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KTTその十九

今日はバスにて、夫婦で草枕紀行のイベントに参画して、金峰山周辺の周遊を楽しんだ。勿論夏目漱石に肖った行事である。参加者は略全員が中高年世代!若者は極めて少数だった。私は勿論初参加で、大変良い企画だと感じた。そして最後は展望の素晴らしい草枕温泉浴!それにしても、私が如実に感じたのは、足腰以上に「著しい方向感覚の衰え」である。嘗て若かりし頃は、熊本から静岡迄、一般道を走る程の力量があったのに、今や子供でも分かる様な「金峰山」と「小岱山」の区別すらをも、怪しくなっている。


架け干し

私が無農薬農業を始めて最早10年目を迎えた。然し此処数年は地球温暖化の影響か、年々米作りが難しくなりつつある様に感じるのは、気のせいだろうか?特に今年は夏の酷暑の影響か、殆どの水田がウンカの害に見舞われ、稲刈作業は困難を極めた。本来ならば、バインダーを使って、自動刈り取りが出来た筈なのに、茶色に枯れてランダムに倒伏した稲を刈るには、手刈りしか方法がなかったのである。然し腰をかがめて刈り取る作業は、老体にはとても堪える。そんな中でM氏の水田だけはウンカに侵されず、逸早く我がバインダーを使い、自田3枚をスイスイと刈り取り、我等が何日間も悪戦苦闘する様を、高見の見物されたのは、流石の私も面白くなかった。何でも氏に依れば“技術の差”だと云う。私はその秘訣を尋ねたが“水管理”という処迄しか教えて呉れなかった。思うに氏の水田は棚田の最上流部にあり、自在に水位管理が出来る利点を有する。一方下流の水田は、M氏の水田の余り水を貰う仕組みの上に、耕作者が遠隔地の人々で、臨機応変の水管理が難しい、ハンデを有するからである。
他方殆どを占めるケミカル栽培の一般農家は、ウンカの予防対策として、ラジコンヘリに依る農薬散布を複数回実施したにも拘らず、大半の水田がウンカに侵された為に、業者の大型コンバインを使って、2~3日間で殆どの田の刈取りが終了した。近年は田主の高齢化に伴い、多くの農家が、収穫作業(稲刈・脱穀・乾燥・籾摺り)を外注化し、畦に立ち眺めるのみである。然しこんな遣り方は本来の農業とは云えず、利益の大半は機械や肥料・農薬散布の経費に消えてしまって、米を買うのと然して変わらない結果となる。私はこれを“見物農業”と揶揄している。
そんな中で私は今年も相変わらず、架け干しに拘った。その理由は、一に金が掛からない。二に米が美味しい。三に作業が楽しいからである。幸いにも架け干しの材料となる真竹は、田圃の周辺の山には無尽蔵に生えている。これを10月に伐り出し、稲刈後の田で組み立てる。昔は樫の木が材料だったが、今は真竹なので結構難しい。竹は木と違い滑り易く、強度も低い。根元の太い部分を使えば、田圃に差し込むのが難しく、先端の細い部分を使えば、撓って稲の重みを支え切れない。そんなハンデを克服して組み立てるのが、技能と言うものである。私は今秋、架け干しを約20セット組み立てた。処が自宅裏の3セットが、伊豆大島に災害を齎した台風26号に煽られ、物の見事に転倒したのである。残りの4セットは無事だったので、風の所為には出来ない。問題は脚の締結不良である。畳紐を使ったので強度は十分だが、強風に煽られてズルズルと滑り、尻餅をついたのである。こうなったら始末に終えない。将棋倒し状態に折り重なった稲束を、一束ずつ切り離して再度組み立て、掛け直す。それだけなら許せるが台風には雨も伴うので、落下した稲には泥汚れが付いていて、その米はジャリジャリと食感も悪くなる。この掛け干しの遣り直しほど、テンションが下がる作業はない。
そんな秋の収穫シーズンの真っ只中に、玉名市長・市議会議員選挙があった。私が耕作する馬場の田は、廣福禅寺に通じる道路沿いにあり、多くの選挙カーが態々停車して、握手を求められた。私は石貫支館長時代、現高碕市長とは、玉名温泉に浸かり乍ら裸同士で語り合った程に、親しい間柄であったが“大震災直後の避難者への冷淡な対応”に失望して反対派の急先鋒に転じた。然し選挙結果は現職が僅差で当選。と言うことは “市民目線の政治”等と云う空疎な抽象用語を掲げ、次回選挙に備えて可能な限りの会合に顔を出し“当たり障りのない挨拶”をするだけで、実質的には “何もしない市政”が、少なくとも今後4年も続くのである。然し私は自分で自分を慰める。市長で在り続けることが最大目的の市長に、期待することなど何もない。私が出来ることを精一杯やるのみである。終わり


功績

母の実家は、玉名市伊倉(旧伊倉町)の通称「角酒屋」と呼ばれ、通りに面したタバコ屋と棟続きの母屋、別棟の地酒を醸造する工場を有する大きな家屋敷だった。然し、戦後の経済発展に完全に乗り遅れ、オマケに伯父が、町長や市会議員選挙に出ては落選を繰り返した為に、次第に家運が傾き、その度に屋敷を切り売りしたので、私が物心ついた頃には、子供の目にも落ちぶれた様が感じ取られた。当時実家の隣に松本家があった。大正3年、味付海苔の製造販売を目的に、先代の松本虎次郎氏が創業した浦島海苔である。母は氏の子息を気安く「虎シャン」と呼んでいたが、その人こそ実家の土地を次々に買収した人であり、後に玉名市長となる松本虎之助氏であった。氏は、玉名市長を通算4期務めた。然し市長在任中、地位を利用した土地転がしの疑惑が常に付き纏い、最後は政敵に攻撃されて辞職した。そんな氏にも、立派な功績が少なくとも3つはある。
Ⅰに、国際化に熱心で、毎年欧米から大勢の若者を招聘し、玉名女子高校ブラスバンド部がグレン・ミラーフェスティバルに出演したことがきっかけで、グレン・ミラー生誕地協会のあるアメリカのアイオワ州クラリンダ市と姉妹都市提携を結び、グレン・ミラー音楽祭という草の根交流事業を立ち上げた。然し歓迎の挨拶が下手な上にとても長く、通訳が困っていたのを思い出す(笑)。当時、私の長女は多感な中学生時代で、我家にホームステイをした米英仏独他の外国人に接したことで、急速に海外への興味を高め、大学時代の米欄への留学から卒業後の外資就職、国際結婚、そして現在の豪州移住へと繋げた。注)上記歓迎会は、市民会館ではなく、当時玉名温泉最大の玉栄館(現つかさの湯)で開催された記憶があるが、定かではない。
Ⅱに、石貫校区の南端に位置する富尾地区に、大学を誘致したことである。その「九州看護福祉大学」が、先頃変なことで全国的に有名となった。大学講師として招かれた、オリンピック2大会連続金メダリストの内柴勝人が、合宿中に大学の教え子で19歳の女子部員を泥酔させたあげく、宿泊先のホテルで乱暴したという容疑で逮捕されたからである。その当時、相手の女性が眠っていたとか目覚めていたとか、実に低次元のセクハラ論争となり、今は亡き松本氏も、草葉の陰で嘆いておられることだろう。
Ⅲに、玉名市にFM玉名を開局して、地域情報や音楽を発信したことである。市長ご自身の発案ではないかも知れないが、基地局は自らが社長を務める浦島海苔構内に置き、隣接した小高い丘に立派な電波塔が建っていた。FM玉名の実働期間は決して長くなかったが、こんな意欲的で斬新な試みは、他の市長では到底及びも付かない。
松本氏以降、玉名市長は幾名か代わったが、何れの方も特段の功績もなく、逆に反対派から足を引っ張られる様な状態が長引き、現在に至っている。こんな状況では、市長は思い切っての決断が難しくひたすら前例踏襲・安全運転を旨とするから、功績等有ろう筈もなく、結果として住民の活力も高まらない。勿論、目下最大関心事となっている新市庁舎の建設は、玉名市民の借金(税金を使うこと)となり、地域活性化になるとは思えず、お世辞にも功績とは言えない。
私は思う。吾が石貫は、日本の何処にでもあるような、典型的な中山間地で、自慢と言えるようなものもないけれど、強いて言えば、清らかな山と川、美味しい水と空気、安全な米・野菜・果物、そして何よりも、半世紀此の方、事件と言えるようなものがなく、殆どの家が親戚・知人(顔見知り)の為に、玄関に鍵を掛けずとも、何の心配も要らないことである。
そんな中に昨年東日本大震災が勃発し、多くの人々が避難して来られた。その人々のお蔭で、我がアパートも満室に近くなり、少子高齢化で複式学級になる寸前だった石貫小学校にも、数名の児童が入学した。私は私で、耕作放棄地を借り受け、無農薬米を作る活動に力を入れた。然し「好事魔多し」とは良く言ったものである。今秋、毎晩の様に野良猫が鶏小屋に忍び込み、雛だけでなく成鶏が襲われ、食い殺された。どうも猫屋敷と言われたOさん宅の多数の飼い猫が、主が亡くなった後、野良となり巷を徘徊しているようである。秋の収穫で只でさえ繁忙なこの時期に、猫対策の仕事まで加わった。そんな私は今、我家の番犬クックに、功績どころか「タダ飯喰らいの役立たず!」と叫び、遣り場のない鬱憤を晴らしている。終わり
注)現在、浦島海苔は国道208号線沿いに移転したので、買収された母の実家の跡地は、広大な空地となっている。


