だけで無く、コンピュータシステムが理解出来るように、全ての部品名をコード化して、一元管理をすることだった。例えネジ一本でも新しいものを使おうとすれば、全ての従来品を検索して、流用出来ない事を証明せねば、使えないのである。これは確かにシステムとしては完璧かも知れないが、その製品の“市場評価”とは何の関係もないばかりか逆に、激しさを増す他社との競争での、足かせにもなり兼ねない。おまけに当時は、今や常識となったCAD/CAMシステムも無く、全て手書きの設計だった。その手間に加えて、設計者を単調なインプット作業に割く事など、私には“非常識”に思えた。そして又、有望市場の海外輸出や工場の海外展開等、脳裏の片隅にでもあれば、決して言えない事だったのだ。
私は熊本で、そんなイメージの課長に成りたくなかった。だから担当の“設備管理業務”にも今一つ熱が入らなかった。
その頃丁度、私の子供は小学生から中学生になる年代、そろそろ“塾通い”もさせねばと思い始めた或る日の事だった。新聞のチラシに私の目が留まった。其処には「熟を開業しませんか?」との文字が躍っていた。私は其れに飛びついた。何故なら丁度家内の実家の歯科が新規落成し、それまで使っていた旧診察室が空いていたからである。続く


陸海空

“陸海空”と言えば、誰でも連想するのは軍隊、就中自衛隊であろう。然し私が連想するのは“O君”である。彼氏は、私がそれまでに会った誰とも似ていない、とてもユニークな男だった。熊本転任時の事である。彼氏は小柄で美男、当時は結婚して子供も居たが、若い頃は女性に持てる所謂“プレイボーイ”だったとも聞いた。然しとても人懐っこく、右も左も分からない私を、誰彼となく紹介して呉れた。そして彼も私も、先祖は同じ玉名だった。彼氏の仕事は、自動機の設計、それもメカニズム担当である。
斯く言う私も、大学では機械工学専攻、然しメカ設計は殆ど素人同然だった。何故ならば、当時大学の機械工学部には、熱力学、水力学、機械力学、機械工作学、材料工学の5講座が開設されていて、私は水力学を専攻したからである。それでも専攻外の機械力学も工作学も一応習ったので、全くの素人とはいえない。然し就職して配属されたのは、冷蔵庫とエアコンの専門工場だった。この二機種には共通項がある。所謂圧縮機(コンプレッサ)を搭載している点である。処がコンプレッサと冷蔵庫、エアコンは各々別の部門で、一旦配属されると他部門へ移動する事は殆ど無い。私も静岡/和歌山の15年間を通じてエアコン一筋であった。従って同じ機械屋であっても、コンプレッサ屋と冷蔵庫/エアコン屋は、別の人種程に異なる。何故ならコンプレッサは、モータとシリンダ、ピストン、弁等から成る“動力機械”であって、冷蔵庫/エアコンは“其れ”を搭載して、食品や部屋を冷やしたり暖めたりするシステム(静止機械)だからである。丁度、車のエンジンと車体との関係に似ている。静岡では「コンプレッサ屋には“助平”が多い」と言われていた。現に私の一年後輩のS君は、とてもハンサムで、然も“色男”だった。“メカニズム”には、確かに“エロティシズム”を連想させるものがある。
そんな事で、O君と私は同じ機械屋であっても、互いに異なる役割を担うことになる。彼氏が得意にしていたのは、様々な形体のICを、効率良く組み立てたり試験する、自動機械のメカニズム設計であった。一方私は、エアコンと半導体の段差が大きく、設計業務は余り出来ず、どちらかと言えば管理業務が主体だった。然し、仕事を離れた面でも、O君はユニークで多彩だった。
陸:車好き、所謂カーキチである。若くも無いのに、赤いスポーツカーを乗り回していた。若い頃にはオートバイのマニアでもあったらしい。
海:モーターボートを持ち、天草の係留地を基点に、彼方此方に釣りやレジャーで出掛けていた。
空:態々休暇を取って、中国/アメリカまでセスナ機の操縦免許を取りに行った。そして流石に自家用機までは持てなかったが、熊本空港から長崎や鹿児島まで自ら操縦して、フライトを楽しんでいた。
こんなO君が私の後を継いで、課長になってから何年も経たず、病魔(癌)に侵された。私は彼氏の病室を数度見舞った。然しその最後には、正視出来ない程やせ衰え、私は掛ける言葉がなかった。私は彼氏から色々と助けて貰ったのに、何もしてやれなかった。たった一つ出来た事が、その葬儀の時に“弔辞”を読んだ事である。私は後にも先にも弔辞を読んだのはあの時だけである。そして幾度かお宅に伺い、仏様になった彼氏の位牌に手を合わせたが、もうそれも遠い昔の事になる。
私は思う。今の日本企業では、O君の様なユニークで異才を放つ人間は、生き辛い時代になった。何故ならば、彼氏は“陸海空の実空間”では思う存分羽ばたけても“パソコン上のバーチャル空間”では、素人同然だったからである。その証拠に、彼氏のパソコン画面には、無数のアイコンが整理もされず、ランダムに並んでいた。終わり


Power Factor(その二)

