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梅雨その十八

それにしても悔やまれるのが、宮総代受諾の顛末である。数多くの役職を引き受けた私に、想いも依らない困難が降りかかって来た。石貫熊野座神社の境内には、我家の先祖が多額の寄付をした、石碑が並んでいる。ならば「他神社に見習い、拝殿周囲に記名石柱を立てたら」との提案を受けて、賛成多数だったので、思いも依らないスピードで、拝殿一周の寄付金が集まった。処が「好事魔多し」と云うべきか、或る氏子の女性が、強烈なクレームを付けた。「建設幹事の記名石柱が見すぼらしい」との事だった。私が説得に行ったら、縁側で仁王立ちになり、大声で怒鳴り付けられた。それに加えて別の男性が「〇〇記念」と書き込めとか、赤字で書けとか、言いたい放題の有様!私は余りの我儘に辟易し、以降は一切の役職を辞退した。これが無責任の田舎侍と云うものだろう!


キリスト教その一

故、岡田正二氏のご子息から、私宛に訃報の手紙が届いた。私と氏のお付き合いは、恐らく20年程昔に遡ることだろう。氏は当時既に高齢であったが、高瀬の町中から態々石貫まで、どんな移動手段で来られたのかも覚えていない。恐らくバスだったのではなかろうか?そしてホタルの繁殖に興味を示されたので、近くの川にホタルを探しに行った。然し昼間だったので、残念乍らその日は見付けることが出来なかった。


ダブルスタンダード

先にサッチャーのことを書いたので、同時代米国の大統領だったレーガンのことも書かねばなるまい。レーガンは元ハリウッドスターだが、お世辞にも大スターではなかった。然し大統領レーガンは、ソ連を“悪の帝国”と見なし、軍縮から軍拡に転じて、圧倒的な経済力と軍事力を背景に、有名なスターウォーズ計画をぶち上げ、日本にも自衛力強化を迫る一方で、中曽根首相との親密なロン・ヤス関係をアピールするなど、巧みな外交を展開した。当時、他方の大国ソ連では、ゴルバチョフ大統領が、ペレストロイカと称する、開放政策を推し進めた事もあり、ロシア以外の国々が次々に独立を宣言して、所謂東西の雪解けが進行し、最後にはベルリンの壁も崩壊して、戦後長きに亘った東西冷戦が終結したのであった。
その後、世界はアメリカの独壇場となり、所謂一国行動主義により、ソ連に代わる“テロとの戦い”が始まった。一国行動主義とは、同盟国や相手国の事情に構わず、米国単独で戦いを始める考えで、イラン・イラク・アフガニスタンと、次々に対象国が増えた。その結果、今度は国家を超えたテロリズムが横行し始め、アメリカは9.11テロにより、資本主義国家の象徴とも言える、ニューヨーク・マンハッタンの、ツインタワーを破壊されたのであった。
私はこの当時、油が乗り切ったサラリーマン時代で、部下も業務委託社員を含めると30余名になり、狭隘な本館事務所内には収まらず、別棟の女子寮の食堂を改造した部屋で執務していた。此処はそれまでの大部屋とは異なり、他部門に気遣うことなく、思うが儘に業務を遂行出来る最高の環境だったが、この“特別待遇”が、後に訪れる不幸の切欠となった。人間の感情で最も御し難いのは“嫉妬”である。何故私の部門だけが多勢で、他の部門は無勢であったのか?然し、その後トップの交代と共に、私の課は一転して草刈場と化し真綿で首を締められるような、長くて辛い衰亡の歴史が始まった。然し、この逆境こそが私という人間を強くしたのも、間違いのない事実である。
早いもので私は今年、退職して足掛け10年になる。この期間は、若者との出会いの10年でもあった。殆ど企業人しか知らなかった私にとって、退職後知り合った人々は、利害関係なくお付合い出来る、一生の友達でもある。特に昨年から今年に掛けては、九州関内のみならず、関東からも大勢の人々が石貫に来られた。然し一方では、この10年間に此処を去られた人々も又数知れない。正に“行く人来る人”である。人々は去れども歴史は残る。今現在、我家に残るのは、Ⅰにチキントラクター(鶏小屋) Ⅱに椎茸ホダ場であろうか?
丁度一年半前の秋に、クヌギの原木数十本を我が山から伐り出し、椎茸菌を打ち込んで杉林の下の木陰に伏せ込んだ。私はパーマカルチャーの仲間にも呼びかけたが、参加して頂けなかった。半年間にも亘るような長期の作業は“労働”と見なされ、おまけに菌代等の経費を徴収するやり方は“金儲け”と思われ、人々は集まらないだろうとのご託宣だった。然し、そう主張された方が今、私と同じような事をされている。
私はこれこそダブルスタンダードだと思う。そもそもスタンダードとは“先駆者が確立した規範”を指すらしく、先駆者足るNPOが主催すれば“エコ活動”で、足り得ない私が主催すれば“金儲け”なのだ。米国がイラクやアフガニスタンに侵攻するのは“聖戦”で、アルカイダやタリバンが、米国を攻撃するのは“テロ”と言われるのと、良く似た論理構成である。要するに人間は、自分に都合良い論理を構築することに長けており、白を黒、黒を白にも変えられるのだ。
私は思う。どんなに詭弁を弄しようが、事実は曲げられない。一年半前に椎茸菌を打ち込んだホダ木の形成層全面に、今椎茸の菌糸が蔓延しつつある。二梅雨を経過したこの秋には、夥しい量の椎茸が発生するに違いない。それをメンバーは只で採り放題。遠路の人には要請に応じて、自宅まで送ろうと企画している。終わり


巨星墜(お)つ

その一
谷口巳三郎氏が昨年の大晦日にタイで逝去された。前日は知人の結婚式に、遠路自ら車を運転して出席された、その夜の出来事だった。余りにも鮮烈で、巳三郎氏ならではの大往生だったとしか言い様がない。同氏と奥様の恭子氏は、私にとって我が両親に次ぐ程の大きな影響を受けたご夫婦であり、企業人としての前半生に次ぐ後半生を“ボランティア”というカテゴリーで染め抜いて頂いた、掛け替えの無い人でもある。私と氏の出会いは、バブルが弾けつつあった、1990年代初頭に遡る。私は熊日新聞元旦特集号で先生の活動を知り、その後「タイとの交流の会(谷口プロジェクト)」の事務局長まで務め、北タイのチェンライ郊外に位置する谷口21世紀農場へは、会社に一週間の休暇を願い出て都合4回も訪問した。今の時代なら東北の被災地へボランティアに行くと言えば、会社の上司は快く許可を出すだろうが、当時の企業にはそんな雰囲気は全くなく「会社が(バブルがはじけて)大変な時に、課長の分際でアンタは一体何を考えているんだ!」と部長から明白に詰られたのを、今もはっきりと覚えている。私はそんな“罵詈雑言”にもめげず、喜び勇んでタイを訪問した。
訪タイの最大の目的は、巳三郎氏とお会いし、話を聞くことであった。同氏の話は哲学そのもの、それも日々自ら体得し、実践されていることであった。サバンナ気候で暑いが、それでも心地良い冬の夕刻、20ヘクタールにも及ぶ広大な谷口二十一世紀農場の中程にある、先生の住まいの前の屋外テラスに三々五々腰掛け、我ら訪問者は他では絶対に聞けない程生々しく、そして悲惨な開発途上国の現実と、国家規模で取り組むべきスケールの貧困や差別に対し、高齢の裸身一つで雄々しく挑んでおられる氏の崇高なまでの話を聞き、文字通り身や心を洗われたのであった。
そのテーマは、山岳少数民族の不法越境侵入・家族計画の不備による子沢山・困窮・売春・エイズ・焼き畑による農地の表土流亡・軍隊を含む公務員の汚職・国民の不法銃砲所持・農地の細分化(均等相続制度から来る圃場整備の遅れ)等々多岐に亘った。タイ訪問には、全ての人間にとって大切なことが数多く含まれており、当時四十代だった私は、その後の半生を生きる上に於いて、月並みの海外旅行の何倍もの価値を有する、極めて大切な事柄を得ることが出来た。
もう一つの楽しみは食事と小旅行であった。我ら訪問者は到着翌日から、氏が計画された旅行プランに基づき、巳三郎先生の数名の教え子が営む少数民族の寮を慰問し、日本から持参した慰問品や支援金を贈呈した。何れの寮も日本人篤志からの支援金を基に、現地人を雇用して運営されていて、いたいけな子供達が民族衣装を纏い、精一杯の歌やダンスで歓迎して呉れた。少数民族とは、タイの隣国である、ミャンマー・ラオス・カンボジア・中国雲南省などから、国境を越えて侵入した人々で、所謂グリーンカード(身分証明書)を持たない人々である。従ってこれら少数民族は、タイ人と違い初等中等教育を受けれず、成人しても職がなく、仕方なく売春や麻薬売買などに手を出すのであった。然し、あれから既に20年、そのタイも今や水害のニュースで明らかになった如く、工業化が進んで後進国から脱しつつあり、先生ご自身の使命が、終わりつつあったことを希しくも示している。ご冥福をお祈りします。
その二
それから2週間後の夕刻、我が庄屋の店頭で、知人の“あいあい庵”さんと屋台の解体、積み込み作業をしていると、川向の県道が数珠繋ぎの渋滞で、救急車が来ている。同氏曰く「バイクと軽自動車の衝突」らしい。処が、後に事実を知って私は驚愕!“石貫の巨星”K氏の、バイク運転中の心臓発作による急逝だった。K氏は、私が現役だった2003年に、公民館支館長就任を要請され、ご自身も“区長会長兼石貫まちづくり委員長”として自ら陣頭指揮の傍ら、私を裏から支えて頂いた大恩人である。氏は人脈がとても広く、頭も体も良く動く人だった。氏のお蔭で、崩れかけていたナギノ交流館も修復出来たし、竹炭窯も建設した。あれから10年が経過した今年、まちづくり活動も終焉し、ナギノ交流館にも関東の若者ご夫婦が入居された。これもK氏の御陰というしかない。
私は思う。現代は栄養状態と介護医療の発達で、日本人は世界でも有数の長寿国になった。然し、寝たきり老人や、訪問介護なしでは一日も過ごせない人々もまた多い。従って多くの老人の願いは、所謂“ピンピンコロリ”とか?
私は、巨星のお二人とは違い二等星か三等星だが、高血圧を除けばさしたる持病もなく元気である。然し何れ身罷る時は前記のお二方に倣い、ピンピンコロリと逝くことを願っている。終わり


