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学校その一

私は生来虚弱児童で、自家中毒を度々併発していた為に、小学生時代は、欠席が多かった。それが劇的に改善したのは、何と小学6年の3学期に、叔母の家に寄留して、玉名中学に入学した頃であった。勿論れっきとした違反行為なるも、許されたのは、何らかの裏工作が、あったのかもしれない。


春その七

春と云えばウキウキするようなイメージもあるが、そうとも言えない。何故なれば花粉が舞い始めるからである。私は子供の頃、喘息がひどくて、横になると気道が狭まり、呼吸が苦しくなるので、上半身を起こした侭、休まざるを得なかった。呼吸というものは、無意識に行なうものだが、それを意識的に行うには、どんなに苦しいものであるか、当事者でなければ絶対に分からない。

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盛夏その四

私は戦後世代なので、戦争体験は無いが、今も記憶に新しいのは、小学校である。何と私の上の学年は、たったの15名程、それなのに私の学年は、3倍の45名にも達して居た。これこそが、戦争の影響と云うしかないだろう。この極端な現象は、次第になだらかになったが、世代を超えて、我が国の人口構成に影響を与えた。


父その十八

私は母からそれこそ、耳にタコが出来る程、左翼運動の弊害を聞かされた。ああそれなのにそれなのに、我家の血が成せる業なのだろうか?我が従弟が、例の浅間山荘事件に連座して、逮捕されたのである。従弟は首謀者ではなかったけれども、一度その道に関わったら、それこそ死ぬまでマークされる。私も静岡時代に従弟と云うだけで、刑事に尾行されていたので、気色が悪くなり、引っ越しをした。


父その十四

父は52歳の短命に尽きたが、今冷静に振り返れば、戦前・戦中・戦後の、日本が最も苦しんだ時期に、己も身を粉にして、懸命に生きて来た人生であり、今生きていれば「お疲れ様でした、ゆっくりお休み下さい」と言いたい。一人息子の私は、父の人生を20年近くも超える、70歳を迎えたが、未だにぼちぼちと農業をする毎日を送っている。これは、無意識の内で選択をした「父へのアンチテーゼ」だったのかも知れない。


父その十一

叔父に宣戦布告をしたのは、我が母であった。当時は叔父の自宅は、我家の北東側の高台に立地していて、外部に出入りするには、我家の右馬七亭前を、通らねばならない。其処を母は通行禁止にしたのである。叔父一家は仕方なく、今は電柱橋と呼ぶ、人一人が出入り出来る、土橋を建設して対抗した。他方叔父一家も負けてはいない。我家の南東に位置する叔父所有の畑に、自宅を移築するので、我家を通せと云う。母は通させないと、こうなったら双方共に後へは一歩も引かない。其処で柿添氏が仲裁に出て、隣の柏村家の横を通すことで、何とか決着したのであった。それにしても、意地と意地とのぶつかり合いは、度が過ぎると言われても、おかしくない激しさだった。


父その十

父が他界して間もなく、我が母と叔父との確執が始まった。今考察すれば、かなり以前から、その兆候は在ったと思われるが、権力の空白を埋めるべく、その戦いは我が母が亡くなる迄、延々と続いたのだった。要するに田畑山林の相続権争いである。戸主が死亡したら、その財産は誰かが相続せねばならない。処が我が父は、それらの手続きを怠り、ほったらかしにしていた。其処で叔父は祖母と相談して、こっそりと自分名義に替えていたのである。母の言い分は、家族全員が辛抱に辛抱をしてお金を貯めて、東大迄行かせたのに、財産の半分を寄越せとは、欲張り過ぎとの主張である。これは私も母と同感だと思った。


父その九

父の弟は4人兄弟姉妹の末っ子で、父とは年齢も離れていたので、まるで親子みたいな関係だった。当時は玉名高校の社会科の教師をしていて、私が勉強して分からない処があると「叔父さんに教えて貰いなさい」と言われた。今では、何をどう教わったのか記憶にないが、東大卒なので、どんな質問にも、経ち処に教えて貰えると思ったが、その記憶は皆無である。何時かは我家が停電したので、父が「叔父さんを呼びなさい」と言われたが、簡単なヒューズの交換に、長時間を要した。以降私は見様見真似で、電気を学び、子供乍らに、簡単な電気配線工事なれば、自分でも出来るようになった。


父その八

処が昭和31年7月16日に、父が急逝したのである。私の人生に於いて、この日から以降は、良いことよりも悪いことが多い、長くて辛い日々が、続くことに成ったのである。その第一が、相続登記の問題であった。日本の法律では、家屋及び田畑・山林等を含む財産は、所有者が亡くなった場合は、確か40日以内に、誰かに相続及び、登記をせねばならない。処が父はそれを怠っていた為に、不動産の多くが未処理の儘で、財産(土地)の相続争いが、勃発したのであった。


父その七

父は上から、男-女-女-男の、4人兄弟姉妹の長男だった。明治生まれの世代は、長男が家督相続権を有し、絶対権力を駆使するのが一般的であった。その理由は、子沢山の時代に、土地の権利を子供達に分割すれば、細切れの土地が増えるばかりで、作業効率が低下して、収量増加も見込めなくなるからであった。


父その五

私のお気に入りは、何と言ってもSLである。帰途には必ず旧高瀬駅のSLを見たいと、父におねだりをした。今では健忘症の私も、操車場で機関車が、貨車の入れ替えをする複雑な作業を、それこそ食い入る様な眼差しで、何時までも見詰めていた。当時の貨車には、無蓋車・有蓋車を問わず、貨物形態に応じた、カタカナの文字が、白ペンキで描いてあり、私はその当時、全ての記号を暗記していた。今ではそんな光景も無くなったが、後年私が機械工学の道に進む切欠になったのは、玉名駅でのあの感動だったとしか思い様がない。


父その四

あの当時の父の友人は、玉名民報社長、岡村畳店主、平山耳鼻咽喉科医、等々だった様に記憶している。何れも旧高瀬町の有力者で、談論風発、酒を酌み交わしての、政治談義は尽きることがなかった。他方子供の私は退屈だったので、通称五つ角から歩いて、平山さんと紙芝居を見に行った。当時のこのことを、友人から冷やかされた記憶があるけれども、小学低学年の私が、好きだ嫌いだと、恋愛感情を抱くには、幾ら何でも早過ぎるとしか、言いようがない。


父その三

我が父は、私と正反対の文科系の人間で、晩年は此処玉名市の地域新聞「玉名民報」に随筆を投稿するのが最大の楽しみで、それは他界する直前まで続いていた。然し、当時の父は50代なるも、下顎癌を患い体調が優れなかった為、随筆の締め切りが迫れども、中々執筆が完成せず、新聞社の係員が、早朝から我家に来て待機していたのを、朧げに記憶している。


発言その六

今の時代は、高齢化、核家族、子供無し、一人暮らし等々、戦後とは対象的な、家庭環境が多くなっている。我家も今や、夫婦のみの家庭。たった半世紀の間に、日本社会は劇的な変貌を遂げた。そしてこのことは、今後の社会全体に、悪い意味での変革(=国力の低下)を齎すに違いない。それにしても敗戦後、高度成長を達成して、先進国の仲間入りを果たした我が国が、僅か一世代で、落ち目になろうとは、夢想だにしなかった。その端的な事象が、中国に依る、強引な東シナ海、南シナ海での、海洋権益の主張である。


義母その九

義母は細やかな目配り・気配り・心配りが出来る人でもあった。それを如実に証明するのが、墓地の建立である。私を含めて凡人は、自分があの世に行ってからの事柄までは、考えが及ばないのが普通である。処が義母は、墓地建立について、私に幾度も相談された。然し納骨堂の建立は一筋縄では難しく、止む無く大金を叩いて「蓮華院誕生寺」の墓地を購入されたのである。あの機敏な決断力と、未来を見通す先見性は、私とて到底及ばない。我家の墓地は草茫々なるも、義父母の墓は南に面した斜面に立ち、雑草一本もなく、日差しを受けて今も燦々と輝いている。


義母その八

家人に車の運転を禁止された義母に残されたものは、最早TVのみとなった。それ以降、義母は南向きの和室で座椅子に腰掛け「ハイデンハイデン」と、何やら意味不明な言葉をブツブツ呟き乍ら、一日中TVを見る毎日となり果てた。あの聡明で、私には殊の外優しく「龍さん龍さん」と可愛がって呉れた義母の、焦点が定まらない顔を見ていると、私は辛くて辛くて、慰めの言葉を掛けようもなく、目を背けて涙するしかなかった。


義母その七

義母との最後のドライブは、鹿児島の指宿か霧島だったように記憶している。私が先導して、義母が後ろから付いて二台で、当時噴火していた新燃岳周辺を散策した記憶が、おぼろげに残っている。それ以降も義母は運転を望んでいたが、腰が曲って、前方視界が狭くなったので、免許を取り上げてしまった。晩年の生きざまを如何にするかは、義母に限らず、私自身を含めた、万人の課題とも言えよう。


