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農作業その五

隣人から苦情らしき言葉を貰った。何でも屋敷に、水が浸み出すらしい。それは、我が屋敷からの浸水とも、取れる様にも聞こえる。何を言おう、隣人宅は我家より1~2m程地盤が低い。水は高きより低きに流れるので、何処にでも発生する、極々ありふれた、自然現象なのであって、私には一片の責任をも、存在しないのである。


病気その五

それにしてもこの世は残酷である。何故なれば、退院直後の病院通いの身なのに、寄りによって、引っ越しの依頼が舞い込んで来た。アパートの畳を剥がして、フローリングに改装の依頼である。痛みを抱えつつ、歯を食いしばり、畳を軽トラックに積み込んで、シシ亭に運搬!今時の人は、畳よりもフローリングの床を好むらしい。処がそれだけでは終わらず、建物周囲の草刈作業をも、私がせざるを得なくなった。こんな状態では、回復途上の身なるも、オチオチ休んで等は居られない。予想以上に、この世の現実は厳しいですね!


夏その十

不在地主という言葉がある。要するに田畑や山林を所有しながら、都市部に住まう人々を指す。我家は幸いにもその状態は免れたが、屋敷は荒れ放題となった。何故なれば、就職先は殆どが都市部なので、老父母は、田舎に残るケースが殆どだからである。我家も、私が就職した後、永らく母が一人暮らしで、田舎の家を細々と守っていた。年に2~3度は帰省したが、一人っ子だったので、50代前半に早期退職して、実家に戻った。ラッキーだったのは、紆余曲折を経ながらも、熊本県に、再就職先を得たからである。


夏その四

それにしても我が母の怒りは収まらなかった。そして「最後通牒」を突きつけた。それは叔父の家が我家の敷地に建っていたので、自分の敷地に移設せよとのことだった。然し我家を通過することも許さなかった。従って幾つかのブロックに解体して、隣のK氏宅と河岸の狭い所を、引き摺って南側の畑に移動したのである。その小さな家も、数年後には叔父が栄転して熊本市に転居したので、足が悪い老父が暫く住んでいた。それから更に数十年後、そのオンボロ古民家も役目を終え、最後は私が業者に依頼して解体廃棄した。それにしても、サラリーマン家庭では、田舎に住むのは、憧れは別としても難しく、少子高齢化の現在、都市近郊でもなければ、古くて大きな古民家は、家主の重荷にだけにしか、ならない運命の様である。


P&Pその十一

我が石貫の北にある、馬場地区を例を取れば、嘗ては広福寺の広大な境内を中心として、多くの人々が、行き交い、様々な行事が営まれていた。然し乍ら近年は、嘗ての賑わいも薄れて、木々のざわめきだけが聞こえる、侘しい状態となってしまった。これを人口減少社会だと云えば、それまでなるも、放置すれば、元に戻せない状態になる恐れもある。私はタブーかも知れないが、日本が頑なに守って来た、海外移民の受け入れも視野に入れて、取り組まねばならない事態が、目前に迫りつつ有るように、思われてならない。


P&Pその十

要するに家屋等という固定資産は、人が生きる上で必要不可欠の物であり、土地を占有する権利を有するけれども、一旦不要となれば、速やかに解体撤去をするに限る。このことが近年為されず、大問題を起こしている。所謂空き家対策である。我家の近隣にも多数の空き家が点在し、野良犬や野良猫の、格好の住処となっている。これを放置したならば、衛生面の問題も大いにあり、官民共同で、早急に手を打たねばならない時期が、目前に迫っているのである。


ゴミその一

高齢化の進展に伴い、ゴミ出しが出来ない家庭が、増えているらしい。確かにマンション住まいとか、足が悪い人などは、難しいかも知れない。私は自宅から40~50メートル位の場所に、市指定のゴミ箱を設置して、玉名市指定のゴミ袋に入れたゴミを、捨てる様にしている。


災害その四

災害の形態は千差万別である。農地も家屋同様に災害が多い。私が借地して耕作している水田も、毎年の様に災害に見舞われる。その原因の一つが、棚田である。日本の国土は傾斜地が多く、其処で米作をすべく、先祖が営々と水田を開いて来た。従って一定以上の大雨が降ると、水路から水が溢れて、農地を破壊する。対策は有るが、近年は「安かろう悪かろう」の方針らしく、付け焼刃的な工事しか為されないので、彼方此方が崩れた儘に放置されている。


災害その三

災害に強い住宅が理想なのだが、相反する条件も、克服しなければならない。例えば南向きの日当たりを重視した家には、南風の台風が、真面に吹き付けて、我家の二階の屋根瓦が、バラバラと飛ばされたこともあった。其処で屋敷に防風林を作れば、今度は日当たりが悪くなる。結局全ての条件が揃うことは稀であり、何かを犠牲にせねばならないのである。