助役

あれは4年前の初秋の頃だったと思う。私はナマケモノ倶楽部のFさんからの情報に従い、熊本市河原町界隈の古喫茶で開かれた、トークライブを2~3度聞きに行った。この一帯は、私が大学生時代には色町としても有名だったが、今ではすっかり寂れて朽ち果てた家屋も多く、所々に細々と営業している店がある程度だった。その目的地は、曲がりくねった細い路地を突き進んだ一角の二階にあった。裸電球がぶら下がり、壊れかけてギーギー軋む階段を上がると、意外に広いフロアーには数十人の若者がぎっしり詰め掛け、外からは想像も出来ない熱気が溢れていた。そのイベントの冒頭には、現熊本県知事“蒲島郁夫氏”の挨拶もあった。然し、この集会の主役は、あくまでも若者である。入れ替り立ち替りステージに立ち、過激な自己主張を述べていた。勿論ギターを抱えて即興の歌や踊りも交え乍ら!その時私は、会場の後ろ隅に佇む、涼やかなイケメン男性に目を止めて話し掛けた。この男性は(後になって知ったが)蒲島氏の東大時代の教え子で、当日は新婚ホヤホヤの美人女性(熊本出身)を伴っていた。私はイベントはそっちのけで、この夫婦に農業を中心とする県勢の浮揚策を熱っぽく語り掛けた。
あれから丸4年、今年2期目を迎えた蒲島知事は、新しい副知事に県政策参与の小野泰輔氏(38)を起用する方針を固め、県議会に同意を求める議案を提出した。小野氏は東京都出身、知事が東大教授だった時の教え子で、就任すれば現職では全国最年少の副知事になる。東大法学部で蒲島ゼミの1期生として新党を研究した。1999年に卒業後、外資系コンサルタント会社勤務や衆院議員秘書を経て、08年に初当選した蒲島知事の求めで県政策調整参与に就任。4年間に亘って県の政策作りに携わった。蒲島知事は小野氏の起用について「まだコメントできない」とする一方で「ずばぬけて聡明(そうめい)で行動力がある!」と話されたとか。私があの夜、小野氏夫妻と話した時間は、精々10~20分程度だったが、氏の聡明さは充分汲み取ることが出来た。
如何なる組織も、トップが如何に優れていようとも、一人だけでは動かせないし、さりとて集団指導体制では、調整に時間が掛かり過ぎて手遅れとなる。理想の組織は、トップの下に優秀な助役を配置し、その人が根回し役を務めることである。史上最も有名な助役は、ニクソン大統領の補佐官(後に国務長官)を務めた、ユダヤ人のキッシンジャー氏だろう。日本の頭越しに米中国交正常化を成し遂げ、日本を慌てさせた。
振り返って、私のこれまでの人生で、最も優秀な助役は、三菱電機熊本工場時代に、10年近くの長期間仕えて呉れたI氏を於いて他には居ない。氏は中学しか出ていないが、現場育ちで実務に明るく、私は技術者なので理論に強く、互いの長所を出して短所を補いつつ、ベストのチームワークを構築し、数多くのヒット作品(生産機械)を生み出した。
吾が熊本県は、総面積、可住地面積、可住地の比率共に、47都道府県の中で上位15位に入る恵まれた地勢を有する。加えて有明海を挟んで東シナ海に面しているので、津波に襲われる心配は殆どない。一方、農産物出荷高では、全国7位の農業県であり、トマト、い草、葉たばこ、宿根カスミソウが全国第1位、スイカ、栗、ナス、トルコギキョウ、生姜が全国第2位、メロン、イチゴが全国第3位と軒並み上位(米は14位なるも九州ではトップ)なのに、一人当たりの県民所得は、情けなき哉下から4番目で、トップ東京の半分ほどしかないのである。この原因は宣伝下手、且つ商売下手と言うしかなく“クマモン”だけに過度に依存せず、更に工夫し、頑張らねばならない。
蒲島県知事は、私より僅か20日早い昭和22年1月28日生まれの謂わば同級生!子供時代は、姉のお下がりの赤い靴に墨を塗って通学した程貧しかったが、その後農協職員を経て渡米し、苦学の末にハーバード大学教授から東大教授にまで上り詰めた努力の人である。熊本県も今は下から4番目に甘んじていても、県民が頑張りさえすれば、上から4番目位には上がれる実力があると私は確信する。そしてその鍵は今の若者が握っている。石貫の片田舎に、関東から若者が移り住み農業をすれば、地元の人間は当初は好奇の目で見ても、何れ理解され、5年後10年後には必ず頼りにされる時代が到来する。私はその時までは頑張らねばならないと思っている。終わり


荒瀬ダム

年明け早々、知人のFさんから“熊本県知事補佐官による、初心者向けの政治講座”の案内メールが来た。補佐官で思い出すのは元米大統領補佐官、後に国務長官のキッシンジャー氏。当時のニクソン大統領の命を受け、極秘に中国との国交交渉に携わったのは今も記憶に鮮明である。
私は歴代の熊本県知事と浅からぬ縁がある。福島元知事は、私が事務局長をしていた「タイとの交流の会」の谷口巳三郎氏の同級生、理事の一人として2~3回県知事室に同行させて頂き、その度に知事室の横の広い応接室で、知事と一緒に記念写真を撮って貰った。そして福島知事の急逝を受けて就任された潮谷知事も、前知事を見習ってタイの子供達の里親になられたので、二度ほど知事を表敬訪問した。然し現在の蒲島現知事になって以降、私は知事室を訪問していない。
ところが蒲島知事とは別の縁が出来た。それは私が5年間務めた公民館支館長時代であった。この職は、校長とか区長上がりの人などが多く“挨拶要員”とも揶揄される閑職であった。やたらと講演会への案内が多く、私も在任中の5年間に何度も熊本県主催の講演会へ招かれた。勿論一般傍聴者としてである。当時の潮谷知事は、何時も大きな声で“清水が流れる如く”朗々と話された。然し不思議なことに後に何も残らない。つまり全く“アク”がないのだ。その潮谷知事が、特別講演の講師として何度か蒲島氏を充てられた。氏の話は知事とは全く対称的だった。“赤貧洗うかの如し”生い立ちから、長じて農協職員、単独渡米・重労働・苦学・ネブラスカ・ハーバード大教授へ、そして帰国後は東大教授と“アク”が強いどころか、ドラマチックであり、成功物語であり、私はぐいぐい引き込まれ、魂を揺さぶられた。その蒲島氏が、潮谷知事の後を継いで2年前に熊本県知事に就任された。私は地方政治の変化を予兆した。然し期待は裏切られた。川辺川ダムの中止は良いとしても、荒瀬ダムの解体延期等、後ろ向きか前向きか分からない政策で、あの講演のイメージと、何故かマッチしないのだった。
初心者向けの政治講座“政治で遊ぼう”の案内は、そんな経歴を持つ私の興味をそそった。開催場所は熊本市内の長六橋のたもと。私が嘗て大学生の頃、毎週一回家庭教師に通った、懐かしの家の丁度道向いだった(勿論その家は今は無い)。昭和40年頃のこの辺りは、戦後の名残が色濃く残る一帯で、私は街娼から「お兄さん、寄ってらっしゃいよー」と屡、声を掛けられた。勿論、当時は金も無かったし、一度も誘いに乗ったことはないが!そして今回の“政治であそぼ”イベントは、正に戦後の名残が色濃く残る、嘗てのスラム街の一角にある、朽果てかけたカフェの2階で開かれた。私は参加者を見て驚いた。殆どが20~30歳代の男女で、還暦を越えたような年配者は、私只一人だった。
イケメン補佐官は、蒲島知事が東京大学教授だった時代の教え子らしい。その縁で知事に引き抜かれ、今は熊本県の特別職として、知事を支えているとか。補佐官の話は、日々知事として接しているだけあって中々興味深かった。パソコンを使ったプレゼンテーションは分かり易く、政治には素人の私にも良く理解出来た。講演後に質疑応答の時間があったので、私は真っ先に手を挙げて『荒瀬ダム解体中止は、蒲島知事らしくない』と意見を述べた。補佐官は、『私の感想はごもっとも』と言った後に“印象的なフレーズ”を吐いた。『知事が自由に使えるお金は、県全体予算のたったの2%しか無い』と!つまり残りの98%は、予め使途が決っているのだ。これでは如何に有能な蒲島知事でも、如何ともし難い。私はその夜、補佐官の回答を了とするしかなかった。
処が今日1月29日の、熊日新聞夕刊のトップニュースを見て、私は驚いた。『荒瀬ダム撤去へ、蒲島知事近く最終判断』と。やはり蒲島知事は私の期待を裏切られなかった。きっとイケメン補佐官は、私の質問を知事に話されただろう。私は「あの寒い冬の夜、態々熊本市内まで出かけ、うらぶれたカフェの片隅で質問した甲斐があった」と自己満足した。Fさん、有難うございます。終わり