震災米

今年は表年(オモテドシ)に当たるのか、柿や栗、銀杏やイチジクなどの果樹が、何れの木にも鈴なりで、米や野菜も食べ頃の、一年中で最も豊かな“実りの季節”が到来している。然しそれを素直に喜べず、心の中にポッカリと穴が開いたような空虚な感じがするのは、やはり東日本大震災の影響であろうか?熊本は地理的に、鹿児島や長崎と並び、被災地からの距離が最も遠く、然も有明海と言う内海に面しているので、津波の心配は殆んどない。その上、幸いなことに県内には原発も立地していないので、南阿蘇には50余名もの人々が避難して来ているとか!我が石貫にも現在3名が移住され、今後更に2名が来られる予定になっている。
私は過去数年間、主に片白を舞台に仲間と米作りをしてきたが、今年東京から避難・移住されたMさんの考えに共感して、来年からは安全な米を求める、首都圏の人々の為の米も作ろうと考え始めた。これは言うならば“震災支援米”である。然しその生産の為には、新たな農地の確保が必要となる。私は過去、鷽の谷で7枚、片白で12枚、古城で4枚、合計23枚の水田を借地した。然し何れも有償であり、地主には“それなりの地代”を支払わねばならない。
一方“震災支援米”と云うからには、首都圏まで送る為の経費も掛かることであり、その他の生産経費は出来るだけ抑えねばならない。私はその為に、地主に米作りの趣旨を理解して貰い、無償で借りようと考えた。その結果、鷽の谷で2枚、古城で2枚の合計4枚、約3反(≒3000㎡)の田圃を、ほぼ無償に近い形で借りることが出来た。
然し、これらは何れも荒れ田で、長年の耕作放棄の結果、地表はひどい凸凹の上に、畦は“在って無きが如し”の状態である。従って水稲を作付け出来る状態に戻すには、多大の労力を必要とする。特に同級生のI君から借りた約2反の田圃は、西側の山地に生えた夥しい本数の真竹や雑木が、田圃の上に幾重にも覆い被さり、日照を遮っている。私はMさんの助けを借りて延々数十メートルにも亘る竹林の竹を、1本1本伐採して引き出し、枯れ竹は焼却し、生竹は乾燥後、枝落としをして、猪侵入防止のバリケードの材料にすべく、作業を開始した。斯様な作業は重労働且つ危険をも伴うので、条件の良い日を選び、余り無理をせずにやることが肝心である。私の計画では遅くとも11月迄に伐採完了。寒中の12~1月に、重労働のバリケード建設を完了したい。そして2~3月は、これも重労働の畦修復作業である。4月になると急速に雑草が繁茂し始めるので、その根張りを利用して畦崩壊を防ぐには、出来るだけ早く畦立て作業を完了せねばならない。通常の農作業の外に、これらの仕事が加わり、今秋の私は目が廻るような忙しい毎日となった。
私は、自分の仕事ならば一生懸命やっても、他人様の仕事となると“楽をしたい、適当にしたい”との怠け心が無意識に頭をもたげる程度の人間である。ところが今回だけは何故か、そんな邪心が全く入り込まず「思い立ったのが吉日、早く立派に成し遂げたい」との焦りにも似た感情が湧き上ったのである。これは「自分は良いことをしている、人様の為になることをしている」と思ったからなのかも知れない。然し私一人の力だけでは微々たるもので、周囲に同じ様な心の輪が広がることが望ましく、近隣に周知することも必要と考えた。その為には、田圃の前の道路脇に、震災支援米の立札を立てようと思っている。
数世紀に一度あるかないかの大地震、そして有史以来初めて原発が大津波に飲み込まれた今年「被災地の人々に寄り添う」等々、一見心地良さそうなレトリックが飛び交っているが、もっと重要なことは具体的な行動を起こすことではなかろうか?私は、今回の震災支援米プロジェクトについては、圃場整備までの準備作業は関係者中心で進めても、来年6月の田植えから夏場の稗取り・草取り・稲刈・脱穀等の作業については、周りに広く呼び掛け、出来るだけ多くの人々に参加して頂いて事を進めたく、どうぞ皆様のご協力を宜しくお願いします。終わり


幸せの経済学

先日、放射能を逃れて東京から玉名に戻られたM氏の肝いりで「幸せの経済学」を見た。(M氏のご実家は、我が母方の祖母の実家の隣)この映画は、30年前は外国人立入禁止地域であった、ヒマラヤの辺境ラダックに、現代文明が押し寄せた結果、彼ら同士の人間関係が希薄化し、アイデンティティや伝統文化の誇りを失い、昔は生き生きと暮らしていた人々が、今では「貧しいので支援して欲しい」と訴えるようになったという内容で、消費文化に翻弄されたラダックの人々の姿を通じて、グローバリゼーションの負の側面を炙り出し、対極的な「ローカリゼーション」の促進が、日本の伝統文化の中にもある、人と自然とのつながりを取り戻し、地域社会の絆を強めると主張している。
羊の下に、さんずいへんと欠を書き、うらやむ(羨む)と読む。私は漢字が不得手なので、辞書を引かねば書けない文字の一つだが、意味は良く知っているし、これまでの人生で、度々お世話になった単語でもある。そして恐らく、この極めて微妙な感情は、人間以外の動物については、無いのかも知れない。否、犬や猫や鶏は、人が食べているのを見ると、吠えたり、啼いたりするので、羨ましいのかも知れない。決して“良い意味で使われる言葉ではない”が、必ずしも後ろ向きとも思えない。
私が物心ついた昭和20年代末~30年代初頭の日本は、正にラダックの二重写しともいえる、貧しい社会であった。母は「石貫には月給取りが2人居て、毎月末には決まったお金を貰い、盆暮れの一時金(ボーナス)もある」と、大変羨ましがっていた。と言うのも、我家のような農家は、米代金が年末に一度だけ入るのみで、それを12等分して一年間細々と暮らさねばならなかったからである。「百姓は底辺の職業である。その証拠に『水呑み百姓』とか『ドン百姓(実際は土百姓)』と言うではないか。このどん底から抜け出すには、確り勉強して、良い学校に進学し、良い会社に就職して、沢山給料を貰って、幸せな生活をして欲しい!」と。恐らく当時は、この種の家庭教育が、全国津々浦々の農家で行われていたに違いない。
然し、当時から半世紀が経過して、母の思い描いた通りの社会が実現した今日、多くの人々は何故か“幸せ”を感じていない。それは「物質的豊かさのみでは、真の幸福感は得られない」からである。そもそも資本主義社会は、人間の欲望を利用してモノやサービスを産出し、利潤を追求する経済システムである。これには限りがない。そして常に相対比較される。世界一にでもならない限り、必ず自分より上位の人間が存在する。競争を煽り、全体のパイを膨らませ、嵩上げするには良いシステムかも知れないが、必ずしも一人一人の精神的幸福感を増すことには、ならないのである。そもそも“幸せ”という言葉の定義してからが、極めて曖昧模糊としていて、人に依って千差万別である。今の時代、大富豪や、トップアスリート、有名タレント等、所謂“セレブ”と言われる人々が、世間の人々の垂涎の的だが、これも“金銭”を尺度にした一面的評価に過ぎない。
そんな現在、東日本大震災を経て、多くの若い男女が放射能被爆を恐れ、九州に避難されつつある。私から見れば、首都東京で、何不自由なく生活していたセレブが、遥々九州の地まで来られる事態の深刻さに驚く。そしてその多くが、家族の離別を伴っている。年老いた親御さんは、今更東京を離れたくないのだ。これは戦時中の疎開に匹敵する、国民の大悲劇である。昨日は、一家で玉名の地に一ヶ月間避難し、我家にも遊びに来られたI氏ご一家が、マンスリーアパートのレオパレスに置き去りにされていた、新品の自転車2台を引き取りに行った。私は“来るもの拒まず”出来るだけの支援をして、これらの人々の生活再建を助けたい。
そして私は自問する。そもそも「幸せとは何ぞや」と。出世か?健康か?高収入か?ハタマタ女に持てることか?どうもその何れでもないようだ。そうだ!“必要とされること”だ。人は“自分が必要とされないと感じた時、死期を悟る”と聞く。私は米作りを志向する男女から必要とされているので、今の処死期を悟っていない。論より証拠、明日から息子の職場仲間12名が、東京から我家に来て、伝統文化の田植え体験をする予定なのだ。勿論夜はバーベキューである。私はその為に、今日一日がかりで、ドラム缶を切断して「バーベキューセット」を製作した。息子の友人たちと夏の夜バーベキューを囲み、時間を忘れて歓談する。これに勝る“幸せ”があるだろうか?終わり


Edge

Edgeを辞書で繰ると、端とか淵とか縁(ヘリ)などと書いてある。要は際(キワ)のことなのだ。一見何の変哲も無い言葉だが、パーマカルチャーでは良く出て来る。例えばブロック塀沿いとか、石垣の間とか、道路の舗装の継ぎ目などから、植物が勢い良く生えているのに気付かれた人なら「アーあれか!」と思われるだろう。即ちEdgeにはエネルギーが集積するから、あんなに狭い隙間から色んな植物が芽を出して、大きく成長するのだ。これをパーマカルチャーでは「Edge効果」と呼んでいる。
このEdge効果は、我家でも庭を取り囲む石積に見ることが出来る。私は40歳を目前に生地熊本に戻り、古い実家を大半解体して自宅を新築した。(母は、元の家はそのままにして、別の場所に新築すべしとの意見だったが、それを守らず解体したことを、私は後悔している。)当時の庭は荒れ果て、石垣は崩れ、山林同然だったので、コンクリート石垣を積み直し、その上に自然石を並べて庭も作り直した。当時私は帰郷間もない時期で、地元業者の情報もなかったので、この仕事も家の解体業者にお願いした。だからとは云えないかも知れないが、20年以上経過した今日、地盤沈下の影響か、石と石の隙間は大きく拡がり、目地のセメントも外れて、Edgeから色んな植物が芽を出している。石の間から出た、草や木を引き抜くのはとても難しい。根が深々と張っているからだ。そうかといってほったらかしにすれば、植物の圧力で石の隙間は更に大きくなり、石積そのものをやり直さねばならなくなる。この仕事は庭師に頼むしかないが、やれやれ一体幾ら掛かるものやら!
一方で私は今、自然素材の家作りをしているが、ここでもEdgeに悩んでいる。先ず土壁塗りの前に、柱を汚さないように室内外両壁の柱境界全てに、養生テープを張り巡らした。そして土壁を塗った後、再度そのテープを剥がした。そして土壁の上に鎧板を張り、周囲(塗装しない部分との境界)に再度養生テープを張り、防腐塗装をした後に再度剥がした。然しこれでも終わらない。次に土壁の上に砂壁を中塗りをして、更にその上に漆喰を仕上げ塗りする予定だからだ。と言うことは壁と柱や鎧板の間に、再再度養生テープを貼らねばならないのだ。
私は思う。グラスウールの断熱材を挟んで、石膏ボードを貼れば、あっという間に完成するのに、土壁に決めたばかりに、石油化学製品の最たる養生テープを、一体どれだけ使えば作業が終わるのだろう。然し今更泣き言を言っても始らない。仕方ない。又ナフコに行くか!私は先日剥がした膨大な量の養生テープをゴミ袋に押し詰めながら“エコとは一体何だろう”と自問している。終わり


勘なし

“勘”という言葉を辞書で引くと「直感的に物事を感じ取ることの出来る能力」とある。ということは、勘なし=鈍感となりそうだが、鈍感の対語は“敏感”だから、ちょっとニュアンスが違う。私は“加減なし”或いは“無鉄砲”“向こう見ず”がぴったりだと思う。
と言うのも、私は若い頃から結構“勘なし”だった。其れゆえかケガも多かった。骨折したことがないのが不思議なくらいで、切り傷、擦り傷や打撲傷は日常茶飯事、小学生の頃は、殆ど半袖・半ズボン姿で戸外で遊んでいたから、膝や肘、手足は傷だらけだった。
そして小学校高学年になると、農作業の手伝いをさせられ、必然的に刃物を使うことになる。鎌や鋸を使うことが多くなり、怪我もひどくなった。稲刈り作業では、鋸鎌で左手小指を二度も切った。勿論当時は素手で作業していたので、怪我もひどかった。皮膚がざっくりめくれて、血が噴出せば、子供なら誰でも気が動転する。成人後も木々の枝落しや竹伐り中に、鋸で左手を二度も縫わねばならないほど切ってしまった。
又我等団塊の世代は、エネルギー革命以前に物心付いたので、誰でも火を扱える。即ちマッチと柴(紙や小枝でも同様)と薪があれば、火を熾して食材の煮炊きや風呂を沸かす技術を身に付けている。「火加減の技を身に付けること=勘なしにならないこと」である。然しこの技術は、ガスや電気が主力エネルギーになった現代では殆ど有名無実化し、頭デッカチの現代人が増えた。
私は退職後6年、第二の人生をパーマカルチャー的農業と建築に懸けている。この二つは何れも機械器具を使用する点が現役時代と共通している。企業では人件費や材料費の他に、仕損費、償却費、消耗工具費、器具備品費、補修費、燃料費、事務費、通信費、交通費、交際費等々、様々な経費が発生する。この点は農業も建築も全く同じである。私は主に中古の農業機械(機械設備投資)をオークションで、消耗工具、器具備品をホームセンターで揃えた。かなりの金額になると思う。然し、私の事業はボランティアであって、法人化もしておらず、利益も生まないので償却が出来ない。故障修理や買い替えは全て仕損処理するしかない。
然し現代の若者には思いのほか「勘なし」「ぱなし」の人が多い。最も基本的な鋸や鎌、鍬、鋏などの管理が出来ない。只力任せに我流で使うので、刃こぼれはひどいし、柄には直ぐガタが来る。そして使った後は田畑に置きっぱなし!数ヵ月後に真っ赤に錆びたのが見付かる。皆さん頭は良いのだが、躾は出来ていないようだ。私はスポーツ音痴の方だが、工具の使い方は知っている。ゴルフと全く同じである。即ち、力んでクラブを振り回しても決して飛ばない。『さあ皆さーん!鋸の引き方を教えます。親指と人差し指を除く3本で、柄の先端を軽く握って下さい。力を入れずにストロークを長く、ゆっくりと引いて下さい。そして使った後は、ちゃんと元の所に戻して下さい』終わり