私は、この東南アジア出張の1~2年後、熊本へ転勤となり、仕事も半導体関係へ代わった。そして海外との関係もその後10年間程は、殆どなくなった。然し、あの香港での実体験は、私の脳裏に強く焼き付いていた。処が、この事がその後、逆に災いを招く事になる。
私の熊本での新しい使命は、半導体の生産性向上だった。その為の手法やツールは幾つもある。私の担当は設備面での生産性向上である。半導体生産には多くの人手を要する。詰り人件費が掛かる。そしてエアコンと違って、コンベア等では作れない。設備=装置が必要である。
装置の充実・整備が、生産性向上の為の第一の課題であることは直ぐに理解出来た。そして1年間の現場実習を通して、後工程なかんずくテスト工程が最も改善の余地が大きい事を理解した。何故ならば、当時パッケージ形態の大変化が置きつつあったからである。詰りそれまでの大きくて丈夫なICから、小さくて壊れやすいICへである。この大変化に、当時の装置は殆ど対応出来ていなかった。ベテランの同僚は、従来装置の改造で対応出来ると言っていたが、私は先ず無理だと思っていた。
丁度その当時、私に屡面会に来る一人の青年が居た。Hさんであった。彼氏は元関西の工作機械メーカに勤めた後、故郷天草に戻って、会社を興したとの事だった。そして何でもするから仕事を出して欲しいと!私は彼の熱意に賭けた。先ず、手工具(治具)で試作依頼した。それがすこぶる好評だった。次にロボットハンドにそれを付ける事を考えた。彼氏はそれを見事に設計して呉れた。
その装置価格は1台1千万円近くした。内1/3近くはロボット代であった。然しこの装置は顧客(テスト現場)に受入れられ、その後数年間で数十台の注文が来た程好評だった。然し、上司の対応は芳しくなかった。設備投資がかさむ一方だからである。従って、所謂お金の掛からない生産性向上を考えろと言われ続けた。私はこれが好きではなかった。地味すぎる上、成果も決して大きくないからである。
私は、あの香港事件以来、主体性に拘りが強くなり過ぎていたのかも知れない。上司の忠告も聞き入れず、お金の掛かる装置開発にその後も熱を上げ続けた。そして何年かに一度のシリコン不況が来ると、形ばかりの「お金の掛からない生産性向上」に比重を移した。その結果、上司の評価は下がる一方で、万年課長の汚名を頂戴して、組織は次第に衰退の道を辿った。
今般、北朝鮮問題で6カ国協議が行われたが、結果は殆ど成果がないまま終った。その最大の原因は、北朝鮮の代表が本国からきつい訓令を受けていて、譲歩の余地が無かった為と言われている。
私は思う。あの香港の場面では、私は何の訓令も受けておらず、自由だったのに身動きが取れず、顧客の信頼を失墜した。そして熊本では、きつい訓令を受けて居ながら、高額装置の開発にお熱を上げ続けた。そんな私は上司から見れば、何とも“使い難い部下”だったのかも知れない。終わり


Power Factor(その一)

私の二度目の海外出張は、和歌山時代で、もう25年も前の事になる。東南アジア諸国(今のアセアン諸国)へのエアコン拡販が目的だった。メンバーは私と海外営業担当のS君、M次長(オブザーバー)の3名だった。インドネシア、シンガポール、マレーシア、香港の当社ディーラーを廻った。
①インドネシアでは、ジャカルタに到着した夜、いきなりバイキングで、その料理の辛さに飛び上がった。殆ど食べられなかった。翌日はディーラー巡回。街頭に車を止めると、大勢の子供が寄って来て、我先に小銭を求める。路上駐車の見張りが仕事なのだ。現地ディーラーは、密閉型コンプレッサを平気で解体修理していた。国内では勿論“ご法度”だが、彼等はどこ吹く風、ちゃんと動く様になるので、捨てるのは勿体無いとの考えだった。
②シンガポールのレストランでは、チャイナ服を着た若い女性が、流暢な英語で、私に話し掛けてきた。然し、当時の私の語学力では、自己紹介位しか出来なかった。有名なマーライオンの傍の店だったと記憶している。仕事については、残念ながら覚えていない。
③マレーシアでは、現地担当者が暗い回廊を通って、私をインド料理ナンの店に連れて行って呉れた。その時はものすごいスコールでビックリしたが、彼等は慣れたもの。何せ毎日の事らしい。翌日クアラルンプールのディーラーを訪問すると、社長がとても喜び、私だけを別室に通してくれた。其処には若い女性秘書が居て、タイプライタを前に、社長と私の横に座った。社長から色んな質問が有り、私は英語が良く分からないので、営業のS君の助けを借りて、何とか応えた。するとその秘書は、その遣り取りをその場でパタパタとタイピングする。ほんの30分程の打ち合わせで、A4半分位の打ち合わせメモが出来た。すると、社長はそれを一通り読み、すらすらと自分のサインをして、私に見せて此処にサインしろと言う。私は一瞬戸惑った。単なる軽い打ち合わせと思ったのに、先方は“覚書”の積りだったからである。然し、今更待って欲しいとも言えず、S君の奨めもあり、その場でサインしたが、正に欧米流の業務スタイルだと感心した。
④最後の香港が一番大変だった。説明会(別ブログLion-Heart参照)の翌日は、九竜地区を含めて数件のディーラーを駆け足で廻った。どのディーラーからも、判子で押したように同じ事を言われた。「Power Factorを上げて欲しい!」と。Power Factorとは力率の事で、電圧に対する電流の遅れを表わす。エアコンの力率は、殆どモーター(主にコンプレッサ)の特性に拠って決まり、低ければ電流が大きくなり、発熱も増す。当時香港は英国領でBS規格であったが、電源仕様は日本と殆ど同じ(220V50Hz)なので、国内仕様を小修正して輸出出来るメリットもあった。然し、力率が問題である。彼等は85%以上にして欲しいと言った。力率は50Hzが60Hzより悪く、当時の機種では確か75%位だった。私は困った。その場で即答出来ず、上司の指示を仰ぎ、後日回答するとか言って逃げた。然し彼等は私を責任者と見て「YesかNoか」と執拗に食い下がったが、私は最後まで“言質”を与えなかった。
この私の対応が問題だった事が、その夜の宴会で明らかになった。当日は丁度本社から、年配の技師が来られていて、その日は終日私に同行されたのだった。技師はその時になって初めて仰った。「徳永さん!今日の貴方の対応は非常に不味かったね!彼等は“責任者の貴方”が来るのを前から心待ちにしていて、良い回答を期待していたのに、さぞがっかりしただろう」と。私はこの時になって、改めて自分の立場を認識した。当時私は“主事”だったが、英語の名詞には“Assistant Manager”と書いてあった。れっきとした会社代表である。“マルチセントラル”については、結果はともあれ、あれ程果断な決断をした、同じ人間とは思えぬ体たらくだった。理想的な回答は以下である。「分かりました。85%以上にしましょう。その代わり売上を倍増して欲しい。又進相コンデンサーが付くので、その分を値上げさせて欲しい。値上げが駄目なら、半年ほど時間が欲しい。静岡に力率の良いコンプレッサの開発を依頼するので。」
私は思う。当時こんな回答が出来た位なら、私はもっと出世出来ていた筈である。続く