林業

私は昭和58年に帰郷して翌年自宅を改築した。その際、大半の木材は購入したが、先祖伝来の山林0.5haから、桧木18本を伐り出した。戦後、生活に困った父が殆ど売却した小岱山に、唯一残っていた山林だった。その材木の引出し作業に使われたのは、幅1mもない急な山道で、業者が転落防止の木材を設置し、サラブレッドと同じ種とは到底思えない、胴長短足の馬が引っ張った。その山道は今も当時のままである。然しその後の26年間に大きく変わったことが二つある。
一は防火林道と称する二車線の立派な道路が、山道の上を直角に横切ったこと。二は山道や林道を通る人を殆ど見かけなくなったことである。これは今の日本を端的に表している。“防火”林道とは名ばかり!小岱山ではこの数十年間、一度も大規模な山火事が起きていない。何故なら、地域の人々が殆ど林業をしなくなったからである。それは林業が成り立たないからである。海外から格安の木材が大量に輸入され、国産材は競争力を失い、林業は衰退した。その山腹を縫って、今立派な道路が建設されている。入り口は玉名市北、出口は南関町南で、この二地点を結ぶ道路は、既に小岱山の東西の麓には昔からある。一方、防火林道沿いには殆ど人家は無く、大半は雑木林とミカン畑である。道路用地は無償提供だと聞いたが、買収されたとしても只同然の地価ならば、地主は山への行き来が便利になる利得を感じて協力したのだろう。然しもっと重要な理由が有る。私は土建業者の仕事量確保が、この道路建設の最大の目的だと思う。
土木工事は本来、交通事故防止や渋滞解消など、生活道路の整備が最優先の筈である。然し人家沿いの道路の拡張整備には、反対者の説得や移転費の補償など多くの困難が付き纏う。それに比べて無人の山林を切り開き、尾根を削り、谷を埋め立て、橋を架ける道路工事は、反対運動も無く実施出来るから、業者冥利に尽きるだろう。道路の使用価値よりも、自民党の票田である土建業者の仕事量確保が優先された結果である。おそらく全国津々浦々で、同種の“役に立たない道路”が今も建設されているのだろう。この種の道路は、完成しても交通量が極端に少ないので、ごみの不法投棄が起き易いし、水源林に危険物が投棄されると考えただけでも恐ろしい。
そんな昨今、民主党が打ち出した“コンクリート社会から木の社会へ「森林・林業再生プラン」”は私にとって希望の光である。私は今パーマカルチャーの仲間と、谷間の田圃を借りて米作りをしているが、棚田は毎年の補修が欠かせない。土手や水路の自然堤防は梅雨期の大雨で決壊・崩落するし、山の間伐遅れは木の成長を阻害する。最も有効な対策は、この間伐材を利用して棚田や自然堤防の補修をすることである。パーマカルチャーのメンバーは昨年、地元で計画されていたコンクリート製U字溝の設置に反対した。蛍の幼虫や魚が棲めなくなるとの理由であった。(実際には人工の水路で、冬季は送水が止まるので、魚や蛍の幼虫は棲めない)そのお陰で上記の工事は中止となり、皆は安心してしまった。然しこれこそ片手落ちである。
今後一体誰が、この棚田や水路の補修をするのだろう。そんなことを考えながら、私は昨秋二組のwwooferの力を借りて、小岱山の我が山林にある数十本の桧を間伐した。それは今も空しく放置されたままである。何故ならば、間伐材は谷川沿いの山道に沿って搬出するしかないからだ。一人で運び出すには、道も険しく危険である。是非軽トラックが通れる位の作業道が欲しい。さもなくば折角の間伐材も山で朽ち果てるしかない。然しこの搬出作業に、多額の公共事業費を注ぎ込んだ防火林道は全く役に立たず、私にとっては無用の長物である。
近年、多くの国有林で皆伐が行われた。大型機械で臨時の山道を切開き、全ての樹木をなぎ倒して丸裸にする方法である。これは確かに経済的な方法かもしれないが、余りに荒っぽく、自然破壊を招く。昔から在る細い山道を、砂利道の一車線で良いから、作業車が通れる位の幅員に拡張し、既に伐採期を迎えた材木を搬出すれば、日本は豊かな森林資源を、建築材や燃料として惜しげもなく使えるだろう。
これを書いた直後、石貫北端の山口地区で、従来からある山道の拡幅工事が開始されたことを知りました。正に私の考えにぴったりの道路で、嬉しくなりました。
2009年はこのブログで終わりです。皆さん良いお年をお迎え下さい。


竹は木と並んで山林の代表的な構成要素であるが、嘗て中国から来た帰化植物らしい。代表的な種は孟宗竹、真竹、淡竹(はちく)、女竹(多くの亜種あり)の4種類である。現在我が屋敷には孟宗竹しか残っていないが、私が子供の頃は前述の4種全てが生えていた。孟宗竹は家の北側の小高い大地上にあって北風を遮り、且つ筍として食材の役目。真竹は川沿いの傾斜地にあって土地の崩落を防ぎ、稲の掛け干しや藁葺屋根の骨材など農業・建築資材の他、食材としての役目。女竹は屋敷や畑を囲んで風を遮り、隣地との境界を示し、インゲン豆のような蔓性野菜の手の材料として。そして淡竹は中庭に、観賞目的として。
竹は木と異なり一年で成木(竹)となり、2年目以降はひたすら子孫繁栄の為に光合成をする。従ってほっておけば、そこら中が竹林と化す。私が玉名を離れていた18年間に、母が一人住んでいた我家は、殆ど三方を竹林に囲まれて幽霊屋敷同然になった。特に孟宗竹は座敷の畳を持上げたり、縁側の下で横に伸びたり、ひどい状況だった。私は帰省後、昭和59年と平成10年頃の2回に分けて孟宗竹の2/3を伐採し、桜や銀杏や欅に植え替えた。自生していた藪椿には肥後椿や山茶花を接木した。中庭の淡竹も自宅改築時にやむなく伐採した。そして真竹と女竹も数年前やはり皆伐して落葉樹に植え替えた。従って現在私の屋敷内には孟宗竹しか生えていない。私の半生、伐っても伐っても次々に生えてくる竹は、まるで親の敵のような存在だった。その“竹の亡霊”から私がやっと開放されたのは2年半前、私が我家に来た最高のwwooferと見なしている兵庫県の柴原君と、一週間掛かって県道対岸にあるクヌギ山の真竹と女竹を伐採して以降である。
然し“過ぎたるは及ばざるが如とし”とは正にこの事を指すのだろう。現在私は12坪のイベントスペースを建設中であるが、外壁は自然素材の土壁と決めている。その材料は、真竹、女竹、棕櫚縄、土、稲藁なのだ。それが何としたことだろう。屋敷内の竹林を伐採した為に、近くで材料を調達出来ず、態々離れた山まで竹を採りに行かねばならなくなった。
私は最も頼りにしているNさんと、数日掛かりで100本ほどの真竹を、300mほど離れた川向の親戚所有の山から伐り出し、自宅まで軽トラで何度も運んだ。女竹も同様である。真竹は定尺で切断し、特殊工具を使って3~5分割し、女竹と組合せて竹組みを作って棕櫚縄で締結する。この何時果てるとも知れない土壁の骨材組み付け作業にも、Nさん他パーマカルチャーメンバー数名の多大なる助力を得た。
この延々たる作業をしていると、私の脳裏に“セピア色に染まった遠い昔の或る光景”が鮮やかに蘇る。あれは昭和30年前後、私が未だ小学生の頃だった。川沿いの往還(現在の県道を当時はそう呼んだ)にある高本家の前のエノキかセンダンの木に登って、私は下を眺めていた。高本爺さんは、木の下に莚を広げ、胡坐をかき、右手に小刀を持ち、左手で真竹を送り、シャーン・シャーンと小気味良い音を立てながら、細かく割いていた。その手付きの速さと正確さ、さながら剃刀の様な小刀の切れ味、割かれた真竹の細さと綺麗さは、今も鮮明に覚えている。多分笊の材料を作っていたのだろう。当時は今の様にプラスチック製品はなく、生活用具の殆どは自然素材で作られていた。
そうだったのだ。我等は現代の高本爺さんなのだ。そう思って竹組みを眺めると或る事に気付く。Nさんが組み立てた部分は、見事に開口率50%なのに、私が組んだ部分のそれは、40%位しかない。私は竹組み作業の開始前、プロに一面だけ見本を作ってもらった。その開口率はどう見ても50%以上である。この後土壁塗りをしてみれば、開口率の是非が分かるかも知れない。
現代建築は、施主の年代で大きく異なる。若い世代の多くは、大手住宅メーカの一見煌びやかで、例えばプロバンス風とか名付けられた、メルヘンチックな家を好む。他方熟年世代は、自然素材を主原料とする日本古来の伝統建築を好む人が多い。伝統建築を後世に残すには今しかない。そんな事を考えて作業していると、孫娘が来て竹組みを手伝うと言う。私は嬉しくなって孫と一対になり、棕櫚縄締結作業を実施した。その脳裏に今日の風景がセピア色に染まって残る事を強く念じつつ!終わり


偏在化

現代は何につけても偏在化が著しい時代である。その代表格は地下資源で、中東地域に世界の石油・天然ガスの大半が存在するので、争奪の為にイラクやアフガニスタンで戦争が起きる。日本は地下資源に乏しいので、外国から狙われず、その面では良かったのかも知れない。然し国内に目を転じると、現在起きているのは、人口の偏在化である。嘗て日本の人口密集地は関東・関西・中京・北九州に代表される工業地帯であった。処が最近全国レベルでは首都圏への一極集中、九州では福岡市への一極集中が起きつつある。高速道路や、九州新幹線の全線開業、福岡空港の整備拡張がこの現象に拍車をかける。そして偏在化の煽りを被るのは周辺地域であり、玉名市もそれに含まれる。私が幼かった昭和30年代、玉名市中心市街地は人々でごった返し、年末年始やお盆の頃などは、商店街を歩くのも儘ならなかった。処が今は歩く人も居らず、シャッター通りと化している。勿論田舎も変わった。屋外で遊びまわる子供の姿が消え、車の往来を除けば、人影が目立つのは朝夕の犬の散歩位である。
私は23年前の昭和58年末、和歌山から生地の玉名に戻った。当時の玉名は、新幹線はおろか高速道路も未完成だったので、関東や関西に出張するには、熊本空港からの空路か寝台特急を利用していた。勿論自宅から空港までは車で行き、空港近くの個人駐車場を利用していた。しかしその後、九州自動車道路や福岡市の都市高速道路が整備されると、次第に福岡空港を利用する頻度が高まり、10年位前から熊本空港は殆ど利用しなくなった。それは両空港までの所要時間に大差がなくなり、利便性において国際空港の福岡が圧倒的に勝るからである。当然ながら、それまで熊本に落ちていた金は、福岡に落ちる事になる。即ち私は現在交通面では既に福岡県人と言えるし、これが今世界で起きている偏在化に他ならない。
そんな玉名に今九州新幹線の駅が建設中である。場所は我家から3km程、車で10分程の近さである。県内の新幹線駅は他に熊本・八代・水俣の3駅なので、玉名は恵まれていると思うべきかも知れない。それを意識してか、政治家や有識者は口を開けば新幹線の効用を説くが、地元には余り熱気が感じられない。私もその一人である。何故ならば新幹線が齎すのは、人口の更なる偏在化であり、福岡が近くなれば、玉名もその通勤圏に組み込まれて、益々(昼間)人口が減るのが目に見えるからである。
私が静岡に住んでいた昭和40~50年代、東海道新幹線の定期券を利用して、東京に通勤するエリアは三島以東であり、三島駅近辺には夥しい新興住宅地が出来つつあった。現在の新幹線は更に高速化されたので、多分富士以東位が東京の通勤圏になっているだろう。これを九州新幹線に当てはめると、三島が熊本市で、玉名市は熱海位の近さである。隣の大牟田が現在、西鉄を利用して福岡市の通勤圏になっているのは、小田原が小田急を利用して東京の通勤圏になっていることと繋がる。と言う事は、玉名市は今熱海市に調査に行き、どうすれば地域振興が図れるかを考えるべきなのだ。同じ温泉を持つ玉名市としては、絶好の他山の石と思うべきだろう。
私はこの問題に行政とは異なる切り口からアプローチしている。パーマカルチャー九州のメンバーには福岡県人がとても多い。皆さん若くて優秀な人ばかりである。そんな人々が口を揃えて、石貫はとても良い所だと言う。私はその人々に決まり文句を吐く。「石貫に来ませんか!」と。この一週間は、何れも福岡県から来た男性2名と、女性1名の力を借りて、イベントスペースの壁作り(土壁の骨組となる竹編み作業)を手伝って頂いた。何れも素人さんであるが、プロにお願いしたサンプル壁と較べても、見劣りしない見事な出来栄えである。
私は偏在化の時代に逆らい夢を追う。福岡の人々が“石貫に住まい、新幹線で福岡に通勤し、休日には田畑の手入れをし、子育てをする姿”を。偏在化は人間の本性に基づく現象で防ぎようがない。然らばそれに沿う形で、田舎の良さをも味わえる田舎暮しのモデルを作ろうではないか!そんな時代がもうそこまで来ている。終わり