半農半X

「半農半X」と言う言葉がある。これは「半自給的な農業と各人の適性・長所を生かした社会貢献的な仕事を両立させる生活スタイル」と定義されているが、私にはどうもピンと来ない。今の時代、大半の農家は日曜百姓みたいなもので、どこかに勤めつつ合間に農業を営んでいる。然しこれは「第二種兼業農家」と言い「半農半X」とは呼ばないので、単なる勤めは社会貢献ではないらしい。この流れで云うと、今の私は「半農半X」に入れて貰えるかも知れない。Xとしてパーマカルチャーの仕事をしているからである。別項でも述べたが、今夏同専任講師のデジャーデンゆかりさんが急逝された。その4ヶ月前、我がファームステーション庄屋で、同氏がメイン講師となって10泊11日の集中講座があり、終了後に反省会が開かれた。その場でゆかりさんは「和室での座位は窮屈なので、腰掛けてやりたい!」と申された。私は“この言葉”を重く受け止めた。と言うのも、私自身が狭い縁側に座り、とても窮屈な思いをしたからであ。そしてこれはとうとう“遺言”になってしまった。私は、2年半前パーマカルチャーを我家に誘致した時、講座会場を近くの公民館に決めた。広さは24畳である。然し畳の上に正座したり、胡坐を掻いたり、足を伸ばして長時間過ごすのは楽ではない上に、換気が悪くて私は幾度か気分が悪くなった(スライド使用の為に雨戸を全部締め切ったから)。そんな経緯で今年の会場は、まちづくり拠点の「ナギノ交流館」に変更したが、14畳+段差のある周り縁では矢張り狭過ぎた。私は反省会の場で新会場建設を表明した。建設地は自家敷内である。と言うのも畑や調理場や寝所のある我家から離れた会場では、人や物の移動/搬送の手間が馬鹿にならず、スタッフはそれら付加価値の少ない業務に手を取られてしまう。私の提案はパーマカルチャー理事会の承認を受け、早速馴染の大工Tさんに発注した。Tさんは男意気に思ったのか、利益度外視で見事な県産材を使い、骨組(屋根と壁)を建設して呉れた。棟上はクレーンを使い数名の大工さんが来て一日で終わった。広さは公民館と同じ24畳(但し土間)である。シャッターや窓は、車庫の部材をそっくり流用した。ここまではTさんにお願いした。勿論むき出しの柱と屋根だけの会場で講座は出来ない。他方私の資金にも限りがあるので、壁造りは自力でやることにした。このやり方をハーフビルドと言う。そこで生きるのが、6年前に庄屋の店舗を建設した経験である。当時壁土は購入したが、竹を編むエツリと土壁塗りは殆ど自力でやった。今回も竹の材料は全てパーマカルチャーのNさんと二人で山から切り出した。そして土壁塗りの応援を求めたら、予想を超える多くの人々が手伝いに来られた。Nさん以外に、Fさん、Iさん、そしてその友人複数(カナダ人も)、更には、我が娘、娘婿、息子、それに家内までもが。最後には競争みたいになって、予想より早くエツリ掛けと土壁塗りが完了した。そして今秋、当会場でこけら落しのイベント「セシリアセミナー」が開かれたのである。私はそれに先立ち、看板の除幕式をした。名称は尊敬する我が祖母の名を取って「シシ亭」とした。私が大好きだったお祖母ちゃんもきっと喜んでくれるに違いない。文字の揮毫は我が次女である。然し、建設はこれでは終わらない。粗壁の上に室内外共板を張る必要があるからである。(これをしないと壁土が剥離するし、気密断熱効果が乏しい)室内側は私が殆ど一人でぼちぼち仕上げた。慣れた作業だったので一週間程で完了した。この他に土壁の上塗りと、屋外側は鎧板と称する昔ながらの木塀にする予定だが、ぼちぼちやっても年内には完成するだろう。それにしても私はこの10年間、農機具倉庫に始まり、二つの鶏小屋、ガチョウ小屋、庄屋(店舗)、加工所(調理場)、右馬七亭(寝所)、スタフルーム(寝具保管庫)そして「シシ亭」と良くもまあ次々にハコモノを造ったものだ。
今政治の世界では、民主党による“事業仕分け”が大きな関心を呼び、巷の話題をさらっている。確かに官僚の要求をバサバサ切り捨てる手口は、大岡裁きに似て小気味良い。私はこのニュースを見ながら、若し私の事業計画が“まな板”に載せられたらどうなるだろうかと想像する。きっと“蓮舫議員”は言うだろう。「使用目的が細分化されて、稼働率を上げる努力が見えません。予算は全額カットです。」終わり


危険

この世には様々な危険がある。そして危険に遭うのは人間だけとは限らない。ありとあらゆる生命体が、四六時中危険と隣り合わせで生きていると言っても良い。8月は“木六竹八”という言葉の通り、竹を伐るには良い時期である。私はこの数日間、裏山の孟宗竹を間伐している。今朝その一本が、椿の木に引っ掛ったので、その枝を切り落とした時である。いきなり熊蜂が舞い始め、私に襲い掛かってきた。何とその椿には蜂の巣があったのだ。私は必死に払いのけながら一目散に逃げて、危うく難を免れた。私は今年も庭のツツジの剪定時と、檜山の下刈り時に足長蜂に刺された。昨年も二度刺されたので、累計では数十回刺されているだろう。野良には蜂の他に毛虫やムカデ、はたまたマムシ等の毒を持つ昆虫や爬虫類も多い。蟻はその部類に入らないと思ったがそうではなかった。知人のNさんは、自然農法で古代米を作っているが、田植時に蟻に刺され過ぎて、数日間高熱が出て寝込んだらしい。蟻のような小さな昆虫でも、刺され過ぎると蟻酸による中毒を起すのだ。勿論この世には、それ以上の危険が山とある。車の交通事故、飛行機の墜落事故、船の沈没事故、ガス爆発、洪水や土石流災害などでは、命を落す危険性もある。
もう20年も前の事になる。私は当時M氏の下にあった。M氏はちょっと変わった方で、私を自室に呼びつけ、こき下ろすのが得意だった。例えば「君は(定型的な仕事は良く出来るので)市役所の職員なら大変優秀だろう。然し国家資格の一つも持たずに何が出来るか?」「T君は酒宴の夜でも資格の本を手放さないぞ!」当時T氏は施設部門の課長で、高卒ながら後に参事(部長クラス)まで昇進した、M氏大のお気に入りの人だった。
プライドを傷付けられた私は、資格を取ろうと決心し、衛生管理者と高圧ガス製造保安責任者の資格を取得した。次に危険物取扱者を受験した。これはガソリンスタンドを経営するには不可欠の資格で、試験は熊本工業大学であり、これも簡単に合格した。同大学の傍には叔父が住んでいたので、私は試験終了後訪問した。叔父は私に「君はそんな資格を取る必要があるのか?」と言った。それは「ゼネラリストは、スペシャリストの部下を持てば良い。」との意味だった。これらの資格は今に至るまで、何の役にも立たなかった。この世には自ずと役割分担がある。大学は専門学校とは異なり、直ぐ社会の役に立つ科目は教えない。理系でも哲学や倫理学や社会学などを学ぶ。即ち大学は食中毒やガス爆発、火災などの事故に対処する為の人間を養成するのではなく、法律や規則だけでは解決出来ない連立方程式を解く為の能力を身に着ける場所なのだ。
私は今地域活動を展開している。即ち中山間地の石貫に若者を呼び込み、定住化してもらう為の活動である。この種の活動には教科書もないし、勿論“国家資格”など何の役にも立たない。全てが徒手空拳での活動である。こんな時一番頼りになるのは自分自身である。当地では今様々な噂が飛び交っているらしい。「徳永さんは片白の田圃を一人で耕作している」とか「若者を集めて金儲けをしている」とか色々である。私は自分が噂の種になるのは良い事だと思う。勿論デマゴーグまがいの危険もあるが、それでも良いではないか!噂になるのは注目されている証拠であり、人は所詮自分に都合良くしか考えようとしない動物である。
私は今ぼんやりと見えて来た。楽しい空間を創造する事だ。色んな人々が三々五々遣って来て、好きな事をやり、好きな時間を過ごす。私はそれを可能とする時空を提供する。山・川・田・畑・食・住・店等々。今私は最後の投資とも言える、イベントスペースの建設に取り掛かっている。広さは3間×4間、畳を敷けば24畳で公民館や貸家の標準スペースである。床は土間で壁は土壁にしよう。名前は何にしようか?そんな妄想中、家内の声で我に返った。「危ないことしないで!貴方に万一のことがあれば、私は固定資産税を払えないわよ!」終わり


