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旱魃その一

今年ばかりは、春から夏にかけて、大陸の高気圧が張り出した為に、雨が殆ど降らず、歴史的な旱魃の年だと云わざるを得ない。その影響は多岐に亘るけれども、最も深刻なのは、水田に水が来ず、田植が一ヶ月以上も遅れた事である。私は自宅裏の田圃で稲作を始めたが、結局乏しい水の奪い合いとなり、遂に半世紀にも及ぶ米作を、諦める結果となった。

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農作業その十

今年は稀に見る、晴天続きに恵まれたお陰で、山口田の草刈と、粗起こし作業が順調に進んだ。残るは最大の田圃、小松田氏と、新規参入の松永氏を、残すのみとなりました。来月からは愈々田植が始まります。


農作業その六

久方振りに、玉葱を収穫した。今年は雨が少ないので、全般的に玉太りが遅れ、中小玉が大半である。嘗ては沢山の玉葱を軒下に干して、長期間食べていたが、近年は消費量も減ってしまった。と言うのも、温室ハウスの広範な普及から、野菜の季節感が、全く薄れてしまったのである。


農作業その四

今日は天気が下り坂なので、急いで自作田の畔の草切作業!何とか刈り終えた。それにしても、苗代と田植えを、同じ水田で行うのは、少々無理がある。何故なれば、水の管理が、他の水田と時差が生じるからに他ならない。とか言っても、贅沢は云えないので、水利を工夫するしか無かろう。何故なれば、永らく借りている田圃も、今や地主の高齢化の為に自宅も空き家で、生死すらをも分からず、結果的に土地代すらをも、払えていないからである。


農作業その三

近年、田圃を見回せば、麦を栽培する農家が、米を作る農家に、勝る勢いとなっている。それは今年の様に雨が少ない年なれば、出来も良いし、売り上げも上昇傾向にある。処が戦後に食糧不足を経験した我々の年代は、私も含めて米作りに過度に執着した為に、コメ余りの現象を引き起こしたのである。従って人口減少の時代には「多品種小食」が未来の食事情になるのでは、無かろうかと思う。


農作業その二

古来より、日本の主食は米と麦が代表的であるが、近年冬小麦を栽培する農家が増えて来た。それは即ちパン食を好む人が増えた事と関連している。何を言おう我家も、パン食がめっきり増えているのである。なのに態々、田圃に向かない農地を、無理して耕作する必要はサラサラ無い。依って私も田圃は、将来的には縮小すべきだと考えている。


KTTその十五

私は小学生の頃、自家中毒がひどく、食事を度々戻すので、その度に、主治医の松浦先生に来て貰い、ブドウ糖の静脈注射して頂いたお陰で、70年も生き長らえることが出来た。当時は勿論車も無い時代で、先生は4kmの砂利道を、自転車で来られたのだった。それにしても、ブドウ糖の効能は劇的で、ドッと血液が注射器に逆流し、それが再び、じわりじわりと血管に流れ込む頃には、気分が良くなる程の効能があった。

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冬その九

今年から「石貫馬場地区」の水田耕作を諦め、自宅西側のY氏の細長い田圃を、耕作することにした。その理由の一は、土手が崩壊して、水が溜らなくなった為!その二は、地主が私の管理ミスだと断言した為!とにも斯くにも、農業経験が全く無い地主と、幾ら空理空論を並べ立てたとて、議論は平行線を辿るばかり。過去の事はきっぱり忘れて、新田の整備に全力を注ぐことにした。そう決まると、良い事が次々に湧き出る。先ずは「自宅に近い」こと。自宅と田圃との往復が、軽トラから徒歩に変わった。農機具を忘れても、直ぐに自宅に戻れる。良い事ばかりである。


冬その八

嘗ての水田は、牛馬主体なので、少々の湿田でも、耕耘や代掻きが可能だったけれども、機械化された現在では、地下の硬盤がしっかりしていなければ、トラクタ等の大型機械が、自由自在に動き回ることが出来ない。其処で私は、五枚に分かれていた我家の水田を、一年間休耕して矩形型の一枚に集約した。処が色気を出したのが、躓きの始まり!水田の一部を埋め立て、宅地化して販売を試みたのである。早速幾人かの希望者が来られ、気に入られた。処がどっこい、市に農地転用申請を試みるも、許可が下りない。其処で同級の担当者に、それこそ日参したが、最後には「市には許可の権限なし=県の許可が必要」と、かわされ、埋め立て地は、哀れ成るかな「牛の採草地」に落ちぶれたのである。私は数々の失敗をしてきたが、人生最大の失敗は、この事である。


冬その六

昨年まで借用していた崩壊田の後始末を、どうすべきか悩んでいたが、地主は相変わらずの様子なので、今朝一番に軽トラで出かけて、PL波トタンやら、架け干し用の竿竹等を、軽トラに積んで、自宅に持ち帰った。それにしても、農業の「農の字」も知らない地主が、半世紀も農業をしている私に向い「管理不行き届き」とは恐れ入る。今や少子高齢化の時代を迎え、田畑は担い手不足で、荒地がじわじわと拡大しているのである。恐らく数年後には、猪が出没するような水田は、担い手が居なくなり、原野に戻るに違いない。土手が崩壊した原因も、戦後の米不足から、山地沿いの桑畑を、無理やり水田化した、ツケが回って来たのである。


冬その五

今年は自宅裏の田に水を溜める「冬季湛水」の実験を始めた。此処は年中、小岱山からの湧水が有るので、持って来いの場所なのである。然し畔からの漏水防止には、始終気を付けねばならない。更にはモグラも同様である。嘗ては友人が田植えをしたが、収量は僅かだったので、大きな期待は望めないけれども、ダメ元で遣っているようなものである。

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冬その三

冬の時期の仕事は無いようにも思えるが、決してそんな事はない。何故なれば、夏の暑い時期に重労働をする人は殆ど居ないし、冬も様々な雑用はある。私のポリシイは「夏は軽作業、冬は重労働」である。田圃に当てはめれば、田植の準備だと考えれば良いのである。今年は借地田の土砂崩れで、収量も半分しかなかったので、自宅裏の耕作放棄田を整備して、米を作りたいと考えている。尤もトラクタは使えない湿地なれども、ぼちぼち手作業でやれば、それなりの収穫は得られると思う。


冬その二

冬の楽しみは何と言っても焚火!私は秋頃から、せっせと枯竹を伐採して、焚火の準備をしている。竹と云うものは人と同じく寿命があり、毎年一定割合が枯れるので、燃料として好都合なのである。今冬は雨が多いので困るが、日長一日焚火をして、物思いにふけるのは、密かな楽しみだと云えるだろう。それにしても、米国西海岸、カリフォルニア州の火災は、規模も甚大で、毎年死者も多数に及ぶのは、信じられない。


秋その十一

今年の米作りも終盤を迎えたが、例年に勝る重大事件があった。それが田圃の崩壊である。梅雨時に、我が借地田圃の一角が崩壊して、水が溜らなくなった。その結果、収量は例年の半分以下と落ち込んだ。其処で地主に修復を依頼するも「管理不行き届き」との責任論を持ち出して、私に資金負担をさせる有様!毎年猪の被害に遭う苦境に喘いでいるのに、これ以上耕作する気持ちが無くなり、今年限りで返却することに決めた。

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秋その九

今日は雨の予報なので、急いで田圃の稲藁の散布作業!殆どの農家はコンバイン脱穀+(莫大な電力を消費する)電熱乾燥に移行したが、私は今も尚、旧態依然足る「架け干し天日乾燥」に拘っている。その理由は、他の田の米(=有農薬米)を混入してしまうことが、どうしても避けられないからである。


秋その四

暑かった今年の夏も漸く去り、本格的な秋のシーズンが訪れた。処が今年は私が前立腺除去の手術をしたので、激しい労働をするのが困難で、米作りが疎かに成ってしまった。それを狙っていたのか、ちゃっかりと猪が田圃に侵入して、彼方此方の稲を踏み倒している。全く油断も隙も無い連中である。猪の習性は所謂「泥浴び」ダニ落としの為に、する行動なるも、稲は臭くなり食用には使えず、鶏の餌にするしかない。


秋その三

秋野菜の醍醐味は豆類で、中でも豌豆が最右翼だった。処が近年は、殆ど収穫前に、雀が大挙襲来して、一網打尽にされる有様!その根源は何と、銃砲規制に遡るのである。と云うのも、嘗ては雀は散弾銃で撃ち落とし、焼き鳥にして食べていたが、今や銃砲規制が厳しくなったお陰で、鳥類の天国と化し、我家の鶏の餌すらをも、野鳥の餌となってしまった。


秋その二

俄かに秋めいて来た昨今、秋野菜のシーズンが訪れた。それにしても、野菜の収穫は、豊凶の差が大きく、私の思い通りには成らない。今年ずば抜けて豊作だったのが、ゴーヤ、逆に悪いのが法蓮草!これが逆なら良いのだが?それにしても、最近の農作物被害の最右翼は、雀と言って良い。嘗ては狩猟が許されていたが、禁猟後は雀の天国となり、我家の鶏の餌の半分近くは、雀に食べられている。多分お釈迦様も、ビックリされていることだろう。


秋その一

9月も後半となり、俄かに秋の気配が濃くなった。それ故に先日来から、畑の雑草を刈取り、トラクタを入れて耕し、秋野菜の種まきをしようと思ったら、今日から雨となり、一休みと云った処である。何せ今年の夏は数年来の干ばつで、野菜を植えれる状況では無かったのである。他方水田に至っては、地主は全く無関心で、土砂崩れの復旧もされず、水も溜められない状態では、私の力では何しようも無く、草刈をすること位で、溜息を吐いている今日この頃である。本当に今年程、農業の難しさを、思い知らされた年は無かった。


稲作その五

戦後に起きたブームで、思い出すのは「養蚕」である。我家の隣家等は、一階から二階にかけて吹き抜けの構造で、大量の桑の葉を、棚状に並べ、蚕を飼っていた。蚕は所詮虫なるも、耳を澄ませば「ワシワシ」と音がするほどの量だった。そしてこれこそが、一過性に過ぎなかったが、敗戦の痛手を癒す、目玉と云える輸出品目として、米国女性のストッキングの材料として、対米輸出の切札と、成ったのであった。あれから早半世紀、今や日本車の洪水で、米国から「輸入制限」を迫られる事態に!


稲作その四

嘗ての日本は農地の有効活用を図る為に、米麦の二毛作を推進して来たが、流石に近年は、その形態が崩れつつある。国民の趣向が、米一辺倒から、徐々にパン食に向いつつあるからである。特に石貫の様な中山間地で、無理やり米作りをすることが得策なのか、私自身も疑問を抱くようになった。麦作であれば、水利が不要となり、傾斜地でも、容易に耕作地として、活用出来るからである。戦後の一時期、養蚕が華やかなりし頃、雪崩を打った如く、桑畑が拡張したが、ナイロンの登場と共に、大ブームは終焉してしまった。


稲作その三

過去の我が国は、米作偏重とも思える、水田農業をしてきたが、流石に近年は、麦が復活の兆しが出て来た。と云うのも、日本人の趣向が、パン食に向かいつつあり、嘗ての水田を、麦作に転換する農家が、出て来たからである。特に我が石貫の様な、中山間地に迄、無理やり米作りをするのは、リスクが大き過ぎると、私自身が土砂崩れを目の当たりにして、身に染みたからでもある。


稲作その一

9月になり、秋の収穫シーズンが近付いて来た。処が私は今年、前立腺全撤去の手術を受けたので、暫くの間は、重労働が難しい。それに加えて、耕作田の一角が崩壊して、水を溜められなくなってしまった。おまけに猪までが自田に侵入して、将に「泣きっ面に蜂」の状況なる故に、病後の体を押して、畔の草刈を実施せざるを得ない、状況に追い込まれた。こんな状況を察知して、助け舟を差し伸べる人も居られ、感謝している次第である。


夏その二十

水田と言うものは、水を張り、適切に水位を調整してこそ、稲が雑草に負けず、育つのである。処がこの事こそ「言うは易く実行は難しい」何故なれば、トラクタを使用して田圃を耕す時、必ずしなければならないのが、Uターンである。折り返して耕耘し始めれば、必ず土は後方に移動する。それを何度も繰り返せばするほど、田圃の隅の高さが中央部よりも高くなる。つまり田圃が擂鉢状に成るのである。そうなれば、田圃の四隅には雑草がはびこり、稲の育ちは悪くなる。勿論「逆転ロータリ」と云う機構は在るが、これは一歩間違えると「転倒下敷きの危険」があるので、余程の事が無ければ使用禁止である。


夏その十九

今日は一念発起して、田圃に行く。災害で崩れた畔の草刈をする為である。然し地主から「水を入れたから崩れた」等と云われたら、田圃が水田では無くなる。案の定、一面に雑草が生い茂り、稲が何処にあるかも分からないような状態!こんな問題だらけの田を、今後も耕作すべきか否か、悩ましい限りである。本音を言えば、さっさと別の田に乗り換えても良さそうなものだが、他にも同じ地主から借りた田があり、判断が難しい。


夏その十六

今朝は起き抜けに、ゴミ出しに行く。今のゴミ処理システムは、道路沿いに置かれた、鉄格子の箱の中に、指定された内容物を、指定日に、指定袋に入れて出さねば、受け取って呉れない。それは行政が行う、後処理を容易にする為に、決められている。処が矢張り問題がある。ゴミ箱の目が粗い故に、野良猫等が、袋の中の魚の骨等を、金網越しに引き出すからである。私はそれを防ぐ為に、箱の内側にプラスチック板を設置した。斯様な問題は、ちょっとした工夫で、誰でも気付く事なれど、私以外に実行された形跡は全く無い。


夏その七

今朝も昨日同様6時起きで、田畔の草刈に行く。唯一無傷で残った水田を失えば、我家は米を買わねばならなくなる。処がこの田も嘗ては災害に見舞われ、今もその傷跡が生々しく残っている。猪と洪水が襲って来ないように、祈るしかない。災害というものは、前触れも無く来ることが殆どで、事前に予測するのは、天気予報同様に、とても難しい。それにしても、今日も又行方不明者の捜索情報!私は物忘れは日常茶飯事なるも、道を忘れたことは先ず無い。その理由は、デジタルとアナログの、記憶方法の違いなのかも知れない。


P&Pその十八

梅雨末期の雨の影響で、今年も災害が発生した。その場所は、山口田の排水路である。一時に雨が降ると、オーバーフローして、土砂が流亡するのは避けられない。その個所は予測不能なるも、自然は巧みに人間の弱点を突いて来るからである。こんな時は無理に逆らわず、雨が治まるのを待って、対処するのが良い。他方、前市長の時代に、災害対策を実施した個所は、又してもあっけなく崩壊している。性懲りもない面々とは、将にこの事である。


P&Pその十七

昨日は天気の急変を予測して、大急ぎで自宅裏の荒地の草刈作業!ギリギリで間に合って良かった。何せ此処等辺りは、湿地帯なので、農業機械は殆ど使えず、辛うじて刈払機が使える程度である。従って、殆どが手作業となるので、余程の覚悟で作業をしなければ、纏まった収穫は望めない。それでも毎年米作りに来られる方も居られるので、私は出来るだけの支援をしている。


P&Pその十四

今日は纏まった雨が降ったので、頃合いの休養日となった。農業者はカレンダーで仕事をするよりも、天候により強く影響される。それは一雨で、水田の状況が一変するからである。従って私は出来るだけ頻繁に、水田の状況を、写真で耕作者に提供するよう、心掛けている。何故なれば、耕作者の自宅と田圃は、数十kmも離れているが、我家から田圃までの距離は、精々1~2km程度だからである。


P&Pその三

それにしても、我が父の思考方法は、極めてユニークだったと云えるだろう。太平洋戦争後の、公職追放時代に、遣るべきことが無い中で、文芸に目覚めて、懇意だった玉名民報社の、大西社主からの委託を受けて、今で言えばタブロイド判の地方新聞に、随筆の投稿を始めたのである。これが予想外の売れ行きとなり、私が小学生の頃、同社の丁稚が態々自転車で、我家迄、締め切りが迫った原稿を取りに来ていた。処が父は二日酔いで、原稿を書き終えていない。丁稚は可哀そうに、父が書き終えるまで、裏木戸の前で待っていた。(この原稿内容は、別項、維一郎のブログを、参照願います)


P&Pその二

勿論中国やロシアのそれと比較するには、規模が違い過ぎるけれども、戦後の公職追放の時代に、所謂手足を縛られた状態では、農業位しか出来なかったに違いない。私は当時幼い小学低学年だったので、問題の本質を理解するには、難し過ぎたが、何と無く父がラジオにかじりついて「毛沢東・周恩来・スターリン」等と云うフレーズを、大声で叫んでいたのが、今も私の耳の底に、断片的に残っている。


梅雨その十四

愈々梅雨到来!温帯モンスーン気候の我が国では、年間の雨量の半分以上が、この2~3ヶ月間に降る。今年も今日が入梅とも思える、断続的な驟雨が降り続いている。従ってこの時期に田植えをするのが、最も理に適っているので、近隣の農家が一斉に始めている。然し乍ら私だけは、トラクタを仲間の人々が使ったので、漸く今日から始めようと思ったら、皮肉にも大雨が降り続き、びしょ濡れになるので、今日は止む無く中止!我乍らついてない!


梅雨その十

こんな雨の日は、昭和31年に他界した父のことが、まざまざと蘇る。生粋の共産主義者で、幾度も官憲(特高)に引き回され、拘置所に連れて行かれ、コンクリートの上に正座させられ、その上から革靴で乗る、拷問を受けた。余りの痛さに気を失ったらしい。そんな父に官憲は、転向(共産主義思想を放棄する事)さえすれば、直ぐにでも釈放すると言ったが、父は生粋の共産主義者だったので、頑として拒否した。当時の私は小学4年の子供だったが、官憲に両腕を抱き抱えられ、よろよろと連れて行かれた様を、それこそ60年前の出来事なのに、丸で昨日に起きた事象の様に、鮮明に脳裏に蘇る。


梅雨その九

今や何処の地域でも、高齢化が著しい!その中心メンバーが、所謂私達の60~70代なのである。何故ならば、現役の人は、農業のみでは、とても生活出来ない。従ってウイークデーには何処かに働きに出て、週末に農業をするのが、一般的なパターンとなっている。然し乍ら我等団塊世代も、今後は漸減傾向に向かうのは間違いなく、耕作放棄の田畑が、じわじわと増加している。そうなれば猪始め、周囲の山から野獣が出没し、田畑は荒れ果て、農業は出来なくなるだろう。これは国家的課題であり、政府が前面に立ち向かわねば、ならない。


梅雨その八

問題の第一は高齢化!何せ担い手の平均年齢が還暦を超えた人々であり、若者が低所得の農業を敬遠して、継がなくなった。周りを見渡せば、爺婆ばかりが、田畑で働いている光景になりつつある。結果耕作放棄が拡大し始めると、加速度的に野獣(猪やモグラ等々)が増えて、益々農業がし難くなる、所謂悪循環に陥る瀬戸際に差し掛かっている。


梅雨その七

梅雨は国土を潤す天然の恵みであり、瑞穂の国足ることの原点とも称される。処がその水は、梅雨前線の活動に大きく左右されるので、毎年コンスタントに水を得ようと、河川の各所にダムや堰が設置され、水利の調整に使われて来た。然し近年はその運用が万全とは言えなくなりつつある。先ずは管理者の高齢化、施設の老朽化、それに米価の低迷が重なり合っている。


梅雨その六

梅雨というものは、梅雨前線の活動次第であり、大雨の年も有れば、空梅雨の年もある。処が田植には適量の水が不可欠で、多過ぎると洪水となり、災害を惹起し、少ないと稲が上手く育たない。其処で工夫されたのが、給水路である(昔は井手と呼ばれていた)。井出とは、川の水を堰き止めて水位を上げ、田圃に水を導く導水路のことを指す。嘗ては単なる溝だったが、昭和から平成に掛けて、コンクリート製となり、今現在も現役として使われている。毎年「溝浚え」と称する公役が、春先にかけて催されるのが、その始まりである。


梅雨その四

梅雨とは「梅」が熟す頃の雨を表現する言葉で、今がその直前の時期に該当する。従って梅雨前の今の時期は、仕事が重なりとても忙しい。その一つがラッキョウ掘りで、本日の作業予定となっている。ラッキョウは特異な野菜で、増殖(分球)率が2~3倍程度しかない。米麦と比べれば一桁以下と低い。従って高価で入手も難しく、又漬物にするにも、恐ろしく手間が掛かる。それでも作るのは、他では味わえない「独特の味覚」に魅せられるからである。


梅雨その三

この数日間は、毎日梅ちぎりの毎日を過ごしている。梅雨の名の通り、今将に梅の収穫時期なのである。我家には梅の木が数本あるけれども、場所が傾斜地だったり、日当たりが悪かったりで、真面に収穫出来る木は二~三本しかない。それでも私が収穫するのは、梅酒が欲しいからである。今は夏の時期だが、真冬になると、私は痩せていて寒がりなので、梅酒が欲しくなる。従って半年先を見据えて、丁度入梅直前の今の時期に、梅を収穫する。そして梅は、裏表がなく、毎年コンスタントに、実を付けるので、とても助かる。


梅雨その二

今朝は早起きして、ラッキョウ畑の草刈!ラッキョウはネギ科なるも、特異な性質を持つ。それは増殖率が極めて低いことである。例えば米は一本の苗から十倍近くの分けつををするのに、ラッキョウは2~3倍程度に留まる。従って少しずつ消費しなければ、翌年の苗さえをも、足らなく成るからである。当然ながら購入価格も非常に高く、貴重品だと云える。


梅雨その一

五月が過ぎ去ると共に、梅雨らしい天候に遷移しつつある。それは道端の雑草を見れば、一目瞭然である。春草と夏草の違いは、繊維の硬さで、刈払機で伐れば、その違いが、手に伝わる反応として実感出来る。その昔は殆どの農家が、牛や山羊を飼っていたので、雑草は有価物だったが、今の時代、牛も山羊も全く見掛けなくなり、耕作放棄地もじわじわと増加しつつある。そればかりか、最近は小学校がバス通学になったお陰で、道路を歩く人々すらをも疎らとなり、所謂「ゴースト化」の前兆が見えて来た。


働き方その一

目下国会では「働き方改革関連法案」が上程、審議されている。この法案は要するに、時間対応から、成果対応の給与体系に、移行したいとの会社側の思惑が、衣の下から垣間見える。然し乍ら「成果対応」とは、物差しが有る訳ではないので、言うは易く、判断基準がはっきりしない。要するに短時間で効率よく仕事をして、残業や休日出勤を、自主的に削減せよとの、会社側の意向なのであった。


稲作その十四

田植の方法として「ポット苗」と云う、育苗方法が最近ポピュラーになって来た。これは漏斗上の形をした独立の穴に、土と種を入れ、上から押し出して、土付きの苗を植え付ける方法で、苗の根痛みが少ないことから、最近急速に普及して来た。勿論従来機との互換性が無く、高価でもあるので、徐々に大規模農家から普及して行くものと推察される。従って我家みたいな中小農家には、普及しないだろうと私は思う。


稲作その十三

近年の苗代は殆どが「箱苗代」と云う方式で、所謂プラスチックの箱に土を入れ、その上に種を蒔く遣り方に収斂しつつある。処がその箱を直接田圃の上に乗せれば、根が土中にはびこり、引き剥がし難くなるので、箱の下に穴開きのビニールシートを敷く遣り方が、一般的に普及している。その中でも穴の大きさや、密度の違いから、成長速度が左右されるので、千差万別と云った方が実情に近い。更に鳥避けシートの掛け方も、半円状に張る我々の方法と異なり、ベタ掛けをする人も、これ又沢山居られる。要するに濡れた籾種に、日光が当たることが肝要なのである。昨年は不幸にも水が乏しく、籾種の発芽が不揃いとなり、田植に難儀した。その経験を踏まえて、今年は水が年中来る場所に苗代をしたので、その苦労からは免れそう。


稲作その十二

苗代半作の言葉通り、種籾を蒔く作業は、米の出来栄えを、決定的に左右する、重要な作業であり、一旦失敗したら取り返しがつかない。処がその方法は、人に依り幾つかがある。私は近年、南関町から、焼赤玉土を購入した土の上に、種籾を蒔くようにしている。更に大切なのが野鳥、特に雀対策、何せ上空から虎視眈々と狙っているので、隙無く覆わなければ、あっと言う間に種籾は食べられてしまう。


稲作その十一

天気が良いので、久方振りに苗代を見に行けば、綺麗に芽が出始めている。鳥避けのネットも剥がれたりしてないので、此の侭で行けば、6月の田植も順調に出来そうだ。それにしても、今年は苗代の場所を何処にするかで、散々迷った。過去の苦い経験から、日当たりが良く、水が来て、猪が来ないような好条件が揃っている場所は、中々見付からないからである。


稲作その十

前項で「苗代半作」と述べたが、残りの半作は田植以降の作業次第と云うことに成る。中でも重要なのが田植で、嘗ては手作業だったが、今や殆どが田植機に取って代わった。更に最近は大型高性能の田植機で、一気に田植が出来るようになった。その理由は高齢化と、人口減少、更には食生活の多様化に起因している。そんな状況で、未だに手押しの二条田植機を駆使している私は、少数派になったが、狭隘田を耕すには、小回りが利き、向いているとも言える。


稲作その九

今日は公役(くやく)即ち、水田の周囲の雑草や竹刈り作業である。嘗て雑草は貴重な牛の餌だったので、田畑の周囲の草を「刈らせてほしい」との要請が来ていたのであるが、今や一転厄介者になってしまった。そんな中で、ユニークなのは、牛を飼っている知人が、我屋の田の周囲の雑草を、綺麗に刈り取って呉れるからである。牛は四つの胃を持ち、大量に食べた草を一旦口に戻して、再び時間を掛けて唾液と混ぜて、ゆっくりと噛み砕き、次の胃に送るのである。涎を垂らしているのがその証拠で、草の繊維も綺麗に消化することが出来る。


稲作その八

苗代が済めば、田植を待つ時期となるけれども、昨年は天神平の上流部からの水が乏しく、苗の出来が不揃いになってしまった。その原因は上流部の麦畑に、水が侵入するのを嫌って、水を止められたからである。麦は畑作、米は水田作なので、利害が真っ向から反する事態に成る。今年はそのことをリーダ格のS氏が「麦だけを作りたい」と、はっきりと表明された。依って来年は私も、新たな農地を探さねばならない。


稲作その七

今の時代、苗代は、プラスチックの苗箱に赤玉土を入れ、種を蒔き、田圃に並べる方式に収斂しつつあるが、嘗ては水を張った水田に、直接種籾をばらまく遣り方であった。従って稲の根が張って中々扱げず、下手すると苗を傷めてしまうことが多かった。そして田植も全てが手植えだったので、我家の様な農家は、大勢の人手を借りて遣らなければ、とてもとても出来ない作業だった。その為に広い土間があり、大勢の人々に昼食と夕食、及びアルコールの提供をしていた。そして労働対価は男性は焼酎、女性は反物だったように記憶している。


稲作その六

稲作事始めは苗代であり、苗代半作と言われる所以は、米の出来不出来の半分が、苗代作業の良し悪しに関わる事を言っている。即ち種籾を蒔き、発芽して田植をするまでの期間は、人間に例えれば、出生から大人になる、20年間だと見なせば良いのである。その言葉通り、迷い、しくじり、悔やみ、悩みの、毎年だったと云えるのかも知れない。そして恐らく今後も、連綿と続くように感じる。


稲作その五

稲作の時期は、JA等が、遅くするように指導をしているけれども、じわじわと早まる傾向にある。私はその原因は、心理的要因だと考えている。要するに、近隣の農家が作業開始すると、根拠も無くソワソワと、し始めるだけのことに過ぎず、米の収穫量は、減ることはあっても、増えることは先ず無い。


稲作その四

稲作(米)の栽培時期は、5月の苗代から、10月の稲刈り迄の半年間!殆どの農家が同時期に同種の作業をするので、農業機械の共用が難しく、結果として各戸単位で、揃えねばならなくなった。他方、農機具メーカーは、この時期が掻き入れ時で、多くの農家から、機械修理等の依頼が舞い込み、てんてこ舞いの忙しさになる。


稲作その三

稲作の重要性は、多岐に及ぶ。今では少なくなったが、嘗ては米の裏作として、小麦や裸麦が幅広く栽培されていた。私の幼少の頃は、麦飯が一般的で、所謂押し麦と、米の混合飯が一般的だった。私はその麦が嫌いで、態々炊き込んだ麦を掻き寄せて、米だけを食べようとしていたので、母から「罰被る」と叱られた記憶がある。


稲作その一

今年も愈々米作りの季節が到来した。農家にとって米作りの重要性は、時代が代わろうとも、不変である。何故なれば、米は今も尚、金銭に次ぐ普遍的な価値を有しているからである。それを如実に証明したものが、米泥棒の暗躍だった。我家の米倉(右馬七亭)には、何度も米泥棒が侵入して、盗難に遭ったことで、証明される。


トラクタその十

トラクタは現代の牛馬、それが盗まれたことがあった。田圃の多くは持ち主の家から遠隔地に在るので、毎日持ち帰らず、翌日に備えていたのである。処が或る日泥棒が勝手にエンジンを直結して、持ち去ったのである。処が最近は更なる上手が出現し、真昼間、勝手に他人の耕地に侵入し、コンバインで稲刈りして、其の侭機械と米を持ち去る、不届き者までが出現する時代となった。これこそ将にギャングと云うしかない。知人も同様の被害に遭ったので、私はどんなに手間が掛かろうとも、農業機械は必ず自宅まで持ち帰る。完


トラクタその九

トラクタは「強力な原動機を備えた作業用自動車」で、トレーラーや農業機械を引っ張ったり、農作業や土木建設等に用いられると、定義されているが、平たく言えば、牛馬の代わりとして、強力なディーゼルエンジンを装備し、田畑を耕す為の、農業機械である。


トラクタその八

昭和から平成の世に代わるに従い、農地の主役は牛から動力機械に取って代わる。農業にとっての革命が、田圃に産業機械が進出した、現代農業である。この時点で大きな分岐点が訪れ、我家の様に農業機械を購入した家庭と、農業を諦めて、米麦を購入する家庭に、二極分化したのである。我家は勿論前者を選択した。他方父方の従弟は、多くの農地を貸すか手放して、都市に移住したのである。その結果、私は今も尚、取り残された農地を荒廃から守るべく、米麦や野菜果物を生産しているが、何時まで続けられるかは、誰にも分からない。


トラクタその七

トラクタは人が乗る耕耘機で、それ以前は牛がその動力源だった。従って殆どの農家には牛舎があり、その飼料足る草を調達する為に、田畑から道路の畔に至る迄、毎日毎日草刈り作業が行われ、牛舎に飼われた牛の飼料となっていた。我家の隣に位置するK家もその典型で、赤牛が一頭いて、朝から晩まで「もぐもぐ」と、草を食んでいた。その草の量は膨大で、田畑の畔から、土手河原に至る迄、農家の仕事の多くを、草刈りに充てていたのである。


トラクタその六

十年近く前に知人の勧めで購入した、私のヰセキトラクタも、寄る年波には勝てず、今年は故障続きで、一週間近く、田圃に置き去りとなった。その中身は電装品が故障して、作動不良を惹起していると推察出来る。本来ならば、故障したトラクタは、手早く田圃から引き揚げなければならないが、動けなければどうにもならない。幸いだったのは雨が少なかったことで、本日久方振りに自宅に引き戻すことが出来て、ひとまずほっとした。


トラクタその五

トラクタの主業務は、田畑を耕すことだが、各種のアタッチメントを装着すれば、畦立て、溝掘り、天地返し等々の作業を効率良く出来るので、短期間で数多くの農家に普及した。然し乍ら大農家なら兎も角、私の様な兼業農家では、高価な農業機械は、金銭的に導入出来ない。


トラクタその四

嘗ては牛馬の仕事だった田畑起しの作業は、今や100%トラクタに取って代った。従って農家の殆どはトラクタを所有し、農業をしている。然し私だけは、グループで農機を購入して、農業(米作り)を現在も行っている。その最大の理由は、初期投資の金額が、馬鹿にならないので、当初から社会主義的方法を、導入したのである。


トラクタその三

トラクタは車と同じく、後輪(二輪)駆動と、四輪駆動の二種類がある。当時の私は経験不足であり、価格が安い二輪駆動車を購入した為に、湿田に嵌り込み、抜け出せない状態が起きたのである。今や殆どのトラクタが四輪駆動なのは、湿田での運動性が、決定的に重要だからである。更に言えば、前輪倍速機構が備わっていれば、湿田でのUターンが綺麗に出来る。然しこの機構は、間違えば転倒事故を惹起しかねないので、細心の注意を要する。


トラクタその二

数十台もの中古トラクタが並んでいる光景はとても壮観で、金額は忘れたが、私はイセキの一台に目を止め、業者と交渉して購入した。それは今考えれば、二隣駆動のトラクタだった。トラクタは車と同じく、二輪駆動と四輪駆動の二種類がある。当時の私は初心者だったので、金額が安い二駆の一台を選んで購入した。それは後に失敗だったことを悟るが、当時の私は経験不足で仕方ない判断だった。


トラクタその一

トラクタとは、通常人が乗り、田や畑を耕す機能を有する、農業機械を指す。言うなれば、嘗ての農耕馬・農耕牛の機械化版だと云えば良いだろう。私はサラリーマン人生を定年前に辞めて、生まれ育った熊本玉名の地で、農業で第二の人生をスタートした。当時は当然乍らトラクタはもとより、耕耘機すら持っていなかった。そんな状況の時に、偶々上熊本で開催されていた、中古農機具展示会に行ったのが、農業を始める転機となった。そしてその時、私が目に留めて買ったのが、第一次イセキトラクタだったのである。


春その五

春は秋と共に、最も快適な季節故に、成すべき事柄も又多い!そのカテゴリーを詳らかにすれば、農林業と云えるだろう。冬の時期から3月末迄位が、林業の季節!4月からが、農業就中米作りの季節となる。処が私は今現在、女竹の伐採と、杉と檜の下枝落し作業の真只中!毎日長尺鋸を使い、ゴリゴリギシギシ!努力の甲斐が有って、真昼なのに、薄暗かった杉林に日差しが射しこみ、急に明るくなった。


春その四

春は動植物が一斉に動き出す季節。当然乍ら花粉のように有り難くないのもある。その一つが蜂である。我家の墓地の横にある公民館の床下に、ハチの巣があるらしく、多数の蜂が出入りを繰り返している。下手に巣を突けば、襲って来るので、近くでの作業を控えて様子を見るしかない。


春その三

嘗ての梅干しは弁当や食事のお供として、欠かせないスパイスだった。それも有ろうか、私は梅酒が好物で、夕食のお供として、楽しみにしている。特に寒い冬は体を芯から温めるには、ホワイトリカーを梅酒で割った味が最高に旨い。


春その一

春は草木が芽吹き、青葉が香る季節!桜の花が咲く頃から、米作りの準備が始まる。それにしても今年の冬は数年ぶりの寒さだった。寒冬の年は豊作と言われる。何故なれば、冬季に変温動物の昆虫の多くが、死に絶えるからである。特に無農薬農業をしている、私にとっては、朗報と言わざるを得ない。


鶏その十

嘗ての私は、馴染みの店を通じて、鶏卵販売をしていたが、あっと言う間に売り切れて、直ぐにも補充して欲しいとの催促が毎日の様に来た。勿論顧客に喜ばれるのは嬉しいことだが、我家は養鶏専業ではないので、当然の事ながら際限ない要求には応じられない。今では自家用に供する15羽に制限して、鶏卵販売は停止している。


鶏その九

鶏の産卵には、一定のリズムがある。産み始めた当初は徐々に産卵個数が増加するが、それを過ぎると徐々に低下する。今が丁度その時期らしく、餌の消費量が減少しているので、15羽で5個以下になっている。暫くの間、波動を繰り返すと予想されるので、様子を見るしかない。


鶏その八

鶏の寿命は大凡10年!然し産卵寿命はその半分位だろう。従って大型養鶏農家は、毎年の様に鶏体更新をして生産性を上げるが、私の様な小規模養鶏農家は、細々とでも卵を生産する限り、養鶏を続ける。何故なれば、卵を毎日でなく、一日おきにでも産んで呉れるのなら、世話をする私が、処分する気持ちに、なれないからである。


鶏その七

鶏の寿命は大凡10年近くもあるが、所謂生産年齢は、その半分の精々4~5年と見て良いだろう。何故なれば、年を取るに従い、徐々に産卵率が低下して、餌代と比べた利益率が低下するからである。従って勿体ないけれども、数年おきに、若鶏と更新せねばならない。因みに鶏の餌は、トウモロコシアッペン・麦からの贈り物、米糠、魚粉、石灰岩の混合である。


鶏その六

鶏は人が野鳥を改良した品種であり、れっきとした鳥類の遺伝子を受け継いでいる。従って飛翔能力に優れているので、小屋の周囲と天井部には、金網を張り巡らして、脱走防止を図らねばならない。処が私の鶏小屋は素人製作の為なのか、不完全な部分もあるので、時々鶏が脱走することがある。前回鶏を飼い替えた時、一羽が脱走して行方不明となり、数日後に見付かったので、幸運にも殺処分を免れた。この所謂「御婆ちゃん鶏」は、若鳥が卵を産み始めるまでの数ヶ月間、たったの一羽で、私が朝食で食べる卵を生産して呉れた、恩人ならぬ恩鶏である。


鶏その五

私が鶏を飼い始めて最早半世紀以上にもなる。幼き頃の鶏小屋は、自宅裏にあり、夕方になると、ドアを開放して、放し飼いにする方法だった。鶏にとっては待ち望んだ瞬間で、全羽が羽を広げて、滑空して来る瞬間は、飛行機の離陸にも似た光景であった。そして日暮れと共に、鳥目の鶏は小屋に戻り、本能的に安全な高い止まり木に舞い上がり、眠りに就くのであった。


鶏その四

鶏には様々な習性がある。その典型が所謂「虐め」とも呼べるもので、本能的に他の鶏の頭を嘴で突つく!突かれた鶏は「クェーイ」と悲鳴を上げて逃げる。それが段階的に序列化すると、強い鶏は益々強く、且つ綺麗になり、弱い鶏は毛を毟られて、次第に見すぼらしく成って行く。何とも「非道残酷・弱肉強食の社会」と云うしかない。


鶏その二

鶏は極めて原始的な動物故に、平飼いすると弱い鶏が強い鶏に虐められて、最悪の場合は突き殺される。従って最近の大型養鶏農家は殆どが独房式の鶏舎で、鶏同士が接触出来ない構造になっている。それはそれで仕方ないのだろうが、問題は鶏小屋を二十四時間照明にして、ベルトコンベアで連続操業式に餌を与えて、卵を産ませるのは、鶏にとっては虐待と云う他ない。当然乍ら母体を酷使することから、産卵寿命は短くなり、毎年のように鶏体を入れ替えねば、ならなくなる。


鶏その一

月日の経過は早いもので、最早正月も過ぎ去ろうとしている。齢70をも過ぎれば、今更新年の目標等、在って無きが如しの状態で、毎日生きている事に、感謝せねばなるまい。そんな今日この頃、昨秋に飼い替えた15羽(+1羽)の鶏が、先月から漸く卵を産み始めた。注)1羽は私が捕まえ損ねて、幸運にも生き残った、御婆ちゃん鶏である。それにしても、鶏の習性は面白い!私が餌遣りと卵取りに行くと、決まって「降参」の仕草をする鶏が居るからだ。其処で私がその鶏の背中を撫でると、バタバタと、これまた毛繕いをする。


冬その二十四

私が竹を伐っている場所は特異で、山がコブ状に出っ張っている。従って日当たりが良いので、真竹の他に、葛が繁茂し、竹にグルグルと巻き付いている為に、伐った竹を引き出そうとしても、出て来ない。従って「ハヤウチ」と称する、長尺の鋸を使って、葛を伐らねばならない。この作業が最も困難で、骨の折れる仕事となっている。昨年は、操作を誤って、この鋸を破損し、多額の修理費を払った、苦い経験も思い出した。


冬その二十

今年も残り一週間余となった。一般的に言われるのが、齢を重ねるに連れて、時間感覚を、速いと感じる様だが、私も同感で、とうとう70歳台に到達してしまった。振り返れば父の年齢を20年をも、超えているのである。私が子供の頃は、父親はお爺さんみたいに、老けていると思っていたが、本当はとても若かったのである。


冬その十九

今日は久方振りに快晴なので、自田の見回りに行ったら、大型ユンボが、我が田の対岸の土手を掘削している。河川堤防の災害復旧工事である。例年冬が農業の端境期なので、公共工事をするには、比較的雨が少ない12月から3~4月頃が向いているのである。又今年は年末から工事が開始されたのは、ケチンボの前市長が退任したことも、大いに影響していると思われる。従って、これからの玉名市はきっと、今迄より間違いなく良くなると、私は信じている。


冬その十二

師走となれば、何かと気忙しい時期なるも、世間は相変わらず騒がしい。その中でもロシアのドーピング疑惑が連日報じられている。私は嘗て半導体企業で働いていたが、シリコンウエハの表面を活性化(ドープ=結晶の物性を変化させるために少量の不純物を添加すること)して、微細な電子回路を形成するには、高価な装置(例えばステッパー)を駆使せねばならない。処が或る日、私はうっかりして、一工程を飛ばしてしまった。それを後になって気付き、申告したが、覆水盆に返らず!高価なウエハ数十枚を、パーにしたのである。これを業界用語では「ロットアウト」と呼ぶ。


冬その三

米作りの最終章は、籾摺りなるも、私は家庭用小型籾摺機しか持たない。何故なれば大型機は高価で扱い辛い上に、前者が使った時の、籾残りが発生するからである。従って私の仕事は此処迄で、その後は家内にバトンタッチとなる。それにしても、新米は美味しいが、矢張り一椀に2~3個のモミが混じっているのが、何よりも嫌いなので、私はついつい「ベーッと」吐き出してしまう。


秋その十五

全ての脱穀が終り、延々と掛けていた架け干しも見納めとなった。それにしても私の老体と似たように、米作りの厳しさは、年々その度を増しているのは間違いない。その原因は天候も大いに関係している。何故なれば、稲の収穫シーズンの秋は、秋晴れが続いて空気が乾燥する時期なのに、近年は雨が多くなりつつある。それに加えて気温が下がらないので、稲穂が乾かず脱穀がし辛くなって来た。


秋その十四

今年の米作りが、本日で全て完了した。6.5か月の、長い道程である。私が定義する道程とは、5月の苗代から、11月の脱穀までを指している。今振り返れば、私のライフワークは、米作りと云う事になるだろう。それは今や、私にとって最重要課題と云える程の域に達している。仮に私から米作りを除いたら、私は何をすべきか、見当たらないからである。


秋その十三

汗ばむ程の暖湿気が去り、漸く十一月半ばになって、秋めいた乾いた風が吹いて来た。何せ今年の秋は雨が多く、稲が乾燥しなかったので、脱穀トラブルが連発したからである。私の脱穀ポリシーは、最低10日~2週間、架け干し(はざかけ)をした後に、すべきと思っているが、今年は特に、天気予報がコロコロと変わるので、対応出来ず、困っているのである。


秋その十二

米作りは、春の苗代(所謂種蒔き)で始まり、秋の脱穀で終わる。その主人公は、何れも籾なのである。即ち米作りとは、籾を蒔き、籾を収穫する事だと云える。農業に関わらない都会の人は、恐らく米とは白米を連想するだろうが、それは既に(芽が出ない)死んだ米に過ぎないのであって、低温・乾燥貯蔵をせねば、コクゾウムシと云う小さな害虫が、米粒の中に穴を穿ち、侵入して食害されて終う。


秋その十一

「女心と秋の空」とは、言い得て妙なる昨今の天気予報だが、昨日は久方振りの晴天を待って、最後から三番目の脱穀作業を敢行!稲が程よく乾燥していたので、トラブルにも見舞われず、一時間以内で完了した。脱穀の良し悪しは、稲の乾燥具合に、殆ど百パーセント左右される。処が今日は又しても小雨模様!こんな毎日では、日延べしたとしても、決して良い結果は得られない。だから近年殆どの農家が、コンバイン脱穀をするようになったのである。


秋その十

今年の我が米作りも、後一息に至る処までこぎ付けたが、寄る年波と共に、年々しんどさが増しているように感じるのは、年の所為だろうか?いやいや天候も災いしているように思われる。何故なれば、気象庁が発表する最近の天気予報がコロコロと変わり、あてにならないからである。それも真夏の予報なら未だしも、秋の収穫の時期の天気予報は、農作業に決定的な影響を及ぼすからなのである。


秋その九

秋の温暖化は、農作物に多大な影響を与える。何故なれば気温の低下と共に、植物の多くは種子や根茎に澱粉を蓄え、翌年の目出しの栄養とするからである。それが温暖化で損なわれるならば、地球規模での食糧不足と云うカタチで、我等人類に大きな禍を齎すに違いない。