Chinese or Korean

10年余り前のドイツ出張時代のことだった。私は渡独後暫くの間は、有名な日本人町ジュッセルドルフに滞在し、相棒の郵船航空の担当者の車に同乗させて貰って、小1時間掛けて田舎町アルズドルフにある半導体工場まで通っていた。然し如何にも遠くて不便なので、パートナーのアンドレア氏に頼み、会社から車で20分位の所にある、オランダ/ベルギー国境に近いアーヘン市内のホテルに根城を移した。然し此処に居る日本人は少ない。毎朝タクシーが来ると、ボーイが必ず“助手席”のドアを開けて、私に乗れと言う。この地ではそれが常識(礼儀)なのだった。すると運転手が、私に判子で押したように聞く「Chinese?」と。私はNoと言う。すると「Korean?」と。私は同じくNoである。そして最後に出る台詞が「Japanese?」で、やっと私は「Yes」と答える。このような遣り取りは、タクシーだけではない。ホテルの食事は高いので、私は週末になると、ちょくちょく普段着で街に出かけた。そして田舎町の古ぼけたレストランに入り、メニューを見て、先ずアルツ(黒)ビールを頼み、此処で有名な鶏の蒸し焼きを食べた。然し、其処でもウエートレスが“同じような質問”をするのである。
私はある時、アンドレア氏にその事について質問した。彼氏の回答は次の様だった。一般的にヨーロッパ諸国でのアジア人の代表は中国人か韓国人で、日本人はビジネスマンや団体旅行者のイメージが強く、現地に住み着いている人は少ないとの事だった。確かに私は当時メガネを掛けてはいたが、カメラもぶら下げておらず、スーツも着ていなかったし、たった一人で行動していたから、出張で来ている日本人には見えなかったのだろう。休日にはブリュッセル、マーストリヒトやアムステルダム、ルクセンブルグまで一人でドライブしたが、当地では“知らぬ振りで”日本人団体の後を歩き、名所旧跡の説明を聞いていた。そう思えば、それを証明するかの如く、世界中どの町にも必ずと言って良い程、中華街や韓国人町があって、其処には母国と同じ風景と暮らしが根付いている。その時私は「我が日本がアジアの代表だ」と思っていた考えが、脆くも崩れるのを感じた。
その証拠に、当地の半導体工場には、幾度か観光バスが来た。そしてそのバスから降りてくる人々には日本人が多かった。ある日来たバスの窓を見ると「群馬県○○市会議員御一行様」とある。彼らは、遠いヨーロッパまで来て、態々日系の半導体工場を見学するのだ。私がそのメンバーの一人に質問したら、ジュッセルドルフから来て、その後は観光とのことだった。多分この類の人々は、旅行期間中ツアーコンダクタに連れられ、ぞろぞろと“お定まりの観光コース”を旅するのだろう。
私は思う。日本人は今や国際化の波に乗り、世界中に散らばって活躍している。然し我々が、来日した欧米人を見る時、アメリカ人か、フランス人か、ドイツ人かを俄かに判別出来ないように、彼等欧米人にとっても、我々アジア人が日本人か、中国人か、韓国人かは判別出来ないのだ。そして国レベルとは異なる“民衆レベル”の意識では、日本は未だ中韓の後塵を拝していると思う。この意識ギャップこそが、現在起きている東アジアでの“日中韓”三国の上手く行くようで行かない、もどかしい関係の根底にある様な気がしてならない。終わり


マルチセントラル(エピローグⅡ)