父その十三

そもそも、住宅と云うものは、北半球では日照の加減で、敷地の北側に立地するのが一般的である。処が何とした事か、移築された家は、畑の中央寄りで、道路からは10m以上離れている。これではアクセスが悪いばかりか、家の北側は日当たりが悪く、畑地としては不適となってしまう。どうしてそんな中途半端な、立地をしたかと、推測すれば、北側の柏村家の、日照を阻害するのを危惧してのことであった。


地震

熊本地震が発生してから数週間が経過した。日本は地震国故、誰しも地震には慣れっこになっていたが、今回の地震は、やはり特別で、今この瞬間にも余震が来て、揺れている。その挙動は独特である。先ず「ドン」と云うような縦揺れが来て、数秒後に「ユサユサ」と横揺れが来る。通常の地震は、建物内に居た時には、感じられるが屋外では余り感じられない。処が今回の地震は特別なのか、屋外にても感じられる。それは、人の感度が敏感になったからかも知れない。
地震発生以降、国内外の多くの方々から、沢山のお見舞いの電話やメールを頂いた。毎日のTVニュースは熊本地震ばかりなので、きっと心配して頂いたのだろう。然し「地震・雷・火事・親父」の言葉を聞くまでもなく、天災は忘れた頃にやって来るものだと言う事を、私自身も今回改めて経験した。何故ならば、前回の地震の記憶は、阪神大震災だったからである。あの日の朝、車で西合志町の三菱電機熊本製作所に向かって通勤していた途中、まさに石貫小前の県道で、車のハンドルを取られ、何毎かとビックリして停車した(私は東日本大震災は、現場に行っておらず、ニュース等でしか知らない)。あの時から数十年、まさか此処熊本が地震に襲われようとは、私は夢にも思わなかった。然し日本には「誇るべきこと」がある。もし諸外国で、今回のような地震が起きれば、その機に乗じた、略奪や暴行が当然の如く発生して、云わば無政府状態となる。処が日本という国は、それが全くと言って良い程起きないばかりか、普段は疎遠の間柄であっても、互いに助け合い、皆が一丸となって汗を掻く。これこそ、我が国が世界に誇るべきことであり、復興の最大の原動力になる。そのことを証明したのが、大東亜戦争後の、日本の高度成長である。私は信じたい。熊本から日本・世界へ「我らは何があろうとも、この地を復興させると!」終わり。


和歌山

私が1969年、入社後最初に勤務した事業所は、静岡市小鹿にある三菱電機静岡だった。多分大学で水力学を専攻していたので、エアコンと冷蔵庫が主力の、同工場に配属されたのだろう。当時静岡工場は同社でも一二を争う優良工場で、毎年のように黒字を計上していた。従って経営者も普段から顧客第一、社員第二を心掛け、利益の一部を社員に還元する為に、ボーリング大会や社員旅行を定期的に実施していた。或る年などは大幅黒字を計上したので、全社員をバスを連ねて“箱根芦ノ湖温泉”まで運び、旅館で大宴会が催された。又高校野球で静岡高校が勝ち進んだ時などは、業務時間中にも拘らず、TVを見ることが許された。然し、そんなハッピーな境遇は長く続かなかった。
チラー(水冷却装置)やヒートポンプ給湯器を主力としていた同社和歌山工場が、静岡と対照的に万年赤字で、問題場所に指定され、早急なる黒字転換を迫られたのである。本社事業部は、和歌山工場へ度々査察に赴き、様々な利益改善策を提起していた。然し、本社への弁明書作りばかりさせられて、現場の士気は一向に上がらない。挙句の果てに出された結論が、業務用エアコン生産の静岡から和歌山への移管だった。これには関係社員の転任が必須で、私もその一員に加えられた。1981年、私34歳の最も脂が乗り切った時期だった。私は転任社員の大半を指揮する立場にあったので、住居探しから、子供達の保育園探し、ハタマタ自家用畑開墾と、大忙しだった。一方仕事面では、和歌山の所長に特別に目を掛けて頂き、栄えある米国出張の一員にも加えられた。
それが暗転したのは、我が娘が社宅裏の岩場で転落して怪我をした頃からである(今も傷がある)。会社では“共産党系労組対策の秘密会議”が幾度も開かれた。私の担当機種のクレームにも悩まされた。その後、私は原因不明の病に倒れ、数日間寝たきりの毎日を過ごすことになった。そんな不幸は連鎖する。当時専業主婦だった家内は、車の免許も持たなかったので、子供を預けて自動車学校に通い、急遽取得した。そしてダメ押しの決定打が、私のバックボーンとも言えた所長の突然死であった。私は精神的に追い込まれ、遂には辞表を提出した。それは数ヶ月間保留され、多くの方に説得されたが、最後まで翻意しなかった。そして超法規的措置で、1984年同社熊本工場に転任したのであった。
和歌山は、所謂太平洋ベルト地帯から外れた場所に在り、東京への時間距離は、熊本からよりも遠い。だからかも知れないが、時折信じられないような奇怪な事件が発生する。私が和歌山から熊本に転任した後にも、例の“毒物カレー事件”が発生して、多くの方が亡くなった。熊本でも、嘗てオウム真理教事件が発生して、多くの人々が犠牲になったが、裁判は未だに終了していない。そして過日の少年殺傷事件である。動機がはっきりしない事件ほど予防や対策が難しい。
私は思う。都会は隣人も見ず知らずの関係だが、田舎では殆どの人が顔見知りである。事件を防ぐ対策の一つは、相手を知ることで、これは屋外に出ることが肝要である。私は毎夕刻、犬の散歩をするが、多くの人に出会う。中には知らない人も含まれる。そんな時、ちょっと会釈するだけでも人の心は和む!そんなことを考えて和水を「なごみ」と呼ばせたのだろう。和水町長は、ハードウエア(建物)だけを良くした玉名市長とは対照的に、移入者の獲得にとても熱心なのである。終わり