トイレ

過日「男に生まれて良かった100の理由」と云う、手前勝手な項目が並んだパソコン画面を漫然と覗いていたら、面白いことに気が付いた。「トイレ」についての記述がとても多かったのだ。
そのⅠ:女性のトイレ行列は男性の5倍。
即ち、女性のトイレに要する時間は、男性の5倍と言うことで、成程とも思える。然しこれは団体旅行などでのトイレ休憩時、男性用の小便器と同じ数、女性用のトイレもあると仮定した場合の話である。スペースの関係でそれ程用意してなければ、トイレ使用時間は5倍も掛からないという事になる。
そのⅡ:トイレ掃除をしなくても良い。
これも成程と頷ける。男女同権の現代、男性も女性同様にトイレ掃除をすべきかも知れないが、問題もある。トイレは一般家庭でも公衆用でも、男性用と女性用は通常一対で設置されている。これを男性が掃除するには女性用トイレにも入らねばならない。男性が公衆トイレを清掃中に、女性が用足しに入ったら、間違いなく痴漢と思われるだろう。だから通常トイレ掃除は女性、痴漢等ものともしない、逞しい年配の小母さんがやっているのである。然し私が2年余出向した中小企業では、トイレ掃除は全社員の輪番制だった。当然私もその一人であるべきなのに、専務に何度お願いしても、私だけは免除された。だから私は仕方なく、大便の後はこっそりブラシで便器を洗っていた。
そのⅢ:トイレに行くのに理由は要らない。
これはちと首をかしげる。女性はトイレに行きたい時、何らかの言い訳や嘘をつくのだろうか?それは若しや恥ずかしいからか?然し生理現象が恥ずかしいなら、食後のゲップはともかくとしても、咳も、クシャミも、鼾も、オナラも、鼻をかむのも同じ生理現象だろう。私が親しかった女性の中にそんな人は覚えがない。
そのⅣ:世界のどこだって小便が出来る。
これもちょっと首をかしげる。「万里の長城から立小便すれば、ゴビの砂漠に虹が立つ」という“迷文句”があるが、例え男性であっても、立小便はやはり国際マナーに反する。だから私は海外に行った時「トイレはどこですか?=Where’s a toilet?」は最初に覚えたし、多用した。それは去る6月の英仏旅行でも同様だった。尤も欧米諸国はおろか世界中の街角で、日本ほど公衆トイレと自動販売機が多い国はない。諸外国で外出中にトイレに行きたくなったら、レストランか店舗に入って用を足すしかないし、それをしても厭な顔はされない。勿論出掛けには“Thanks”と幾ばくかのチップを忘れないのが国際マナーである。
話は変わり、過日我がアパート住人の一家が退去された。今年になって何家族目になるだろうか?退去理由は、来年小学校に上がる子供の同級生が、女子はたったの2人しか居ないからだった。転校先は4クラスもあると言う。これを“危機”と呼ばずして一体何と言うべきだろうか?そのご一家は、アパートに自前のウォッシュレットを取り付け、そのまま退去されたので業者に依頼して取り外した。我家のトイレもウォッシュレットに改造して15年程になるが、遂に故障したので先月交換した。
現在私は、25年程前に建てた物置の老朽化がひどいので、倉庫兼イベントスペースに立替えを計画している。その準備の為に、本日まで滞在したwwooferさんと内容物を整理し、周囲の樹木の枝打ちをした。真夏の1日、木々の伐採・切断・焼却をする仕事は、焦熱地獄そのものである。
そうそうトイレのことを忘れていた。我家には昔から、家族用、来客用、屋外用の3組のトイレがある。この内前二者の浄化槽は、建坪比例計算上12人槽となっており、定期点検時に清掃業者から、有機物(糞尿)不足を指摘される。処がパーマカルチャー式トイレは、コンポストトイレと云い、水洗をせず、バクテリアの力で糞尿を分解する仕組みである。これも糞尿を定期的に供給して初めて機能する。若し私がイベントスペースに、4番目のコンポストトイレを作ったとしよう。我家は家内と私の2人暮しである。私も家内も大便は、通常1日1回である。と云う事は平均的に使用しても、各トイレは2日に1度しか使用しないことになる。さりとてウォッシュレットがあるのに、態々屋外に出てコンポストトイレに行かねばならないのか?私は今トイレが多過ぎる贅沢な悩みを抱えている。終わり


井戸を掘った人

我家は一寸した高台に立地している。海抜で言うと数十メートルにしかならないが、水捌けは抜群に良い。だからどんなにひどい豪雨でも、未だ嘗て一度も浸水した事はない。ここ西九州は日本有数の多雨地域なので、私は安全な場所に住まいを定めた先祖に感謝している。然し良いばかりではない。高台で風当りが良いので台風被害は多い。過去何度も屋根瓦が飛んだり、屋敷内の樹木が折損したり倒れたりした。そして高台の家は、必然的に地下水位が深くなる。今では水道水が利用できるので関係ないが、私が子供の頃の我家では、深井戸からパイプを引き、手押しポンプで生活用水を汲み上げていた。然し我家はまだましな方で、多くの家は釣瓶井戸から直接水汲みをしていた。当時私の担当は風呂の水汲みで、五右衛門風呂一杯の水を汲み上げるには、大変な根気が必要だった。当時の井戸は石組で、上には簡単なトタン屋根があったが、大雨の時は雨水が流れ込み、飲料水が濁った。それを防ぐ為に、何時か新しい井戸を掘ることになった。井戸掘り人夫はヘラクレス張りの筋肉マンだった。彼は弟子と二人で、直径一メートル程の深い穴を、裸一貫でツルハシとスコップを使い掘り上げた。私は子供心に底を覗き込みながら、これは大変な作業だと思った。
それから40年後、台湾とドイツで仕事をした当時、私は本来業務の他に井戸を掘っていた。上司が自分の専門の“クリーンネス”についての講演会を両国でやりたかったので、私はそのお膳立てをしたのだった。これも大仕事だった。言葉が不自由な外国で、多くの人々を招くイベントを企画するのは難題である。然し幸いにも多くの人々の賛同を得て、何とか台独両国で講演会を開催し、上司に花を持たせることが出来た。
それから更に十余年、私は今年2月から4月まで3ヶ月間“一心不乱に”井戸を掘った。そして今年度のパーマカルチャー九州スクールが、5月初旬の11日間、吾がファームステーション庄屋で開催され、20余名の受講生が学んだ。11日間は長いようだが、準備期間と較べればあっと言う間である。終了後、お世話をしたスタッフ一同で反省会を催した。その場で講師から「徳永さんは何をなさったのですか?」と聞かれて、私は思わず絶句してしまった。
一昔前、ロッキード事件で有罪判決を受けた田中元総理を、来日した中国の要人が相次いで訪問した。多くの日本人はこのことを不思議に思ったが、中国の人々の考えは明快だった。つまり刑事被告人であろうがなかろうが、田中角栄氏は日中国交正常化を成し遂げた人であり、中国の人々は自分達の為に“井戸を掘った人”に恩義を感じたのである。
私は子供の頃から大変な甘党で、饅頭やおはぎが大好物だったが、餅や饅頭の餡子ばかり食べて皮を残し、母に「罰被る!」とひどく叱られた。今回はその罰が当たったに違いない。終わり


打付大工Ⅱ

吾が「ファームステーション庄屋」は、今や“NPOパーマカルチャーネットワーク九州”の活動拠点となり、2007年秋から2008年末にかけてほぼ毎月一回、一泊二日で十余名の若者が来訪し、パーマカルチャーの理論と実践を数名の専門講師から学んだ。受講料は年間15万円と安くはない。当然宿泊施設も必要である。同会の事務局長は「寝袋があれば何所でも寝られる」と楽観的だが、高い受講料を払い、遠路遥々来て頂いた受講生に「寝袋で寝て下さい」などと私は言えないし、寝袋を持参する受講生も居ない。NPOスタッフは、自分もボランティアなので、受講生を顧客とはと考えていないようだが、私はお金を頂くからには、それに見合うサービスを提供せねばならないと考える。この感覚のギャップは大きい。私は一昨年夏、態々神奈川県藤野町のパーマカルチャーセンタジャパンを見学に行った。ここの拠点の古民家には、予想通り大量の寝具が保管されていた。
私は直ぐ行動に移った。近くの玉名温泉ホテルや旅館の女将に事情を説明し、半年程かけて夏冬寝具二十余式を調達した。これは誰かに頼まれた訳でもなく“私の気持”である。布団の御礼は、受講生がその温泉に行くことで女将を説得した。然し頂いた布団は中古品なので、染みや傷みがあるものが大半である。百円ショップで布団生地に似た“端切れ”を買い集め、綻びを小まめに縫って補修した。付着した生理の染みなど生々しいが仕方ない。枕は貰えなかったので、痛んだ布団を解体して、台湾人wwooferの黄さんと昨夏20個手作りした。講座前の好天の日には、屋敷一杯に布団広げて天日干しをした。途中何度も裏返しや入替えをしながら。
開講後半年間ほどは、24畳の公民館を多人数の男性用、16畳の自宅座敷を少人数の女性用宿舎にした。然し毎月講座の度に自宅から公民館へ大量の布団を運べば、雨濡れや汚れ・傷みが生じる。その対策として私は昨春、土蔵二階の物置に“右馬七亭”と称する11畳の屋根裏宿泊所を造った。その物置には、我家の歴史を物語る、ありとあらゆるガラクタがぎっしり詰っていた。私は数名のボランティアの助けを借りて、それを全て屋外に運び出し、パーマカルチャーの皆さんに好きなものを持ち帰ってもらった。一番の大物は6組の長持だった。これは我家に嫁いだ歴代の嫁の持参品であろう。最古の長持には立派な引き出しが幾つも付いていた。膨大な書籍や家具類は古物商に依頼して殆ど廃棄した。
その後屋根裏部屋を徹底的に清掃し、屋根裏に断熱材を詰め、天井板・床板を張り、壁にはM氏の好意で頂いた珪藻土を、Nさんの指導を受けて塗り、窓や換気扇・照明を取り付け、最後に畳と階段・手摺を取り付けて完成。そして昨年後半からは、男女共に我家に泊まれるようになった。そして昨年暮に一期生の卒業式があり一区切りがついた。これで宿舎の問題は一段落したかに見えた。
ところがどっこい!年改まって今年のスクールは、講師にオーストラリア在住の“デジャーデンゆかりさん”を招き、5月上旬の11日間、集中的に開催することになった。私はハタと困った。折角布団一式を揃えたのに、これなら貸布団でも借りれば足りる。おまけにスクールの期間以外の354日間、布団は無用の長物となり、座敷の縁側は足の踏み場もない物置と化す。布団の調達は、頼まれもしないのに、私が勝手にしたことであり、誰にも文句は言えない。私は独り相撲を取り、挙句の果てはその尻拭いをもせねばならない羽目になった。
我家の自宅横には、25年程前自宅を新築した時、先ず材木の切り込み用に充て、その後車庫として利用している、スレート葺きの15坪の建物がある。しかし永久と思っていたスレート屋根が経年変化で劣化し、近年雨漏りし始めた。このままでは骨組みの木材も腐るので、Tさんに相談したら、石綿スレート屋根は発がん性のあるアスベストを含んでいるから、解体に際しては粉塵飛散防止の密閉処置をせねばならず、とても大変でお金も掛かるとのことだった。そして対案としてスレートの上に、断熱材付のメッキ鋼板を重ね張りすることを薦められ、それを最近施工した。
そして同時に、ガラクタ置き場となっている、この建物の一角の4坪弱の物置を、布団部屋に改造することを思い立った。中の膨大なガラクタを外に出し、ブカブカしたベニヤの床板を剥し、土台を組み直し、床板を張り、天井の桟を大工さんに組んで貰い、天井板(ボード)を貼付け、壁に断熱材を入れ、アリザグリと称する規格品の杉板を壁に張り、畳を敷いて、天井裏に断熱材を敷き、外壁にペンキを塗り、一週間掛かりで8畳(関東間)の和室を完成させた。自分で言うのは面映いが、出来栄えは悪くなかった。そして3畳程のスペースに、うず高く布団を積み上げ、カーテンで仕切った。残りの5畳は個室にぴったり、私はその部屋に1週間ほど寝たが、極めて快適だった。
私は思う。今や好きでさえあれば、素人でも部屋の内外装位は容易に出来る。それを可能にする便利な資材や工具が揃っているからだ。問題はこの類の延々たる仕事が好きか嫌いかに拠る。私は大好き人間である。そして大工のTさんに言う。「私は大工は無理でも大八(=打付大工)になりたい」と。終わり