私は数ヶ月前、数年振りに熊本機能病院を訪問した。当石貫校区長寿会長M氏の見舞いの為である。この病院は、怪我で切断した手指等を簡単に繋いで貰える事や、諸外国からの医学研修生を幅広く受入れる事でも有名である。然しこの病院は巨大化していた。道路を隔てた元駐車場が新しい玄関になっていて、階段を上がると大きなラウンジがあって、其処の案内嬢の説明に従い、通路に引かれたカラー標識に従って私はM氏の病室を目指した。
そして其の途中でチラッと左を向いた瞬間、私の脳裏に眠っていた“微かな記憶”が鮮やかに蘇った。あの当時、マルチセントラル担当のT君が私に言った言葉である。「徳永さんの地元の熊本機能病院からもマルチを受注したそうですよ!」と。そうだったのだ。彼はその時、其の件で熊本に出張したのだった。其処は今廊下の途中になっているが、当時は玄関前の受付だった場所であった。そして天井を見上げれば、あの懐かしいマルチセントラル1.5㏋(MBH-40TA-L)が数台、30年も経った今も尚、現役で稼動しているではないか!特徴のある化粧パネルのマークや、開閉に使うスプリングキャッチが外れ、傾いている1台を、私は“我を忘れて”暫く眺めていた。その時私の胸には何か“グッ”と来るものがあった。出来ることなら脚立に登って、外れている部品を調整して、吹き出し口の汚れを拭いて遣りたかった。これこそ私があの時代“脳味噌を振り絞って開発したモノ”だったからである。
私は思う。今やカセットエアコン(注4)は世のスタンダードになったが、それは紛れも無く、あの時代に始まったのだ。そして、私があんなに苦しんだ騒音問題も、此処熊本機能病院にはなく、今も立派に役目を果たしている。その日私はM氏を見舞った後、雨上がりの澄んだ空気の中で、深呼吸するような爽やかな気持になった。そして或る先輩が私に言った言葉を思い出した。「パイオニアは何時の時代でも辛いものだよ!」と。終わり
注1)マルチセントラル=Multi-Central( Unitary Heat-pump) Air Conditioning System):水熱源ヒートポンプエアコンを多数連結して、大規模空間の冷暖房を行う空調システムの一種。
注2)ロータリーコンプレッサ=Rotary Compressor:圧縮機の一種で、古来のレシプロ式に比べて小型軽量化出来る。車のロータリーエンジンを連想すれば良い。
注3)㏋=馬力:出力の単位で1㏋=0.75Kw。効率も関係するが、冷房で2500Kcal/h程度の能力が出る。
注4)カセットエアコン=Cassette-type Air Conditioner:カセットテープの如く、天井の穴にすっぽりと収まるエアコンの俗称。マルチセントラルの場合は水配管で連結するが、現在のエアコンは殆ど空冷式の為、冷媒配管で連結する。従ってコンプレッサを室外に置けるので、騒音・振動が少なく、現在広範に普及している。
注5)ゼネコン=General Contractor:総合建設業者、大規模土木・建築・設備一式を受注する能力を持つ。


マルチセントラル(エピローグ)

納入実績の積み重ねとともに、社内のマルチセントラルに対するイメージは確実に変化しつつあった。それはばら売りと異なり、一件当たりの納入台数が桁違いに多く、中には億単位の売上を齎すからである。それまで批判的だった人も、手の平を返すように協力的になった。私はこの時期それらの人々を巻き込んで、確り足元を固めるべきだったと後悔している。私がしたことは、あのW氏との会話に端を発した、1㏋のフルモデルチェンジだった。既に設計構想は固まっていた。どうしてもライバルのP社に勝ちたかった。そこでS社製のロータリーコンプレッサを搭載すれば勝てたかも知れない。然しその時私が選んだのは自社製であった。当時の私にも愛社(自社製品愛用)精神があったし、あのS社は新入社員当時の販売応援で、コテンパンに遣られた社でもあったのだ。然しこれが私の致命傷になった。騒音問題である。筐体の軽量化と防振防音対策の不備も重なり、納入先から騒音クレームが多発した。特に印象的だったのは我が故郷の熊本県庁議会棟や長崎大学医学部であった。現地に出向くと、先ず現場に案内されて音を聞かされる。静かな室内に多数のマルチセントラルが同時に運転すると、次第に音が高くなり、遂には「ウーン・ウーン」と低周波の唸り音がこだました。そしてウルサ型の責任者から「持って帰れ!」「全台交換しろ!」と凄まれた。私はひたすら下を向き、彼らの怒りが収まるのを待つしか方法が無かった。他にも経験・検討不足に伴う水漏れや吹き出し口の汚れ等々、重大クレームが多発した。何時かは耐熱テフロン電線と冷媒配管が、振動摩擦でショートしてガス漏れを起こし、現場で大修理をした。こうなると悪循環が始まり、後ろ向きの仕事が加速度的に増える。一旦協力的になった人も再び、批判的になる。
折悪しく丁度この頃、私の属する事業体が、そっくり静岡から和歌山に移管されることになった。私は当時未だ30代前半であったが、移管グループの設計部門では既にNo2位のポジションで、マルチセントラルだけに、時間を割けない状態だった。一時は腹心の部下の転勤拒否の問題等も起こった。そして和歌山移管後は、更なる新規業務、例えば採算性の向上の為の原価低減とか、設計システムの統合とか、外注先移転の推進とか、雑用ばかりが増え、マルチセントラルは、部下のT君任せの様な状態になった。その頃、追い討ちを掛けるように、批判的勢力の代表格のM氏が、品質管理責任者に付いた。氏はマルチセントラルのクレームが出る度に「お前の所為だ!」と言わんばかりの態度で嫌味を言われた。私は後悔先に立たず。何と言われても、殆ど全てを自分で決めたのだから、言い訳しようも無く、只頭を下げるしかなかった。後述略
私は、和歌山転勤の丁度3年後「母の病気看護」を“名目”に上長に退職届を出した。それは半年間保留され、色んな人々から慰留された。一番熱心に私を引きとめられたのは、元静岡営業課長のS氏と、私の技術指南役でもあったS氏だった。今思えばあのお二人は、私の「心の奥底」を見透かしておられたに違いない。其の証拠に、二人の説得の切り札は「老い先短い老母の為に、君の将来を犠牲にするのか?」だったからである。然し、悲しき哉私の直属上長からは、そのようなレベルの引きとめは無かったので、私は引っ込みが付かず、遂には和歌山を去る事になったのである。私は送別会をも「母の容体悪化」を理由に欠席して、昭和58年の年の暮れ“後ろ髪を引かれる思い”で和歌山を去った。私はこれを自分の“人生の転換点=分水嶺”と呼んでいる。
私は思う。今や毎日の様に、企業の存亡に関わる色んな事件/事故、或いはスキャンダルがニュースを賑わしている。然しその殆どは、トップの重大な法令違反や不祥事、又は人命に関わる重大事故である。嘗ての私の様な「一設計者が引き起こした品質問題」等はニュースにもならないし、あの程度のダメージでは、大会社はびくともしない。当時の私は余りにも“真面目”だったのだ。又和歌山製作所が静岡製作所と違って規模が小さく、マルチセントラルの存在が、比較的大きくなったのも不幸だった。然し少し救いもある。直属部長だったK氏が、5年前静岡で久方振りにお会いした時、私に「済まなかった」と謝られたからである。終わり