市政懇談会

今夏も、恒例の玉名市政懇談会が、近くの石貫小学校で開催された。この催しは何年前から始まったのか記憶にないが、地域住民の意見を直接聞く手段として、小学校区又は中学校区単位で、通常毎年一回開催されている。今年の出席者は市側から市長・教育長他部課長クラスを含めて十数名。一方校区側からは、区長他地域住民が20名程であった。
冒頭に市長から過去4年間の実績についての説明があり、それが終わると支館長座長の下、質疑応答が始まった。私は暫く黙って聞いていた。すると例年同様、富尾地区の住民が次から次へと挙手をして要望を述べ始めた。富尾は石貫校区の南部に当り、玉名温泉にも近く、地勢も平坦で田圃も広く、他の地域が苦しんでいる、九州新幹線工事による渇水被害も皆無の、恵まれた地域である。それなのに行政に対する要望は例年圧倒的に多い。それも道路の拡張や橋や水路の整備など、一見贅沢とも思える要求である。この富尾地区は古くは石貫とは別の富尾村であり、山間部に属する旧石貫地区と異なり、住民の権利意識が強い所為かも知れない。市の当局者の対応も「又か!」と言った感じで、当たり障りの無い回答をしている間に、小一時間が経過してしまった。
私は内心“いい加減にしたら”との思いも有り「折角教育長がお見えになっているので、教育問題についてお伺いをしたい!」と切り込んだ。「私は昨年から近くの棚田十数枚を借りて、若い人々と米作りを始めました。その目的は彼等彼女等に石貫に定住して頂く事です。然し過去の経験では、折角石貫に住んでも、子供が小学校に入学する時期になると、決ったように他校区へ転出されます。転校先は玉名町校区や築山校区で、何れも数クラスを有する大規模校です。我がアパートを出て当石貫地区に永住された方は、過去Tさん御一家のみに過ぎません。我が娘でさえも自分の子供を石貫小に入れたくないと言っています。このままでは少人数化が更に進み、複式学級になる恐れもあるので、隣接校区との統合を検討して下さい」と!
教育長は私も懇意にしていた方で、前向きな回答を期待したが「女子が2人しか居ないのは、単なる偶然であって、例え複式になろうが校区統合など全く考えていない!」と、にべも無い返事であった。そして最後の挨拶で市長からも「各地域には学校と一体となった歴史や文化があり、軽々に校区統合など考えていない」と、やはり後ろ向きの回答を貰った。
私は、まさか私の提案がすんなり認められるとは思わなかったが、余りにもきっぱりと拒絶され、絶望感を感じると共に、少子化が齎す石貫の将来に大いなる不安を覚えた。市長・教育長の回答は、現状ではきっと模範解答なのだろう。校区統合は市町村合併と同じく、地域のみならず職を失う教職員組合からも猛反対されるに違いないからである。それかと言って何もせず、只手を拱いて居て良いだろうか?せめてもう少し前向きの対応をして頂いたら、例えば3校区を統合して、低学年・中学年・高学年に分けて授業するとか、具体策を提案することも出来たのに!
今、国レベルでは“小泉改革の負の部分”がクローズアップされ、その対策が次期総選挙の争点になっている。ならば、私が提起した問題は、言うならば“教育における負の部分”である。ちょうど50年前、寄留による越境入学で教育委員会から睨まれた私が、類似の問題で教育長に噛み付く。不思議な歴史の巡り会わせとでも言おうか?当時の私が違法に寄留したのに対して、現代の親は合法的に移住するから尚更問題の根は深い。
私はこの学校格差の拡大は、必ずや農村部の将来に大きなマイナスになると思う。即ち、今や保育園児や幼稚園児を持つ親は、子供を小規模校ではなく、中大規模校に入れて多くの友達の中で鍛えたいのだ。サラリーマンが殆どを占める現代、明治時代から殆ど変わらない学区制に縛られた、旧態依然たる教育制度は綻びを広げ、学校間格差が更に拡大するだろう。そして小規模校区の縮小傾向は止まらず、何れ次々に廃校への道を歩むであろう。
こんな時代背景にあっても、思考停止状態から抜け出せず、紋切り型の回答しか出来ない教育責任者の罪は重い。私はもう、我が子が孫を大規模校に入れたいと言っても止めない積りである。終わり


エコ

今や巷ではちょっとしたエコブームである。私が住む玉名市でも昨年から“エコの環玉名”という名称の環境活動が始まった。その主旨は、田畑にヒマワリやナタネを植えて搾油をし、先ず食用に使った後、廃油を精製してバイオディーゼル燃料として再利用することで、化石燃料に依存せず地球温暖化を防止し、永続可能な社会をめざす運動である。誠に立派な理念であり、私も委員に乞われて快諾した。毎月1回、市役所の会議室に数名の委員が集り、活動方針の協議や実施報告をする会議が過去10回近く開催された。私もその大半の会議に出席させて頂き、自分なりの意見を申し立てた。当初はめいめいがバラバラの意見であったが、会議を重ねる内に、徐々に論議の方向が固まってきた。
先ず委員長の意見は概ね以下である。
1. 河川敷や、纏った大面積の休耕田を借り、一挙にナタネを植え付け、大型機械で収穫する。
2. 油は学校給食等の大口消費者に使って貰い、廃食油を回収してディーゼル燃料に再生する。
3. 目的は実利であり、条件の良い土地を確保し、可能な限り大量に栽培して、諸経費を賄う。
これに対して私の意見は以下の要旨である。
1. 先ず委員自らが畑にナタネを植え、活動主旨を解説した立札を立て、周りの人を啓蒙する。
2. 市民に幅広く種子を供給して耕作放棄地や休耕田を対象に栽培委託し、時価で買い取る。
3. 目的は意識改革であり、出来るだけ多くの市民が、自分の力量に見合った規模で参画すれば良い。
毎回の会議で、委員長の提案に対して、私は悉く異論を唱えた。議論は平行線を辿り、いつか現地を見て、栽培候補地を決めようということになった。然し私は所用でその現地見学会を欠席した。そしてその後の会議で、見学の結果が発表された。その中の一枚は、何と私の田圃であった。私は唖然とした。私はこの田圃を知人に貸している。そして彼は無農薬米を栽培しているのだ。この田圃にナタネを蒔いて収穫すれば田植が大幅に遅れる。さりとて緑肥として鋤き込めば、ナタネは収穫出来ない。そして何よりも耕作者の意見を全く聞いていない。こんな天動説の委員長の考えでは、絵に描いた餅になるのは必定である。
私はこの意見の衝突を、別の側面から見つめ直すことにした。ここ玉名市は国道208号線を挟み、山付き(北側)と海付き(南側)に大別される。この両者は、昔から考え方が対照的である。即ち山付きの人々(私もその一人)は、コツコツ型で冒険をしない。従って大儲けもない代りに大失敗もない。一方海付の人は正反対である。特に海苔や魚貝類の水揚げは気象や海流に左右され、多分に人知の及ばないことも多い為か、事業欲が旺盛で、博打的考えを持つ人も多い。多分今回の委員長と私の衝突は、典型的な海付きと山付きの人間同士の衝突だった。然し私が一歩先行した。次回の会議は、会員の一人が勤務する馴染のオーガニックレストランで、私が栽培した菜種で作った食事の味見会なのだ。
それにしても、ほんの少しの菜種栽培が何と大変だった事か!先ず昨秋、中国人wwooferの助けを借りて、畑を耕して種を撒いた。その後除草と畦立てをし、順調に成長したので今年の初夏、数名の助っ人の協力を得て収穫したが、これが大変である。菜種は米のように一斉ではなく、下から順番に登熟する。だから腫れ物でも触るように、そっと扱はないと実がパラパラ落ちるし、自宅で天日乾燥中は何度も雨が降り出し、その度に大急ぎでナタネを干したブルーシートを室内に取り入れた。そしてシート上で手作業で脱穀し、何度も何度も唐箕(人力選別機)に掛けて実を選別する。私の場合、刈取りは助っ人の力を借りたので何とか出来たが、収穫は僅か19kgだった。これを得る為の労働量を理解してこそ、大きな口が叩けるのだ。
私は思う。利益を生まない所謂エコ活動は、高価な大型機械を駆使して、広い圃場で大量生産するより、多くの人々の心に訴えて、草の根的運動としてやるべきである。あの八郎潟干拓や諫早湾埋め立てを見れば良い。海付きの人が依然として旧来の考えにとらわれている今、私は山付きのこじんまりして、身の丈に応じた考えの人々こそが、エコの最前線に立てるのではないかと思っている。終わり