パーマカルチャーⅠ

10年位前のこと、玉名郡菊水町(現和水町)の肥後民家村で開催された或るイベントに参加したのが、パーマカルチャーと私の出会いだった。その後東京在住の息子が転職で悩んでいた時には、私がパーマカルチャーセンタージャパン(神奈川県藤野町)主催のスクール受講を勧めたところ、息子はとても気に入り、同代表のS氏からホームページの制作依頼なども受けていた。
 そして2007年初夏、私が60年間の自分史をまとめた自費出版「親父のつぶやき」(文芸社刊)を脱稿した頃だった。玉名市のオーガニックレストランで、私が何気なくパーマカルチャー九州代表のM氏につぶやいた「庄屋に来ませんか?」の一言が、その後の私の運命を激変させる切欠になった。M氏が代表を務めるパーマカルチャー九州は、当時常設の活動拠点を探していたのだった。その後間もなく、S氏とM氏が我家に来られ、私もセンタージャパンを訪れ、とんとん拍子に九州の活動拠点をわが家の農場「ファームステーション庄屋」にという話になった。それからの一年半はあっと言う間だった。2008年のパーマカルチャー講座は、3月から12月までの10回コースで、九州一円から集まった20名近くの人々が、一泊二日で理論体系や畑造りなどの実践を学んだ。その多くは若者で、高学歴で、都会に住みつつも、田舎に憧れている。この動きは、高齢化が進み、後継者難に苦しむ田舎にとっては、願ってもない将来の担い手と言えるのではないだろうか。
 パーマカルチャーとはPermanent(永続的な)とAgriculture(農業)を組合せた造語で、1970年代にオーストラリアで始まった、農業を含む新しい生活様式のことを指す。私がパーマカルチャーに惹かれるのは、自分の子供時代の生活の仕方とイメージがぴったりと合うからだ。昔は人が日常的に家畜と同居し、草木や土と触れ合う農業だった。今は化学肥料・農薬漬けの慣行農法が一般的で、機械化が進み、土建業に近い気がする。パーマカルチャーはその対極に位置する農法と言える。有機無農薬と言う点では、私がこれまで実践してきた農法と同じだが、その考え方は独特である。
一泊二日のパーマカルチャー講座では、用地・建造物・菜園・果樹園・農場内森林などの成立ちや仕組みを学び、毎回それに関連する実習がある。例えば菜園については、講師の指導の下、皆で力を合わせ、我が庄屋の前に、マンダラガーデンとロックスパイラルガーデン、キーホールガーデンを造った。何れも円形で竹や木や石で立体的に区画され、様々な種類の野菜や、ハーブ、それに雑草が混在している。従ってむやみに雑草を抜いたり、虫を殺したり肥料を施してはいけない。都会に住み、ほんの狭い庭や畑しかない人でも、アパートやマンション住まいの人でも、容易に実践出来る、環境に優しい農法なのだ。
昨夏は、これらの正課だけでは飽き足らない数名の有志から、米造りをしたいとの希望が出たので、数枚の田圃を借りて米作りに挑戦した。又、昨春特別講師で招いた椎葉くに子さんの話に触発されて、畑を借りて蕎麦栽培にも挑戦した。そして次は玉名市の環境団体からの要請でナタネ作りと、止まるところがない。然しこれは、地元の方が快く農地を貸して下さったお陰である。年末には、お世話になった方々を招いての収穫祭も実施したところ、ある人から「玄米があれほど美味しいとは知らなかった」と喜びの言葉を頂いた。域外から来た人々が室内に篭って勉強するだけでは、地元の人々との距離は離れたままで、誤解すら生まれ兼ねない。然し、一旦フィールドに出て汗を流せば、両者はたちどころに打ち解けた関係になる。私はこの課外授業こそ、将来のエコビレッジ建設の夢につながるように思う。
パーマカルチャーの先進地、ニュージーランドのレインボーバレーファームを紹介したDVDは、何度見ても見飽きない。勿論、広い土地を自由にデザイン出来る外国と日本では、大きく状況が異なる。然し多数の横穴古墳が存在し、古代から人類が生活してきた玉名市石貫には、諸外国に勝る資源、豊かな山林と清らかな河川と肥沃な田畑が、開発で傷つきつつも未だ幾らかは残っている。これらの資源を保全し、持続可能な農業を営むことが、これからも人類が永続的に生存する必要条件だと思う。今や都市住民は、生存に不可欠の水や食糧、エネルギーの殆どを、域外に依存しなければ一日たりとも生きられなくなった。このことの危うさにいち早く気付いた人々が、今パーマカルチャーを学習し、実践し始めている。今夏には関東から数名の男女が、態々九州まで居住地探しに来られた。今後の課題は、これらの人々に古民家を紹介し、田舎で生業を営める環境を整備する事である。その第一弾として、時代遅れのISDN環境にある石貫・三ツ川地区にもブロードバンド(ADSL)を整備して頂くべく、先頃玉名市長宛に3度目の陳情書を提出したところ、今年度の補正予算でNTTへの助成が決った。時代を変革する人々は、何時の世でも最初は極めて少数である。地球温暖化が進み、エネルギーや資材価格が高騰して農業環境が悪くなるにつれ、パーマカルチャーを実践する人々は、今後徐々に増えるだろう。私は残された人生をパーマカルチャーに託し、志を持つ若者を玉名市に誘致し、共に喜びや苦しみを分かち合いたいと思う。そしてそのことが、未だ幼少の最愛の孫に残せる最大の遺産だと思う。終り


ベンチャー企業(エピローグ)

T先生と私の関わりは、あの裁判所行きの後、長らく途絶えていた。その理由は、私自身があの頃からリストラや、転職の渦に巻き込まれ、会社を転々としていたからである。平たく言えば、自分以外の事に構って居られない様な状態だった。
そして私は3年半前に退職し、目出度く“自由人”になった。そして2年程前に、久し振りにT先生のお宅に伺い、お会いした。その時奥様は言われた。「主人は近頃家でぶらぶらして、何もしないので、何処かに連れて行って下さい」と。私は二つ返事で車に乗せて、阿蘇の知人の家の落成パーティーにお連れした。先生は、あの眼光鋭い顔が別人みたいに穏やかになられ、パーティーの席上でも、「借りてきた猫」の様に大人しかった。
それから更に時が経ち、ほんの一月ほど前の事である。先生ご夫婦が突然、我家に来られたのである。私はとても嬉しく感じ、お二人と時の経つのも忘れて、歓談した。そして、その時も意識して義足のことは話題にしなかった。
私は思う。自分の過去の人生で、数え切れない“恩師”に教えを乞うたお陰で、今の自分がある。然し私は現在その恩義も忘れ、ほんの数名の先生と年賀状の遣り取りをする位で、他の方とは完全に“没交渉”である。そして今や、それらの先生の記憶すら次第に薄れつつある。然し今尚私の頭の中に「鮮やかな光芒を放ち続ける先生」は、あの学生時代には避けていたT先生を於いて他にはない。終わり


ベンチャー企業(その三)

T君は私と大学の同期生、当時は地場中小企業の経営者であった。彼氏にその事を話すと、二つ返事で引き受けると言う。私はその時“神の助け”だと思った。そしてT先生と、私の同期生のK君(T先生の教え子、当時は先生の相談役的存在)が立会者になって3者会議を開き、N社の後継企業として、T君が経営するA社を充てることにした。A社は、N社と違って部品加工のみならず、組み立てから調整販売までをしたいと申し出た。私は嬉しくなって、全面的にA社に任せることで、三者合意を取り付け、一安心した。(その後、N社に出資した100万円はM君から返還して貰った。)私はこれで一件落着したと思い、その後暫くはこの件から遠ざかっていた。
それから数年後、再びT先生からお呼びが掛かった。市場クレームが多く、A社に問題があると言われたからである。私はその後、再び抜き差しならぬ“泥沼”に足を取られることになる。私は仕事の合間を見て、何度かA社を訪問し、T君から問題点について伺った。T君はどちらかと言えば、楽天的な男で、余り事態を深刻には受け止めていない様だった。しかし、T先生はそうは思われていない。私はあのキッシンジャー補佐官の様に、両者の間を何回も言ったり来たりして、両者の言い分の違いについて検証していった。
一言で言うと、両者の見解は殆どすれ違いだった。T先生の言い分は①設計通りの義足が出来ず、クレームが多い。②自社事業を優先し納期が遅れている。③経理がいい加減である。一方T君の言い分は①(設計図が)製造の事を考えていない。②手直し作業が多く効率が悪い。③採算割れを引き起こしている。の様に記憶している。
これでは、両者は平行線である。然も重要な品質・納期・コストいずれの面でも問題がある。私は何度かの“往復外交”を繰り返した後、K君と「最後に当事者を入れて話が付かなければ、提携解消しかない」と腹を決めた。そして其の会議がA社で行われ、最悪の結末を迎えた。両者の言い分は真っ向から対立し、T先生がA社との“決別”を宣言されたのである。
先生は、既に其の結末を予測して、次の方策を考えられていた。それは、Y君と言う優秀な加工技術者をキーマンとして、義足専門工場を運営させようとの考えだった。私はY君を殆ど知らないが、先生によると腕は確かで、真面目一本の男との事だった。
然し事はそれだけでは収まらなかった。A社は義足事業の他にも、自社事業を抱えていたからである。棚卸資産の分離作業は困難を極めた。何故なら、大企業であれば、事業部毎にきちんと棚卸しをして、経理処理も出来ているのだが、中小企業はそうは行かない。言うならば家族経営の丼勘定である。何所から何所までが義足分なのか、公私の境界すらはっきりしない。おまけに私は当時、A社に対して、自社で遊休化した中古フライス盤まで、譲渡していた。勿論“義足事業”を支援する為だった。私は“苦悶”し、この分離作業から手を引く事にした。どう動いても“両者を傷付ける”からであった。
そして、それから数ヵ月後、T先生から再び電話があった。「裁判所に行くから来て欲しい」と。先生は、最後の手段として司法に訴えられたのだった。私は車を持たない先生を“裁判所”へ送った。先生の顔は痩せて目は落ち窪み“隈”が出来ていた。私はそれを正視出来なかった。続く


ベンチャー企業(その二)

N社は、当時私が勤める会社の近くにあった。私はM君と親しかった私の部下のK君に教えて貰い、そのN社に何度も足を運んだ。M君の専門は機械加工、当時最先端のNC(Numerical Control)工作機械を駆使して、複雑な三次元加工をこなす、第一級の技能者だった。
然しN社には、大きな問題があった。資金繰りである。T先生が発注される仕事は、技術的には最先端であっても“入金”は充てにならない。何故なら開発途上の義足は、例えそれが最先端でも、簡単には売れないからである。然もそれは厚生労働省認可の国家資格を持つ“義肢装具師”(=患者の足に合せて義足の型を取る業者)を通じないと、殆ど売れないのである。其処にはガッチリと“医薬”ならぬ“医足”カルテルが結成されていて、外国製(特にドイツ製)が幅を利かせていた。T先生は我が身を投げ打ち、何度も上京してその“壁”に挑まれた。然しその壁は事の外厚く、開く扉の隙間は極めて狭かった。
私は部下のK君の理解も得て側面支援をした。即ち我が社からも、出来るだけN社に仕事を廻したのである。その仕事とは“プラテンとフレーム押さえ”の製作であった。この部品は、半導体の組み立ての一工程である、ワイヤーボンド(ICチップとリードフレームを金又はアルミ線で接続する工程)に不可欠な治具で、パッケージの多様化に伴って、継続的に発注が成され、中小企業にとっては所謂“美味しい”仕事だった。だからその部品の受注獲得には、数多くの地場中小企業が暗躍し、所謂“黒い噂”も絶えなかった。何時だったかは、某社をスピンアウトした男が、自前で別会社を作り、その仕事を“横取り”したとの事で、私にその社長から何度も、会社だけでなく私の自宅までも電話が掛かって来た。私の部下に発注を“止めさせて欲しい”との内容であった。私は驚いて、その部下に教えて貰って、その別会社を見に行った。其処は、空港近くの所謂農家の“納屋”の片隅に、工作機械を2~3台並べただけの工場で、スピンアウトしたその男が部下と2人で、しこしこと其の部品を削っていた。彼は私の来訪に驚くと共に、涙乍に懇願した。「自分には妻子も居ます。お願いですから仕事を止めないで下さい」と!
然しこの(私が“そんな仕事”を同社に優先的に廻した)事を、当時N社のスポンサーだった某商社専務は非常に喜ばれた。私はT先生やM君と共に、専務に何度か食事に招かれ、互いに壮大な“夢”を語り合った。然し“夢”と“そんな仕事”だけでは、N社を支えきれなかった。M君が私に資金提供を求めたのである。私は散々迷った挙句、名目的株主の資格で100万円の支援を承諾した。その後私は、N社の“株主”の一人として、仕事だけではなく株主総会にも出席して“経営”にも口を出した。然し私の“カンフル注射”程度では、結局は“焼け石に水”だった。それから数年後、M君は“白旗”を掲げ、T先生の仕事を断って来た。
私は義足研究所の次なる支援者を探さねばならなかった。その頃、私の許に足繁く訪れる一人の男があった。T君である。続く


