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冬その十八

今現在の私にとって冬の楽しみは「失われた世界」だと言って良い。何となれば、今や稲藁や薪で煮炊きする人は皆無同然となり、土間の炊事場がある家屋も、極めて少数となったからである。お陰で楽になったのが、家庭の主婦!炊飯器のタイマーを設置して外出しても、帰宅後にはふっくらとしたご飯が、即座に食べられるからである。他方私がそれに代わる楽しみを探してみたら、結局「焼き芋」に落ち着いた。焼き芋は極めて原始的な方法を採る。先ずは枯木・枯竹等を掻き集め、焚火をして炭火を作る!暫くして出来た灰の中に、アルミホイルで包んだ芋を投げ込めば良い。上手く焼けた芋の美味しさは、高級菓子に劣らない。


冬その十七

冬の楽しみの一つに焚火がある。嘗ては煮炊き・風呂の燃料は全て、山林から伐り出した灌木や、麦藁等のバイオマスで賄っていた。然し半世紀を過ぎた今では、灯油やガスはおろか、電磁調理器等にとって代わった。お陰で面倒な作業は無くなったが、逆に楽しみも無くなってしまった。それにしても、私が危惧しているのは、技量の低下である。何故なれば、人は「火」を扱えるようになったことで、万物の霊長に上り詰めたのである。それが今では「スイッチポン」で出来るとは、隔世の感が在るも、逆に電気や灯油が不足したら、今の若い人々は、生きていけるだろうか?冗談抜きで心配になって来た。


冬その七

寒暖を繰り返して来た今秋も深まり、冬の気配もチラチラして来た。こんな季節は暖房が欲しくなる。其処で灯油ファンヒータとストーブを引っ張り出して、暖房を始めたが、何故か火力が上がらない。原因は灯油の劣化であった。恐らく昨年度の灯油を持ち越した結果、燃焼異常が発生したと考えられる。それに加え、多数のポリタンクに移し替えて保管したのが悪かったようで、勿体ない様だが、業者に引き取って貰わねば、ならなくなりそうである。


鶏小屋その一

今年は鶏が卵を産まなくなったので、業者に依頼して処分し、数年振りにヒヨコを15羽買って、入れ替えた。処がその前に、老鶏を処分する為に、捕まえようとした処、一羽が鶏小屋から逃げ出して行方不明となった。数日後には見付かったが、その鶏だけは「幸運の鶏!」と考えて敢えて処分せず、その侭生かすことにした。何故なれば、時々は「ポツン」と卵を産むからである。


盛夏その六

戦争の影響は、国のカタチを変えさせる程の力を持つ。私の世代は所謂「第一次ベビーブーム」世代に当たる、昭和21~22年生まれなので、前後世代に比べて、突出した人口構成になっている。従って小学校から大学に至る迄、競争又競争の連続であった。特に小学校は、狭い教室に机を並べたら、横になって歩かねばならない位の、スシズメ状態であった。然しこれこそが、その後に訪れる、日本国の「第一次高度経済成長」の、最大の原動力になったのである。


士農工商その四

勿論、庄屋の仕事は農業以外にも多岐に亘っていた。その最たるものは、矢張り公共事業である。中でも水利が最優先であった。今の時代は動力が簡単に得られるが、昭和の当時は特に電力は貴重だったので、人力で水を汲み上げていた。その方法は、大きな水車を人が足で回していたのだった。全く以て気の遠くなるような、仕事と言わざるを得ない。


士農工商その三

庄屋とは、年貢の徴収が主業務だと述べたが、勿論それだけではない。今で言えば、所謂公共事業を行っていた。その集大成が、眼鏡橋だと云える。私が子供の頃は、橋は殆どが木橋であり、大雨が降る度に、流されたり、損壊したりしていた。処があの有名な、石貫眼鏡橋だけは、昭和30年前後まで残っていた。その訳は、敢えて多目に材木を伐り出したので、出来が良かったのである。他方祖父は藩の咎めを受けて、暫くの間、敢えてお縄頂戴となった。


士農工商その二

庄屋の最大の仕事は、今で言えば税務署、当時は年貢の徴収である。勿論計算機等も無かった時代なので、全てをソロバンで計算して、年度毎に書き出していた。我家は大庄屋とは言えない、中小に属する庄屋だったが、それでも一筆毎に、克明に記帳されていた。今思えば勿体ないことをしたと反省している。何となれば、私が静岡・和歌山勤務から、熊本に戻った時期、子供部屋を作るべく、当時ゴミ部屋同然になっていた、二階の十畳を、徹底的に掃除して、所謂「ガラクタ」とは言えない貴重な資料を、焼却処分したからである。


災害その二

我家はちょっとした高台に位置しているので、大雨に拠る浸水被害は全くない。処が高台は、台風が襲来した時には、まともに強風が吹き付けるので、屋根瓦やトタン屋根等に、甚大な被害を齎すことが多い。雨にも風にも強い家屋が理想なのだが、平時を犠牲にして設計するのも、考えもので、難しい判断を求められる。


鶏小屋その八

鶏小屋の寿命は、最長10年、最短5年と云った処である。何故なれば、雨ざらし日ざらし、材料は建築端材だからである。従ってこれらのB級端材を、如何に上手く使うかが、腕の見せ所だと云える。私は近年、大工のT氏が廃棄されていた板を、鶏小屋の補強に使っている。処が困ったことに、幾重にも補強をしても、根本的な柱や梁が腐食すると、小屋全体の強度が弱くなり、建て替えを余儀なくされるのである。


鶏小屋その七

鶏小屋の建設資材は、所謂「板ギレ」と称する、建築端材。要するに廃物であるが、上手に活用すれば、手間は掛るが、鶏小屋としては、申し分ない材料である。私は知人の大工T氏の了解を得て、廃棄してあった板ギレの多くを無償で頂いた。


鶏小屋その五

鶏小屋の必要十分条件は、一にも二にも、外敵の侵入防止を計ることである。何せ鶏を襲う動物は、鼬、烏、野犬等々、その種類には事欠かない。私は半世紀以上もの間、養鶏をして来たが、その仕事の半分は鶏小屋の修復・補強・強化・改善等々の、メンテナンス業務であった。そして今現在も、進行中なのである。