千客万来

私が物心付いた時分(昭和20年代終盤)の我家は千客万来だった。連日訪問客が絶えず、座敷や上がり段(玄関)の間に胡坐を掻き、数人が酒を飲みながら談笑していた。勿論ホストは我が父、徳永維一郎である。訪問客が誰で、どんな用件で来ていたかは、はっきりした記憶にないが、地元の小学校長や地域の有力者、友人・知人が多かったようだ。時折私もその酒席に呼ばれ、酒臭い大人の膝の上に抱かれた記憶が残る。
当時は一町歩(10000㎡)程米作りをしていたので、苗代・田植・稲刈り・脱穀・籾摺り等の時期には大勢の人々を雇い、終了後はお決まりの酒宴でもてなしていた。父は昼間の農作業には殆ど関わらなかったが、夜の宴会では紛れもない主人公だった。そして延々たる酒席は次第に乱れ、終わりには怒号が飛び交う喧々囂々たる有様となった。そんな来客をもてなす母はさぞ大変だったろう。酒も肴も全てホストが提供せねばならないからである。何時までも帰らない客を相手に、次々に酒を要求する父に、母は次第に不機嫌になり、来客が去った後は、お決まりの夫婦喧嘩が始まった。
その父が昭和31年の夏(小学4年当時)急逝した後、我家の雰囲気は一変して、火が消えたような淋しい家になった。母はそれまでの反動が出たのか「人が来るのが一番厭!」と来客を嫌った。例外は自分の身内、即ち姉妹や甥姪と特定の人に限られた。この変化は古いアルバムを見ると良く分かる。この環境の激変は、私の成長に多大な影響を与えた。ひたすら勉強して良い成績を取ることが理想とされ、遊びは悪いこととなった。私の友達が遊びに来ても、母は歓迎しなくなった。そして越境入学で幼馴染とも離れてしまった。私はそれまでの解放的性格から、引っ込み思案に変わり、中学の通知表には「自らは殆ど発表をせず消極的!」と書かれていた。サラリーマン時代もどちらかといえば閉鎖的で社交下手、とても成功者とは言えない34年間だった。
あれから50年、私は漸く解放的性格を取り戻し、今我家は千客万来の様相を呈している。これは一に掛かって農業のお陰である。農業は一人ですることも勿論可能だが、それよりも2人以上、出来ることなら数名でやった方がずっと楽しい。フィールドワークはオフィスワークと異なり、私語を咎める上司もいない。我家がパーマカルチャー九州スクールの拠点になってやがて2年、折に触れて色んな人々が出入し、各々好きなイベントや作業に参加している。
昨年そのメンバーの数名から、米作りをしたいとの希望が出て以降、私の主要業務は農地の確保になった。我家にも6反の水田があるが、目下知人に貸与中なので他の田を借りねばならない。自宅近くの休耕地から順次借地交渉を始めたが、簡単ではなかった。それを救ってくれたのは、又しても懇意の大工Tさんである。彼が石貫北端の“片白”と言う名の谷奥にある、一枚の田圃を貸して呉れた。この“ちっちゃな田圃”が、私に“でっかい幸運”を齎した。当地に多くの田を所有するNさんが「借りて欲しい」と申し出られたのである。あれから一年、私はこの谷がとても気に入り、次々に借地交渉を進め、今年はとうとう12枚まで拡大した。
今年からはこの地を舞台にパーマカルチャー九州主催で、都市部の人々が米作りを体験出来る“田主制度”も始まる。私は今、どこにでもあるこの小さな谷が“千客万来”の“風の谷のナウシカ”になることを密かに夢見ている。終わり


ブロードバンド

私のパソコン暦は30年程前の会社員時代にさかのぼる。当時は確かNEC社製のPC98シリーズがベストセラーだった。私は態々東京秋葉原までパソコンを買いに出かけたのに、予算不足でお目当ての98シリーズには手が届かず、やむなく低位の機種(PC600)を購入した。これは今のパソコンから考えると玩具みたいなもので、モニターはTVの流用で、ゲーム位しか使った記憶がない。当時は今みたいにインターネットもなかったし、Eメールもパソコン通信とか言って、特定のマニアのみが使用するような時代だった。私はニフティーサーブのアドレスを取得したが、実際に誰かと通信した記憶もない。
それから30年で通信環境は劇的な進化を遂げた。今や携帯で殆どが事足りる時代となった。我家でも家内はパソコンを使わず、携帯のメールを使って始終家族や友人と交信している。私の現役時代は、会社の自分用パソコンで、専用アドレスを使って交信していたので、通信インフラとかに興味もなく、トラブルが起きても情報関係の社員に依頼すれば、直ぐに処置してもらえた。処が退職したらそうは行かない。全ての問題解決を自分でやらねばならない。こんな時、現役時代“あなた任せ”でやってきた咎めが出る。私はハード・ソフトの初期設定やトラブル対応が苦手である。一方で否応もなく押し寄せる情報量は加速度的に大きくなる。
2年前の事だった。愛媛県松山市にあった四国松下電器が閉鎖となり、九州松下電器に吸収合併されることになり、大勢の社員が九州に移り住む事になった。そして住居探しの為にマイクロバスを仕立てて玉名にも来られた。その中の一台が我家にも来た。私は家内共々そのバスを出迎え、アパートの空室に案内した。私はその日に備えて、不動産屋さんのアドバイスに従い、態々3部屋をバリアフリーに改造していた。その甲斐もあって一人のご婦人が、吾がアパート「ピアストーン」をとても気に入り、間もなく契約・入居された。私は喜び勇んで挨拶に行った。ところが大変な事が起きていた。その方が一旦入居後、突然キャンセルして退去されていた。私は真っ青になって不動産屋に駆け込んだ。退去理由は“ブロードバンド(ADSL)が来ていないから”だった。私は自分の住む地域が情報過疎地であることをまざまざと認識し、その日を境に“鬼”になった。
玉名市は熊本県内でも、熊本市、八代市、天草市に次ぐ7万人余の人口を有する雄市である。それなのに通信インフラの遅れは甚だしく、光ファイバー網の整備率でも、同規模の荒尾市や人吉市に大きく水を開けられている。熊本県ブロードバンドマップを見ると、その玉名市の中でも、吾が“石貫”と隣接の“三ッ川”地区だけが、ポッカリと白地になっている。この地域の市外電話番号は0968-74で、管轄する電話交換局は両地区の境界にある。何とこの電話交換局管内だけは、今だISDNなのである。ISDNを使った人は分かると思うが、動画どころか写真のような静止画の受信すら儘ならない。このように普通の個人が逃げ出すような通信事情では、事業所の立地など望めようもなく、将来の発展は絶望的である。
私は早速行動に移った。先ず当地を管轄するNTT西日本に出向き、責任者に何度も面会を申し込んだが埒が開かない。然らばと、元NTTに勤務していた大学の友人に相談したら「民営化後のNTTは、不採算地域には行政の補助がなければ投資しない」との返事だった。次に玉名市の情報通信関係の責任者にも面会したところ、やはり行政の財政補助が鍵だと言われた。
この件に関しては、私の前に二人の先人が居た。一人は元市議で現在社会福祉協議会の要職にあるK氏、もう一人は不動産業を営むY氏である。両名はこの問題に私より先に取組み、各々過去陳情書を認め、市議会に諮っていた。然し何れの場合も議会の採択には及ばなかった。私は知合いの三人の市議に接近して懸命に口説いた。「三度目の陳情書を上げるので是非応援して欲しい」と!何れの市議も応諾されたが、皆さんインターネットには疎い。私は市長への直訴の機会を狙っていた。チャンスは程なくして訪れた。当石貫の夏祭りに市長が来賓として来ていた。私は缶ビールを片手に、つかつかと市長の横の椅子に座り、必死に訴えた。市長とは支館長時代から顔馴染みではあったが、如何せん市長もインターネットには疎い。私の訴えを携帯電話かTVの難視聴と混同してしまった。その後私は、K氏とY氏他、当地の区長他有志十数名の署名を集め、3度目の陳情書を提出した。市長と懇意のK氏は、中々署名をしてくれなかったが、粘り強く説得してやっと貰った。
その後数ヶ月が経過した。昨年末の事である。私が車を運転中に市職員のT氏から電話があった。ブロードバンド化に補正予算が付いたというのだ。事の顛末は、市長のトップダウンで『徳永さんから陳情があった件に予算を付けよ!』と言われたとか。私は“狂喜”した。まさに3度目の正直である。努力の甲斐があった。K氏もビックリしたとかで「流石ですね!恐れ入りました」と言われた。私は昨年師走も押し詰まった御用納めの日、Y氏共々市長に面会し、丁重に御礼を述べた。忙しい中、市長は30分以上も私と面会され、ご機嫌だった。私は最後に自著『親父のつぶやき』を謹呈した。
私は思う。政府は今、前代未聞の大不況に大慌てで、大盤振る舞いを始めたが、こんな時こそ道路や河川等の公共事業より、情報インフラの充実をはかるべきなのだ。然し現在社会を牛耳っている旧世代の人々は、この重要性が理解出来ない。だから若い世代の人々がもっと政治の世界にも進出し、自ら情報化をリードしなければ、都市と田舎の情報格差は埋まるどころか、益々拡大するだろう。以上