義母その六

晩年の義母は、人生の全てを使い果たしたように萎んでしまった。私はその最大の要因は、運転免許の剝奪ではないかと思う。何故ならば、義母の最大の楽しみは、車の運転だったからである。我家に来る時にも、座高が低いので、シートの上に座布団を数枚重ねていたと思う。腰が曲がってきたこともあって、前方視界が狭くなり、事故になれば大変だと心配して、運転を禁止したのが結果的に裏目に出てしまい、痴呆を一層進行させた。晩年の生きざまを如何に成すかは、万人の課題であり、真剣に考えるべきである。


義母その五

静岡焼津の家で、我が子が生まれた前後は、当然手が掛かるので、我が実母と義母が交代で来て、家事や子守り、留守番をして呉れた。丁度その頃、私は主任に昇格して仕事が非常に忙しく、義母も実母も、観光案内にも連れて行けなかった事を後悔している。当時は、家内も運転免許を持っておらず、私はてんてこ舞いの毎日であった。唯一行ったのが、久能山のイチゴ刈りと、清水港に近い三保の松原であった。或る日、義母が「今日も仕事に行くとね?」と、呟いていたのを、昨日のように思い出す!今更乍らごめんなさい😢


義母その四

義母は兎に角、腰が軽い。今の自衛隊もそうらしいが、家内が要請すれば、立ちどころに、何処までも駆け付けて呉れる。何時ぞやは、熊本の我家に数日間居残っていた我が子の一人を、新幹線静岡駅迄、態々連れて来て呉れて、改札口越しに家内に引き渡し、次の下りの新幹線に乗って、熊本迄とんぼ返りをするような人であった。斯様な軽業的行動力は、我が母とは将に対照的であった。又何時ぞやは、米国ロスに住む家内の姉宅に行く序に(長女は既に小学生だったので)次女を態々れて行ってくれた(次女本人は恐らく記憶にないだろう)。


義母その一

義母が92歳で他界した。棺に収まった綺麗なデスマスクを見て、私は人目も憚らず、ボロボロと涙を流した。私が取り乱してしまったのは、昭和59年に逝去した、我が実母の葬儀以来の事である。父は昭和31年、私が小学4年の時に他界したので、おぼろげな記憶しか残っていない。当時は自宅葬であり、父が元村長だったことから、多数の弔問客が詰めかけて、花輪も座敷一杯に並ぶ程の、盛大な葬儀だった。後に伺えば、ニコニコしていた私を見て、涙を誘われた弔問客も多かったらしい。
それにしても義母は、我が実母とは全く対照的な人であった。実母は自転車にも乗れなかったが、義母は薬局を経営し、車を自在に乗り回して、化粧品販売をも、こなしていたからである。今時のキャリアウーマンの元祖である。私のサラリーマン時代は、熊本から静岡まで、義母と交代で車を運転して走ったこともあった。勿論当時は高速道路も無かった時代である。我が子3人は、家内と義母に育てられたと言って良い。


大往生

福岡市に住む叔母が、9月6日107歳で大往生した。私は何れ来るだろうと思っていた訃報を聞き、早速家内共々博多姪浜の会場まで馳せ参じたのである。処が市内ビルの一室で行われた葬儀は極めて簡素で、参列者も親族が殆どで、村中の人々が集まった様な、昭和31年の父の“大葬儀” と比べれば、正に隔世の感があった。それにしても、喪主の従兄弟夫婦は、何れも元大学教師の為か、世間常識とは全く乖離した 所謂“天動説的対応”で、お伽は兎も角としても、喪主挨拶はおろか、我等親族紹介までをも割愛され、遠路態々駈け付けた身としては、聊か気が抜けた様な、全く後味の悪い葬儀であった。
亡くなった叔母は、父の直ぐ下の妹で、4人兄弟姉妹の中では、最も長寿だった。52歳の若さで他界した父の、実に2倍以上の人生を全うしたことになる。連れ合いの叔父は、玉名市横島地区の出身で、我が父と懇意であったことから、妹との結婚を薦めたものと思われる。その後、夫婦は8人もの子供に恵まれ、福岡市で果物店を経営し、その後韓国ソウルまで進出して、何れも成功しているのは、私としても見習うべき点である。特に下から二番目の娘彰子は、私と近い年齢だが、何と子息3名全員が東大に進学した。
それにしても、私が亡き叔母から連想するのは、何と言っても玉名温泉である。嘗て“立願寺温泉”と呼んでいたが、昭和30年代、最も有名な温泉旅館は玉栄館(現司ロイヤルホテル)で、当時既に温泉プールもあった。父の葬儀後、生まれて初めて叔母と一緒に天然温泉に浸かり、体を洗って貰った。今も鮮明に覚えているのは「前(陰部)は自分で洗いなさい!」と云われたことである。一方叔父は、当時から大変なドンファンで、お気に入りの茶請けは、何と“味噌”であった。それは兎も角としても、玉名温泉の“仲居さん”を堂々と我家にまで連れ込み、自分の妻(=叔母)と一緒に撮った写真が今もアルバムに残っている。所謂二号さんと、奥さんとのスリーショットなんて、今の常識ではとても考えられないような時代であった。
そんな時代の、昭和31年7月16日(盆の翌日)、我が一族の絶対権力者であった父が突然他界した。そしてその後、不幸にして遺産相続騒動が持ち上がった。それは父の弟妹の内、妹2人は財産(=土地)の相続放棄を承諾したが、弟だけが放棄しなかったので、以降弟(=叔父)一家との相続争いが勃発し、私は母から、家族同然であった従妹弟一家との交際をも引き裂かれ、以降30年以上にも及ぶ“暗黒時代”が続いたのであった。
私は思う。今や日本は世界有数の長寿国になり、平均寿命は更に延びる勢いがある。これは個人的には良いことに違いないが、国全体としては、年金給付と負担とのアンバランスが顕著で、困ったことになっている。さりとて寿命ばかりは自ら決められる事ではないので、医療保険や介護保険のお世話にならず、健康で生きることこそが、国家に対する最大の貢献策だと思う。そのキーワードが農的生活なのだ。それにしても雨続きの今夏も漸く終焉し、秋の季節が訪れた。今が丁度秋冬野菜の種まき時期、さあさあブログを書く暇がある位なら、畑の草取りでもしなければと思っていた矢先に、同級生から飲み会のお誘いが来た。昔は喪中が長く、49日か100日が一般的な喪明けだった。未だ一週間にもならないが、107歳もの長い人生を生きたのだから、きっと早目の喪明けも、許して貰えるだろう。終わり
追伸:奇しくも叔母の他界から一週間も経ない9月10日に、我が初の内孫が誕生したとの報を聞き、家内は早速上京!亡き叔母の“生まれ代わり” とも言え、幸多かれと願うばかりである。


遺跡めぐり

数年前のことだろう。週末になると毎週の様に遊びに来る孫娘が、あっという間に自転車に乗れるようになった。それどころか、息子が昔乗っていた一輪車にも乗れるようになったのだ。尤も、自転車と比べて一輪車は格段に難しく、運動神経の良い孫娘も苦戦したが、私が小学校に連れて行き、鉄棒を使って練習させたら、忽ちマスターした。但し当初は足を付くことが多かったので、毎夕私が手を取り、田圃の周囲を一度も足を付かずに走れるように訓練した。孫の実家は車が多くて危険だが、石貫は差ほどでもないので、上手くなるに従い面白くなり、其処ら中を我物顔で走り回っている。然し次第に物足りなくなったのか、遠くまでサイクリングをしたいと言い出した。そこで私は県道を通らずに、富尾から玉名地域医療センター前の橋を渡り、玉名大神宮へ至るルートを開拓した。
嘗て公民館長をしていた時代、大俵祭りになると、時代絵巻を彷彿とさせる装束を纏い、玉名大神宮を出立した“玉依姫”を先頭に、玉名駅前から菊池川河川敷まで、時代行列が練り歩いた。当時は私も役員の一人だったので、紋付袴の装束で、静々と歩いたものだった。そんな古代の故郷とも言える玉名大神宮に参り、直ぐ横の古墳に登り、燦燦と降り注ぐ太陽の下で、孫と並んで芝生に寝そべって空を見上げた時、私は何とも言えない幸せを感じた。
そんな孫娘も、家内とは“ややこしい関係”にある。毎日の様に10kmも離れた自宅まで孫を迎えに行き、塾への送り迎えをしても「有難う」の一言が出ないらしい。それどころか、車の後部座席に座って膨れっ面をしているとか?私が迎えに行くと、ちゃんと助手席に座るのに、家内が運転だと後部座席に座るとは、あからさまな差別である。私はこの違いを自分なりに分析した。要は目線の違いである。孫でも、上から目線で躾けようとすると、逆に反発する。処が子供の目線まで下がり、童心に返って行動すれば、互いが楽しいし仲良くなれる。その状態で躾をすれば、孫も納得するに違いない。
そんな昨今、孫の小学校で運動会があり、一族揃って見学に行った。プログラムの中に、“爺婆と孫”が出場する競技が組み込まれている。それは卓球ラケットの上に玉を載せて、落さないように走る(落したら孫が拾う)競技である。私は昨年失敗したので、今年は慎重に走り、無事ゴールインした。
それにしても残念なのは、私が一番の楽しみにしていた、あの一輪車競技がプログラムから消えたことである。数年前までは、沢山の児童が手を繋いで一輪車に乗り、一列になって前進したり後退したりサークルを作ったりの、サーカス如き曲芸が披露されていた。然し“一輪車に乗れない児童の親”は恐らく面白くなかっただろう。戦後から連綿と続いた日本の教育方針は、マジョリティ即ち“中間層”を主な対象にしており、一握りのトップエリートを育てる環境には、全くなっていない。だからオリンピックのメダル競争でも、ノーベル賞争いでも、今一つ振るわないのである。ひとしきりニュースを賑わせた、STAP細胞の発見も、異論が出てすっかり色褪せてしまった。
私は思う。人は誰しも得意不得意がある。不得手を克服する努力をさせるより、得意分野を思い切って伸ばし、一芸に秀でた日本人を育てることが今後の我が国に最も求められることだろう。終わり