鶏小屋その二

鶏は人が野鳥を改良した動物で、今尚原始の面影を、色濃く留めている。その最たるものが「鳥目」と称するもので、薄暗くなると、行動出来なくなる。それ故に、高所に止まり木を設けるのが、慣わしとなっている。然し、その為に毎晩の様に、所謂「寝所争奪戦」が繰り広げられる。その結果最強の鶏が、最も安全と思える高所に陣取って、寝るのである。


鶏小屋その一

我家が鶏を飼い始めたのは、多分昭和30年前後だろう。敗戦後の食糧難の時代、蛋白質は貴重品であり、我家は当時、山羊も飼っていた。鶏卵と山羊の乳が手に入れば、贅沢の様にも思えるが、その量足るや、大したものではない。他方その世話は結構大変だった。当時は勿論配合飼料等は無く、全てを自家で調達せねばならなかった。鶏の餌は米糠や野菜クズ、それでも不足するので、夕刻になると、小屋を開放して、鶏自ら餌を、漁らせていたのであった。その理由は、鶏は所謂鳥目なので、夕刻になると自主的に小屋に戻り、止まり木に停まるからであった。


桜その八

私は斯様に植樹が好きで、様々な木を植えたが、木は思いも依らない程、大木に成るものである。その一例が、ニッケイで、今や見上げる程の大木に成長している。恐らく半世紀以上の昔、ニッケイの皮をかじって、ラリっていたような記憶がある。ニッケイの根を掘り出し、綺麗に洗って干した後、その皮をかじると、脳天に一撃を食らったような、強烈な味と匂いが、鼻から口に掛けて一杯に広がる。そして病みつきに成るのである。


鶏その一

過去幾度か書いたと記憶しているが、鶏について更に述べてみたい。今何故養鶏かと問わるれば、畜産の中で最も容易であって、それなりの卵イコール収入を、得られるからである。私が物心付いた、昭和30年前後の頃、我家の裏には、ちゃんとトタン屋根付きの鶏小屋があった。当時の日本は敗戦後で非常に貧しく、特にタンパク質が乏しかったので、田舎では所謂「縁側養鶏」と称するものが、広く流布していた。これは自家の縁の下の一角を板や金網で囲い、其処に数羽の鶏を放して、食物残さや、畑に生えているハコベ等の雑草を与え、産卵箱を置いて卵を産ませ、弁当のおかず等に供するものだった。私は当時小学生で、鶏のエサ遣りをしていた記憶がある。


バイオマスその十

自家建設の後、軽業氏の評価は瞬く間に評判となり、民間はもとより、各種自治体からも、仕事がどんどん来るようになり、氏は市内各地に赴いて、見事な技を披露された。私も顧客の一人であり、裏山の孟宗竹の伐採から、向山の雑木の皆伐、そして跡地へのクヌギ一千本の植樹、そしてそれらの木の管理と、私は凡そ林業に関わる仕事は100%、彼氏に依頼する程、信頼していた。然し悲劇が突然襲い掛かった。それは山の中で、氏が急逝されたのである。それも事故死なら兎も角としても、何と何と脳卒中であった。私は頭を「ガーン」と殴られたように感じた。


バイオマスその六

家の建設には自ずと手順と云うものがあり、元在った場所に建て替えるには、一時的に立ち退きを迫られる。私はこれを嫌い、金は掛るが二段階建築を行った。先ずは水場が不可欠なので、広い土間に簡易流し台と移動式風呂桶を据え付けた後、元土間と台所があった場所を解体して、新たに風呂場と台所を先行建築した。当時は5月であり、寒くなかったのも幸いした。今の時代であれば、当然一時的な引っ越しも考えたに違いない。


バイオマスその一

近年は、各種の化学肥料が安く簡単に手に入るようになったので、殆どの農家が、田畑に多種多様の化学肥料を投入するようになった。他方バイオマスとは、生物由来の資源を指し、竹や木が朽ち果てた物や、耕作地以外に生えた雑草・木や竹等を指す。これらの物質は、広範な場所に不均一に分布していて、回収が難しい。私はこの課題に対して、丁度今の時期(3~4月)筍を掘る為に、自宅裏の孟宗竹林の整備をすることにしている。何故なれば、竹林の笹がこの時期一気に落下して、竹林に堆く降り積もり、腐食して絶好のバイオマス資源となるからである。


木枯しその三

漸く乾いた北風が吹き始めた今日、オールラストの脱穀作業!天神平と鷽の谷の二枚である。前者は軽トラで自宅に持ち込み、後者はハーベスタを田圃に持ち込んで実施した。何せ今年ばかりは、秋の長雨に祟られて「三日の晴れ」が待ち遠しい毎日!長年遣って来た米作りで、こんなに苦労をした年は記憶にない。過日の投稿で、稲刈り・脱穀を、半月程遅らそうと提案したばかりなのに、前言撤回をせねばならない有様。


木枯しその二

今年の大豊作は、米ならぬ銀杏。何と大型ポリバケツ3杯にもなった。水に浸けておけば自然に果肉が腐り、種を取り出せると思いきや、そう簡単ではない。仕方なく今年は畑に埋めることにした。初挑戦故に、うまく種が取り出せるやら?拾う作業も大変なら、腐らせるにも手が掛かる。全く銀杏等、植えるではなかったと、半世紀も前のことを悔やんでいる。ならば切倒したら良かろうと思われるかも知れぬが、銀杏の木は、杉檜と違って、切株から夥しいヒコバエが発生して、手が付けられなくなる。落果は臭いし、葉は腐り難いし、手が付けられない。


地勢その七

我家の東側の空き家に、隣人が入居されたのは、私が中学生の頃だったかも知れない。現在では敷地境界線には、杭打ちをされているが、当時はそれもなく「大体この位だろう?」と言った、いい加減な状態だったので、程なく境界紛争が勃発した。前入居者の立ち合いの下、何とか両者の主張を足して、二で割るような敷地決めが行われた。処が母は隣人が敷地拡張をしているとして、隣人とは絶交すると宣言したのである。そして私にフェンスを作るよう命令した。私は仕方なく、隣人の監視の下、竹を組み、お粗末なフェンスを作ったのを、昨日のように鮮明に覚えている。