Open Garden

私は出張や旅行で見知らぬ土地を訪れた時、必ずと言って良いほど付近を散歩する。これは場所(国内外)や季節を問わない。ドイツ出張当時には、花で飾られたヨーロッパの古い町並みや、数百年を経た教会を見るのが楽しみだったし、国内出張や旅行の時も、大抵早朝に宿舎の周りを散歩した。あれは多分数年前、何かの用件で横浜本郷台にある、従姉の家に泊まった時の事だった。私は何時もの様に早朝ごそごそと起き出して、人気の疎らな住宅街を散歩していた。此処一帯は今や高級住宅地と化していて、広大な屋敷や豪邸も点在している。然し私は豪邸などに殆ど興味はない。何故なら如何にも高価な大木や、大石が所狭しと置かれ、立派な塀で囲まれていても、それは飽くまでその家のご主人の為の庭でしかないからである。
処が私はその日、坂道の途中の一軒にすっかり心を奪われてしまった。そのお宅は道路より数メートル高い所にある極く普通の家だったが、その庭は周囲とは逆に道路に面して作られていて、一際異彩を放っていた。即ちブロック塀がなく、道路から家に至る傾斜面を利用して、様々な種類の花木や、路地植えの草花類、数百個にも及ぶ鉢植えが整然と並んでいる。私はそのお宅の前で暫し佇み、何度も道を行ったり来たりして眺めた。それは恰も坂道を降りて行く途中に、小さな都市公園がある様な景色を醸し出していた。私はその家を訪問し、ご主人か奥様に話を聞きたかったが、早朝だったので遠慮した。その代わり、私もそれを真似ることにした。
我が屋敷の東側には幅3m程の小さな川があり、その斜面は嘗て一面の竹山だった。私はあの日の後、庭師に頼んでその竹を全て伐り払い、オープンガーデンにして貰ったのだ。然し本郷台の“例のお宅”と違って我家は田舎で、道路からも離れているので、草花や鉢植えでは意味を成さない。元から生えていた常緑樹主体の雑木に加えて、10本余りの落葉樹を植えた。そのコンセプトは“春夏秋冬”遠景を楽しめる庭だった。そして欲張って、あのガチョウをも飼い、動植物を同時に楽しめる庭を目指したのだ。
然し何事もいざ実行すると、想定外の問題が次々と発生するものである。竹を払ったお陰で日当たりが良くなり、雑草の伸びが凄い。私は毎年5月から10月までの半年間、月1回は傾斜面に伸びた雑草を刈る。一方では夏場の高温乾燥に耐えられず、植樹した花木の内数本も枯れた。それだけなら未だ良かった。昨年7月の豪雨で、ガチョウ小屋の基礎や、植木の根本の土が、ごっそり川面に崩落し流亡してしまったのだ。縦横無尽に張り巡っていた竹の根が腐り、土壌保持が出来なくなった為だった。私は茫然となったが、今更悔いても取り返しはつかない。
それから数ヶ月後の昨年秋、市の土木課から担当者が崩落現場の視察に訪れ、私に告げた。「自然堤防が崩落した箇所は、災害普及工事として認めますが、お宅が勝手に築いたガチョウ小屋の石垣は市では補修しません」と。私は暫く粘ったが諦めた。その通りだったからである。そして年が明けて今年、市の発注で“ジャ籠”と称する石ころと金網で、オープンガーデンの堤防補修工事が実施され、先日完成した。仕方がない。私は勝手にオープンガーデンと称して、川面に面する一帯を私有の公園としたので、ガチョウ小屋の石垣のメンテナンスは自ら責任を負うしかない。出入りの庭師に頼み、クレーン車とユンボを使って、大掛かりな斜面崩落補修工事を敢行する羽目になったのだ。
私は思う。あのヨーロッパの町並みも、本郷台のオープンガーデンも、多分住民手作りの庭だから、あの様に人の心を惹き付けるのだ。それなら、折角始めた我がオープンガーデンを、より多くの人々が見に来る様な、立派な田舎の名所にして見よう。私は数年前の長寿会の挨拶で、地域の高齢者に述べた言葉を思い出した。「現在此処玉名市では“まちづくり”と称して、其処此処に花壇を作り花を植えている。然し暫し綺麗なその花壇も2~3ヶ月後には花も枯れ、ゴミ捨て場と化して見苦しい限りである。それならいっその事、皆さんのご自宅のブロック塀を壊して、道から見えるようにしたらどうでしょうか?」と。然し今以て、私の提言を実行した人は見当たらない。終わり


読書

私は決して読書家ではない。と言うのも本来なら中学・高校時代に、図書館に入り浸ってでも読むべきだったのに、何故かそれをしていないからである。それもあって私は当時、国語や英語等文科系の科目は押し並べて苦手だった。だから結果として理科系に進んだのかも知れない。然しこの6年間は受験勉強が主体だったので、未だ言い訳も出来る。大学進学後は、間借りしていて自由時間がたっぷりとあった。この4年間こそ遊び呆けず、読書に勤しむには絶好の時期だった。然し当時読んだ本としては、あのマーガレットミッチェルの“風とともに去りぬ”位しか思い出せない。
その読書嫌いの私が、読書に明け暮れた数年間がある。それは静岡時代の後半、結婚して焼津に家を買い、電車通勤していた約6年間である。私のサラリーマン生活の34年間の内、この6年間だけは電車とバス通勤だった。然しその通勤時間は片道1時間程度で、待ち合わせや乗換えもあったので、実質の読書可能時間は合計しても1時間位だったろう。おまけに当時の朝夕の電車は、ラッシュで座るどころか立っているのも辛いほどだった。然しその狭い車内で、多くの乗客がむさぼるように読書している。私はその姿に甚く感化され、それまで余り立ち寄らなかった書店に足を運び、携帯に便利な文庫本を買い求めて読み始めた。この習慣が付くと、通勤が苦にならないばかりか、却って楽しみにすらなる。私はその当時、電車とバスの各20分の他に、会社の昼休みの時間すら、読書をする習慣が付いた。
たかが1日1時間と言う勿れ!これが6年間ともなれば、単純計算しても1500時間余り。1時間に10ページ読んだとしても、15000ページとなる。1冊300ページとして50冊である。処が、私の書斎には今尚数百冊の本が並んでいる。引越しの度に捨てたのを含めれば、もっと多い筈である。その食い違いの理由は、当時は休日も一日で一冊とか読んでいたからだろう。然し、この私の素晴らしい読書習慣も、和歌山転勤とともに薄れ、何時しか本は買えど、最初の数ページを読んだだけで、本棚に“積読”する習慣が付いてしまった。そしてその後退職に至るまで、二度と電車通勤の機会は訪れず、私は退職した。
処が最近、その書棚の中の一冊に目を留めた。それは元NHKアナウンサーの鈴木健二氏の著書“男が50代になすべきこと”である。私はこの本を何と1990年(43歳時)に読んでいた。50代には未だ7年も残す時点である。何故ならその当時、著者の鈴木健二氏は、あの細川元首相(当時は熊本県知事)に乞われて、熊本県立劇場の館長として赴任されていたからである。私は思い出す。幾度も県立劇場に氏の話を聞きに行き、感動した事を。そして氏はその当時、各種の文化活動の一環として“日常塾”を開講されていた。私は氏にすっかり惚れ込み、その塾生に応募した。それは自己紹介と短い論文だった様に記憶している。私は幾度も推敲を重ねて論文を提出したが、結果は不合格だった。処が当玉名の某GSの女性経営者は見事合格された。私は少なからずショックを覚え、事務局に不合格の理由を問い質したが満足する回答は得られなかった。現役会社員は塾生としては不利だと思った。
それから十余年後の5年程前から、当玉名市で“一区一輝”と称するまちづくり運動が、小学校区毎に地域主体で始まった。処が全13校区の中で、常設の活動拠点を確保出来たのはたった3校区。①母の実家の“伊倉にわか館”② あの某GS内の“でんでんハウス”③我が石貫の“ナギノ交流館”である。私は塾生応募ではGSに負けたが、まちづくりでは引き分けに持ち込んだ。然しこの奇縁は鈴木健二氏を抜きには考えられない。何故ならば、ボランテイアと言う言葉が珍しかった当時、氏は無給で“生き甲斐”の為に塾を開かれていたからである。
私は思う。50代とおさらばする今年、もう一度この本を読み返そうと。何故なら氏はこの著書の中で、“男が60代になすべきこと”は書くことはないだろうと述べられているからである。終わり


市民体育祭

此処玉名市は昨年度周囲の3町と合併し、7万3千人の人口を擁する県北の雄市となった。然し合併に伴う諸行事の統一化は中々進まず、今年も10月8日に旧玉名市の13小学校区のみから成る、中央公民館の単位で市民体育祭が行われた。然し校区対抗といっても、その規模には大きな格差がある。例えば小学校の児童数でも最大校は約600名、最小校は約30名と、その格差は20倍にも及ぶ。私の所属する石貫校区の児童数は90名弱で、下から4番目位の弱小校区である。
従って、従来から市民体育祭には「出ると負け」の状態で、最下位の常連とも言われていた。処がどうした事か、私が公民館長を拝命した4年前頃から徐々に成績が向上し始め、3年前は6位、2年前は4位、そして昨年は奇跡的な初優勝を遂げた。これには色んな要素が絡んでいるが、一つには小学校の前校長(女性)が大変教育熱心な方で、毎朝児童に運動場を走らせて、体力向上の為に努力された事や、中長距離を得意とする幾名かの選手が揃っていた事等が考えられる。何処の体育祭でも花形競技は徒競走、中でもリレーは、トラックの周囲にずらりと並んだ各校区のテントの中の聴衆から、盛んな歓声や拍手が起き、選手も応援も自然と熱くなる。
支館長の出場競技もそのリレーである。しかもそれはプログラムの最終盤、各校区の花形選手が競う「オールスターリレー」と名前が付いている(但しこの競技は何故か得点競技の対象外)。私はこれまでに、体調が悪くて代役をお願いした年を除き3回走った。たった50メートルの距離で大した事は無いように思われる。然し、何せ選手は高齢の支館長、毎年バトンを待つ間に「互いに無理をしないでゆっくり走ろう」と申し合わせる。然しそれが守られた例が無い。所詮相手を牽制する為の“三味線”なのだ。いざバトンを受け取ると、皆年甲斐も無く必死で走る。勿論私もそうだ。そして昨年は目出度く一位で引継ぎが出来た。処が今年は前走者(PTA代表)が僅差の二位で私に引き継いだ。一位は私が何かに付けライバル視している、最大校区のN支館長である。私は決して速くはないが、何としても彼だけには負けたくない。必死で走ってバトンタッチの頃には殆ど彼に並びかけた。処が何とした事か、余りに急いだのと其処が左カーブの場所だった為、上体に足が付いて行けなくなり、バトンタッチゾーンに入った途端、ばったりと前に倒れ、次の走者にバトンタッチが出来なかった。そして其の場所は丁度、私の属する石貫校区のテント前、恥ずかしいやら悔しいやら。全身泥だらけになり、手と膝を擦りむいて惨めな格好で引き上げた。そして次の走者の区長会長からは「折角転ぶなら、バトンを前に投げて呉れれば良かったのに」と皮肉を貰ったので、彼は倒れた私からバトンを受け取ったのだろう。然し私はテント内の聴衆から、暖かい労いの拍手を頂き、閉会式では泥にまみれた出で立ちで、優勝の賞状を受けた。
私は思う。何事についても、トップになるには色んな要素が必要だし、それは簡単ではない。勝てない原因を規模の所為にすることは簡単だが、それよりも重要な事は“各人が必死に頑張る事”ではないだろうか?私は最後の年(今年度で公民館支館長を辞する積り)に、リレーで花を添えられず、とても残念に思うが、倒れるまで一所懸命走った事で、些かなりとも“其れ”を示せたと思っている。そして、校区民への報告書に「連続優勝はフロックではない事の証明」と記した。終わり