ベンチャー企業(その一)

あれはもう20年程前の、私が熊本に転任して間もない頃の事だった。大学時代の恩師T先生から一通の手紙を貰った。“義足研究所”を設立するので“出資”して欲しいと。
T先生は、私の在学時代は機械工作学の助手で、その当時は義足ではなく“義手”の研究をされていた。然し如何にも難しい研究テーマと同様、先生の風貌は眼光鋭く“恐くて近寄り難い印象”だったので、私は殆ど接した記憶が無い。その上私の卒業研究は水力学で、その面でも関わりが薄かった。先生との接点と言えば、図学の講義を受けた事位である。図学は円錐と平面の交差面等を、コンパスと定規だけで描く学問で、私はどちらかと言えば苦手だった。
T先生はその十数年後、熊本市内の私立大学に移られて、当時は助教授として教鞭を執られていた。然し先生は、大人しく“象牙の塔”に篭るタイプの人ではなかった。嘗ての“義手”こそ、その複雑怪奇さの為、研究開発を断念したとの事だったが、其の儘で収まる先生ではない。新たなる情熱を“義足”に転じ、長年掛かってやっと実用化の目処が立った時期だったのだ。其処で嘗ての教え子に出資を呼びかけて“ベンチャー企業”の設立を企てられたのだ。私は喜んで出資した。確か50万円だったと思う。私の他にも多くの“教え子”が出資して呉れたお陰で、その“義足研究所”はその後間も無く“船出”する事が出来た。然し義足研究所といっても、独立した事務所や専用の設備は無く、先生の研究室と、大学の実習室に同居したような、ささやかな船出だった。
T先生の義足には大きな特徴がある。他の義足では一般的な、モータ等の外部動力を一切使用しない点である。(その点では、現在脚光を浴びている所謂“ロボットスーツ”の対極に位置する製品かもしれない)その為に障害者の自力、即ち歩行の力だけで、膝から足のつま先まで動かす事が出来た。それ可能にする為に、各部は“極限までの軽量化”が図られていて、軽いランニングすら可能な“素晴らしい義足”だった。T先生はその材料やメカニズムを、某シューズメーカの協力を得て、長年かけて完成されたのだった。私は当時その義足を初めて見たが、ジュラルミン製の“知恵の輪”の様な部品から出来て居て、一体どうやって作るのか見当も付かなかった。そしてこの義足は当時、新聞やTVでも大きく報道された。義足研究所の開所記念パーティーには、数多くの出資者が参集し、当時既に起きていたイランイラク戦争や、カンボジア紛争等で、地雷の為に足をなくした人々の為にもなると、互いの“夢”を語り合ったものだった。
然し、先生の本来業務は大学での講義であって、義足の研究開発や設計製図位は大学内で出来ても、試作試験や市場評価及び、受注製作の段階までは、大学内ではとても無理である。其処で先生は再び“教え子”に呼びかけ“製作者”を募られた。それに応じた企業は何社かあったが、先生が選ばれたのは、同じく私の出身大学の後輩M君が工場長を勤めるN社だった。続く


事務局長(エピローグ)

私は、今年9月の役員会で事務局長退任の意向を正式に表明し、異論もあったが最終的には認められた。会長はしきりに慰留されたが、他の役員は私の気持を慮ってか、敢えて慰留されなかった。然し残念ながら後任は決まらなかった。それは私が「事務局長を谷口家にお返ししたい」と発言した事も関係していたと思う。後任は会長の娘さんが適任だと思ったからである。何故なら当会は、会長が始められ、今も実質的にはその殆どを取り仕切っておられる業務なら、家族である娘さんが事務局長を務める事が、名実共に一致した形になるからである。然し世の中はそんな単純なものではないらしい。事実はそうであったとしても、やはり外見上は形を整え、見栄えを良くしなければならない。結果として事務局長は当面置かず、娘さんは事務局員となった。そして私は10月の総会で、出席者に自らの辞任を告げた。大きな肩の荷が下りた。然しハプニングも起きた。例の別の会の副会長Sさんが、突然立ち上がって発言されたからである。「巳三郎先生が、徳永さんに“事務局長を辞めないように言って下さい”と云われました」と。私はちょっとびっくりし、思わずたじろいだが、発言を撤回する積りはなかった。
然し、私には聊か心残りもある。それは何等、事務局長としての功績がないからである。そして私は煩悶する。何故実績を上げられなかったのかと?信念を持っていなかった。説得力がなかった。一貫性がなかった。柔軟性がなかった。努力が足りなかった。周知を結集出来なかった。等々、多分その全部が当たっていると思う。
だけど「俺って所詮その程度の人間なのだろう!だってこれまでの人生を見てみれば分かるだろう」と思えば自分で自分に腹も立たない。そして最後に別の自分が自分を慰める。「然し俺って幸せ者だよなー!他の誰もが中々経験出来ない、壮大な地上のドラマの舞台に暫く立ち、脇役ではあっても演技をしたのだから!」終わり


事務局長(その八)

私が過去5回訪タイしたことは既に述べた。然し初回の訪問からは既に13年が経過する一方、3回目と4回目の間には、8年間ものブランクがある。そのブランクの間、私はリストラに見舞われ、3社を転々とした挙句早期退職した。然しその8年の間にタイは様変わりしていた。私はそれを一昨年と今年の2回の訪問で、はっきりと認識する事が出来た。例えば道路をとっても、以前は土煙の上がる未舗装道路が大半だったのに、今や日本に見紛う程の立派な舗装道路ばかりである。当然その上を走る車も変わった。以前は自転車や2~3人乗りのバイクの大洪水だったのが、四輪主体になっている。家も変わった。大通りには数々の企業の巨大な看板が林立し、従来の木とトタン屋根の家は姿を消し、どんどん近代建築が増えている。そして人々の服装も、食事も、何もかも豊かになって、以前徘徊していた子供の乞食を、殆ど見かけない様になった。その何よりの証拠に、当地に第二の人生を求める日本人が急増している事が挙げられる。今回も谷口農場の近くに住まうY氏が、自分の車で彼方此方を案内して下さった。今や当地に住む日本人は3万人を越えるとの事である。この位の数になると、彼方此方に日本人のコミュニティが出来、日本語で困らない生活が出来るそうだ。さすれば、気候も良く、物価も安く、治安も比較的良い当地タイには、今後益々日本人滞在者が増えるであろう。
これ等の事と、谷口農場の役割とは密接な関わりがある。以前はタイ人を救済するのが、巳三郎先生の主題だった。然し、先生は20年以上も現地に暮らし、誰よりもこの間のタイの経済発展に気付かれた筈である。一昨年の訪タイ時、先生は私に“ミャンマー”への熱い想いを語られた。先生がミャンマーへ傾倒されるのには訳が有る。巳三郎先生はタイへ渡られた24年前、出来ればバングラデッシュへ行きたかったそうだ。然し、彼の国の余りの貧さに絶望を感じ、それ程ではなかったタイを選ばれた。然し今やタイは貧困を脱し、中進国の道をひた走っている。それを目にしたら、バングラデッシュ同様に、圧倒的に貧しいミャンマーへ先生の気持が傾くのは当然であろう。然しこの国は未だ軍政で、行き来も儘成らない。そんな中で、先生にミャンマー政府から熱心な誘いが来て、是非タイの谷口農場と同じようなものを作りたいというのだそうだ。然し是が又、タイで軋轢を生む原因となっている。嘗て私は来日した副農場長から、巳三郎先生のミャンマーへの傾倒を心配する訴えを聞いた。然し今年は違っていた。副農場長も自国の発展を肌で感じ、先生をタイにのみ引き止める事の難しさを理解したのだろう。巳三郎先生の言葉は何時も激烈である。「自分を求めている人が居る限り、私は其処に行く。そして其処で死ねれば本望である」と。
私は一昨年と今年の訪タイで、時代の大いなる変化を感じると共に、ボランテイアは何の為にするのかと云う原点を見つめる事が出来た。それは即ち“落差”であろう。自分の依って立つ位置と、目の前に展開する光景との落差が大きければ大きい程、普通の人間は衝撃を受け「助けたい!何とかしなければ!」という感情が自然に沸き起こる。逆にそれが小さければ感動はなく、冷めた心境になる。
私は今年の訪タイで、高地族のY君の家に招待を受け、その家と車の立派さに驚き、逆なる衝撃を受け、冷めた心境に陥った。そして副農場長の故郷カンチャナブリでは、彼女とホテルのロビーで長話をしてしまった。然し、その話題は支援金を増やして欲しいという要請ではなく、もう奨学金も今迄程必要ないとの事だった。そして逆に「小泉首相の靖国神社参拝を心配している。日本はこのままで大丈夫か?」という言葉を貰ったのだ。
又私は今年、丁度谷口農場に来ていた、メ・ジョ大のスタッフ数名から矢継ぎ早の質問を受けた。「先生は、農場の方針や経理を全く開示せず、一体何を求めて行動されているのか分かりません。教えて下さい。」と。形式的には谷口農場の評議員である彼等ですら、先生の行動の意味、将来像が見えず、不安を感じているのだ。彼達から見れば、事務局長たる私はそれを熟知して然るべき筈であろうが、私は上手く答えられなかった。勿論「先生は貴方の国タイからはもう感動が得られず、心はミャンマーに傾いています」等とはとても言えなかった。又その場に居た先生の娘さんも、一言も発言しなかった。然し私はその時はっきりと自覚した。ここらが事務局長を退く潮時だろうと!続く


事務局長(その七)

当会の事務局長は一般的なそのイメージとは違い、資金管理(経理事務)は一切しなくても良い。会長自らが、全て取り仕切られるからである。然し、収入に関してはその増加を図る責務を有する。前事務局長は既に述べた如く、旧郵政省の郵便貯金受入れの道を開かれた。私も3代目事務局長として、新たな資金源を開拓する必要があり、私は二つ考えた。一つは企業・団体資金である。巳三郎先生は以前毎日新聞の「国際交流賞」を受賞された経緯もあり、会長はその後も毎年来る案内を受けて繰り返し応募された。然し、同一賞を重ねて受賞する事は非常に難しい。私は四方手を尽くして色んな資金源を当たった。トヨタ環境財団がその一つである。昨年度5本柱の一つ「果樹の森」をテーマに応募したが脆くも落選した。次にイオン環境財団に目を付けた。此方は一度受賞実績があったが、連続で無ければ複数回受賞も可能となっていたからである。調べると他にも幾つもの支援団体が有り、私はその都度申込み書類をプリントして会長に渡した。
然し、企業・団体資金は獲得競争が厳しく、中々受賞する事は難しい。又詳細な会計報告を要求される点でも、当会にとって必ずしも相応しくない。其処で私が目を付けたのが、近くの某大寺院傘下のボランテイア会である。此処の一人は当会の役員でも有り、これまでにも色んな形でご支援頂いている。そこで数年前、会長ご夫妻を伴い、態々住職に面会を頼み、直々にお願いした処、100万円ものご支援を頂いた。然し条件が付いた。此処の寺院は檀家は持たず、世界一の梵鐘が有る事、大相撲の横綱が九州場所前に立ち寄る事、ダライラマ招請等でも有名だが、日常は毎日訪れる人々への内観(悩み事相談)が主たる業務である。従ってそれらの人々の篤志の使い道に対しては、やはりきちんとした報告が必要との事だった。然し、タイから来た事業報告書には多くの不備があり、私は其の儘では提出出来ず、全ての数字をエクセルで再計算し、食い違う箇所はタイの先生に再度書き直して貰い、提出し直した程である。その次の年には、会長は報告書のお詫びもそこそこに、200万円の支援をお願いされた。然しそれは未だに実現せず現在に至っている。
そうなると“金は出すが口は出さない”ところを探さねばならない。次にライオンズ・ロータリークラブ等に目を付けた。当玉名市の中央ロータリークラブは、以前から当会にご理解が深く、何名かの会員が過去タイの谷口農場を訪問されたし、何度か資金援助もして頂いている。私は此処の例会に毎年呼んで頂き、先ず訪タイの報告をして御芳志を頂いた。そして封も切らずに会長に渡した。然し、それで会長が満足された訳ではない。一時は私自らが“倫理法人会”の会員となり、毎週の朝の例会に出席した事も有った。然し社長でもない自分が、毎月安くもない会費を払って沢山(20~30冊)の書籍を受け取っても、その使い道も無く、支援金目当ての参加では、他の会員にも悪いと思って、1年足らずで退会した。然し、これしきの事で私は挫ける訳には行かなかった。続く