地勢その三

我家に来られた人の多くが「お宅の屋敷は広いですねー」と仰る。然しそれは視覚に依る広さであり、所有地の大小とは全く関係がない。何となれば、法務局に行って‟地籍図”を見れば一目瞭然である。例えば、我家の南東に位置する広い畑は、我が従弟の所有地であり、私が借りて、野菜畑として利用している。又自家の西に位置する屋敷跡地も、矢張り従弟の所有地であり、廃屋となった家を、私がコツコツと整理した後、鶏小屋として利用していたが、現在は空地となっている。


地勢その二

我家は小岱山の東麓に迫り出した、通称「中の島」と称する、小高い大地の南端に位置している。従って、台風が来ると、まともに南風を受けるが、水害の恐れは皆無で、土砂崩れだけが、何度か発生した。処が今年の梅雨は特別だったのか、我等が借地した、山口田の土手が大崩壊して、大小の瓦礫が田圃を埋め尽くし、未だツルハシを使って、一個一個掘り出し中なのである。


竹その七

我家には、裏山が孟宗竹林。東の川沿いの土手が真竹の竹林と、二か所に竹山が在った。処が真竹が屋敷内に拡大・進出したので、或る年、山師に依頼して、真竹を皆伐して貰った。結果的にこれが大失敗であった。縦横に張り巡る地下茎が枯れて、土壌保持能力を失い、或る日、法面崩壊を引き起こしたのである。その対策として、専門業者に依頼して、ジャカゴ(砕石を詰めた金網)を、河岸に設置して貰う羽目に!この工事は水田を作業場としたので、当年はコメ作りを休まるを得ず、大工事だったと記憶している。


竹その三

竹は成長がとても速い。4月に筍として地上に芽を出し、みるみる成長して一か月後には、成竹の高さになる。それが可能となるのは、勿論他の竹の恵みを、一手に吸収するからに他ならない。他方、老いぼれた竹は、次第に黄色くなって、枯れ果てるのである。尤も、その竹はとても硬く、例えば米収穫期の、掛け干し竹の材料としては、持って来いである。


竹その二

竹山には夥しい竹が生えているが、竹は木と異なり基本的にワンファミリー、即ち全ての竹が血族である。このことが竹の繁殖に大いに寄与した。何故ならば、竹は一年で成人(成竹)となり、二年目からはひたすら一族の為に地下茎を伸ばして、領域拡大を図る。そして上空を制圧して、光合成を図るからである。一方昔は竹を利用して笊などの農機具を作っていたが、今やPL等に太刀打ち出来ず、タケノコ採取位しか、活用方法が無くなった。


節電

バブル崩壊後の1990年代半ばのことだった。私は当時会社員だったが、俄かに節電が叫ばれ始め、昼休みは勿論のこと、就業時間中も不要不急の照明やパソコンの電源を切るように指導があり、廊下やトイレの照明も大幅に間引きされた。当然、多くの電力を使用する冷房も節電の対象で、設定温度が26℃から28℃に引き上げられた。然し節電は、云うは易く実行は難しい。それまで慣れ親しんでいた26℃から2℃も上がれば、快適性は著しく低下する。だから多くの社員が、暑さを凌ぐ為に団扇や扇子を持参し、バタバタと扇いでいた。
当時、会社から全社員に対し、家庭を含めた「節電アイデア募集」があり、私も応募した処、目出度く入選して社内広報誌に載った。その趣旨は、家の西側(東西20m南北20m位の敷地)に落葉広葉樹(銀杏・桜・紅葉・欅)を植栽することであった。現在は、これ等の樹木に加えて実生の椋が大木に育ち、真夏の厳しい西日を上手く遮る一方、秋から冬にかけては、太陽の南中高度が低くなるのに加え夕刻には落葉した木々の隙間からも、程良い木漏れ日が差し込む。これは太陽の運行を利用したアイデアで、家の西側に幾らかの敷地があれば可能である。一方家の東側は、冬の朝日を取り込む為に、高木の植栽は不都合であり、私は落葉樹の藤とキウイのグリーン棚を配置して、夏の強い朝日と屋根瓦の照り返しを防いでいる。
この他に実施中の節電対策としては
1.業務用冷蔵庫の排熱除去の為、夏場は24h連続運転のエアコンが不可欠な加工所の屋根に、太陽光パネルを設置する。
2.風呂とシャワー、洗面所、調理場への給湯が必要な台所の屋根に太陽熱温水器を設置する。
3.天井裏に断熱材(グラスウール)を敷詰め、タイマ付有圧換気扇で天井裏の熱を屋外に排出する。
4.専ら二階建部分の一階にて起居し、日中は全ての戸や窓を開け放ち、東西南北に面した網戸を通じて、屋外の微風を取り入れる。
5.東西の窓の外(軒下)にヨシズを垂らし、その高さを調整して朝夕の日差しを遮る。
6.アルミサッシュ窓の内側全面に、透明のヒートシールを水貼りする。
7.既設の床下換気扇からの冷風を、ダクトを通じて室内に取り込む(今後の課題)。
我家は上記の諸対策により、酷暑で有名な熊本の夏でも、来客時や屋外から戻った一時を除いて、冷房は殆んど使用しない。それは節電目的もあるが、一旦冷房した部屋に長居すると、屋外で仕事する時、体が(いきなり熱い湯に飛び込んだ時の様に)ヒートショックを起こすからである。
勿論70坪の我家でも、上記4項に適合する場所は一箇所しかなく、広さも半畳程度に過ぎない。私は毎日、昼下がりのうだるような一時、瀬戸物の枕を持ち出し、冷たい板張りにランニングシャツ一枚で横になり、この“スペシャルスポット”で一時間程度まどろむ。そして爽やかな目覚めの後、洗濯物を畳み、愛用のスイス製ミシンを使い、今日は台所窓から差し込む朝日を遮る為のカーテン縫い!
そんな午後の一時、私の脳裏には遥か昔の情景が去来する。彼此30年程前、私が働いた三菱電機和歌山製作所では、工業用ミシンを製造していたが、その慢性的な赤字を解消する為、静岡から業務用エアコン事業が移管され、私も転勤したのだった。そんな重大な使命を帯びた私であったが、赤字解消処か、自身が設計したエアコンのクレームで、会社に更なる深手を与え、無念の辞表提出に至った。
私は思う。半世紀前とは様変わりの少子高齢化の今、住宅の供給過剰も極まる処まで来た。何でもアメリカの真似をするのが好きな日本だから、住宅バブルが崩壊したアメリカの真似をして、中古住宅の市場開拓を業界ぐるみでやったらどうだろう。それにしても、日本の建売住宅は見掛け倒しで、居住者のことを全く考えていない。大切な犬走りすら省略して、敷地一杯に総二階の家を建て、僅か1~2mの敷地境界線際に、高木を植栽するなど“笑止千万”である。樹木は上に伸びるに従い、横にも広がる。根も同様である。私は一見“高級そうな”建売住宅のチラシを見ながら、こんな無茶な植栽をして、どうやって剪定や枝打ちをするのだろうと、他人事ながら気をもんでいる。終わり