東京家族

今年は例年にない寒冬で、天候もぐずつき気味なので、先日はとうとう農作業を諦めて、山田洋二監督の“東京家族”を見に行った。この映画は、1953年制作の小津安二郎監督、笠智衆主演“東京物語”の謂わばリメイク版で、都会の日常生活の何気ない場面を描いているが、とても良い作品に仕上がっていた。
その粗筋は、瀬戸内に暮らす老夫婦(周吉・とみこ)が、子供達の住む東京へ出掛ける。処が迎えに行った次男は東京駅で待ち、品川で降りた両親と行き違う。両親はやむなくタクシーを拾い、開業医を営む長男宅に向かう。長女はいい加減な次男に呆れ、長男の妻(夏川結衣)は、両親の歓迎支度に忙しい。そして両親が到着、成長した孫達に驚く。そんな中に漸く次男が戻り、狭い部屋に家族全員が揃い久方振りの夕食を囲む。
2日目、長男は両親を、お台場や横浜に案内する予定だったが、急患が入りキャンセル。仕方なく両親は、長女の家に泊まりに行くが、長女は美容院の仕事が忙しく相手出来ないので、長女の夫が代りに駅前温泉へと連れ出す。
3日目、次男は長女に頼まれて両親を“はとバス”に乗せるが、自分は疲れて居眠りしている。そこで長女は、皆でお金を出し合い、両親を横浜のホテルに送り出すが、場慣れしていない老夫婦は何しようもなく、退屈な一夜を過ごす。
4日目、両親は2泊の予定を切り上げて、長女宅に帰って来る。そんな両親に長女は、商店街の飲み会があるので、その夜は構えないと言う。父は仕方なく同郷の友人、沼田(小林稔侍)宅へ、母は次男のアパートへ行く。久しぶりの母親の手料理を美味しそうに食べる次男。その時、母に紹介しようと呼んだ、恋人の間宮紀子(蒼井優)が現れる。次男はボランティアで行った、福島の被災地で、ひと目惚れしてプロポーズしたことを母に打ち明ける。一方父は、沼田に宿泊を断られた上に泥酔、周囲に大迷惑をかける。長男の家でようやく落ち着いたところに、母が上機嫌で帰ってくるが、突然倒れる。以下略
田舎と都会、際立って違うのが家の広さである。例え親と言えども東京に宿泊込みで招待するのは、簡単ではないことが良く分かる。この映画は低いアングルから、関東間の狭さを上手く表現している(注.関東間は京間や九州間の大凡85%)。私はこの映画を見ながら、遠い昔の情景が蘇り、我家の歴史と引き比べて見ている自分に気が付いた。
何処の家族も似たり寄ったりだと思うが、子供が成長する過程で、誰が家督を継ぐべきかの分岐点が必ず来る。特に農家は(農地が細切れになるので)一人(通常は長男)が跡を継ぎ、他の兄弟姉妹は、家を出るのが一般的である。勿論我家もその例に漏れず、長男の父以外の弟や姉妹は、熊本市や福岡、大阪、東京に出て行った。これは父方(4人)・母方(8人)を問わず、共通している。
だから私は若い時分、上京する機会が度々あったので、週末などに掛かれば、都内の数ある親戚に電話をして、会いたい旨を伝えた。然し「近くに来たからちょっと寄らせて頂けないか?」と電話しても、暖かく迎えて呉れる親戚は少なく、何時かは母方の従兄から「来ないで呉れ!」と単刀直入に断られた。この人は有名飲料企業の役員にまで上り詰めた人で、写真を見れば、さながら銀幕スター並の美男だが、人は見掛けに依らないもの。
一方、暖かい親戚もある。私が最も好きな親戚は、父の二人の妹の嫁ぎ先、東京と博多の叔母である。前者は一昔前に他界したが、私が若かりし頃には、世田谷の2Kの借家にも拘らず、喜んで泊めて頂いたし、叔母亡き後は従妹から、横浜、ロンドン、そして博多と、幾度も招待を受けた。一方後者は105歳の今も施設で存命。然し先日お見舞いに行った際は、流石に痴呆気味で、会話は難しくなっていたので、その娘さん(従姉)が、懐かしい昔話をして下さった。
私は思う。「神が田舎を造り、ヒトが都会を造った」と言われる様に、その暮らし方は、同じ日本でも月とスッポン程に異なる。人間が造った都会が魅力的なのは当然であろう。他方、神が造ったとされる田舎で、私は現在“ヒトと動物のせめぎ合いの最前線”に居る。
今年Yさんから借りた10年近くにも及ぶ耕作放棄田は、草茫茫の上に、トラクタの掛け過ぎで、ひどい凸凹状態。山側は猪銀座になっている。然し一番の問題は、畦が殆ど無いことだ。畔無しでは水は溜らず米は作れないので、ここ数日私はスコップ一本で畦作り。立派な畦が出来上がった。そんな場に地主のYさん(お婆ちゃん)が来て仰った。「お宅の田圃で、誰かが何かしよんなはるよ!行ってみたら」と言われたとか?(私に貸したことを忘れたようである!)終わり


大逆事件

大逆事件(1910年)は、明治天皇暗殺を企てたとの理由で、数百名もの社会主義者や無政府主義者が摘発され、内12人が処刑された。県関係では、熊本評論社の新美卯一郎と(私の祖父徳永右馬七の従兄弟に当たる)松尾卯一太が死刑となった。“卯一太”は、新聞「熊本評論」を創刊し、活発な言論活動を展開したことで、事件への関与を疑われたが、紛れもなく冤罪(えんざい)であり、謂わば国家犯罪とも言える。
然し私が知る限りに於いて、我家で大逆事件が話題になった記憶は皆無で、父も母も祖母も叔父も、私には只の一言も話さなかった。(父は左翼・叔父は右翼なので、話せば対立!)私が松尾卯一太に興味を持ったのは昨年暮、我が中学の恩師、森先生の計らいで、高瀬夜噺の話題に大逆事件が取り上げられ、熊本大学の先生を招聘され、講演をして頂いてからである。私もその場に出席し、吾が父“徳永維一郎”の随筆(大逆事件小学同盟休校→維一郎のブログ参照)を披露させて頂いた。
そんなことから、私は還暦も過ぎたこの歳になって初めて“松尾卯一太の墓”の在処を知った。それは意外にも、我家と孫が住む大浜地区の間の、菊池川左岸に位置する玉名市豊水の、通称“川島”と呼ばれる地区にあった。以降私は、孫の送り迎えの途中、毎回のように卯一太の墓地を訪れて手を合せ、草花を手向けるようになった。当然孫も一緒にお参りするので、歴史教育や情操教育にも好都合である。
そんな折の6月30日、和歌山県新宮市から、大逆事件の犠牲者の名誉回復を目指す市民団体23名が来訪され、卯一太(1879~1911)の墓前に花を手向けられた。勿論私達夫婦と孫も、来訪予定に合せて現地に赴いた。処が、その日は生憎の土砂降り!然し何かの偶然か、墓参団の到着時刻に合わせるかの様に雨がピタリと止み、線香も濡らさずにお参りして頂けた。同会事務局の濱野小夜子さんは「今回は熊本市や山鹿市の犠牲者の墓参もしたが、当時は墓を建てるのも難しかった筈。卯一太の墓も北向きに建ててあり、世間の目に配慮したことが分かる」と話された。一方、森先生の話では、列車で戻って来た卯一太の遺体をリアカーで受取に行った祖父は“世間を慮り”直近の高瀬駅ではなく、態々2駅手前の長洲駅で“密かに受取った”とか?
和歌山からの団体は、当初の予定では、墓参後直ちに帰省される予定であったが、私が無理を言い、天水町の“草枕温泉”で昼食会を催すことになった。その往途、マイクロバスの車内の出来事である。未だ3歳半の孫息子が大ブレイク!恰も立て板に水の如く、流暢な口ぶりで熊本評論ならぬ、我家の“内幕評論”をやらかしたのである。これには乗客一同ヤンヤの大喝采!この“お喋り孫”のお蔭で、車内は恰も名バスガイドに導かれた如く、和やかな雰囲気と化し、あっと言う間の移動となった。
私は思う。吾が孫息子は、紛れもなく“卯一太の血”を受け継いでいる。然らば、将来成人した暁には爽やかな弁舌を生かし、出来れば政治の道に進み、先祖の苦難を思い遣り、二度と悲劇が起きない世の中にして欲しい。終わり