秋その八

十一月ともなれば、紅葉のシーズン真只中なのに、今年は何だか綺麗ではない。特に我家の銀杏は、青々とした緑の葉が茂っている。他方モミジも何となく赤色に染まらず、小豆色がかった色をしている。これは見栄え以上に、深刻な問題点を含んでいるように思う。何故なれば動植物の多くは、秋になれば枯れて、実と葉が落ち、翌年に向けての冬眠期間に、突入する時期だからである。


秋その六

秋も終盤を迎えた今日この夜、我が出身の熊本大学工学部の同窓会が、熊本市内の料亭で開かれ、久方振りに私も参加して、旧交を温め合った。我等は戦後の第一次ベビーブーム世代で、人数も多かったので、小中高大のみならず、就職後も激しい競争に晒され続けた。然しそのお陰で、数多くの優秀な人材と交わり、掛け替えの無い人知を、得ることが出来たのである。


竹その二十

今日は一人で、田圃と山の見回り!目的は遺失物の回収と、問題点の対策検討!目下最大の課題は、日当たりの改善なるも、川向いの山の斜面には、孟宗竹がビッシリと生い茂っている。本来なれば、水田上空に被さった竹や木は、無断で伐採しても良いことに成っている(日照権)。然しその伐り出し作業が、半端ではなく、伐るとなれば、業者を雇っての大掛かりの作業と、なるからなのである。


竹その十九

愈々今年も稲刈りが終盤に達し、周りの景色が一変!我が仲間の田を除けば、殆ど全てが収穫を終了して、早くも冬の装いに成っている。それにしても今年は、相棒のB氏が他界されたので、戦力半減となり、私の負担が増加した。尤も私の仕事のポイントは、お膳立てが大半!言うなれば、農業機械の運搬・設置みたいなものである。


竹その十八

今年の米作りも、愈々終盤を迎え、今日は鷽の谷の最奥の田の、稲刈りを手伝った。この田は、芳醇な水に恵まれて、美味しい米が獲れる、所謂美田である。然し今年は雨が多かったので、圃場の状態が極めて悪く、慣れている私でさえも、バインダーのコントロールを、危うく失う瞬間が幾度かあった。斯様な湿田は、圃場を硬くする為に、秋のシーズンから溝掘りをしないと、稲刈りが上手く出来ず、泥が稲に付き汚くなる。


竹その十七

昨日は天候の小好状態を狙い、自田の脱穀を敢行した。然し架け干し稲の乾燥状態が悪く、余程慎重に遣らないと、籾が機械に詰まって、動かなくなる。今年の秋は、例年の秋らしくなく、高温多湿の、丸で「梅雨の様な毎日」が続いている。それにしても近年は、農業の形態が、大きく変容しつつある。嘗ては稲刈り脱穀の季節は、秋晴れが長く続き、爽やかな風が吹き、仕事の合間に田圃の畔で、お握りを食べていた記憶があるが、最近は地球温暖化の影響か、雨が多いので殆どの農家が、コンバインを使用するようになった。然しコンバインは、とても高価な機械なので、私も持っていない。


竹その十六

この一週間程、自宅裏の通称「鷽の谷」と称する谷間の稲刈りが始まり、私は架け干し担当を買って出て、3竿を組み立てた。この地は古くからの水田なるも、所謂耕地整理が成されておらず、機械を田に入れるのが難しい為に、殆どを手作業で遣らねばならない。然しそんな田にも、米作りに来られる人が居られるので、私は出来る限りお手伝いして、耕作放棄にならない様に、留意している。


竹その十五

漸く米作り仲間の収穫が全て完了して、ほっと一息ついた時期となった。それにしても、近年は架け干し=はざかけをする人は、めっきり減少して、大多数の農家は、コンバインを使用するようになった。コンバインとは、稲刈り・脱穀を連続して行う機械で、それこそ広い水田も、たばこを燻らす程の時間で、刈り取って終う。然し水分を含んでいるので、後工程は電気乾燥をせねばならない。この電気使用量が莫大で、合計すれば原発数個分になるだろう。だから私達は、大変な手間と労力を要する、天日干しに頼っているのである。


竹その十四

架け干し(=はざかけ)のポイントは、一言で云えば、3本の竹に、均等荷重が架かるように、組み立てることである。処が言うは易しなるも、滑り易い竹を、ぬかるんだ田圃に固定するのは、意外と難しい。何故なれば、その土地の日照時間や風向きをも、考慮しなければ、乾燥が進まず、後工程の脱穀作業の支障になるからである。その支障とは所謂「籾詰り」と称するトラブルで、一旦詰まると、彼方此方に詰まった籾を、手作業で掻き出さねばならなくなる。


竹その十三

そんなこんなで、架け干し(はざかけ)作業を、今日も一日みっちりする羽目に!何せ樫の木は老朽化が激しく、信頼性に欠けるので、孟宗竹を代用したが、滑り易く、固定し難く、太過ぎて、良い処無しの状態。それでも使うには、技能しか無い。私は「弘法筆を選ばず」の技能を駆使して、今日も四苦八苦、騙し騙しの経験で、何とか設置した。後は自然との戦いであり、どうなる事やら!脱穀まで持ち堪えれば私の勝利!落下・転倒すれば、私の負けとなる。


秋その十二

稲刈・架け干しのシーズンになると、私は忙しくなる。何故なれば架け干し竹の組み立て方は、素人では難しく、熟練者でも、油断すると、転倒・落下事故を招くからである。それは色んな要素が絡んでいるが、ポイントは材料である。嘗て昭和の時代は、樫の木を使っていたが、今やそれを伐り出す人が居なくなり、安直に竹を使用するようになったからである。


秋その十二

今年も秋が深まり、殆どの農家が収穫を終えたのに、我が仲間の水田だけは、未だ稲刈りの途中である。理由は色々有ろうけれども、昭和の昔は、田植と稲刈の時期だけは、学校を欠席することが、許されていた。その訳は、農家の殆ど唯一と言っても過言ではない、収入源が米だったからである。


秋その十一

昨日架け干しをした時、何となく嫌な予感がしていたのであるが、今日田圃に行けば、案の定途中で竹が折れて、稲束が十束程度、落下している。原因は竹の品質、即ち竹虫に食害された竹は、強度が極端に低下して折損しているのである。然らば山にある生竹を伐れば、問題は解決すると思いきや、生竹は柔らかくて撓り易く、途中に支えがなければ、撓って弓なりになってしまい、穂先が水や土に付き汚れるのである。


秋その十一

昨日知人の田圃の「はざかけ」が終り、ほっとして今朝見に行けば、一竿が将棋倒しになっている。原因は竹の虫食いと老朽化に拠る折損に他ならない。新竹を使えば良かったが、新竹は滑り易く、撓り易いので、出来るだけ避けている。仕方がない責任は100%、私にあるので、近日中に遣り直しをせねばならない。


秋その十

秋の深まりと共に、今年は秋雨前線が早々と居座り、長雨が続いている。依って稲の収穫が間に合わず、我が田圃には、稲藁が架かった儘の状態で、無情の雨に打たれている。“止まない雨は無い”と云う言葉があるけれども、そろそろ秋晴れが欲しい。そんな気持ちで田圃に行けば、数個の稲束が落下して、雨水に浸かっている。台風よりはマシだけども、脱穀が終る頃迄は、気が休まらない毎日が、続くことになる。


秋その九

九州の米の収穫は、嘗ては11月だったが、今や10月前半で殆ど終っている。それは田植の時期が、昭和の頃よりも、1ヶ月近く早まったからである。原因は「人心」即ち「焦り」に他ならない。何故なれば、隣人や知人が田植えを始めると、何だか理由も無く、焦りが募り、流されて終う心理状況に他ならない。私もその一人かも知れないが、今年の場合は「ウンカの大発生」が引き金となり、仕方なく稲刈りを早めたのであった。


秋その八

近年はコンバインに依る収穫が殆どとなったが、我がグループは依然として、伝統的な稲架作業を守り抜いている。その理由は天日にかざすことで、稲の養分を籾に凝縮させること。後工程の脱穀・籾摺時の、モミ残しを減らす事である。何せ米の良さは、独特の食感なので、私はモミや石の混入を、極度に嫌っているからである。


秋その六

秋の季節は好きなのだが、晴天のイメージとは裏腹に、雨も結構降る季節とも言える。従って米の収穫作業も、天気予報とにらめっこで、決めねばならない。それも私の田圃なら未だしも、仲間の仕事の都合まで勘案すると、とても解けない連立方程式となる。昨日がその典型で、知人の田圃のはざかけ作業をしていたら、竿竹に虫が食った傷が元で、バキバキと折れて、全てが水の泡になり、未だショック冷め遣らず!


秋その五

つい一週間前は、黄金色の稲が風でそよいでいたのに、今や辺りの風景は一変して、殆どの田圃は、収穫が終わり、枯れ野原の様相を呈している。その唯一の例外が、知人が作る「ミナミニシキ」と言う米である。「ササニシキ」と言う有名な東北米を、宮崎の農業試験場が、九州の温暖地にも合うように改良した品種で、粘り気が薄く、パサパサした食感で、チャーハン等に向いた米である。他方九州地方で主流の米は、ヒノヒカリと云う、日本一との誉れが高い「コシヒカリ」を改良した品種が、その大半を占めている。


鶏小屋その三

鶏はかなり原始的な動物で、ある意味では狂暴だとも云える。何故なれば、弱い者虐めで、所謂「共喰い」を遣らかすからである。従って10羽を飼えば、極端に言えば、10段階の序列が出来るのである。そうなると最弱の鶏は、他の全羽から虐められ、次第に衰弱して死に至る。他方、最強の鶏は、外形が所謂雄鶏に似かよって来る。従って、最近は殆ど「バタリー式」と言う、所謂独房に閉じ込められ、24時間照明を消さないで、ひたすら食事を与え続ける、残酷な飼い方が主流となった。


鶏小屋その二

鶏には実に面白い習性がある。追っかけると逃げる鶏が殆どだが、逆に逃げず「降参しました」と、うずくまる鶏も居るからである。その一羽が今もヒヨコと一緒に生活している。恐らく「老婆と孫娘」の関係だろう。然し今尚、偶には卵を産むので、老婆と言ったら失礼に当たるだろうし、小母さんと言うべきなのかも知れない。


秋その三

秋は晴天のイメージがあるけれども、実は雨も結構降る季節である。従って農作業の事前計画がとても難しい。特に稲刈りがポイントで、そろそろかと思っていたら、大陸からウンカが飛んで来て、田圃の一角が茶色に変色している。これは大変だと、稲刈りしようと思ったら、天気が下り坂になり、圃場が柔らかくなったので、数日間は出来そうも無くなった。


ゴミその七

現在では、ゴミの分別方法が「事細かく」決められているが、嘗ては殆どフリーであった。何故なれば、ゴミは「有価物」との認識が強く、所謂「ゴミ集め」を生業とする、低所得者が沢山、家庭訪問をして、回収をしていたからである。彼等は全身にボロをまとい、玄関先に立って、何やら「呪文」を唱えていた。私は母の指示で、小銭「5~10」円を、その者に渡していた。そうしなければ、その男はそれこそ「エンドレス」に、我家に居座るからであった。


秋その四

柿の味覚は甘党の私には丁度良かった。尤も甘い品種は、早生の「元山」次に「小春」最後に晩生の「富勇」柿であった。これ等は全て甘柿である。柿は所謂「隔年結果」が極端なので、一年おきに実が成るのが殆どである。これを防ぐには剪定が必要なのであるが、我家の柿は大木なので、剪定など到底不可能なのである。


秋その三

秋の味覚は、何と言っても柿と栗!我が屋敷には、何本もの柿と栗の木がある。その殆どは、先祖が植えた木である。然し栗の木は、虫が付き易く、経年と共に枝枯れが進行して行く。他方柿には虫は付かないが、蔕部からの、所謂「生理的落果」が多く、熟すまでの期間中に、半分以下になってしまう。


秋その二

今後の米作作業のポイントは、何と言っても猪対策。例年9月から出没するので、警戒していたら、案の定、我が田の川向の田に猪が侵入の形跡!私は今年から、電気柵に代えて、ピンクテープを張ったのだが、果たしてこの程度のもので、猪をブロック出来るのか、未だに疑心暗鬼である。


猪その十

猪は、数ある害獣の中でも最右翼なるも、他にも雀、烏、ヒヨドリ等の鳥類も、今や農業の天敵となっている。折しも今頃の時期、動物の多くは、脂肪・蛋白質を体内に貯め込んで、冬を越す準備をするのである。


猪その九

猪は、雑食性で子沢山。と云うことは、繁殖力が旺盛で、どんどん増えがちになること。人為的に何等かの手を打たなければ、生態系そのものが、壊されて行く運命にある。その猪と人間との境界線に、私を含む農業者は、立たされて居るのである。


猪その八

猪は、豚と血縁的に近く、食性も所謂雑食性である。従ってこの時期に、中山間地には、猪が大好きなミミズや、タニシ等の小動物から、実り前の米や、野菜、果物が豊富なので、たらふく食べて、脂肪をタップリと付けて、冬に向かう出産の準備を整える。


猪その七

猪の天敵足る犬が、全て鎖で繋がれるように成って以降、猪の行動は、将に傍若無人ならぬ、傍若無犬となり、今では我が犬の数メートル近くまで、来るようになった。当然犬は、狂ったように吠えるが、猪は平然と近付き、おびき寄せに、ばら撒いた餌を、悠然と食べるのである。そして餌を吊るした、箱罠には一瞥もくれず、山に戻って行く。人も犬も、吠えるか、歯ぎしりするしか、手立てがないのである。


猪その六

かくも猪が農業の禍と成ったのは、高々半世紀程で、私の子供時代には、全く問題ではなかった。その最大の要因が、犬である。何故なれば、放し飼いされていたからである。それが何時の日か、全面禁止となり、全ての犬は鎖で繋がれ、恰も牢獄にぶち込まれた囚人ならぬ、囚犬に落ちぶれたのである。他方、猪には天国が訪れた。


猪その五

猟師が仕留めた猪は、道向かいの公民館で解体された。そしてその日のご褒美は、猪を山から追い出した猟犬であり、内臓を頂戴する権利を貰う。こんな場面では、犬も原始に戻るらしく、数匹の犬同士が、凄まじい内臓の奪い合いを演じていた。他方人間様は、背中のピンク色の肉を、ナイフで切り取り、炭火で焼いて口に頬張る。それは将に「丘マグロ」の味であった。


猪その二

猪が激増した最大の要因は、私は人間に違いないと断じている。何故なれば、犬の放し飼いを禁止したからである。その証拠に、今や我家の犬クックの目と鼻の先まで、猪が来るようになった。猪は見掛けに依らず、放し飼いの犬と、繋がれて居る犬の、区別が出来る、賢い動物なのである。


盛夏その二十

懸案だった、二枚の田圃の土手の草刈りが、9月に入り、漸く完了した。内一枚は、川沿いに在ることから、過去1~2度、猪に侵入されて、刈取り間近の稲を、めちゃくちゃにされた、苦い経験を持っている。以来、私は「猪ノイローゼ」となり、侵入を防止する為に、ありったけの知恵を絞っている。


盛夏その十八

自宅西側に在るA氏の耕作放棄田が、荒れ果てているので、冬季湛水でもして、来年は古代米でも作ろうか等と「取らぬ狸の皮算用」をしている。機械は入らない土地なので、全て手作業で遣るしかない。何故かと問われれば「自宅の目の前に在るから、時間潰しにでも」と応える。少々条件が悪くとも、近くであれば、耕作してみたい。尤も収量を期待する積りは全くない。


盛夏その十七

今朝も6時起きで、天神平の土手の草刈り作業!2時間近く掛かって、漸く一枚の田を刈り終えた。平地と異なり、山岳地帯の水田は、耕作面積に対する、土手の面積が広い為に、より長大な労力を必要とする。然し乍ら現在は、我家は家内と二人だけなので、広い面積の水田は必要ではなく、美味しい米を、少しばかり入手出来れば、それで十分なのである。


盛夏その十六

今朝も6時起床で、田圃の畔・土手の草刈り作業。土手が高く急峻なので、作業姿勢を上手くコントロールしないと、刈払機を担いだ侭転落する恐れもある。それにしても、天神平の水田は、上手下手は別にしても、田主の性格が如実に表れているので、見比べているだけでも飽きないし、非常に面白い。


盛夏その十四

今朝は涼しいので、一日延ばしにしていた、ラッキョウを掘ろうと、畑の一帯を探したが、雑草に紛れて、遂に見付けることが出来なかった。ラッキョウは、とても成長が遅いので、種ラッキョウの入手が難しく、価格も非常に高い。又しても一から出直しとなってしまった。残念!!


盛夏その十二

今日は無謀にも、真昼間に草刈りに出かけた。何故なれば朝夕は、草が濡れているからである。然し昼間は矢張り暑いので、短時間で済まさないと、それこそ熱中症になる危険性がある。結論は犬の散歩に行く、夕方の5時以降が最適であることを、改めて実感した次第である。


盛夏その十

今年は例年に比べて、田畑の手入れが疎かだったのか、将又天候の所為か、荒れ様が例年以上である。私が、最も大事に育てていたラッキョウも、雑草に埋没して、何処にあるやら見当もつかない。7月には植え替えの時期だったが、それも見逃してしまった。僅かな救いは、1mにも達するジャングルの中に、ミニトマトが沢山成っていたことである。


盛夏その九

夏の仕事は勿論水田だけでは無い。私は畑を二枚持っているが、何れも、ジャングル状態となっている。原因は水田に力を注ぎ過ぎて、畑の手入れが疎かに成ったからである。勿論田畑両方を遣るのが理想なれど、私一人では到底手が回らない。従って畑は知人に貸して、負担を軽くしたいと思うが、果たして借り手が居るかなー?


盛夏その八

今は土用干しの時期なるも、我が水田は何故か、水が入った状態となっている。恐らく近くの田の水が、流れ込んでいるものと推察される。それにしても今年の夏は、例年にも増して暑く、昼間の農作業は、さながら「地獄」の状態!拠って私は夕刻の五時から、犬の散歩がてら、田圃を観察に行くのが、毎日の日課となっている。


盛夏その一

今年の夏は、例年にも増して暑い。と云うのも、8月ともなれば、大気の不安定状態から、入道雲が発達して、夕立が来そうなものだけど、さっぱりその様子も無く、毎日じりじりと照り付ける日差しに負けて、遂には槙の垣根が赤茶色に成り、枯れかかっている。こんなことは、私の経験でも過去に無かったことである。他方、田圃の稲は日差しをタップリ浴びて、生育も順調なれども、稗の繁茂も凄まじく、彼方此方にこんもりと茂っている。


士農工商その九

近年は、農地の損壊個所が、彼方此方に見られる。その最大要因が、公共予算削減である。他方河川堤防の損壊も甚だしく、私の水田へ向かう道路も、二三ヶ所が大きく陥没して、通行が危険な状態に成っている。処がその復旧工事がお粗末の限りで、杉の丸太を打ち込み、板を並べた間に、山砂を投入しただけの有様!丸で素人の工事の様で、次の大雨であっけなく、再崩壊した儘になっている。


士農工商その八

農業は勿論、農作物を得ることを主目的としているが、副次的要因として、農地の保全や、景観の維持、災害の防止等々、多くの役割を担っている。特に我が国の様に、山地が多い所は、災害が起き易く、放置すれば、農業が出来なくなる恐れがある。他方我が国は、諸外国から貿易不均衡(=輸出超過)を批判されたが、これ等の地政学的要因を、確り示して、諸外国の誤った認識を、改めねばならない。


士農工商その七

それにしても、農地は耕作して始めて維持される。何故なれば、二年前に片白から撤退した跡地を見れば、この地で農業をしていたとは、とても信じられない、荒涼とした風景が、広がっているからである。石貫に代表される中山間地は、今後余程、耕作者が頑張らなければ、現状を維持する事すらをも、困難となるだろう。


士農工商その六

それにしても、貴重な電力を使用して、山間地に給水する方法は、私は「如何なのか」と思ってしまう。本来ならば、中山間地を態々開拓してまで、農地を広げずとも、今の日本には、相当程度、耕作放棄地が在ると思われるからである。嘗ての日本は「土地は財産」との考えがとても強かったが、今の時代は、適正価格で借地するのが、最も理に適っている。何故なれば、農地は耕作しなければ、良好な状態で維持出来ないからである。


父そのプロローグ

今日7月16日は、我が父の祥月命日である。思い起こせば遥か昔の情景が、走馬灯のように脳裏を過ぎる。子供当時の私は病弱だったので、近所の子供達と遊ぶのも苦手で、特に危険な川での水遊びは、絶対禁止だった。そんな昭和の20~30年代、父は私を自転車に乗せて、旧高瀬の町迄、連れて行って呉れた。


ベトナムその七

ベトナムの食事は、意外にも食のバランスが取れていて、美味しく食べられた。処が或る日の夕食に、問題があったらしく、私のお腹はゴロゴロ!翌日は終日下痢が治まらず、トイレに何度も通う日となって、パワーも急激にダウン!終日ベッドに横たわる一日となってしまった。矢張り熱を通さない、熱帯の野菜等は、危険であると認識すべきである。


ベトナムその四

ベトナム人と日本人の共通項として挙げられるのが勤勉性である。概念的に、熱帯地域の国民は、怠け者が多いように思いがちだが、それは大きな間違いである。何故なれば、熱帯の高温多湿の環境下で働くには、適切な休憩と、ペース配分をしなければ、それこそ熱射病で倒れても、おかしくないからである。私達は観光で行ったのだが、ダラダラと怠けている人は意外に少なく、ベトナム人は、日本人に劣らず、とても勤勉な民族であることを知った。と云うことは、嘗ての日本と同様に、経済成長を通じて、来るべき将来には、東南アジア有数の大国に成るに違いない。


鶏小屋そのエピローグ

鶏の寿命は10年以上だが、産卵寿命はその半分もない。従って5年も飼えば赤字となり、処分するしかない。直近まで飼っていた鶏も、今月初めに処分した処である。その手順は、生きた儘の鶏を、移動籠に入れて、持って行けば、それこそ流れ作業で、手際良く解体され、所望すれば、有料で引き取りも可能である。然し今回持参した鶏は、私同様に老いぼれていて、且つ痩せていたので、廃棄処理が妥当との事であった。


鶏小屋その六

鶏小屋の立地も又、とても重要である。何故なれば、自家に近過ぎれば、悪臭が漂うし、遠過ぎれば、日常管理の目が届き難くなる。私は経験的に自家から10~20m前後が良いと思う。我家は広い敷地に恵まれているので、過去何度か建て替えた。そして現在は、自宅前の元畑に建設していた小屋が老朽化したので、西半分を解体している。というのも全部解体すると、鶏を飼えなくなるからである。


鶏小屋その四

私が物心ついた頃は、我家では既に鶏を飼っていた。所謂「縁の下養鶏」と称する形態である。玄関の横に3畳程の書斎があり、その床下は板で仕切られていて、其処にはコーチンと言う種の、赤鶏が数羽飼われていた。当時は私がその鶏担当で、餌遣りと、卵取りをしていた。何故なれば、縁の下は狭く、大人では出入りが窮屈だったからである。


鶏小屋その三

鶏の種類は色々あるが、嘗ては羽根も卵も真っ白の「白色レグホン」が主流だった。それは産卵率が高かったからである。然しこの種の鶏はとても神経質で、ちょっと音を立てたりすると、全羽が舞い上がり、大騒ぎになる。その改良種が、今主流の赤鶏で、性格も大人しく、人にも懐き易い。そして卵殻の色も赤いので、消費者好みである。


田植そのエピローグ

それにしても私足る者、深謀遠慮に欠けるばかりか「おそ松さん」と言われても、反論すら出来ない、体たらくとしか言い様がない。石貫で最も人目に触れる場所にある優良農地を、牛の採草地としてしか使えないとは、自業自得とは言いながら、情けない限りである。私は最早70歳を超えて、老境に差し掛かった現在、負の遺産を、最低限にしなければ、いけない状況にある。


田植その十九

困極まった私は、折角の美田を台無しにした反省をも踏まえて、知人に採草地として活用できないか、打診した処、快く引き受けて貰ったので、田圃カフェの駐車場と、小面積の畑を除き、80%程は貸与することに、したのであった。


田植その十八

最早ゴロゴロとした大石を、田圃に埋めたら、どんなことが起きるのか、私は想像すらをも出来なかった。要するに「宅地造成」するようなものだったのだ。それでも何とかしたいと、私はトラクタを持ち込み、造成地を耕した。そうしたら、忽ち石にぶつかり、トラクタの爪が「ガチャンガチャン」と鳴り響き、埋っていた石が逆に掘り出される始末!これでは、トラクタが壊れると恐れて、私は退散した。今冷静に振り返れば、100歩譲っても、巨石は下に敷き、その上に土盛りをしていたならば、最低限の農地としては、機能したと推察出来る。


田植その十三

耕地整理事業は兎に角、長大な時間と費用を要する。何故なれば、一旦全ての農地をご破算にして、一から換地をするからである。その為には水田だけではなく、道路や水路、川や橋までをも、架け直さねばならないのである。従って一年間は、対象農地を全て休耕せねばならなかった。その当時は既に父は他界して居らず、母は私に決断を求めた。私は大勢の人々を前にして、呻吟した挙句、賛意を表明したのだった。然しお陰で、私には莫大な負担がのしかかり、全額を返済し終えたのは、たかが数年前の事なのである。


田植その十一

今の時代は何でも動力を使えるが、当時は水を引くには、クリークが必要だった。その名称が「伝助掘」である。恐らく〇〇伝助氏が、掘られたのであろう。幅2~3m、長さ300m、深さ1m程だったように記憶している。不定形の水田の中を、蛇がくねる様に蛇行していた。然し其の侭では泥が堆積して埋まるので、毎年今頃に、浚渫をせねばならない。これが我等子供の楽しみで、バケツ等を持って、魚を捕まえに行った。鮒やドジョウ、ウナギ、ナマズ等の色んな魚が獲れた。私はそれらの魚を金魚鉢に入れて、鑑賞していた。或る時には、魚が鉢から飛び出して、土間で動いていた。


田植その十

今年のようなひどい旱魃が、何年か置きに訪れる。今年はその年に当たるらしく、兎に角雨が降らない。こんな年は、昔ならば間違いなく飢饉に繋がっていた。それを克服したのは、戦後の用水路建設である。昭和の時代は、米の増産が国家使命だったので、彼方此方に堤と、用水路を建設した。石貫を例に採れば、古城・庄屋村地区に、ちょっとした堤があった。現在は、有明工業用水のポンプステーションが、有る場所である。


田植その九

嘗ての田植は、稲刈りと並ぶ、ビッグイベントであった。それは機械化以前の時代故に、大勢の男女が我家に来て、言わば人海戦術で、作業していたからである。その手順は、先ず対辺に沿って、平行に横線を2本張る。次に直角定規で、縦線を一定間隔に動かし、基準線の目印に沿い、稲を植え付ける。そして最後に、目分量にて両側の稲を見乍ら、3本ずつ、稲を植え付けるのである。これ等一連の作業は、皆さん慣れたもので、ヨーイドンの合図と共に、速いもの競争の感があった。当時小学生だった私も参戦し、大人には全く敵わなかったが、遅れまいと必死で頑張った記憶がある。


田植その八

田植のシーズン来るも、雨の兆し全くなし。畑の野菜は青息吐息、田圃の土はカラッカラ!天気予報も晴天なれば、今の処はお手上げ状態。苗代も水不足で成長が遅れ気味故に、田植も遅らせるしかないだろう。


田植その七

田植の条件は、水が来て、圃場が代掻き出来ること!処が今年は、異常乾燥で水不足。おまけに苗の成長も悪いと来ている。従って田植えを遅らすしか、対策が思い浮かばない。米作りと云うものは、多くのパラメータに左右されるものであり、何年遣っても「完全だった」と言う年は、無かったように思う。


田植その六

こうなったのは、例年を超える、晴天続きだと言うしかないだろう。空梅雨は過去にも幾度かあったが、今年の乾燥度は例年に勝る。然し一方、こんな年に田圃の優劣や、田主の技量が試される。そんな私は、昨年から二年続きで、苗代を失敗した。要は水不足である。天神平の水田は、十余枚有るが、米麦の二毛作田が大半の為に、苗代の設置場所と、水利の加減が、田主に依ってまちまちで、タイミングが合わないのである。


田植その四

今年は何しろ雨が降らない。降ったとしても、ほんのお湿り程度にしか過ぎない。こんな旱魃は、私の記憶にない程である。お陰で大地は砂漠の様にカラカラに乾いている。従って稲の苗が中々育たず田植も出来ない状態が続いている。


田植その三

昭和の田植は100%手植えであった。それは農業機械が普及する以前だったからである。従って田圃を耕すのは牛馬、否殆どが牛であった。何故なれば、馬よりも牛は鈍いが、スタミナでは牛の方が勝っているからである。一方で、粗起こし、細起こし、代掻きの三作業は、基本的に現代と、差ほどの違いは見られない。


田植プロローグ

今年も愈々田植のシーズンが近付いた。苗代を出産に例えれば、田植は小学校入学に該当するだろう。それ程のビッグイベントである。従って事前に準備すべき作業が有る。その一漏水対策:水田は水が溜まってこそ、水田と呼べる。我が天神平の水田は、昨年も一昨年も、漏水が止まらず、畔が崩落して、対策に大童だった。従って今年は、業者に砂を投入して貰った後、私独自で、プラスチック波トタンを設置して、土砂崩れ対策を行った。然しそれだけではとても安心出来ず、川側の畔に沿って排水路を掘り、オーバーフロー水を、排水路に導くようにした。斯様な作業は、梅雨入り前に遣らないと、完全に手遅れとなる。由って事前に頭の中で、シミュレーションをし乍ら、対策を打たねばならない。今年こそは無事であることを祈るのみである。


苗代その十一

5月の苗代から、6月の田植えに掛けての一ヶ月は、人で言えば「生まれてから、歩き出す頃迄」と、良く似ている。従ってこれを苗代半作と呼び、その年の米の出来に、決定的な影響を与える。その最大要素が、水と太陽である。例年、5月は晴天が続く時期なので、適切に水を供給することが、最も肝心である。


苗代その十

最近は農家の高齢化が行き着く処まで進み、手間が掛かる苗代を、自らでは出来ず、一部の専業農家に、委託する農家が増えて来た。この傾向は今後、更に進行することは間違いなく、じわじわと耕作放棄田が、増加すると予想される。特に中山間地の石貫・三ツ川地区は、その傾向が顕著である。従って荒れた農地に猪などの害獣が侵入して、更なる被害を齎すようになった。


苗代その七

苗代の変遷は早い!何故ならば、高齢化が進み、自田を耕作出来ない田主が、徐々に増加しつつあるからである。かと言って耕作放棄すれば、稗の繁茂や猪の隠れ家になるので、一部の大農家に苗代作りを依頼する傾向が出て来た。これこそが昭和時代のリバイバルとも言え、私は今後益々その傾向が、強くなると推察している。


苗代その六

最近は米作りの技術革新が目覚ましく、田植に付いても例外ではなくなった。その一つがポット育苗式田植である。これは独立した円錐状の穴に、土と籾種を入れ、上からプッシュして田植えをする方法で、箱苗と違って、独立しているので、他の苗を傷付けることが無いので、成長が早くなり、除草作業も楽になる。然し乍ら、従来の田植機との互換性は無く、高価なので、専業農家でなければ中々買えないだろう。


苗代その五

苗箱の底面には沢山の穴が開いていて、地面から水を吸い上げる構造になっている。然しその構造は、千差万別!開口率も様々な他に、底面がフラットになっているのと、上げ底式に成っているのがある。従って籾種の成長スピードも、苗箱の構造に影響を受ける。尤も全てが同じでは、田植え時期に合わせられないので、数種の苗箱を使うのが、作業面からは、好都合だとも言える。


苗代その三

嘗ての苗代は全て「水苗代」であった。一方我家の苗代は、粳米が9割、糯米が1割だった。勿論糯米は、正月の餅用である。然し糯米と粳米を隣接して植えると、稲は風媒花なので交雑して、所謂「アバタ餅」になるので、我家の糯米は、現在「田圃カフェ」が建っている、独立した小さな田圃に植えていた。それにしても、あんなに小さな田圃で一俵(60kg)もの量が採れたのだから、大したものである。


苗代その二

苗代には幾つかの遣り方が有る。代表的な方法は「水苗代」と「箱苗代」である。前者は平らに均した土の上に、籾種を直接蒔き、鳥避けの稲わら等を掛ける遣り方!他方後者は、長方形のPL箱に選別した土を積めて種を蒔く遣り方である。嘗ては殆どが手作業に依る田植えだったので、前者が殆どだったが、機械化の進展に伴い、近年は殆どが後者となった。


米作その十

米作りの醍醐味は、何と言っても黄金色の秋である。従って5月から、10月に掛けての半年間が、勝負の時期だと言っても良い。然し乍らこの間に、様々な困難が襲い掛かる。代表的なものが台風、洪水、ウンカ、猪、旱魃ETC。何れも自然現象なるが故に、非常に予想が難しく「過去何もなかった年は無い」と言っても過言ではない。因みに昨年は、天神平の我が田圃の畔が、地滑りを起こして崩れた為に、水が堪らなくなり、急遽波トタンを設置した儘、未だに一時しのぎ=「山砂を投入した儘の状態」になっている。


米作その九

米作りは、麦作りと不可分の関係にある。我家も嘗ては、小麦と裸麦を作っていた。小麦は薄力粉となり、団子や焼き餅の材料に、裸麦は押麦として、米に混ぜて麦ご飯として、消費していたのである。然し近年は米国等からの輸入麦に押されたのと、地球温暖化の影響で、麦作りがとても難しくなり、一部の農家を除いて、耕作を止める人が増えた。そんな今日は、稀しくも5月の雨!かりそめにも、この雨が長引けば、ロマンチック処か、麦は田畑で刈り取られぬ儘に発芽して終い、悲惨にも収穫不能と成り果てるのである。


米作その八

当時は今の様に農業機械は無く、殆どが手作業だった時代、8反もの広さの水田を耕作するには、多くの人々の手を借りねばならなかった。それが可能だったのは、所謂「もやいの精神」があったからに他ならない。今の時代は、労働力を得るには、金銭の対価が不可欠だが、何故か昭和の時代は金銭不足で、所謂物納(EX:米・酒・反物等)が、お金の代わりとして、立派に通用していたのであった。


米作その五

今年も早、苗代の季節が到来、昨日天神平の田圃にて、苗代作業を実施した。この地は私がお気に入りの、苗代田なのである。その理由は、日当たりが良いこと、畔が真直ぐな事、水位制御が容易な事云々。昨年は、石貫小近くの田圃で苗代をしたが、水不足で、苗の育ちがまちまちになり、とても困った。


米作その四

稲の収穫方法は大きく分けて二つあり、一つがコンバイン、もう一つがバインダーである。近年は前者が殆どとなった。これは稲刈り・脱穀を連続して行い、同時に稲わらを細断して、圃場に散布する方式である。然しコンバインは非常に高価な機械故に、私は持たない。従ってバインダで刈った稲藁を「はざ架け=架け干し」という方法で、竹竿に吊るして、自然乾燥をするのである。


米作その一

今年も愈々米作りのシーズンが到来した。私は例年にも増し、早々と準備を始めた(積り)だったのだが、矢張り完全とは言い難く、昨日に至っては、カフェ前の草刈りをしていたお陰で、遅刻をしてしまい、皆さんから「きついお叱り」を頂く体たらく!所謂「石貫時間=早目」を、守らなかったからに、他ならない。


季節その十

晴天の今日、4か月間「冬季湛水」を実施した、水田の草刈りをした。勿論雑草は生えているが、稲藁はほぼ完全に腐熟していて、見るからに肥沃な状態である。何せ長期間タップリと、栄養塩が流れ込んだ土壌は、さぞかし肥えていて、豊作になるのは間違いないと思われる。それにしても、この作業は結構大変だった。と云うのも、湛水とは「水を溜める」と、簡単に言うけれども、イザ遣って見ると、とんでもない作業となった。何故なら、無数のモグラ穴を、一つずつ塞がないと、漏水が起きて水は溜らないのである。


季節その八

昨年度は、私が石貫小学校の米作りの委託を受け、森山氏の水田を借り受けて、糯米を栽培して、餅つき大会まで行われた。とてもしんどい一年だったが、充実感溢れる一年でもあった。そんなこんなで、今年も当然私に依頼が来るだろうと思って、ぼちぼち草刈りなどをしていたが、何時まで待っても依頼が来ない。そして今日判明したのは、私の一年後輩の、T氏が引き受けられたとの情報!それならそれで、早目に知らせて呉れたら良かったのに。一方これは「お前もそろそろ一線を退け!」との、神のお告げなのかも知れない。


季節その五

地域言葉で所謂「土手が太い」と云うのは、傾斜面が広いと、言い換えれば分かり易い。要するに、石貫のような中山間地に、水田を設けるには、大きな土手を築かねば、広い面積の水田を確保することが、出来ないのである。それを可能としたのは、戦後のコメ不足以降であり、夥しい数の小規模の棚田を、中規模の棚田に、再編成したのである。その結果、所謂「猫の額の様な小面積田」は無くなったが、隣地との境界を成す土手が、必然的に広くなり、草刈り等の作業が、きつくなった。


季節その四

今日も昨日に続いて、田圃の土手の草刈り!四面中二面は、何とか伐り終えた。此処は天神平の中でも、一二を争う広い急斜面で、背負式刈払機を使わなければ、上手に刈れない。私が思うに、石貫の様な所謂中山間地では、棚田が殆どなので、草刈り作業は必然となる。と言うことは、我等団塊世代の退役に伴い、従来型の米作りは、早晩持続不可能となり、新たな仕組みの構築が、必須となる。それは即ち社会主義的、集団的農業となるだろう。然し、それが実現した頃、既に我等はこの世には居ない。


季節その二

何があろうとも、季節は確実に廻り来るものであり、其れを如実に物語るのが、雑草の繁茂である。今日、思い立って、天神平の我が田に行けば、既に作業を始めた人も居る。それにしても、昨年は夜明けと共に起床して、日が上がるまでの小一時間、田の畔の草刈りをした記憶があるが、今年も暑さを避ける為には、早起きして草刈りをせねばなるまい。


季節その一

昨夜はユーチューブで、深夜まで歌を聞いてい居たが、季節の変わり目の今頃は、体調を崩しやすい。その原因の一つが、ビールである。家内はビールが好きで、私は焼酎が好きである。処が私は、ビールを飲み過ぎると、便が緩くなり、下痢をし易くなる。そうならない為には「汗を出す仕事」をすれば良いのであるが!それにしても、辺りの道路脇は、急速に雑草が生い茂り、夏が近付いていることを実感する。其処で、一腰上げて、天神平の我が水田の整備(猪避けの竹柵の補強工事)。半日間仕事をしたら、汗を搔いた。


稲作その十

竹事件を経て、私は慎重になった。何としても、一帯の田、全てを借りたかったからである。そうでなければ、無農薬栽培や、架け干し等が、とても遣り難くなる。処が幸いにも、手前と最奥の、H氏の田2枚を除いて、6枚の田全部を、借地することが出来た。これは望外のことにて、周りに煩わされず、思い切って米作を遣れると、確信したのであった。恐らく昭和30年前後に始めた米作りも、此の地で終焉を迎えるのなれば、私は何ら思い残すことは無いだろう。


稲作その九

然し乍ら、殆ど見ず知らずの私が、仮に耕作放棄地であれども、いきなり「此処の田圃を借りたい」と、言った処で「ハイどうぞ」とは、先ず以て行かないであろう。斯様な件は、田主の一人一人に了解を得ることが、必須事項であり、ノーテンキに、貸して貰えると思った私が、フライングを冒した。それは私が勝手に、田圃に覆い被さっていた孟宗竹を、伐採したからで、その代償は結構高くついた。最初は「お酒」で良かろうと思ったが、結局金を払う羽目に!


稲作その七

猪の侵入防止対策には、音がするトタン板で田圃の周囲を囲う方法等、幾つかがあり、農家は各々工夫を凝らしている。中で最も普及しているのが、電気柵だろう。田圃の周囲の畔に沿って、二本の電線を張り巡らし、高圧のパルスを流す!若し猪が電線に触れたら、パチンと火花が飛び、猪はビックリして怯む仕組みである。嘗てはその方法で、略100%ブロックすることが出来たが、二年前からこれが利かなくなった。それは猪の慣れである。どうしても田圃に入りたければ、電線に触れて痛いのも厭わず、侵入したのである。それは猪にとっても、勇気が必要だったと思うが、一旦味を占めたら、最早電気柵は無用となる。そんな顛末で、我等は猪に追われて長年慣れ親しんだ、片白から撤収して、新に山口に新天地を求めることになった。


稲作その五

稲作のポイントは、夏ではなく、実は冬の作業が、より重要なのである。何故なれば、夏場は当然暑いので、長時間や、激しい労働は体力的に無理である。従って、冬の間に遣るべきなのである。然し分かっていても、現実が差し迫らねば、中々取掛るのは難しい。そんな私も4月から、重い腰を上げて、ぼちぼち作業を開始した。その中身は「土砂崩れ」「漏水」「猪の侵入」の三点で、私は毎年の様に、悩まされている。


稲作その三

稲作を脅かす事態には、環境変化の他に、高齢化がある。日本では千年もの昔から、営まれて来た稲作が、今やピークを過ぎ、じわじわと、然し後戻りが出来ない形で、縮小し始めたからである。それを如実に物語るのが、私に「田圃を借りて欲しい!」との言葉を、貰うようになったからである。以前は「田圃を貸して欲しい」だったのに、今まさに真逆の事態が、起きようとしている。


稲作その二

稲作は日本の生命線!何故ならば、毎年営々と米作が行われるからこそ、農耕地が維持出来、美しい緑の景観も、保たれているのである。仮に米作りが途絶えたら、忽ちにして農地は荒れ放題となり、ジャングルと化して終うだろう。何故なれば、日本は地球温暖化により、今や温帯モンスーン気候から、徐々に亜熱帯気候へと、推移しつつあるように、思えるからである。これは実に恐ろしい事態であると、思わざるを得ない。


稲作その一

桜の花吹雪が舞い落ちる今日この頃、毎年の稲作準備が始まり、気の早い人は、トラクタを田に入れて、耕し始めている。そんな今日、同級女性から、門司のレトロ街へ行かないかとの誘いがあったが、迷った末に断った。私にとって稲作はライフワーク。全てに優先する課題なのである。と云うのも、昨年は田圃の一角が大崩壊して、漏水が止まらなくなり、板やトタンで応急的に塞いだが、地盤沈下が起きて、実に困った。一昨年は猪に侵入され、毎年トラブル続きなので、今年こそはと、早目に準備を開始したのである。


鶏その八

私が鶏を飼い始めて、早半世紀以上になるが、未だに幾つかの問題点を抱えている。その一つが所謂「尻突き(カニバリズム)」現象である。鶏は他の鶏を攻撃する場合、頭を嘴で突くのが一般的だが、偶には尻を突くこともある。頭を突かれたら、頭の毛が無くなり、当然鶏肌が露出するが、尻を突かれたら悲劇的で、卵を産めなくなり、死に至るのである。何故なれば、鶏の排泄器は、輸卵管と性器・肛門・尿道が一体的になっているからである。従って尻突きを止めさせるには、雄鶏を入れるのが最良策なのであるが、今度は人が攻撃される恐れがあり、養鶏は本当に難しい。


鶏その七

鶏の生態は、今尚原始的な点が多く、その一つが攻撃性である。特に雄鶏は危険で、私が幼い頃に目を蹴られた傷は、今も瞼の横に、生々しく残っている(父は怒って、その日に雄鶏を食べたとか?)。だからと言って、雌鶏だけにすれば、平穏な社会が訪れると思うかも知れないが、どっこい今度は、雌鶏の中の一羽の鶏冠が大きくなって、所謂「疑似雄鶏」みたいな「男装」に変貌するのである。これこそが、今を時めく歌舞伎の「男役」に他ならないのである。


鶏その六

鶏は家畜の中では最も飼い易い上に、手軽に卵を得られるので、田舎では古くから飼われて来た。現在では茶色の卵を産む、所謂赤鶏が主流になったが、嘗ては真っ白な羽で、卵殻も純白な、所謂「白色レグホン」が主流であった。その理由は、産卵率が高いからである。然しレグホンは、とても神経質で、人が小屋に入っただけで、びっくりして、全羽が一斉に舞い上がり、大変な騒ぎとなる。一方赤鶏は、私がエサ遣りや、卵取りに入っても、所謂「降参です!」と云う仕草をしたり、ズボンの裾を突いたりして、とても人懐っこく、飼い易い。


鶏その四

人間は嘗て、原始的な鳥類を、家畜として飼い始め、それを鶏と呼ぶようになったのではないかと思う。何故なれば、ハトやカラス、雀等の鳥類と、鶏の違いは、大空を飛べるか飛べないかの相違と言って良く、その他の面では、殆ど同じに見えるからである。一方見逃せない確たる証拠が、飛翔形体であって、私は水泳選手の泳ぎ(特にバタフライ)を見る度に、スイマーは太古の昔、魚か鳥だったに違いないと、思えてしまうのである。私ってちょっと変人ですかね~?