領土問題

先頃、東シナ海の尖閣諸島付近で中国漁船が日本の巡視船に衝突し、船長が拘留された措置に中国が激しく反発して、日中関係に暗雲が漂う事態となったが、時を経て互いの国民感情も徐々に沈静化しつつあるように見える。今回の事件はロシアとの北方領土問題を引き合いに出すまでもなく、ちょっと間違えば両国民の愛国心に火が付く、非常にデリケートな問題であることを物語っている。
我家を訪れた人は大抵「お宅の屋敷は広いですね。一体どの位あるのですか?」と聞く。私は「又か!」と思いつつ「サー」と適当にはぐらかす。それは質問の企図が不明確だからに他ならない。土地と言うものは、一筆単位で細かく分かれ、敷地境界は複雑に入り組んでいる。それに現在私が管理している土地は、我家の土地だけではなく、かなりの借地がある一方で、逆に近隣への貸地もある。又、田舎は都会とは異なり、敷地境界がブロック塀や生垣で仕切られていない所が多くて一目瞭然とは行かず、土地謄本や地籍図を入手して確認しないと、所有実態を正しく把握することは出来ない。
私は今回のような領有権問題が起きる度に、半世紀以上前の我家を思い出すのである。昭和31年7月16日、徳永家の絶対権力者であった父は52歳の若さで急死した。私は当時9歳であったが、その後長年に亘る土地相続に関する混乱と相克の日々は実に険しく、解決までに30余年の歳月を要した。
父は、若かりし頃共産主義を信奉し、土地は国有化か集団所有すべきとの考えだった(維一郎のブログ参照)。処が現実には徳永家の土地を一手に管理し、然もそれは亡き祖父(昭和19年死去)の名義のままであった(名義変更には多額のお金が必要)。そんな状況下で戦後まで生きた祖母(昭和28年死去)は父の将来を憂い、危険分散を計るために“密かに”半分近くの土地(宅地・建物・田畑・山林)を、次男(叔父)名義に変更していたのである。(終戦後米国の意向により、戦前の長子相続から均等相続に制度変更された。)
処が父が亡くなれば、その管理下にあった徳永家の土地は誰かが相続せねばならない。母は、次男は帝大まで出てひとかどの教育者になっていたので、長男の妻である己と私が、家屋敷全てを相続すべきだと主張し、現在の中国同様に一歩も引かなかった。処が叔父は名義通りに相続すべきだと言う。更に当時小学生で未成年の私は、後見人を立てねば相続も出来ないので、叔父自身が後見人になるとの意見であった。一方母は後見人などは必要なく、父が実質的に管理していた土地は、全て我家のものとの意見である。
この相続問題は、結局第三者を交えて協議の結果、叔父の意見が通り、名義通りに相続することで決着した。然し根本的解決には程遠く、両者の土地は複雑に入り組み、例えば、叔父の家は我家の土地に建ち、我家が耕作している畑は叔父の所有と言った所謂「ねじれ」を正す為に、叔父の家を解体して、叔父自身の土地に移設したり、我家が耕作していた畑を2分割して境界に生垣を植えたりした。その叔父の家も数年前には漸く解体され、跡地の畑を私は叔母から借りて、現在農業を営んでいる。一方私が子供の頃に叔父の家があった場所には、私が7年前に鶏小屋を建設した。この他、隣人が住んでいた廃屋が残る叔父の所有地も、私が殆んど独力で数年間掛けて片付け、跡地に鶏小屋を建設して数年前まで鶏を飼っていた。この他にも土地に関する細かなトラブルや軋轢は数多くあったが、私は自分が妥協し、汗をかくことでその殆んどを解決し、現在叔父の所有地を含む土地で農業を営んでいるのである。
私は思う。そもそも財産と言うものは、不動産と動産を問わず、先祖から自分を経て子孫に引き継ぐものに他ならない。其の過程でそれが大きくなったり、小さくなったりする。我家の資産は、私の代で大きく膨らんだ。それは私がアパートを3棟建設したからで、資産以上に負債も大きくなった。私が残り何年生きれるかは、神のみぞ知るところであるが、今の計画では80歳まで返済しないと負債がゼロにならない。
私は思う。屋敷の広さと同様に負債も目に見えるなら、一体どうなるだろう?「我が家が競売に出たら買いたい!」という人が現れるかも知れない。終わり