マルチセントラル(その六)

然し私はW氏との共通認識、詰り「今の製品ではライバルのP社に勝てない」と言う言葉がずっと心に残っていた。一方市場からは、1㏋の他に1.5,2㏋も欲しいとの声が大きくなり、開発することに決まった。ライバルのP社は1㏋を双子宜しく並べた物を、2㏋として売り出していたが、私はこんな子供騙しの手法を真似しようとは思わなかった。そしてこの時こそ「私の真価」が問われていると思い、特許包囲網を掻い潜り、市場からの声も取り入れ、1㏋の反省を取り込んで、考えに考えた設計書を作成した。それはコンポーネントとレイアウトに大きな特徴があった。即ち、ロータリーコンプレッサと高性能フィルタの採用である。前者は小型軽量化に必須、後者は顧客要求でもあったのだ。ロータリーコンプレッサは当時1㏋のみしか自社に無かったので、1.5㏋については同業のS社から購入する許可が下りた(2㏋は自社製新型レシプロを押し付けられた)。高性能フィルタ採用もOK。私はこれでライバルに勝てると思い、通勤バスから外を見て閃いたレイアウトを提示した。それは住宅とそっくりの形をしていた。
その後注文に押される形で1.5,2㏋の開発・設計・試験は一気に進み、待望の初ロットがラインに流れた。然し、致命的なトラブルが待っていた。それは私のフライングであった。3φ200V電源の場合、RST相の順位でモータ回転方向が決まる。一方ロータリーコンプレッサは、回転方向が決まっていて、逆回転は出来ない。(一方レシプロはどちらに回転しても問題ない)其の為、現地でそれを確認して配線するのが一般的だったが、私はそれを不要とする、リレー回路を組み込んでいた。然し、出荷試験で問題が出た。又してもリレーが焼損したのである。それはB接点へ定格以上の起動電流が流れたことによる焼き付きであった。この時は出荷前で助かった。再び開梱してラインに流して電気回路の改造をしなければならなかった。設計者としては忸怩たる思いで、見たくない光景が眼前に展開していた。
一般的に最初が一番大変で、二度目からは比較にならない程、容易になるものである。この時期私は最初の物件で大変な苦労をしたので、次の受注物件からは問題が少なくなると思っていた。然し、世の中そう甘くは無かった。知多市庁舎への納入実績と機種のシリーズ化で、営業部門は俄然活気付き、その後は相次いで受注を勝ち取り始めていた。然し、納入後試運転の時期になると、必ずと言って良い程、客先からお呼びが掛かる。私には其の当時、T君と言う若者が部下に居たので、彼氏と日本全国の現場に出向いた。大学や、病院、公共施設、結婚式場、デパート等々、様々な客先であった。
現場の状況は千差万別だった。何処も共通していたのは、天井裏に潜って吊り天井の上を渡り歩いて、不具合の調査をしたり、運転状態の確認をしなければならない事だった。私は其の当時迄、天井裏の構造や寸法等、無関心だった。然し其の内に、梁下30センチ位に天井が有るとか、アンカーボルトは全ネジ構造であるとか、色んな事が分かって来た。続く


マルチセントラル(その五)