鶏その三

鶏は、紛れもなく鳥類に属するので、勿論個体差もあるが、羽を広げれば、数メートルは飛ぶ事も出来る。処が夜間になると、我先にと高所を目指した、所謂「寝場所取り合戦」が始まる。これは鳥類が持つ本能とは言え、所謂鳥目なので、暗くなると高所が安全だということを、生まれ乍らに知っているのである。従って鳥小屋の上部には、止まり木を設置しなければ、万一にもイタチ等の動物が侵入したら、一網打尽にされるのである。私は今も鶏当番で、食事の世話役でもあるが、毎日の日課として、卵取りの他に、365日、有害動物侵入防止対策を、欠かしたことはない。


鶏その二

勿論、当時は今の様に、配合飼料等と云う鶏専用の餌は一切なく、全てを自己調達せねばならなかった。従って、精米所等に行って、米糠と卵を交換して頂くとか、道端に生えているハコベやギシギシを摘んで来るとか、していた。但し毎日夕暮の頃、鶏小屋を開け放つ時が来る。すると全ての鶏が、我先に小屋から飛び立ち、周囲の草や昆虫等を、我先にと食べ漁るのであった。然し乍ら都合良いことに鶏は「鳥目」と言って、薄暗くなると、目が見えず行動出来なくなる。従って夕刻に放てば、一時間も待てば、自主的に、小屋の止まり木に舞い戻るのであった。


新年度その三

麦作りが難しくなれば、米作りは今まで以上に重要となる。我家の目の前に広がる農地を埋め立てて、住宅団地を造ろうとした、過去を振り返れば、市長に直訴までした結果、断念したことが、正解であったことを今頃になって思い知る。そんな今日この頃、道向かいの桜の花が咲き始めた。桜で思い出すことは多い。その一つが、若かりし時代の米国旅行である。全米を巡ったが、ポトマック河畔の桜並木が印象的だった。そこで私は帰国後、石貫を日本のポトマックにしたいと決意し、繁根木河畔の土手に、桜の苗を植え始めたのであった。


新年度その二

米作りの時期は、五月の水苗代から始まり、夏を経て十月の収穫に至る、大凡半年間の作業である。嘗ては我家も、米麦の二毛作をしていたが、今は米だけの一毛作!その訳は、ひたひたと迫り来る、不気味な地球温暖化に依る、麦の大不作に他ならない。と云うのも、麦は米を収穫した跡地に畝を立て、11月頃に種を蒔き、田植えが始まる前の5月頃に収穫する。処が近年は、折角実った麦を収穫せず、刈り倒す農家が増えて来た。何故なれば、春の5月が高温多湿となり、麦が収穫前に芽を出す事態になったからで、此の侭温暖化が進行すれば、恐らく麦は作れなくなるだろう。


新年度その一

愈々今日は年度末で、明日から新年度が始まる。農業をしている身なれば、元旦以上に改まった気分ともなる。その理由は農業、就中米作りの準備が始まる頃でもあるからかもしれない。私が米作りを始めたのは、意外と遅くて、昭和から平成に代わる頃のことであった。尤も子供時代には、農業の手伝いをしていたので、第二次参入とも云える。第一次の米作りは、生活の為、生きる為の農業であったが、第二次は、退職後の、趣味と実益を兼ねた、仲間と一緒の農業であり、今も続いている云わば、ライフワークとでも云えるようなものとなった。勿論米を得る以上のものを、得られる事にこそ、その真髄があることを、知っての事である。


バイオマスその四

バイオマスは、気が遠くなる様な長い年月を掛けて、地球上に薄く広く降り積もっている有機物である。従ってこれを大量に集めるには、人海戦術で遣るしかない。中でも広葉樹が良質なのだけれども、敗戦後の焼野原を蘇らせる為に、国を挙げて杉檜の植樹を奨励した。処がそれらの樹木が伐採時期を迎えた今日、皮肉にも日本は少子高齢化の時代と成り、材木の需要が減って、枝打ちや間伐も採算割れとなり、八方ふさがりの状態を招いている。


バイオマスその二

知人はバイオマスフォーラム等を主宰されているが、私は小難しい理論よりも、専ら実践主義で遣っている。何故なれば、我家の周辺は中山間地で、木や竹が生い茂り、その下には良質のバイオマスが堆く堆積しているからである。半世紀前の頃迄は、下肥を含めた人や家畜の糞尿も、田畑の肥料として業者が買いに来ていたが、高度経済成長が始まると共に、効果抜群で散布も容易な化学肥料に、一気に取って代わった。その結果、皮肉と云うべきか、我等の子供時代に多かった寄生虫(回虫・十二指長虫・蟯虫)を撲滅した代わりに、今度は清潔病ともいえる、喘息や蕁麻疹等々の病気が蔓延し、私はアレルギー喘息で、横になって寝れない程、苦しむようになった。


冬季湛水その七

私はコンバインを持たないので、稲藁が腐る5月まで待って、田圃の粗起しをするが、大半の農家は春を待ちきれず、早々とトラクタを掛け始めている。そんな初春の出来事に「畔崩し」と云う言葉がある。これは、田圃の畔際ギリギリを、幾度もトラクタで往復して、自田を数センチ単位で拡張する作業を指している。名は伏すが、その名人が耕した田圃を見れば、それはそれは見事な出来栄えで、畔はほんの形ばかりしか残っていない。私など、歩き難いばかりか、漏水を防ぐ為に畔を広くすることはあれども、削ることなど、夢にも思わない。


冬季湛水その六

米作りの敵は数知れず、モグラも大敵と言えるだろう。何せその得意技は、穴掘りだからである。田圃の畦道を歩けば、そのモグラトンネルが、地中数センチの深さで、何本も走っている。私はそのトンネルを、片っ端から踏み付けて潰すのであるが、モグラごっこならぬ、鼬ごっこで、遣っても遣っても、元の木阿弥!出来れば使いたくない、プラスチック波トタンを、使わざるを得ないのである。


冬季湛水その四

冬季湛水の最大の利点は、雑草防止に他ならない。仮にこれをしなかったら、今頃からの季節に、雑草が一斉に芽吹き、田圃は一面の芦原と化す。処が水田に水を張れば、少なくとも1~2か月の猶予が出来るのである。乾田ならイザ知らず、湿田の雑草除去など、トラクターが使えなければ、手作業では歯が立たない。処が湿田での田植えは、代掻きも不要で、好きな時期に、ぼちぼち手植えすればよいのである。


冬季湛水その三

冬季に田圃に水を入れるには、湧水が不可欠である。何故なれば、田植え時期から秋にかけてのみ、水田用の水は供給され、端境期にはカットされているからである。従って殆どの水田は、冬季湛水は不可能なのである。その中で唯一、我家の西側に広がる通称「鷽の谷」と称する地区は、稀に見る湧水の故郷と云う他ない。


冬季湛水その二

小岱山からの湧水を利用して、不耕起で米作りをしたいと、思い立ったまでは良かったのだが、イザ始めてみると、とんでもないことに!水が全く溜まらないのである。その原因は漏水である。耳を澄ませば、彼方此方から「チョロチョロ」と水の音がする。犯人はモグラである。モグラが掘った穴の数は何と「数十個」もある。その穴から漏れ出る音が、聞こえるのである。こりゃー大変だ!以降私とモグラのイタチゴッコが始まった。然し穴を掘るモグラは多数。その穴をふさぐのは、私只一人!私は年末から現在に至る迄、毎日の日課が「田圃のモグラ穴塞ぎ作業」となり果てた。トホホー


冬季湛水その一

時の過ぎ去るのは早く、最早春の装い!今年は自宅裏の湿田を利用して、私も米作りに参入したいと思っている。何故なれば、家の真裏の田圃を荒らすのは勿体ないし「趣味の領域で遣るのも悪くないなー」と思い立ったからである。処が遣り始めた処、思いもしなかったトラブルが、次から次へと発生して、大変なことになった。


木枯しその11

米作りは収穫で終わりではない。翌年度の作業が既に始まっているのである。その最たる仕事が藁振り!土地の痩せ防止の重要な仕事である。然し米を収穫した後の仕事ゆえ、分かってはいても、中々やる気に成れない。そんな今日、一念発起して、山口田に行き、瓦礫(石・枯れ木)の除去を完了した。本来なれば、稲刈り後、直に藁を振るべきだが、未だ田圃に放置してある。最近はコンバインが主流となり、藁振りが自動化されたが、架け干しすると、どうしても手作業でせねばならなくなる。


木枯しその十

明日から寒くなるとの予報を聞き、水路に掛けてある竹橋の更新作業!孟宗竹の根元の肉厚部を使うのが良さそうなので、曲がってない部分を数本選抜して、架け替えて見たが、やはり真直ぐではないようで、中々しっくりとは行かない。出来栄えの評価は、橋を渡って見れば直ぐ分かる。試行錯誤の上、半日も掛けて、二か所の橋の架け替え完了!残りは後日の予定!


木枯しその九

今年の冬は天候が不安定で、楽しい焚火もままならない。其処で水路の浚渫を始めたが、水路一帯に葦が蔓延って、撤去作業が大変である。然しこれを怠ると、湿田は米作り処では無くなる。


木枯しその八

欅の大木が立ち枯れしたので、切り倒して貰った。私は昔から常緑樹よりも、落葉樹が好きである。理由は散り際が一気呵成で、潔い様が良いのである。秋の深まりと共に、落葉樹の葉が、はらはらと舞い落ちる様を見ていると、己の人生と重なるような、不思議な感覚に捉われる。


木枯しその七

稲刈り後の藁の処置を知人に依頼したら、田圃の畔に綺麗に立て掛けてある。稲わらを田圃に入れるのは、土地の荒廃を防ぐ為であり、畔に立て掛けても、効果があるのだろうか?何か目的や優先度が異なるように思える。それにしても、色んな物を田圃に持ち込み、其の侭にすると、夏場に雑草に覆われて見えなくなり、事故やトラブルに繋がり兼ねない。


木枯しその六

稲作の最終作業は、来年への準備!処が大半の人が、稲刈り・脱穀を以て、作業完了と勘違いしている。その昔は、麦撒きの準備が控えていたが、今や殆どの農家が裏作をしなくなった。だからと言って、何もしないのは問題で、稲藁を田圃に返して、肥料と成し、土地が瘦せるのを防がねばならない。処が、斯様な作業は地味で重労働の割に、成果が見え難いので、ついつい疎かに成り勝ちである。


木枯しその四

どうやらこうやら、脱穀も完了して、今年の米作りも終わりとなりつつある。処がどっこい、脱穀した稲藁が作業場前に山積されている。何でそうなったか振り返れば、稲刈りに遡る。稲刈りは、今やコンバイン派が多数で、架け干し派は少数となった。コンバインは、稲刈・即脱穀で、同時に稲わらを細断して、水田に散布する機能があり、後は何もしなくとも良い。処が手刈りやバインダーで刈って、架け干し(はざかけ)をしたら、頃合いを見て、脱穀しなければならない。このタイミングが実に難しく、私は晴天3日後ならOKを出す。然し今年ばかりは、悩みに悩み抜く程に、難しかった。原因は地球温暖化である。


木枯しその一

勤労感謝の日の翌日が、今年の木枯らし第一号!暦通りと言えば聞こえは良いが、蒸し暑くて雨が多かった秋だった。その所為だろうか、とても長く感じた。この分では、足早に冬が訪れ、体が順応して行けるだろうか?服装の調整には、特に気を使わねばならない。何故なれば、重労働をした後に、背中に汗を掻き、其の侭にしていると、風邪を引く恐れがあるからだ。その対策はチョッキ!私は上着と下着の間に、チョッキを1~3枚着ることで、体幹調整をしている。その利点は、運動性を損ねないこと。脱ぎ着が容易なこと。注意点は、田畑にチョッキを置き忘れないこと!


端境期その四

米作りで最も楽しいのは、秋の収穫の季節!一年の総決算でもあるからだ。然し、来年のことも考えて、稲藁を水田に返すことが重要である。処が大半の人が、この最後の仕事を疎かにする。要は米が得られれば完了との考えである。然し我々は、無肥料農業をしているのだから、稲藁は貴重な資源であって、田圃にお礼する気持ちを持たない人が多いのには、がっかりする。


端境期その三

自宅裏の水田は、耕地整理が成されていない所謂「深田」なので、トラクタ・耕耘機等の重機が使えない。従って殆ど、手作業で遣らねばならない。と言うことは広い田は無理で、狭い田でコツコツと遣るのに向いている。そんな田圃が5枚程あり、内2枚をF氏が耕作されている。兎に角、田圃は一旦荒してしまったら、修復作業が大変なので、毎年作るのが良いのである。


端境期その一

端境期とは、新米が古米に入れ替わる、丁度今頃の時期を指す。田圃は稲刈りが終わり、二毛作でなければ、翌年5月まで丁度半年間の、休養時期に当たるのである。昔は二毛作が大半で、今頃は麦撒きが終わる時期だったが、今や麦農家は激減し、数戸の専業農家が作るのみとなった。原因は低価格と気候変動であろう。何故なれば、今や麦の刈取り時期の5月が、高温多湿の気象となり、実った麦が刈取り前に発芽して、収穫不能になるからである。従って今や麦の国内産自給率は、長期低落傾向になっている。


雨その五

久方ぶりに天気回復の兆候なるも、今年の秋雨前線は、しぶとく居座って、次々に暖湿気を齎したお陰で、田圃は一面水浸しの状態となり、今にも田植えが出来るような状況!知人の架け干しは、収穫のタイミングを失して、未だ10竿以上も残っている!果たして次の雨までに、脱穀が出来る状態まで稲藁が乾燥するか否か、今後暫くは、クリティカルな状況が続きそうである。


雨その四

今年は渋柿が豊作だったので、干し柿を作ってみた。処が案の定、青カビが生えて、銀バエが集っている。食べたいのはやまやまだが、干し柿のイメージは、白粉が噴き、硬い食感なるも、口に含めばドロドロの状態!これじゃボトボト落下するのも頷ける。


雨その三

今朝は、知人がキュウイを貰いに来られた。キュウイは所謂蔓性の植物で、棚に這わせれば、夏の木陰として格好の物である。然し今日も相変わらず天候不順で、時々ザーツと雨が降り出したかと思えば、チラッと木漏れ日が射すような、極めて不安定な状態。元々は11月は5月と並んで、晴天が長続きし、異常乾燥注意報が発令されるような季節だったが、今や秋雨前線が停滞する、高温多湿の季節に様変わりした。


雨その一

雨は農業には不可欠の要素であり、昔の干ばつは、大規模な飢饉を引き起こし、多くの人々が飢えに苦しんだことが知られている。処が太平洋戦争後の食糧難を切欠に、我が国は国家予算を投入して、農地改良を行ったお陰で、米の収量が消費を上回る処まで達し、近年は減反政策が採られるほどになっている。その主因は、食の多様化と、少子高齢化が、同時進行した結果に他ならない。


はざかけその十

はざかけの歴史は古く、私の子供時代には広く普及していた。今も残る、よれよれで、節だらけの樫の木が、それを雄弁に物語っている。然し今や引き継ぐ人も少数派となり、先細りは避けられないと思う。代わりに見掛けたのが、アルミ製の三段架け干し台。I氏の物だが、時代は変わったなーと思える程、強烈なインパクトがある。終わり


はざかけその八

今日は田圃から、はざかけに使っていた竹を、自宅に撤収。普通は田圃の畔に置くのだが、畔が狭くて、適当な場所を確保出来ない。それにしても、今年は何時までも暖かい日が続く。従って雨も多く、竹が濡れて虫食いとなり、折れる事故も偶には発生する。その予防策は、強度試験!力任せに足で踏み付け、折れなければ合格となる。決して見掛けで判断してはいけない。


はざかけその七

はざかけの材料は、昔は樫の木だった。然しこれを調達するには、暑い夏の最中、山から樫の木を伐り出さねばならない。従って近年は、樫の代替として、竹を使用するようになった。処がどっこい、竹は滑り易く、稲の重みで撓ったり、はたまた尻餅を付いたりするので、高度な組み立て技能を要求される。今年の失敗は、虫食いの竹を使用した為に、架け干しの竹が折れたことである。注:木六竹八とは、伐採時期を表す言葉で、旧暦なので新暦に置き換えると、木は8月、竹は10月に伐ると、虫が付きにくいと言うことである。


はざかけその六

今日は、はざかけの田で、脱穀した稲藁の散布作業。当然乍ら雨で濡れて重くなっている。この作業は、気がムシャクシャした時に遣ると、良いことが分かった。何故なれば、竹竿の下に積み重なっている大量の藁を、田圃全面にばら撒くには、藁束を持って、足場の悪い田圃を、行ったり来たりせねばならない。だから、藁をばら撒く時、ストレス発散宜しく、足でボーンと蹴とばすのである。この作業こそが、前項で述べたコンバインで遣ると、稲わらを細かく切り刻んで、自動的に圃場散布まで遣って呉れるのである。


はざかけその五

はざかけのコツは幾つかある。先ずは日当たりの良い場所を選ぶこと。そして竹竿の向きは、東西よりも南北が良い。何故なれば、午前・午後と、東西両面から平等に日光を浴びるからである。加えて秋の季節風が北西から吹き付けても、転倒したり、横倒しになる確率が低い。その代り、雨の後は乾燥し難い為に、最近は、稲の上部にビニールシートを架ける人が増えてきた。私は代替手段として、稲藁を笠状に掛けて、雨避けにしている。然し落ち易い欠点もあり当然とは言えども、これが万全という方法はない。


はざかけその四

はざかけは、昭和の時代から引き継がれた稲の乾燥方法で、今の時代にはぴったりだとも言える。その利点は一にエコ(太陽熱・風力乾燥)二に只(竹は今や無尽蔵状態)三に美味(稲の養分が籾に凝縮して美味くなる)からである。こんな素晴らしい遣り方をする人が、今や少数派となってしまったのは、残念と言うしかない。理由は高齢化もあろうが、若い人々に後を継いで貰いたいものである。


はざかけその二

はざかけは、架け干しとも言い、今は”バインダー”と称する、稲刈り兼締結が出来る機械も有るので、昔の手刈りに比べると、随分便利になった。然し竹や木で組んだ竿に、実った稲を架ける作業は、素人は兎も角、初心者にとっては、ちょっとした難関でもある。何故なれば、秋の日々は晴天が多いが、雨風の日も偶にはある。不幸にも、はざかけが倒れたら、それこそ一大事!全て一から遣り直しとなる。そればかりか、転倒した稲に泥水が付けば、米の食味が著しく損なわれてしまう。


はざかけその一

はざかけとは、稲や麦等を、収穫後暫くの間、天日干しして乾燥させる為に、竹竿等に吊るすことである。然し近年農業者の高齢化と共に、大型コンバインでの収穫が大半となり、はざかけ派は少数派となった。何となれば、労力と技術が必要で、一定の経験を積まないと、転倒・落下等を、引き起こす可能性が有るからである。私は子供の頃から錬われたお陰で、滅多な事でもなけれは、転倒させたりはしない。


温暖化その九

温暖化は地球規模の気候変動成るも、目下顕著に表れているのは、気温上昇よりも多雨化!元々秋は乾燥のシーズンなので、異常乾燥注意報が度々発令されるのに、今年に限っては皆無!それほど雨が多いことを表している。それもあってか、コンバインで収穫する農家が一段と増えた。と言うことは、電気乾燥と籾摺をすることに外ならず、エネルギー消費の点からは好ましいとは言えない。


温暖化その八

地球温暖化は、農業に対しても、様々な影響を齎す。その一つが、害虫対策である。私達のグループは、無農薬・無肥料で、米作りをしているので、害虫に襲われたらひとたまりもない。幸いにも今年は害虫に襲われず、ほっとしているが、油断大敵である。ウンカは中国大陸から北西の季節風に乗って飛来し、あっという間に稲の汁を吸い尽す。今年は幸いにも、大陸からの寒波が来る前に、収穫を終えたので、その点では助かった。


温暖化その七

地球温暖化が始まったのは、化石燃料を焚き始めた、太平洋戦争以降!それ以前は、薪炭が主燃料だった。丁度、鉄道輸送から、自動車輸送に移行する時期にも重なる。家庭では薪から石油・ガスコンロ、風呂の燃料も、五衛門風呂から、ガス・石油、最近では深夜電力に移行している。お陰で快適になったが、太陽熱以外には、燃料革命は進展していない。国民の大半は、深刻に受け止めていない様に見えるが、目に見えてから対策したのでは、手遅れになる。私はこの問題に対して、バイオマス燃料化を推進すべしと考えている。


温暖化その六

今日は雨の予報だったので、昨日は終日、田圃の畔の補修、草刈り、溝の浚渫等々を行った。この時期に纏まった雨が降るのは珍しく、もっと早目にすべきだったのかも知れない。それにしても、秋晴れが続かず、稲作農家は何処も困っているだろう。半世紀前の稲刈りは、人海戦術で、地干しだった。要するに、刈った稲をその場に置いて、日光で乾かす遣り方である。勿論その間に雨が降ると、下側が乾き難いので、裏返しの作業が必要となる。その作業を省くために、今の架け干しが始まったのである。然し今年ばかりは、稲が濡れて、架け干しの内部は蒸れている。


温暖化その五

十月末と言うのに、上着を着ると暑い程の気候!連日の悪天候で稲は乾かず、田圃は水溜り状態。当然こんな状況で稲刈りをしても、稲穂に泥が付き、食味を悪くするだけである。例年の今頃は、大陸から乾いた北東風が吹き付け、秋晴れが長く続く筈なのに、今年ばかりは、収穫の時期を全く見失ってしまった。これが今年限りなら兎も角、来年以降にも起きるのならば、米作りを抜本的に見直さざるを得ない。私が子供の頃は、我家の田植えは七夕(7月7日)前後で、稲刈りは11月だった。当時は殆どが手作業。近隣の収穫が終わってから、その人達が我家に集結して、稲刈りをしていたからだ。それが(人の心理から)いつの間にか一ヶ月も早まり、地球温暖化と多雨が重なり、困難を惹起しているのである。


温暖化その四

地球温暖化は、熱帯から来た米作には追い風と思いきや、どうも逆らしい。その証拠に、実りの時期に稲が黄金色に色付かず、緑色をしている。そればかりか、圃場が泥濘状態では、機械が使えず、収穫した稲にも泥が付き、食味を一層悪くする。これが今年だけの異変であれば良いのだけれども、毎年の状態になれば大変なこと!原発反対も分からないではないが、地球温暖化を止めないと、海面上昇と地下水の塩水化が来て、農業が出来なくなり、人間は地球に住めなくなりかねない。


温暖化その三

温暖化の影響は地球全体に及ぶ。一例が椎茸である。本来なら今頃は大量に発生する時期なのに、今年はポツポツ!日照はそれほど必要ないが、高温多雨の状態では、高品質の椎茸は期待出来ない。所謂傘の裏側の白い部分が、茶色に変色するからである。温室効果ガスを多量に排出している現代人の罪は大変に重い。我等の先行きは長くはないが、次世代以降の人々には、更なる困難が降り注ぐであろう。僅か我等の一世代で、環境異変を引き起こした罪は、とてつもなく重い。その私が今出来ることは、地道な農業を続けるのみである。


温暖化その二

秋の米の収穫時期は10月下旬!この頃は秋晴れが続いて、北東の乾いた風が稲を乾燥させる。処が近年、地球温暖化の所為か、秋が中々来ず、折角組んだ架け干し米に、カビが生えている。こんな稲を脱穀機に掛けたら、忽ちロック、籾詰りを生じた。その所為か近年、殆どの人が、コンバイン脱穀をするようになった。処がこれを遣ると、他人の米と自分の米が、機械で混じるので、私は未だに自前のハーベスタで処理している。


温暖化その一

今日の天気予報は晴れのち曇り!勇んで田圃に機械を持ち込み、脱穀を始めたら、5分もしない時間に、雨が降り出した。明日まで雨は降らないとの予想が、大きく外れている。それにしても、この暖かさは異常としか言いようがなく、架け干しの藁にカビ生えるのも頷ける。私が子供の頃、稲の収穫時期はとても寒くて、私は丹前(綿入りのチョッキ)を着て、稲刈りの手伝いをしていた。それでも手にはアカギレが出来、痛みをこらえていた。忍び寄る地球温暖化は、農業には深刻な打撃となる。


災害その十

米作りの歴史は古く、弥生時代から延々と続いている。日本は山国で国土も狭いが、米を主食にしたお陰で、世界有数の国家に成り得たとも言えるだろう。私とて、若かりし頃は稼ぎも多かったが、退職後は、農業を通じて多くの人々と交わり、第二の人生を謳歌して来た。なのに今や、農業の主体者は老人と成り、先細りの傾向は止まらない。そうなれば田畑は荒れ果て、野生動物の侵入で、人々は田舎を捨てて、都市に移住せざるを得なくなる。私は若者に言いたい。これ以上の自然の荒廃を止めるのは、若き青年なのだ。終わり


災害その九

猛暑だった夏が過ぎても、中々秋が来なかった今秋!流石に10月も下旬ともなれば、気温は秋らしくなったが、今度は秋の長雨が到来して、連日のぐずつき模様!折角架け干しをした稲が、乾燥する処か、雨に打たれて落下・泥だらけになる有様!今朝は雨の中、落下した稲束十数個を、掛け直しに行く。日本の四季は、春夏秋冬があってこその魅力だったが、近年は長い夏のお陰で、春と秋が短くなってしまった。


災害その八

今日は石貫小学校、餅米田の稲刈り・架け干し(はざかけ)。大勢の児童・教師・保護者等々入り混じって、雨がぱらつく中での作業となった。昨年までは、K氏の田で餅米を耕作していたが、余りに狭いので、私がM氏の田を照会したのである。それにしても、今や架け干し(はざかけ)をする人は、極めて少数となった。それはコンバインが一般的となり、稲刈り・脱穀の作業が、ほぼ自動化されたからである。然し機械化は、両刃の剣でもある。作業費・燃料費に加えて、乾燥・籾摺作業迄委託すれば、自分の米と他人の米が混じり合い、折角努力して育てた米が、誰の米なのかが分からなくなるからだ。そればかりか、糯米を粳米とを隣接地で作れば、交雑して、あばた餅になって仕舞う。


災害その七

災害は忘れた頃に遣って来ると言われるが、今年も皮肉にもその通りになった。昨年までの片白から、今年は猪に追われて、新天地の山口に集団移転した迄は良かったものの、選りによって、その初年度に、大水害に見舞われたのである。それは土砂崩れだった。梅雨末期の大雨で、給水路沿いの2~3mの高さの土手が、幅10m程に亘り崩壊したのである。その結果、一帯の水田に供給する水路が塞がり、水を供給出来なくなったのである。そこで水路に蛇腹パイプを設置して、応急的に凌ぐこととなった。然し水田に流れ込んだ大量の土砂や石・雑木の根等は、未だに其の侭の状態。本来であれば、ユンボ等を駆使して、災害普及をせねばならないのだ。


災害その六

本日10月15日を以て、本年度の自田2枚の稲刈り・架け干し作業が完了した。処が私は架け干しの技能は誰にも負けないと自負していたが、昨日ばかりは大失敗!将棋倒しを遣ってしまった。それにしても、今年は初めてと言って良い程、大きなトラブル・アクシデントに、見舞われなかったのは、幸いであった。何となれば、昨年までは猪の侵入に見舞われ、田圃の一角を踏み潰されたからである。然し他のトラブルはあった。所謂水田土手の崩壊である。我が借地田は、道路に面し、日当たりも良いので、数年来借地しているが、川沿いの畔が3年連続で崩壊して、漏水が発生している。昨年も一昨年も、業者に依頼して修復して貰ったが、今年も矢張り漏水している。どうも市の災害復旧工事が滞り、機敏な対応が出来ていないと見受けられる。今年は熊本地震等の大規模災害が有り、益城町は大変だろうが、猪の害も半端ではない。何せ、侵入する側は、好きに行動出来るが、防ぐ側は「何時何処から侵入するか」四六時中見張る訳にも行かないからである。


災害その四

昔は「地震・雷・火事・親父」が怖いものの代表だったが、今や「地震・噴火・火事・神さん」と言い換えたが良かろう。それにしても「台風去りて秋来る」処か「再びの夏来る」と言える程の暖湿気流入。蒸し暑さが、依然として居座っている。そんな中で早くも、稲刈りの季節到来。今日は架け干し用の竹を、田圃まで運搬。近年は高齢化が一段と進み、多くの農家が、稲刈り・脱穀・乾燥・籾摺までを、業務委託するようになった。と言うことは、殆どの農作業を、他人任せにしたことに他ならず、何の為の農業かと言いたくなる。


災害その三

災害には原因があり、土手の崩壊は自然災害、猪の侵入は、生態系の変化と思われる。今や自然も、地球温暖化の影響で、激甚災害が増加している。従って、優良農地を維持保存する、農業の役割は、今後も増えこそすれども、減るとは考えられない。そしてその役割を担うのは、今や中高年者なのである。その一人足る私も、人知を尽くして頑張らねばならない。


災害その二

今年は農業者にとっても、災難の年であった。益城町の大災害に比べれば、軽いかもしれないが、私が米作りをしている天神平の農地も、地滑りが発生して、暫くの間、水が来なくなった。従って同級生から借りている田は、止む無く米作りを断念。処が昨年植えた稲の落穂から芽吹いた米が、パラパラと実っているのを発見!勿体ないと思って、今頃になって、知人と稲刈りをしている有様。私の脳みそと同様に、何かが狂っている。


収穫その九

今年も銀杏の季節到来!最近は毎日のように、笊と火箸を持参して、草の中に落ちている銀杏拾い作業。銀杏は大木となるので、境内が広い寺院や神社に植えてある所が多い。昭和30年頃、我家の庭先にヒョロヒョロとした銀杏の木があった。それが今では一抱えもある大木に成長!処がこの木はオスなので、銀杏は生らないが、これからの季節、夥しい木の葉が落ちるので、その処分作業が大変!他方、銀杏の実が欲しいと、自宅裏の荒神さんの脇に植えたメスの銀杏も、大木に成長して、毎年夥しい量の銀杏を落下させる。其処までは良いのだが、銀杏の果肉には、強い糜爛作用があるらしく、素手で触ろうものなら、酷く被れて、皮膚科に行く羽目になる。従って草刈機等が使えないので、収穫は全て手作業。火箸で雑草を掻き分け、一個ずつ拾うしかないのである。何時まで続くのやら、こんな木植えるのではなかったなーと、嘆息している。


収穫その七

愈々実りの10月が到来する。昨秋の猪の被害に懲りて、今年から新天地の山口で米作りを始めたが、誰もが太鼓判を押すほどの、立派な出来となった。豊作の要因は幾つかあるけど、長らく耕作放棄田(所謂処女地)だったことが大きい。地力が高く、日当たりも良く、水が潤沢に来れば、無農薬・無肥料でも、ケミカル農家に負けない収穫が得られる。勿論、前年度の、片白での猪被害を踏まえて、考えられる限りのブロック工事をしたので、今年こそは、無傷で収穫したい。


収穫その六

何事にも一定の不文律があり、樹木の所有権も然りである。然し木々は植えた後に大きく成長して、隣地の上空まで版図を広げることもある。その場合、木々の枝に成り、落下した果樹は、原則地主の所有となる。例えば、私の土地に植えた栗の木が、隣地に版図を拡大した場合、隣地の地主は、自作地に落ちた栗を拾う権利を有する。処が竹の場合はちょっと厄介である。竹の地下茎が隣地に伸びて、筍が生えた場合は、無条件に掘っても良い。更に隣地の竹が、上空に覆い被さった場合、その竹を伐っても良い事になっている(上空権)。


収穫その四

夏も足早に過ぎ行くこの季節、畑に行けば、ホウレンソウ・人参・大根等々、秋冬野菜を種蒔きしたのに、絶滅に近い有様!恐らく雀等の鳥に、殆ど食われたようである。それにしても近年、鳥害が以前にも増して、ひどくなった。その主因は、狩猟の禁止である。嘗ては猪だけでなく、雀等の鳥は、貴重な蛋白源として、カスミ網や鳥もち等を使い、獲ることを許されていた。処が愛鳥週間など、狩猟反対派が勢いを増して、今や風前の灯!人を恐れなくなった鳥に馬鹿にされつつ、人間が檻の中で、野菜作りをせねばならなくなった。


収穫その三

今朝は、猪避け電気柵下の畔の草刈り。草や彼岸花が彼方此方で電線に触れて地絡し、茶色に焼け焦げている。然し電気柵下の草刈作業は、細心の注意を要する。何故なれば、少しでも刈払機の刃やワイヤーが、電線に触れれたら、忽ち切断されるからだ。幸いにも今日は無事に刈り終えてほっとした。今年の天神平は殆どの田に、猪対策をしてある。それだけ猪の害が、増えている証拠である。残す処一ヶ月、クリティカルな期間を、無事乗り切らねねば、収穫の喜びには浸れない。


収穫その二

稗は水田の中にも、畔にも生えるのだが、人間にとって都合良いことに、何故か稲よりも数センチほど高くなる。これこそが我等田主への、決定的なシグナルとなるのである。私は稲の中に分け入り、鋸ガマを使って、根元から稗を刈取り、種がビッシリ付いた稲穂ならぬ稗穂を、ハンマー投げの要領で、畔の外に向かって投げ捨てる。そのお陰で、我が田圃の周りの畔には、大量の稗が散らばっている。若し稗と稲との高さが同じだったら、稗取りは格段に困難だったろう。


収穫その一

9月も下旬となり、愈々秋らしい季節が到来したので、一念発起して、田畑の土手の雑草刈り!それにしても、今年の田圃の稗は”史上最多”とも言える位の、物凄い量であった。何でそうなったのか考えてみると、昨年の稗取りに行きつく。何故なれば、稲の穂に付く籾の数は精々百数十個。なのに稗の種の数は、稲の5~10倍も有るのだ。それが次年度、再生産することを想像すると、空恐ろしくなる。だから私は今年、将に「親の仇」と云う気持ちで、稗取りに取り組んだ。


農機具その十

今日は恒例の石貫球技大会日だったらしいが、うっかり・すっかり失念していた。嘗て私が公民館長だった時代は、今は亡き区長会長のK氏共々、前日から万全の準備を整え、競技後の懇親会の準備まで、一手に取り仕切っていた。然しその後、年月の経過と共に小さなトラブルが散見されるようになった。それは所謂、アパートと戸建ての人々との、負担金の相違をめぐる、対立関係である!楽しかるべきイベントが、金銭がらみともなれば、やる気は忽ち失せる。以降私は一切の公職から退いた。


農機具その九

今日も雨の気配なし!先月から少雨の傾向が続き、稲の生育は順調なるも、水不足の傾向は、依然続いている。こんな時期は、畑仕事に励んだが良いと思い、乾いた畑を刈払機で丁寧に草刈りし、秋野菜の種まきを実施。とにかく野菜苗はゴマ粒以下のサイズなので、細心の注意をしないと、厚撒きになって、ヒョロヒョロ野菜と成りがちである。それを防ぐ方法は「希釈」即ち、乾いた砂や、米糠、草木灰等に混ぜて、蒔くのである。然し油断大敵!上空から雀が虎視眈々と狙っている。そして私が畑から去ると、バラバラと舞い降りて来て、たった今蒔き終えた野菜種を、一斉に啄むのである。


農機具その八

9月は秋野菜の種まき時期である。処が殆どの野菜の種は、小粒で1mmにも満たないサイズ。其処で圃場の雑草を出来る限り刈り取って、草に負けないように育てねばならない。こればかりは手作業で遣るしかなく、毎年草茫々にしてしまうのは、種まき直後の草取り作業を怠るからに他ならない。今日は一念発起で、ホウレンソウ・人参・大根の種まき。いずれも小さな種なので、余程注意して作業しないと、厚蒔きになって、間引きが大変になる。


農機具その七

私がお気に入りの農機具は「地均し」理由は特にないが、汎用性があり、多用途に使えるからである。勿論地面を平らに均す為の農機具なるも、刈草を一ヶ所に集めたり、地面の凸凹を均したり、石ころを拾い出して、除去したり、様々な作業に有用だからである。今日は将にその作業日。明日は愈々秋野菜の、種まきの予定日だ!


農機具その六

鍬(くわ)で思い出すのは、三又(みつまた)。所謂三本ツルハシとも云える農機具である。何故なれば、硬い土壌の中から芋等を掘り出すには、クワやスコップでは如何にもしんどい。其処でツルハシを使用すると、抵抗が小さくなり、より深く、楽に掘り出せるのである。これはサツマ芋や、里芋を掘る時の必須の道具である。それでも、芋を傷付けることもあるが、クワなら真っ二つに切断してしまうのに、三又なら、一部を傷付けるだけで、損傷が軽くなる。


農機具その五

クワの種類は多々あり、袋クワというのもある。これは湿地や、水田等で、畦立てする時に使用するもので、泥水を抄い上げる機能がある。例えば里芋を植えた場合、芋が露出すると、不味くなるので、これを使う。処が最近は、柄と刃の角度を、何段階か調整出来る、クワまでもが現れた。たかがクワ、されどクワである。


農機具その四

前項で述べた、クワとスコップ。形状も使い方も対照的だが、溝を掘るにはクワが良く、穴を掘るにはスコップが好都合である。尤もクワと云えども、様々な種類がある。それは柄の角度!即ち浅い溝を掘るには、柄の角度が小さいが良く、深い溝を掘るには直角に近い角度のクワが良い。


農機具その三

代表的な農機具がクワとスコップ。形状も使用方法も全く異なるが、伝統的農機具で、今も尚廃れずに使われている。勿論私も、大小様々なクワとスコップの愛用者である。この両者の利点は何と云っても汎用性。溝を掘ったり、畝を立てたり、天地返しをしたり、何でも出来るので、田畑に行く時の必需品である。


農機具その二

農機具は大きく分けて、土地(土壌)を耕したり、畝を立てたりするものと、草や木を伐採したり、剪定したりする物に分類される。暑かったこの夏も過ぎ行き、秋の気配と共に、やがて木々の剪定の季節が到来する。嘗ては春秋の2回、庭木の剪定をしていたが、今では年に一度、秋たけなわの10月に、庭師に頼んで屋敷周りの木々の手入れをして貰うことになっている。


農機具その一

農業機械は、戦後の目覚ましい技術革新に依り、大発展を遂げたけれども、農機具は、単純な機構であることもあり、差程の変化は起きていない。それでも我が納屋には、ぎっしりと様々な農機具が置いてある。その理由は単純に、農機具が必要だからであるに、他ならない。


メンテナンスその七

刈払機の心臓部は、回転部のギアで、どうしても草が絡まり、摩擦で熱くなる。それを防ぐ為の絡まん刃も、大量の草が巻き付けば、やはり抵抗は増す。其処で私は専用のフォークを携行して、定期的に巻き付いた雑草の塊を解きほぐす。こんな目立たない地味な作業が、農業ではとても重要なのである。


メンテナンスその四

典型的なメンテナンス作業が、刈払機の刃研ぎ作業である。草刈りをすれば、必然的に刃は摩耗・欠損をする。それは地面が、泥だけではなく、石ころや、諸々の異物だらけだからである。それを防ぐ為に、ナイロンワイヤーを使う方法もあるが、異物がビュンビュン飛び散るので、眼鏡や前垂れなどで、確り防護をしなければ、怪我をすることにもなる。


耕耘機その六

今は農業機械が発達して、何事も便利になったが、半世紀前の頃は、それはそれは大変だった。何故なれば、トラクタ処か、耕耘機すらも無く、牛馬農業だったからである。耕耘するのは牛、脱穀するのは人間であった。所謂人力(足踏み)脱穀機である。門司の農家から頂いた、足踏み脱穀機が今も我家にあるが、この作業はとても大変である。何故なれば、動力は人力100%だからである。足が動力、手が稲送りする仕組みになっている。


耕耘機その四

耕耘機の特徴は、その他にもある。それは燃費が良いことである。一般的にディーゼルエンジンは、ガソリンエンジンに比べて燃費が良いが、小型軽量の耕耘機に積載されたデイーゼルエンジンは、更に燃費が良い!従って長時間作業には、持って来いである。然し注意すべき点も幾つかある。
その一:燃料を切らさない。ガソリンエンジンは、ガス欠になっても、ガソリンを補給さえすれば再起動する。処がディーゼルエンジンは、一旦ガス欠になれば、再起動出来ない。それは燃料噴射ポンプにエアが混じると、燃料が噴射不能になるからである。私はこのことを知らずにトラクタを掛けていて、とても困った。以来燃料計を見る習慣が付き、今では田圃でエンコすることは無くなった。


耕耘機その三

耕耘機が今も有用なのは、小回りが利くことと、多様性が有ることである。一般的に畑地は水田に比べて狭く、形状も色々である。従ってトラクタよりも、耕耘機の方が、取り回しが遣り易い。それはUターンの時にはっきりする。何故なれば、トラクタと耕耘機の全長は二倍以上の差が有るので、Uターンした所の耕せなかった広さも、二倍以上となっていしまうからである。


耕運機その一

耕運機は耕耘機とも言うが、中身は同じ物である。トラクタは人が乗り、運転するが、耕耘機は人が歩き乍ら、田畑を耕やしたり、畝を建てたりする機械で、バイクと自転車の違いだと考えれば、分かり易い。嘗てトラクタが無かった昭和の時代、多くの日本人は、自転車やバイクと、リアカーを連結して、物を運んでいた。それが三輪トラックとなり、軽トラになったとも言える。こうやって考えると、日本人の発想の素晴らしさや、豊かな構想に驚かされる。


軽トラその八

軽トラ=軽トラックは、軽乗用車の規格で作られているので、1mm足りとも、はみ出すことは許されない。然し乗用車と違って、貨物運搬が主目的なので、デザインよりも積載に重きが置かれている。と云うことは角型であることがメリットとなり、各社のデザインも、似通ったものとなっている。一方色に付いても、白系統が大半を占め、乗用車の様なバラエティはない。其処で工夫されたのが、全面の「顔」である。田舎道ですれ違う軽トラの顔は様々なるも、最近はスズキ・ダイハツが売れているようで、新車も多く見掛ける。


軽トラその七

軽トラメーカは、スズキ・ダイハツ・三菱・ホンダ・そしてOEM各社が入り乱れ、販売競争を繰り広げている。従って今後も販売競争は熾烈で、各社各様の特徴をアピールせねば、勝てない時代となった。他方、ユーザーは、選択肢が多く、自分に合った車を選べる時代になったので、他社との差別化を如何に成し得るかで、優勝劣敗が決まるだろう。私の本音としては、スバルが撤退した現在、三菱には頑張ってほしいと、陰乍ら応援している次第である。終わり


軽トラその五

軽トラは一見しても、乗用車と違って、どれも同じように見えるかも知れない。然しつぶさに見れば、幾つかの特徴がある。その一つが前輪タイヤの配置である。我が三菱は車の先端!スバルは尻の下にある。それがどうしたと思われるかも知れないが、この違いは運転操作に少なからず影響する。即ち切り返しや、Uターンをする時に、タイミングが異なるからである。特にタイヤの配置は、狭い道で切り返す時、予めタイヤの配置を念頭に置かないと、脱輪する恐れもあるからだ。


軽トラその二

軽トラの特徴は幾つかあるが、最も便利なのが、四駆機能である。即ち今の車の殆どは二輪駆動なのだが、軽トラの殆どは、パートタイム4WDなのである。従って一般道路を走行時は二駆で、未舗装や荒地では四駆に切替えると、まるで別の車に乗り換えた如く、坂道や泥濘も何のその、オフロードカーに変身するのである。私は昨年まで、片白の田圃を作っていたが、悪路や起伏を超えるには、四駆の機能が絶対必須だった。


軽トラその一

農作業に於いて、死活的に重要なのが軽トラック(通称軽トラ)である。何故なれば、田舎の道路は狭く・起伏に富み・舗装されてない道路も多い。従って乗用車等を乗り入れ様ものなら、忽ちエンコして、助けを呼ばねばならなくなる。だから今や殆どの農家が軽トラを所有している。勿論、斯様に軽トラが普及した理由は、他にもある。それは「マルチパーパス」であることだ。大人二人の他に、350kgもの貨物を積めるのである。今や田舎の家庭は一家に一台ならぬ、一人に一台の車を所有していると言って良い。と云うことは、普通車を使うチャンスはドンドン狭まり、軽の利便性が益々高まっているのである。これは日本特有の現象かもしれないが、私は「地球温暖化防止」の観点からも、とても良いことだと思うし、ライフスタイルをも含めて、開発途上国に、大いに売り込むべきである。


トラクタその五

トラクタの殆どは自動車と同じ、ゴムタイヤを装備しているが、知人のトラクタは戦車と同じ無限軌道車!山川も走れる無敵のトラクタともいえるが、勿論欠点もある。それは道路を傷付けるからである。原野を走り回ってドンパチ遣るには、一般道路では迷惑だし、走行跡地には泥を振り撒くことになる。