オモニ

もう半年も前の2月中旬ことであった。私は知合いの蓮華院のKさんから、姜尚中氏の講演会があると聞き、氏には興味があったので、軽い気持ちで出掛けた。処が思いがけなく、寺院に繫がる農免道路が大渋滞している。然もその車の多くは、福岡や北九州の県外ナンバーである。イライラした気持ちを抑え、やっと参道を登り切ったら、駐車場も満杯。幸い私は軽トラだったので、駐車中の車の隙間に、首尾良く滑り込ませる事が出来た。
然し会場に着いてマタマタびっくり。受付に並んだ人々の中で、ちょっとした騒動が起きている。何でも入場は“招待券”持参者に限定だとか!これでは私を含めて、招待券を持たずに来た人々は収まらない。「そうとは知らなかった!」「金(2千円)を払うのに何故入場させない?」「当日券を発売しろ!」イヤハヤ大変な騒ぎである。私は受付をしていたKさんに、招待者が入場完了後、空席があれば、我等招待券を持たない人も、入場させるようにお願いし、実際そのようになった。
そして会場に入ると、ほぼ満員の観客の大半は“中年女性”ではないか!私は後方の窓際の席に座ったが、女性群は中央の通路側の席を奪い合っている。そして氏が中央後ろから入場される時が、騒動のクライマックス!「ワーワー」「キャーキャー」言いながら、氏の手や背中からお尻に至るまで“お触りの手手手” まるで人気タレント並の大騒ぎである。
そして講演会は、前半が氏のお話、後半は蓮華院住職との対談だった。私は氏の話にも勿論興味はあったが、それよりも何故、氏はこんなに中年女性にモテモテなのかを考えていた。多分来訪者の多くが、氏の著書の読者だろう。熊本生れの氏は、私如き“胴長短足”とは違い足が長くてスタイル抜群である。その顔色浅黒く、精悍且つ独特の憂いを含んだ表情と、低音での魅力的な話し振りは、東大政治学部教授と言う最高のステータスと相まって、女性本能を擽るに違いない。
それにしても、氏と私には意外な共通点がある。それは所謂“マザコン”である。私は自分がマザコンであることを、新入社員当時に複数の女性社員から逸早く見破られ、事ある毎に冷やかされて以降、ある種のコンプレクスとなっていたが、氏があんなに女性にモテモテなのを見て、少し考えが変わった。何もマザコンの自分を隠す必要はないのだ。それに人間がマザコンなのは、ある種必然でもある。何故なら高等動物の殆んどは、母の胎内から発生した生物だからである。その遺伝子は父母の双方から受継いでいるとしても、肉体的には母の胎内で発生して10ヶ月近くもその子宮内で過ごし、産まれ出たのであるから、母が愛おしいのは必然である。
姜尚中氏はその著書「オモニ(母)」のプロローグの中で、以下のように述べている。『母、それはいつの時代にも、子供の心を虜にせずにはおかない。幼少の頃、子供以外の何者でもなかった全ての者にとって、母は絶対的な存在だった筈だ。例えそれが、激しい愛憎を伴っていたとしても。とりわけ息子たちにとって、母は「女」ではなく、あくまで母でなければならない。息子から「男」になり「女」と交わり、父親になってからも、息子たちは、母が女であったことを、認めようとはしない。それほど、母という言葉は、息子たちの心を“尋常ならざるもの”にしてしまうのだ。』以下続く。
私は、姜尚中氏のこの巻頭言を読み、余りのリアルさに衝撃を受けると共に、マザコンであった自分の過去に対する負い目が、スーッと潮が引くように消え去るのを感じた。あたかもそれを証明するかの如く、父親っ子の我が孫娘ですら、ちょっと悲しいことがあると「アイゴー・アイゴー」ならぬ「ママダイイ・ママダイイ」と大泣きする。こればかりは「ジジダイイ」は勿論のこと「パパダイイ」にも、絶対にならないのである。終わり


松尾卯一太

昭和20年代の後半、現在は公民館になっている場所に、高齢の松尾夫妻がひっそりと住んでいた。私は父に連れられて、ちょくちょく遊びに行った。そこは竹林に囲まれた和室二間のちっちゃな家で、手入れが行き届いた庭には、瀬戸物の蛙や沢山の盆栽が並んでいた。ツルツル頭のご主人は何時も私を抱き寄せ、煎茶を飲みながら父と談笑されていた。一方奥方のチヨさんは元芸者!白髪を丸髷に結い、和服をきりりと着こなし、床の間には三味線が置いてあった。
私の小学生時代、今は土建業者の敷地になっている坂を上った一角に“病人小屋”と呼ばれた松尾家があった。鬱蒼と茂る竹薮の中に佇む、幽霊屋敷みたいなその家は、戦前の結核隔離病棟で所謂洋館建て。当時も室内には幾つかのベッドが並んでいた。私がその家の子供と喧嘩をした時、大柄な母親が出て来て棒を振り上げて、大声で私を追い回した。たかが小学生の喧嘩如きに、親があれ程いきり立ったのは、今思えば松尾家が当時“差別”されていたからに違いない。
我が父は随筆の中で「自分の一門は恐ろしい(松尾の)罪の影を背負うて歩いている」と、幼き頃に感じたことを語っているが、両親は私には「松尾家は我家の親戚」とは一言たりとも言わなかったので、私は何らの負い目を感じることもなく、伸び伸びと成長した。(注)松尾一族は昭和30年前後、朝鮮(韓国)に去ったと考えられる。
今から遡ることジャスト100年前の1911年(明治44年)1月18日、日韓併合を成し遂げた日本が、富国強兵・軍国主義の道に突き進む最中、有名な“大逆事件”に連座した“幸徳秋水”他被告24人に対し、殆んど裁判も無きまま、死刑判決が下った。翌1月19日には12人が無期懲役に減刑されたが、1月24日11人、1月25日1人と、立て続けに死刑が執行された。
私の祖父“徳永右馬七”の従弟に当たる“松尾卯一太”も、その中の一人だった。と言うことは、幼い私を抱いたお爺さんは卯一太の弟で、私を追い回した大女の小母さんは、卯一太の息子嫁ではなかったろうか?道理であの当時、松尾家は“マッチ箱”とか“病人小屋”とか蔑まれるような家に、ひっそりと隠れ住んでいたのだ。
父は青年時代、左翼の闘士であったが、そのルーツは紛れも無く“松尾卯一太”であり、彼を恥どころか“誇り”に思っていたに違いない。だからこそ石貫小学校の朝礼で、時の校長が卯一太を大罪人だと言った時、父はボロボロと悔し涙を流している。(維一郎のブログ参照)
私も小学3年時の運動会で、PTA会長だった父が泥酔して醜態を晒し、上級生から嘲られた時には、堪らず運動場に駆け出し、ボロボロと悔し涙を流しながら、千鳥足の父を必死の思いで引き摺って家まで帰った。高岡酒店(現栄屋)の前で、父が長々と立ち小便をしたことや、担任の山本富士子先生が、心配して後ろから付いて来られた事など、今でも鮮明に覚えている。人間にとって、自分の親や先祖を蔑まれるのは、どんなことよりも辛く、レーゾンデートルを否定されるに等しい。
今日本は、米中の狭間で押し潰され掛かっている。次元やスケールは異なれど、私の身も今や似たような状況に在る。こんな時には、時代を遡って見るのも一つの方法かも知れない。私は昨年末、再放送された「坂の上の雲」を見ながら、同時期に起きた大逆事件に想いを馳せずには居れなかった。過去どんな時代にも、華やかな表舞台の裏には、言葉に尽くせない暗闇があっただろうし、だからこそ其処から新しい芽吹きも生じた。今の時代は、誰かに上手に乗り、スマートに事を成すような人を愛でる風潮があるが、松尾卯一太を引き合いに出すまでも無く、我家には昔から、そんな皮相的な生き方とは対極的な美学、言うならば“反逆の血”みたいなモノが、滔々と流れているように思えてならない。だから私は今年もカッコ悪く、愚直に働きたいと思う。それは私の負け惜しみと、とられても一向に構わない。
追伸1)この大逆事件に際して、検事として松尾卯一太に死刑を求刑したのは、現“たちあがれ日本”代表の平沼赳夫氏の養父である。私は同事件を論評する資格など勿論無いが、氏が「かすれ声」で話されるのをTVで見る度に、何故か我が先祖の“怨霊”を感じるのである。
追伸2)大逆事件後も、我が家系から父を初めとして何名もの左翼活動者が出たのは、松尾卯一太の存在を抜きにしては考えられない。終わり
年初からちょっと重たい話になりましたが、今年が皆さんにとって良い年になるよう願わずには居られません。松尾卯一太のブログ http://www.tt-p.tv/iichiro/2007/08/post_28.html