役とは、責任ある“公の仕事”を組織の中で行う人、及びその職務内容を言う。昭和28年、私が石貫小学校に入学して、最初に就いた役職が級長だった。級長の仕事は、授業の開始・終了の挨拶(起立・礼・座れ)から、諸々の当番の割当て、自習の運営等だったように記憶している。私の担任は1年次が宮本女先生、2~4年次が山本女先生、5~6年次が澤田男先生だった。中でも澤田先生はとてもユニークで、酒豪というか殆ど酒乱に近かったので、自転車で転び怪我が絶えず、頻繁に遅刻・欠勤された。特大のマスクがトレードマークだったのは、顔面の怪我を隠す為である。そんな時には教頭先生等、手空きの先生が来て、授業すれば良いのに、何故か私に自習指導を命ぜられた。私は仕方なく、国語の教科書の末尾に記されていた漢字の読み取りや、算数の計算問題などをさせて、時間つぶしをしていた。今考えれば体の良い“代用教員”である。
あの時以来、私は諸々の役職を引き受けた挙句、現在の“無職”に至っている。当時を振り返れば、数々の出来事があり、忘れ得ぬ想い出となり、今では引き受けて良かったと、心底から思えるようになった。と言うのも、私が受諾した役職の全ては無報酬で、要するに“ボランティア”だったからである。
処が“区長”と言う役職だけは、何故か私に就任要請が来なかった。それには“大きな理由”がある。区長は所謂“見做し公務員”であり、傘下の戸数に応じた“手当て”が支給されるからである。尤も八嘉地区のような小規模区では、区長のなり手がなく、人選に苦労されているらしい。仕方ないことではあるが“手当て目当ての区長”は、如何なものかと思う。
一方10年近く前、TV放送のデジタル化が始まった当時、石貫小学校で幾度も説明会が開催された。これは電波の受信が難しい山岳地区に、有線で配信する仕組みで、電柱の設置や架線設置等の設備投資を伴う。私はこの時に役員を引き受けても良かったが、複雑な金銭管理を伴う上に、自身のアパートも在り、受益者でもあったので、敢えて辞退した。代わりに代表を引き受けたのが、当時区長会長をしていたOさんだった。私はOさんが適役とは思わなかったが、流石である。事務方でも面倒と思える収支管理が必要なのに、大変だった立ち上げの数年間、煩雑な会計業務を曲がりなりにも無事に務め上げ、別の区長に引き継がれたからである。
そんなOさんと我家には、不思議な縁がある。と言うのも、母はOさんの父君を高く評価して、頻繁に仕事を依頼していた。主に山仕事(薪炭の採取)だったが、米運搬やら、自宅周りの竹伐りとか、田畑の管理まで頼み、全幅の信頼をしていた。Oさんの良いところは、けれんみが全くないことだ。そんなOさんの息子(と言っても私より高齢)と私は、目下大変親しい関係にある。と言うのも、天神平の水田の借地は、殆どOさんのお世話で可能になったからだ。その上Oさん宅は、土間や竈が在る、今時若者垂涎の古民家!石貫広しと言えども、他所では滅多にお目にかかれない。
そんな過日、私お気に入りのH君が、古民家を探しているとのことで、下見に行った。この家は、M氏の持ち家で、私がパーマカルチャーをしていた今世紀初頭、田舎暮らしを希望する人々の多くに、借家を勧めた家である。一階が4室、二階が2室の大きな古民家で、当時既に相当程度傷んでいた。然し私が、持ち主のM氏に何度決断を促しても、曖昧な返事しか返って来なかった。結果手遅れ状態になった今になって、M氏は(当時の対応を)後悔されているようで「お好きにどうぞ」と言う感じだった。恐らくやる気があれば、格安家賃で借りれそうだが、補修費がどの位掛かるのか私は想像すら出来ない。何故あの時に貸して呉れなかったのだろうか?
そして私は無意識に、坂本冬美の演歌「火の国の女」を口ずさんでいた。 「寒か!寒か!心も体も寒かー!惚れた古家(フルエ)に住みたけりゃー濡れる覚悟で住まんとねー住まんとねー!」終わり