事務局長(その六)

私は3代目事務局長。先代の事務局長は何れも事業家だけに、私と違って会長べったりに成らずに「別の会」の総会等にも顔を出し、そつ無く上手にお付合いをされていた。処が私は“世間知らず”のサラリーマンで、おまけに“玉虫色”が大嫌いと来ている。一方的に会長の味方になって、例の口論をしたばかりに「別の会」に嫌われ、以降10年以上全く音信不通だった。そして2~3年前にその会のM会長が亡くなった時、良い機会だと思って弔問に伺い、新会長とも挨拶を交わしたが、残念ながら疎遠な関係は以降も改善出来なかった。
尤も、この事で普段の会活動には何等支障は起きなかったが、昨年度は非常に困った事が起きた。谷口農場からは、これまでも幾多のスタッフが「熊本県の海外研修生受入れ制度」を利用して来日した。然しその全ての受入れ団体は、農業者を多く会員に持つ「別の会」であった。処が、会長が先方の会長と話を付け、昨年度の受入れ先は初めて、我が「タイとの交流の会」となった。これには理由があり、巳三郎先生が、当会の理事の一人であるN氏を見込み、彼氏を研修責任者に指名した事に拠る。そんな事で私は、昨年度N氏と二人三脚で農業研修生のお世話をする事になった。そして派遣されるスタッフは、例のメ・ジョ大卒のE君であった。処がE君は、これまで来た研修生と違い、日本語が余り話せない。然し県の研修生には、一定程度の日本語会話能力が要求されるので、彼氏は一昨年、態々日本語の勉強の為に数ヶ月間来日し、熊本市の悪名高いK学園で学んでいた。そのお膳立てをしたのが、別の会の副会長を務める女性Sさんである。彼女は、大口支援者のK女医に上手く取り入って多額の資金を捻出してそれを実現した。そしてその効果が有ってか、E君は目出度く昨年度の県の研修生に加われたのである(県担当者による国際電話でのインタビュー形式の試験だった模様)。
そして私は事務局長として初めて昨年夏、N氏と県庁で開催された研修生受入れの会議に出席した。海外研修生の受入れ先は全部で10箇所位、自治体や病院・企業が殆どで、任意団体は当会のみだった。書類を一杯書かされた。世話役の担当者からは、慣れない私達を気遣って、何かとアドバイスをして頂いた。そして昨年秋、E君が二度目の来日をしたのである。私はN氏が作成した研修計画を、その後も県当局の要求で何度も手直しした。それに則りE君は半年間、我が“ファームステーション庄屋”も含めて農業体験研修をしたのである。そして今春、目出度く研修終了式が挙行され、私も出席した。研修生は、各々研修の成果を日本語で発表した。他の研修生は、中南米の日系人や中国・韓国の医師、教師が多く、皆日本語がとても上手だった。E君もそれを知っていたのだろう。彼氏は思い切りアルコールを煽って演台に立った。私は固唾を飲んで見守った。彼の挨拶は出だしは良かったが、私が恐れたように次第におかしくなり、終盤はめちゃくちゃな日本語になって、何を言っているのか殆ど分からなくなってしまった。他の研修生との歴然たる実力差は、如何ともし難かった。そしてその場の来賓席に座っていたのは、何とあのSさんであった。私は、態々前年度日本語研修のみの目的で来日させ、大金を投じて勉強させたのは何だったのかと、Sさんに言いたかった。
そしてE君が帰国した後の後始末は、さらに困難を極めた。県に対しては詳細な会計報告をしなければならない。然し担当のN氏の会計処理は遅れに遅れた。その原因の一つは、Sさんが県外研修を名目に、E君を連れて静岡・東京・栃木と研修(観光)旅行をして、経費の大半を使い果たしたからでもある。私は県とN氏、そして会長の板挟みとなって苦悶した。そして出した結論は、各研修受け入れ先に泣いて貰い(研修費を削り)帳尻を合わせる事だった。そしてN氏と手分けして各研修先にお詫びに伺った。
然し、会長はこのやり方が大変ご不満のご様子だった。事務局長でありながら、N氏やSさんを指導出来なかったからである。私はその頃からはっきりと自分に限界を感じ、事務局長辞任を覚悟するようになった。続く


事務局長(その五)

タイの谷口農場には、チェンマイのメ・ジョ大学卒のスタッフが多い。私の何番目かの里子、T君も同大卒の一人だった。彼は学生会長を務める程優秀な男で、私の奨学金で同大を卒業後、更にバンコクのカセサート大大学院に進んだ。彼の家は貧しかったので、私は其処の学資の支援もした。彼氏はそれに大変恩義を感じ、私の3度目の訪タイ(1995年・家内も同行)時には、態々バンコク空港までお礼の挨拶に来た程である(今もその写真が我家の居間に飾ってある)。そして、彼は目出度く大学院を卒業し、次に日本留学を希望した。谷口先生からの依頼で、私は九州の大学で受入れて呉れそうな大学を探し、農学部がある鹿児島大と佐賀大に狙いをつけた。鹿児島大は巳三郎先生の出身校であり、氏が帰国の時直接当たられる事になり、私は佐賀大を担当した。伝は私の恩師で元同大学長のK先生だった。私は、今や悠々自適の生活を送られているK先生のお宅に伺い、自車に乗せて大学に向った。そして門を入ると、守衛が飛んで来て最敬礼をした。フリーパスだった。
そして、農学部長に面会をさせて頂き、彼氏の手紙と書類を見せて留学をお願いした。処が意外な返事だった。受入れ枠が狭い中、非常に多くの申し込みが来ていて、実現は何年後になるか分からないとの事である。私は学部長に無理を言い、そのリストを見せてもらった。其処にはずらりと10人以上の留学希望者が並んでいた。その殆どが東南アジア諸国で、内上位の半数近くがバングラディシュの学生だった。そして同国の学生は皆、先生に連綿と手紙を寄越し、その熱心さにおいて他国を寄せ付けないとの事だった。又、T君が望んでいたアルバイトをしながらの留学では、研究及び学位取得との両立は殆ど不可能で、奨学金取得が不可欠との事だった。
私は辛かったが、その事をメールでT君に正直に伝えた。暫くして彼氏から返事が来た。本人が直接お願いに来日すると。そして数ヵ月後彼氏は本当に来日した。福岡空港に出迎えた時、私は驚いた。友人で元谷口農場スタッフのS君(以前下名の長女に気が有った男性)も一緒だったからである。S君の来日目的は、支援者のF氏に会うことだった。私は、今度はT君とS君を同行して、再び佐賀大学を訪問したが、回答はやはり前回と同じだった。私は、気を落としたかに見えた彼氏を慰める為に、その後吉野ヶ里遺跡に案内したのを覚えている。T君はその後、谷口先生の紹介状を持って、鹿児島大学をも訪問している。然しやはり、留学は実現しなかった。
そして、T君は来日の序にノートパソコンを買いたいと申し出た。私は二人を連れて、久留米や熊本のパソコンショップを見て歩いたが、T君は幾らも持っていないらしく、欲しい機種には何れも手が届かなかった。私は落胆するT君を慰める手段がなく、自身のノートPC(新品同様のDell製)を貸与すると言った。私はその前年の長期出張時、そのPCを持参したが、当時は使っていなかったから。T君は非常に驚き、そして喜んだ。それはそうだろう。そのPCには既に一通りのソフトも入れてあったからである。これを見て、今度はS君もPCが欲しいと言い出したので、私は熊本のリサイクルショップを案内し、自身の予算に合う機種を選定して貰った。
その2年後、私は4度目の訪タイをして、チェンマイのホテルでT君と再会した。彼氏は、私の好意に何度も何度も礼を言い、態々同市内を案内してくれた。そしてそのPCはグレートだと言った。
私は思う。発展途上国への支援はとても難しい。単なる甘やかしにならず、限られた資金を有効に活用するには、相手をとことん理解し、相手の事情に則した支援をしなければならない。その点では私は、T君を信頼しているので、貸与したPCを返却してもらう積りはない。続く


事務局長(その四)

私が事務局長に就任後1年位経った2年程前の或る朝、私が何時もの習慣でパソコンのメールを開くと、東京在住のKさんからメールが来ていた。その内容は「自分も何か当会を支援したい」との事だった。私はその後Kさんと何度もメールで意見交換をした。そして出した結論は「法人化」と「東京支部」の復活だった。東京支部は10年程前までは、F氏が主宰されて活発に活動していたが、氏のご病気が基で現在は休止状態となっている。
一方当会には現在、静岡支部と栃木支部があって、各支部に支部長さんが居られ、各々活発に独自の支援活動をされている。今年の訪タイでは丁度栃木支部長のY氏と現地で一緒になり、色んな情報交換をした。因みにY支部長の甥御さんは、昨年カンボジア女性と結婚された。(現地における祝賀会の時は、村中の人々が集まって道路を占拠して夜を徹して祝って呉れたとか!)又静岡支部長のご子息は、過年タイ人の看護師の女性と結婚された。
こんな状態を見るに付け、私はKさんに東京支部を復活して頂き、色んな事をお願いしたかった。(官公庁や民間企業本社が集中する東京に支部があると、ボランテイア業務には何かと好都合)そしてKさんがある日、態々自腹を切って東京から来てくれた。彼氏は奥さんと幼い子供が2人居たが、30歳前後と若く、とても優秀な方で、私は会っただけで嬉しくなった。その日は拙宅に泊まって頂き、彼氏が持参した分かり易いカラー資料を基に、法人化についてのメリットや仕組みにつき綿密に打ち合わせ、翌朝満を持して会長のお宅を訪問した。そして二人して半日係がかりで、懸命に会長を説得した。然し会長の意思は想像以上に固く、法人化はきっぱりと拒否された。この時点で東京支部復活も、藻屑と消えた。
私達は大きな失望感を味わい、その日の午後菊池スカイラインを通って阿蘇へドライブした。そして大観峰から阿蘇五岳を眺めながら、彼氏は東京に残してきた子供に電話して、その夜戻るからとしきりに語り掛けていた。私はその後姿を見ながら、彼氏に申し訳ないという気持と共に、こんな又とないチャンスをみすみす逃す会長に、最早付いて行けないという気持が、夕焼けに染まって流れる雲のように沸き起こるのを禁じられなかった。そして私は語る言葉もないまま、その足でKさんを熊本空港まで送り届けた。あの時以来、Kさんからは何の連絡もない。続く


事務局長(その三)