トラクタその四

トラクタの技術革新は素晴らしい。近年は特にアタッチメントの改良が目覚ましく、例えば「畔塗り機」を取り付ければ、自動的にローラーが高速回転して、見事な畔が出来上がるのである。勿論高価な装置に違いないが、其処まで自動化が進展するとは、私も思わなかった。


トラクタその二

トラクタは「原動機付作業車」と定義されている。もっと平たく言えば「エンジン付きの牛」である。田畑を鍬起こしたり、土を砕いたり、溝を掘ったり、畝を建てたり、色んな作業をする為の、所謂アタッチメントを付けて、目的の圃場を作る為の機械である。尤も私の様な兼業農家は、其処までは遣らないので、田畑を鍬起こしたり、代掻きをする程度の装備しか持っていない。


刈払機その八

そもそも草を刈るという作業が、何時頃から始まったのか分からないが、殆どの農業機械は、手作業を機械に置き換えることで、発展して来た。刈払機もその一つで、鎌を地面と水平に動かして、草を刈るのを、其の侭、回転刃に置き換えたのである。但し切刃は多様な進化を遂げ、私が最近使い始めたワイヤーはカーボン入りの四角ワイヤー!摩耗に強く、硬い草も面白いように伐れる。今朝は6時起きで、石貫小学校田の、畔の草刈りをした。


刈払機その七

刈払機の殆どは、エンジンを背負うタイプだが、ゴルフ場等の広大な草地は、別のタイプが活躍する。嘗て知人が持ち込んだ草刈機がそのタイプだった。直径1m程もある、切り刃がブンブン回って、草を伐り払うタイプだった。然しこのタイプは地面が平坦でなければ、決して効率の良い作業は出来ない。但し例外もある。それは菊池川の土手の草刈りを見れば一目で分かる。即ち急斜面を走行しつつ、大型の伐り刃が回転して、牛のエサを刈る機械である。恐らく外国製とも思えるが、斯様な大型機は日本では使い辛い。


刈払機その六

刈払機の切刃は、大きく分けてチップとワイヤー。チップは土地が平坦で、石が無い場所に向いている。他方ワイヤー式は、石や砂利等の異物がある場所や、起伏がある場所に向いている。従って両者を使い分けるのが良い方法で、私は常に二式を併用している。処が草刈り場所には異物もあるので、ガラスや金属等が無いことを事前に確かめてから、作業すべきである。


刈払機その二

刈払機が我国で異常に発達したのには訳がある。それは起伏に富んだ国土と、勤勉な国民性の成せる技に他ならない。欧米の草刈機は殆どが大型で乗用型。日本で使える訳がない。一方小型の肩掛け式や背負い式の草刈機は、起伏に富む日本の土地にぴったり!今や田舎の老若男女の殆どが、草刈機を日常的に使いこなしている。その最たるものが、水田の畔の草刈り作業である。恐らく刈払機の効率は、手鎌の10倍にも達するだろう。


田その十

今日は夜明けを待って、石貫小学校田の草刈り!全く雑草の伸びは凄まじく、膝程度の高さに茂っている。刈払機を二機持ち込んで、日差しが強くなる前に済まそうとしたが、甘かった。次の山口田の畔切りが急がれたからである。何となれば、物事には自ずと手順がある。畔の草切りをした後で、電気柵を張らねば、草刈りがとても遣り難くなる。


田その九

今日は庭師のK氏に来て頂き、田圃の崩壊個所の修復打ち合わせ!毎年災害が起きて、付け焼刃の対策では埒が明かない。今度こそ再発防止になるように、抜本対策をお願いする。そのキーになるのは、石投入になるらしい。何故なれば、土砂を投入しても、雨の力で容易に流亡するが、石を投入すれば、流亡は無いらしい。然し大量の石を集め、積み重ねる作業は根気を要しそうだ。


田その八

そろそろ猪の出没時期なので、毎日水田を見回り、警戒をせねばならない時期となった。その第一歩が畔の草刈りである。何となれば、電気柵設置の前には、必ず草刈りをせねばならないし、その後も定期的に、電気柵に草が触れないよう、こまめに管理せねばならない。何故なれば、猪に感電の恐怖を与えるには、電気柵と地面との間に、高圧が架からないと、パチ-ンと猪に衝撃を与えられないからである。一度感電すると、猪は恐怖心を抱き、電気柵に近付かない。特に敏感な鼻や耳が、電線に触れた時の衝撃は、強烈である。


田その七

盆明けの今頃が、猪の出没開始時期!山の餌が乏しくなると、人里に下りて来る。尤も猪はとても臆病な動物なので、先ず人気の途絶えた夜間に出る。そして最初に食べるのは、ミミズ等の動物性タンパク質である。処が、ミミズは地中にいるので、それを掘り当てる為に、前足と鼻と牙を使い、地面を掘り起こす。それだけなら兎も角、背中にダニが居るので、田圃に寝転がり、泥と共にダニ落としをするのである。そうなると、水田はめちゃくちゃになり、収穫しても鶏のエサにしかならない。その為に近年は殆どの農家が、田圃の周囲に電気柵を張り巡らすようになった。然し電気柵は草に触れると地絡して、感電しない。従って、こまめな電気柵ワイヤー下の草刈りが必須。然し雑草の伸びは驚くほど速く、今の時期は月に二回は草刈りをしないといけない。


田その一

我家の水田は、嘗ては今の2倍以上を所有していたが、今や田圃カフェ前の一枚のみとなった。原因は父「徳永維一郎」である。共産主義に被れて、労働を毛嫌いし、晩年は下顎ガンに侵されて、アルコールに溺れた末に、若干52歳の若さで急逝した。昭和31年、私が小学4年の7月16日であった。以降我家は借金財政に振り回され、農業をするしか生きる術を無くした。当時の田圃は、今とは全く異なる形状で、納骨堂の前の道を挟んだ4枚から成っていた。勿論道路幅は今の半分!リアカーが通ればぎりぎりの道幅に過ぎない。


山その十一

石貫の西方に聳える小岱山は、標高501m。手頃な高さで、登山道も幾つか整備されている。嘗ては元旦の早朝から登山を始めて、頂上で初日の出を拝むのが、地域の人々の習わしだった。処が数十年前、防火林道と称する、二車線の立派な道路が、山脈の西側中腹を南北に貫通した。処がこの道路を利用する人は殆ど居ないので、宝の持ち腐れになっている。と言うのも、バブルの時期に、米国が貿易赤字の拡大に危機を抱き、我が国に対して「国内需要を喚起するよう」圧力を加えたからである。それにしても日本は米国に弱腰で、適当に対応していれば良かったのに、真面に動き、殆ど通行車両がない山岳道路を、次から次へと建設したのである。私はこの道路を軽トラや、バイクで幾度か走ったが、殆ど対向車もなく、将に税金の無駄使いとしか言いようがない。否唯一の利得と言えば、この農免道路から小岱山登山道への、近道を見付けた事位であろう。


山その四

山の生産性が低いのは、傾斜地が殆どだからである。逆に考えれば、平坦化すれば生産性は向上する。その典型が棚田であり、私が借地している水田も、棚田に他ならない。然し山林を無暗に開くと、土砂崩れ等の災害が起きるので、充分注意せねばならない。半年ほど前に、京都から竹買いが来て、馬場地区の真竹を大量に買って行ったが、その跡地を見れば、見事な棚田の痕跡が見て取れる。


山その二

山は田畑と違って生産性が低い。然し無用かと言えば、そうではなく、保水や地球温暖化防止に寄与している。処が、戦後禿山になった山林を再生すべく、国民運動的に植林を奨励され、多くの人々が杉・檜の、所謂針葉樹を、挙って植えた。我家はその例外だったが、昭和の末期、和歌山から石貫に戻ってから、檜の大木数十本を伐り出して、自宅を改築した。その跡地に植林した檜が、今や立派に育ち、そろそろ伐り時期を迎えつつある。尤もそれ以前に遣るべき、間伐と枝打ちが不十分な為に、材木としての価値が高いとは思えず、此の侭放置すれば、周囲の山林の如く、ヒョロヒョロで、枝だらけの、みすぼらしい山林となろう。かと言って、私一人で出来ることは少なく、冬場に高枝鋸を持ち込み、枝打ちをする事位ではなかろうか。


畑その最終章

兎に角畑は手が掛かる。それ故に日本人は省力化を図る為に、畑を水田に改変すべく、大変な努力をした。お陰で米の自給は達成されたが、畑作物の麦や大豆・粟・トウモロコシ等は、自給率が激減して、殆どが海外産に取って代わられた。鶏の餌に例えれば、米糠・トウモロコシ圧片・麦の粕・魚粉の中で、自給出来るのは、僅か米糠のみである。私は上記の餌を、鶏の飼料にしているが、利益は微々たるものである。従って、やたらに規模を拡大せず、細々と続けるしかない。


畑その九

昨年迄は里芋畑だった場所を借りて、今年から石貫小学校田の、糯米作りに取り組んでいる。処が田植はK氏が糯米苗を供給して頂いたお陰で、首尾良く出来たが、後の管理が良くない。要するに草茫々の状態になっている。畔や土手の草刈はしたものの、通常田圃の中では刈払機は使わない。然し人手は私一人故に、無謀にも田圃の中で、刈払機を使ってみた。水面すれすれに動かせば、何とか草を刈れるも、少しでも水面に接すれば、四方に泥水が飛び散る。最後はエーイ侭よと、泥飛沫を浴びて田圃の雑草狩り!メガネは掛けていたが、全身に泥水を浴びたので、ホウホウの体で帰宅して、シャワーを浴びた。ヤレヤレ!


畑その八

畑は水がない圃場で、田圃は水がある圃場。その中間は湿地と云える。今日はその湿地、つまり湿田での田植に、N氏父子が来訪!頃合いも良く、水が来たので、鍬やスコップで耕せば、一気に田圃らしくなり、田植が可能となった。実にパーマカルチャーで、合鴨農法にチャレンジして以来、十数年振りの田植!今も思い出して可笑しくなるのは、合鴨の餌が絶対的に不足してガーガー鳴くので、私が毎日鶏の餌を遣っていたこと!あれが合鴨農法とは、とてもじゃないが、言えないんじゃないの?


畑その七

水田と異なり畑作物は、種蒔きや収穫時期が様々である。大まかに括れば、春夏野菜と秋冬野菜に分類される。私は秋冬野菜の典型である、グリーンピースを毎年作付けしている。処が今年は、収穫を目前に雀やヒヨドリが、多数羽飛来して食害され、殆ど全滅の憂き目に遇った。近年は鳥が人を怖がらなくなったのは、銃砲規制が厳しくなり、散弾銃等が使えなくなった所為もあろう。専業農家は、止む無くハウス栽培に転換したが、私はハウス栽培はしたくない。何故なれば、畑作物は連作障害が生じ易く、専業農家はその防止策として土壌消毒と称する、薬剤散布をしているからである。


畑その六

畑作物の代表は、茄子・トマト・ピーマン・キュウリ・ゴーヤにオクラ等だが、近年は接ぎ木苗や、所謂種採りが出来ない一代交配種が、大半を占めるようになった。何となれば、農業関連の職種で、最も利益率が高いの種屋だからである。昔は種取りが普通だったが、今も種取りしているのは米位となった。


畑その五

水田には毎年水を張るので、所謂連作障害が発生せず、同じ場所で同じ米を作付けすることが出来る。このことこそ、国土の狭い日本で千年もの昔から、営々と米作が続いた理由に他ならない。従って日本人は、昔から何とかして畑地を水田に改変したいと努力して来た。有名な石川県輪島の千枚田がその典型である。勿論此処石貫も例外ではなく、その跡地が其処此処に見て取れる。現在では竹山になっている処が、よくよく見ると、段々畑状に残っているからである。第二次大戦後は所謂生糸ブームが到来して、彼方此方で桑を栽培していたが、桑は畑作物故に、段々畑にする必要はなく、戦前の棚田を、其の侭利用したに過ぎない。三ツ川から箱谷を経由して、菊池川方面に行くと、右手にその名残が、今も見て取れます。


畑その四

田圃には水を張るので、水草以外には雑草が生え難いが、畑は土壌が露出しているので、油断すると草茫々になる。それを防ぐ為に除草剤が開発され、一般農家は大量に散布する。然しこれは有害でもあり、私は使用しない。代わりの方法が、黒マルチと言う、プラスチックのシートで、近年爆発的に普及した。大変便利なものだが、問題もある。それは後始末である。紫外線に晒されたマルチシートは、草刈機等を使用すると、ボロボロに破損して、有害ごみと化する。家庭ごみは分別して出せば、処分して呉れるが、マルチシートは受け取らない。従って、目立たない場所への不法投棄がはびこるのである。


畑その三

畑作物の中で最もポピュラーなのが、茄子科の茄子・トマト・ピーマン・キュウリ・ゴーヤ等である。処がこれらの作物は、毎年同じ場所に植えると、連作障害を起こす。従って輪作と称する、所謂場所替えをせねばならない。と言う事は、過去何を植えたかを覚えておく必要がある。然し狭い畑での輪作は難しく、最近は障害回避の為に、土壌消毒と称する、薬品を投入する人が増えて来た。私はこれをしておらず、過年度の作付記憶も曖昧故に、出来が悪いのは仕方がなく、堆肥や草木灰・朽ちた椎茸ホダ木等を投入することで、補っているのが実態である。


畑その二

田と畑の違いで、大きいのが立地条件!水田は、田植から稲刈までの4ヶ月間、適切に水管理をすれば、ジャンボタニシのお陰で、雑草は畑ほどには蔓延らない。然し畑はとても面倒である。何故ならばちょっと油断すれば、あっという間に草茫々になるからである。それ故に、小まめに手入れをせねばならず、立地も自宅の近くでなければならない。今日は自宅前の畑の草刈作業。刈払機は、刃を水平にして刈るのだが、地面の凸凹に触れると、畑の土や小石を切ってしまい、チップの刃こぼれを生じる。それを防ぐには、左から右に振る時には、右をやや高目に、右から左に振る時には、左をやや高目にして、スイングするのがコツである。慣れるまではちょっと難しいが、馴れれば、無意識に出来るようになる。


畑その一

同じ農地でも、田圃と畑の違いは幾つかあるが「田圃は、完全フラットで水が来る農地」で「畑は、緩傾斜で水が溜らない農地」だと考えれば分り易い。詰りは水の有無だと云える。私は自宅前の畑に「鶏小屋」を建てたので、目下従弟の畑を借りて、畑作を行っている。従弟は教員家庭に育ったので、農業経験が全く無く、私に無償で貸して呉れた。他方私の母は町屋育ち成るも、父と結婚後、姑から徹底的にしごかれた甲斐もあって、私が物心付いた昭和30年代には、和服にモンペ姿で、必死に農業を遣っていた。あの頃の母を見ていたからこそ、私は退職後すんなりと、第二の人生を、農業に決めたのであった。


田植番外その十九

雨の止み間を計って、田圃の状況視察の為、石貫1区・2区・3区・4区・5区の順番に、軽トラで廻る。被害が大きいのは3区・4区・5区の様に見受けられた。その原因は地形!平坦地の1・2区に比べて、山岳地帯に位置する3・4・5区は、山に近く、土砂崩れし易い為だろう。


田植番外その十八

私が農業を始めて、最早二十有余年になるが、何事もなく過ぎ去った年は少なく、毎年何がしかの災害に見舞われてきた。残念ながら、今年もその例外にはならなかった。それにしても、私が一目惚れをした山口田が因りによって、初年度から災害に見舞われるとは、不運としか言いようがない。せめてもの救いは、加害者側でなく、被害者側だったことである。大雨の時期の、土砂崩れは防ぎ様がない。こんな梅雨の時期、てんてこ舞いなのは土建屋さん!きっとこの時期の稼ぎが、年間の大半になるのだろう。明日は朝から、水路崩壊個所の土嚢積み作業!


田植番外その十七

先日来の大雨で、遂に山口田の土手が決壊!我等の田圃が土砂に埋まった。梅雨末期に降り続く大雨は彼方此方に災害の爪痕を残すが、今年も例外ではなかった。知人の情報を聞き、現地に出かけるも、土砂の量が半端ではなく、人力での復旧は困難で、機械力を借りるしかない。それにしても不運なのは、猪の害を避けて、集団転地をした年に、今度は運悪く、土砂災害に見舞われたことである。今更ジタバタしても成す術はなく、天候の回復を待って、地道に復旧するしかない。


田植番外その十六

昨夜来の大雨は梅雨末期の典型的症状で、7月の梅雨明けまでは断続的に続くと思われる。心配になり、水田を見に行けば、案の定一面の海となり、ゴーゴーと水田から川に流れ落ちている。それでも畔や土手の崩壊はなく、先ずは一安心!


田植番外その十五

人は身勝手な生き物である。雨が降らねば文句を言うし、雨ばかりだと不平を言う。自然とは斯様なものだと、おっとり構えるのが良い。その昔、守屋浩の歌に「素敵なタイミング」というのが有ったが、滅多に出会えるものではない。その代り「今だ」と思ったら、一目散に田畑に飛び出し、脱兎のように働く!今日は同級生が田圃の手入れ来るも、雨故に無理をせずに戻った。要は自然と仲良くなり、自然に捲かれることに尽きる。


田植番外その十四

6月も終盤ともなれば梅雨の最盛期となり、今日は朝から雷鳴が轟き亘る。こんな季節は何故か、古き昭和の風景が脳裏に蘇る。嘗ての田植は一大イベントだった。何せ農業機械はなく、殆ど手作業だった。我家の水田は約一町歩(≒10000㎡)。既に田植を終えた近隣の加勢人を大勢雇い、ワイワイガヤガヤ、賑やかに田植が行われていた。当時の水田は今とは異なり、曲線美溢れた棚田。三角田というのもあったのを覚えている。勿論当時は、トラクタの代わりが牛、田植機の代わりが人間だった。


田植番外その十三

昨夜来の大雨で田圃が心配となり、山口田を見に行けば、知人とばったり遭遇!予想していた光景とは、かなり異なっている。何故なれば、6枚の田は各々少しずつ高さが異なるので、畔で区切られているが、雨の所為で、畔から漏水が発生して、高い田から低い田へ水が流れ込み、手前の田は殆ど水没!奥の田はカラカラの状態!やはり俄か作りの畔で、棚田の漏水を防止するのは、難しい事だと悟る。その為に、畔波板を使用するようになったのだが、設置が不十分なのだろう。この分では、高い田には雑草がはびこり、低い田は、稲がジャンボタニシに、食害される恐れがある。


田植番外その十二

昔の田植は、田植綱(金属撚り線の途中に、目印の赤布を付けたもの)を使い、平行に移動させることで、一列に並んだ作業者が、数メートル巾の持ち分を田植し、一列全てが終われば、次の列に移動して植えていた。この方式の利点は、各人の力量(田植スピード)に応じて、速い人は長い距離、遅い人は短い距離を担当すれば良く、極めて合理的な方法だった。私も参入したが、大人に叶う筈もなく、直に脱落して、苗運び役に降格となった。


田植番外その十一

そもそも、私が米作りに特化した理由は幾つかある。主食であること!食べ飽きないこと!保存が容易なこと。水田作物故に、連作障害がないこと!換金性があることetc.何れも他の作物に勝るとも劣らない特性を有する。勿論、麦も同様の特性を有するが、パンの原料足る強力粉の生産が、日本の気候では難しく、輸入に多くを頼らざるを得ない。


田植番外その十

米作りに付いて、延々と述べて来たが、そもそも私が米作りに拘った理由は、戦後間もない頃の幼き日の情景に他ならない。当時は農業機械も全く無く、人海戦術+牛馬農業であった。当然子供も半人前の労働力と見なされた。そして当時は貨幣経済の初期段階とも云える時代故、米が第二の貨幣の役目を担っていた。即ち労働力提供の見返りとして、最もポピュラーだったのが、所謂米だったのだ。従って我家には所謂玄米貯蔵庫(通称十斗缶)が土間の中心に鎮座し、必要に応じて小出しにして、一年間食べ繋いでいた。勿論その半分以上は、小出しに売りさばき、貴重な現金収入になっていた。


田植番外その九

私が仲間と米作りを始めて、長年月が経過したが、今改めて感じることは「人様々」と言う事に尽きる。と言うのも、トラクタを持たない同級生のI君は、昨年までは広い田圃を延々と、耕運機で耕していたが、流石にしんどくなったのか、今年からは乗用田植機を借用して田植をし始めた。と言う事は、未だに手押し田植機で作業しているのは、私だけになりそうである。だからと云って、今更高価な乗用田植機を買う積りもないし、体力が持たなく成れば、外注するか、米作りを止めるしかないだろう。


田植番外その八

山口の田は都合8枚の田で構成されていて、入口と最奥は、H氏が耕作されている。従って我らが借地出来たのは残りの6枚となり、奇しくも片白と同じ枚数なのは、偶然とは言えども、我等にとって、好都合と言うしかない。然し両端の地を押えられたのは如何ともし難く、トラクタ出入りの障害になっている。その為、隣人のH氏の屋敷からトラクタ道を通行させて貰うも、急坂の上に道幅も狭く、今後の検討課題にしたい。


田植番外その七

様々な困難を乗り越えて、集団引っ越しをしたのは良いが、長らく耕作放棄状態だった田圃は、ひどく荒れ果て、大事な畔が殆ど無しの状態!これでは水が溜らないので、先ずは畔作り作業!クワとスコップで、根気良く土盛りをするしか方法がない。それでも寒中の作業としては、体が温まり、少しづつ畔が出来上がる喜びに魅せられて、半月ほど掛けて、何とか畔らしきものを構築することが出来た。それにしても昔の人は偉い!枕状の石を並べて、微妙な水位調整が出来るようにしてある。私が思うに、この畔作りは戦後の食糧難の時代に、一粒でも米が出来るように、汗水を流して構築されたのだろう。


田植番外その六

田圃に関するクレームは、兎に角速やかに処理するに限る。済んだことは仕方ないので、早速お酒を持参して詫びた。処がそれだけでは済まなかった。「隣の田圃の地主にも詫びなさい」とのお達し!私は結局二軒のお宅を訪問して頭を下げた。後で考えてみれば、この両者は苗字が同じなので、恐らく親戚だと推察される。この場合は「詫びの印」も同じにしなければならない。最後はクレーマーの娘さんお二人が、揃って現地視察に来られ、一件落着と相成った。


田植番外その五

川に捨てられたゴミや、枯れ木、生竹は、燃え難く、暫く田圃に放置して、乾燥するのを待った。処がそれが災いの元になった。地主が来て「勝手に人様の田に入らないで!」とのクレームを頂戴したのである。これは困ったことになった。と言うのも、この山口田は、片白と異なり取付道路がなく、アクセスが悪い。即ち手前の田圃から、次の田圃へと行くには、畦道を横切らねばならない。加えてトラクタを田圃に入れたのが、地主の逆鱗に触れたのである。


田植番外その四

私が今年初に始めたのが、新規借用田の西側を流れる「山口川」の清掃作業!何せ得体の知れないゴミやプラスチックが、石ころや木の枝に引っ掛かり、見た目も見苦しい。寒の最中、他人から見れば変人と思われる程、延々100mにも及ぶ川面を、長靴履いて徹底的に清掃した。次が上空を覆う孟宗竹と雑木の伐採。チェーンソーと長尺竹鋸を駆使して、田圃めがけてバリバリズシーン!近隣の人々は、一体何事かと思われたことだろう。然し流石に生竹は燃え難く、暫く其の侭田圃に放置した。


田植番外その一

この時期に成ると、決まって起きるのが樋詰まり。母屋の北側に竹山があり、笹が風に舞うのは防ぎ様がなく、その笹が縦樋に集まり、バシャバシャと溢れて、縁側が濡れる。唯一の対策は、二連梯子を掛けて、二階の樋の笹を除くこと。二階建ての利点って、一体あるのだろうか?


田植その五

田植は手植えと機械植えがあるが、対照的なのが前進とバック!機械植えは、Uターンする場合を除いて前進で植えるのだが、手植えは何故か昔からバックである。その理由は恐らく、真っ直ぐに植えられるからだろうと思う。間違っていたらゴメンナサイ。


田植その四

田植とは、稲の小苗を田圃の泥に「植える」作業であるが、感覚的には「くっ付ける」と表現した方が実態に合っている。と言うのも、代掻きした田圃に植えると云っても、畑と違い抵抗がないので、一体どの位の深さに植えるかが、掴みきれないからである。兎角素人は深植えになりがちな為に、成長が遅れる元に成る。


田植その二

田植の方法は大きく分けて、手植えと機械植え!前者は人手が多く、田圃が狭い場合。後者はその逆で、人手が少なく、田圃が広い場合。最近は機械植が殆どで、手植えをする農家は殆ど無くなった。但し、田植機で植えられない場所(隅や端)は、手植えをするしかない。


田植機その七

我が所有する、クボタ田植機の名称は何と「モンローマチック」勿論、JFケネディと浮名を流した、あのマリリンモンローをもじった名称である。その名に相応しく、その多関節田植機は、変幻自在の動きで、自在に使いこなすには、一定の練習時間を要する。


田植機その六

私が所有する田植機は、何れも中古のイセキとクボタ各一台。二機所有して居るのは、万一故障したら、田植作業がアウトになるからである。田植と稲刈りの時期は、殆どが同時期なので、業者もてんてこ舞いで、トラブルが発生しても、直ぐには来て呉れない。


田植機その五

田植機は、圃場を代掻きした状態で使う故に、他の農業機械とは違った特徴がある。勿論移動の為の車輪も付いているが、水面を滑走するフロートが付いて居ることである。これが無ければ、深い田圃では植えた稲が水没して、育たないからである。私は田植作業の時に、初心者に云う言葉がある。「稲を植えるのではなく、泥にペタンとくっ付けるのです」と。これが一番分り易い表現。何故なれば深植えしたら、水中では光合成が出来ず、稲は生長しないからである。


田植機その四

田植の季節になると思い出すのが、数年前の出来事!伊倉地先の廃棄物置き場に、超大型の田植機が放置されていた。恐らく十列植え程の巨大さだった。処がその田植機を、知人が貰いたいと強く主張された。私は見ただけで、とても使えるとは思えなかったので、必死に制止した。何故なれば、万一にも動くようになったとしても、石貫の狭隘な水田に、巨大田植機を持ち込んだら、それこそドン・キホーテ呼ばわりされただろう。


田植機その三

最近は田植機の技術進歩が目覚ましく、次々に新機種が出ている。その一つがポット育苗式で、小型鉢植えとも云えるような、独立苗を植える方式なので、根傷みが殆どない為、植付後の生育が早く、雑草田に成るのを防ぐ効果がある。問題は機械が高価なことと、苗箱が従来機と互換性がないので、大農家に向いていることである。


田植機

機械田植が普及したのは、昭和から平成に掛けて!今では手植えをする人は殆ど無く、多列を一気に植える、乗用型の田植機が全盛となった。然しこれは、狭小田や不整形田には、全く不向きである。何故なれば、頻繁にUターンをせねばならならず、大型機に成ればなる程、角地への手作業に依る、補植の手間が増えるからである。


草刈機その五

草刈機の操作方法には、コツがある。地面が完全にフラットなら問題ないが、殆どの地面は凹凸や傾斜がある。従って水平に刈ると、地面の突起部に刃が食い込み、チップを痛めるばかりか、異物を巻き込み、ロックする恐れもある。これを防ぐには、回転刃を僅かに傾斜させて、スイングすることである。即ち右から左へ振る動作時(草刈時)は、右手の握り手を、左よりも心持ち下げること。一方左から右に振る動作時は、逆に右を心持ち上げる。こうすれば地面を切ることなく、刃の傷みも少なくなる。初心者には難しいかも知れないが、安全面からも、是非マスターしてほしい。


草刈機その四

草刈機の刃は、通称チップソーと呼ばれるもので、ステンレス板の周囲に、超硬合金の刃を、ロー付けして固定されている。従って少々の異物はものともしないが、石や金属にまともに当てれば、チップが外れて、切れなくなるばかりか、バランスが崩れて、刃が振動し始める。その対策として最近一般化したのが、ナイロンカッターである。これは石もなんのその、どんな凸凹の地形でも、綺麗に伐ることが出来る。然し欠点もある。竹や木は切れないからだ。更には其処ら中の、草や泥を周囲に撒き散らすので、完全防備の服装で作業せねばならない。


草刈機その二

今日は田圃カフェ前の草刈作業、草刈機(刈払機)は何故か左回転!左肩にタスキ掛けして、ひたすら右から左へスイングする単純作業。全ての農機具は右利き用に設計されているが、私はサウスポーなので、作業後には右肩・左腰に疲労に依る痛みが走る。勿論左利き用の刈払機も有るらしいけれども、高価で且つ手に入り難い。サウスポーが有利なのは、野球の投手位である。


草刈機

今日は朝から駐車場周辺の草刈作業。5月から10月に掛けての半年間は、少なくとも毎月一回は草刈をしなければ、忽ち原野状態と化す。昔はそんな必要は全くなかった。何故ならば、田舎には農耕牛を飼っている農家が多く、草の需要が旺盛だったからだ。隣家もそうで、先方から畔の草を刈らしてほしいと、お願いされていた。


トラクタその六

トラクタの主たる機能は、土壌を回転爪で掘り起こし、柔らかくすることである。処が我が隣人は一風変わっている。春夏秋冬、暇さえあれば、自宅前の畑を、トラクタで行ったり来たり!今現在もトラクタのエンジン音が聞こえる。幾ら耕したとて、それ以上に畑が良くなる筈もなく、燃料は消費するし、爪は摩耗するし、要は老人の暇つぶしなのだ。


トラクタその四

トラクタは、今や嘗ての牛馬に代わる農業機械となったが、詳しく述べれば、車と良く似ている。それは駆動方式である。殆どの車は後輪駆動だが、軽トラックの大半が4輪駆動なのは、道路以外の荒地も走行出来る設計となっているからだ。それはトラクタも同然である。大抵の水田は道路から急坂を上り下りせねばならず、二駆ではスリップして難しい。私が退職後、最初に買ったトラクタは二駆だった。それを使って片白の湿田に挑んだので、幾度も深みに嵌り、脱出に往生した。他のトラクタで、引き上げて貰ったこともあった。だから私は十年ほど前に、中古の4駆トラクタに買い替えたのである。続く


トラクタその三

数年前のことである。知人が石貫で米作りをしたいとて、我家に頻繁に来られた。私は仲間が増えて、少しでも楽になればと、喜んで協力した。然し、知人の目的は全く違っていた。南関町の山奥で、広大な農地を耕す為に、トラクタが必要だったのだ。私はそれにも協力して、態々二輪駆動から、四輪駆動のトラクタに買い替えた。処がその後が問題!頻繁に我家に来ては、トラクタを持ち出して、畑の耕耘作業。それだけならまだしも、持ち帰った後のトラクタの爪には夥しい草木の巻付き!そして燃料の軽油は空っぽ状態!流石に私も呆れ果て、以降出入り禁止の通告をしたのであった。この世には常識と言うものがある事を、氏はご存じだったのだろうか?


大移動

彼是半年近くにも及んだ、民族大移動ならぬ、田圃大移動が漸く完了した。何故なれば、昨年まで耕作していた片白の水田が、猪の被害で殆ど全滅に近かったので、きっぱり諦めて、新天地の山口に換地したのである。然しイザ遣って見ると、思いも掛けない困難が次々に降り掛かって来た。その一:取付道路がない。その二:午前中しか日が射さない。その三:猪が侵入して荒らされている。まともな人間なら、こんな最悪の条件の土地など、借りないのが普通である。然し逆転の発想で見直せば、一括借り上げが出来るメリットもあるのだ。私はこの点を最も重視した。然しそれに至る過程では多々失敗があった。焦って早々とトラクタを入れたお陰で、地主からクレーム。お詫びに酒を持参!やっと今月トラクタを掛けたら、手遅れで凸凹が一層ひどくなる。この貴重なる経験を、来年以降に生かせば、きっと良いことがあるに違いないと信じる。


大豆その二

昨日は午後からH君の要請で、古城原の耕作放棄田をトラクタ掛け!思い起こせば5年前の東日本大震災を切欠に、多くの人々が、関東から熊本に避難して来られた。為に私は、知人から水田を借りて、米作りをするよう勧めた。尤も荒地を開墾するだけでも大変だが、最初にせねばならなかったのが、猪対策である。女性二人の助けを借りて、数十メートルの竹バリケードを、山際の急斜面に構築した。然し結局の処、米作りをしたのはその年限りで、翌年からは再び耕作放棄地となり、今に至っている。そんな今、今度は知人から、大豆を作りたいとの要請にて、昨日は1時間余りをかけて、荒地を再耕運。山際を除いて何とか、種蒔きが出来る状態となった。それにしても大豆は、蛋白源として貴重な野菜だが、問題は雨に弱いことと、選別が困難なことに尽きる。数年前迄は、近所の小母さんが、田圃カフェ横の小部屋にてマッサージをしていたので、時間潰しに大豆の手選別をお願いしたが、既に他界され、今はそれも出来なくなった。何事も始めてみれば、この世に簡単なものなど、存在しないことに気付く。終わり


タイミング

その昔「素敵なタイミング」と言う、コミカルな歌謡曲があった。出だしと最後のメロディ位しか覚えていないが、時代は代われども、多くの事柄に付いて、タイミングは、昔も今も大切な要素に違いない。それは勿論、農業に付いても云えることである。そう云う私は、今年も例年の如く、5月連休に苗代をしたが、コメの作柄を考えれば、半月ほど遅らせたほうが良いことは分っている。では何故そうしないかと言うと「米作り仲間の都合が付かない」からである。更に言えば心理的なものもある。と言うのも、近隣の農家がこぞって苗代を始めると、周囲の人間は何となく落ち着かなくなる。半世紀前の我家の田植は、何と7月の七夕の頃だった。何故なれば、周囲の農家全ての田植が終われば、それらの人々を雇い、我家の田植が出来るからである。然し時代は大きく変わった。今年の田植は6月中旬の予定。粗起しも終え、雨を待つのみである。終わり


農業と一口に云っても、中身は様々である。対する漁業は海に出て、魚貝類を捕るか、養殖をするとか、加工食品を作るとか、割とわかり易い。処が農業は、林業とも関係が深く、漁業のように単純ではない。即ち、自然に増殖する魚や貝、海藻等を採って加工し、販売すれば利益を得られる訳ではなく、米を例にとれば、種蒔きから育苗、田植、施肥、消毒、除草に加え、近年は著しく増えた、猪等の害獣対策をも欠かせなくなった。私は定年を待たず、早期退職後、米作りに転身して最早十余年が経過した。同僚の多くが、定年まで勤め上げたのに対して、私はきっぱり辞めて正解だったと思っている。何故なれば、頭脳労働から、肉体労働に切り替える時期は、早いほど良く、60歳まで長期間勤め上げた後に、新しい仕事を見出すのは容易ではないからだ。そんなこんなで、今年70歳を迎える私は、毎日成すべきことがとても多い。その一つに養鶏がある。この仕事の歴史は古く、昭和30年代より、延々と続いていると云って良いだろう。というのも、養鶏程に参入し易い職種はないからだ。昔は雛を自ら育てていたが、今や雛は簡単に手に入る。餌は配合飼料で十分。問題は鶏舎の建設位である。処がどっこい、10年ほど前にはイタチが鶏小屋に忍び込み、殆ど全滅の憂き目にあった。更に数年前にはカラスが数羽侵入して、鶏を虐殺された。以降私は超神経質になり、毎日のように鶏舎の内外をチェックし、害獣対策を怠らない。恐らくカラスやイタチから鶏を見ると、ビフテキかケーキに見えるのだろう。そんな毎日の夕方、餌遣りをする。私が鶏舎に行くと、鶏がドッと寄って来て、私のズボンの裾や、手足をつつき回す。勿論親しみを込めて、早く餌を食べたいとねだるのである。鶏は一見しても、どれも同じ顔付なので見分けが付き難い。然しその挙動には個性があり、馴れたら見分けられる。詰まり私との距離感が決まっている。最も親し気に寄って来るのは2~3羽、次に少し距離感を持つ数羽のグループ、そして残りが警戒心旺盛で、遠巻きにするグループ。その差は雛の時代に決まったと思う。私が雛を抱っこしていた鶏は、今も私にすり寄って離れない。私はその鶏の背中をポンと叩いて、挨拶をする。そんな鶏の敵は、カラスと雀である。嘗てカラスが数羽鶏舎に潜入して虐殺された。以降私は金網を全面に巡らし、天井も全て囲った。処がカラスは防げても、今度は雀が侵入。雀はカラスより小型なので、金網の輪を掻い潜り、鶏の餌を失敬する。それに対して鶏は、雀を追い払わない。だから餌の何割かは雀の餌になっている。この対策を現在思案中だが、完全な解決策は見つかっていない。誰か名案をお持ちの方は、是非教えて下さい。終わり


Priority

プライオリティと言えば、優先事項と訳される。物事は須く順序が肝要であり、あれもこれも、ごちゃ混ぜにしたら、上手く行くものも行かなくなることが多い。卑近な例で云えば、食事である。私は子供の頃から魚が大好物で、特に毟る作業が得意だった。石貫は山国の為に、地元では小さな川魚しか獲れない。従って長洲町から魚屋さんが、定期的に自転車の荷台に魚を積み、行商に来られていた。当時の代表的な魚種は、鯖・鯵・鰯・太刀魚等である。母は魚料理が大変得意で、鉄鍋を使い、甘辛く煮付けていた。私は親を見習い、魚の食べ方を逸早くマスターした。魚の毟り方は、以下の様に幾つかのポイントがある。
その一:箸を寝かせて最初に鱗を取る。次に片身毎に身を骨から切り離す。突つき廻すと身がばらばらになり、見た目が汚くなるし、食感も悪い。
その二:最も美味しい魚の部位は、尻尾より頭の近辺。先が尖った箸を立てて、複雑な構造の骨の中から肉を穿る。
その三:残った骨の上に熱いお茶を注いで、魚のスープとして頂く。
それにしても、今年は異常気象が続いている。
例年春になると、裏山一帯に夥しい筍が生える為に、最盛期には毎日出荷せねば成らないほどなのに、今年は出荷処か、自家用にも事欠く状態。原因は低温少雨なのか、春野菜も軒並み成長不良。中でも特にひどいのが、グリーンピース・ソラマメ・ピーマン・レタス・ほうれん草etc.種や新芽を、野鳥が食害したと思われる。唯一の豊作が小松菜で、雑草の中にも埋もれもせず、お化けの様に異常成長している。こんな年は、米作にも悪影響が出ないか、少し心配になって来た。
過日、犬の散歩をしていたら、Kさんの田圃が草茫々の状態になっている。梅雨の前に畦の草刈だけでも遣らねばと、作業を始めたら、生憎雨が降り出した。こんな時は焦りが生じる。案の定、畦に置き去りにしていた、架け干し竹を切ってしまい、草刈機のローターに、畳紐が雁字搦めに巻付いて、ニッチもサッチも行かない状態に!これは拙いことになった。仕方なく撤収するしかない。農業は或る種自然との戦いである。自然に逆らって無理をすると、作業が進まないばかりか、機械の故障や、怪我等のトラブルに見舞われる。私は思う。人間は太古の昔に農業を始め、食料を確保してきた。近年は野菜工場等も出来、その姿は変貌しつつあるが、田畑が国民の為の、食料生産のベースであることに変わりは無い。完


別離

「会うは別れの始め哉」と言う諺があるが、けだし名言である。70年近くも生きれば、沢山の人々と出会い、又別れるのは人の常でもある。あれは彼此3~4年程前のことだった。高瀬蔵で定期的に開催される「高瀬夜噺」の講師として私が指名された。推薦者は、玉名中学の恩師である。事前に講演テーマを提出せねばならなかったので、私は「農業」とした。然し、夜噺当日の参加者を見て私はがっかりした。10名足らずの人しか来ていなかったからだ。それはそうだろう。私は有名人でも無いし、知人に声掛けすらしていなかったからである。簡単なメモを用意して、農業に関する拙い経験と知識、問題点等について話した。
処がその夜の聴衆の中にM氏が居られたのである。数日後、M氏が我家に来訪された。講演当日のM氏は、質問も意見も一言も述べられなかったので、単なる見学だと思っていたが、M氏の目的は、我が石貫にて農業を “実践”することだったのである。それから我家へ、各種農業関連資材の持ち込みが始まった。M氏はマンション住まいの為に、自宅には物置すらも無いらしく、遠い南関の山奥に借りた畑の片隅に、野積みされていた。 その後数週間程の間に、我家はM氏の“農業関連資材置場”に一変した。それは刈払機に始まり、数十個のミカン箱、ビニールマルチ、育苗ポット、各種ネット、シート、ロープ、ワイヤ、鋤・鍬・スコップ、鋸、鎌、アルミ梯子、ガソリン、軽油タンクetc.全く以て驚くべき膨大な物量であった。私は仕方なく、納屋の一角を、M氏専用の保管場所に宛てがうことを了解した。
当時、私はトラクタを所有していたが、二輪駆動車だったので、屡田圃で嵌り込み、難渋していた(他のトラクタの力を借りて引張り出すしか無い)。それを見たM氏が、南関の知人宅の四駆トラクタを、私に斡旋することになったのである。M氏と訪問した専業農家では、一家で手広く農業をされている様子が窺い知れた。何でもトラクタを新型に買い換える時期とのことにて、現有機を私に下取りさせて貰えるという。M氏は内々に金額交渉を済ませていたらしく、私が40万円を支払い、M氏は斡旋料として使用権を取得することになった。従来のトラクタはイセキに出した処、輸出業者が逸早く取りに来て、たったの3万円で下取りして行った。と言うのも日本の中古トラクタは、東南アジアでは大人気らしく、今や引っ張りだこの状態とか?それ以降、私は四輪駆動トラクタを所有することになったのである。我家の台所に、孫息子が得意そうに、運転台に乗っている写真がある。当時から3年!私は散々悩んだ挙句の果て、M氏と決別することにした。理由は単純!私はM氏に“利用されていた”のである。農業機械は使用すれば必ず損耗する。トラクタを例に取れば、燃料の軽油の他に、潤滑油、耕耘爪、タイヤ、バッテリetc.毎年何等かの部品を更新せねばならない。なのにM氏は補修費負担は勿論のこと使用後も一度も燃料を補給しないばかりか、耕耘爪にがんじがらめに絡み付いた蔓やロープ、雑草やプラスチック等をも、只の一度も取り除かず、遣りっ放しにした侭帰られる!私は仕方なく小一時間掛け、鋸鎌を使って気長に異物を除去し、水洗浄・軸受への注油・燃料補給までしなければならない。先日もそうだった。我家の台所のドアをいきなり開けて「トラクタの鍵を下さい」と言われた。そして小一時間後に戻ったトラクタを見たら、夥しいごみや雑草がローターに絡み付いた侭の状態!私の堪忍袋の緒も、この時点で遂に切れてしまい「今後私のトラクタは使わないで下さい」と“絶縁宣言”をしたのであった。
更に言えば、私は嘗てパーマカルチャーの仲間に学んだ農業者である。彼等は自然を大切に想い、無農薬無肥料で持続可能な農業を目指していた。処がM氏は何処ぞから、大量の牛糞を持ち込んで、畑に撒き散らしたお陰で、窒素過多になり、人参が大根サイズに、大根は太腿サイズに異常成長!私は気持ちが悪くなり、鶏の餌に遣ったが、流石の鶏もビックリしたのか、ちょっと突いて様子見の状態なのである。
私は思う。嘗てサラリーマンの時代、私の腹心として尽してくれた係長は、事ある毎に「パナシはやめろ!」と、口が酸っぱくなる程、部下に注意していた。多分M氏は「パナシ」と言う意味を、ご存じなかったのだろう。終わり


パラドクス

昔から、寒冬の年は米が良く出来ると言われていた。それは害虫が生き残る確率が低くなるからとの理屈である。尤も私はそのことを実証した経験も無いし、天候や気温と作柄の因果関係についても詳しくない。いずれにしても殆どの昆虫は冬季に死に絶えるが、卵の形で生き残るのも居るから、その通りなのかも知れない。一方では“豊凶”を左右する要素は所謂“地勢”で、冬場の気候等は関係ないという人もある。
それにしても近年は暖冬が多かったが、今年は久方振りの寒冬で、厚着をしないと屋外での作業が大変辛い。従って今冬は裏山から枯れ孟宗竹を伐り出し、焚き火をして暖を取る日が多かった。竹は一年で成長が止まり、数年経てば自然に枯れて、若竹と世代交代する。処が我が裏山の孟宗竹の多くが立ち枯れをしているので、伐採して火を付けたが一向に燃えない。原因は誰かが山に散布した“竹枯らし”の所為らしい。何故ならば、自然死の場合は葉が落ちて、乾燥状態となるので良く燃えるが、薬剤で枯れた竹は水分を含んでいて中々燃えないのだ。従って今冬は例年にも勝る大量の孟宗竹が屋敷内に溜まり、用途が無く処分に困っている。
そんな冬の仕事がもう一つ有る。猪対策である。昨年は夏場の米の登熟期に、川を渡って来た猪が私の田圃に侵入して、稔り掛けた稲穂を散々食い荒した挙句、背中に付いたダニ落しの為に寝転がり、辺り一帯の稲を滅茶苦茶に踏み潰した。お陰で私は稲刈を断念せざるを得なくなったので、今年こそはその轍を踏むまいと、冬の間に2週間もの時間を掛けて、猪避けの竹柵を設置した。幸いにも、材料の真竹は近くの山に無尽蔵に生えているので、ふんだんに使える。然し竹は真直ぐなのが普通で、田圃の畦の曲線にきっちり合わせるのは大変難しい。所謂多角形にするのが関の山なのである。
そんなこんなで竹柵が漸く完成してほっとしていたら、思わぬクレーム発生!隣地の所有者K氏が、自田にはみ出している竹柵を“撤去せよ”と抗議に来られたので、精魂込めて構築した竹柵は、文字通り“一夜城”と相成った。私はどうせ荒地なので、地主の迷惑にはならないと思ったが、甘かった。考えてみれば、嘗てその土地は、K氏から私に「耕作しないか」と持ちかけられたが、断った経緯の田圃だった。狭くて形が悪い田圃は手間が掛かる割りに収量が少ない。私はあの当時の意趣返しを食らったのである。
実はそんな事も有ろうかと、昨年暮れには新田を探すべく、知人のM氏の案内で態々三ッ川迄行ったし、片白の南隣のクウノ内にも行った。然し前者は日当たりが悪く、後者は谷が広くて日当たりは良いが、区画整理が成されておらず、不正形の狭小田圃がぎっしりで、トラクターの進入路がないばかりか、上流の水源地は何とゴルフ場ではないか!ちょっと浮気をしてみたが、やはり片白の古女房が良かったと、反省したようなものである。終わり