広島

広島市近郊の住宅地の土砂崩れで、多数の死者不明が出て、今尚自衛隊・消防等、数千人規模に依る徹夜の捜索が続いている。広島県は、熊本県や福岡県等と比べて、平野部の面積が大変狭い。従って、被害が甚大な安佐南区のような、住宅地には不適な山地沿いの急傾斜地域まで、宅地開発が進められた為に、災害リスクも一層高くなった。私は若かりし頃、数回に亘って、勤務地の静岡や和歌山と、熊本を車で往復した経験がある。当時は名神高速と東名高速は開通していたが、中国高速は建設中だったので、山陽道の国道二号線を走っていたが、殆どが海岸沿いのルートで、山が海に迫り、狭い海岸線沿いに、工場や人家がびっしりと建ち並んでいた。
私は又、今世紀初めの一年間、謂わば口減らしの為に、中小企業に出向させられた。大企業育ちで、世間知らずの私を、厭とも云わず受け入れて頂いた専務には、今も足を向けて寝れない位お世話になった。然し大企業から中小企業に出向するのは、その逆よりも遥かに難しい。何故なら、大企業は仕事の分担がはっきりしていて、マニュアル等も揃っているが、中小企業は謂わば口伝え、見様見真似で仕事を覚えるしかないからだ。そんな私は、自分の非力さ・無力さを痛感し、専務に「営業させて下さい」と申し入れた。技術畑の人間としては大きな賭けだった。その日から私の電話攻勢が始まった。企業案内を見て、片っ端から訪問の意図を伝えた。勿論断られる企業が殆どだが、十社に一社位は「どうぞお出で下さい」と言ってくれる会社も有った。
その中の一社に、広島市の企業があった。私は或る日、専務と営業部長と、社用車に同乗して、遠路遥々広島市まで営業に出掛けたのであった。私はあの日の仕事は殆ど忘れたが、唯一鮮明に記憶に残っているのが、その地形である。広島市は平地が殆どなく、九十九折れの急な坂道が延々と続いていた。そして道の両側には、びっしりと人家が建ち並んでいて、平地の多い熊本県と比べると、対照的な風景だった。そんな広島県は諸指標から“日本の縮図”とも云える県らしい。と言うことは、他県でも今回の様な大規模災害が起きても、決して不思議ではないと言うことである。
そして又、私が広島で思い出すのが、T君である。昭和50年代、私の下で最も素直に且つ力強く働いてくれたのが、広島出身のT君だった。彼は“断る”と云う言葉を知らないかの如く、一度たりとも私の指示に厭とは言わなかった。そればかりか、爆心地の出身だからか、健康には人一倍気を遣い、暇さえあれば体を動かしていた。私は企業人として世間一般で言う成功者ではないが、大変に幸せだったのは、富山のO君、広島のT君と云う “稀代まれなる好男子” を腹心の部下に持ったことである。正に水戸黄門で云う、助さん格さんだった。
そんなO君の奥方が、意外にも静岡から和歌山への転勤を渋ったので、私がO君宅まで態々出向き、粘り強く説得した処、驚いたことにO君は離婚してしまったのである。私は早稲田出身の部下からOvercomittment(越権行為)だと辛辣に批判されて、流石にしょぼくれていた。処がそれから数ヶ月後、何と何とO君を密かに慕う静岡の女性(悲恋の詩を机上に忍ばせていた美女)が、和歌山まで追っかけて来た時には、腰を抜かす位驚いた。そんな情熱的でドラマチックな境遇の女性を、業務委託社員として雇用した会社も又、粋な計らいをしたもので、流石に“仁義立て” をわきまえている。その後2人は目出度く結婚し、数年後、他の部下共々熊本の我家まで遊びに来て呉れたが、唯一の心残りは、既に病床に臥していた母に、会わせなかったことである(母は会いたかったと言っていた)。
そんな今年の夏、今頃はジリジリと焼け付く日差しが毎日の筈なのに、お天道様にはとんと御無沙汰の毎日である。それもあり、今年の稲の育ちも微妙となってきた。JAは、いもち病の消毒をするように広報している。昨日、電気柵を張り巡らしている田圃の畦の草刈をした時点では、幸いにも病気や、猪の被害は出ていないが、油断は禁物である。と言うのも、過去一度も被害のなかった自宅裏の空地にまで、猪がミミズを漁った足跡が見られるからである。先日は竹薮の中を、ウリ坊が一目散に駈け去った。
それにしても人は様々で、暇さえあればトラクターを持ち出して、畑を耕している人がいる。草が余程厭なのだろう。何を植えるでもなく、狭い畑を行ったり来たり、草一本無い状態にしなければ、気が済まないらしい。私はその逆で、出来れば不耕起で農業を遣りたい。雑草は何も悪さはしないし、唯一、日照不足に気を付ければ良いからである。そんな今朝、久方振りの晴天となったので、喜び勇んで畑に出かけた。そうしたら、トマトやナス、キュウリ、ごぼう、ニンジン等の夏野菜が、過湿の為に腐り始め、大半は廃棄処分にせねばならない状態になっている。本当に今年の夏はどうなったのだろう?私が農業を再開して十余年になるが、こんな年は珍しい。然し稲だけは季節を忘れず、雨の中でもちゃんと花が咲いている。私はそれを見て稲の逞しさに感謝し、広島の復興の為にも、此の侭晴天が続く事を祈っている。終わり