しょのむ

先日、鹿児島市で九州公民館大会が開かれたので、総勢20余名のメンバーで現地を訪れ、参加する機会を得た。私にとっては、久し振りの鹿児島であった。然し、旅にはトラブル/ハプニングが付き物でも有る。今回もその例に漏れず、不案内の運転手が道を間違えて、昼食予定のレストランを探し回ったり、ある人がホテルの鍵をそのまま持ち出してしまったので、返却する為に途中から引き返したり。お陰で我々は鹿児島市内をグルグル走り廻って思う存分見学する事が出来た。そしてその間、車内では色んな会話が飛び交った。その多くの会話が、その発展振りに対する驚きと、熊本市との比較であった。鹿児島市と、熊本市はその規模において大きな差は無く、市電が走っている事等、似通った点もある。然し大きな違いがあった。それは鹿児島市には、熊本市の致命的欠点である、慢性渋滞が殆ど見られなかった事である。我々はその原因について色々考えた。私は都市計画の差だと思った。熊本市は幹線の国道3号線が市内中心部を貫通しているが、鹿児島はその終点に当り、熊本市程の通過車両はない。それにも拘らず、海岸沿いには立派なバイパスが出来ていて、多くの車両が渋滞もなく走行している。鹿児島県に行くといつも感じるのが、平野が狭く地形も入り組んでいて、熊本県程地形に恵まれていない事である。鹿児島市もその例外ではなく、山地と海岸に挟まれた地形は、交通渋滞を招きやすい。然し現実は異なっていた。
他県の人に言っても理解できないので、熊本県の方言だと思うが「しょのむ」と云う言葉がある。その意味は「羨む」若しくは「妬む」に近いと思うが、熊本県人の県民性を良く表わす独特の感情で、上手く表現出来ない。熊本県人は得てして、成功者を妬み、隙有ら後ろから足を引っ張る。この気質が災いして、衆知を結集することが肝要な政治・経済面で、鹿児島に大きく遅れをとっているのは、明治維新や、最近ではAU(KDDI)の成功例を引くまでも無かろう。熊本県人の例外的な成功は、芸能人やスポーツマン等、主に“個人技が求められる分野”であり、最近はチームプレーが重視される高校野球でも鹿児島に遅れをとっている。
私はこれまでの半生において、幾名かの鹿児島県人と共に仕事をしたが、その度に“小さなトラブル”に見舞われた。何れの人々も“すこぶる頑固”であった。そして、私はそれを“突き崩そう”と試み、悉く失敗した。それは県民気質の相違にも一つの原因がある様に思うが、彼らよりも“自分の側”にこそ問題があったのだと思う。そしてその一つの解答は、意外にも今回の旅行で、バスの窓から見えた田舎の原風景の中にあった。鹿児島県人は、先祖をとても大切にする。その証拠に、人家から決して近くない所に有る殆どの墓にも、溢れんばかりに綺麗な花が飾ってあった。然し私は、直ぐ近くにある先祖の墓の花すら、メンテナンスが出来ていない。終わり
追伸:先日家内の姪が成人の日を迎え、和装の出で立ちで我家を訪れた。彼女は現在鹿児島大学農学部の2年生“私のアドバイス”に感謝していると言う。実は2年前彼女が大学受験を前に、九州大か鹿児島大か迷って相談に来た時、私は鹿児島大を勧めた。理由は既に述べた通りである。九州大も悪くはないが、卒業生には“学者然”としたイメージが付き纏う。嘗ての私の部下の一人も九大卒だったが、扱いに非常に苦労した。ある種の自信過剰は、協調性を阻害する。その点鹿児島には、あの巨大な櫻島大根に象徴される、何か“農学に打ち込む土壌”を感じるのは私だけであろうか?以上


公民館活動(その二)

支館長の職務には、自校区の各種行事実行の他に、もう一つの仕事がある。それは中央公民館レベルの仕事である。例えば「明るい選挙推進」とか「人権教育推進」等がある。私も支館長の中では、未だ年齢は最も若い方に属するが、在職年数の方は既にベスト3に入る程のベテランになってしまった。そして、今年は遂に「大俵まつり担当」と云う重職が廻って来た。この「大俵まつり」とは、古くは江戸時代、米の集積地として栄えた高瀬(現玉名)の「俵ころがし」にちなんで、秋分の日に開催される祭りで、巨大な俵を引く競争(賞金付き)がメインイベントになっている。私は過去3回(1回は雨天中止)経験したが「俵ころがし」の地で催される祈願祭も、玉世の姫(公募で選ばれた美女)を中心とした街頭パレードも今一つ盛り上がらない。このパレードで、13名の支館長は神主の装束に身を包み草履を履いて、後ろには自校区の区長さん等を従え、町並みを練り歩かねばならない。最初の年は沿道に大勢の見物人が居た様に感じたが、昨年は高齢者がちらほら程度。こんな状態で暑い中の遠路を歩けば、疲れだけが倍加する。一緒に歩いた同僚の支館長も「何とかしなければ」という思いは同じであった。
そして今夏、今年度のまつりの実行計画を審議する実行委員会が商工会議所主催で開催され、私も支館長代表として参画した。そこで私は次のように意見を述べた。「シャッター通りと化した町並みを、年配者が歩いたところで人々は集まらず、ただ空しいだけである。いっその事、子供中心の行列に変えたらどうか?今の時代、老人が出たところで子供や孫は無関心だが、子供が出れば親や祖父母は見に来るだろう」と。この私の発言に、同席していた市長が全面賛同し「官製の祭りは概して人気がない。彼の提案を検討せよ」との指示が出た。私は「ヤッタ」と喜んだが、これが以降大きな波紋を広げる事になる。その兆候は、その後ある席で会った時市長が語った次の言葉に既に見えていた。「貴方の提案に関係者一同頭を抱えているよ!」
それから時が過ぎ、先日支館長会議が開かれ、今年度のまつりの実行計画が当局より示された。処がそれに対して「何でくるくる内容を変えるのか」とか「子供への出場依頼は自分達では無理だ。学校に頼め!」とか異論百出。とうとう会議は混乱の内に終止した。然し一番驚いたのは、私と共に実行委員会にも出席していた長老格の支館長が、先頭に立って異論を唱えたことである。私が良かれと思って提案した事が、こんな大混乱を招くとは全く予想外の展開だった。その後、市の担当者は後始末に大忙しで、私の校区の運営委員会にも態々来て、主旨を説明して子供を出して欲しいとお願いされた。然し今度は区長会長が難しいと言い出し、遂には私と小学校長に人選を任された。私は翌日小学校に伺って協力を願い出た。そうしたら何と、出場しても良いという女子が3人も居るではないか?私はその3人を「神の助け」だと思った。そして3人の付き添いとして、私と区長会長もパレードに出場する事にした。
私は思う。人間は身勝手な動物である。批判する人が必ずしも改革者とは言えない。それは昔の社会党が、批判ばかりしていながら、最も保守的だったことで、既に証明されているではないか。


公民館活動(その一)

早いもので、私が公民館支館長を拝命して今年は5年目になる。あれは3月末のことだった。区長会長と婦人会長が連れ立って2度も我家に来られて、就任を強く要請された。私にとっては正に晴天の霹靂だった。支館長とは、市社会教育課傘下の各種委託事業を司る役職で、元来地域の長老や退職校長等が就くのが慣わしだった。然し当時の私は現役社員だったので固辞したが、お二人の余りの熱心さに負かされ、最後には渋々承諾してしまった。前任のY氏が脳梗塞で突然倒れられた故の、急遽の登板でもあった。
就任要請の殺し文句は「自分達が何でも段取りするから、貴方は只座って居て、挨拶すれば良い!」とのことだったが、事実は相当異なっていた。何せ支館長傘下の運営委員は、区長はじめ学校長・長寿会長・婦人会長・議員等々、殆ど私より年上の名だたるお歴々なのだ。挨拶も確かに多いが、それだけで人が動く筈がない。市主催の支館長会議に初めて出席した時は、飛びぬけて若い私(当時55歳)にびっくりした大先輩のK支館長から「貴方、この役職はそんなに生易しくない。現役では無理ですよ!」と嗜められた。(事実、着任2年目に私は退職した)それから既に4年半、色んな事が起きたし、又大変だったが勉強にもなった。
支館長主催の最大行事は、秋の球技大会である。これは近くの大学の施設を借用して、校区の老若男女が、好きな各種のスポーツを楽しむ一大イベントである。そして支館長の主業務は、施設の確保と主催即ち、開会・閉会(表彰式)挙行である。(競技運営は体育指導員が行う)
就任最初の年は大変だった。競技会場の予約が取れないのである。市の担当者と彼方此方の会場を駆け回り、日時と競技種目のケーススタディを3案程作成した。最悪の分散開催も覚悟した。然し、結局は大学一箇所で挙行する事になり、結果グランドゴルフが犠牲となって、農場脇の狭い場所となり、楽しみにしていた高齢者に迷惑を掛けた。それが気になって、私は競技終了後の午後の宴会(6区に分かれて開催)の席に、一々お詫びして回った。処が地域の皆さんは大歓迎で、クレームどころか献杯の嵐を受けた。
以降4年間、この大行事を実施する中で、私なりの認識も少しずつ変わってきた。即ち地域のイベントで大切な事は、滞りない行事の遂行や立派な挨拶よりも地域住民の相互親睦で、住民大多数の楽しみは、競技よりもむしろ終了後の宴会だったのである。そうなると、重要な事は協賛金(品)集めとなる。従来から少しは集まっていたが、とても満足出来る量ではなかった。そこで私は、毎年会計担当の区長と、挨拶状を持参して地域の事業所を個別訪問し、一々趣旨を説明して協力を依頼した。その効果がようやく昨年から出始めた。開会式の時、舞台上一杯に並ぶビールやジュースの箱は壮観である。そして、司会の区長会長挨拶には、決まり文句が出るようになった。「今年も支館長のご努力で、沢山のお樽(協賛品)を頂きました。皆さん楽しみにして下さい」この挨拶を横で聞きながら、私は何とも言えない満ち足りた気持になる。そして、以前は一所懸命に練り上げた挨拶の言葉など、考えもしなくなった。それよりも来年の為に、今年協賛頂いた事業所さんにきちっとお礼に行かねば!
私は思い出す。「汗は自ら掻きましょう。手柄は人にあげましょう」という、あの余り評判の芳しくなかった“竹下総理”の有名な言葉を。終わり