ホームセンター

最近の店舗形態の一つにホームセンターがある。個人店舗や、専門店等とは異なり、惣菜などを除けば、それこそデパートの様に何でも置いてあり、ワンストップショッピングの顧客にとっては、大変便利な店である。当玉名市にも何軒かの店があるが、新幹線玉名駅前のGoodyと、築地のナフコがその代表例だろう。私は近年、個人商店で買い物をした記憶は、種屋さんを除いて殆ど無い。
それにしても、上記二店は全く対照的な店構えをしている。Goodyは、所謂視覚に訴える商法で、見た目が綺麗で、陳列に最大限の工夫を凝らし、通路も直線で広々としている。一方ナフコは実利一点張り!限られた店舗スペースを最大限生かすべく、天井近くまでの陳列ケースに雑然と、多種多様の商品が置いてある。
我家からこの2店までの距離は、ナフコが倍以上なので、多くの場合先ずGoodyに立ち寄り、求める商品を探し出せず、結局ナフコに行く羽目になる。その代表が椎茸菌であった。私は昨年末、山師のKさんに10本程のクヌギの木を伐採して貰った。その木を山中でチェーンソーを使い枝下ろしを行い、適当な長さに切断し、一本一本担いで下まで降ろし、軽トラで自宅まで運んだ。当然ながら木の根元は太く、先端は細くなるので、根元は短く、先端は長く切断して運搬するのが合理的である。然し、伐採後間もない木は水分が多く、山道ではよろめく程に重かった。
それにしても、椎茸菌すら置いてないホームセンターは、一体ホームセンターと呼べるのだろうか?だからだろう。両店の駐車場は全く対照的である!Goodyの広大な駐車場は、ガラガラの為に簡単に駐車出来るが、ナフコの駐車場は何時行っても殆ど満車で、空くのを待たねば、入口近くには駐車出来ない。
そんなナフコから購入した椎茸菌を、今年は総計1600個打ち込んだ。この作業には我が孫娘が大いに貢献してくれた。何故ならば、先ず私が電気ドリルで、クヌギの原木に数個の穴を空け、その穴に、孫が菌を打ち込む連携作業。私が両手にドリル、孫が両手に椎茸菌と金槌を持てば、相性抜群で一気に作業が捗り、都合三日間で完了した。その後は私が一人で、裏山へのホダ木運搬と設置作業。整然とホダ木が並んだ様は壮観で、一人“悦に入って”眺めている次第である。それにしても、シイタケ栽培は気長な仕事には違いない。原木伐採からホダ木設置までは、2~3ヶ月で済むが、椎茸が発生する迄には、梅雨を二度も越さねばならないからである。
私は思う。今や農林業で生計を立てる人はどんどん減少し、その多くが高齢者になっている。と言うことは、今後椎茸栽培するには、作業者の確保が難しくなると思われる。それに引き換え、椎茸の原木のクヌギは“お構いなく”毎年毎年成長する。今でさえもが大木の扱いに苦労するのに、これ以上大きくなったら、機械でも使わねば、扱えなくなるだろう。そんなことを考えていたら、思い出したことがある。昨年は筍の表年で、毎日の様に掘っては掘っては、直売所に出荷した。その品質が大変に良かったので、直ぐ買い手が付いたが、今年はどうだろうか?
それにしても、我家の鶏卵は今以て全くの供給不足で、連日の様に直売所から品切れの催促電話!他の養鶏業者の卵は山積みなのに、我家の卵を求める人が多いらしい。私は仕方なく小屋に行き、産卵箱に座っている鶏を押しのけて、卵を横取りせねばならない。当然乍鶏は“クエー”と鳴いて抗議する。私はその鶏の背中をやさしく撫でながら“ゴメンね”と囁くのである。終わり


NHK連続ドラマ「マッサン」のオープニングに、見渡す限りの麦畑が出て来るのを見ると、私は何故か、幼なかった日々の情景が、走馬灯のように蘇る。今や此処石貫では、二毛作をする人は殆ど居なくなり、冬の水田は一面の枯野と化すが、半世紀前は全く異なる光景だった。秋の稲刈が終われば、息つく暇もなく赤牛を駆っての粗起し、平坦な耕地に鋤を使って高畝を作り、一斉に麦蒔きが行われた。子供の私は、小さな地下足袋を履かされ、種を蒔いた後に、土を掛ける仕事をさせられた。尤も当時の稲刈は、現在の様に稲藁を田圃に鋤き込まず、牛馬の飼料や畑の堆肥、縄や筵や俵の原料として、納屋に取り込んで大切に保管されていた。
そして当時の麦の品種は裸麦と小麦の二種類だった。裸麦は押し麦にして麦飯や味噌の原料に、小麦はパンや焼餅の原料・団子汁の具として、欠かせない食料だった。麦の収穫は、雲雀が囀る翌年の5~6月である。麦畑の中で巣立ちを控えていた雲雀が上空に舞い上がり、けたたましい啼き声を上げていた。
然し私は当時の麦飯は、お世辞にも美味しいとは思わなかった。勿論当時の米はアルミ製の羽釜で炊いていたが、炊き上がりに中を覗くと、軽い麦が上部に集まり、米は重いので下に沈み、綺麗に2層に分かれている。私は中央に黒線がある押麦が嫌いで、しゃもじで麦を傍らに掻き寄せて、米だけを食べようとするので、母は米と麦を均等に混ぜていた。そんな当時の人々は、何時の日にか100%の白米を、腹一杯食べたいとの想いだったに違いない。
あれから半世紀余、今や麦に関する人々の感覚は、大きく変化したように感じる。当時の総理、池田勇人が「貧乏人は麦飯を食え!」と発言して辞任した様な、マイナスイメージが無くなったのは喜ばしい限りであり、現に麦を作りたい人々が出て来たのである。然し私は未だに麦を作る気には成れない。それは此処九州では、薄力粉は出来ても、パンに不可欠な“強力粉”の生産が難しいからである。更に玄米食の今日、今更麦ご飯を食べる気にも成れないし、さりとてパンを焼いても、昔の「ゴッチン」のイメージしか沸いて来ないからである。
そんな晩秋の昨今、立て続けに訃報が舞い込んだ。一人目は懇意の大工T氏の父君、夫を亡くした女性は、私の母を含めて長生きする人が多いが、妻を亡くした男性は、後入りが来たとしても、どうしても生活が乱れがちになり、長生きは難しい。
二人目は私の同級生Fさんの母君、当地では昔から選挙の度に、主流派と反主流派の鋭い確執が起きた。9割方を押さえた主流派は、地縁血縁を武器に結束を固め、F家や我家を含む極少数の反主流派は、息を潜めて選挙結果の推移を見守った。
そして先日、所謂アベノミクス解散が行われ、大方の予想通り与党が圧勝した。解散権を持つ首相の特権とはいえ、自らの任期を延長する事が、唯一最大目的の選挙だったとしか思えない。片や米国は大統領制で、日本とは政治体制が異なるが、民主・共和の政権交代が数年おきに繰り返される。処が日本は殆ど自民党の独裁政権だと言って良い。これは選挙制度の所為ではなく、所謂民心の違いだと思う。要するに日本人の大半はノンポリであり、少数派になることを恐れて、寄らば大樹の陰になり勝ちなのである。
私は思う。米作は食の基本であるにも拘わらず、昔も今も儲かる構造にはなっていない。然し、今だに続いているのは何故か!それは飽きないからである。一日三度の食事を、全てパン食にしたら、数日後には厭になる。処が米食は決して飽きない。それはおかずに変化を持たせれば、無限のレシピーが可能となるからだ。終わり


ダニ

ダニと云えば「社会のダニ」等と、人間に関しても有害イメージが強いが、通常は野生動物を寄生対象としており、中には人間から吸血して被害を与えるものもいる。 普通の日常生活でダニの寄生を受ける機会は多くないが、野外行動中にこれらの被害を受けると、吸血時のダニの唾液物質によるアレルギー性の咬症により傷口が化膿したり、稀にはウィルス等による、重篤な感染症を引き起こすこともあるとか。それを裏付けるかの様に、今夏の低温多雨とも重なり、ダニの発生が顕著だったようで、私は半年間もの長期に亘り、ひどい目にあった。と言うのも私は毎夕刻、欠かさずに犬の散歩をする。我家の犬はとても綺麗好きで、余程のことがなければ、繋がれた状態で大小便をすることは無い。従って一年365日、夕刻になると必ず、私に向かい吼え始める。犬に食事と散歩のどちらが好きかと問えば、迷わず散歩だと応えるだろう。何故なら、食事を与えて鎖を解けば、餌などには見向きもせず、一目散に走り出すからである。
然し犬と散歩すれば、否が応でも路傍の草叢に、足を踏み込むのは避けられない。と言うのも、犬は散歩中に周りの景色など見ているのではなく、道端に残る他の犬の匂いを一心に嗅ぎ取り、その場所に自分も放尿・脱糞する(所謂マーキング)習性があるからだ。従って飼い主の私は、犬に引き摺られて、否応も無く路傍の叢に踏み入らざるを得なくなり、必然的にダニの被害に遇うことになる。
ダニの咬傷の特徴は、蚊と違って刺された時には然したる痛みや痒みは無い。然し時間が経つに連れて皮膚が赤くなり、痒みが強くなり、下手に掻いたりすると、汁が出て赤く腫れ上がる。従って、副作用もあるが、痒みを抑える為には、特効薬のステロイド(副腎皮質ホルモン)を塗布するしかない。私は今夏、足の脛に10箇所以上の見苦しい咬傷を患い、毎日せっせと、傷の手入れをせねばならない、実に困った事態となった。
そんな厭な季節も漸く終わりを告げ、早師走ともなれば、変温動物の殆どは死に絶えるか、冬眠状態となり、やっと安心して叢や山にも立ち入れるようになる。そんな初冬の或る日、懇意のKさんに、道向かいの墓山のクヌギ(椎茸の原木)を数本伐採して貰った。Kさんは80の齢を数える高齢で耳が遠いが、チェーンソーワークの達人である。処がマフラーを無くしたチェーンソーを使って伐採するので、凄まじい爆音で耳がおかしくなり、仕方なくKさんと離れて、山道の草刈作業をしつつ、墓山の頂上に登った。すると山頂にある25基の墓石は、夥しい枯木枯葉に分厚く覆われて、地面は全く見えない有様。私は仕方なく一時間近くを掛けて、松葉掻きを使い、膨大なバイオマスを除去したのであった。
それにしても、近年“墓”に関する国民の考え方が、大きく変化しているように思う。と言うのも都市部では、墓地用地が決定的に不足し、自宅近郊での新規建設は、例え納骨堂であったとしても、非常に難しくなっている。
一方田舎では、旧来形態の墓地(夫婦単位の独立墓石)の管理が難しくなりつつある。それは我家を含めて多くの墓地が、自宅から離れた山上に建設されているからだ。昔は薪炭燃料を取りに山に行くのは日常茶飯事で、墓守も容易だったが、今や盆正月位しか行かなくなった。従って墓地の形態も変えるべき時が来ているのだ。鹿児島県では、農道脇の土手に墓地が点在していたが、理想は“屋敷内墓地”だろう。然し私は、親戚から多額の支援を得て、母死去後に建立した墓に埋葬されるしかない。其処は、アパートと公民館に挟まれた山裾の一角で、旧来の墓地の真下に位置しているのだ。
それにしても人間社会に「社会のダニ」等と呼ばれる連中が居ることを思えば、ダニの嫌らしさが良く分かる。私は課長昇格後、上司の命令でゴルフをせざるを得なくなり、レッスンを受けた男がやくざと知らなかったばかりに、まがい物のクラブを高額で売り付けられた。何となれば、大勢の部下が見守る中、そのウッドで栄えあるアウトの1番を打った処、何と何とクラブの先端が外れて、ボールと一緒に飛んでしまったからである。終わり


思えば癪に障ること限りないが、10月27日の朝、何時もの様に自宅下の田圃を見回りに行ったら、茫々に伸びた耕作放棄地の雑草がザワザワと揺れている。何だろうと近付いたら、突然ウリ坊(猪の子供)が飛び出して脱兎の如く走り出した。私が大声で叫び乍ら追いかけた処、猪が掘った穴に足を取られて転んでしまい、その衝撃で左足のふくらはぎの肉離れを起し、杖を突かねば全く歩けない状態になった。よりにも依って年間で最も忙しい収穫の時期に、予期もしなかった戦力外通告である。
それにしても、今年の猪は人を恐れなくなったのか、凄まじいまでの跋扈である。田圃や畑の土を其処ら中掘り返して、稲も野菜も果物も荒らし放題の有様!以前は夜間しか出没しなかったのに、今では昼間から堂々と屋敷や畑や田圃を、我が物顔で走り回っている。そんな光景を前に、我家の犬は恐れをなしたのか、吼えもせずに小屋の中で小さくなる体たらく!目に余る状態に私も困り果て、知人から借りた箱ワナ(中の餌を食べると蓋が閉まる構造の檻)を設置したが、周囲のミミズを掘り返すだけで、用心してワナには決して入らない(学習していると思われる)。
そんな今年の収穫シーズンも漸く終了し、少しは落ち着いて来た。そこで私は田圃に設置していた4台の電気柵を回収して、機器のチェックをした処、内一台がひどく壊れている。丸で草刈機の刃が当たった場合に起きるような、プラスチック外郭の破損で、その隙間から雨水が浸入して機能不全となり、猪の侵入を許したのだ。そこで私は早速、大阪阿倍野区のメーカ、末松電子工業に電話をして現品を送り、原因究明と修理を依頼した。そうしたら、予想通り数日後に電話があった。私は、てっきり品質不良のお詫びと、無償交換をして貰えると思ったが、見事に裏切られた。「基板交換が必要で一万五千円頂きます」との、しゃあしゃあとした返事である。子供の玩具じゃ有るまいし、私は開いた口が塞がらなかった。紫外線に当たるとポロポロ欠けて、雨水が浸入するような粗悪品を売り付けておいて有償修理とは、流石にガメツさでは有名な関西企業でも、こんなひどい話は聞いたことがない。私は怒りを抑えて「どうぞ廃棄して下さい」と言って電話を切った。私は元サラリーマンであり、こんな場合は品質保証部門が対応するのが一般的だが、今回のトラブルは明らかに材料選定の誤りである。何故なら、電気柵は田圃の畦に数ヶ月間、設置するものなので、強い紫外線や風雨に晒され、少しでも隙間が出来れば、水分が侵入して電子部品が機能不全を起すのは、容易に考えられることだからだ。そんなこんなで、歌の文句にあるような「良いことがなかったこの秋」も、漸く終盤を迎えた。
そこで私は縁起が悪い“鷽の谷”の苗代を、来年から“天神平”(注)に切り替えようと考え、水田上に靡いた真竹を伐っていたら、逸早く区長が見咎めて、山主に態々ご注進をしたらしく、Oさんが我家まで態々来られて「自家の竹は全く不要なので、どうぞ幾らでも伐って下さい」と言われた。そうなれば私は勇気百倍!懇意のKさんに依頼して、同じく道路上に覆い被さっている、十数本の杉の大木をも、一網打尽に伐採して貰ったのである。お陰で日当たりが劇的に改善され、恐らく来年は良い収穫が得られるだろう。
Oさんは、我家の親戚であり、子供の頃は父に連れられて毎年、年始の挨拶に行っていたし、今でも毎月散髪に行く懇意な間柄である。それにしてもO家は不幸続きである。婿養子の旦那は放蕩三昧、挙句の果ては数百万円の詐欺に遭い、私の髪を切り乍ついつい涙ぐまれる。一方その1%にも満たない猪の被害を嘆いている私は“月並な慰め”を言う位しか、手立てがないのである。終わり
注)天神平とは、天神山の裾野と言う意味で、明治維新後、新政府の命令で“一村一社令”が公布され、北石貫(横穴古墳の上)と、元石貫(天神山の上)に在った二社を、川向こうの現在地に統合した為に、跡地名だけが残っている。因みに北石貫に懸かる小さな眼鏡橋は、北石貫神社の参道の名残である。尚石貫の南の富尾地区にも神社が有るが、これは旧富尾村の神社である。


夏風邪

忘れもしない昨年の7月初頭、弊ブログ「始まりと終わり」をアップした頃、私は夏風邪を患い、長期間咳と喉の違和感に苦しんだ。あれから間もなく丸一年、今頃は梅雨真っ盛りの時期の筈なのに、気温も湿度も意外に低目で、乾燥した涼しい毎日が続いている。こんな時期こそ、気を付けねばならないと思っていた矢先に、今年もマタマタ風邪を引いてしまった。
処が丁度その時期、熊本大学の恩師S先生の、瑞宝章受賞記念祝賀会の案内が舞い込んだのである。私は是非参画しようと思ったが、どうしても咳が止まらず、已む無く直前のドタキャン。そんな私の所為で、お世話をされた先生は、テーブルや名札の配置代え等で大童だったらしく、多大な迷惑を掛けてしまった。それだけならまだしも、今年の田植作業では初歩的なケアレスミスや、アクシデントが多発した。
その一:苗代田に並んだ数十箱の苗の内、生え揃い状態の良いものから順次田植え用に使うのだが、その内の2箱が特に成長が良かったので、それから田植えを始めた処、後になってそれは赤米(古代米の一種)だったことが判明したが時既に遅し。アーアーどうしましょう。
その二:自家用の米を得るべく、田植を前にM氏から借りた一反の田圃を代掻きした。代掻きは上辺をサラッと掻くのがコツで、何度も掻けば掻くほど深田となる。今年こそは上手く出来たと思った矢先に、イセキトラクタの後輪タイヤがパンクしてエンコ。結局田圃の中では修理が出来ず、中型トラックが来て事業所まで持ち帰った。
その三:やっと修理が完了したトラクタを、車庫から出そうとしたら、今度はエンジンが掛からない。何とバッテリー上がりで交換が必要とか。「素人じゃあるまいし、ちゃんと点検してよ!」と言いたくもなる様な、お粗末対応である。私の苦情に、最後は玉名営業所長が来られ、端子の接触不良が原因と釈明された(ならば、バッテリーは代えなくても良かったのでは?)。いずれにしても斯様な農繁期の機械トラブル程、全体計画を狂わせる出来事はなく、最も忙しい田植時期の貴重な一週間を棒に振ってしまった。
日本の農機メーカは、クボタ・イセキ・ヤンマー・三菱が大手四社だが、近隣の田圃で動いている農機の50%以上はクボタである。その理由はアフターサービスにあるように思う。と言うのも、農機の故障は殆どの場合、水田や畑で突然に発生するもので、速やかな対応が不可欠である。クボタの場合は、懇意にしているテクニシャンのI氏が、直接携帯電話に出られ、私の要請に機敏に対応される。ヤンマーも似たような対応である。
処がイセキときたら、電話に出るのは毎回窓口の女性で、依頼内容も、その女性を通じて間接的に伝えるしかなく、如何にもまだるっこしい。然し私のトラクタは、M氏の知人から下取りしたイセキの中古品なので、已む無くイセキに修理依頼をすることが多い。
イセキは本社が愛媛県で、工場は熊本にもあり、牧歌的とでも言うべきか、何ともユニークな会社である。当然、熊大工学部の先輩後輩も多い。私は数年前、歯科医に通う途中にある、合志町のイセキ熊本事業所に立ち寄り、トラクタ爪の交換を依頼した。そうしたら中年の小母ちゃん(多分アルバイト)が爪担当らしく「磨り減った爪を持って来て!」と云われた。後日それを持参したら、テント小屋の中に、アトランダムに置かれた“膨大な爪の山”の中から、同じ形状の爪を現物対比しつつ、小母ちゃんと2人で「あれでもない、これでもない、それだ!」とばかりに、一個ずつ対象の爪の選り出しをさせられたのである。この出来事一つ取り上げても、同業他社では到底考えられない牧歌的対応である。爪の選別作業等は、態々ユーザーの手を煩わさず、機種別にきちんと分類して保管して置くのが常識であろう。勿論現代は男女平等、性別に関わらず雇用しなければならない時代だが、こと顧客に対しては、技術の分かる正社員が、きっちり対応すべきではなかろうか?終わり


JA

過日のフジプライムニュースは、JAの存在価値についての対論で、大変興味深く視聴した。と言うのも、終戦後農地解放と共に、農協が誕生した時代に、父は石貫農協長をしていたからだ。当時の農協所在地は石貫小学校の直ぐ横、現在プールが在る場所である。尤も此処は事務所のみで、黒電話が備えてあり、家庭電話が普及していなかった当時、多くの地元民が電話を借りに来ていた。勿論私が自家中毒を起して医者を呼ぶ時も度々利用した。
そんな時代の農協の主業務は、米の集荷であった。石貫熊野座神社の袂に在った我家の土地(現鶴田建設作業所)に、白亜の大きな農協倉庫が建っていた。当時は所謂米不足の時代で、厳格な食糧管理制度が施行されていたので、毎年秋になるとリアカーや牛車等で運び込まれた、沢山の米俵やカマス(莚で編んだ米袋)に、検査官が尖った金属棒を突き刺して目視検査をし、品質等級が彫られた印版を「バーン」と押していた。当時の農家の収入源は、殆どが米代金だったので、当日の等級査定は、一年間の農業収入を大きく左右する、大変重要な日であった。
そんな時代から早半世紀が過ぎ、今や米作りだけでなく、JAの役割も大きな転換点を迎えている。我家の水田は約8反だが、サラリーマンだった当事の私は、米作りの予定も無く、その全てを近隣農家に耕作依頼していた。従って年末になると、受託者が米代金を持って来られた。それが毎年の様に減額され、先細りとなった。それは基準米価の変動に連動していた。そんな経緯を見て、私は農業に再参入したのである。
JAは設立時に、資本を積み立てるべく債券如きものを発行したようで、我家の机の引出しにはそれが沢山残されていた。勿論今では価値は無く、単なる紙切れに過ぎない。減反制度が始まった当初、JAの幹部連が来て地域毎に説明会があった。私はその会場に行き驚いた。何と農家の人間より、JA関係者が遥かに多かったのである。そして自己紹介された面々は○○部長・課長・係長・主任etc。大変なトップヘビーである。こんな組織では人件費が重荷となり、結果的に農家の負担が重くなる。そんなこともあって、JAと私の付き合いも当時から大きく変わった。今では、種籾・鶏の飼料・ガソリン・灯油・軽油・プロパンガスの購入程度しかお付き合いがない。と言うのも、大半の農業資材は、ホームセンタの方が寧ろ安価で、品数も揃っている。言わずもがなだが、農薬や肥料の購入は勿論のこと、農業技術指導に至っては、数十年来皆無である。
それにしてもJAの本来業務は、農地の有効利用・水田の転作確認や、行政からの委託業務、農産物の生産技術、輸送・保管・販売計画指導・農業機械の販売・修理・メンテナンス等に重点を置くべきではなかろうか?尤も、JAも事業利益を度外視しては、経営が成り立たないから、ある程度の多角化は仕方ないとしても、丸でゼネコンみたいに、金融・保険・不動産・住宅・アパート・マンション・自動車販売・ガソリンスタンド・介護施設にまで手を伸ばし、職員には農協共済のノルマを課すようでは、設立当初の理念から逸脱したことになる。私は思う。今やTPP問題のように、農業も国際競争に向き合わざるを得ない時代となった。今こそ農業に関わる全ての人々が根本に立ち返って、何を成すべきかを決断せざるを得ないと思う。終わり


猛暑が続いた今年の夏も漸く峠を超え、9月になって少しずつ涼しくなって来た。それにしても今年の夏は異常だった。7月から8月に掛けては、竹林に囲まれた我家の室内でも、連日33~34度の日が続き、私はその期間、日中は極力屋外に出るのを控え、室内の涼しいところに寝転んで、体力の温存に努めた。それでも農作業を全くしない訳にもいかず、水田の畦の草刈などの作業は、朝の5時半頃から起きて、日が高くなる7時頃までには終了するように努めた。今振り返れば、今年の暑さのピークは8月だったようで、夕方まで温度が下がらなかった数日間は、流石にエアコンを起動して夕食を食べざるを得なかった。然し暑さでは日本有数の熊本県も、今年の夏ばかりは、関東や四国等にすっかりお株を奪われたようで、40度に至る程の酷暑には一度も見舞われず、漸く最近になって、少しは秋らしい季節が到来した。
それにしても月日の経つのは早いもので、未曾有の大震災から早2年半が経過した。この間、数多くの人々が、関東から九州の地に避難された。私はその移住先として、当熊本県を選択された人々に、安心して第二の人生を送って頂けるよう、微力を尽くした積りである。改めて熊本県の利点を挙げれば、以下の如くだろう。
Ⅰ:原発が立地していない。直近の佐賀県玄海原発と、鹿児島県川内原発から玉名市までは、何れも100km程離れている。因みに県内最大の発電所は、東シナ海に面する天草にある、豪州炭を燃料とする苓北火力発電所で、出力140万KWの大容量を有し、県内の最大電力需要の約6割をまかなう。又、住宅用太陽光発電普及率も、佐賀県に次いで全国堂々の2位であり、これらを加えれば実質自給率は更に上るだろう。加えて最近は県内にも、空地を利用した大規模ソーラー発電が、相次いで建設されている。勿論我家も、10年以上前に太陽光パネルを設置したお陰で、晴天続きの今年は、売電が毎月1万円程のプラスとなり、風呂も太陽熱温水器のお陰で、只で熱いお風呂に思う存分浸かれる、有難い毎日である。
Ⅱ:津波の心配がない。有明海と不知火海と云う内海に面しているので、万一にも南海トラフ地震が発生したとしても、津波による死者は最大でも20名(天草)と予想されている。他方、私が嘗て住んでいた静岡県は死者11万人、和歌山県は8万人と、背筋も凍るような空恐ろしい数字である。
Ⅲ:水に恵まれている。菊池川・白川・緑川・球磨川の4大河川を有し、全国有数の農業県で、専業農家戸数は、北海道、鹿児島に次いで全国第3位。トマト・デコポン・イグサ(畳表)・馬肉・車エビの生産は日本一である。これは年間降水量が、宮崎県に次いで2位であることが、大きく関係している。勿論我が玉名市も、阿蘇の雄大な裾野から沁み出した、清らかな地下水を源流とする、大河菊池川が流れ、菊池・山鹿・玉名の平野に並々と広がる、広大な水田を潤している。
Ⅳ:一方、先頃アルゼンチンのブエノスアイレスで開催されたIOC総会に於いては、日本チームの見事なプレゼンテーションの成果もあり、オリンピック開催地が東京に決まったことは、慶事には違いなかろう。然し、諸外国が最も心配していた、東京電力福島原発の汚染水問題について、安倍首相が0.3平方㎞に完全に閉じ込めていると述べたのは、首相として如何にも軽率な発言であり、後々嘘をついたと言われないか、気掛かりな点である。然し最高責任者が断言したからには、今更訂正は出来なくなった。ならば何時までも東電任せではなく、国が前面に出て、一刻も早く収束せねばならない。
私は私で多くの人々に農地を紹介し、米作りを始めてから、早6年が経過した。然し、今年は例年に増しての酷暑の年で、雨も少なく水の確保に苦労したが、米の出来は悪くなさそうである。他方、長年やってきた養鶏は、今年になり惨憺たる有様!昨年24羽の鶏を買ったのに、ここ数ヶ月の産卵数は、毎日たったの2~3個!全くの赤字である。原因は鶏の食欲不振に他ならない。独自に工夫した混合餌を与えても、家庭残飯やオカラだけを食べ、配合飼料は殆ど残している。余りの惨状に痺れを来たした私は、活を入れるべく、友人から雄鶏を分けて貰うことにした。私は思う。養鶏を含む農業は、何と言っても気候に左右される。体温が40度を超える鶏は、冬には強いが夏には弱い。人間と異なり汗腺を持たないので、口を開けてハアハアと呼吸するので、それだけで体力を消耗するのだ。人間の私とて鶏と似たようなものである。骨と皮のガリガリの体になっても、今年の暑さばかりはトコトン堪えた。斯くなる状況では、来年からは、農業の遣り方そのものを、一から見直さねばならないようである。終わり


田植

去る5月のことだった。半月間に亘る海外旅行からの帰国後、私はいつものようにパソコンに向き合い、溜まりに溜まった膨大な受信メールをひとつずつ開いては読み、必要な人に対しては、簡単な返事を書き留めていた。然し何かがおかしい。豪州とは時差もないのに、自分の頭がぼけているのではないかと思った。パソコンのレスポンスが、以前に比べてやや遅いと感じたのである。それは間違いではなかった。日が経つに連れて目に見えて遅くなり、遂には延々と待たねばならない程になった。私は仕方なく、知り合いの業者に持ち込み、修理を依頼した。然し、何度督促しても修理完了の返事が貰えない。2週間近く待ち、私は遂に痺れを切らして、店まで出かけたら「少し良くなりましたが抜本的には直りません」との返事である。改善出来ねば「出来ない」と早目に返事すれば良いのに!そして息子のアドバイスで、メーカのDellに送ったら、ハードディスク破損との事。私はお先真っ暗になった。何故なら、定期的にバックアップしておくべき、ドキュメントの保存をしていなかったばかりに、膨大な情報を失ってしまったからである。最も深刻な損害は、メールアドレスの消失である。此方から誰にも送信出来ない。先方から頂いたメールアドレスを、1件ずつ保存して再構築するしかない。
折りしも年間で最も忙しい、田植えの季節が到来したというのに、メール受発信も侭ならず、不便この上ない。そこで先日、知人のKさんに無理をお願いして再立ち上げをして頂き、メールは何とか使えるようになったが、諸々のデータは一歩一歩再構築するしかなさそうである。然し、書き溜めたブログデータは、幸いにも消失していなかったので、こうして続編の執筆に取り組めるのは、不幸中の幸いであった。
それにしても、今夏の気象は異常である。この半年間まとまった雨が降らず、入梅が6月20日とは如何にも遅過ぎで、箱苗は徒長するは、田圃に水は来ないは、乏しい水の奪い合いが起きるは、私も今年ばかりは途方にくれてしまった。それでも片白の6枚の水田は、何とか水が足りて、順調に生育をしているが、古城原の7枚の水田は、全くの水不足で田植処か、代掻きも侭ならず、田植が出来たのは地元農家Y氏の1枚のみで、他の6枚は畑の状態。そこで先日私はとうとうこれ等の田の耕作を断念して、代替地を探した結果、何とかM氏より1反部(1000㎡)の水田を借りることが出来た。そんな私に或る人は「耕作放棄田など、其処ら中に或るじゃないですか!」と冷たく言い放たれたが、水田の借地は1~12月の年間契約が原則で(既に休耕申請してある水田を)6月頃になって借りるなど、非常識極まる行為である。それでも借りられたのは、同級生のアドバイスと、公民館長時代の誼としか言いようがない。私は改めて思う。「こんな年もあるので、地元の人とは普段から仲良くしておくべきだ」と。終わり


トラブル・ハプンニング・アクシデント

トラブル=困ったこと ハプンニング=あり得ないこと アクシデント=望ましくないこと と定義されているが、何れの単語も否定的に響く。処が上記3つの単語は、今の私の米作りに “ドンピシャリ” 当てはまるのである。
Ⅰトラブル
今年の米作りは、5月3日の苗代から始まった。通常は前年度収穫した米の一部を使って、種籾の芽出しをするが、昨年度は思いの外、我家の米の需要が旺盛で、種籾用に保管していた分まで食用に売ってしまった。従って今年の種籾は新たに買うしか無く、JAに1.2ha分注文したら、何と48kgも持って来た(JAは過剰販売の傾向あり)。必要量はその半分か1/3でも十分だったのに、私も馬鹿で良く考えもせず、その全量を塩水選別したのである(種籾は強力な風力選別をしてあるので、その上塩水選をする必要はない)。但し余りにも量が多かったので、自宅での実施は難しく、Mさんと態々岱明町の松原海岸へ行き、海水に浸して選別した。然し、浮いた籾はほんの僅か(2~3%)で、殆どが良品だった。拠って大量に余った種籾の残りは、再び天日乾燥して籾摺りをして、食用に振り向けたが、折からの天候不順の為に、乾燥不足で黴が発生し、高価な種籾が最後は鶏の餌となった。然しカビが生えた種籾は、鶏も食べない。
Ⅱハプンニング
昨年までの5年は、我家から2kmも離れた場所にある、片白の田圃で苗代を行なったが、人や資材の移動が大変なので、今年から自宅裏の田圃で行うことにした。然し、この田圃は5月には未だ水が来ていないので、仕方なく畑苗代にした。然し、これがとんでもない結果を招いた。畑苗代とは、水田と異なり水を張らず、籾の芽出しを行う方法で、圃場の完璧な整備(平坦化)と、朝夕の十分な潅水が必要条件である。処が5月3日の苗代当日は、雨こそ降らなかったが、前2日が雨天だったので、苗床の状態が悪く、地均しも不十分だった。其処に田植箱を並べたものだから(田植箱と地面との間に隙間が出来)発芽状態が凸凹となり、然もスギナの様な雑草が混じり、毎日朝夕の潅水をする度に、苗の凸凹状態が益々ひどくなる。私は責任を感じて、必死に雑草を抜いたが、最後まで凸凹状態を改善出来ず、不揃いの苗は廃棄し、知人2人から余った苗を40箱分けて貰った。そんなことから畑苗代には懲りごりで、来年の苗代は知人のTさんから、水の便の良い田圃を借りることにした。
Ⅲアクシデント
人様のお世話も一段落して、田植えも愈終盤を迎えた6月21日のことであった。当日は雨で、水不足で困っていた我家の裏の田圃にも、漸く水が満水状態になった。私は勇んでトラクタを運転して代掻きを始めた。処が中央部でUターンを試みたところ、後ろのタイヤがズブズブと沈下を始め、デフロックを掛けて脱出を試みるがダメ。近くにいたMさんに助けを乞い、ロープで引くがダメ、ならばチェーンブロックで引き上げようと、3本丸太を組んだが、杭がドンドン沈下してダメ。今年3度目となるTさんのクローラ(無限軌道のトラクタ)を借りて引っ張るが、それでもトラクタはびくとも動かない。折からの驟雨の中、あがけばあがく程、深みにはまり、最悪の場合はエンジンに水が入り、トラクタそのものが使い物にならなくなる恐れも出たので、その日は諦めて田圃の水を落とし、翌日土建屋にユンボを持って来て貰い、やっと引き上げた。勿論ユンボにとっては、トラクタも軽いもので、あっと言う間に終わったが、費用は1.5万円も掛った。
やれやれ!私は今年、トラクタを二輪駆動から念願の四輪駆動に替え、湿田にも対応出来ると期待したが、硬盤が崩れている田圃での重機の運転は、鬼門であることを痛感した。良い勉強になった。《雨は降ーる降る、人機は濡れる!出るに出られぬ鷽の谷》終わり


田植(その二)

5月3日の苗代から47日目、6月5日の入梅から丁度2週間後の6月19日に田植が終わり、ホッとした。私が今年米作を受託した田圃は13枚約8反(7700㎡)なので、ほぼ一日一枚のペースで田植したことになる。その間、殆んどの日が雨天で、然も大雨だった。私は田植に限っては、どんなに土砂降りでも中止や延期はしない。何故なら田圃の状態が良く、作業がやり易いからだ。雨合羽を羽織っても、下着まで濡れることも多いが、この時期は寒くないしモノは考え様。むしろ雨天の方が、泥汚れも洗い流されて、気持ちが良い。私は降りしきる雨の中、天の恵みに感謝し、津波で破壊され、放射能に汚染された、東北の水田を暫し思い遣る。
前年の10月に稲刈をした後、半年余り手付かずの状態だった田圃は、冬の間にモグラや猪が“我が物顔に跋扈”し、田圃や畦は至る所凸凹で穴だらけ、水路は土砂が流亡・土手は崩壊、道路はタイヤの轍がくっきり残り、今年は先ず取り付け道路の補修から始めた。知り合いのKさんから、コンクリートの破砕屑や瓦を貰い、田主の皆さんと力を合わせて道路の凸凹を埋め、脇を流れる排水路を浚渫する作業である。小学1年生の孫が、嬉々として手伝って呉れた。
5月の田圃作業は、苗代と圃場整備が主である。苗代は、昔乍らの土に籾を蒔く水苗代と、現代の箱苗代があり、苗代半作と言われるほど重要な作業で、昨年までは前者だったが、苗を扱ぐ作業が大変(腰と手が疲れる)とのことで、今年から後者に変更し、指導は県経済連出身の田主Mさんにお願いした。
次に天気の良い日を見計らい、田主に田圃の生命線である溜水に不可欠な、給排水路の浚渫と畦への土上げをお願いする。私はその横でトラクターで粗起しをする。これは、前年田圃で脱穀し、そのまま田圃に散布した稲藁やレンゲ草を、緑肥として鋤き込む作業であり、有機米作りには欠かせない。
そして約一ヶ月後の6月、鋤き込んだ有機物が腐熟した頃を見計らって、水を入れて代掻きをする。この日程が田植と密接に関係している。詰り最初に田植日程が決まり、その日から逆算して、前日又は前々日に代掻きをせねば、田植が上手く出来ないのだ。要は、田圃がゲル(シチュー状態)の時が一番良く、ゾル(グラタン状態)になると、歩き難くなるばかりか、足跡に苗を植る場合には、予め泥を埋めねばならない。だから私は田植の時期、他の用事が入り込まないように段取りして、スタンバイしている。
そして今年は、殆んどの田圃をベストの状態で田植することが出来た。これには田植機を使ったことが大きい。昨年までは殆んど手植えだったが、一旦機械の味を知ると、もう手植えには戻れない(手押しの田植機でも手植えの数倍のスピード)。然し中古機の宿命で、今年も大トラブル!田植機には移動(前進)・後進・田植の3モードがある。田植作業は当然“田植モード”でするのだが、時折機械が立ち止まり、田植作業だけを続けるので、一箇所にどんどん団子状態の稲が出来る。私は慌てて機械を停止する。今年はこのトラブルが頻発したので、私も遂に堪忍袋の緒が切れ、後半は移動モードに切り替えて田植をした。然し移動モードは、田植モードの2倍速であり、株間が大きくなる。従って本来は良くないのだが、一株の稲数を増やし、高速で前進する田植機を必死で引き戻しつつ、殆んど田圃をジョギングしながら田植した。きっと、この光景を人が見たら「徳永さんは、眉間に皺を寄せて、走って田植しよんなはった!」と言われるだろう。これに懲りて、田植完了後、田植機を修理に出したのは勿論である。
私は思う。殆んど儲からない米作りに、数百万円もする高価な(エアコン付き)トラクタや、多列式の乗用田植機を使って作業する人間も居れば、私のように手押しの中古機を“だましだまし”使い、悪戦苦闘する人間も居る。降りしきる雨の中、屡“立ち止まる機械”と挌闘しながら田植をする私の脳裏には、昔の田圃の光景がまざまざと浮かんでは消えた。昭和30年当時は、トラクターならぬ牛での耕耘作業だったが、牛が屡立ち止まり「モー(歩きたくない!)」と啼くので、主人は牛の尻を鞭で打ち「コン畜生!行け!」と怒鳴り付けながら、代掻きをしていた。あれから半世紀、動物が機械に変わっただけである。そして、やっと昨日田植が完了した。来年こそはトラブルの無い年になりますように!終わり


玄米

今考えると、私が物心ついた昭和20年代の日本は、ボロを纏った物乞いが頻繁に来るような、とても貧しい時代だった。当時の我家の台所は、別棟なれど母屋と屋根続きの、だだっ広い空間で中央には煙出しの小屋根(越屋根)が乗り、妻側上部にも明かり取りを兼ねた煙出しの格子窓があった。床は北半分が水場でコンクリート、南半分は独特の凸凹面をつくる三和土(タタキ)だった。照明は40ワットの白熱電球が一つだけで、南側の大きな木戸を開ければ明るいけど寒く、閉めれば暗い上に煙たかった。私は当時もガリガリだったので、人一倍の寒がり屋。台所中央の竈の前に座り込み、薪を火にくべるのが大のお気に入りだった。
当時の食事は、一部の裕福な家庭を除けば麦飯が一般的で、我家も白米に押麦を混ぜて炊いていた。炊き上がった麦飯は、比重の関係で押麦が上に偏るので、しゃもじを使って米と麦が均一になるように混ぜる。この麦飯は炊き立てなら何とか食べられるが、冷えたら不味くてとても口に入らない。電子レンジなど無い時代、冷飯を温めるには、焦げ付き防止の為に水を足さねばならず、一層不味くなる。従って当時の日本人の最大の願いは(麦が雑じっていない白米だけの)“白ご飯”を食べることだった。
然しその願いは中々適わず、私は学校に長い間、麦飯の弁当を持って行った記憶がある。その証拠に大学進学後、生協で食べた白米のご飯は、輝くように白くて、とても美味しかった。その朝食は、ご飯と味噌汁と漬物だけだったが、30円と安かった。そして就職して独身寮住まいの頃になると、漸く山盛りの白米のご飯を食べられるようになった。と言うことは日本人が米を腹一杯食べられるようになって、未だ40年程しか経っていないのだ。
然しその40年間に、時代も人も考え方も大きく変わり、私は今や玄米食の毎日である。これには大きな理由がある。私が十余年通った茶道教師の谷口恭子先生は、20年前の当時から玄米食をされていた。何となれば、毎年我々茶道の生徒や、熊本県に派遣された、海外からの農業研修生を招いて催される月見のお茶会の食事には、必ず玄米オニギリが出ていた。然しそのオニギリはとても柔らかだった。当時は玄米専用の炊飯器がなく、先生は手製の圧力釜で炊かれていたからである。
それが今では玄米を炊ける炊飯器は珍しくなくなった。そして先生のお宅で食べた玄米と同じ米とは思えない程ふっくら炊き上がる。それは電機メーカーの努力と、技術進歩のお陰に他ならない。然しその玄米は、必ず無農薬米でなければならない。何故なら米の胚芽部分に残留農薬成分が蓄積するからである。私は上記の理由から、現在若い人達に無農薬米作りを教えつつ、自らもその玄米を食している。
玄米には多くの効用がある。私は現役時代、人間関係から来るストレスの為に、長年頑固な便秘と下痢と、その副作用による腹痛に苦しんだ。その所為で、痔を患ったのも30歳代と平均より早かった。その便秘対策として最も優れているのが玄米食である。どんなに繊維の多いおかずを食べても、毎食玄米を食べる程の繊維を摂取するのは、殆んど不可能だからである。そして退職後、農業を再開して7年、今や農林業と玄米食のお陰で、私は誰にも引けをとらない、脂肪レスの“筋肉マン”になった。
第二次大戦後、日本では米に偏重した食事が問題とされていた。詰り三大栄養素の内、デンプン偏在が問題だった。それが今はどうだろう。当時摂取不足と言われていた脂肪やタンパク質の過剰摂取で肥満した人の何と多いことか!メタボな日本人は、今や欧米人を批判出来ない。私はメタボ対策として、国は再度米食を振興すべきだと思う。然しそれは玄米食であり、玄米パンである。先頃三洋電機が、ゴパンと称する米からパンが出来る焼き器を発売したが、注文殺到に生産が追い付かず、来春まで発売を延期したとか。私が働いた電機業界は昔から過当競争で有名!こんな千載一遇のチャンスを同業他社が黙って見ている筈がなく、今頃は各社が正月返上で開発競争に明け暮れているに相違ない。多分来春には続々と趣向を凝らした米パン焼き機が発売されるだろう。私はこの製品を今心待ちにしている。これが本格普及すれば、米の消費が拡大して農業が見直されるだろう。そしてメタボな日本人が少しでも減ることを願う。終わり