打付大工Ⅰ

首題の漢字を当地では「うっつけだいく」と読む。ぼんやりを意味する「うつけ」とも似ているが、“ある種の大工”に対する差別用語である。昔はこんな言葉はなかった。何故ならば、山林から木を切り出し、製材、乾燥、墨打ち、切込みを入れて、土台を造り、棟上げ、内装、外装をする、所謂家作りの一連の工程を一貫して指図したのが大工の棟梁であった。それが今はどうだろう。所謂大手のハウスメーカのみならず、中小の建築会社から工務店に至るまで、標準化・規格化・プレハブ化が進み、現場作業の大幅合理化(工期短縮)が図られた。極端な例では、部屋毎にトラックに積んで現場に持込み、積み上げる究極のプレハブなども出現している。そこまで行かなくても、殆どの部材が規格化された結果、現場での作業は、それを組み立てる、所謂“打ち付け”作業が主体となったことから、この言葉が生まれたのだと思う。
今の私は、差し詰め「打付大工」である。然し私は本職の大工ではないので、この言葉を「差別用語」だとは思っていない。それどころか「褒め言葉」とすら思っている。私は退職後、今までの5年半の間に、我がファームステーション庄屋の“店舗”“加工所”“右馬七亭”(土蔵の屋根裏を利用した簡易宿泊所)に続き、最近車庫の物置を改造して“布団部屋”を建設した。店舗と加工所は新築だったので、所謂棟上げまでの工程は大工のTさんにお願いした。Tさんとは7年ほどの付合いであるが、今では魂胆相照らす無二のパートナーになっている。
Tさんとの出会いは奇縁である。私は2002年から5年間“玉名市公民館石貫支館長”兼“石貫まちづくり委員会副委員長”だった。当時、古民家を改造して“ナギノ交流館”が出来た。活動拠点建設をめぐっては、多くの部会員が集い、幾度も会議を開いたが、話がちっとも進まなかった。こんな事柄には不慣れな人々である。私は議事の多くをリードしたが、全てを自分だけで決めるのも問題だったので、古民家改修を担当する“大工の選定”だけは、部会長のYさんに依頼した。そのYさんが即座に推薦したのがTさんだった。私は“ベストの人事”をして頂いたYさんに今、深く感謝している。
それまで私が付き合っていた大工は、所謂“打付大工”だった。私は彼に納屋、下屋、物干台、鶏小屋等々、色んな建築を頼んだ。今となっては既に手遅れだが、これは“ワーストの人事”だった。それでも前半の納屋(農機具小屋)と下屋(長尺物入れ)までは、まあ我慢が出来た。丸太や端材を上手に使って、傾斜した土地に上手く作ってくれたから。それでも私がこの時期に退職していたら、彼の問題点を見破ったと思う。当時の私は現役会社員だったので、立会いは家内任せだった。次の物干し台建設で、家内が「使い難い」とクレームを付けた。丸太の二面を削り、組み立てた構造だが、確かに隙間が多くて歩き難く、物を落すと下まで落ちて拾うのが大変だった。次の鶏小屋建設で、対立は決定的となった。私はその材料として、製材所から只同然で買った4トン車1台分の端材を用意していた。端材はそのままでは使い難い。形状や寸法がまちまちで、皮も付いているからである。これを選り分け、皮を剥いで揃える“前仕事”が不可欠である。そしてこの仕事は大工でなくても(素人の私でも)十分に出来る仕事である。然し彼はそれを連日自分でやったらしい。私は請求書を見てビックリした。高々20~30羽の鶏を飼っても、一生かかっても元を取れない金額だった。当然その中身は人件費が殆どである。延々と続く材料取りの作業に、大工の日当を掛けたら、途轍もない金額になるのは自明の理である。続く


Access&Location

日本語に直訳すれば「行き易さとその位置」とでも言おうか!ちょっとピンと来ない。レイアウト(Layout)と言う方が適切かもしれない。詰り建物や設備の配置の事である。殆どの業務において、移動・運搬は付き物である。農業も然り。私は日に数回どころか数十回も、家―車庫―畑―土蔵―納屋―加工所―店―鶏小屋等々、物を運んだり、取りに行ったり、戻したり、様々な用件で行ったり来たりする。若し、一日の動線を描いてみたら、多分真っ黒になるだろう。
私はこの事の重要性をサラリーマン時代に学んだ。半導体は数百の工程を経て出来上がる。そしてその工程の殆どは、処理装置と呼ばれる高価な設備を使う。従って工場の中には、多種多様の設備がぎっしり詰っている。然しそれは漫然と置かれているのではなく、人や製品が滞りなく動けるように、とことん考えて配置されている。
現在の新工場は、殆ど自動搬送というロボット付のモノレールが製品搬送をしているが、ほんの20年位前までは、人間がそれをしていた。マニュアル搬送である。そしてそれには、あのスーパーマーケットで使う、買い物篭が使われていた。その籠には、普通4ロット(100枚)のウエハを入れ、検移票と呼ぶシートとセットで、次工程に送るようになっていた。
私は20年以上前、この作業実習を数ヶ月経験したが、ある日その検移票のチェックを怠り、一つ飛ばして次々工程の装置に掛けてしまった。後で気付いたが時既に遅し。その4ロットはパー(ロットアウト)になった。そして責任者から、数百万円の損害だと聞き、真っ青になったのを思い出す。
それから10年以上経って、私が担当したプロゼクトが、装置搬入(Move-in)だったのだ。そしてその時、日本・台湾・ドイツと私と密接に関わりつつ、Access&Locationを考えたのが、Dさんという方だった。彼氏は始終MACのノートPCを持ち歩き、時間さえあれば「ああでもない、こうでもない」と、数え切れないカラフルなレーヤで作られた、工場のレイアウト図と睨めっこしていた。それは、即ち装置の搬入順位とその経路次第で、作業難易度が大きく変わるからでもあった。ある時などは、入り口に近い装置の間を通って奥に別の装置を運ぶ時、その搬入路のすき間はたった1cm程しかなかった。後述略
私はこの経験を基に、本格的に農業を始める数年前、貴重な自宅前の畑の中央部を潰して、トタン葺きの納屋を、その2年後に隣接して加工所を建設した。裏山や、畑に向かない傾斜地等を利用して建設する事も出来た。然し若しAccessを考えずにLocationを決めれば、どんな事が起きるか。例えば、トラクタを出し入れするのに、畑を横切らなければならないとか。卵や野菜を出し入れする時、態々長靴を履いたり、懐中電灯を持って行かねばならないとか。兎に角毎日の事である。一寸した違いが大きい。これ等の施設を行ったり来たりする度に、私はあのD氏が毎日考えていたAccess&Locationの重要性を再認識する。
そして私は毎日10時と3時の休憩時間、自宅から50m程離れた我が店でコーヒーを飲みつつ、表の通りをぼんやりと眺める。すると毎日の様に、バイクの後ろに刈払機を積んだKさんが行き来する。彼氏はそれまでの住処から2kmほど離れた新興住宅地に自宅を新築した。然し田や畑は元のまま、当然農作業には毎日2kmの通勤が必要となる。彼氏は移住を決断する時、動線の重要性を考えたのだろうか?終わり