市政懇談会

何時から始まったのか知らないが、この地域では市政懇談会と称して毎年一回、小(中)学校区毎に市長はじめ市の幹部一同と、地域住民との対話集会が開催されている。方式は地区の区長会長が議長役となり、地区住民が自由に行政への質問・苦情・要望等を述べ、行政側の責任者がこれに答えるスタイルを採っている。間接民主主義のわが国にあって、このような直接対話の機会は貴重であり、私はこれを評価し、数年前から欠かさず出席して、毎年2~3件の質問や要望を述べて来た。それを市側は記録し、その場で回答出来ない場合でも、翌年以降回答をまとめた冊子を制作・配布して呉れる。
特に昨年度私は、市の駐車場へのゴミの不法投棄について厳しく問い質し、対策を要望した処、早速業者と住民参加で投棄ゴミを撤去し、駐車場を閉鎖する対策をして頂いた。跡地にロープを廻らし、立ち入り禁止にした為、以降一台の違反車両もなく、今も綺麗な状態を維持している。
然し私のような問題提起は極めて少数である。今年度は久し振りに中学校区単位で開催されたが、住民からの質問の殆どが陳情であった。そしてその内容も実にひどい。区長が(担当区民から依頼された)数件の陳情を次から次へと述べる。つまり「何処其処の水路の浚渫をして欲しい」は未だ良いとして「草刈や補修が大変だから三方張り=U字溝設置をしてほしい」「自宅前の道路を拡幅・整備して欲しい」等々、止め処もなく次から次へと公共事業の陳情である。市側も、いい加減にして欲しいと思っては居るのだろうが、表面上は淡々と、然し巧みに言質を与えない形で、紋切型の回答をした。
私はこれらの陳情を聞きつつ、段々と腹立たしく思った。この(陳情する)人達は、都会ならまだしも、田舎の生活道路の隅々までコンクリートで固めて、草一本生えない状態にすることが良い事だと思っているのだろうか?市の財政が今どのようになっているのか、少しは考えているのだろうか?何処からお金が沸いて来ると思って居るのだろうか?自分達が払う税金で賄う工事なら、もう少し違った考え方もあろうに!誠に情けない住民エゴ大合唱の集会と成り果てている。
会の終盤、私は堪りかねて手を上げた。会の雰囲気を変えたかった。私の質問は市役所の駐車場の狭隘さと、その対策として「マイカーユニオン」=「職員組合設置と民間駐車場借り上げによる、新たな駐車スペースの確保」であった。質問の途中誰かが思わず拍手した。多分その人も私と同じ気持だったのだろう。市長の回答はやや戸惑い気味ではあったが、一石を投じた意味はあったと思っている。
私は思う。公共事業は、その恩恵に浴する人が多数であって初めて成り立つ。皆が我田引水を始めたら、この国は大増税か借金地獄でつぶれるしかないと!政治家の皆さん、宜しく頼みます!


刑事

あれは、私が入社3年目の頃だったと記憶している。その頃、私は街中の部屋を借りて、一人暮らしをしていた。当時、天気が良い日は自転車で通勤していたが、その頃気になることがあった。会社の帰途、門を出てから誰かに尾行されているような気がした。その予感は当っていた。ある夜私の部屋に私服刑事が訪れた。そして私に質問した「Yさんを知らないか?」と。Yさんは、私の従兄弟である。私は勿論知らないと答えた。そしたら「下手に隠すと貴方の為になりませんよ」と言う。私は「ムッ」となり「それは一体どう云う事ですか!」と聞き返した。刑事はそれには答えなかったが、私はピンと来た。つまり「会社にばらすぞ!」と云う事らしい。
私の大学生時代の後期は、学生運動がピークに達した時代で、特に文系には過激派が多く、私の属した工学部の学生は、彼等から「日和見主義者」と嘲られ、卒業式もなく卒業した世代である。Y君は、関東の有名大学で闘志となり、あの有名な「浅間山荘事件」に加担した。彼は、直接手を下したメンバーではなかったが、当時は逃走中で、警察に追われる身だった。
私は、例えYさんの居場所を知っていたとしても「幼馴染」を警察に売る積もりはなかった。然し知らなかったので“より強く”反発したのである。と言うのも、刑事が私を“脅迫”する理由も有った。当時は「今もかも知れないが」どんなに優秀であっても「思想掛かった人間は、会社幹部にはなれない」と言われていたからである。
それから数年後、私は東京世田谷の伯母の家で、Y君と久し振りに再会した。彼はあの後、友人宅に身を寄せて居た所で捕まり、裁判・服役を経て出所したばかりだった。どんな罪だったか、聞いたこともないが、福岡刑務所だったと聞いている。彼は当時自宅に風呂を作っていて、私もセメント塗りを手伝った。それ以来彼との交友は続き、何度も彼のお宅に泊めて貰い、伯母や彼と歓談した。私は上京すると、彼のお宅に伺うのが最大の楽しみだった。後述略
それから更に20年後、私は此処石貫の「まちづくり副委員長」の肩書きを引っ提げて上京し、Y君とその弟2人に面会して、彼の父の家(注.此処石貫にあり、当時は空き家になっていた)を「まちづくりの拠点=ナギノ交流館」として借用すべく交渉した。そして、その交渉は目出度く纏まり、地域活動の拠点として、現在広く活用されている。伯母はその頃、既に入院して死期が近かったが「冥土への土産になる」と、とても喜んで呉れた。
私は思う。あの刑事が来た時、私が若し「調査に協力する」と言っていたら、事態は今と変わらないかも知れないが、私は彼に“顔向け”が出来ず、多分「ナギノ交流館」も出来ていなかっただろう。


セドヤ


小さい頃私は、石原裕次郎のヒット曲「二人の世界」ならぬ「一人の世界」をつくる遊びをしていた記憶がある。部屋の片隅に幾つかの四角い火鉢や、座布団等を集めて積み上げ、狭いスペースを作り、其処に入って心地良さを味わう。これを私は「セドヤ」と呼んでいた。「セドヤ」とは、狭い部屋と言う様な意味であろう。特別な目的はなかったが「セドヤ」に篭ると何故か心が落ち着いた。それは多分、昔の家はだだっ広くて、家財が殆ど無く、がらんとしていたからだと思う。
私の友人のIさん夫婦は一風変った方である。北九州の人だが、田舎暮らしに憧れてとうとう阿蘇の原野を購入し「第二の人生」を過ごす住処を完成された。私も何度かお邪魔したが、素晴らしいお宅である。そのIさんから、敷地に残る樹木を利用して、樹上ハウスを作る計画があると聞かされた。私はこのアイディアを早速頂戴した。我が畑(実は借地)に一本の大きなイヌシデがある。これは元々有った古家(旧隠宅)を解体し、樹木を伐採した2年前、わざと残しておいた木である。地際から数本の枝分かれした形状と、生えている場所が、樹上ハウスにぴったりだった。
今春、親友のK君が私の檜山(Working on the problem参照)にログハウスを作りたいと言い出した時、私は乗り気ではなかった。それが如何に大変な作業であるかを、20年程前に「スカウトハウス」建設で経験していたからである。その代わり、樹上ハウスには興味があった。私は、小さい頃から木登りは得意で、屋敷や地域にある色んな木々に登って遊んだ。これは特に柿捥ぎには役立った。大木の頂部近くまで登り、モジキ(先端を加工した竹)で柿を捥ぎ、下で待つ母に投げ落とす。母は、テニスの経験があるとか言って、キャッチ(ちゅん取り)が得意だった。又、柿の樹上から見渡す周りの景色も良かった。丁度その時、何処からか大鵬・柏戸の大相撲放送が聞こえていたのを覚えている。
処が、今の子供は木登りをしない。彼らに、高所(樹上)からの景色を見せてあげたい。そんな想いで、K君の助けも借り、一ヶ月足らずで完成したのが写真の樹上ハウスである。大人の遊びとしては、可愛い部類に属そうが、最近は大人も子供も「遊び心」をなくしてしまったようで何だか寂しい。私は、この高さ5m、広さ半畳程度の樹上ハウスを「セドヤ」と命名しようと思っている。


農と地域興し

結局、自分の犯した失敗を繕うには、農業をするしかなくなったこともあり、定年まで4年を残してサラリーマン生活に別れを告げた。然し周りを見渡せば、石貫は山有り、谷有り、川有り、正に山紫水明の恵まれた地域である。然も川沿いの土手には、先人が植えた立派な染井吉野や八重桜が育ち、季節を華麗に彩る。この恵まれた環境を生かせば、農業を核とした地域興しは成功させられる。折から、市では一区一輝運動と銘打った地域興しプロジェクトが発足していた。
地域興しは先ず率先垂範、自分では田の土手にひまわりやコスモスの種を蒔き、空地に間伐材を利用した鶏小屋を建設した。将来は生ごみを分別して貰い、鶏に与え、それを食べて生んだ赤卵をそれらの人々に提供すれば、これは立派なリサイクルである。こんな生活は自分が子供の頃では当たり前だった。態々お金を掛けて市のごみ収集のお世話になる必要は田舎ではない。
更に近くの山に植えたクヌギが大きく育ち、下刈りすると散策にもってこい。夏はカブトムシやクワガタが発生し、子供の格好の遊び場になる。下葉を集めて醗酵すれば立派な堆肥、それを使った有機栽培、切ったクヌギは椎茸の原木に。屋敷裏の空き地に柿、栗、梅、桜、モミジ、ケヤキ等を植えたら下にフキが大発生、これも名産に出来る。小岱山に植えた桧は間伐時期を迎えた為、引き出してウッドデッキを製作、家内に喜ばれた。これらは何れも地域の資源を生かすことで、やろうと思えば誰でも出来ることである。