高瀬蔵

今夏、私の先祖“徳永尚玄”に由来する玉名温泉“尚玄山荘”に於いて、数年振りに玉名中学の同窓会が催された。同窓会の形式は、大抵クラス毎にテーブルが設けられ、近況報告もクラス単位で行われる。私は3年6組担任の森先生他数名と一緒に壇上に上がり、他意もなく現在農業をしている旨を述べた。
数年前玉名市の旧市街に、老舗酒造卸売店をイベントスペースに改装して開業した“高瀬蔵”がある。ここではコンサート等の催しの他に、現在も定期的に“高瀬夜噺”と称する、まちかど教養講座が開催されている。先月のことだった。森先生から私に突然呼び出しが掛かり、高瀬蔵に出掛けたら「君は農業について夜噺をせよ!」とのことだった。先生の手回しは殊の外早く、既に12月9日の日程まで組込まれていた。
私は、高瀬蔵の開業当初の頃は、舞台で茶道の手前を披露したり、二階でレストランを開業していた同級のK君の店にWwooferを連れて行ったりしていたが、ここ数年は、すっかりご無沙汰であった。森先生は、私の父の従弟に当たる中村氏にも夜噺の依頼をされた模様で、氏の噺は私の前月に組込まれていた。勿論その演題は“金春流能楽”である。私もそれを聴講に出掛けたが、中村氏の話は予想通り延々と続いて終わりを知らない。話と言うものは、話し手と聞き手の意識が触れ合わないと、一体感が生まれない。最後に能楽のビデオ上映があったので幾らか救われたが、私は中村氏の余りに冗長な話を反面教師にして、短く分かり易い話をしようと決めた。
私の演題は、森先生が“これからの農業”と決められていた。私は森先生のレジュメにあったTPP云々の難しい話ではなく、私が過去数年間、若者達と共にやってきた“昔乍らの農業”について話すことにした。そして過去数年間撮り貯めた膨大な写真の中から抜粋して構成した。そうすると、パーマカルチャーは避けて通れず、大半が同イベント関係の写真となった。従って私の話を聞いた10名ほどの人々は『徳永は“何かの団体”に属して農業をしている!』と理解したかも知れない。これは半分は当たっているし、半分は外れである。同会のメンバーは、掛け替えのない友人ではあるが、私が同会に同化しているのではなく、あくまで我家即ち“ファームステーション庄屋”を舞台にして、私がやりたい農業に同会のメンバーを引き込み、一緒に踊っているのが実態である。
即ち、我が恩師の谷口巳三郎先生が、タイの21世紀谷口農場で、タイ人に農業技術を伝承されているのと同じく、我家を谷口農場に見立てて、米づくりから、椎茸栽培、林業や建築に至る、多種多様な要素を組込んだ作業を通じて、若者に農業に対する興味と理解を深めて貰うのが目的なのである。然し話下手な私の1時間余の話で、聴講に来て頂いた人々に、どの程度私の真意が通じたか分からない。私はそれを補う為に玄米・椎茸・自著“親父のつぶやき”の3点セットをお土産に用意した。
私は思う。あの谷口巳三郎先生は定年退職後、退職金を半分持ってタイに渡り、言葉に尽くせない程の様々な困難を乗り越えて“谷口21世紀農場”を開かれた。私も既に先生がタイに渡られた年齢に到達したが、退職金も遣い切って既に無く、海外に雄飛する程の度胸も力量も持ち合わせていない。従って生まれ育ったこの土地で、地道に農業をやり、安全で美味しい農産物を通じて、一人でも多くの人々に農業に興味を持って貰う事が、私に残された時間を最も有効に生かす手段だろうと思う。終わり


架け干し

猛暑だった今年の夏も漸く過ぎ去り、収穫の秋らしい快適な季節が巡って来た。当地でも近年、担い手の高齢化に比例して農業の外注化が急速に進み、特に稲刈りは大型コンバイン利用が殆んどで、業者が後工程の乾燥と籾摺りまでを一括で請け負うので、地主は田圃の傍で見物して居れば良くなった。その代わり後日請求書が来て、米代から諸経費を差し引かれると利益は殆んど吹っ飛び、何をしているのか分からない農業になっている。
そんな時流から周回遅れで、私は今年から自家用米を得る為の田圃を借り受け、田植えと稲刈りの機械化を図った。即ち“手押し田植機”と“手押し稲刈機(バインダー)”の導入である。人手による田植えと稲刈りは、中腰の姿勢でしなければならない共通点があり、長時間の作業は老体には堪える。田植機については、ここで述べるのは省略するが、バインダーには昔から拘りがあった。と言うのも、コンバインという機械は、稲刈・脱穀を一台で出来るように連結したもので、脱穀と同時に稲藁を細かく裁断して田圃にばら撒くのでとても便利だが、架け干しとは相容れない。従って最近ではバインダーを使う農家は急速に減少し、架け干しは次第に珍しい光景になりつつある。
私は今年、例の如くオークションでヤンマーの中古バインダーを買ったが、予想以上のオンボロだった。先ず刈り取った稲を一時的に収容する、プラスチック部品が破損しているので新品と交換。次にタイヤが老朽化してエアが漏れるので、ワムレスタイヤ(湿田用のチューブレス)を買って交換。そして稲刈りに投入したが、案の定トラブル発生!刈り取りは出来るが、稲を紐で締結せず放り投げるので、辺り一面に稲藁が飛び散って後始末に難渋!これでは堪らないとメーカを呼んだらワイヤーの絡まりで、1日目はたったの1割位しか刈れなかった。処が翌日になると、今度は片方のタイヤの空気が抜けて車体が左に傾斜している。空気を入れると暫くは良いが、次第に車体が左に傾き、刈り取りが上手く出来なくなるので、何度も空気を補充せねばならない。私は半ばやけくそになり、北原ミレイの石狩挽歌の一節「オンボロロー・オンボロボロロー」を口ずさみながら“沖を通るは笠戸丸”ならぬ“横を通るは大型コンバイン”を横目で見つつ、一反の稲を延べ2日間掛けて漸く刈り終えた。
そして架け干しである。昭和30年代、架け干しの足は皮をむいた樫の木で、毎年繰り返して使えるように、納屋の下屋に大切に保管されていた。勿論横に渡す竹竿も同様で、長年使い込んで飴色になった真竹を使用していた。母は元々は町屋育ちだが、父の死後は必死になって8反の田圃で米を作った。然し不慣れ故の失敗も多かった。架け干しの倒壊である。架け干し作業は簡単なようで難しい。支える足の配置とバランスを良く考えないと、稲の重みと突風で倒れる。倒れた架け干しの立て直し作業ほど惨めなものはない。和服にモンペを履いた格好の母が、尖った樫の木を渾身の力で稲の株に突き刺していたのを、私は昨日の光景のように鮮明に覚えている。
だから私は今年も、樫ならぬ真竹の先端を削いで稲株に突き刺した。真竹は表面が滑り易く、竹竿がずり落ちて稲の穂先が尻餅を付く。滑り難い樫の木でもそれが起きたのだから、真竹を緩く縛ろうものなら、倒れるか、ずり落ちである。私も今年は失敗があった。それは真竹の太さである。根元が太くて先端が細い竹は最悪である。太い根元部には稲を架け難く、細い先端に架けると竹が撓(しな)り、稲の穂先が尻餅を付く。だから基先の太さが余り違わない竹を選ぶか、二本の竹を互い違いに併用するしかない。最後に、架け干しの設置方向は南北が原則、日照が平均に当り、北風にも抗する。私が今年、この原則に反して一本を東西方向に架けたら、北西の季節風をまともに受けて、ものの見事に倒れた。
私は架け干し作業をしつつ、ふと50年以上前の“放火事件”を思い出した。あの時、私が友人をそそのかしたお陰で、運動場横の田中さんの架け干し一竿が丸焼けになった。今なら間違いなく放火の罪で、私は前科一犯になっている。然も総代格の私が放火を主導したことは、先生方もショックだった筈で、田中さんにお願いして、内々に済ませて頂いたのだろう。私は今も田中さんと顔を合せるたびに“赤面”している。終わり


我田引水

私は2年前から米作りを再開したが、昨年までは自前の田圃を持たず、米作りを志す若い人達のお世話をする代わりに、収穫の幾らかを頂く方法を採った。然し狭い田圃に無農薬・無肥料栽培では、収量は少なく自家消費量にも満たない。そこで昨年末から自家用米を得る田圃探しを始めた。
私が先ず目を付けた、同級生I君の田圃は「秋落ちするから止めたが良い」と言われた。“秋落ち”とは順調に生育していた稲が、出穂期頃から生育が衰え、収量が減少する現象を指す。確かに西側に竹薮が覆い被さり、午後は日が陰る湿田で、その通りだろうと諦めた。
次に目を付けたのは、近くの谷間にあるAさん所有の1反余の荒れ田だった。10年以上前に米作りを止めたAさんは、この話に大変乗り気で「喜んで貸します」と言われた。私はAさんと現地を見に行った。そうしたら、その田の道向かいに自家を持つWさんが「止めた方が良い!」と言う。日当りが悪い上に、長年の耕作放棄の為、整備するのが大変だと言うのだ。見れば確かに荒れ放題で、中央部には大きな切株まである。おまけに色んなものが捨てられていて、何かを焼却した跡もある。Wさんはこの田圃を自分の作業場としている様だ。すぐ上の孟宗山は見事に整備され、間伐も行き届いているので、この間伐竹を焼却するには、荒田が持って来いなのだろう。私は両者の板挟みになったが、無理は止そうと、Aさんには悪かったがお断りした。
然しWさんは(我儘を言って)心が咎めたのだろう。Kさんの田圃2枚を私に照会してくれた。その田圃はI君の田圃の南側に位置し、上空には椋(ムク)の大木が枝を張っていた。田圃の上に木があるのを“木垂れ”と言い、雨の雫が垂れて米の収量が落ちる。枝落しをせねばならない。法務局に出向いて地籍図を入手して樹木の持ち主を特定する。幸い地主の了解も得て、私はNさんと昨年師走の一日、チェーンソー、刈払機、早打ち(伸縮自在の鋸)を持参して、雑木や竹を伐採し、大木の枝打ちを実施した。そして、Nさん用に隣の荒れ田2枚を借り受け、二人で整備を始めた。すると隣地を耕作するYさんから「用水路の浚渫をしよう」と声が掛かり、師走も押詰まった夕刻、私とNさんYさんで、倒伏した竹を伐払い、山に沿って延々と伸びる水路を浚渫した。
そして今春から私は耕起農法、Nさんは不耕起農法で、無農薬米作りを始めた。5~6月の苗代・田植まではマアマア順調だった。然し7月頃から私の田圃にだけ草が生え始めた。(Nさんは不耕起農法なので除草不要)その草はどんどん蔓延り、とうとう畦からもはっきり見える程になった。一方隣のYさんの田圃は常に満水で、草は一本も生えていない。私の田圃には水がチョロチョロとしか来ず、Yさんの田からのオーバーフロー水が部分的に私の田圃を潤している。要するに乏しい水をYさんが独占したのだ。その証拠に、私の下流で米作りをしているSさんは、ちゃっかり別の堰からの水を確保している。私は漸く事態の全貌を理解した。この田圃は水不足もあって、耕作放棄されていたのだ。8月も下旬になり出穂が始まると、私は遂に我慢が出来なくなり、Yさんの堰を外して、我が田に水が来るようにした。だが既に手遅れである。草は生え初めの頃はジャンボタニシが食べてくれるが、成長したらもう食われない。私は思う。何処にも「我田引水」の人は居るものだ。来年は私も「我田引水」をやるぞ!終わり


研ぐ

「研ぐ」という言葉からは、切れなくなったり錆びたりした刃物を、砥石やヤスリでこすって、切れ味を取り戻すことを連想する。昔は今のようにサインペンはおろか、ボールペンもシャープペンシルもなく、字を書く前には先ず鉛筆を研いでいた。それに使用したのが小刀や剃刀だが、これで他人を傷付ける事故が散発したので、学校での使用が禁止となった。その後、より安全な「鉛筆削り機」や「ボールペン」が出回り、徐々に事故も減った。然し半世紀が経過した現在では“字を書くという行為”すらが一般的ではなくなり、代わりにキーボードを叩いたり、タッチパネルを触ったり、音声認識まで出て来て、文字通り別世界となった。しかしその反面では“研ぐ”と言う、とても大切な技能が失われてしまった。
私は今若い人達と農業を営んでいる。その中で“研ぐ”という作業は、とても重要な地位を占めるが、現代の若者は研いだ経験がないし、その気も無いし、出来ない。何故なら彼等が物心ついた頃、日本は既に“使い捨ての時代”になっていたからだ。農林業で頻繁に使う、鍬(クワ)、スコップ、鋸(ノコ)、鉈(ナタ)、鎌(カマ)、鋏(ハサミ)、刈払機、チェーンソー、ヘッジトリマー等々、全ての機械器具の心臓部(先端)には必ず“刃”が使用されている。刃物と言うものは“焼入れ”してあっても、使えば徐々に切れなくなる。至極当たり前のことである。そして切れない刃物を使えば、仕事の効率は悪いし、体は疲れるし、燃料は食うし、機械には無理が掛かり、傷みも早くなる。そして危険度も増すのである。
例えば刈払機、今や草刈り用として殆どの家庭に1~2台はある汎用機械となった。そしてその刃も、20年程前は焼入れをした鉄製の刃が一般的だったが、現在では殆どがステンレス円板の外周に超硬チップをロー付けしたチップソーに変わった。これは大変重宝なもので、磨耗し難い為に、鉄製の刃に比べて寿命が長い。然し永遠とは行かないのは勿論である。刈払機は草を刈る機械だが、草の下には土や石やコンクリートや金属等々、色んな物体がある。それらにチップが当たれば、当然ダメージを受ける。先端が欠けたり、丸くなったり、曲がったりする。その結果切れ味が落ち、作業仕上がりも、燃費も悪くなり、疲れも増す。私はこれを敏感に察知して、小まめに刃を交換する。然しI君が使ったチップソーなどは、信じられないことに、チップが全て脱落していたので、余程異常な使い方をしたのだろう。
問題は替え刃である。新品に交換すれば最高だが、決して安くは無い。さりとて痛んだ刃を使えば作業効率が落ちる。結論は再利用する事である。磨耗したチップの先端を、ダイヤモンド研磨機で再生する。そうすれば、新品同様の切れ味が再現して、面白いように切れる。私はこの方法でチップソーの寿命を数倍に伸ばしている。又刈払機の弱点は、その軸に草や異物が絡まることだ。そうなると作業性が落ち、トルクが増えて燃費も悪くなる。その対策に「カラマン刃」と称するアタッチメントと、軸受け保護カバーを付けている。勿論「絡まん刃」も磨耗するから研がねばならないし、軸受は定期的にグリスアップをせねばならない。
私は今日に繋がる作業ノウハウの基礎を、半導体工場の工機部門に勤務していた時代に身に着けた。今やICはエッチング(食刻)技術が一般的だが、一時代前は超硬合金の刃で切断したり曲げたりしていた。勿論これらの刃も定期的に研磨せねばならない。従って若い人々に私の技能を受け継いで欲しい。然し若い人々から見れば、ロートルの私は、教えを請う対象処か、文句ばかり言うオジンに過ぎないだろう。
私は、農業も“職人芸の一つ”だろうと思う。そもそも職人とは、気難しく、無愛想で、殻に閉じこもり、一人で黙々と仕事に打ち込むイメージが強い。なのに私が一緒に農業する人々はそれとは対極的な、明るく解放的で、アバウトな考えの人が多い。ならば、細かいことを言うのは止そう。出来栄えが悪かろうが、時間が掛かろうが、疲れようが、機械が傷もうが、要は楽しめれば良いのだ。終わり


天気予報

私はNHKファンなのでTVもNHKを主体に見る。民放は特定の番組、例えば息子が勤務する日立製作所提供のTBS“世界・ふしぎ発見”とか、朝日“報道ステーション”とか、フジ“プライムニュース”とか、それこそ全体の2~3割である。当然天気予報もNHKを見ることになる。天気予報で有名な人は、何と言っても元日銀の才媛半井(なからい)さん。“19時28分の女”とか言われていて、芸能人並のファンクラブもあるらしい。あの作り笑いのような、何ともぎこちない最後の挨拶が素人っぽくて良いのだ。私は海外でも、ニュースは早口で聞き取れないので余り見なかったが、天気予報だけは欠かさず見ていた。米国・英国・フランス・ドイツ・オーストラリア・タイ・ベトナム・カンボジア・韓国・台湾・香港etc.どの国でも指折りの女性人気キャスターが出演し、バックには大きな地図と気象衛星の画像が現れる。
勿論私にとっての天気予報は、お姐さんが目当てではなく、翌日の作業計画を決める為のものである。夕食を済まして一服した夜の7時半は、眠気が襲い来る前の丁度良い時間である。それにしても今年の異常気象は只事ではなかった。春から夏にかけて長期間、異常低温と少雨が続いた為に、冬野菜の育ちが悪く、玉葱やジャガイモの収穫は、例年の半分程しかなかった。例外的に良かったのはグリーンピース(鞘エンドウ・実エンドウ)である。パーマカルチャースクールを念頭に、大量に栽培したのと晴天が重なって、収穫時期の5月には毎日笊一杯のエンドウが採れ、業務用の大型冷蔵庫が満杯になった。今年のように晴天が延々と続くと、私には休日がなくなる。基本的に雨の日以外は仕事を休まないからだ。日本の天候は昔から三寒四温と言われたように、温湿度も短期間の変動サイクルを繰り返すのを特徴としていたのに、特に今年の初夏は異常続きだった。お陰でここ数十年間無かった小岱山の山火事が発生し、消防車だけでは消し止められず、自衛隊の大型ヘリまで飛来する始末だった。
そして6月中旬、ようやく梅雨の兆しが現れたかと思っていたら、今度はドカ降りの毎日。特に梅雨末期の豪雨は日本各地に無残な爪痕を残し、全国各地で亡くなった人も少なくない。私が仲間と共に今冬精魂込めて補修した片白の道路も、やはり4箇所が崩落した。そして漸く梅雨があけた今日は、その補修工事である。手順は崩壊箇所の土砂を取り除き、杭を打ち直して横木や土嚢を積むのだが、夏場の土方仕事は兎に角しんどい。こんな田圃だから格安で借りれるのだが、過去借りた人も同じように崩壊箇所の補修を繰り返したらしく、其処此処に杭が残っている。兎に角山間の田圃は、災害が頻繁に発生するので手間が掛かる。
今年から、民主党のマニフェストに沿った農家個別所得保障が始まり、私にもその関係の書類が来て、JAから二度も呼出された。初回は若手イケメンが居並ぶ席で、図面による耕作予定地の確認だった。私はそのデタラメなデータに気付いたが、修正申告するのも面倒だったので黙って判子を押した。二度目は、中堅幹部(その多くは私の知人)が居並ぶ中で、耕作田の再確認がなされ、私は休耕をしていないから予想通り「保障金はありません!」との通告を受けた。私は仲間と安全で美味しい米を食べたい為に米作りをしているのだが、同制度の恩恵に浴するには、借りた田圃に米以外の作物を作るか、休耕しなければならない。何という馬鹿げた制度だろう。
それだけではない。私は今年も昨年同様、片白の10枚の田圃を借りて米作りをする予定だったが、昨年暮に一地主のYさんが我が家に来られて「スミマセンが私の田圃は来年は貸せません!」「何故ですか?」「休耕しないと“農業者年金を停止する”とJAから通告されたので!」「エーッ、そんなひどいことを言うのですか?」。こんなヤクザまがいの制度を作ったから、先回の選挙で民主党は敗北したのかも知れない。終わり


TO DO LIST

私が愛読しているメルマガの一つ、杉山武子さんの「僕らはみんな生きている」にハーフの歌手アンジェラ・アキさんの成功物語TO DO LISTのことが書かれていた。アキさんは日本武道館でのライブを目指してひたむきに努力し、3年後に見事にそれを実現したとか。
TO DO LISTとは、三角形の中に長期・中期・短期の目標を書き、毎日見る壁や机の上に貼って、その達成を目指す目標管理手法である。人類は古来、目標を持つことで大脳が発達し、万物の長となった。
熊本に転勤した40歳の頃、私は上司からこのTO DO LISTの作成を命じられた。入社以来20年近く設計一筋だった私は、この管理手法に戸惑った。設計部門は日常的に顧客と接するので、TO DO LISTなどは殆ど念頭にはなく、営業部門を通じて次々に押し寄せる顧客要求に応えることが全てだったからだ。然し上長命令となれば仕方がない。私は、どうせやるのなら自分の部下だけでなく、家族に対してもやらせようと、正月になると家内と3人の子供達にもTO DO LISTを書かせた。そしてそれを毎日眺める台所の壁に貼り、年末に各人が目標達成度を自己評価するのである。自己評価だから、自分に甘くなるのは致し方ないとしても、余りに達成度が悪ければ、目標を掲げた自分が恥ずかしく、自らの努力不足や意思の弱さを自覚することになる。3人の子供達は各人それなりの目標(例えば長女は海外旅行だとか)を掲げていたように思う。
今やTO DO LISTの作成など、遠い昔の出来事になったが、人間には“習い性”という特質がある。毎年TO DO LISTを書いていたら、それが私の習慣となった。然し今の私のやり方は、書斎や食卓の脇にメモ紙やポストイットシートを置き、気付いた時にメモをして、目に付く所に貼っておく方法である。そして完了したらそのメモ紙を捨てる。外出時にも、やるべき事をメモしてポケットに入れておく。丁度“買物メモ”みたいなものだ。こんな一日一日の小さな努力の積み重ねでも、長年継続すれば物事を成し遂げる大きな力となる。そんな雨の一日“沈思黙考”していたら、私の喫緊の課題は“動物対策”だと悟った。
その一:水稲の猪対策
一昨年は、情報もなく全く無防備だったので、稲刈り直前に田圃を猪に踏み荒らされ、泥だらけの米を収穫した(食用にはならない)。この苦い経験を踏まえて、昨年は猪対策として田圃の周囲に電気柵を張り巡らしたので、無事お米を収穫出来た。今年も7月初頭の雨の一日、耕作者の皆さん数名と畦や土手の草を刈り、電気柵を張り巡らした。それにしても近年、猪の被害が甚だしい。特に冬季は山中に餌が乏しくなるので、猪が田圃まで出て来て、畝という畝を掘り返してミミズを漁る。その対策としては、田圃の周囲をトタン板や竹、ネットや電気柵で囲って侵入を防ぐのが一般的だ。
その二:鶏の野獣・烏対策
私が鶏を飼い始めて10年近くになるが、近年動物による被害が激増している。2年前に飼った20羽の鶏は、(地下トンネルから)イタチかキツネと(上空から)カラスにやられて半分に減った。生き残ったのは、夜間樹上で寝られる鶏だけで、地上近くで寝る鶏は全滅した。今年買った雛の8割は、飼って3日目に地下トンネル経由ごっそり持ち去られた。
私は思う。その昔、人類は鳥や猪やイタチなどを捕らえて蛋白源とした。それが今や鶏ばかりか、豚や牛を大量に飼育して蛋白源を賄う時代となった。その成れの果てが、宮崎県を震撼させた口蹄疫騒動である。これは見方を変えれば、人類に対する自然界からの“しっぺ返し”かも知れない。終わり


田植え

今年も田植えのシーズンが到来した。昭和40年頃までしていた稲作を、40年振りに再開して3年目。現在私の所有田は8反、内2反半は盛土して畑地にしたので、正味は5反半である。然しこの水田は2005年以来、知人に長期契約で貸与しているので、昨年まで私には、自前で耕作出来る田圃が一枚も無かった。
我家は戦前多くの田畑を所有していたが、農地解放でその3/4以上を失った。そんな状況下で、祖母は少しでも将来の危険分散を図ろうと、残った農地を父(長男)と叔父(次男)に分割して相続させた。然し叔父は若い頃、父から農業をさせられたらしいが、東大卒の教育者であり、農業などに興味はない。従って自らは一切耕作せず、農地の管理を同級生で隣人のKさんに委ねた。Kさんは、若い頃は牛も飼い幅広く農業をやっていたが、子供が農業を継がなかったのもあって、晩年は叔父の農地を持て余して“自分の義兄弟”に耕作を委ねた。これらの農地は、我家の目の前にあって日当たりも良く、形状も矩形で作り易いので、義兄弟達は自家の不便な農地を捨て、叔父の農地を耕作し始めた。ところが近年は、その義兄弟も高齢化して耕作が難しくなり、第三者に又貸しを始めた(不在地主の宿命で、畦を撤去して隣地と併合されたりする)。そんな状況下、私は目前に広がる先祖伝来の農地の変遷を、指を銜えて見るしかなく、只の一枚も耕作出来ないのである。
こんな事情を鑑みて、米づくり初年度の2008年は、新たなる水田の借地交渉から始めた。私は先ず自宅裏の休耕田8枚を借りるべく交渉したが、道路沿いの地主が最後まで同意せず、半分の4枚しか借れなかった。よって4枚の田圃は飛び地となり、機械(トラクター・ハーベスタ等)を入れられない。私はやむなく、自宅から2kmほど離れた片白の田圃10枚を借りて、若い人達と米作りを始めた。その中の一枚には、長年の耕作放棄の結果、木が生えていたが、その地主は何と隣人の弟だったのだ。高齢化と米価低迷が続く現在、こんな“ねじれ現象”は、恐らく日本全国で起きている様に思う。それは、昔は生活の一部だった農業が、今や資本主義体制にスッポリと組込まれたからに他ならない。
昨秋長男が、友人数名を伴って東京から稲刈り体験に帰省した。それが大好評だったらしく、今夏田植え体験に11名で再来訪したいと言う。私はこの話を聞き「体験だけでは勿体無い。今秋稲刈りに来て、米を持ち帰って欲しい」と提案した。そして6月初旬、玉名のNさんを加えた総勢14名で、ワイワイガヤガヤと、去年迄は木が生えていた田圃(約800㎡)に、一日掛かりで手植えしたのだった。息子曰く「こんなイベントには幾らでも人が集まる」とか。つまり現代の若者は、大都市東京で働くだけでは満足が得られず、往復航空券代も厭わず、遥々九州まで田植えや稲刈りに来て呉れるのだ。
私はこの体験を通じて、農業に対する考え方が又少し変わった。要するに資本主義の権化ともいえる大企業の社員が、その対極に位置するような田舎の棚田での農作業体験に憧れるからである。今や農本主義の下で育った高齢者が、資本主義にまみれて“汲々とした農業”を続けている傍らで、資本主義の下で育った若者が、凡そ経済性に反するような片田舎での、昔乍らの農業イベントに憧れる。然し農業の現実は厳しい。他人様のお世話ばかりしていたら、昨年は我家の食糧確保が疎かになった。よって私は今年、遅まきながらも米の自給を図ろうと、紆余曲折の末に1反(1000㎡)の田圃を借りた。地形上コンバインが入れないとの理由で貸して呉れた。おまけにその横の荒田2枚も、知人のNさんが借りることが出来た。その地主は何と隣人の妹だった。
然し色々行事があったお陰で、この田の田植えは遅れに遅れ、とうとう6月下旬になった。悪天候にも祟られた。中古の手押し田植機が二度も故障した。何時までも終わらない田植えを、道行く同級生が心配して、自分の田植機を貸して呉れるとまで言った。おまけに私の不慣れの為、苗代半作ともいわれる箱苗の生え揃いが悪く、欠株だらけの田植えになった。でもこれ以上欲は言うまい!家内とNさんが補植を手伝って呉れたし、我家の食糧が賄えれば何とかなる。そして何よりも今年からは、米作りをしている皆さんの貴重なお米を“ピン撥ね”しなくても済む。私は田植えが済んで聊か心が落ち着いた。紛れもない日本人である。終わり


スウェール

温帯モンスーン気候の日本は、世界でも有数の多雨国である。今年も鬱陶しい梅雨のシーズンが巡って来た。今日は未だ5月なのに、まるで梅雨末期のような豪雨である。私は心配になり、雨合羽を着てスコップ持ち、片白の田圃を見廻りに行った。案の定、U字溝には茶色の濁流が渦巻き、凄い勢いで流れ下っている。私は何時も皆さんに「雨前にどこまで仕事を仕上げたかが肝心です」と言う。今回はその言葉がドンピシャリ。一週間前に設置したU字溝の初回実用試験になった。
半年間に亘る米作りは、残り半年の間に何を成したかで変わる。私は昨年の結果を踏まえて、今年の冬から春にかけての時期に、米作りの仲間と力を合せて片白の基盤整備に精力的に取り組んだ。云うまでもないが、稲は太陽と土と水の恩恵で成長する。美味しい米を作るには、十分な日照と水捌けの良い土壌と清冽な水が不可欠である。片白の田は土と水は申し分ないが、日照が乏しい。特に昨年極端に不作だった奥の田圃2枚は、今年は耕作希望者がなかった。私はこの田圃を再生しようと思った。
そのⅠ 日照改善
東に伸びる谷に沿った棚田の最奥地点は、南・北・東の三方を山に囲まれ、西側のみが開けている。おまけに周囲の樹木が枝を張って田圃の上空を遮っている。だから日照時間が極端に短い。私は南と北の樹木伐採を試みた。南側は仲間の協力があったので、数十本の樹木を根元から伐り倒した。北側は一人で杉と橡や楢の枝落としを実施した。元来、農地の耕作者は上空権、即ち上空を遮る樹木を伐採する権利を有する。
そのⅡ 土壌改善
長年の耕作放棄と日照不足は、雑草の繁茂による表層土壌の富栄養化と下層土壌の貧栄養化を招く。そこで春の間にトラクタで二度も粗起しをして、土を空気に触れさせ、有機質の分解を促進した。次は平坦化作業である。畑は水が溜まらないように、緩い傾斜地が良いが、田圃は完全に平坦化しないと、深水になった場所では、稲がジャンボタニシに食われて消えてしまう。然し長年同じ方向にトラクタを掛けた結果、土が四方に偏っている。この修正作業には大苦戦した。逆方向にトラクタを掻けても中々平坦にならず、結局スコップと鍬を使って、人力で土を移動するしかなかった。
そのⅢ 雨水コントロール
山地に囲まれた棚田は、大雨時に山水が押し寄せるので、道路の土が押し流されたり、田圃が土砂に埋まったりして、稲が被害を受ける。そこで、山地の裾野に沿って100メートル近くのスウェール(浸透トレンチ)を掘削した。この作業には一月近くを要した。何せ長年ほったらかしにされていたので、岩石や土砂だけでなく、瓦礫や木の根や倒木が地中に入り組み、それを取り除くのが大変だった。各々の田圃を取り囲むスウェールは、耕作者の皆さんに浚渫をお願いした。そして最後に排水管の設置である。これにも耕作者の力を借りた。各田圃から排水路へ、道路を横切るパイプを埋設して、田圃のオーバーフロー水を排出するのである。
それにしても「昔の人は偉かった」と私はつくづく思う。殆どの人が小学か中学位しか出ていなのに、私がパーマカルチャーで学びながら、その効用を理解出来なかったスウェールと言うものを、とっくの昔に作っていたのだ。それは「ゼエタン」と云う、今の合併浄化槽みたいなもので、沈殿槽に続く溝(スウェール)を流れつつ、下水が地中に浸透して浄化される仕組みであった。終わり


伝助堀

石貫は、標高501mの小岱山と菊池川沿いの低山に挟まれた、繁根木川沿いの地域である。私の小学生時代は、辺り一面に広がる田圃の中央部を“伝助堀”と言う幅2m程のクリークが蛇行していた。当時は河川を堰き止めるダムもなかったので、農業用水は主に山水を集めた伝助掘の水を利用していた。そこには夏になると一面に葦が茂り、フナやドジョウなどの魚類、カエルやヘビなどの両生類・爬虫類、バッタやトンボなどの昆虫等々、実に多種多様の生き物の宝庫だった。私は魚取りが得意で、暇さえあれば長ジョウケ(竹製のザル)を手に、伝助掘に棲む魚を取りに行った。その方法は、魚が隠れていそうな場所に狙いを定め、ザルを持って岸辺の茂みを思い切り揺さぶる。そうすると魚が驚いて逃げ出そうとして、ザルに飛び込むのである。このザルを揚げる瞬間、魚がピチピチ跳ねるのが何とも言えない快感だった。雨後には数十匹の小魚が捕れた。私はそれを金魚鉢に入れて飼っていたが、酸素供給ポンプなど無い時代なので、翌日には全滅していた。
然しこの伝助堀は、流れが緩い上に道路や田圃からの土砂が流入するので、どんどんに浅くなる。だから毎年秋になると、地域の人が総出で潟を浚渫していた。それは私にとって大きなチャンスだった。道に上げられた潟の中から、ドジョウやウナギやドンコ等の魚が、ニュルニュルと出て来るのを、片端から捕まえるのである。そして翌日は、年に一度の“ドジョウ汁”のご馳走が待っている(注.最低一日は泥抜きをしないと、泥臭くて食べられない)。その伝助掘の水源地は、山麓にある溜池だった。綺麗な山水を湛えた溜池にはホテイアオイが一面に茂り、菱の実は食用になった。その当時クリークや溜池は、石貫に限らず至る所に有ったが、現在は何所にもない。
当時玉名市の農業委員長を務めていたKさんは、私に向かって「龍坊!今は米なら米、麦なら麦を一斉に作るしかないが、耕地整理をすると隣地とは関係なく、好きな作物を好きな時に作れるようになるぞ!そうすれば年に3回も収穫出来て農業収入も倍増するので、是非やらねばならん!」と。それは今考えれば“土地改良事業”のことだった。然し、あれから半世紀が過ぎて土地改良も大方完成した今日、収穫は年一回あれば良い方で、土地の有効利用は一向に進展せず、Kさんの夢は“絵に描いた餅”になった。一方完成後の、用水路管理は全て地元任せなのに、土地改良賦課金数千円は今尚徴収されている。
私は数年前、市長同席の“市政懇談会”の場で、次のような質問した。「近くを流れる繁根木川の管理は、下流が国土交通省、中流が熊本県、上流が玉名市だが、下流の立願寺・高瀬地区は、護岸整備した上に遊歩道まであるのに、木が一本も無く誰一人散歩していない。一方中流の石貫は、見事な桜並木があり、多くの人が散歩するのに、護岸整備どころか、伸び放題の竹薮の管理すらしないのは何故か?」そうしたら、来賓の県議が横から発言を求め「徳永さんの意見は尤もだが、熊本県には金が無い。然し“土地改良組合”には金があるので、それを使えないか検討する。」と回答された。然しこの県議は、その後の選挙で落選されたので実現せず、儚い“夏の日の夢”に終わった。
そして希しくも数日前の新聞に、“土地改良組合”が(コンクリートから人への)民主党の攻勢を受けて存亡の危機に直面し、野中広務・青木幹夫・森喜朗氏など自民党のドンが、次回参議院選挙には不出馬との記事が出ていた。ということは、過去支払った土地改良賦課金は、自民党に流れたのだろう。
そんな最中、同級生のK君から、片白北谷に(土地改良組合から材料支給を受けた)U字溝を設置するので、公役に出て欲しいとの電話があり、本日関係者(地主・耕作者)十余名と土建業者が参加して実施した。幸いにも晴天に恵まれて、一日で工事が完了した。
私はこんな事もあろうかと、この冬片白南谷に、田圃耕作者有志と、木や竹で手作りの護岸工事をしたので、U字溝を設置する必要は無い。そして政治家や土建業者に食い物にされた土地改良資金は、もう南谷までは廻って来ないだろう。皮肉なことに、私は今後も片白から手を引けなくなったのだ。終わり


コンポスト

コンポストとは「“都市の塵芥”を原料に、好気性発酵させた農業用有機物資材で、堆肥の代わりに使う」とある。されば“田舎の塵芥”はコンポストの原料ではないのだろうか?我家がパーマカルチャー九州の活動拠点になり、早2年を過ぎたが、過去何度かのスクールにおいて、コンポスト作りの講習会があった。何れも適度に通気性のある容器を上手く活用して、日常的に発生する台所の生ゴミを主原料に、ミミズ等の昆虫を使って分解/発酵させ、家庭菜園などに使う堆肥の作り方だった。
私の子供時代(昭和30年代)は、今のようにホームセンターも堆肥の販売も無く、コンポストも自家製だった。例えばサツマイモ床である。これは現在銀杏の大木がある場所に、広さ2畳・深さ30cm程度の穴を堀り、稲藁・下肥・土・籾殻等を交互に何層にも積み重ね、その中にサツマイモを伏せ込み、更にその上と周囲をトタン板などで保温+雨除けをして、有機物の発酵熱で芋の発芽を促す手法であった。数日後には、朝靄の中に濛々と湯気が立ち昇っていた。私もこの作業を手伝ったが、芋の種類は赤の“源氏”と白の“沖縄”だったと記憶している。当時はサツマイモ床以外にも、昨年パーマカルチャーの研修所として建設した「シシ亭」の場所で、堆肥造りをしていた。こちらは地中ではなく、地上1m位の高さまで前述の材料を積み上げていた。私もその上に乗り、押し固めた記憶がある。
ところが、この様な自家堆肥作りの習慣は、昭和30年代以降、化学肥料の普及に伴って急速に姿を消した。代わって習慣化したのが、稲刈り後の稲藁の焼却である。然しこれには大きな問題があった。煤煙によるスモッグの発生である。そして現在では、稲刈りの主力はコンバインに取って代わり、稲藁は刈取りと同時に細断して田圃に散布されるようになった。
これは即ち稲藁が入手困難になることを意味する。現に私が過去2年間務めた神社氏子総代の時には、正月に鳥居に取り付ける“しめ縄”の材料探しに大変苦労した。そんな今、手刈りで稲を刈り、掛干しで乾燥するパーマカルチャー農業は、さながら生きた化石である。私は、ここまで手を掛けて貴重な稲藁を得たならば、それを使ってコンポストを作るのが正道だと思う。処が現実はどうか?折角収穫した稲藁は田圃や畑の一角に放置されたまま、誰もコンポストをつくろうとはしない。私はパーマカルチャーで受けた教育と、いささか異なる現実に違和感を覚える。尤もコンポスト即ち堆肥は、特別な事をしなくても自然に出来る。我家の裏山には孟宗竹が生えているが、その下は白いカビが蔓延したコンポストの山である。又、樹木の根元に落ち葉を掃き寄せて置けば、翌年には立派なコンポストが出来る。現に先日ツリーハウスの下の落葉を掘返したら、夥しいカブトムシの幼虫が出て来た。勿論その土は完全な腐葉土である。
私はパーマカルチャースクール開催時、コンポスト作りの原料として、生ゴミを集めて欲しいと頼まれるが、我家にはそれが殆どない。と言うのも、流し台の三角コーナーの生ゴミは、毎日鶏小屋に直行し、鶏の餌になるからである。その為に鶏小屋の入り口には、態々ドアを開けなくても生ゴミを投入出来るように、コンポスト投入口まで設けた。即ち我家では、鶏体そのものがコンポスト製造機なのだ。皆さん!ミミズコンポストを作るのも良かろうが、鶏を1~2羽飼っては如何ですか?そうすれば生ゴミが毎日、新鮮な卵と鶏糞に化けるのです。終わり


農地デフレ

第二次大戦後長年の間、世界は米国を盟主とする自由主義陣営と、ソ連を盟主とする共産主義陣営とに割れて厳しく対立した。当時はこれを“冷たい戦争”と呼んでいた。現在世界的な懸案になっている核兵器の拡散防止も、元はと言えば無為な競争をした米露の責任である。そして冷戦当時、両者の最大の相違点は農地の保有制度にあった。即ち前者は個人保有が原則、後者は国家保有(ソフォーズ)又は集団保有(コルホーズ)が原則だった。勿論日本は自由主義陣営に属し、個人保有が原則である。
農地というものは、耕作しなければ荒れる。作れない人は作りたい人に貸すか売るべきである。処が多くの日本人は今も、土地は“先祖伝来の財産”との考えが強く、中々手放さないので流動化しない。私は退職後農業を始めて6年、色んな気付きがあった。我家は農地解放で大半の農地を失ったが、今でも幾らかは田畑が残っている。その全てを自分で耕作出来ないので、何人かに貸している。他方我家の目の前にある叔母所有の広い土地が有効利用されていなかったので、空家になっていた古民家を解体して貰い、数年前に跡地を年間1万円で借用した。決して安くは無い地代である。
ところが今年、私が同規模の畑を貸している一人から、借地料の値下げ要求が来た。2年前に五千円を三千円に値下げしたのに、今年から千円にして欲しいと言うのだ。その理由は柿や栗の枝が日照を遮るかららしい。「荒れないようにして遣る!」との「御言葉」まで付いた。私は一方的な要求に驚き「そこまで仰るなら返して下さい」と喉元まで出たが、グッと言葉を飲み込んだ。それ処か数年間土地代を持って来ない人も居るのである。別の或る人は、昨年たったの五百円の地代を払いに来た上、私に文句を言った。私が「畑の横の土手に除草剤を撒いたから、野菜に悪い」と言うのだ。私は丁重にお詫びを言って、その土地を返して貰った。ぼうぼうと茂る土手の草を刈るには、どうしてもその畑に入らねば出来ないので、已む無くしたのだった。
今私はパーマカルチャーの仲間と、地元の農家から田畑を借りて農業をしている。勿論我家の農地も、彼等に貸している。然し、昔も今も借地は簡単ではない。どんなに荒れた土地でも、地主にとっては財産であることに変わりは無く、見ず知らずの人には先ず貸さない。だから私が間に入り、信用をして貰うしかない。そして借地を申し出るからには、頭を下げてお願いした上に、それ相応の地代を払わねばならない。それを受け取られない奇特な地主さんには、ささやかな御礼もしている。昨年と今年は、11月末パーマカルチャー九州主催で、地主さんを招待して感謝祭を催したが、皆さんとても喜んで下さった。
私は思う。今や借り手がどんどん強くなる一方で、地主がこんな不愉快な想いをする位なら、私は貸している田畑を全て取り戻し、借りている田畑を全て返却したい。そうして自分の所有地で農業を営めば、貸借の煩わしさもなく、目の前にある農地で堂々と農業が出来るので、どんなに気持ち良かろう。それなのに私は、一体何時からこんな“変な農業形態”にしてしまったのだろうか?
鳩山総理!今石貫では恐ろしい農地デフレが進行中です。何とか止めて下さい。おわり


ミソクソ

人をけなしたり、こき下ろしたり、何もかもごっちゃにすることを“ミソクソ”或いは“クソミソ”と云う。味噌と糞が似ていることから出た言葉だろうが、何とも直截的で卑猥な表現である。然し鶏程この言葉がぴったりの動物はいない。私は今も20羽程平飼いし、餌は独自に工夫した自家配合飼料を与えている。内訳は①トウモロコシ圧片②麦滓③米糠④魚粉⑤カルシウムボレー⑥昆布⑦炒り子⑧唐辛子⑨オカラ⑩緑餌(野菜,果物)⑪生ゴミ(食物残渣)⑫茹野菜(かぼちゃ,芋等)である。鶏の餌としては大層贅沢だと思う。①~⑤は購入品⑥~⑧は味付海苔メーカ⑨は豆腐製造所からの無償提供で、自家調達は⑩⑪⑫のみである。それに鶏小屋は300㎡位あるので、鶏は思う存分羽を伸ばすことが出来る。従って卵の売価は35円と高いが、味も良いので良く売れる。
私は毎日午後4時きっかりに給餌する。何故ならば、鶏は通常午前中に産卵し、日没と共に眠るからである。夕刻に給餌をすれば、殆どの鶏が満腹状態で眠り、翌朝の産卵に良い影響を与える。それでも産卵数は平均10個位である。従って夕刻になると、殆どの鶏が今か今かと給餌を待っている。そこに私が行って餌を投入すると、全羽が我先にと飛び付く。その時、殆どの鶏が食べる順序が決っている。①炒子②昆布③トウモロコシである。その後の順序は良く分からないが、最後まで残るのは麦糟・米糠とカルシウムボレーである。
まあそれは、人間も似た様なものだろうから良いとして、問題は食べる時の行儀である。鶏には衛生観念と言うものが全くない。だから糞まみれの足で餌箱の中に入って我先に貪る。そして餌箱だろうが巣箱だろうが、お構いなく脱糞する。即ち自分の排泄物を、食事に混ぜて食べていると言っても過言ではない。正に味噌糞の食事で、さぞ不味かろうと思うが、気にかけている様子もない。飲み水とて似たようなものである。私は水道水をタライに貯めて与えているが、定期的に水を入替えないと、糞尿まみれの汚水になり悪臭が漂う。タライの中に鶏が脱糞するからだ。勿論鶏は鳥類なので、大小便は一緒である。こんな不衛生な生活をしている鶏の卵が、ケージ式で(一見)清潔そうな卵の数倍の価格で売れるから不思議である。
私は昨年からパーマカルチャーのメンバーと、近くの田圃を借りて無農薬米作りをしている。その農法は昔ながらの苗代・手植え・手刈り・掛干しである。勿論土起しにはトラクターや耕運機を使うし、脱穀にはハーベスタを使用する。そして天日干し・籾摺りをして、玄米を食べるのである。玄米は食べ慣れると、とても美味しく、繊維が多いので便通も良くなり、健康維持には最高の食材である。然し困ったこともある。私は食事中に良く石を噛む。口の中で石が砕け散る「バリッ!」と言う音を聞くのは、とても嫌なものである。その度に家内に、炊く前に石の選別をするように言う。私が会得している選別法は、米を砥ぐ時に、両者の比重の違いを利用して石を取り除く方法だが、家内の技術は余り良くないようだ。そもそも米に石が混入するのは脱穀作業の時だと思う。ハーベスタを田圃に持ち込み、ブルーシートの上に据えて作業するが、余程注意しないとキャタピラーや靴の泥が籾に付いたり、こぼした籾を回収する時に小石が混じり込む。私は作業者にクドクド注意するが、殆どの人々は無頓着である。
現在、殆どの人々は精米/石取りした白米を食べているので全く問題ないが、玄米は精米していないので、どうしても石の混入が避けられない。私は今日も食事中に「ガリッ!」と石を噛んでは、流しに「ベーッ!」と吐き出しながら、脱穀作業を思い出し、人間も鶏とそう違わない生き物だと思っている。終わり