ガチョウ

私は現在、近くの川でガチョウを二羽飼っている。水鳥を飼う切欠は幾つかあった。先ず私が幼少の頃、我家ではアヒルを何羽か飼っていたような気がする。夜間は小屋の中に居て、朝になるとヨチヨチと近くの川に向って歩き、夕刻になると再び陸上の小屋に戻る。そのアヒルの傍を歩いて居る自分が微かに脳裏に残っている。その時分、鶏の卵はご馳走に属していたが、アヒルの卵は鶏卵よりも少し大きいが、少々生臭くて味では劣る。然しそれは寝汗に薬効があると言われていた。
そんな私がガチョウを飼うようになった切欠は、あの某外資系保険会社のコマーシャルである。毎回必ずアヒルがマスコットとして出て来るその会社のがん保険に、現在私は加入している。何ともユーモラスなその仕草に親近感を覚え、世話役の和菓子屋店長の取り計らいで、玉名市中心部を流れる繁根木川の中洲に棲む、十数羽のアヒルの中から2羽を分けて頂いた。其処では、近所の老人が、毎日パンの耳を食事として与えていた。然し、その老人と世話役と私と3人で、いざ捕らえようとすると、逃げ回って中々捕まらない。そしてやっと2羽が捕まった。そしてそれはアヒルではなく、雄のガチョウで、ちゃんと「シロ」という名前もあった。アヒルとガチョウの違いは首の長さで、ガチョウの方が長い。そしてアヒルは白だけでなく、溝鼠色の鳥も居るが、ガチョウはほぼ真っ白である。然も、雄の頭には独特のこぶがあり、優美な体型をしている。
私は、見かけによらない声で「ガアガア」鳴くその2羽を箱に詰めて持ち帰り、近くの川沿いに庭師と大工に頼んで特別に拵えた小屋に放した。そして数日間小屋に閉じ込め、一々パンの耳を与えていたが、そんな毎日が長く続く筈もない。暫くして鶏用の飼料に切り替えたが、不味いらしく中々食べて呉れない。やっと食べても、長い喉を通過しにくい為、しきりに水を欲しがる。私は思い切って川へ放した。然し川には仕切りがないので、対策として上下流の橋の下に自製のネットを張った。けれどその網には上流から流れてきた異物が絡み、大雨の増水で危うく氾濫しそうになった。その時は大雨の中、腰まで浸かって、轟々と流れる川の中で、家内と必死でその網を引き上げた。
その後も2羽のガチョウは大雨の度に何度も下流に流され、私はその都度竹と捕鳥網を携えて、捕らえに向った。然し川幅が広い川下では、一人では中々捕まらない。そしてやはりガチョウも鳥である。捕まる寸前になると水面を走り、滑空するし、犬に追われて捕まりそうになると、最後には飛翔する。コツは友人と組んで挟み撃ちにして支流に追い込み、最後に網で仕留める。そして箱詰めして小屋に連れ帰る。最後に逃げた後は、暫くほって置いたが、やはり可哀想になり、最近又連れ戻した。抱き上げたその体は、あたかもスポンジの様に柔らかく、水鳥特有の油羽の中に空気が溜まる為、体が濡れずに水に浮く仕組みとなっている。
私は幾人から聞かれただろう。何の為にガチョウを飼っているのかと?卵を採る為か?フォアグラ(肥大した肝臓)を採る為か?何れでもない。単なるセラピー(癒し)なのだ。その証拠に、小さい子供連れのお母さんがちょくちょく、川面を優美に泳ぐガチョウを見に来られる。その姿を見る度に、私は何の経済的価値もない事に現を抜かす自分の行為に、自己満足を得られる。
然しこのガチョウの生い立ちも、あのペットショップの檻の中で売られていたに違いない。多くの人が、只可愛いと言う一時の感情で買って来て、大きくなり手に負えなくなると、平気で川に捨てる。その中の2羽が私のガチョウなのだ。私は又変な事を思い出した。あの福田元総理が成田空港の開港を急かされて言った「アヒルの水かき」という有名な言葉を。終わり