話は遡る。今から10年近く前の丁度二代目事務局長への交代時期、初代N事務局長のオフィスに、幼子を連れた一人の若い女性Sさんが、支援者として現われた。私はSさんと直ぐ親しくなった。彼女は当会の会員には珍しく、パソコン操作に長けた方だった。私は早速彼女に持ち掛けた。「タイとの交流の会」のホームページを作ろうと!そして二人だけで勝手に意気投合し、私が企画を、彼女が制作を担当する事に決め、役員会に諮った。然し大半が中高年者の役員会で、当時その“意味と効果”を理解出来る人は少なく、殆ど意見も出ないまま承認された。だが一役員に過ぎなかった私は、流石にその為の予算を申請する勇気も、会長を説得する自信もなかった。其処で自分なりのWeb構成を作り、彼女が無料サイトを見つけて出来たのが、今の「タイとの交流の会」サイトの原型である。
然し、開設直後大きな問題が起きた。彼女が自身の家庭的事情で身を隠す必要になった為、連絡が出来なくなった事である(勿論パスワードも不明)。従って、その後このサイトは長期間棚晒しとなり、陳腐化してしまった。そして彼女と電話とメールでのみで連絡が出来るようになったのは、それから数年後の事であった。その頃になると、ぼちぼちとWebサイトを見て、支援を申し出る人が増えてきた。私はその都度、メールをプリントアウトして会長にFAXするか、直接持参して意見を聞き、又回答をした。そして当の谷口御夫妻も、遅まきながらその“意味と効果”に気付かれ、巳三郎氏が帰国された時など、直接意見を聞き、少しずつ改定作業を実施して現在に至っている。最近はこのサイトを手がかりに、タイの谷口農場を訪問する人も多くなったし、昨年から今年に掛けては、レポーターからの問い掛けが複数回あり、谷口巳三郎氏をテーマに、放送番組や書籍制作を目論む人すら現われた。私は、谷口先生を題材にしたNHKの「プロジェクトX」が放映される日を一人夢見てきたが、果たせないまま当番組は終了してしまった。
そして今年、私は抜本的にWeb刷新を目論んで、息子にその作業を依頼した。息子は快く協力して呉れたが、いかんせんこのサイトは既に休止されていて、更新も不可能になっていた。そこで私はやむなく、自身のサイトのブログに「タイとの交流の会」をぶら下げ、新しいページを書き込むしかなかった。
一方タイ側の事情は更に絶望的である。農場にはパソコンはおろか、固定電話回線もなく、唯一の連絡手段は、巳三郎先生個人の携帯電話である。従って、複雑な内容の通信は、手紙を遣り取りするしかない。それには何と一週間も掛かるのだ。又、タイ側の事務局(副農場長宅で農場外)にはパソコンも有るが、普段は回線を繋いでない為に、態々電話してその都度繋いで貰わねば、メールも送れない。この問題点については、別の役員から何度も指摘されたが、未だ改善出来ていない。だから、谷口農場に行きたい人は、大抵どうやって連絡するかを私にメールで問い合わせる。私は巳三郎先生に直接電話して下さいと応えるが、殆どの人は驚く。
私は思う。今の時代に、手紙や電話で不特定多数の人々と遣り取りするには、膨大な時間と費用が掛かる。従ってこんな仕事こそ事務局長が主体になり、新しいやり方に改めなければならない時期がもうとっくに来ているのだ。然し会長ご夫妻は、自分達の手の届かない形(電子データ等)で、勝手に情報の遣り取りが進む事を、何故か嫌われる。私は情けない哉、その先生を説得出来ないまま、徒に無為な月日を過ごしてしまった。続く


事務局長(その二)

当会は以下に述べる活動の5本柱を立て、タイの谷口巳三郎氏をキーマンとして活動を展開してきた。
1. 谷口農場支援
当会のメインとなる事業で、パヤオ県にある20haにも及ぶ広大な谷口21世紀農場の運営経費
2. ミシンプロゼクト
女性にミシンを貸与し、縫製技術を授けて、生きる希望を与えるプロゼクト(後に5と合体)
3. 奨学金里親制度
貧しい子供に学校教育を授ける事で、貧困からの脱出を助ける制度(タイに事務局あり)
4. 果樹の森
主に高地少数民族に、焼畑からの転換手段として、果樹苗木を与えて収入の道を開く事業
5. エイズの人々に光を
エイズ患者に食事や医療援助、生き物(小家畜、鶏、魚等)飼育を通じ、希望を持たせる事業
私はこの各々のプロゼクトに付いて、語り尽くせない程、幾多の想い出がある。
1. 谷口農場支援:初回の訪タイの時、その施設の粗末さに驚いた。トイレには紙もなく、横にある手桶で水を汲み、手でお尻を洗う方式だった。勿論シャワー室兼用である。処が殆どスイッチは壊れ、電気は付かず、ドアを閉めると中は真っ暗。翌年の訪タイ時、電気工具一式とスイッチ類を持参し、片端から修理した。故障の原因はタイ製品の劣悪な品質と、200Vの高電圧によるとの事。お陰でタイでは感電死も珍しくないとか!現在は順次、洋式トイレに変わりつつある。
2. ミシンプロゼクト:会長のお住まいは2DKの茶室兼用。直ぐ横の納屋と借用した隣家の倉庫には天井まで物が溢れていた。その殆どが中古の足踏みミシンと膨大な古着の山。ある時、某運送会社のご好意で大型トラック一台分、ミシンをタイに送る事になり、積み込みの手伝いに行った。私は隣家の納屋を担当したが、屋根が壊れ、うず高く積まれたミシンの大半は、錆びて使い物にならなかった。私はそれらを会長の強い反対を押し切って、その場で叩き壊した。古着は幾らでも集まる(捨てるのに困る人が勝手に持ち込むから)らしく、足踏みミシンの隙間に詰めて送った。
3. 奨学金里親制度
数百名の里親とそれ以上の里子の管理は、タイ側のKさん(タイ人女性)と、会長自らが台帳管理。然し複雑な相互関係を、時系列で整理するにはパソコンが不可欠。10年程前に某女性里親(当時玉名市在住:その後神戸大助手)の大変なご協力で、Access管理に変えようと目論み、数ヶ月を費やして完成。勇んで会長に持ち込んだが、猫に小判。全く使用されなかった。そして現在も表紙が擦り切れたノート管理。そして年度末になると、毎年未払いの里親に、振込み依頼の電話。内幾人かからは、支払い済と怒られる。
4. 果樹の森
焼畑禁止対策として作られた比較的新しいプロゼクト。一口20万円と、纏まった金額が必要な為、中々お金が集まらない。一時値下げしたが、却って資金不足がひどくなり、再び値上げした。熱帯サバンナ気候の当地での植樹事業は、日本より遥かに手が掛かる。然し最大の問題点は、現地管理。日本人の支援者は、自分のお金が何処でどんな森になったか知りたい。処がタイ人はこのような日本人の心理を殆ど理解できない。プロゼクトの始まった頃、民宿の為訪問した高地民族部落の村長を、会長が大声で叱責されたのを思い出す。私は今年3度目にして、やっと孫の名を付けた森を見付けた。然しそれは、適当に立て札を立てたとも思える状況だった。彼等には「管理」という言葉が、存在しないのかも知れない。
5. エイズの人々に光を
最新のプロゼクト。会長からこのプロゼクトの追加を打診された時、私は反対した。理由は、底なし沼に嵌ると思ったからである。開始当初は豚や、鶏、魚の飼育、それにエイズセンター設立と、新鮮な野菜、酪農製品の支給等々、巳三郎氏の面目躍如たる事業だった。然し私の予想に反し、意外に成功した。理由は日本の大口支援者(某女医)の出現と、タイ政府が追っ掛けて、力を入れて医療対策を行ったからである。現在は、医療面はタイ政府の支援に任せ、当会では主に、ゴムの木の植樹に力を注いでいる。天然ゴムは、自動車の普及に伴って、世界的に需要が伸びつつあり、然も植樹後5年程度で、液の採取が可能となる。続く


事務局長(その一)

私がボランテイア活動に関わった経緯に付いては、別ブログ「タイと茶道」で既に述べた。月日の経つのは早いもので「タイとの交流の会(谷口プロゼクト)」(谷口恭子会長)に入会後もう14年もの歳月が流れたことになる。その間には実に様々な事があったし、私はこの会の活動を通じて、何者にも代え難い大切な事を幾つも学んだ。ボランテイア組織というものは、企業組織と大きく異なる点が幾つかある。その第一に任意団体である事が挙げられる。従って往々にして組織内で、活動方針や手法をめぐって意見が対立し易い。私が当会に加入した当時も既にそれが起きていた。即ち農業者を主体とする「北部タイ支援の会」との衝突である。私が加入した会はどちらかと言えば、会員にはサラリーマンや退職者、それに女性が多かった。そして支援先を谷口巳三郎氏が運営しておられる「谷口21世紀農場」に特定していたが、別の会は「北部タイ」としていた。
今思えば、私が入会した当時は活動の黎明期だった。ある日会長宅で、「北部タイ支援の会」の正副会長、谷口会長と私の4名で、延々と“支援組織のあるべき姿”について論争した。然し結局決着が付かず、二つの会はその後現在に至るまで、独立して活動する事になった。そしてこの事がその後、様々な困難を惹起させる大きな原因になるとは、当時は思いも寄らなかった。然し当時一番困ったのは一般会員である。中には両方の会に加入している方も居られた。当然会費も二重に払わなければならない。然し結果として私の属する会が、その後大きく発展した。それには色んな要素があろうが、何よりも谷口恭子会長(巳三郎氏夫人)が素晴らしい方だった事が挙げられる。
当時の事務局長は、私より少し早く入会したN氏であった。N氏はご夫婦で不動産業を営み、熊本市内に事務所を構えられていた。従って役員会はいつもその事務所で行われ、私はN氏夫妻と親しい間柄になった。然し問題があった。それはN氏が毎年の訪タイツアーに、仕事を理由に一度も参加されなかった事である。その間私は3度も訪タイした。そして私は何時の間にか、会長から“事務局長以上の信頼”を受け、各種の仕事を頼まれるようになった。然しその大半は書類のワープロ化とコピーで、その部数も数百枚と多かった。(会長宅にはその当時、パソコンやコピー機はおろかFAXもなかった)私は当時民間企業の一サラリーマン。定時後、誰も居なくなった事務所で、人目を盗んでこっそりとコピー機を操作した。誰かに見付かりはしないかと聊か罪の意識にも駆られた。会長は恐らくコピー代も節約されたかったのだろう。コピー代が必要な事務局長に頼まずに私に頼まれた。3度の訪タイ後は、会長の意向で紀行集も編纂した。これも会社で人目を盗み、パソコンとコピー機を操作して行った。私は当時、こんな行為も崇高なボランテイアの為には許される筈だと、自分で自分に言い聞かせていたが、その後次第に疑問に思うようになった。それは会長が何度か、企業批判をされたからである。会長によれば、大企業は悪であった。然し、それなら私が会社でコピーする事は背信行為となる。私はその頃から、自分の行為に対して罪の意識を持つようになり、自前でコピー機とレーザープリンタを買い、自宅で仕事するようになった。その後事務局長がN氏からI氏に交代した。N氏の事務局長辞退理由には、事務経費が回収出来ない事もあったと想像する。この当時、順当なら私が2代目事務局長になってもおかしくなかったが、私は現役のサラリーマン、自営業のI氏を推薦して自分は裏方で協力する道を選んだ。I氏もN氏と同じ不動産業で、会の業務は実質的に奥さんがされていたようだ。会長へコピー代を請求されていたかどうかは分からないが、この頃になると次第に私に対する会長からのコピー依頼は減少した。又I氏はN氏とは違って、毎年の訪タイツアーにも参加された。そしてこの時期に、会の活動は最盛期を迎えて大発展した。その一つはN氏が、郵政省のボランテイア貯金の支援を受ける道を開かれ、会の収入が急増したからでもある。然し、それも長くは続かなかった。郵政省は、特に詳細な活動報告を求めたからである。それに対して、当会は対応出来る体制が整っていなかった。というより会長の方針で、事務費は最低限に抑えられていた。従って、郵政省からの各種要求と会の実体との板挟みでI氏は苦しまれ、数年後には事務局長を辞退したいと申された。丁度その頃、私は早期退職して自由の身となっていたので、棚ぼた式に3代目事務局長に就任した。3年前の事である。続く