名古屋営業所の担当者と知多市庁舎に出張して私は驚いた。開館は2週間後に迫っているのに未だ内装工事中である。でも粗方建築設備工事は完成して、細部の仕上げとか補修をしている段階だった。勿論、我がマルチセントラル約90台は天井に整然と並び、取り付け工事も既に完了していた。私は現地責任者と簡単な打ち合わせの後、電源と給水ポンプのスイッチを入れてもらい、リモコンのスイッチを入れた。途端に、何かパチンと音がしたようだったが、マルチセントラルはウンともスンとも言わず、動かない。おかしいと思って何度かやり直してみたが、結果は同じであった。
これは何か不具合が起きていると考えるのが普通である。私はテスター他7つの道具を持参して来て良かったと思った。早速脚立を借りて、点検口から天井裏に上半身を乗り出して、マルチセントラルの制御ボックスを開けて見てびっくり、リレーの幾つかが焼損している。何か不具合が発生している事が予想された。それから私は図面と見比べながら配線を逐次点検した。その図面が又恐ろしく読み辛い。改定を何度も重ねているからである。然し良く現物を見てみると、誤配線が見付かった。普通機内配線には“赤白黒黄緑青紫”等の色配線を使用するが、この物件仕様は複雑なので、同色配線が多数有った。其の場合は普通、両端にワイヤーマーク(記号番号)を付けて判別するのだが、其れも出来ていない。狭い天井裏でテスターを使いながら、一々配線をチェックするのには恐ろしく時間が掛かる。その日はとうとう日が暮れて、夜まで仕事をしたが、ほんの数台が動いたのみで、全体のチェック処ではなかった。私は独断で出張の延期を決めて、営業所担当者に宿を取って貰った。
結論を言えば、私はその日から1週間余り、その現場に釘付けになってしまったのである。心配されたのは私の上司のM氏であった。私は当時未だ結婚間もない時期で、家内には日帰り出張と言って出て来ている。だから着替えすら持って来ては居ないのだ。数日後M氏は、何と私のパンツ等、下着を持参して其の現場に来られた。そして驚かれた。私のチェックは未だ半分も済んでいない。修理に至っては、殆ど手付かずの状態だった。そして、大号令が掛かり、翌日から続々と“救助隊”が駆けつけた。彼等助っ人のお陰で、その後の点検修理は順調に捗り、その90台程のマルチセントラルは、知多市庁舎開館にぎりぎりセーフで引き渡すことが出来た。
この出来事は名古屋の“パンツ事件”としてその後事ある毎に人々の話題に上った。然し、私の感想は異なる。一件落着処か、その後の長くて苦しい戦いの始まりを告げるゴングでもあったのだ。続く


マルチセントラル(その四)

私には、当時次々に困難が押し寄せた。先ず特許問題である。先行ライバルのP社は、自社のカセット型に関する特許/実用新案を多数出願していた。これは毎月刊行される特許及び実用新案公報を見れば直ぐに分かる。私は特許担当者と手分けして「めくり」と称する包括調査を実施し、其の全貌を掴んだ。合計20~30件が出願されていた。其の中には数件、当社製品が抵触(特許侵害に当る)する案件も含まれていて、緊急に対策を講じる必要があった。この対策には以下の方法がある。①有償で実施権を得る。②先行実施例を挙げて異議を申し立てる。③自社特許とのバーターで無償実施権を得る。然し何れの方法も時間とお金が伴うので、上司からは設計変更で対応するよう指示があった。私は可能な限り設計変更したが、P社は余程考えて出願したと見えて、2~3件については、私の頭脳では抵触を回避出来ず、やむなく見切り発車となってしまった。
次が我社謳い文句の水温10~45℃での冷暖房運転である。こんな35度もの水温幅で問題なく運転するには、特殊な制御が必要だった。私はそれまで一般的だった、電磁弁による制御で痛い目に遭っていた。弁の開閉時に振動と異音を発生するからである。そこで親しかったバルブ専業メーカのS社と共同で、当時スウェーデンのD社が発売していた、大きくて超高価な比例制御弁の小型国産化を計ったのである。(同社の副社長とは予てより懇意だった。氏は何故か私に特別の好意を持たれ、何時か東京の同社に出張した折には、態々食事に招かれ、自社に来て自身の娘と結婚して欲しいと口説かれた。私は有難い話とは思ったが、流石に其処までする勇気はなかった。)同社は何度も試作試験を重ね、最後に私が10万回開閉の耐久試験をして、何とか実用化にこぎつけた。これは以降DPR(Discharge pressure Regulator)と称して、幅広い機種に採用された。
私はこの後、W氏の指導で出来たカセット型のカタログと、慶応ボーイの協力で出来たマニュアル3部作を携え、全国各地で開催された説明会で、懸命に自社製品の売込みを図った。そして暫く後、待望の初受注報告が名古屋営業所よりもたらされた。それは、新装成る知多市庁舎向け数十台であった。この朗報には、私の属する設計部門だけでなく、W氏の属する営業部門も大喜びしたのは言うまでもない。然し、其の要求仕様を見て驚いた。それには、一台のリモコンで数台ずつのグループを、集中制御する仕様となっていた。しかもフィルターは高性能の特殊仕様である。
それからは、受注品対応を受け持つY氏率いる設計別会社の出番である。標準仕様と異なる部分を、急遽指示書化して、生産ラインに流す。何しろ納期は迫る。部品は変更差し替え追加手配、製造部全部門がフル稼働で、数週間後ラインにその初出荷製品が流れた。私はその時、終日生産現場に立ち、自らが汗を流して設計した製品が次から次へと流れるのを、感動して眺めていたのを昨日の様に思い出す。技術者にとって、この瞬間が最高の喜びであり、長年の苦労が実る瞬間でもあった。然しこの時は、私にその後塗炭の苦しみが待って居ようとは知る由もなかった。続く