古民家

縁と言うものは不思議なものである。3年前の東日本大震災以降、数十名にも及ぶ人々が此処玉名にも避難して来られ、その多くが古民家住まいを希望された。然し田舎に古民家は多けれど、避難者が即住める状態の家は殆ど無く、大半の人々は石貫を空しく通り過ぎて、何処かに行かれてしまった。そもそも田舎は都会とは異なり、住民の移動・転居が極めて少ない上に、仮に古民家があったとしても、見ず知らずの人に、有償無償を問わず、家屋敷を貸すという習慣が無い。従って殆どの空き家には、仏壇や箪笥等の家財道具が、その侭の状態で堆く放置されている。そんな古民家の中で、唯一の例外だったT氏宅だけは綺麗に管理されていて、猫が一匹だけ棲んで居たので、私が管理者のY氏に借家交渉を試みたが、遂に最後まで首を縦に振られなかった。恐らく生活に困っていないので、断られたのだろう。他方田舎は昔から近親結婚が多く、近隣との地縁血縁の人間関係が、重層的に繋がっているので、迂闊な事は言えない。私が子供の頃、母は私にこう言った。「人前では決して他人の悪口を言ってはならない!」「回り回って誰の耳に入るか分からない!」と。処が私は口が軽い人間なので、ツイツイ余計なことを言ってしまい、最近も或る人からお叱りを受けたばかりである。そんな厳しい状況の中にあっても、3家族が此処石貫の古民家を気に入り、住まわれることになった。
その1:私の叔母(父の妹)の嫁ぎ先。叔父は進取の気性があり、戦中戦後にかけては幅広く養蚕業を営み、一時は成功したが、戦後ナイロンの普及と共に養蚕業は壊滅し、晩年は叔父の弟が一人で住んでいた。その弟の亡き後、私の働きかけで、この家は一時玉名市まちづくり活動の拠点となり、公的資金を投入して集会所兼EM菌製造所として整備された。然し数年後、諸活動の終焉に伴って再び空き家となり、公民館にしたらとの話も出たが、結局まとまらず、現在はA氏ご一家が住まれている。
その2:私が熊本大学に入学した昭和40年の夏、何処から知れたのか、保険勧誘をされていたK氏の奥方から母を通じて、私に家庭教師の依頼が舞い込んだ。当時は自転車・国鉄・路面電車を乗り継いで、自宅から大学まで通学していたので、熊本市内で間借りする迄の半年間、週一回の家庭教師は格好の小遣い稼ぎになった。その後この家は一時T氏一家が住まれていたが、数年前に再び空き家になった。その後、私が偶然出会ったミュージシャンのS氏に薦めたところ即座に入居を決められ、今現在も住まれている。
その3:私が公民館支館長をしていた十年程前、K氏は支館対抗マラソン大会の常連選手だった。然しその数年後、氏は病に倒れて急逝された。そして今年、氏の未亡人が息子が建てた家に転居されたので、空き家となった。私は最初、懇意にしているM君に入居を勧めたが、彼氏は意外に躊躇し、最後まで首を縦に振らなかった。後日転居先での借地交渉が難航していると聞き、人柄は申し分ないが、自分のことで精一杯故に“周りが見えない人”だと思った。例えば私が、カラスに襲われた鶏舎の金網を必死で修復していても、目も呉れずに通り過ぎる。他方では私が今も使っている中古田植機を、たったの“千円”で譲って欲しいと言う。
処が丁度その頃、子供三人連れのI氏ご一家がTanboカフェに来られたので案内したら、何のてらいもなく即座に入居を決められた。田舎に移住を希望される人々の願いは、1に古民家、2に田畑、3に職場である。この内、職場はご自身で探されるとしても、古民家と田畑は矢張り私が探さねばならない。
そんな昨今、マレーシア機が突然行方不明となり、何と何と我が娘一家が住むパース沖のインド洋上に墜落したらしい。私はこのニュースを知った後、毎晩の様に捜索状況に関する情報を注視しているが、難航は必至のようである。数ある情報を整理してみると、機長が何らかの政治的意図の下に、乗客乗員を道連れに、集団自殺を図ったとしか思えない。それにしても副操縦士もグルだったとは考え難く、夜間飛行とは言えども、乗客の誰一人として異変に気付かず、反対方向に10時間近くも飛行した挙句の果てに、海上に墜落したとは、全くの驚きとしか言いようがない。
丁度一年前、私は家内共々、娘一家が住むパースに旅行して、西海岸をドライブしたり、静かな浜辺で魚釣りをしたり、フリーマントルの港から、遥か西のインド洋に沈む夕日を眺めたりしたが、一年後にこんな大事件が起きるなんて、想像も出来なかった。終わり