温暖化

私の幼少時代、昭和20~30年代の冬は兎に角寒かった。建物は隙間だらけで、雨戸を開ければ障子一枚しか室内と屋外を隔てるものはなく、土間の台所には煙抜きの小屋根があり、妻面にも大きな換気口がある上に、昼間は出入口の大きな木戸を開け放って炊事をしていたので、着膨れの状態でカマドの火を炊かねば、一時も我慢出来ない程の寒さだった。寝るのも今と同じ部屋なのだが、冬季には雨戸も障子も襖も閉め、敷布団と着布団の間に丹前を着て、手足を折り曲げて小さくなって寝ても、何時までも足が温まらず、寝つきが悪かった。
一方当時も夏季は30℃以上になったと思うが、建物は藁葺屋根で1m程の高床式、6つの続き間と広い土間を持つ建物構造だったこともあって、エアコンはもとより扇風機さえ無かったのに、暑さの記憶が余りないのだ。この様に私の記憶に今も残るのは寒さであり、暑さではない。
あの時代から半世紀余り、今の私はどんどん進行する地球温暖化にもがき苦しんでいる。当時と較べて明らかに夏が長く厳しくなり、残りの季節が短くなった。本来九州のような中緯度地帯では、春夏秋冬が均等にあって、中でも春と秋はとても快適で過ごしやすい季節であった。処が近年は桜が早く咲き、夏が5月から始まり、9月まで5ヶ月もの長期間になってしまった。
これは農業には特に多大な影響を与える。最も深刻なのが秋冬野菜の不作である。私はサラリーマン時代から大根や白菜、小松菜やホウレン草のような秋冬野菜の種蒔きは8月の最終週と決めていた。その週末に畑を耕し、大きな畦を立て、各種の野菜種を蒔けば、その後は間引きと簡単な草取りさえ怠らねば、何れの野菜もとても良く育った。冬には大収穫の大根を切干にし、白菜を一夜漬けやキムチに出来る程だった。余った野菜は隣人に差し上げていた。
それがどうだろう。近年はこれらの野菜が全くの不作で、白菜や大根などは逆に隣人から貰わねばならなくなった(隣人はケミカル農業)。若し私が従来の感覚で種を撒けば、発芽したばかりの野菜は、あっと言う間に害虫に食べられ、シースルーになってしまう。原因は温暖化で害虫の活動期間が延びた為だ。私はその対策として毎年少しずつ、種蒔きの時期を遅らせてきた。処が今年は9月の一月間が晴天続きで、殆ど雨が降らなかった。その間私は何度か種蒔きを試みたが、水不足で上手く育たなかった。そしてとうとう10月が来た途端、連日の雨である。今度は、水分は有り余るほどでも、日照不足が祟って育ちが悪くなる。正に泣き面に蜂である。加うるに天体の運行は天候には関わりなく、日照時間は日々短くなり、育ちが益々遅れる。
だから今起きている事象は、農業の工業化と言えば良いだろう。出来るだけ自然環境の影響を減らすため、ビニールハウスで取り囲み、効率よく農薬を散布して害虫を殺し、土壌消毒をして連作障害を減らし、油を燃焼して高く売れる端境期に育てる。路地野菜にさえもポンプを連日稼動して、水を散布している。これは何れも石油に依存した農業と言うしかない。そしてこの行動こそが、更なる地球温暖化を加速させるのだ。
私はこの傾向への対策として、昨年から農業の主体を米作に置いた。処がこれにも異変が起きつつある。温暖化の影響で、ウイルスや昆虫の活動が活発になり、イモチ病やウンカ等の害虫が発生し易くなったのだ。特にケミカル米作をしている傍で無農薬米作をすると、あっと言う間に隣接地から害虫やウイルスが伝染する。おまけに昨年は、稲刈り間際に猪に田圃を踏み荒らされ、ひどい目にあった。正に内憂外患である。
それでも私は恵まれている。それは家内と二人暮しで食料も多くは必要なく、例え凶作でも飢える心配は殆どないからである。更なる地球温暖化が進む頃には寿命も尽きるだろう。然し子や孫はそうは行かない。自給する手立ても有せず、これから先の人生は長い。私は今後の限られた人生、出来るだけ多くの人々に農業の重要性を訴えていきたい。終わり


体内時計

人間は昔から月や太陽の運行に沿った生活を営んでいたが、近世になって太陽暦とグリニッジ標準時に基づく世界一律の時制が定められ、合理的な生活が出来るようになった。然し生身の体は時計の様に自在に時差修正が出来ない。私は先の海外旅行でも、現地に着いてからよりも、日本に帰国後の方が時差ボケがひどく、半月も経った今でさえ、昼間に睡魔が襲って来る。
“体内時計”と言う言葉がある。これは人間が感じる時間感覚で、例えば朝になれば自然に目が覚め、昼時になれば空腹感を覚え、夜が更ければ眠くなるような現象である。又、好きな事をしている時には時間の経過を早く感じ、厭な事をしている時には逆に遅く感じる現象もある。このように人間の体内時計は、外部要因に大きく左右される。
又、体内時計の速さは年齢によっても大きく異なる。小学生時代の6年間は、40分位の授業時間をとても長く感じ、休み時間が待ち遠しかった。中・高校生時代の6年間は、受験勉強が辛くて早く卒業したいと思った。念願の大学生になったら4年間が長く、更なる2年間の大学院進学など考えもしなかった。そんな私が退職して今年で6年になるが、本当にあっと言う間に過ぎ去った。この調子でうかうかしていると、何も出来ないまま寿命が尽きてしまうかも知れない。
人間の一生は個人差が大きく、千差万別のようにも思えるが、一般的に入学前の幼年期、小中学生の少年期、高校大学生の青年期、社会人の壮年期、退職後の老年期に分けられる。私の場合は、社会のお役に立てた期間は34年間である。それまでの約22年間は、全面的に親や先生のお世話になったし、社会人時代も、教育指導を受けた期間は誰かのお世話になっている。言うなればこれまでの半分近くの人生は、誰かにぶら下がって生きて来たのだ。こう考えると、今後の過ごし方は一生の中で最も個人差が大きい期間で、お役に立てるかお荷物になるかで、天と地の開きが出る。
私はこれまでも繰り返し述べたが、退職後は“時間がかかる仕事=面倒臭い仕事”をすべきだと思う。農業は典型的な“面倒臭い仕事”である。人間は加齢と共に色んな障害が出て来る。私の場合は健忘症、所謂物忘れが特にひどい。幼少の頃は誰にも負けなかった暗記力が衰え、今や人の名前などの暗記が最大の苦手になった。このままでは社会のお荷物に成り兼ねない。それを防ぐ手立ての一つは、体を使うことである。何故ならば、人様から聞いた事や自分が言ったことは直ぐ忘れるが、体を動かしたことは比較的忘れないからである。中でも面倒臭く時間の掛かる仕事は、老化防止にとても良い。
私は6年前に退職後農業を始めて、色んな作物を栽培した。今は稲作が主体だが、最初は畑作から出発した。その中には当然大豆も含まれていた。大豆は日本人の食事に不可欠の、味噌・醤油・豆腐・納豆などの主原料であり、今では輸入品が殆どを占めている。大豆栽培そのものは難しくなく、春や秋に種を撒けば、容易に栽培可能である。然し良品を得るのは殊の外大変である。日本は雨が多い。大豆の茎は丈夫で曲ったり折れたりはしないが、根張りは決して強くない。従って風雨に遭うと一斉に倒伏する。そのままにしておけば、実が地面に接して品質劣化を招く。それを防ぐには畦立てをせねばならない。それをするには列間を広くせねばならない。そうすれば其処に日が差して、雑草が蔓延るので除草が必要となる。収穫後は更に大変。米麦と異なり、大豆は風選で良否の判別が出来ない。何故ならば、米麦は重量で良否が決るが、大豆は色や形選別だからである。人間の目ですることになる。私はこれを当時、我が庄屋でマッサージを営業していたHさんに依頼した。彼女は大きな笊の上に大豆を広げ、一日中“一粒一粒”選り分けていた。気の遠くなるような作業であった。私はその大豆を勿体無くて、とうとう食べられなかった。
今、若い人の中に大豆栽培を目論む人が出て来た。私も70歳になれば、体内時計がもっと早くなるだろうから、長寿会に加入して近所の爺ちゃん婆ちゃんと一緒に“ペチャクチャ”喋りながら、大豆の手選別をしようと思っている。終り


ショッピング

人の楽しみには色々あるが、ショッピングもその一つだろう。私が子供の頃、飴玉は一個50銭(=0.5円)、おまけ付きのキャラメルが8個入り10円、16個入り20円だった。勿論お小遣いの金額も10円から20円位で、30円もあれば煙草(ゴールデンバット)が一箱買えた。我家の近くにあった店は今スーパーマーケットになっているが、当時は酒屋で奥に畳があり、ちょっと一杯が出来る居酒屋でもあった。私はそのガラスケースの中の生菓子が目に付いて離れなかったが、小遣いが足らずとうとう一度も買えなかった。
当時の我家の茶の間は、ちゃぶ台と茶箪笥があっただけで、他には何にもなかった。又ショッピングは街に出かけ、砂糖や醤油などの調味料や和服の生地となる反物を買うことだった。私は母の買い物に何時も同行したが、品選びが余りに長時間なので、退屈でたまらなかったのを覚えている。
その反動か、私は買物が早い。スーパーマーケットなどでは、歩きながら目に付いた物を籠に入れるので、あっと言う間に終わる。然し、そうではない店もある。書店とホームセンターである。読書好きとも言えない私だが、立ち読みは嫌いではない。書棚に並ぶ幾多の本を取り出して、ぱらぱらとめくるのは何とも言えない喜びがある。多分その多くが虚構であったとしても、著者の描く世界を覗き見る快感だろう。ホームセンターも然り、最近は販売競争の激化で、多くのホームセンターが廃業や、業態の転換を迫られて淋しいが、私は今もホームセンターへ行くのは楽しみの一つになっている。中でも千差万別の様々な工具を並べたコーナーは何時まで見ても飽きない。
この趣味は私だけかと思ったら、そうではなかった。我家に来るwwooferの中にも同じ趣味の人が何人か居た。その多くが欧米の男性である。彼等によれば日本の工具は質量共に世界一とか!私は今年初め、オーストラリアに旅行した時、数軒のホームセンターに立ち寄った。そしてあわよくば日本の大工さんにお土産をと、適当な品を捜し求めたが、日本製を上回る工具は遂に見つからず、仕方なくコンベクス(巻尺)を買うしかなかった。
そんな私がネットオークションに嵌って何年になるだろうか?最初にこれを手解きしたのはやはりwwooferの一人だった。数年前、私のデジカメの調子がおかしくなり、同じメモリーカードを使えるデジカメを探していたら、そのwwooferが、ネットでの買い方を手解きしてくれた。対象は勿論中古機である。以来私はこれに嵌り、特に農機具やOA機器の大半は、ネットオークションで買った。業務用空調機、耕耘機(大・小)、ハーベスタ、刈払機、ポンプ、チェーンソー、プリンター等々である。勿論中には買い損ないもあるが、お買い得が圧倒的に多い。何故ならばネットショッピングは、運送費は掛かれども、無店舗販売なので人件費が殆ど只だからである。
そんな私には今ささやかな夢がある。それは「何時の日か私もネット販売をしたい」との想いである。出品内容は勿論農業関連、中でも農産物である。その第一は無農薬米であろう。ここ玉名市石貫は、昔から美味しい米の採れる所である。特に「北石貫産の米はモチモチしてとても美味しい」と、別項父“維一郎のブログ”にも載っている。数年前から、我家では玄米食を実践しているので、そのことが一層良く分かる。「還暦を過ぎた人間が今頃何を!」と思われる読者も多かろう。然し当地での農業の主たる担い手は60歳代なのだ。年金問題がクローズアップされる今日、ウダウダと老後を過ごして、子孫のお荷物になるのだけは避けたい。さりとて今更“お勤め”する気にもなれないし、雇って呉れる所もない。今私の夢は「石貫米」をブランドにすることだ。しかしその道は近いようで遠い。今朝食べたお米にも籾殻や石が混じっていた。何と我家にはもうイノシシに踏み荒らされた“猪米”しか残っていないのだ!終わり


ぱなし

「はなし」ではない。「ぱなし」という言葉がある。例えば置きっぱなし、借りっぱなし、散らかしっぱなし等々。何れもきちんと出来ない、だらしない、と言うような意味で使われる。私の会社員時代の後半、年上の部下(班長・後係長)のKさんがいた。彼は中学卒業後、職業訓練生で入社し、社内で徹底的に躾を受けたためか、部下の指導が大変厳格で、作業終了後の工具の整理等については特に厳しく指導していた。例えば機械組み立てには、機能部品の他に、ねじ類、電線、端子等の材料や、工具、油脂、計測器、図面等々、多くの備品が不可欠である。そして一日の仕事が終わると、それらをきちんと片付けて、帰宅しなければならない。これが担当者は出来なかった。何故ならば殆ど毎日、終業ベルが鳴る時間が来ても作業途中で、そこら中に物品が散乱している。又翌日は前日の続きの作業をしなければならない。どうせ同じ人間が翌日も続きの作業をするのなら、作業途中の状態のままで帰宅し、翌日を迎えた方が、前日の続きの作業に直ぐ着手出来るから、都合が良く楽である。これが一般的な考え方で、丁度独身者が布団の上げ下ろしが面倒なので、万年床になり易いのと良く似ている。
それをKさんは絶対に許さず、毎日きちんと片付けて、翌朝は又一から揃え直し、それから作業を開始するよう、連日口酸っぱくなるほど指導していた。詰り彼のスローガンは「○○○ぱなし」はダメだと言う事だった。私は現場の指導は殆どKさん任せだったので口出しはしなかったが、本音では「そこまで厳しく言わなくても良いのに!」と思っていた。然し悪い癖が付いた人間は、自職場では上司の目を気にして整理整頓しても、上司の目が届かない出張先では、ついつい悪い癖が出て、大切な顧客の評価を悪くするのである。
あれから20年も経過した今頃になって、私は自分の甘さとKさんの言動の正しさを再認識している。農業現場でも、“ぱなし”が実に多い。私は現在あちこちで田や畑を借りて、若者に農業体験をして貰っているが、田畑には色んな物が置き去りにされている。田圃に特に多いのが、畦の草避けの黒マルチ、漏水防止用のプラスチック製の波板、肥料の空袋、壊れた土嚢袋の4種である。これらは紫外線を浴びたり、刈払機で切られてバラバラの状態で、其処此処に散らかったり、土中に埋っている。トラクターで掘り起こす度に露出するこれらをかき集めると、ビックリするような量になる。又どんなに頑張っても、一度に全てを回収する事は出来ない。気長に集めるしかない。そこで或る女性に玉名市指定のゴミ袋を渡して、これらの回収をお願いした。処が結果は惨憺たる有様!折角集めたゴミ袋を田の畦に置きっ“ぱなし”にした為に、カラスが袋を突いて中のゴミを引き出し、辺り一面に散らかしている。これでは袋もパーで、元より悪いではないか!私はどっと疲れを覚え、改めてKさんの苦労を偲んだ。
現在の農業者は60歳以上が圧倒的に多く、この年代は腐らないプラスチックと自然素材の木や紙との区別が明確に出来ない。即ち成人してから時代が変わり、農業資材の主流がプラスチックに変わった。本当ならこの時点でJAなどが農民の再教育をすべきだったのに、それをしなかったので、殆どの農業者が、昔の藁で出来た莚やカマスと同じ感覚で、マルチや波板を扱うのだ。
私は思う。パーマカルチャーを信奉する若者は、自然素材を好み、腐らない化学製品は好まない。だから現代建築より昔ながらの、藁屋根と土壁の家(ストローベールハウス)に憧れるのだ。今年の5月連休の或る日、私は庄屋に集った同メンバー20名ほどに無理を言って、道路端のゴミ拾いボランティアをお願いした。その一ヶ月後家内は、地域で恒例の環境活動をした一人の女性から「あの人達のお陰で、例年と違って殆どゴミが有りませんでした」と御礼の言葉を貰ったと言う。これこそがKさんの言っていた事なのだ。終わり


人・物・金

“人物金”などと言う言葉を聞くと、何だか“人買い”とか“物欲”や“守銭奴”など、悪い意味を思い浮かべる読者も居られると思うが、私はこの言葉に深い思い入れがある。40代後半の課長時代の末期のことだった。所長交替と相前後して、私の課にリストラの大波が押し寄せた。当時は25名ほどの課員がいたが、部下の目の前で副所長から「アンタの部下は多過ぎる!」と言われ、その後自課は他部門の草刈場となり、それから二年程で10名近くの若くて優秀な課員が他部門に引き抜かれた。
私はこの逆境を乗り越えんと、日夜呻吟していた。そして思い付いた一つが“月報の刷新”だった。それまでも私は月報を発行していたが、主題は自部門で開発した自動機械の宣伝などで、経営者お気に入りの内容ではなかった。私は自慢をやめて月報のテーマを“人・物・金”の3要素に絞った。
1. 人=省力化(幾ら労働時間を減らしたか、又は労働生産性を上げたか)
2. 物=増産(幾ら生産量を増やしたか、又は不良品を減らしたか)
3. 金=経費削減(幾ら社外支出を減らしたか)
そして配下のベテラン女性を月報担当者に抜擢し、月末に総金額を算出してグラフ化し、全職場に配布した。その女性はとても几帳面な性格だったので、課員全員から徹底的に情報収集して、きっちりまとめて呉れた。我が課はその努力も空しく、数年後に解体の道を辿ったが、私はあの時の対応は決して間違っていなかったし、今の時代にも通じる考え方だと思っている。
そんな過去を持つ私は今“人物金”を殆ど農業に注ぎ込んでいる。
人:私(イベント時家内も)、パーマカルチャーメンバー
物:宿泊・炊事施設・備品、農地(田畑)、山林、農業機械・機具、資材、燃料
金:イベント収益金・自己資金・年金
この中で最も重要な要素は“人”である。人が居てこそイベントが出来る。イベントをするから人が来る。人が来るから何かが起きる。昨日は雨の中、数名の男女が我家に集り、近くの田圃の田植を行った。私はひどい雨の為に農作業には加わらず、耕耘機操作のアドバイスだけをした。今日は今週末の第二次田植に備えて、田圃3枚の代掻き(合計3反)を済ませた。私は6時間もトラクターを運転しつつ、以下の事を実施すれば、日本は世界から尊敬される国になるだろうと考えた。
人:農業に若者を誘導し、その内から青年海外協力隊として派遣する。
物:転作奨励金は廃止して、余剰米は食糧難に苦しむ発展途上国にODAとして支給する。
金:定額支給金等よりも、失業者の職業訓練の為の学費を免除する。
終わり


メンテナンス

私が首題の言葉を知ったのは昭和59年、熊本に帰省して半導体製造部門に転勤した頃のことである。私がそれ以前に在籍していたエアコン製造の職場にはそんな名称はなく、設備や治工具の保全をする部門は工務課と称していた。当時は新しい産業に属した半導体事業部では、設計から製造に至るまで、米国からそっくり取り入れたものが多く、何処の職場でも英(単)語が一般的に使われていた。私はそれを理解する為に、現場実習と平行して何回かプロセス用語の課外講座を受けた。その英語の一つがメンテナンスだった。半導体は製造工程が多く、工程毎に特殊な製造装置や治工具が使われている。機械・工具類は使えば必ず汚れ、磨耗し、精度が悪くなり、切れ味が鈍る。定期的に保全をしなければならない。これを司るのがメンテナンス部門だった。
これは最先端の半導体事業だけでなく、最古の産業とも言える農業にもそっくり当てはまる。昔の農業は手作業が大半だったが、今は機械器具が発達し、農作業もとても便利になった。しかし機械器具類はメンテナンスが不可欠である。例えば除草作業を例にとって見よう。方法は3通りほどある。第一は手での草抜きである。これには普通、軍手やゴム手袋を使用する。然し使用後は泥まみれになるので、何回か洗濯して指先に穴が開いたり、手首のゴムが弛んだ物から順次廃棄する。第二には手鎌での草取りである。パーマカルチャーでは鋸鎌(昔の稲刈り鎌)を多用するが、私は普通の鎌が好きで10本位持っている。これも定期的に砥石で研がねば切れ味が保てない。第三に刈払機での草刈である。
我家は屋敷が広い上に、パーマカルチャーを始めてから多くの田畑を借地したので、草刈が必要な面積が更に拡大した。従って4月初めから10月末までの7ヶ月間、日や雨が当たる地面全ての草を定期的に刈らねばならない。若しそれをしなければ草丈は1mを超え、歩くのも儘ならなくなる。私は現在この草刈作業に3台の刈払機を使用している。この刈払機に使用する刃は、今や超硬チップをロー付けしたタイプが一般的となったが、これとて永久には使えない。石や金属に当てればチップが欠損し、砂や土を切ってもやはり先端が磨耗して切れなくなる。切れなくなったらダイヤモンド砥石で研がねばならない。先月は一台の刈払機のハンドルが折損し、先端のギアヘッドが磨耗して、使い物にならなくなった。もっと厄介な問題もある。刈払機の刃には草やビニールの紐などが巻き付いて回転が鈍るし、底面の軸受けは地面との摩擦で欠損を起しやすい。従ってこれらを防止する部品がオプションで用意されているが、この部品もやはり定期的な研磨や交換が必要である。然し販売店は売りっ放しで、メンテナンス教育など殆どしない。だから知人が持参した刈払機の刃は、先端のチップは殆ど欠落し、安全ガードは横向きになっていた。
そんな私は今、部下も居ないメンテナンス係長である。昨日は耕耘機の始動と操作講習、麦脱穀の為のハーベスタの整備、田植綱の修理、今日は刈払機の操作講習の次は田圃の地均し用トンボ製作と毎日とても忙しい。明日からは又別の田圃の代掻きをせねばならない。オットット、トラクタの爪が連日の酷使で磨耗し、交換の時期が近づいているが、2万5千円もすると聞いた。経理課長である我が奥方の認許をどうやって得るか!!


米作り(その二)

秋たけなわ10月になると、稲穂が垂れて黄金色になり、収穫の時期が近づいたことを知らせてくれる。一番楽しい稲刈りのシーズン到来である。幸いにも昨年は、稲の大敵ウンカ(害虫)が発生せず、台風も来ず、豊年満作の年になると楽しみにしていた。処がドッコイ世の中はそう甘くはない。或る日、田圃の一角の稲がベタッと薙ぎ倒されていることに気が付いた。そしてそれは日一日とひどくなり、遂には田圃の過半がめちゃくちゃになった。猪(イノシシ)の仕業である。猪は谷間の奥には沢山棲んでいる。そして夜間、田圃に出没してミミズを食べ、背中の害虫を落す為に、田圃で寝転がっていたのだった。
こうなると一刻を争う。適期前でも稲刈りをするしかない。急遽仲間を招集し、予め用意していた竹材で掛け干しの竿を組み立て、稲刈りを開始した。然し折からの悪天候と重なり、田圃には水が溜まり、長靴の足を取られて歩くのも覚束ない。そして稲穂は四方八方に踏み潰され、泥で汚れている。それを一々揃えて束ね、用水路まで運んで洗い、又戻って干さねばならない。本当に泣きたくなるような仕事である。この稲刈りは米作りの中でも楽しいイベントの一つなのだが、今回だけは猪の所為で苦痛のイベントに変わり果てた。それでもメンバーの皆さんが頑張って頂いたお陰で、10月中に何とか脱穀まで済ませることが出来た。
然し困難はこの後も連綿と続く。今の時代、多品種少量の籾摺りが難しい。籾摺機は乾燥機と一体になっていて、一定量以下だと乾燥が出来ないので、籾摺りも出来ないのだ(無理にしても籾が残る)。仕方なく再度我家に持ち帰り、昔ながらのネコブクを広げて天日乾燥し、知人の機械を借りて籾摺りをした。そして米作りにかかわったメンバーは、年の暮れに夫々一定量の玄米を持ち帰ったのである。目出度し!目出度し!否、これで終りとはならなかった。
11月も終わりの頃、知人のNさん(女性)から脱穀したいとの要請が来た。驚いて10km程離れた田圃を見に行ったら、辺りは全て収穫が済んでいるのに、其の田圃だけ掛け干しが残っている。古代米を作ったとかで、見ただけで数種あることが分かった。日暮れが早い晩秋の夕刻、何度か自宅まで軽トラで往復して稲を運び込んだ。然し最後の便でつまずいた。稲を満載した軽トラが、田圃の小道で脱輪したのである。どう足掻いても抜け出せない。辺りを走る車に手当り次第に手を挙げて、助けを求めた。家内も呼び付けた。最後は農家の人がトラクターを持出して引上げて下さった。深謝!!
Nさんの次なる要請は、足組み脱穀機調達。私には懐かしい昭和30年代の代物である。それをNさんと北九州の田川の農家まで貰いに行った。一日がかりの仕事だった。帰途は序に福岡県の黒木町で開催された猪対策シンポジウムに参加した。そしてNさんと二人で数日間、仲良く足踏み脱穀機を踏んだ。これで終れば目出度し目出度しだが、もう一幕あった。
籾摺りである。Nさんは、籾で保管して食べる都度少しずつ籾摺りしたいので、私と共同で籾摺機を買いたいと言う。私は同意して大分の業者からオークションで買った。然し籾残りがあってダメ!返品。今度はNさんの知り合いに照会して貰った籾摺精米機を買い、同様に試したがやはり籾残りでダメ、再度返品。3度目の正直で今度は籾摺専用機を購入、これでやっと上手く籾摺りが出来た。然しこの機種は大変高価だった。
私は昨年の米作りに当って、農業機械への投資は極力控えた積りだったが、やはり相当に出費が嵩んだ。以前から所有していたトラクターと管理機に加え、中古の耕耘機とハーベスタ(移動式脱穀機)を購入したからである。この他に、田植機とバインダー(自動稲刈機)があれば一通り機械化出来るが、これらは人手でもやれるので、無いなら無いで済む。私は若者と一緒に、機械貧乏にならない程度の投資で、細く長く農業が出来れば良いと思っている。以上


米作り(その一)

昨年私は、NPOパーマカルチャーネットワーク九州のメンバー男女数名と、それこそ45年振りに米作りを再開した。私が子供だった昭和30年代の田舎は、殆どの家庭が農家で、農業収入で生活していた。今は逆に99%が第二種兼業農家で、主に農外収入で生活している。従って米作りの担い手の大半は中高年齢者である。私は自家の田圃(約6反)は知人に貸して地代を貰っている。従って米作りをするには新に田圃を借りねばならない。
私は近所のお二方から、自宅裏の4枚の休耕田を借りた。別の地主とも交渉したが、結局断られた。理由は今尚不明である。米も作らず草刈だけをしている。然しこの世は“捨てる神あれば拾う神あり”懇意の大工さんから、1.5kmほど離れた谷間の田圃を一枚貸して頂いた。
この小さな田圃が、大きな“幸運の女神”を引き寄せた。私がその田圃の手入れをしていると、隣の田圃の所有者が近づいて来て、自分の田圃(5枚)を貸しても良いと。とても有難い話だったが、昨年度は2枚だけを借りた(注.今年は残り3枚を田主制度に充てる)。谷間の田は大体棚田(隣と段差がある田圃)になっている。そして奥地の田の多くは耕作放棄地で、雑草が生い茂り、イノシシが掘り返し、とても米を耕作出来る状況にはない。然し都会から来て米作りをする人々は何故か、耕作の容易な平地の広い田圃より山間の棚田を好む。斯くして私達は昨年、都合7枚、合計2反5畝(約2500㎡)程の米作りをしたことになる。
米作りは大体5月から10月まで、半年間の仕事である。熊本では5月に苗代、6月に田植、10月に稲刈が一般的だが、この他に様々な仕事があることは、他の作物と同じである。昨年は最初の苗代がお宮の行事と重なったので、知人に指導を頼んだ。然し籾の蒔き方が余りにも稠密で、ひょろひょろ苗になり、苗扱ぎに大変苦労した。
6月には遠くは福岡県から数名の男女に来て頂き、昔ながらの直角定規を使って田植綱を張り、手植えで何日もかかって田植をした。人間は頭で覚えた事柄は忘れるが、体で覚えた感覚は忘れない。私にも50年以上前の田植の感覚が蘇り、皆さんに指導することが出来た。田植のスピードは今でも初心者の倍はある。雨の日は雨合羽を着たが、昔蓑傘を被ったことを思い出した。今は機械を使った田植が一般的で、手植えをする人は殆どなくなったが、都会の人々に農業体験をして頂くには、昔ながらの手植えが最高である。
田植から稲刈りまでの期間中は、水管理、草取り、稗取り、畦の草切りなど様々な仕事があるが、これらの仕事は遠隔地の人では困難なので、近場の人と私でやるしかない。昨年も梅雨末期の大雨で棚田が決壊し、下の田圃に大量の土砂が流れ込んだ。こんな場合は、雨天でも杭を打ち、土嚢を積んで、早急に対応しないと被害がドンドン広がる。その梅雨が明けて夏場になると、水の確保が重要になる。私が子供の頃は、夜間にこっそり上流の田の水を抜き、自家の田に入れていた。(これを我田引水と言う)当時用いたのが、時代劇に出てくる行灯(中の蝋燭が自在に動く)だった。秋が近づけば穂が出て、稲の花が咲く。稲の花はとても小さな白である。続く


圃場整備

私が物心付いた時分、周辺の田圃の殆どは狭く、芸術的とも言える曲線の畦で囲まれた様々な形状だった。その中で例外的に我家の田圃4枚だけが、道路を挟んだ一箇所に固まって存在し、然も矩形に近かった。勿論当時の私にはその理由は分からなかったが、後に知る処となる。それは農地解放の所為である。戦後の農地解放により、地主は田圃を一町歩までしか保有出来なくなった。従って戦前保有していた殆どの農地は、只同然で小作者に払い下げとなった。然し父は、この世紀の大変動に際して、只手を拱いては居なかった。地区の有力者や小作者と折衝して、自らの手で農地の集約化を図った。その手段は交換分合である。例えば自家の傍にAさんの田圃がありAさんの傍に自家の田圃があった場合、それを交換するのである。勿論面積や水の便等に相違があるから、簡単には行かなかっただろうが、其処は父の腕力である。半ば強引にそれを進め、戦後は一箇所に殆どの田圃を集約してしまった。
その父の死後20年以上経ってから農水省指導による圃場整備が始まった。当時田舎に一人住んでいた私の母は、それに対して最期まで反対だった。何故なら我家だけは圃場整備を完了していたからである。あれは30年程前の事だった。私の帰省に合せる様に地区の有力者数名が我家を訪れ、代表者が私に訴えた。「徳永さん以外の地主は全部賛成したのに、お宅だけが反対なので、地区の圃場整備が出来ません。龍さんから、お母さんを説得して下さい」と。私はその問題を何度も母から聞いていたので、その場で回答した。「我家にその必要はないが、皆さんが困るのなら致し方ないでしょう」と。有力者はそれこそ“喜色満面”で帰られた。
その翌年から、それこそ川も道路も付け替える一大圃場整備事業が敢行され、我家の田圃4枚は1枚に集約されたが、その面積は2割程減り約8反(8000㎡)になった。然しこれは私にとって大層高価な買い物となった。それから20年余、私は毎年45万円程の圃場整備負担金を支払う羽目になったのである。勿論当地区では最大の負担額だった。その主たる理由は、道路や川の全面的付け替えである。今や従来の自然堤防に代えて、コンクリート3方張りの排水路然とした川が、地区を直角に横切っている。圃場整備の主旨は理解するが、何故あれほどまでに徹底的に自然を作り変える必要があるのか疑問に思う。お陰で私が子供の頃遊んだ川には、梯子でも掛けないと入れなくなり、今や排水路と化してしまった。先日などは犬の死骸がその川にあるのに、長い間誰も気付かず、半ば白骨化した死体を、市役所経由でお願いした、知り合いの土建屋さんが処分して下さった。
私は思う。今回再び農水省主導で“集落営農”と称する、新たな圃場整備が計画されて、全国で様々な波紋を広げている。そして今回も又各地で、先進的取り組みをした篤農家が、折角集約した農地の貸し剥がしに晒されているとか。WTOも分からないではないが、お役所の考える事は、何時も一歩遅れである。事態の変化を先取りした人に不利益を蒙らせ、様子見を決め込んでじっとしていた人々の利益に供する様な政治手法では、二重三重の投資の無駄になるばかりか、篤農家を潰す悪政と言われても仕方あるまい。優秀な官僚機構を傘下に持つ政府が、数十年前の圃場整備の時、何故100年の計を立てられなかったのか、私は不思議でならないし、再びの負担を強いる集落営農には絶対反対である。終わり


清潔感覚

別ブログで述べた“潔癖症”に似ている様で、全く異なる意味の“清潔感”という言葉がある。前者がやや“病的な自意識”なのに対して、後者は“好感を伴う他意識”とでも言おうか。女性が男性を「清潔感のある人」と言えば、その人を「好き」と言うのに近いし、逆に「不潔」と言えば、それは「大嫌い」と言っても過言ではなかろう。
私はこれらの感覚について、自己の過去を辿っても、かなり劇的に変化して今に至っている様な気がする。即ち私が子供の頃「汚い」ものは腐敗した食物や糞便の様な排泄物、或は下水の溜め枡等だった。当時は冷蔵庫も無く、夏季には前日に炊いたご飯やおかずの残りが、翌日には“ねまる”(糸を引き、悪い匂いがする)ので、縁側にある網戸の付いた戸棚に終うか、笊に入れて北側の軒下に吊るし、夜風に当てていた。(現在、当時使っていた戸棚を補修し、庄屋の店頭に置いている)
一方、昔のトイレは全て汲み取り式で、一旦肥溜で腐敗させ、畑に撒いていた。何を隠そう。私も熊本へ帰郷後、数年間は其れをしていたが、女用トイレにトイレットペーパが山積し、汲めなくなったので、水洗式に改装した。又上水は屋敷内に掘った井戸水を使い、台所から出た下水は、一旦地中に掘ったコンクリート製の“溜め枡=熊本ではゼエタンと言った”に溜め、その下流に続く溝から地中に浸透させる構造(敷地内リサイクル方式)だった。然し、この溜め枡には台所からの排水(+風呂の排水)に混じる異物が沈殿するので、定期的に汲み出さねばならない。この作業は子供の頃から私の担当で、私は其れを畑に撒かず、溝の近くに捨てていた。然しそれは“重くて臭くて汚い”仕事だった。
それがどうだろう。トイレは水洗式に変わり、今やウオッシュレット、台所の排水も溜め枡を通らず、直接川に流れる。(当地では一般家庭には合併浄化槽は普及していない)お陰で、嫌だった汲み取り作業は無くなったが、川は汚れて富栄養化し、魚も以前の様に居なくなった。そして、近隣の農家が畑に施すのは殆ど100%“化学肥料と農薬”である。これは、昔の私の感覚から言えば、清潔感がある。然し今の私に其れは無い。不潔どころか有害である。
その為に私は“無農薬自然農法”を始めた。そして、その鍵が“草堆肥”である。これは現在“只”で“無尽蔵”に手に入る。何故なら河川敷や道路脇の草の焼却が禁止された為、刈取り受託業者は其の“捨て場”に困り、幾らでも持って来る。お陰で我が庄屋の畑には、毎年多量の草堆肥が持ち込まれている。然し困った事がある。其れには“多種多様の異物”が混じっているからだ。私は持ち込み業者に“きつく”釘を刺す。「異物を除去して持って来て」と。業者は「小母さんを使って除去した」と言うが、中々それは守られない。私は仕方なく異物を除去しつつ、畑に投入するしかない。若しそのまま畑に投入すると、それは腐らずに後々まで残って、結局は後々の私の仕事が増える。
異物の内訳は、瓶・缶・ペットボトル・紙パック・レジ袋・トレーに始まり、針金等各種の金属類から新聞雑誌類まで、実に多種多様のゴミが混入している。これ等は何れも“腐らない”から、野菜の肥料にならないばかりか、トラクタで粉砕したり、ロータリーに噛み込んだり、色んな障害を引き起こす。先日は堆肥の中から、一抱えもある濡れた雑誌が出て来た。私は何だろうと思って、ベトベトに“濡れた”其の雑誌を何ページかめくった。そうしたら出てくるは!出てくるは!卑猥な性描写が其の全紙面を埋め尽くしている。私はその時思った。「これぞ“濡れ場”に違いない」と。
今の日本人は公徳心をすっかり無くしてしまった。そして若者は車内で殆どの快楽を満たし、済んだら河川敷に“ポイ”と投げ捨てる。それが、その後どうなるか等知った事ではないのだ。私は思う。そんな“清潔な車内の若者”から見たら“草堆肥の中のゴミ拾いをする私”は、きっと“不潔”だと言われるだろう。終わり


畑の石

昔、私は山本雄三作の有名な小説「路傍の石」という小説を読んだ記憶がある。もうそのストーリは殆ど忘れたが、題名だけは“ある時”に思い出す。それは農作業の時である。畑には一見“石ころ”は無い様に見える。然し実際にはそうではない。トラクターで耕耘したり、雨の後等には、其処ら中に石ころが“ごろごろ”露出している。大はこぶし相当から、小はパチンコ玉相当まで、色や形も様々である。私は暇さえあれば“其れ”を拾って畑の隅に積み上げていた。然し、それでは邪魔になるので、2年前庭士のKさんに、畑の隅にユンボで大きな穴を掘って貰い、以後は「その穴」に入れていた。その穴は相当に大きかったが、1年で埋まって終った為、昨年新たにその横に別の穴を掘って貰った。現在その穴を利用しているが、それも既に1/3程埋まってしまった。
地中の石は、地球と人間の歴史を物語る。現在の畑はこの100年間をとっても、屋敷→畑→屋敷→畑と辿った歴史を持つ。即ち、地中から出土する石ころは、その歴史の産物なのである。即ち、表面に近い所にあるのが近代の石、地中深くあるのが古代の石とでも言おうか。その証拠に、この畑を伯母から借りて、農業を始めた当初は、バラス(砕石)や瓦類の出土が圧倒的に多かった。最近はそれらが減り、自然の石が多くなった。自然の石は、角が取れて全体に丸みを帯びているので、直ぐに判別が付く。
然し不思議な事もある。同じ畑でも西側には殆ど石が存在しないのだ。これは、過去に屋敷として使われていなかったからかもしれない。然しそれでも説明出来ない事がある。畑の周りの土手は、何所も此処も大小様々の“石ころだらけ”だからである。この問題は、私にとって長い間の謎だった。然し最近、私はその“答え”を見出したように思う。それは即ち、先祖伝来“畑”として使って来た間に、耕作者が絶えず石ころを拾い出して、畑の周りの土手に捨てたからである。その証拠に、土手に転がる石ころには、人工物即ち“瓦”や“瀬戸物”の欠片が混じっているからである。
そう考えると、先人の営みに改めて“敬意”を表さざるを得ない。何故なら、その石ころの量たるや膨大だからである。一体何年、否何十年掛かって、こうまで綺麗に石を取り除いたのか。恐らく気の遠くなるような年月に亘る仕事であったと思う。そもそも私達は、田や畑は昔から自然に存在していたものだと認識し勝ちだが、そんな事はあり得ないのかも知れない。元々の地球は何処も彼処も石ころだらけだったと考えた方が普通だろう。其処から人間が営々と石ころを取り除いたお陰で、農業が出来る農地が出来上がったのだ。そしてこれ等を成し遂げた先祖のお陰で、私は好きな農業が出来るのだ。そう思うと、元々畑だったと思って仕事していた時分と今は、大きく意識が変わったのを痛感する。近隣の人は店番をしている家内に良く言うそうだ。「龍さんは、始終畑に居られるが、一体何をして居なさるのか?」と。
私は思う。たかが石ころ、されど石ころ。人間の地道な取り組みは、何時か地球を変える。そう考えると、毎日一つでも二つでも石を拾う動作にも、意味を見出す。終わり


農機具

農業において重要な物に、農機具がある。これにはトラクタの様な大型機械から、剪定鋏のような小物に至るまで実に種々雑多、数え出したら限がない。私は仕事柄農産品フェアとか、ホームセンタの特売とかが好きで時々行く。大抵それらのチラシには、目玉商品が幾つか載っている。昔、未だサラリーマンだった頃の事である。あるホームセンタの週末特売チラシに、アルミ製の脚立が出ていた。確か5脚限定で、定価の半額程だった。私は鉄製の脚立を持っているが、それは頑丈だが重くて手軽に持ち運べない。是非欲しかったので特売日の朝、開店30分程前にその店に行った。処が既に5名以上の人が並んでいる。その全員が年配の男性である。私はその一人に聞いた。「何を目当てに、並んでいるのですか」と。その人は答えた。「皆脚立が目当てですよ。もう私までで終わりで、貴方は買えませんよ。わし等はもう1時間以上前から並んでいるから」私は驚いたが後の祭りだった。その後現在に至るまで、アルミ脚立の特売は目にしていない。
別の特売日にはこんな事もあった。私の前の中年女性が、トイレットペーパを買ってレジに出した時、隣のレジ係の女性が声を上げた。「ちょっと、その人は2回目で違反よ!」よく見ると、周りに居る客は、皆判子で押したように、同じトイレットペーパだけを抱えている。私はその時やっと事態を理解した。朝並ぶ客の殆どは、特売品のみを買いに来ているのだと。そしてあわよくば、お一人様1個限りを守らず、何度も店に出入りして、買い占めようとしているのだと。私はその時以来、特売品を買うのは半ば諦めている。
そんなこともあって買い揃えた農機具で一番使うのは、やはりハサミ・カマ・ナタ・ノコ・クワ・スコップ等である。然し、特売品の品質は決して一級品とは言えない。ハサミやノコは直ぐ切れなくなるし、カマやナタは刃こぼれし易い。チェーンソーに至っては、トルク不足で大きな木は切れない。勢いそれらは早々にお蔵入りとなって、普段使う農機具はやはり「ちゃんとした値段」で買った物に偏る。
「処が」である。私は之までに、剪定ハサミ、ノコ、カマ、ナタを夫々1~2本、山仕事の時に無くしてしまった。それは、こんな時に起きる。山にハサミとナタとノコを持参したとする。当然一度に3種類は使わず、目的に応じてそのどれかを使う。その間は他の農機具は傍に置いておく。処が、山には落ち葉が多い。一寸した隙にそれらの農機具の上に落ち葉が被さったら、もう終わり。幾らその辺りを探しても殆ど見付からない。何となれば、それらの農機具と落ち葉の色はほぼ同じ。詰り保護色になっているのだ。それからである。私は普段良く使う特売品以外の農機具には、赤布を付ける様にした。そうすれば、山で無くしても見付け易いからである。
そして私はその赤布のお陰で、今年の春先竹伐りに持参したナタ鎌を、先日偶然山で見付けた。それは何と見付け易い様に、態と立ち木の根本から2m位の所に打ち込んでいたのだった。然し数ヶ月の間、風雨に晒されたそのナタ鎌の刃は、聊か錆が出て、以前の切れ味は無くなっていた。そしてそのナタ鎌も、特売品ではない上等の品物だった。
私は今のところ、無くしても余り惜しくない特売品を持参する以外に、山での決定的な紛失防止対策を見出せていない。終わり