オークション

今の時代、何事もインターネットの時代になった。買い物とて同じである。私が初めてインターネットのオークションのお世話になったのは、数年前娘を通じてだった。鶏の餌造りの為である。鶏には歯がない。嘴で突き、引きちぎって口に入れる大きさにして丸呑みする。すると食道の途中にある砂が詰った砂嚢(ホルモン焼きで出て来る所謂“砂擦り”)で細かく砕いて消化する。然し嘴で突いても細かくならない物は食べられない。そこでフードプロセッサを買い、大根や南瓜等の野菜を砕いて、餌として与える為である。これは今も時々使っている。
その後友人に勧められ、自分でもオークションに登録して入札するようになった。最初に挑んだのは、我が庄屋加工所のエアコンであった。24時間運転なので、電気代のかからない3φ200Vの中古機種を探して運良く落札した。品物は直ぐに送られて来て、近くの電気屋に取り付けても貰った。安く出来た。味をしめた私は、その後幾つかの小物を落札した。そして先般初めて10万円以上の大物に挑んだ。我家のTVの映りが悪くなったので、液晶TVに替えようと思ったからである。然し幾つかの人気機種に挑んだが、何れも競り合いに負けて断念した。最後に比較的人気のない長男が勤務するH社の27吋にチャレンジしたら、運良く落札出来た。そして翌日代金を振り込んだが、品物が送って来ない。出品者からは住所の再確認とか引渡し方法とか、数日に一度メールが来るのみで、品物がさっぱり届かない。私は痺れを切らし、遂には「出るところに出ると」まで通告した。そうしたら、品物を調達しているとの事で、落札後10日位経ってから、なんと大手のY電気から送られて来た。出品者は私が落札してから、品物を調達していたのだった。ほっとした。同時にオークションの危うさをも認識した。
最近の猛暑で、我が店舗“庄屋”の冷房が全く効かない。元々自宅の居間にあった、20年以上前の古い機種であることと、小型で運転効率が悪いことも買い替えの動機だった。オークションに懲りた私はリサイクルショップを回ったが、折からの猛暑で中古品は全く在庫なし。10月まで待てといわれた。私は嫌々オークションに再チャレンジするしかなかった。
然し又しても苦戦した。中古品は判断が難しい。ちょっと良さそうな物には多くの買い手が群がり、競り値がどんどん上昇する。それかと言って、古くて安いものには、欠品や説明書等の不備が多い。何機種かにチャレンジしたがその都度、少し高値でさらわれた。オークションは何れも、深夜にタイムリミットが設定されていて、然もそれが屡延長されるので、夜に弱い私には難物である。予算限度まで入札を入れ、翌朝調べてみると落ちていない。ある時はたった100円の差で負けていた。私は遂に痺れを切らした。N社の一機種に絞り、深夜まで相手とことん相手と勝負して、遂に落札した。品物は翌々日には到着した。そして、お盆休みの前日、業者に無理をお願いし、取り付けて貰った。
私は思う。オークションは、合理主義のある意味での帰結点で、現代の世相にマッチした優れた制度のようにも思える。然しそれを駆使している人々の多くが若者らしく、深夜に神経をすり減らして入札しなければならない。おまけに自動入札とか言う仕組みもあって、落札は簡単ではない。オークションをもっと一般化するには、深夜にもパソコンにも強くない、中高年者にも配慮した制度に改善して欲しい。終わり


蘭学事始

再びオランダ人wwooferの話題。現在は大学で再び勉強中と云う50歳の彼女は、元旅行作家若しくはレポーター。これまでに世界各地を旅行した経験があり、訪日も今回が4度目で、宮崎県綾町を皮切りに、国内各地を1ヶ月の予定で巡る計画をしていた。そんな“国際人”の中年女性が、何をどう思ったのか、農業体験を志し、其の最初に選んだのが、我が“ファームステーション庄屋”だった。私も最初彼女のメールを読んだ時、ちょっと変だと思った。50歳と云う年齢に加えて、その文面がとてつもなく長大で独特だったからである。然し「まあ、偶には中高年も良かろう」位の軽い気持で受入れたのだった。
最初駅に出迎えた時、其の出で立ちにびっくり、何とロングドレスだった。然し、話してみれば話題豊富で談論風発、これは楽しい1週間と思ったのが大きな間違い。翌日から寝込み、近所の2箇所の病院巡りについては、既に“制度欠陥”の項で述べたので此処では省く。
其の二箇所の病院で貰った薬を飲みつつ、拙宅で数日間療養したが、朝は熱が下がっても夜は39度以上に上がり、咳もひどい。彼女も慣れない外国での病気につい弱気になり、最後には泣き出す始末。又、家内には見せたというが、胸に発疹も出ていた様だった。そして又夜が来た。彼女と私は激論した。私の意見は翌朝再度内科に行き、点滴か入院すべきと!彼女は「点滴は絶対拒否。然し病名と治療法、点滴に含まれる薬品名とその効能を全て教えて貰い、自身が納得出来たら、受入れ入れても良い」と言う。そして「自分はScientistなのだ」と言う。私は「そんな奇特な医者は田舎には居ない。熊本市か福岡市の病院を探す。」と言い、2~3箇所に電話を入れたが、何処も良い返事ではなかった。
其の時、オランダの彼女のご主人からFAXが入る。中身は“英語が話せる日本の医院リスト”だった。私は彼女も望んだ呼吸器科の、熊本市の“Hクリニック”に電話した。そして翌朝1番に受付け。先生は米国での勤務経験があるという60歳位の医師だった。そしてレントゲン撮影の結果、肺炎らしいとの事。“あんなに嫌っていた点滴”を2時間余受け、私は患者が誰も居なくなった待合室で4時間待っていた。すると昼過ぎ40歳前後の綺麗な女性が現われ「私は院長の家内です。入院を勧めたが通院したいとのことなので、知合いのホテルを照会しましょうか?」と言う。「助かります!」私はその、英語の堪能な院長夫人に全てをお願いし、彼女にお別れを言い、そそくさと家路についた。数日後、彼女からメールが来た。サラリーマンのご主人がオランダから駆け付け、10日間日本に滞在し、一緒に帰国する計画との事。私は疑問に思う。
1. 最も優秀な学生が志し、6年間も大学で学んだ医者が、何故患者に英語で説明出来ないのか?
2. 江戸時代に蘭学を学んだ国オランダと日本の医学は、何故違う方向に進んでしまったのか?
若しかして、日本では教師と医者は「先生」と呼び“聖職視する”ことが原因ではなかろうか?と。