キャタピラー

先頃の第60回ベルリン国際映画祭で“寺島しのぶ”が最優秀主演女優賞を受賞した話題の映画“キャタピラー”が、終戦記念日に合わせて、全国一斉に封切られたので家内と見に行った。時は第二次大戦中の日本、シゲ子(寺島しのぶ)の夫・久蔵は召集を受けて大陸戦線へ出陣し、勇猛果敢に戦ったが、傷付いて帰国した時の顔は無残にも焼けただれ、四肢共に失っていた。そんな久蔵は、村の人々から奇異の目で見られつつも、多くの勲章を得て、新聞では“生ける軍神”として崇められる。一方シゲ子は食糧不足の戦時中、久蔵のあくなき“食欲と性欲”に困惑しつつも日夜それを埋めていく。然し次第に日本に敗戦の影が迫り、久蔵は自らが戦場で犯した蛮行(レイプ)が脳裏にフラッシュバックして苦しみ、終戦と共に自害する。そんなストーリーであった。
この映画は、上映時間の大半が食事とSEXの場面だったが、裏を返せばとてもシンプルで分かり易く、海外の映画祭で上映したとしても、吹き替えすら要らないだろう。私はこの映画を見つつ「人間は“食べる本能”と“種族保存の本能”を有する」と教わった、玉名中学での性教育や、子供の頃母が私に語って聞かせた戦時中の話を思い出していた。と言うのも私の母は、顔形から体型に至るまで、寺島しのぶにとても良く似ていたからである。母は明治43年の生まれで、高等女学校しか出てないが、幼い頃から子供の私に対しては、極めてオープンマインドだった。それは戦争の話から夫婦生活の機微に至るまで首尾一貫していた。多分四肢を失い軍神と崇められ、リアカーに乗せられて市中を引き回された、“この話”も聞いたような気がする。と言うのも戦時中、村長夫人であった母は、国防婦人会長として、出征軍人への激励や、その留守家族・遺族の援護をする立場にあったからだ。
そして、私が母を最も敬愛する理由は、幼い子供の私に添い寝をしつつ、徹底的に反戦教育を施したことだ。「一番嫌いな軍人は東条英機、好きな軍人は山本五十六」だと言っていた。そしてミッドウエー海戦の結果を正直に国民に伝えなかったこと、海軍は兎も角として、陸軍は何時も戦況をごまかし、負けても「勝った勝った」と嘘をついたことを痛烈に批判していた。その思想は、若い頃左翼の闘士であった父の影響もあろう。然しその父が私に及ぼした思想的影響は、母のそれには到底及ばない。
私は思う。我々団塊の世代は、日本が高度成長の真っ只中にあった昭和40年代に成人し、それがピークに達した50年代に子供を育てた。詰り自分達が生い立った時代とは、対極的な時代背景の下で子育てをしたのである。当然ながらその頃は、子供部屋から学習机まで一人一人に与えて当然の時代だった。そしてアメリカの影響もあって、子供との添い寝などは全く時代遅れとなっていた。その子供達が今30歳代になり、子育ての真最期に差し掛かっている。
私は還暦も過ぎた今頃になって、後悔することがとても多い。母が私に寝物語で聞かせたような話を、私は子供達に全くしていないからだ。現役時代は兎に角忙しく、そんな気も余裕もなかった。然しそれで良かったのだろうか?人間は子供の頃に頭に叩き込まれた事は一生忘れないものである。だから私達の世代も、後世の人々から恨まれないよう、最低限のことはせばならない。
私の自著「親父のつぶやき」は1000部刷られたが、400冊ほど売れ残り、とうとう9月に返品して貰うことになった。私はこの自著とブログを、子孫へのささやかなプレゼントとしたいと思っている。終わり


Quality of life

私の義父母は、80代の半ばを過ぎた今も存命中ながら、病気と痴呆が進行して、病院と老人介護施設を行ったり来たり。今や完全介護の状態にある。然し衣類の洗濯まで施設にお願いすれば、更に費用が嵩むので、家内はこまごまとした世話の為に、毎日欠かさず施設に通う。お陰で我家は二人暮らしなのに毎日“洗濯物の山また山”。私はこの年になって下着の畳み方が少しは上手くなった。
そんな今年の正月も、私は家内と恒例行事化している福岡行きを敢行した。ロンドンから福岡に帰省する従妹夫婦と連れ立って、老人介護施設に叔母(父の次妹)を見舞う為である。現在“唯一人”存命している私の叔母は今年103歳、その次男(従弟)からは「インフルエンザ対策で面会謝絶」と聞いていたが、若しやと思って施設を訪れたら、叔母が面会室に車椅子で現れ、かくしゃくとお喋りしながら、自分の手でペロッと“普通の昼食”を平らげた。これぞ正真正銘の“スーパーウーマン”である。
この私の叔母は早くして結婚し、8人の男女を儲けた。戦前は京城(現在のソウル)に渡り、大いに成功したが、太平洋戦争でその殆どを失い、戦後は博多に引き上げ、果物店を経営しつつ子供達を育てた。そればかりか、我が庄屋を長い間支えてくれた隣人の本田・松永両家の子女を、店員や女中として積極的に雇用して恩返しをした。そんな親の背中を見つつ育った8人の子供達は皆優秀で、大学教授から研究者、建築家と多士済々、末娘の子息三人は揃って東大に進学した。
こんな素晴らしい叔母が、103歳の今も元気なのには決定的な理由がある。それは現在も“頭脳労働”を欠かさないからだ。即ち“創作活動”である。以前は短歌を作っていたが、最近は俳句らしい。私は日常を題材とした散文(ブログ)なら何とか書けるが、介護施設での創作活動など、思いもよらない。それに俳句には“季語”が必要なのに、ベッドの上でどうして思い付くのか、想像も出来ない。
Quality of lifeとは“生活の質”即ち「どの位人間らしい生活か」を計る尺度である。然し“人間らしさ”などという尺度程、曖昧なものはない。それは一人一人の捉え方が違うからだ。私は叔母の人生こそが、至上のQuality of lifeだと思う。それは叔母が昨日発した言葉に凝縮されている。「此処の皆さんは、私をとても大事にして呉れるのよ!」と。それはそうだろう。こんな“スーパーお婆ちゃん”は日本広しと言えども、多くは居ないだろうし、施設にとっては“誇り”に出来るからだ。
今の時代、多くの人々は自尊心が高く「自分を大事にして欲しい!」と願っている。だけど「他人を大事にしたい!」と思っている人は、それ程多くない。だから両者を差し引くと、大半の人々は、大事にされたいのにされず、欲求不満が募るのだ。叔母は全くその逆である。100歳を超えた“超老婆”など“厄介者”だと思われてもおかしくないのに、自分の周りの全ての人々が"驚き・称え・労う”て呉れるからなのだ。
私は、その叔母の“長生きの秘訣”を昨日偶然に発見した。叔母が「私は若い頃、橋本二郎さんが好きだったの!」「然し接吻された(手が早かった)ので嫌いになった!」と“娘のような口調”で語ったからだ。橋本二郎氏は“初代玉名市長”で、学生時代には父の大親友だった。(両人がふざけた格好の写真が我家に残っている)然し左翼運動を経て、次第に両者(父と橋本氏)の溝は深まり、戦後は対立関係になった(詳細は“維一郎のブログ”参照)。若しその時、橋本氏が叔母に接吻をしなかったら、叔母は橋本氏と結婚したかも知れないし、その結果我家は政治の荒波に翻弄され、今とは大きく違った運命を辿っただろう。そして父は“反橋本派の旗頭”だった伯父の妹に当る我が母と、まさか結婚したとは思われない。そうなれば“私”と云う人間が今、この世には存在しないことになる。嗚呼!何という運命の悪戯か!私は思わず呻いた。終わり
追伸:「橋本二郎氏」の流れを汲む高碕哲哉氏が、昨秋玉名市長に返り咲いた。これも何かの縁かと思う。