暖房

今年は例年にも勝る寒冬で、私は毎日着膨れする程の重ね着で生活している。そんな昨今、見直されているのが薪ストーブである。私の知人お二方もそれを備え、山から大量の木を伐り出し、乾燥・薪割りをして、暖かい冬を過ごされている。そんなライフスタイルに私も憧れ、家内共々大牟田のイオンモールまで、薪ストーブを下見に行った。広大な店舗の一角に、数台の薪ストーブが展示されている。私は自宅の間取りを思い浮かべつつ、これならあそこ、あれならあそこが良いと、勝手に想像して見ていた。そして係員に相談すると、意外にも数多くの問題点が浮かび上がった。先ず煙突である。煙を効率的に排出させ、燃焼効率を上げるには、出来るだけ横引きを避け、真っ直ぐで高い煙突にせねばならない。仮に横引きした場合は、定期的な煙突掃除が不可欠で、着脱機構を備える必要がある。更にストーブの設置場所は、周囲の壁から一定距離を置き、不燃材料で囲って、間違っても建物に火が移らないような構造が必須とのこと。そう考えると我家の設置場所は問題だらけ!床は火に弱い樹脂含浸の合板、窓はアルミサッシに合成繊維のカーテン、天井はプラスチックのスレート、壁に至っては、薄いベニヤ板にクロス貼りである。こんな燃え易い建材に四方を囲まれた狭い場所に、薪ストーブを置こうものなら、火事にならないのが不思議な程である。
そもそも薪ストーブと云うものは、だだっ広い空間を有する古民家にそぐう暖房方式である。何故なら昔の台所は土間で、且つ炊事場だったので、薪を扱うにも、灰を斯き出すにも、煙を排出するにも全く問題なかった。勿論、ライフスタイルが現在とは全く異なる半世紀前は、薪炭が主な燃料であり、毎年一年分の樹木を山から伐採し、乾燥・保管してあっての生活であった。それに引き換え、密閉構造で床張りの現代建築に、薪ストーブは全くそぐわない。そんなこんなで憧れのストーブライフは、夏の夢ならぬ、私の儚い“冬の夢”と相なった。
私は思う。今日では殆どの家庭が、室内暖房や給湯を薪炭や石炭に頼らず、石油やガス・電気に頼る時代になった。これは扱いの容易さと核家族化が背景にあると思う。何故なれば、薪炭等で風呂を沸かすには、家族の誰かが火の調節をしないと、湯船に浸かったままでは湯加減を調整出来ないからである。嘗て我家で最後に風呂に入るのは、決まって“お婆”であった。当然のこととして、お湯がぬるければ、お婆はどんな厳寒の時期でも腰巻ひとつで屋外に出て、麦藁を燃さねば成らない。それがどんなに辛いことか、今の私達の生活からは想像も出来ないのである。終わり