マルチセントラル(その三)

市場に打って出るには、如何にも武器が不足だと云う事を悟るのに、私はそう時間は掛からなかった。其の頃である。私に2名の助っ人が現われたのは。一人は製作所営業企画のW氏であった。彼氏は私より一回り以上先輩で、当時は課長代理クラス。独身で外国煙草を燻らし、2代目マークⅡを乗り回すダンディーでもあった。彼氏はそれまで、他機種の営業企画をほぼ一手に担当していたが、マルチセントラルに対しては、冷ややかに見ていたと言っても過言ではなかった。
W氏は私を個室に呼び、前に座らせた。そして、自分を顧客だと思って売り込みをして見ろと言った。私は、何時もの要領でしゃべった。そうしたら、W氏から矢のように質問や反論が出た。私は必死に釈明したが、徹底的に打ち砕かれ、成す術もなくなった。それからである。私がW氏を師と仰ぎ、誰よりも頼りにするようになったのは。氏は類稀な“センス”を持ち合わせていた。それには、口では上手く言い表せない所謂“暗黙知”も多く含まれていた。即ち、単に機種揃えをしたり、運転範囲(他社に比べて少し広かった)を広げたりしても、顧客の心には響かないのだった。それよりも、主力機種となりつつある天井カセット型を一刻も早く発売し、ライバルのP社に真正面から挑戦する事が緊要だった。氏は製品コンセプトについては特にうるさかった。私は既に開発が始まっていた、カセット型のコンセプトについて氏と何度も協議した。そして出した結論は、この機種では勝てないという事だった。それまでの開発は、自社のコンポーネント(機能部品)を組み合わせることが常識だった。然しライバル社は、各社から最適部品を購入し、小さくて軽くて使い勝手の良い商品を売り出している。それに引き換え、我社は殆どの部品を自己調達出来るので、逆なる制約を受けているのだった。私は氏と協議の結果、新たなるセールスポイント作りに迫られた。
もう一人の助っ人は、1年後輩で本社に転任したK君であった。彼氏には技術資料の作成をお願いすることになった。それは3部作、即ち設計/工事/サービスマニュアルであった。K君は設計とサービスを、私が工事を担当することにし、早速着手した。私はライバルに対抗すべく、徹底的に写真を使用して、分かり易いマニュアルを作った。工事が難しい部分は、特殊工具を製作してまで、簡略化を図った。そして其の3部作が完成し、全国セールスキャンペーンが始まったのだった。
キャンペーンは多くの場合、フロアを数日間借り切り、関係者を招待して、実物製品を見て・触って頂く事だった。それは大阪梅田会場でのキャンペーンの時だった。W氏は私に言われた。製品を只展示したのでは、顧客に対する訴求力に乏しい。何とかその場で動かせないかと!私はそれに乗った。そして実物の展示モデルを準備し、前日に現場に運び込んで組み立てた。然し幾ら入念に準備したとしても、水をタンクに貯め、配管して、スイッチ一つで冷暖房を自由に動かすのは、そう簡単ではない。部下と二人で前日では終らず、とうとう開幕当日の朝5時まで掛かって、やっと運転が出来るようなった。私は夜明けにラーメンをすすって、ほんの2~3時間の睡眠で、当日は半ば意識朦朧の状態で説明に立った事を、昨日の様に思い出す。勿論、W氏は明け方のラーメン屋までお付合いされた。続く


マルチセントラル(その二)

柳町教授から実施権を許諾されたシステムは同じであっても、3社の体質や考え方はまちまちである。我社は、空調事業では大手に属していて、考え方もオーソドックス、営業部門が機種揃えに力点を置いたとしても決して不思議ではない。然しそれでも大きな見込み違いがあった。それは時代が天井カセット型(現在のエアコンの主流は天井に四角いユニットが並ぶこの型式)に移行するのを見誤り、旧来の天井埋込ダクト型の開発を始めたからである。私はそれまでの2年間に、技術提携先のW社の図面をベースに、その機種の図面改定を経験していた。そして私は数ヶ月を費やして、初めて独自の図面(天井埋込型1㏋)を引いたが、経験不足が災いして出来が悪く、結局1台試作したのみで、それは試験もせずお蔵入りとなった。他にも多くの失敗があった。ビルの窓際用にローボーイと称する低高横長タイプを開発したからである。私はこれもシリーズ化(1,1.5,2㏋)を図ったが、それから数年後に量産を目前にして発売中止となった。その市場(ニーズ)は殆ど無かった。その後この機種は、ライバルのT社からプライベートブランド(外装色や型名のみ変更して自社製品として販売する手法)で購入することになった。唯一実用化が出来たのは、それまで在った冷房専用機種をマイナーチェンジした床置縦型機種のみだった。我社がこの様な道草をしている間に、ライバルのP社がいち早くカセット型を発売し、営業攻勢を掛けて来た事で、社内は俄然騒がしくなった。
此処で、販売の事について述べる。エアコンの販売は大きく分けて(メーカ→代理店/特約店/工事業者→顧客)の所謂“バラ売りルート”と(メーカ→設計事務所/ゼネコン/設備業者→施主)の“物件ルート”が在った。ところが、我社の従来機種は其の多くが小口顧客の為に、ばら売りルートの営業には長けていても、物件ルートの営業はどちらかというと苦手だったのだ。
次々に問題点が明らかになった。物件ルートの情報は、座っていても当社の営業所/代理店/特約店には入って来ない。遅まきながら気付いた時には、既に設計は完了していて、其処にはちゃんとP社の型名が記されている。それから大慌てで、設計事務所/ゼネコン/設備業者、そして施主を廻って機種変更をお願いしても、一旦作成された図面を書き直すには、多大の労力を要する。余程の値引きか、施主からの要求が無ければ、設計事務所やゼネコンは機種を変えたがらない。困った営業部門は、私を引っ張り出して、営業応援をさせる作戦に出た。
其れからである。私には全国の営業所からお呼びが掛かるようになった。本社(東京)、大阪、名古屋、福岡、札幌の営業所がその大半だったが、中国、四国、東北、北陸をも含めて私は全国津々浦々、沖縄と秋田、山形の3県を除く全県に出張した。現地に行くと、多くの場合営業関係者(営業所/代理店/特約店の担当者)が集められていて、私はマルチセントラルシステムの説明をさせられた。然し、私の手持ちの武器は薄いカタログのみで、ライバルをひっくり返すどころか、彼ら営業マンにシステムを理解させる事すら簡単ではなかった。続く