Give and Take

ギブ&テイクという言葉がある。何故この言葉が英語で、対応する日本語がないのか不思議だが、西洋人の考え方を良く表す言葉かもしれない。その意味は、相手に利益を与え、自分も相手から相応の利益を得ることである。私は一人っ子なので“遣り取り、駆け引き、分かち合い”等の経験に乏しい。この欠点は、私が管理者になって俄かに表面化した。それは人事などで端的に現れる。管理者は一般的に問題のある人間を嫌い、問題のない人間を欲しがる。これは有能・無能とは異なる指標である。自部門を強化するには、部下の特質を良く見極め、他部門の管理者と上手く交渉して、問題がなく有能な人材を獲得せねばならない。これはプロ野球やサッカーJリーグの、スカウトの仕事と良く似ている。
話は遡るが、我家には昔からGive and Takeの習慣があったと見えて、父の死後母子家庭になっても、私が家を出て母が独り暮らしになっても、何人かの男が出入りしていた。それは何れも母のお気に入りの人だった。
その一・Yさんは米屋。我家の闇米を高く売り捌いてくれた。勿論当時の食料管理法違反である。又私が静岡から母に送った冷蔵庫等の家電品を、気軽に駅から自宅まで運んで呉れるような人だった。今も存命。
その二・Oさんは山男。我家の雑木林を皆伐し、幹の部分は手斧で薪割りをし、細枝の部分は焚付材として一絡げに括り、料理や風呂炊きの燃料を確保してくれた。物故者。
その三・Kさんは百姓。長らく農業委員長を務め、圃場整備がライフワークだった。土地関係に詳しく、父亡き後の相続問題を、上手く仲裁してくれた。一方女性関係もお盛んで、妾も居るのに母にモーションを掛けていた。物故者。
母は46歳で後家になったが、女性は亭主を亡くすと、多かれ少なかれ日常生活に不自由するものである。だからかも知れないが、それを埋めるべく何処からか男が現れるものである。そしてその関係がGive and Takeならば長続きする。母は私には一言も云わなかったが、この3人に何らかのGiveをしていたに違いない。私は聞いた覚えがある。「貴方の母上が、和服を着て手に何かを持ち、その家に行く姿を見た」と。それが例え自家菜園から採れた野菜であっても、手作りの饅頭であっても、40代の未亡人が態々手土産を持って来れば、どんな男でも悪い気はしないだろう。
そんな3人は、私にとっては恩人である。だから私は今もYさんから米糠を買い、精米をお願いする。Oさんの息子とは宮総代の同輩で色々と助言したし、Kさんの存命中は屡ご機嫌伺いに行った。これらの人々は、父の死と共にそそくさと離れて行った、多くの人々とは何かが違う。一見打算的に見え、誤解を招く事もあろうが、私は彼等3人をヒューマニストで、Give and Takeも解する人だと思う。
今政治の世界では、戦後連綿と続いた自民党政権が、断末魔を迎えたように大混乱している。人間の生涯が有限である様に、政治の世界も当然寿命がある筈だ。私は麻生首相に言いたい。この際潔く政権を野党にGiveし、自らは未亡人になって民主党から何かをTakeすれば良いではないか。私は最もTakeすべきは“若さ”ではないかと思う。終り


TVレス

あれはもう20年程前のことである。我家の子供達は当時、長女が高校生、次女が中学生、長男が小学高学年で、所謂受験時代の幕開きの頃だった。当時も私が会社から帰宅するのは、毎日夜の9時半頃で、遅い夕食を済ませて暫くの間、居間で寛ぐのが日課だった。然しその時刻になっても、子供達は毎日居間でテレビを見ていた。私は何度も長女に言った。「もう2階に行って勉強しなさい」と。私は子供を叱る場合、常に長女をターゲットにした。下の二人にはそれを見せれば十分と思ったからだ。私はそんな毎日を繰り返した後のある夜、遂に堪忍袋の緒が切れた。「そんなにTVばかり視るなら、今後我家からTVを無くす」と。それは私の“突然の決断”で、深く考えた訳ではなかったが、宣言したからには最早後には引けなくなった。私はその数日後、本当に居間からTVを撤去し、家内の実家に預けた。そしてあのNHKの受診契約も解除した。普通なら当時、家内や子供達から轟々たる反対が巻き起こっても不思議でないのに、私の決断が余りに唐突だったので、皆あっけに取られたのだろう。
それから長男が高校を卒業するまでの6~7年間、我家にはTVが無い時代が訪れた。従って、居間で寛ぐにしても、ラジオを聴くか、本や新聞を読むか、家族で談話をするかしかない。今や当時の記憶は薄らいでしまったが、この事は色んな意味で画期的だったと思っている。先ず、我家を訪れる人々が(TVレスに)驚いた。常識で考えれば、私達は毎日膨大な情報をTVから得ているように思われるが、実際はそうでもない。新聞を読み、ラジオを聴き、外出すれば、左程他人に遅れを取るほどの事にはならない。私はその数年間、社会人として特に恥をかいた事も無かったし、日常生活で不都合が起きた記憶も無い。一方子供達は学校で、友達とTV番組に付いての話が出来ず、困ったと言っていたが、それとて友情に差し障る程の問題だったとも思わない。一方得た事も幾つかあった。私には読書の習慣が復活したし、長女もそれに習い本を読むようになった。私の書斎に眠る蔵書の多くは、じつはこの数年間に読んだものである。資格も幾つか取得した。ゴルフの腕も少しは上がった。パソコンもマスターした。
そんな生活スタイルに終わりが来たのは、長男が高校を卒業した年である。それまでの数年間は特に長男には酷とも思えた。勉強嫌いの姉のお陰で、小学生から高校生に至る長期間、TVレス生活を強いられたからである。その影響か反作用か、長男は映像に興味を持ち、後にデザインの道へと進むことになった。今、東京在住の長男の部屋には、大型スクリーンが架かり、プロジェクタ投影で映画館さながらの映像を堪能出来る。
私は思う。自分達は居間で寛ぎながら、子供に「勉強しろ」と言うのは、親として聊か説得力に欠けると。勿論親子は立場が違うので、それ位の事は当たり前と言えなくも無いが、子供は理屈だけでは納得しない。その証拠に私の母は、私が高校を卒業するまでTVを買って呉れなかった。私はそのお陰で浪人もせず、大学に進学出来たのかもしれない。又、我が娘二人が浪人もせずに大学進学したのは、私の“英断”のお蔭だったのかも知れない。終わり


苛々

“イラ菅”という言葉が有名なので、民主党副党首の菅さんは余程気が短いのだろう。女性にとても人気があるのに意外な感じがする。私はこの“言葉”を聞くと、直ぐに何人かを連想する。先ず母である。私が物心付いた時分から、母は苛々がひどかった。その最大の原因は、父のアルコールであった。父は晩年「食事=アルコール」と化し、殆ど中毒に近かった。その為に、家ではしょっちゅうその事で口論が絶えなかった。アルコールが切れると父は「買って来い」という。母は「もう店は閉まっている」と答える。すると父はお手伝いの“お婆”に「行け」と命令する。お婆は仕方なく家を出て、買いに行く“振り”をする。その内に父は痺れを切らし、自ら出掛ける。そんな事が何度かあった。或る夜は、派手な夫婦喧嘩の後、私は母に連れられて“座敷”に布団を敷いて寝た。当時の我家は10室程あったので、座敷と寝室は相当離れていて、その夜はあたかも“家庭内別居”みたいな状態になった。
然し母の“苛々”は父の所為ではない事が分かる。それは父の死後も“相変わらず”だったからである。しかしその“対象”は父から“私”に代った。自分では「高血圧の所為だ」と言っていたが、私の試験や通知表の成績が悪いと、苛々が高じてヒステリックになる。私が“勉強をしないから”だと言うのだ。それなら勉強を教えて呉れるかといえば、それは(出来)無い。只私の横に座って、鉛筆を削るだけだ。然し母の鉛筆削りは第一級だった。当時“電動削り器”は無く、小刀でしていたが、10本位ズラリと並べたそれは見事な出来栄えだった。その内に横に座って“こっくりこっくり”が始まる。私はそれを見て“含み笑い”をしていた。その内に私も賢くなり“満点に近い”答案は持ち帰っても、悪い時にはそれをしなかった。ある時は学校前の橋から川に捨てた。然しそれがばれて、それこそ“火が出るように”叱られた。中学・高校時代は、全校でベストテン以内がノルマだった。“其れ”に入ると“ご褒美=大皿一杯のハイオの握り寿司”が出た。私は当時、握り寿司が大好物だったから。他にも、何でも変える事を極端に嫌った。超保守的だったのだ。例えば、勉強部屋をそれまでの“二畳敷き”から“二階”に移したり、植木を移植したり。私は母の監視から逃れたかった。そして漸く二階でそれが実現すると、勉強している振りをして、本を読んだり、転寝をしていた。
それから数年後、私が就職した職場には、日課の女性が居た。その女性も母同様に苛々がひどかった。当時は毎朝始業時刻になると、日課の女性が各人の机を拭き、大きなお茶碗一杯の熱いお茶と、綺麗に洗った灰皿を持って来る。その時、その女性の顔付を見ると、大体其れ(苛々か否か)が分かる。私は、苛々の時は成るだけ仕事を頼まないようにしていた。然しそんな時も、彼女は私以外の人に対しては、普通に振舞い、機嫌悪そうに見えない。それどころか、むしろこれ見よがしに、長話をしている。私はそれが気に障り、何時か注意しようと思いつつ、遂に出来なかった。
それから二十数年後、私はある上司の下で1年近く仕事をした。その上司も苛々がひどかった。毎週一回定例のミーティングがあり、その時はメンバーの各人が、一週間の業務報告をする。処が、私の番になった途端、その人の顔付きと口調が変わり、苛々が始まる。そして最後には“雷”が落ちて、その場は通夜と化す。
前の二人には共通項がある。何れも末っ子で父親に溺愛されて育った事だ。私の母は8人兄弟の末っ子なので、父だけでなく長兄からも溺愛されたらしい。日課の女性も父が好きで、母は嫌い(Father compulex)だと言っていた。最後の上司については、家庭の事は分からない。然し、シャイで女性的な面もあったので、ひょっとすると似た境遇で育ったのかも知れない。
私は恐れる。この“苛々”が家内に拡散する事を。然し、家内は4人兄弟姉妹の2番目、辛うじてセーフか!終わり