幸せの国

去る4月上旬から半月間、西豪州パースに住む長女一家からの熱心な誘いを受けて、家内共々シンガポールを5日間、パース近郊を10日間旅行した。私は3度目、家内は4度目の豪州行きだった。然し私はこれまでの人生で、今回の旅行程“行くべきか行かざるべきか”について呻吟したこともなかった。それは一に農作業への影響、二に動物(鶏・犬・猫)の世話が気掛かりだったからだ。然し、あめのゆみ(Tanbo-cafe関係者)の皆さん、及び家族(次女一家)の協力を得て、今振り返れば、思い切って行って良かったと思っている。
長女は現在、西豪州の国際石油開発帝石KK(INPEX)で、得意な語学力を生かし、渉外関係の仕事をしている。一方その夫は最近公務員を辞め、食肉販売事業を立ち上げたばかりの忙しい時でもあった。然し、私の躊躇の本当の理由は、最近益々健忘症がひどくなり、迷子になるなど周囲に迷惑を掛けるのではないかという不安心理であった。事実、幾度か迷惑をかけたが、大事には至らなかった。家族も紛失などを心配し、私には全く金を持たせなかった。従って私自身は、旅行中一円の買い物もしていない。その代わり、迷子にでもなろうものなら、忽ち路頭に迷いかねず、私は置いてけぼりを食わないように、四六時中注意して歩かねばならなかった。一方で、自分でも意外に感じたのは、英語がサラッと口から出たことである。私が若い頃から大変苦手にしていた英会話が、今回程素直に出来たのは、脳内の回路が広がったのか、上手に話そうと云う様な、余計な抵抗が無くなったからだろう。このことに付いては、前記健忘症との因果関係も、突き詰める必要があるかも知れない。
それにしても豪州は“幸せの国”である。何故なら、米国に匹敵する日本の20倍程の広大な国土に、日本の1/5位の人口しか居ないのである。一人当たりの国土面積は、何と日本の100倍もあることになる。文字通り無尽蔵という表現がぴったりである。然も、娘一家が住む南西部一帯は温帯に属し、海岸沿いは海流の影響を受ける為、イタリアやギリシャ、米カリフォルニア州等と並ぶ、年間の大半が過ごし易い地中海性気候である。私は、娘夫婦の車で一帯を何度もドライブさせて貰ったが、国土全体の起伏が少なく、低い丘や谷が緩やかにうねっているような地形が延々と続き、日本と違って、山や川、橋やトンネルが殆どない。だから助手席に乗っていても、どの辺りを走っているのか、皆目見当がつかない。
一方、住宅地も日本と対照的で、最初から区画整理を行い、計画的に整備してあるので、同じような二戸一住宅が、シンメトリカルに整然と並んでいる。我が娘の一家は、区画の最奥に位置し、隣接して広大なユーカリ林の緑地公園に接している。家の間取りは一階がリビング・ダイニングキッチン、二階が夫婦の寝室とバストイレ、子供部屋二室である。滞在期間中は、私供夫婦が子供部屋を借りたので、子供達は可哀想なことに、居間のソファーで寝る羽目になった。
娘婿は気を利かして、私達を毎日のようにドライブに連れて行って呉れた。パース中心市街地、港町フリーマントル、ワイン工場、チョコレート工場、友人宅でのバーベキューパーティー等々。然し、一番の思い出は、13年前、娘が結婚式を挙げた、水上レストランである。私は我儘を言い、帰り際に其処に連れて行って貰った。幸いなことに、レストランは今も営業していた。あの結婚式の当日、私は特有の高揚感から、ワイングラスを片手に、一人で全客席を廻った。各テーブルの客は勿論私を大歓迎。然し調子に乗ってワインの返杯を飲み過ぎ、帰途は半ば人事不肖になり、何度もリムジンを降りてゲロをした挙句、翌日まで昏昏と眠り込んだ。父親にとって、娘を(就中海外に)嫁がせることは、何とも言い様のない寂しさが募るものである。特に長女は昔から、私の最良の相談相手&批判者でもあったから、今回も夜半まで話は尽きなかった。
私は思う。原発事故以降、日本は益々海外から膨大な化石燃料を輸入せねば、一日たりとも生きれない時代となった。其処で最も頼りになるのは、ほかならぬ豪州である。石炭は無尽蔵で、天然ガスも豊富にある。サッカーでの交流も良いが、白豪主義の復活を防ぐ為にも、もっともっと一般の日本人が出かけて行き、草の根の人的交流を、活発化せねばならないと思う。終わり