農業

農業を始めて3年余、日々の生活パターンはサラリーマン時代から大きく変わった。サラリーマン時代は6時頃起床して急いで朝食を済ませ、7時前には家を出る。そして帰宅するのは平均して午後8時から9時前後、遅い時には10時近くになる。そして遅い夕食を済ませて風呂に入り、ちょっとTVニュースを見ると、もう寝る時間が迫る。そんな毎日を34年も続けた。自由時間は休日を除けば殆ど無く、子供が起床する前に出勤し、寝た後帰宅する。それがどうだろう。今の日課は平均して5時半起床、朝風呂に浸かった後、ゆっくり朝食を済ませ、小1時間程新聞やTVニュースを見て、8時頃から農作業を始め、10時のお茶の休憩、昼食休憩は1時まで、そして午後の仕事は3時の休憩を挟んで夕暮れまで。秋の日は短く6時頃には暗くなるので、当然残業も出来ない。そして7時頃夕食を済ませた後、ゆっくりTVを見たり、本を読んだり、メールをしたりして、11時前後に就寝する。一見サラリーマン時代と余り変わらないようだが、一番違うのは昼間の時間の過ごし方である。サラリーマン時代は殆どの時間、椅子に座って過ごしていた。それは通勤途上の車も、自席の椅子も、会議の席も、出張の道中も似たようなものである。お陰で体重は増加し、お決まりの成人病予備軍の仲間入り。
それがどうだろう。農業は基本的には屋外作業、椅子は無い。若し有ったとしても、座ったままでは殆どの仕事は出来ない。従って立ち作業が多い。然も私の場合、毎日数種類の仕事をしているので、移動が結構多くなる。万歩計を付けていないので分からないが、毎日優に1万歩以上は歩いていると思う。(サラリーマン時代は、昼休みに30分位歩いても5000~6000歩にしかならなかった)お陰で毎日、好きなものを腹一杯食事をしつつ、体重はサラリーマン時代より5kgも軽くなり、今年の人間ドックでは、医者から健康のお墨付きを頂いた程である。
農業の仕事は無限にある。私は車庫に小さなホワイトボードを下げて、気付いた仕事を書き留め、済んだら消すようにしているが、常に書く方が多く、完了して消すのが追い付かない。従って、ホワイトボードには何時も沢山の宿題が残った状態になっている。私は何故、次から次へと仕事が発生するのか考えた。そして、次の結論に達した。農業は屋外での植物の育成作業が主体である。それは子育てみたいなものだ。子供は目を離すと何をするか分からないし、怪我や病気はしょっちゅうである。これは農業も然りで、周りの環境は常に変化し、ほって置くと忽ち異常が発生する。今秋は特に雨が少なく、水掛けが日課と化している。水掛けは一度始めたら、雨が降るまで止めてはいけない。植物がそれを当てにして生長しているからだ。然らば最初から水を掛けなければ、野菜は芽を出しても成長しない。これは差し詰め、母乳の出ないお母さんが粉ミルクを与えるようなものだ。私は来る日も来る日も夕刻の小1時間、水道ホースを片手に畑に佇む。そして、段々と来月の水道料金が不安になって来た。それは一昨年、潅水チューブを設置して夜間散水をした時、水道料金が一挙に3倍以上に跳ね上がったからである。そして遂に決心した。最早、何時来るか分からない雨など待てない。ポンプを買って川から水を汲み上げよう。その為には、又例のオークションにチャレンジせねばならない。
私は思う。サラリーマンは、儘ならない人間関係というストレスで、精神をすり減らす毎日が続く。農業はそれが無い代わりに、儘ならない自然というストレスに立ち向かわねばならない。今夜からは、翌日の天気予報を見ないようにしよう。然し、私は夜のNHKの天気予報が毎日の楽しみだったのだ。何故ならば、キャスターが毎晩何故か呼び掛ける、あの半井さんのファンの一人なのである。終わり


せんとり

「せんとり」と聞いても、若い人は何の事か分からないだろうし、私も漢字でどう書くかも知らない。これは餡子(あんこ)の製造工程の一つで、これを経たものは「こし餡」省いたものは「つぶし餡」と言う。餡子の材料としては昔から小豆が最高だった。私は母に似たのか、子供の時から大の甘党。だから母は良く饅頭やおはぎ(ぼた餅)を作ってくれた。当時は砂糖も高価で、餡子も買えなかったので、饅頭やおはぎ或いは餡子餅は、私にとって特別のご馳走であった。餡子の製造工程は、先ず自家製の小豆を竈(かまど)に掛けた大きな鉄鍋で長時間茹(ゆ)でる。小豆の粒が崩れる迄だから、多分2~3時間だと思う。その間、私は竈の前に座ってひたすら薪を焚いた。
次に、茹で上がった小豆を、穴あきのお玉で擂鉢(すりばち)に小分けにして、擂粉木(すりこぎ)ですり潰すのである。母は先ず自分で模範を示して私にそれを遣らせ、自分は擂鉢を動かないように押さえていた。私は生来サウスポーなので、左手を下にした方が遣りやすい。然しそれならば、左回りに廻すのが普通なのに、なぜか手の持ち方は其の儘で、右回しを教えられたらしく、今でもこの遣り方でしか出来ない。この仕事は大変な根気を要する。茹で小豆なら、直ぐこなれるだろうと思うが、中身は兎も角、外皮は中々こなれない。擂粉木を廻していると、小豆が段々と擂鉢の縁に広がってしまう。これを時々内側に掻き寄せながら延々と続ける。疲れた私が「もう良いだろう」と言っても、母は「もう少し」と、中々終らせて呉れなかった。そしてそれが終ったら、味噌漉(こ)しと言う竹笊(ざる)にこれを入れ、茹で汁に浸けて餡子を漉す。笊の中には、小豆の皮だけが残る。これを手で固く絞り、再度擂鉢に入れて新しい茹で小豆と混ぜ擂粉木で擂る。そして再び笊で漉す。この工程を延々と繰り返すと、最後には一握りの小豆滓しか残らない。これだけは捨てる。
そして次に、バケツ一杯程出来た汁餡子を、丈夫な木綿の袋に入れて口を硬く閉じ、鍋の取っ手などに当てて力任せに押さえつける。そうすると、水分だけが袋から染み出して、中に固まった漉し餡が残るのである。最後にこれを再び鍋に戻し、沢山の砂糖(ザラメ)と塩+人口甘味料をほんの少し入れて熱を通せば、お待ち兼ねの漉し餡の出来上がり。これだけの工程だけで、優に半日は掛かる。おはぎは兎も角として、餅や饅頭となると、餅つきや蒸篭(せいろ)蒸しが必要なので、殆ど1日掛かりの仕事になる。
然しこれだけ長時間、汗を流して作った饅頭や餅は、言葉に出来ないほど美味しかった。叔母(母の姉)等は、余り美味しいので母に作り方を教えて貰い、何度か試したらしいが、一度も同じものが出来なかったと聞いた。という事は、母は実家ではなく、嫁いで来てから祖母に奥儀を教わったのであろうか?
私は思う。今やお金さえあれば、どんなに美味しい物でも簡単に手に入る時代になった。従ってこんな経験は二度と出来ないだろう。然し農業は機械が普及したとは云え、今もやはり様々な手作業が必要である。例えば草取りは「延々たる作業」に成り勝ちで、私は当時の経験が有るからこそ出来るが、若い世代には難しい。然し農業に限らず、仕事とは多かれ少なかれ忍耐を要するものである。私は子供の頃、こんな面白くない、根気の要る仕事を体験した事が、今大変役に立っている。然し後悔もしている。それはこの貴重な体験を、次の世代、子供達に伝えなかったことである。だが未だ僅かな可能性はある。それは孫に教える事である。私はそれを成し得るまでは、生きねばと思うこの頃である。終わり


烏と雀

私が平飼いの養鶏を再開して今年で丸4年、開始時は未だ勤務中だったので、最初の鶏小屋は知り合いの大工に作って貰ったが、びっくりするほど高価だった。理由は、端材の皮剥きまで自分で遣り、レートを掛けて請求された為だった。大工の日当は約2万円、誰でも出来るスキルレスの仕事までまともに掛けられては堪らない。それを境にして私はその大工とは縁を切った。そして二つ目の鶏小屋は、基礎のみを業者に頼み、囲いは家内と手作りした。そして当初50羽から始めた養鶏も病気や事故で漸減し、今や40羽程になってしまった。そして鶏もやはり動物、加齢と共に産卵率が漸減して、生産が販売に追い付かなくなったので、今年再び30羽の幼鶏を仕入れ、計70羽とした。
処が今朝、餌遣りに行くと幼鶏が一羽も居ない。鶏舎の中を良く見ると、隅の一角に全ての幼鶏が集まって怯えている。一羽が又しても烏(カラス)の犠牲になったのだ。その死体は腹部が食い破られ、内臓のみが無くなっている。私はしまったと思ったが後の祭りだった。ここ暫く、被害がなかったので油断したのがいけなかった。これで烏に襲われた鶏は累計5~6羽になる。烏は賢い動物で、繁殖期になると抵抗力の弱い幼鶏やチャボを狙って、ツガイで上空から急降下し、急所の延髄を一撃して仮死させ、栄養豊富な内臓だけを食べる。私は下界の私をあざ笑うかのごとく「カアカア」と鳴きながら上空を旋回する烏を恨めしげに睨みつつ、幼鶏の亡骸を埋葬するしかなかった。そして、早速鶏小屋の上に、テグスを張り巡らした。烏対策は今の処これしかない。烏は何故か、目に見え難いテグスに羽が触れるのを恐れるからである。
一方、冬が近くなって田畑で餌を得にくくなると、今度は雀(スズメ)の集団が襲来する。これは鶏こそ襲わないが、餌を片端から失敬する。鶏が居ても人が近付いても殆ど恐れない。私は餌場の周りにネットを張り巡らし、餌箱の上にはカスミ網(現在販売禁止なので目的を偽って購入)を張っているが、それでも何のその!同僚の死体が何羽もぶら下がるカスミ網の中を潜り抜け、鶏の餌を啄む。たかが雀と言う勿れ!数百羽が押し寄せると、鶏の餌はあっと言う間に食べ尽くされてしまう。鶏も情けない。追い払いもせず一緒に餌を啄んでいるから始末が悪い。今の時代、動物愛護とか言って狩猟はおろか、網での捕獲すら公式には禁止されている。だから、今は烏も雀も人を全然恐れず、逆に馬鹿にしている。従って繁殖は意のままで、農作物は荒らすし、平飼い養鶏の敵になっている。
私は思う。欧米諸国の反対で捕鯨禁止が続いている原因の一つは、日本と違って彼等には鯨肉を食べる習慣がないからであろう。然し、鶏卵や鶏肉を毎日の様に食する都市住民が、片や鳥獣愛護を唱えるのは自己矛盾というものである。こんな得手勝手がまかり通る限り、鶏インフルエンザ防止の為、空調付きの無窓鶏舎で密飼いされた、抗生物質漬けの卵やフライドチキンを食べるしかないだろう。終わり


台風

昔、恐いものの代名詞だった「地震・雷・火事・親父」に何故か「台風」は含まれていない。然し私の家は昔から、繰り返し台風の洗礼を受けた。私が子供の頃、自家は藁屋根で、松製の梁はシロアリに食われ、障子や襖の開け閉めが出来ないほど撓んでいた。だからちょっと強い台風が来ると、比較的頑丈な土蔵に避難して、蝋燭を灯して不安な夜を過ごしていたのを覚えている。私が小学生の頃、大きな台風が二度も来て、家の藁屋根が粗方吹き飛び、樹齢百年を超えるような大きな柿の木が、真二つに折れた。その後長く大きな台風の直撃は免れていたが、十数年年前に2回、強い台風が直撃し、今度は新築した家の瓦が沢山飛んだ。その後又しばらくは大きな台風の直撃を免れていたが、3年前に強烈な台風の直撃を受けた。
九州に来る台風の内、東シナ海を北上して長崎辺りに上陸した場合が、風の被害が最も大きくなる。3年前と今年の13号台風が正にそれだった。3年前は栗3本・柿4本・欅1本、竹数十本、今年は栗3本、梅1本、銀杏1本、竹十数本が折損の被害を受けた。野菜では、オクラ・ナス・キュウリ・ピーマン・苦瓜・インゲン豆等が殆ど倒伏した(3年前は自家用野菜しか栽培していなかった)。他の果物・野菜も、葉が落ち実も擦れて、商品価値は無いも同然になる。台風は8月から9月にかけて襲来することが多い。その頃は正に稲を初め、夏野菜や果物の収穫の最盛期またはその直前の重要な時期に当たる。今年の場合、栗は表年(良く実る)に当り、枝もたわわに実っていた。従って風による損害も大きく、大きな枝が根本から折損すると共に、殆どの実(毬栗)が落果してしまった。これ等の落果栗は、毬が未だ青くて未熟な為、商品はおろか自家用にもならない。一面に散らばった夥しい量の毬栗や、折損した枝を片付ける仕事は、前向きの仕事とは言えず、とても疲れる。それにしても、何で台風は選りによって一番来て欲しくない時期に襲来するのだろうか?そして、たわわに実った木々に限って、壊滅的被害を及ぼす。
私は、被害の原因は何だろうかと考え、樹木については或る法則を発見した。つまり樹高が高くて果実が多い、所謂top heavyな状態であるほど、被害が大きくなる傾向があることを。其処で3年前の台風の後、専門家に頼んで被害を受けた柿の樹高を低くする剪定を施した処、その樹は今年の台風では折損しなかった。これは太古の昔から、自然が植生を巧みに淘汰する作用かもしれない。何故ならば、若し台風が来なければ、木々は年々限りなく、遂には辺りを覆い尽すまで、枝葉を伸ばすだろうからである。そしてその姿は、私が5年前に長女の結婚式に行き、オーストラリアで見た光景と重なる。あれは確か屋外レストランで、アイスを食べた時の事である。それはとても大きい上に甘過ぎて、私は半分ほど食べ残してしまった。処が、隣のテーブルでぺろりと平らげた白人の老夫婦は、信じられないほど上半身が大きく、それに比べて足は驚くほど細かった。日本人は一般的に欧米人(の体格)にコンプレクスを持っている。然しあの時を境に、私はそれが無くなった。何故なら、あのような体型は格好も悪く、又長生きも出来ないだろうからである。そして、若し台風に遭ったら、呆気なく倒れてしまうだろう。終わり


少子化

今から遡る事50年、私が小学生の頃、社会科の教科書にはどんな事が書かれていたか?日本は国土が狭い。山国で平野が狭い。食料自給率が低い。その上敗戦で海外領土を失い、引揚者が国内に戻って、ベビーブームも起きたので、人口密度も人口増加率も高かった。私は一人っ子だが、同級生には7~8人兄弟・姉妹は珍しくなく、叔父・叔母と甥・姪が机を並べるような時代だった。一方、食生活は炭水化物偏重で、脂肪・蛋白質の摂取が決定的に不足していた(欧米諸国との比較を棒グラフで示してあった)。そして当時の理想はアメリカ式の、高カロリー、エネルギー多消費の生活であった。それが見事に実現した現在、当時の問題は解決したのだろうか?私は決してそうは思わない。日本は確かに資本主義陣営に属して冷戦を乗り切り、経済もアメリカへの輸出を手がかりに外貨を獲得して、高度経済成長を成し遂げ、先進国の仲間入りを果たした。
その結果が今の日本、今度は少子化が止まらない。流石に政府も危機感を抱き、最近は担当大臣まで設けて対策に躍起となっている。然しこれは、人口増&雇用増∝経済成長でしか国家の将来像を描けない、近代資本主義の欠陥を露呈しているのであって、むしろ時代逆行だと思う。私は50年前の社会科の教科書を、今一度紐解いて見る必要があると思う。果たして現在の少子化はそんなに大きな問題だろうか?自然界に生きる動物社会では、殖えすぎると食料がなくなり、自然淘汰で又適正水準まで少なくなる現象が起きると聞く。これは人類にも当てはまる筈で、寧ろ時代に合わせる人間の巧まざる知恵ではないだろうか?即ち、狭い国土に多くの人々が快適に暮らす為には、人口密度は一定以下でなければならない。今の少子化は、結果としてそれが起きつつあるのではなかろうか?しかも、現代は50年前には想像もしなかった深刻な問題が起きつつある。それは先進諸国民のエネルギー多消費型生活に起因する化石燃料の枯渇や、温暖化等の地球環境問題である。アメリカや中国等が、成長神話から逃れられない現在、これらの問題解決の為には、日本は条件の近い欧州諸国と手を携えて世界の先頭に立つ必要がある。
私はその鍵は、日本で今起きている少子化現象を逆手に取り、経済成長のみに依らない社会の仕組み、即ち貨幣経済では計れない新たな価値創造を行い、国民の自己満足度を維持向上させることだと思う。あの江戸時代の大半は人口も横ばいで経済も低成長であったが、人々は文化や芸能を大発展させ、200年以上もの平和な時代を築いた。今の日本の国力を以ってすれば、伝統文化・芸能のみならず、先端技術や生活福祉及び娯楽等で、第二の江戸時代を実現することは決して不可能ではない。それを実現したら日本は文字通り、経済成長万能論からの脱却した、新しい生き方の手本を世界の国々に指し示すことが出来るのではなかろうか?終わり


気候変動

私が農業を始めたのは、此処熊本に戻った翌年の昭和59年からだから、彼是20年余になる。勿論当時は今と違って市販はせす、全て自家用だった。叔父の紹介で中古の耕運機を買い、自宅前の畑に季節の野菜を植え、週末に草取りや施肥等の世話をする、典型的なサラリーマン農業であった。然し畑が良かった所為もあるだろうが、出来は悪くなかった。ジャガイモやサツマイモのみならず、大根・人参・牛蒡等の根菜も、キャベツや白菜等の葉菜も、ナス・キュウリ・トマト・ピーマンや豆等の果菜類も良く出来た。勿論当時の農業は、化学肥料も農薬も使う慣行農業だった所為もあろう。然しこれだけでは現状を説明できない。
何となれば、現在同じ畑で作付けした同種の野菜が、当時ほど良く出来ない。無農薬や無化学肥料がその原因だとしたら、虫や病気の蔓延及び肥料不足の症状が出るべきだが、実際には少し違う。確かにトマトは病気にかかり易いし、キャベツやブロッコリーには虫が付き易い。然し病気には比較的強いナス・キュウリ・ピーマンや、虫が付きにくいインゲン豆やレタスやほうれん草等の葉菜類も、当時ほど良く出来ない。
野菜も人間同様、幼時期の環境が極めて重要である。種を蒔いた後、生え揃い、ある程度大きくなるまでは、適当な日光と水分、それに土中の栄養がなければ、生え揃わない。それには、マイルドな環境、即ち温帯特有の適当に晴天・曇天・雨天を繰り返す事が重要なのである。処が最近はどうなってしまったのだろう。天候が全て激しい方向にずれてしまったようだ。晴天が長く続いたかと思えば、豪雨が来たり、猛暑が続いたかと思えば、猛烈台風が襲来する。冬は冬で、暖冬かと思えば寒波が襲来する。つまり夏が長くなる一方ではそれなりの冬も来て、野菜にとって一番快適な、春や秋の(晴天・曇天・雨天の日が適当に繰り返す)温暖で穏やかな気候が以前の様になくなってしまったのだ。
これは私が現在実践中の、ハウスも、潅水設備も、化学肥料も、農薬も使用せず、堆肥を入れた土と自然の恵みのみに頼る、無農薬自然農法には大きな打撃となっている。自然農法は、野菜本来の生命力に頼るので、成長が遅い。植物は先ず根が伸びた後、茎や葉や、実を成長させる。だから、一旦根が成長した後は、生命力が強く、長期間美味しい野菜が収穫出来る。然しそれに達する前に極端な晴天や雨天が続くと、枯れてしまう。今年はその傾向が特に強く、私は農業の将来に不安を覚える。
そして私は思う。これは明らかに地球規模の気候変動、つまり温暖化の影響が既に色濃く出始めたのだ。今夏の豪雨による災害多発と、その後の猛暑はそれを如実に物語っている。そして、農業者はそれ等から逃れる為に、益々人工的な環境、つまりハウスや温室等に頼る農業に傾斜して行き、それが更に化石燃料の消費増大による、地球温暖化を加速する、詰りは負から破滅への連鎖に落ち込むだろう。昨日のニュースで、此処熊本で亜熱帯野菜の栽培を始めたニュースが放映されていた。九州が従来の温帯モンスーン地帯から、台湾並みの亜熱帯地域へと明らかに変貌しつつある現在、私も今後この方向に進むことも考えなければいけないと思い始めている。以上


世界旅行

我家の藤棚に、数年前ツガイの鳩が卵を産み、2羽の雛を育てた。そしてその雛は、成長した今も我家を“実家”と見ているのか、周辺の田畑で食料を調達し、遠くへは行こうとしない。然し2羽の親は、その後2年続きで雛が“猫や蛇”に襲われる不幸に見舞われた。私は堪り兼ねて昨年、外敵の進入防止柵を作ったが、今年は親が遂に諦めたのか、産卵にも来なかった。ひょっとすると別の場所に産卵したのか、離婚したのか、死んだのか謎のままである。
そして、人という動物も何時の時代からか、イスラム社会や一部の原住民を除き、鳩と同じ“一夫一婦制”を基本として社会を構成する様になった。然し、今の時代その基本が“揺らぎ”を見せているように思えてならない。古来、夫婦の第一の目的は“子孫を残すこと”にあったのだろう。昔は人生50年、末の子供が一本立ちする頃には、親の寿命が尽きた。其れが今は人生80年。子供が独立した後に、夫婦のみで過ごす“気の遠くなるような時間”が残されている。
私は、3年前早期退職する時、既に“農業”に第二の人生を懸ける事を決めていた。家内は“サラリーマン”に嫁いだ積りだったので、私の考えに必ずしも賛成ではなかった。そして其れは今も基本的に変わっていない。従って“描く夢”も大きく異なる。家内の夢は本物の“世界旅行”。私の夢は自宅に居ながらの“世界旅行”である。そして私は今も家内から言われる。私が出張で行った“台湾”や“ヨーロッパ”に行きたかったと!然しそもそも“出張に家内を伴う事こそ普通ではない”と言うのが私の考えである。そしてwwoofホストをしている現在、世界中からwwooferの申し込みが相次ぎ、私は“自分の夢”が着実に実現しつつあるのを肌で感じる。向こう3ヶ月をとって見ても、台湾人に次ぎ、オランダ、アメリカ、カナダ(フランス系)、香港(イギリス系)から予約が来ている。
若しこれだけの国々に夫婦で旅行するとなると、幾ら位の費用と時間が掛かるだろうか?其れが自宅で満喫出来る。こんな“幸せなこと”が有って良いものかと!然し、家内はそうは思わない。それは、wwooferは“農業担当”の私を助ける一方で“家事担当”の家内のご厄介になるからである。
人は皆“鏡”という道具を使わねば、自分の“顔”を自分で見ることは出来ない。これは何も顔に付いてのみ言える事ではなく、その“人となり”即ち“生まれつきの性質”についても同様である。そして夫婦は多くの場合、全く異なった家庭環境で生い立っている。私達夫婦の場合も同じ事が言える。家内は一男三女の次女で両親は今も存命、二人の姉妹は何れも米国在住のインターナショナルファミリーである。私は一人っ子で両親は遥か昔に他界。家には外国の匂いすらなかった。違って当り前だろう。又OOからwwooferが来たいと連絡がありました。宜しいでしょうか“奥様”!


ゴールドフィンガー

昭和30年代の我家には、各種の農作業用具、機械の他、糸繰り車等の織機類もあった。私はこれ等を自分で操作したり、手伝いをした経験がある。
その1は“俵編み”である。今は相撲の土俵位でしか俵を見かけないが、当時は米の収納/保管は主に俵であった。勿論その原材料は稲藁である。母と二人で編み機の両側に座り、藁スボ(鞘)を抜き揃えた数本の藁を編機の上に載せ、八珍坊主と言う重しをつけた細縄で、藁を交互に編んで行くと、俵(の胴部)が少しずつ出来上がる。俵は“胴部”の他に、両側には円形の“蓋”も必要なのだが、この製作については全く記憶が無いので、母が一人で作っていたのかも知れない。
その2は、これ等に不可欠の“藁縄”で、これも自製していた。方法に手編みと機械編みがあるのは、毛糸編みと同じである。手綯(な)い用の藁は、木槌で根気良く叩いて軟化させると、細くて丈夫な縄が綯(な)える。作り方は、二本ずつ束にした藁を、両手の平で強く押さえて、縒りを掛け、其の反動で作る仕組みである。然しこの方法では幾らも出来ないので、通常は機械に頼ることになる。我家には今も“縄綯い機”が残っている。当時この“縄綯い”は私の仕事だった。その仕組みは、椅子に座って足踏み棒を交互に踏むと弾み車と共に機械が動き、二つあるラッパ状の入り口に交互に1~2本ずつ予め用意した“藁”を補充する。縄は其のラッパからどんどん吸い込まれ、縄に縒(よ)り合わされて回転する竹籠の中に収納される。そして縄の品質は「藁の品質・投入量・足踏みスピード」で決まると言っても良い。調子に乗って藁を入れ過ぎると“詰る”し、足らないと“空回り”になったり“切れ”たりする。この機械は幾つかの“アタッチメント”を入替えると、縄の太さを変更出来る“高級機”だった。
その3は“黄粉”である。“黄粉餅”を正月に食べていたのを思い出すが、当時は小麦粉以外の“米粉”や“大豆粉=黄粉”は全て自製だった。そしてその製造ツールは“石臼”である。これは下部の“固定石”と上部の“回転石”とから成り、上部の回転石の上にある“穴”から少しずつ材料を落し込みながら回転石を廻す。適量ずつ入れて力任せに廻すと、相互の石の摩擦により粉体化した“粉”が少しずつ石の間から下に零れ落ちる。ちょっとでも大豆を入れ過ぎると、荒い粒状の粉が出るので、根気と腕力が必要な作業である。
当時は私だけでなく農家の子弟なら誰もが似た様な仕事を遣らされたと思う。そしてこの事が今に至って、大きな財産を齎して呉れた事を私は感謝している。それは手先の“加減=器用さ”の習得である。器用さは先天的なものもあろうが、子供時代の経験も大きく左右する筈である。私は今“其れ”が、多様な仕事を要する農業の、大きな“武器”になっている。そして私は自分で自分の手を“ゴールドフィンガー”と呼んでいる。


草堆肥

本格的に農業を始めて、私はやがて3年になる。然し道半ば処か、未だ模索の段階を脱したとも言えない。以前の私の農業は、一般的な慣行農業、即ち化学肥料と農薬に頼る農業だった。土日農業では、時間的にも其れが限界だったとも云える。然し慣行農業は簡単である。耕耘機で耕した農地に種を蒔くか苗を植えて化学肥料を施し、虫が付いたら消毒し、雑草が蔓延れば除草剤を散布する。そして収穫後の残渣を焼却すれば、落ちた雑草の種も粗方消滅するし、残った灰は肥料になる。我家の周りの農家は今も殆どが“其れ”であるが、この遣り方では畑の有機物は減少し、徐々に“痩せた硬い土壌”に変化して行く。
これに対して有機農業(“認定”を受けないと“有機”とは名乗れない)は、基本的には「化学肥料・農薬・除草剤」の代りに「堆肥やEM菌、竹酢液等」を使用する農業の形態である。私は“有機認定”を受けていないので“無農薬農業”と自称している。私は以前“草木灰”もこれ等に含まれると思っていた。然しパートナーのY氏より「害虫を呼び込むので良くない」と云われ、結局“草堆肥”のみを使用する、所謂“自然農法”を始めることになった。昔の堆肥の原料は稲藁で、土と交互に積み上げて下肥を掛け、切り返して熟成させる遣り方だった。処が草堆肥は、草を野積して自然に発酵させ、畑に投入する。現在は刈り取った川岸の雑草の焼却が禁止されたので、業者にお願いすれば、草は幾らでも運んで来て呉れる。然しこの草堆肥には以下の問題が有ることが分かった。
1. ドライバーが車の窓から捨てた夥しい異物が混入している。私は業者に、予め其れを除く様に繰り返しお願いしたが、守られていない。結局は畑に投入する時に一々選り分けて、ゴミとして処分するしかない。大変な作業である。
2. 外来種の雑草の種が混入している。堆肥を投入して1~2年後には、畑の植生が一変する程、見慣れない草が蔓延る。又其れ等は繁殖力が極めて強く、一旦蔓延ったら「切っても抜いても耕しても」根絶するのは難しい。
3. 必要投入量が途轍もない量になる。草堆肥はキャパは大きいが、正味は少ない。
4. 土と混ぜるのが大変である。只、表土の上に乗せて耕しただけでは、土壌深く入らず、特に根菜の必要を満たさない。一方、葉菜に対しては、地中深く鋤き込んだ肥料では、根が其処まで到達しない。
私は思う。“石の上にも3年”とは良く言ったものだ。“3年目”の今年こそは、“胸を張れる出来栄えの野菜”を収穫したいものだと。


茶の香り

私の幼い頃、我家には今よりずっと多くの“茶の木”が有った。そして毎年5月頃のことだろう。必ず同じイベントが繰り返されていた。即ち近隣から沢山のお婆ちゃんが集まっての“茶摘みの会”である。年に2回位有ったかも知れない。頭には手拭いを頬被りして「ペチャクチャ」お喋りしながら、せっせと大きな竹笊(ザル)に何杯もの茶摘みをしていた。そして、台所の脇に有った“専用の大きくて浅い茶釜”で、此処で摘んだお茶の葉を蒸し、湯気が濛々と上がるお茶を、土間に敷いた筵(ムシロ)の上に広げ、同じくお婆ちゃんが“四つん這い”になって、ゴシゴシと揉み上げていた。するとあの緑の葉が、針の様な形をした“お茶”に変身する。私も「茶摘みの手伝い位しなさい」と言われ、少し摘んだ経験はあるが、他の仕事はさせて貰えなかった。
私は、あのイベントの仕組みを、今になって懐かしく思い出す。と言うのも、多分近所のお宅にも同様にお茶の木は有ったのだろうが、我家に多く(多分5~10人)のお婆ちゃんが集まったのは、ちゃんとした理由が有ったのだと思う。“茶の木”か“茶釜”かである。両方かも知れない。そして出来上がったお茶は、お婆ちゃんが“其れなりの量を”持ち帰って居た筈だ。均等分配だったのか、我家が多く取っていたのか、各自が“持ち込んだお茶葉”の扱いはどうなっていたのか、今や確認する術も無い。ひょっとしたら、我家のお婆ちゃん(当時は隣の隠宅に伯父一家と住んでいた)が、所謂“胴元”だったのかもしれないが、事実は分からない。
その後、近くに製茶工場が出来たので、誰でもが生葉と製茶を交換出来るようになって、こんな光景は見られなくなった。そして今や、茶摘みの光景すら見る事はなくなり“お茶葉”は買う物になった。否、其れすらも無くなりつつあり“ペットボトルのお茶”を自販機で買うのが普通の光景になっている。
私は思う。あの“茶摘みイベント”は一体何時頃から始まったのだろうか?多分数百年間連綿と続いて来たのだろう。それが私の一代で、二転三転してしまった。そして今の子供の頭の中では、“お茶もコーラも同じだろう。今尚畑の周囲に残っている、10本程のお茶の木を見ながら、私は悩んでいる。残そうか、それともいっその事伐ってしまおうかと。


ミミズとムカデ

私の子供の時代、我家には非常に家蜘蛛(クモ)が多かった。この蜘蛛は電燈の光を求めて集まる小さな虫を主食としていて、今でも少しは居るが、当時は其の数が凄かった。家中に居たと言ったら良い。中には“白い卵の袋”を抱いた不気味な母蜘蛛もいた。私は何故かこれが大の苦手だった。母は「何もしないから平気よ」と言って、手で追い払っていたが、父はやはりこれが苦手だったらしい。然し其の父は、鶏小屋の卵を盗みに来た1mを越すような“青大将”の首根っこを平気で掴んでいた。蛇は当然其の体で父の腕にぐるぐる巻き付く。鶏は大騒ぎとなり巣箱を恐がるようになる。其処で偽卵(見かけは本物そっくりだが瀬戸物製)を巣箱に忍ばせる。蛇は誤って其れを飲む。本物の卵を飲んだ蛇は其れを割る為に“態と”狭い隙間を通り抜ける。然し瀬戸物の偽卵は割れないので、蛇は消化管が詰って死ぬ。と言う“シナリオ”なのだが、私は実際に“其の死体”を見た事はない。一方カエルを主食とする蛇も居る。子供の頃カエルの悲鳴を聞き、外に出てみるとカエルの脚に蛇が噛み付いている。カエルは必死もがくが、蛇の歯は内向きの為に決して外れない。其のうちに徐々にカエルは弱り、飲み込まれて行く。私はカエルの味方になり何度か引き離したりしたが、全く余計な事だった。
一方私は、畑に居るミミズやカエルは平気である。農作業中にミミズが出たりすると、鶏小屋まで掴んで行き、中に投げ込む。鶏は我先に奪い合う。然しムカデは苦手だ。足も多いが、毒を持っていて、過去2~3度刺されたことがある。蜂と同じ“蟻酸”の毒は特に“直り掛け”が痒くてたまらない。私は子供の頃から悪戯が好きで、巣を突いたりして蜂にも何度か指された。一番ひどかったのは、二階の天井裏に巣をかけた、スズメバチに刺された時である。頭を襲われた為、払った指と額を刺され、顔が左右いびつになる位腫れてしまった。余り蜂に刺されるとショックを起こすらしいので、今は注意しているが。
畑や田圃は小さな動物の楽園でもある。多種類の昆虫や爬虫類が共存している。これは無農薬農業の特徴でもある。堆肥にはカブトムシが大量の卵を産み付ける。其の卵は孵化し、幼虫は堆肥を食べて成長する。今年の冬“天地返し”(別ブログ参照)をして堆肥を畑に投入したが、其の中には大量のカブトムシの幼虫が居た。親指よりも太く湾曲した其の姿は異様ではあるが、これは手掴み出来る。然しムカデや蜘蛛を触れないのは、其の足の所為だろう。
私は関係ない事を思い出した。祖母が言っていたという言葉を!「徳永家の“男”は毛が薄い。その代わり“牛蒡”は髭だらけだ!」と。


鶏の世界

私は、他のブログでも述べたように、子供の頃から鶏を飼っていた。そしてその飼い方は、場所は変れども何れも平飼い方式である。即ち一定面積の地面を柵で囲い、複数の鶏を一緒に飼う方式である。この方式には長短所の双方が有る。短所としては①広い場所を必要とする。②鶏体の強弱の為餌が均等の行き渡らず、運動にもエネルギーが割かれる為、産卵率が低くなる。一方長所も又多い。①運動や土浴び(土を羽に掛けて羽虫を落とす=ストレスが減る)をするので、鶏体が健康に保たれ、産卵寿命が長い。②雄を入れることで有精卵が生産出来る。有精卵=受精卵=生きている卵なので、鮮度が持続する。③多様な餌(土中の昆虫等)を食べることで「美味しい卵」を生産出来る等々。私はこれ等の長所を評価し、一貫して平飼いを選択してきた。
然し鶏の平飼いは「独特のハーレム」が形成されることでもある。一般的に雌鶏20~30羽に1羽の雄を混ぜる。(注.複数の雄鶏を入れると、雄鶏同士の激しい戦いで優劣が付き、弱い雄鶏はハーレムの外に追い出される)一方雌鶏は始終忙しく、又食欲旺盛でもある。人の気配がちょっとでもあれば、一斉に集まって来て、どんな餌でも奪い合うように食べる。特に給餌時には、強い雌鶏が弱い雌鶏を嘴で突き、20羽居れば20段階の序列が出来てしまう。当然下位の序列の雌鶏は、他の多くの雌鶏から突かれるので、餌の摂取量が減って産卵率が落ちる。然し、強い雌鶏が食べ終えた後は、残りの餌を食べられるので、痩せ衰えたり、飢死する事はない。
我が鶏小屋の中には大きな木があり、鶏は其の習性として、どんな酷寒の夜も豪雨の夜も、安全な樹上で寝る。そして、その場所争いも“例”の序列で決まる。一番強い雌鶏が一番安全な場所、即ち雄鶏の真横なのである。これは差し詰め「正妻」と言って良かろう。
そして雌鶏は卵を産み、チャボ等は抱卵して子供を育てる。一方雄鶏は超然としている。いや「ボーッ」と立っていると云った方が正しい。仕事は「外敵への警戒」と早朝の「コケコッコー」そして「交尾」位しかない。鶏の交尾は早い。あっと言う間に終わる。私は雄鶏が交尾の選択権、主導権を執っていると思っていた。然しこれが間違いだと云う事を先日発見した。雌鶏が要求するのである。雄鶏の脇に擦り寄って座り込む。その時は雄鶏にその気が無く、交尾しなかったが、この光景を見たのは初めてだった。
今、人間社会も大きく変わりつつある。先日長女が福岡から友人を伴い帰省したが、その一人は「シングルマザー」だった。今後も一人で子育てをする積りらしい。北欧ではシングルマザーが半分を超えたとか。私はその長女の友人に「鶏の世界」を連想して、思わずこう言った。「人間も段々と動物に近くなって来たね!」と。
追伸:先日私は老鶏30余羽を処分して、新に若鶏30羽を買い入れた。理由は著しい産卵率の低下と、卵の自己消費(鶏が自分達が産んだ卵を突いて食べること)の為である。然し知人から「雄鶏は老鶏が良い」と聞いていたので、元から居たのを1羽若鶏の集団に入れた。これを見た私の同級の女性が、先日思わず呟いた。「まあ!若い娘30羽に囲まれて、あの雄鶏はさぞや幸せでしょう」と。処がどうだろう。最近その雄鶏の姿は哀れなる哉!上半身(首から胸にかけて)羽が殆ど抜け、赤い鳥肌を寒空に晒して震えている。その原因は、産卵を始めた若い30羽の雌が、一斉に交尾を要求したからである。そのシグナルは恰も新妻が、出社する夫のネクタイの曲がりを直す仕草とそっくりである。然しその度に雄鶏の毛は1~2本ずつ抜き取られる。私は一人思った。カミサンは一人でも大変なのにと。以上


ハローワーク

私がハローワークに関係したのは、2003年の秋から2004年中盤にかけてのことだった。退職後、ハローワークに出頭して驚いた。こんなに多くの失業者が居るのかと思う程、多くの人々が詰め掛けていた。そして老若男女を一室に集めて説明が始まった。担当の若い女性の話を聞きながら、私は少しずつ違和感を覚えるようになった。この女性の頭の中にあるのは「失業者=失業保険金を騙し取ろうと考えている人種」だと信じている様に感じたのである。何故ならば、説明の其処彼処に過去の違法取得例を挙げて「例えアルバイトであっても“密告等”で必ずばれるし、その結果は“失業保険の即刻打ち切り”と言う制裁が待っている」と言う“脅しの”内容だったからである。全体説明の後、各人に失業保険カードが交付され、求職活動の要領の説明がある。
その後は毎月1回、ハローワークに出向いて“求職活動の結果”を報告して承認を得れば、保険金が下りる。求職活動とは即ち“求人票”を、ファイル又は画面で閲覧することである。私は前者の方法を採った。職種別に、ファイルが何冊も置いてある。書式が決まっているので、検索は簡単である。私は或る項目に着目した。其れは“年齢”である。此処だけ見れば他は見なくても良い。即ち90~95%が35歳又は40歳以下限定なのだから、残りの5~10%のみ見れば良いのだ。そして、その“残り”の大半が“交通指導員”か“交通整理員”と云う名称の仕事だった。私は横で閲覧中の中高年の男性に声を掛けた。「これはどんな仕事ですか?」と。「それは道路工事で片側交互通行の時、旗振りする仕事ですよ!車が突っ込んで来て、良く人が死にますよ!」と。私は「成程あの仕事には中年男性も居るな」と納得した。然し、命は惜しかったので、これに応募することは止めた。
年が開け、私は7年振り4回目の“訪タイツアー”への参加を決めた。7年ものブランクがあったのは、前回の帰国後、某上司から「お前は、会社が大変な時期に、ボランテイア等に現を抜かして、一体何を考えているのだ!」と口汚く罵られ、ショックを受けて、気が萎えてしまっていたからである。然し、今回も別の問題が生じた。黙って行けば良かったのに、担当者に相談したのがいけなかった。例えどんな理由であっても、国内に留まって求職活動をしなければ、失業給付の支給は出来ないと言う。私は迷ったが行く事に決めた。お陰でその月の給付はストップで、翌月繰越になった。私は都合退職後約10ヶ月間、一切のアルバイトも儘ならず“正式に”農業を始めたのは、退職後1年近く経ってからだった。
私はとても残念に思う。今中高年の多くが退職後“第二の人生”に踏み出そうと、在職中から色々模索している筈である。然し今の日本の制度は“性悪説”を基に作られていて、前向きな人々さえも“命に関わる危険な仕事”位しかない求職活動をして、無駄な数ヶ月を過ごすしか、失業保険を貰う手立ては無いのだと!


痛快について

痛飲、大いに飲むこと
痛快、胸のすくような気持ち
痛感、心に強く感じること
痛覚、痛みを感じる感覚
痛恨、大変に残念なこと
痛惜、非常に残念に思うこと
痛切、強く身に染みること
痛打、相手に激しい打撃を与えること
痛風、激しく痛む病気の一種
痛烈、刺激が非常に激しい様
疼痛、ずきずきうずくような痛み
鈍痛、鈍く重苦しい痛み
激痛、激しい痛み、ひどい痛み
心痛、ひどく心配すること、深く思い悩むこと
苦痛、肉体の悩みや、精神的悩みで苦しむこと

快活、性格が明るく、元気が良い様
快感、こころ良い感じ
快気、病気が良くなること。快方も同じ
快挙、胸のすくような素晴らしい行為
怪傑、不思議な力を持った優れた人物
快事、痛快な出来事
快勝・快走・快速・快打・快投・怪力
快晴、空が気持ちよく晴れ渡っていること
快楽、気持ち良く楽しいこと、官能的な満足感
全快、病気がすっかり治ること
爽快、さわやかで気持ちの良い様
愉快、楽しく気分を良くすること
痛快、胸のすくような気持ち

痛と快についての熟語を辞書で調べてみたら、ざっと挙げただけで以上のような熟語が出て来た。それにしても、「快」に関する熟語より「痛」に関する熟語の方が遥かに多い。これは「快」は文字通り「プラスイメージ」一辺倒なのに「痛」には「痛快」に代表されるような「プラスイメージ」と「苦痛」に代表されるような「マイナスイメージ」の両用の熟語が有るからかも知れない。
若し私の60年の人生で、どちらが多かったか?と問われたら、私は躊躇無く「痛」の方が圧倒的に多かったと答えるだろう。否、他の人にとっても多分同じではなかろうか?これは古今東西、誰にでも当てはまる事の様にも思える。何故ならば「快」を追い求める人が居る限り、それを適え、支える人は殆どの場合「痛」を味あわされるからだ。これは、主従関係についても同様に当てはまる。
私は現代をこう見る。即ち、万人がひたすら「快」のみを追い求め、其れを支える「痛」を避けようとしている。その結果何が起きているか。避ける「痛」は水の如く高い所から低い所に流れる。低い所とはアジアに代表される外国であり、地球に代表される自然である。逆を言えば、諸外国と仲良くなり、自然破壊をストップするには「痛」を追い求めるしかない。そして「痛」を追い求める中にこそ「痛感」することも「痛切」に感じる事も有る筈だ。私は今日も「痛」を求めて、汗を流し、蚊に刺されつつ、農作業に勤しんでいる。


制度欠陥

我が「ファームステーション庄屋」が、wwoofホストを始めて早1年半となり、現在までに国内外から30人近くのwwooferが来訪され、農業体験をして頂いた。それと共に、幾つかの問題も発生した。その一つが外国人に対する日本の医療制度の問題である。先日来て呉れたデンマーク人男性と今回のオランダ人女性がその当事者である。
デンマーク人男性の場合はこうだった。彼は此処に来る前に、某ホストの農場で「砂糖キビ担ぎ」をし過ぎて「肩から腰にかけて異常がある」と私に訴えた。私は先ず我が庄屋の「マッサージ」を勧め、彼氏もそれをして貰った。しかし完治しなかったので、今度は「当マッサージ師の先生格」に当る人を紹介して貰い、其処に連れて行った。しかしやはり完治しなかった。今度は彼は金欠病を併発したので銀行に向かい、ATMからクレジットで現金を引き出そうとしたが、何時まで粘っても埒が明かない。色んな行員が何度も質問に来て、最後には本国の会社に電話せよと言う。何で其処までしないとお金を引き出せないのか理解出来ない。私は遂に痺れを切らして銀行を後にし、熊本市の国際交流会館に向った。其処の担当者は「郵便局のATMからなら下ろせますよ!」という。近くのバスステーションのATMでやってみたら呆気なく下ろせた。是で金欠病は一件落着、今度は知り合いの整骨医に向かい治療して貰ったら、何とか症状が改善した。然し彼氏は都合3箇所で治療費全額を、現金で支払うしかなかった。又、私はそれに付き合って貴重な時間とガソリンを消費した。
オランダ人女性の場合はこうだった。来た時からやや風邪気味だったが、翌朝声が出ず、トイレに10回も行ったが小水が出ないと訴える。熱も38℃程あった。私は彼女を伴い、近隣の泌尿器科医に向った。先ず看護婦の聞き取りから診察室まで、女性に付き添って私も行き、説明せねばならない。処が此処でも診察後、全額現金払いで領収書は日本式、彼女は帰国後オランダで保険会社に申請しても、会社は其れを判読出来ず「レストランの領収書と疑われる」と言う。それで英語の領収書を欲しいと言うのだが、それに病院は対応出来ない。次善の策