潔癖症

他人を評して「清潔感のある人」とか、逆に「不潔」とか言う事がある。然し私の母の場合は、その意味が異なっていた。「清潔」と言うより「潔癖」と言った方が良かった。そして母は、自分の性癖は父親(私の母方の祖父)譲りだと言っていた。祖父はその昔「汚い、汚い」が口癖で、あろう事かトイレの取手さえも汚がり、紙を介して掴んでいたとか。こうなると「異常」としか言い様がないし、私なら「自分のお尻はどうやって拭くのですか?」と、問い質す処だが、祖父も母も鬼籍に入ってもう居ない。
母も祖父程ではなかったとしても、相当程度の「潔癖症」だった。その証拠に、自分の子供である私の食べ残しすら「汚い」と言って、決して食べなかった。今考えると、これは普通ではない。普通の母親なら、子供の食べ残しを「汚い」等とは思わない筈だし、若しそんな考えだったら、ウンコの後始末をしたり、汚れたオムツを洗ったり出来ないだろう。増してや、当時は今の様に洗濯機という便利な物も無かった時代である。然しひょっとしたら、母は本当に“其れ”が出来なかったのかも知れない。我家には「艶子さん」という、お手伝いさんが居たからである。(ブログ:お婆参照)
普通考えると「潔癖症」は、家の中や屋敷をしょっちゅう片付けたり、掃除して、廊下など「ぴかぴか」になってもおかしくない筈だ。然し私の記憶によれば、我家は極く普通の家で、特別綺麗だったとも思えないし、母が拭き掃除をしていた姿も余り記憶にない。然し、若しそうだとしたら「潔癖症」と「清潔好き」は、かなり意味合いが異なることになる。
このことが最近私の脳裏に「蘇った」のには訳がある。私は先日知り合いのTさんから相談を受けたからである。彼は最近中国人女性と再婚した。ところがその奥さんはどうも「潔癖症」らしい。そして彼氏や家族にしょっちゅう「その事」でクレームを付けられ、困っているとか。私は他人事ではなく、何とかしてあげようと考えた。然しその「奥さん」は未だ来日間も無く、日本語が余り話せない。私も中国語は挨拶程度しか出来ない。そこで、昔職場の同僚だった中国人のS君に、無理を言って来て貰った。来て貰って本当に助かった。彼氏が、Tさんと奥さんの言い分を聞き、日中相互の通訳をしてくれたので、核心に触れる話し合いが出来たからである。
私は、その数時間にも及ぶ「延々たる」話し合いを黙って横で聞きつつ、これは互いの「生い立ち」と「性分」の相違から来たもので、どんなに「理屈」を捏ねても、決して解決出来ない事が分かった。だから最後に奥さんに言った。日本には「郷に入れば郷に従え」という言葉がある事を。そしてTさんにも言った。奥さんは遠い異国(日本)に嫁ぎ今「弱い立場」に置かれている。自分が正しいと思っても珠には「折れてあげたら」と。その後、Tさんからの連絡はない。
私はつらつら考える。そもそも“不潔”感覚は“自他”の境界を何所に置くかで決まるのだと。そして“潔癖症”はその範囲が狭いのだ。その証拠にどんな潔癖症も、自分自身の食べかけを“汚い”とは言わない。若しそう思うなら、二口目は食べられないからである。その点、我が家内は潔癖症でなくて良かった。その証拠に、孫娘が昨晩茶の間で盛大に「ゲロ」をした時も「ツン」と鼻に付く「胃液の臭い」が立ち込める中、家内は「顔もしかめず」それを拭いていたから。然しもっと凄い人も居た。あの「タイとの交流の会々長・谷口恭子先生」である。私が初回訪タイの時、先生はバンコク郊外チャオプラヤ河畔のレストランで、皆の食事の食べ残しを全部自分のお皿に集められ、それを「勿体無い」と言って、食べられたからである。先生の口癖は“地球家族”だった。終わり


大病院

私は大病院との関わりが深い。昭和20年代の末、父は下顎ガン(実際はガンではなかったとも聞く)で、国立熊本病院に入院していた。その当時、腫瘍をラジウム放射線で焼く治療を受けていたらしい。私は母ではなく、伯母(父の弟嫁)に連れられて見舞いに行った想い出がある。父の病室は古く、窓縁には枯れた鉢植えが置いてあった。(注.この同室の患者から貰ったと聞く花はアマリリスで、今年も湧水井戸へ続く道沿いを彩った)あれは暑い夏の事だった。川べりの小さな店で一杯15円の氷水を飲んだ事、デパートで売っていたバナナが一本40円もした事等々、断片的に覚えている。
その後父は退院したが、放射線治療の副作用で顎の自由が利かなくなり、口を1センチ位しか開けられなくなった。お陰で、大きな塊を口に入れたり、硬いものを噛むことが出来なくなって、元々好きだったアルコール依存がより一層ひどくなり、寿命を縮めた。
私も既に別ブログで述べたように、子供時代は体が弱く病気がちで、母に連れられて何度も熊本市の大学病院に行った。然しその症状は“食欲不振”や“手指の引っ掛り”であった。何とも変な病名である。即ちこれ等は、取り越し苦労の母が、勝手に付けた病名だったのだ。然し、母は罹りつけの医者を信用せず、何かと言えば大病院に行った。小学生の私は当時、SLからの煤煙が舞い込むのも厭わず、列車の窓を開けても“車酔い”を起こし、上熊本駅のベンチで青くなって寝ていた。(その“懐かしの駅舎”は今年撤去され、一部が市電駅舎として移築された)そして当時から、大病院は決して心地良い所ではなかった。クレゾールの匂いが立ち込める暗い廊下で、何時間も待たされた挙句、先生の診断はほんの数分で終った。然しその結果が「病気ではない」と出されていたら未だ良かったが、高い(確か一粒400円)薬を飲まされた挙句直らなかった。それはそうだろう。今から考えると、そもそも“食欲不振”や“手指の引っ掛り”と言う“症状は”あっても“病気”はない筈だから。だから私の左手の中指と薬指の引っかかりはその後も治らず、現在に至っている。私は数年前に肩の痛みの為、近くの整形外科で電気治療を受けている時、参考まで医師に診て貰った。すると医師は即座にこれは“ばね指”という症状で、手術出来ないことはないが、結果は保証出来ない。日常生活に不自由なければ、ほって置いても問題ないと言われた。“食欲不振”に至っては、私自身も当時から病気とは思っておらず、今や“食欲旺盛”と言って良い位なので、医者に聞く必要もない。
然し最近久方振りに、国立病院に行く機会があった。それは腸閉塞を起こし、近くの医療センタに入院した義母が、薬の副作用で夜中に徘徊してベッドから転落し、目の下を骨折したからである。生憎医療センタには眼科がないので、私と家内と看護師が付き添って、転院の為に国立病院に行った。その日義母は、車椅子に乗って点滴を受けつつ、朝から夕刻まで待たされ、眼科と形成外科の診察を受けた。その結果、骨折は自然に治るので、入院も手術も必要ないが、一ヶ月後に再検査に来いとの事だった。私は余りの待ち長さにくたびれ、途中で昼食を取ったり、売店をうろついたりしたが、その女性看護師は終始車椅子に付き添い、私が何度勧めても、昼食を取ろうとはしなかった。私は仕事とはいえ、次女の同級生とか聞く彼女のプロ根性に、頭が下がった。
そして先日再び、私は同病院に義母を伴って再検査に行った。私は、今回は前回の轍を踏むまいと、時代遅れのカルテ自動搬送車が「ガチャガチャ」と天井を行き交う下で、持ち込んだ単行本を一冊読破した。然し義母はそうは行かない。私の横に座って、何度も何度も「あのー403番は未だですか?」と、受付に訊ねていた。そして前回と同様、昼食を挟んで延々4~5時間も待たされ、診察時間はたったの3~4分。結果は“ほぼ全快”との事だった。
私はヤレヤレと思う反面、感じた。母に限らず日本人は昔から大病院志向が強い。然し医療センタの医者が指示した事とは言え、あの様に長時間待たされた挙句の国立病院での短時間診療に、果たしてそれ程の価値があるのだろうか?そして、この聊か封建的とも思える医療体制こそが、医師の大病院志向を招き、地方医療の空洞化をもたらす原因の様に思えてならない。終わり