骨董品

私が育った頃の我家は、現在の家よりかなり規模が大きく、和室は殆ど続き部屋だった。即ち、座敷(10畳)から始まり、仏間(6畳)+勉強部屋(2畳)、玄関(8畳)、中の間(6畳)、居間(7畳)、寝室(6畳)、2階(7.5畳2間)の計8間58畳に、周り廊下と広い土間に続く台所・風呂と合わせると、優に100坪(330㎡)はあったと思われる。その各室の納戸や棚、更には天井裏から床下まで至る所に、古道具や書籍類が山の様に保管されていた。
それらの大半が現在は無い。理由は骨董品屋が粗方買い占めて持ち去ったからである。彼達の出入りは私が大学入学後に家を出て、再び戻るまでの20年程の間に集中している。何時の頃からだろうか?私が時々帰省すると、母の口から「或る言葉」が出るようになった。「先日八女の△△さんが来て、屋根の雨漏りを修理して貰った」と。次は「藁屋根に被せたトタンが錆びたので、塗り直して頂いた」と。私は高校時代、夏の暑い日に屋根に上り、トタンの錆びた部分にコールタールを塗る作業をした事があったので、その仕事が如何に辛いかを知っていた。その時は「世の中には奇特な人が居るものだ」位にしか思っていなかった。処が、ある時母が言った次の「一言」で、私はその“からくり”を理解した。「あの漱石の手紙だけは、幾ら出すと言っても売らない。」我家には“夏目漱石の手紙”があった。宛先は私の祖父である。漱石と祖父は旧制第五高等学校の教師仲間で、俳句等を習う間柄だった。そして祖父が唐津中学に転任後、或る英単語についての質問の書簡を漱石に出し、それに答える手紙を漱石から貰ったのが残っている。(注.現在は熊本県立近代文学館に寄託中)母が言った一言は、この手紙以外は売却するかも知れないと云う事だった。当時の母は、僅かな国民年金だけで暮らしていたが、私には生活費の援助を要請しなかった。その代わり、骨董品屋に少しずつ売りながら、生計を維持していたのだった。
それにしても、あの方面の人々は「他人の弱み」に付け込んで取り入るのがとても上手である。「後家殺し」の名があるように、未亡人とか一人暮らしの家は、格好の標的に成るようだ。それに○○さんと△△さんは、ちゃんと役割が分かれていて、○○さんは骨董品を買い漁る仕事、△△さんは母がやれない仕事を代行する役目である。互いがgive and takeの関係になった時、それは長続きする。その証拠に20年近くも続いていた。私が家に戻った時には、目ぼしい骨董品は買い漁られていて、家の中はがらんとしていた。そして、何処から私が戻った情報を知ったのか、その後○○さんと△△さんは、二度と姿を見せなくなった。然し私は一度そのお二方に会って、お礼を言いたい。「私に代り、家の修理のみならず、片付けまでして頂き、有難うございました」と。


コンビニ

私がコンビニ経営に興味を持ったのは、約10年前の海外出張から帰国後のことである。当時はサラリーマンとしての将来に殆ど絶望していて、寧ろコンビニ経営に夢を託そうと思った。そして早速行動に移した。先ず県道に面した伯父の所有地に目を付け、借地の了解を得た上、コンビニ3社に相談した。最も熱心だったのはS社で、出店費用は約24百万円だった。L社からは「国道筋でなければ」と断られた。F社は「別の場所に出店しないか?」と逆提案して来た。私はS社に的を絞った。先ず交通量調査が必要だった。近くに車を止め、1時間単位で上り下りの車両通行台数を計測した。朝夕はともかく、昼の時間帯の通行量は多くなかった。然しS社が指摘したのは別の問題だった。前を通る県道が、外カーブだと言うのだ。内カーブなら、手前から良く見えるので来店率が良いが、外カーブは良くないとの事だった。又、反対側が川に面している為、ドミナント(来店期待エリア)が狭いと言う。更なる問題は、出店で悪影響を受ける近くのスーパーが、対抗して別系列のコンビニをぶつけてくる事も考慮すべきであると。私はややたじろいだが、少し離れた交差点近くの別の場所を逆提案した。しかし、地主に相談すると「土地持ちの貴方(私)に、何故貸さねばならないか?自分の土地でしたら?」と断られた。私の意図を全く理解出来ない人だった。私は土地の問題で行き詰った。然しS社は、私と家内を態々福岡スポーツセンタで開催の、オーナ向け展示会に招待して呉れ、丁重なもてなしを受けた。丁度その時期、新聞でコンビニ経営者の自殺や、スキャンダルが相次いで報じられ、私も流石にその後、事業意欲を少しずつ削がれてしまった。後述略
それから約10年後、例の交差点脇にF社がオープンした。オーナは私の後輩である。私は思った。若し例の地主が私に土地を貸して呉れたら、今頃どうなっていただろうか?まさか交差点を挟んで、両側にコンビニが存在することにはならなかっただろう。ひょっとして私の店が弊店に追い込まれたかもしれない。それにしても人の考えは、経済原則のみでは到底計れない。同じ頃コンビニの為、酒販免許欲しさに元酒屋に伺った時も、息子は同意したが、お婆ちゃんが反対だった。(最近、同組合の年金使い込み事件が発覚したが、私はお陰で被害を免れた。)私は今も荒地のままの、あの場所の前を通る度に感じる。あの人達のお陰で、今自分は好きな農業が出来ていると。


湧水


敷地内の一角から湧き出ている湧水を利用すべく、井戸を掘りましたら懇々と水が湧き出しました。
昨今、自然の水を商品として販売する所が増えましたが、私は自然の恵みは無償で有るべきとの考えで、来訪者に自由に賞味頂いております。目下、大人よりも子供に人気です。理由は只だから!!以下、立札の文章です。

此処一帯は古来から出水さんと呼ばれ、清らかな地下水が湧出している所です。小岱山麓の大地に沁み込んだ雨水が、長期間かけて一帯の地下から湧き出ていて、水温は20℃前後、水量は毎分20リットル  (ポリタンク1杯)を超えています。何物も加えない、引かない自然そのままの天然湧水を、どうぞご賞味下さい。庄屋


直販所建設

こんな想いが広がり、地域の賛同を得れば自宅近くに野菜の直販所を設けて売れば良いと単純に考え、何気なく知り合いの大工Tさんに相談したら全面的に協力して呉れるとのこと。早速パートナーのYさんと建築科卒の長女に相談して出来たのが、以下に示す店舗設計図である。先ず材料を揃えることになり、亡き母が植林した山から杉を30本程切り出した。それを製材して乾燥、切込みと進む内、出来ることは自分でやろうと考え、皮剥き,カンナ掛け、運搬と大工さんの手伝い。11月1日に棟上にこぎつけた。その後Yさんと家内の協力を得て屋根のコロニアル葺き、壁のエツリ掛け、泥塗り、内壁(含む屋根裏)の板張りとエスカレート、すっかり職人気分でのめりこみ、何とか年内に形を整える処まで完成した。Tさんには気前良くカウンターの材料を寄付して頂き、一見スナック風の地産地消の店が出来た。