マルチセントラル(その一)

あれはもう40年近く前のことになる。私は大学を卒業後、企業に就職して名古屋で200余名の同僚(残り200余名は伊丹で研修)と共に1ヶ月の集合研修を受け、目出度く静岡製作所に配属になった。京都、鎌倉に続く第三希望が叶った瞬間だった。配属に際しては、各々の人間にとって、小さなドラマが繰り広げられた。私と同室のT君(当時は50音順の部屋割りだったので我が部屋のイニシャルは全員T)は東京出身で、当時から彼女が居たが、何と一番恐れていた長崎に配属が決まって“男泣き”していたのを思い出す。東京を離れたがらない婚約者か、或いは都落ちと思っての事だったろう。(彼はその後名古屋に転任し、役員まで昇進したと聞く。彼女と結婚したか否かは不明)
私は「7人の侍」宜しく6名の同僚と共に勇躍静岡の地に降り立ったが、早速東京での“販売応援”が待っていた。その宿舎は本郷の古い木造旅館で、高専卒の同僚をも含めた10余名は、毎日都内の各所に散らばって、自社製品の販売応援をさせられた。私の担当は新宿西口の「緑屋」だった。このデパートは丸井と並んで、当時では珍しい月賦(10回払い)販売専門のデパートだった。私は毎朝本郷から地下鉄丸の内線で通勤した。そして其処の3~4階にあった電器製品フロアには、他の電機メーカからも、私と同じように販売応援者が何名か来ていた。私は当時卒業したばかりの田舎者、接客教育も“そこそこ”に現場に放り込まれたのである。毎日が苦戦の連続だった。私は製品知識に乏しい上に口下手と来ている。売れる筈が無い。来る日も来る日も殆ど売れなくて、ストレスばかりが溜まった。宿に帰ると話題は自然と各自の“戦果”の披露合戦となる。腕が良かったH君などは、開始早々から着々と販売実績を上げ、自慢していた。私は聊か焦っていた。問題はS社から派遣された女性販売員だった。その30代後半と思しき女性は、客のキャッチが巧みで、それとなく自社コーナーに誘い込み、上手に売り付ける。私にはとても出来ない芸当だった。製品力や価格ではほぼ横並びの中で、自社製品を売るのは、販売員の腕次第である。当時のメインの商品は、白黒テレビやステレオ及び冷蔵庫や洗濯機で、エアコンは未だ普及前夜だったように記憶している。私は、結局その緑屋で1ヶ月間に数台しか売る事が出来ず、例の女性の1~2割と完敗だった。然し、この1ヶ月に及ぶ辛い販売応援の体験は、私に貴重な教訓をもたらした。技術者にとって重要なものは“何か”を教えられたからである。
私はその2年後に、早くも担当機種を持たされる事になる。それは何とも意味不明な「マルチセントラル」と名が付いた、新しい空調システムだった。当時静岡製作所で製造していたエアコンは、家庭用と業務用、空冷と水冷に大別され、私の担当は業務用水冷機種だった。然し、其の熱源である地下水は当時既に枯渇気味で、地盤沈下防止の為に都市部では汲み上げ規制が始まっていた。そこで、当時大きく伸びる市場だったビル空調用に、内部発熱を取り込んで他のゾーンに再利用するシステムが、柳町博士によって考案され、我が社とT社、P社の3社に無償実施権が付与されたのである。これには私の最初の上司だったM氏のご努力に負うことが多い。
私の仕事は大きく分けて、機種開発(ハードウエア)と技術資料作成(ソフトウエア)だった。然しそれまでの2年間、私は見習いも兼ねて、10年先輩のOさんの下に付き、設計の基礎(主に図面改定)を教わってはいたが、当時はとても一人前の技術者とは言えない、一介の若造に過ぎなかった。そんな己の力も省みず、最初からフルラインナップを目指したのが失敗の基。力が分散して商品化は遅れに遅れ、以降数年間大変な苦戦を強いられることになる。続く