女の一生

モーパッサンの小説に「女の一生」というのがあるが、筋書きを思い出せないので、私は読んでいないと思う。私の身近な女性といえば祖母、母、伯母、叔母、義母(妻の母)、そして妻である。これに対応する男性といえば、祖父、父、伯父、叔父、義父となるが、祖父は私が生まれる3年前に他界し、父も私が9歳の時、伯父(父の弟)や叔父(母の姉婿)は10年程前に全員他界した。唯一存命中の義父も今や80を超え、既に介護施設に入所している。義父は軍医の経験もあり、戦後は長らく歯科医を務めた人格者である。然し姉3人の末っ子の所為か、真面目で仕事一筋、優し過ぎて私には聊か物足りない。一方伯父や叔父は別居で、住まいも遠いので、影響を受ける程接する機会に恵まれなかった。
従って私の身近に居たのはやはり女性と云う事になる。父方の祖母は私が物心付いた時分、既に70歳を越えていた。然し祖母は隣接の伯父(父の弟)一家と同居していたので、私は遊びに行って接した事しかなく、当時は自分の祖母でもあることすら認識していなかった。祖母は90度近く曲った腰で、何時も従姉弟の子守をしていた。貧乏氏族の出で、村長の祖父と二人三脚で4人の子供を育てながら、戦時中を含めて長らく婦人会長を務め、他方では下肥を担いで畑仕事に精を出す人だった。(そのお陰で十二指腸虫に蝕まれ、顔は青白く貧血気味だった)今も思い出すのは、私が従姉弟と喧嘩して泣かせた時「貴方は総領なのだから“負けるが勝ち”を知らねばならない」と諭された事である。こんな尊敬すべき祖母と同居出来なかった事を、私は今更ながら一生の損失だと思う。他方、実母や叔母については他ブログでも色々書いたので、此処では省く。
私には、今や3親等以内の唯一の血族となった伯母(父の妹:92歳)が、福岡の某クリニックに存命している。この人は高齢ながら、未だベッド上で短歌を詠む文人である。偶に見舞いに行くと、郷(此処石貫)の昔話に花が咲く。若かりし頃夫婦で朝鮮に渡り、戦後は一家着の身着のままで引き揚げて、子弟教育の為に博多に居を構え、慣れない八百屋を営みつつ、8人の子供を育て上げた。その子供は何れも秀才で、私と歳が近い末娘の子供は最近二人とも東大に入学した。
最後に義母であるが、80台の半ばを迎えた今も健在で、家内の実家で家族(長男一家)の家事をしている。若い頃から薬剤師の資格を取って薬局を営み、歯科医の義父と二人三脚で4人の子供を育て上げた。昔から車を乗り回す行動派で、私の子供の誕生時には、手取り足取り世話をしてもらった。流石に最近は車の運転は危ないと、子供が免許証を取り上げたので、行動範囲が狭くなり、不平を漏らしている。
私は思う。身近な3人の女性(祖母、伯母、義母)に共通するのは、一生の大半を子育て、孫育てに費やしたと云う事である。最近、孫の世話を何よりの楽しみにしている妻を見ると、このまま行けばやはりこの3人と似たような人生を歩むように思えてならない。モーパッサンが何を言いたかったのか知らないが、日本女性の大半が戦中戦後「他が為の人生ならぬ、子が為の人生」を歩まざるを得なかったのは、人間も所詮動物の一種と云う事であろうか!


文句

「文句」という言葉を辞書で引いてみると「語句」「言葉」の他に「言い分」「苦情」と言う意味がある。ここで言いたいのは後者の事で「文句を言う」「文句をつける」「文句なし」などの表現がある事が分かる。そもそも社会においては、多かれ少なかれ「文句」によって、人間関係が決まる場合が殆どである。即ち人間関係は「文句を言う人と、言われる人の相互関係」だと言っても良い。家庭、学校、企業での関係然り。そして地域や、夫婦間でも同様だろう。私は、彼是60年近く生きて来て今振り返ると、殆どの期間において“文句を言われる側”に立って来た様に思えてならない。先ず、子供時代は、常に「勉強しなさい!」との母の言葉=文句があった。そして会社員時代は、上司から文句を言われる立場に居た期間が圧倒的に長かった様に思う。勿論、自分が管理職にあった期間は、逆に部下に対しては、文句を言う立場でもあった。然し、私は出来るだけ部下の自由に任せて、力を発揮させる事に主眼を置いていたので、余り細かい事に口を出す事はしなかった。一方、管理職であれ、上級管理者や経営者から見れば、部下に位置する訳で、管理職当時も私は文句を言われる立場にあった事に変わりはない。
私は、これらの人間関係は退職すれば全て解消し、晴れて「青天白日の身」に成れると信じ、非常に楽しみにしていた。然し甘かった。退職して農業を始めれば、殆ど毎日自宅が居場所となる。そして子供も全員独立して別居した現在、夫婦2人だけで過ごす時間が圧倒的に長い。そんな中で、今度は家内から始終文句を言われる。そして家内は、私が嘗て仕えたどの上司にも負けず劣らずの、恐い上司である。然しこれは考えて見れば当然の事かも知れない。私は今も炊事、洗濯、掃除等家事の一切合切を家内のお世話になっていて、文句の種は尽きないからである。その代わり、私は農業の全て、即ち計画から、畑作り、育成、収穫迄の全責任を負っている。そして農畜産物(野菜・果物・鶏卵等)を引き渡すまでが私の仕事、それを店(ファームステーション“庄屋”)で販売するのは家内の仕事である。即ち、前工程の“生産”は私、後工程の“販売”は家内なのだ。世の中には「後工程はお客様」という有名な言葉がある。それに従えば、家内は私の「お客様」という事になる。頭が上がらない訳だ。売れれば家内の実績、売れなければ私の手落ちとなる。然し相手が上司なら「文句」を言われた時、言いたい事が有っても「ぐっ」と押さえて我慢する。然し相手が家内だと、つい反論してしまう。そうすれば勢い“犬も食わない”夫婦喧嘩に成り易い。
私は思う。人間には指示人間(良く文句を言う人)と被指示人間(良く文句を言われる人)の2種類がある。そして人間は、文句を言う時は得てして“快感”を覚えるが、言われる時は逆に“苦痛”を覚える。又言った事は忘れ易いが、言われた事は根に持ち易い。家内はどう思っているか知らないが、私はこの点を克服しなければ、これからも“苦痛”の人生を過ごさねばならない宿命のようだ。世に“苦痛を快感と感じる”サディストと言う類の人がいるらしいが、私は何時かそんな人に会いたい。そしてどうすればそう成れるかを教えて貰いたい。終わり


誤診

一人っ子の私は、父を昭和31年、育ててくれたお手伝いを昭和34年、母を昭和59年に亡くし、掛け替えない家族を全て失ってしまった。父の場合、前日まですこぶる元気だったのに、或る朝中々起きて来ないと母が気付き、掛かりつけのS医師を呼んだ。彼は父の容態をどう判断したのか分からないが、強心剤か何かを投与したらしい。そうしたら父は急に発作を起こし、間も無く息を引き取った。S医師は元々皮膚科が専門で、その分野では有名だったが内科としての評価は高くなかったようだ。只個人的に父と親しかったので、ずっと担当医として付合いがあった。私も幼少の頃“おでき”の治療の為、その医院に連れて行かれた記憶がある。
本来なら父が亡くなった時点で、その医師との関係を絶てば良かったのに、依然としてその後も我家の担当医はS医師であった。そしてお手伝い(ブログ“お婆”参照)が、腸捻転を起こした時もS医師は、緊急入院と開腹手術の判断が出来ず、鎮静剤の投与をしたが全く症状は改善せず、流石にちょっとおかしいと気付いてO外科に担ぎ込んだ時は既に手遅れ、腸は腐敗を起こして手が付けられない状態になっていて、そのまま閉じたとか。母も流石にこの時点で、S医師を見限り、以降はM医師が担当医となった。
然しその母が倒れた時、M医師はやはり正確な診断が出来なかった。母は一週間余り自宅で寝込んでいた。食欲も全くなく、おしっこも出ず、頭が痛いと言い続けていた。M医師が布団の上に座らせると、ふらふらと倒れる状態だった。後で考えると、腎不全を起こしていたのだ。母は若い時から高血圧で、その為に腎臓の機能も低下して、それまでに何度か入院した事もあった。それなのにM医師は、適切な処理を取らず、遂には腎不全・尿毒症を起こす状態まで追い込み、結局手遅れで死亡した。
私は、本来ならもっと長生きをしていたであろう、3人の家族を医師のミスで相次いで失い、その影響で自分の運命をも大きく変えられてしまった。処が最近になって、医師の不祥事のニュースが度々報道される。その多くは誤診や手術の失敗等である。今や医師とて聖域なし。平気で患者から訴えられ、罪を問われる時代となった。然し当時は、例え誤診と思っても医師を訴える等とは考えもしなかった。例え訴えても、医師会相手に勝てる筈がないと諦めていたからである。
私は思う。医師は尊い人間の生命を預かる崇高な職業である。だからこそ高額な報酬と、安定した社会的地位が保証されている。然し、その医療行為の結果次第では患者だけでなく、その家族の運命をも大きく左右する結果を招く。その意味では、企業経営者や、教師等と並ぶ崇高な職業なのだ。然し私も対象は異なるが同じ技術者として、仕事にはある程度のミスは避けられないし、それを一々患者から訴えられたら医師という職業がそもそも成り立たないだろう。然しせめて、最後を看取った患者なら、線香一本、花輪の一つ、否弔電の一つ位は欲しかった。それから数十年、それらの医院の栄枯盛衰を横目で見つつ、私は今も複雑な感情を抑えきれない。以上