大震災

東日本大震災が勃発して早一ヶ月が経過した。震災を免れた私にとっては、あっと言う間であったが、被災者に皆さんにとっては、さぞかし長くて辛い一ヶ月であったと想像される。そして幾多の人々から「この震災を機に日本は新時代に移行する」との論調が寄せられている。その多くが、色んな意味で良い方向に変わるとの見方であり、そうであれば膨大な人的・物的損失が齎した結果とは云え、犠牲者の魂も少しは浮かばれよう。中でも今回の福島第一原発の事故による放射能汚染は、広島・長崎への原爆投下、米ソの核実験、スリーマイルアイランド、チェルノブイリに続く、核エネルギーの功罪についての大論争を引き起こすだろう。事実、各方面の人々により活発な反原発の訴えが成されている。それと表裏一体として、電力不足とその対策についての議論も活発化している。
私はこの種の問題についてとても興味がある。と言うのも、私が物心ついた昭和20年代は電力不足の時代で、停電は日常茶飯事だったからである。特に雷雨や台風襲来時には、必ずと言って良いほど長時間停電した。従ってローソクは家庭の必需品(香典返しのスタンダード品)、我が家にはそれに加えて(ボンボリと称す)灯油ランプも常備してあった。停電時には、ちゃぶ台の中央にランプが置かれ、家族4人がその周りに座り、語り合いながら電気の復旧を待った。私は当時この時間がとても好きで、停電を心待ちにしていた程である。当時の自家は古くて倒壊の危険があったので、暴風雨の時は家族一同で、米蔵(現右馬七亭)に筵を敷いて、避難していた。
あれから既に半世紀以上が経過し、今や生活の隅々にまで電気が浸透して、それなしでは一日も暮らせなくなっている。こんな時代に原発反対を唱える人々は、原発に代わる対案を示す必要がある。私は、生活スタイルを昭和20年代に戻せば、充分可能だと思う。と言うのも、当時の我家は10室もあったのに、電力は5アンペア契約。電力消費は、冷蔵庫もテレビも無いので昼間は殆んどゼロ。夜間も茶の間の60Wと台所の40W電球、それにラジオを加えても最大150W(1.5A)程度だった。偶にアイロン等を使用すると、ヒューズが飛んで停電。父は電器が苦手だったので、態々叔父を呼んで修復して貰った。当時は現在のようなブレーカ(電流制限器)は、設置されていなかった。
食糧は米と麦、味噌・納豆・お茶・野菜と果物(柿・栗・梅・桃・枇杷・無花果等)は自給。購入品の主体は砂糖と塩と醤油。調理は全て自家の山から伐り出した薪と柴を燃料にした竈。風呂の燃料は麦藁と稲藁。台所と風呂の水は、井戸から手押しポンプで汲み上げ。移動手段は徒歩か自転車、バスか鉄道、貨物運搬は自転車、リアカー付き単車、三輪トラック。勿論エアコンなし、冬場の暖房は木炭火鉢か、掘り炬燵に湯たんぽ。夏の暑さ対策は、団扇と蚊帳である。
多分、60代以上の人なら、上記の実体験があるので、やろうと思えば今でも可能である。然し若い世代には到底不可能な生活スタイルである。
こんな生活を最近までされていたのが、私が10年近く茶道を習った谷口恭子先生である。先生は、かなりの過激派で、茶室と寝室・台所だけのオンボロ家屋に住み、電灯は30w蛍光灯一つ。ガスレンジは一口で玄米食。冬は炉か火鉢。夏は扇風機一台。暑い時は茶室の地下に掘った芋窯の中に篭られていた。それ故に主張も超過激で、電気を食うエアコンが大嫌い。自販機は全廃を主張。茶道教室の運営に必要だった為か、ガソリンを食う車は、批判されなかった。私は元エアコンの設計者で、自販機を持っていたので、先生の過激な話が始まる度に、困惑の表情を浮かべつつ聞いていた。私は思う。今こそが半世紀前の生活の実体験をする絶好の機会であり、反原発を叫ぶ人々は、是非実行して頂きたい。私はその感想を聞きたいものである。終わり


古民家

過日の新聞に、米国東洋文化研究家アレックス・カーさんの特集記事が出ていた。氏は「大歩危小歩危」で有名な、徳島県祖谷渓の庵(古民家)を借金して買い上げ、友人や村人の協力を得て、自らが住めるように改修されたとか!氏は今の日本を「コンクリート・電線・看板・針葉樹林だらけの醜い国」だと酷評されている。私は「ご指摘の通り」で、私自身も加害者の一人ではないかと思う。
と言うのも、昭和58年までの自家は、築後300年の大きな古民家で、襖や障子を外せば一階の寝室を除く6和室38畳(座敷・仏間・書斎・玄関の間・中の間・居間)が鍵型の続き間になった(現在の公民館は平均24畳、畳が大きい関西間だったのと座敷周りの縁側をも考慮すれば、公民館の1.5倍以上の面積)。南側の玄関は、縦横2m程の木戸(大戸)と、賓客専用の開き戸の二つがあり、東側には主に家人が利用する勝手口が3箇所あった。トイレも座敷奥に来客用、居間と寝室の隣に家人用、台所横に別棟の下男下女用(土足)と3箇所あった。南の大戸から北の台所までは、幅2間位のコンクリートとタタキの土間が続いていた。毎年5月頃には、障子や襖を外して全室を空け放ち、11月頃には元に戻していた。東京に住み、夏休みに帰省していた従弟一家は、狭い都営住宅とは月とスッポンほどにスケールが違う我家に来る度に、開け放った和室を運動場のようにドタバタ駆け回り、母から叱られた。
各部屋は所謂高床式で、土間側の床下には下駄箱や小物入れがずらりと並び、その上は“上がり段”になっていた。床下はしゃがんで歩ける1m位の高さで、子供にとっては格好の遊び場だった。当時の来客は殆んど“上がり段”に腰掛けて、お茶をすすりながら、畳に座った家人と同じ目線で応対した。公民館等の公共施設がなかった当時、地域の寄り合いや結婚式・葬式等の祭礼は、我家で催されていたようで、古いアルバムをめくると、冠婚葬祭の写真が何枚もある。
然し、昭和40年から一人住まいになった母は、この“古くて大きな自宅”を持て余し、幾度も私と協議した。母は、シロアリに蝕まれ、雨漏りに悩まされ、台風の度にトタン葺きの藁屋根が損壊するような自宅には敢えて手を入れず、別途裏屋敷に新築すべしとの意見だった。私は、解体して元の場所に新築すべきと考えていた。
その母が、昭和59年5月に急逝した。一家で和歌山から引き上げて半年の私は、決断を迫られ、資金面の制約から折衷案を採用した。即ち、続き間の5和室は解体して、跡地に座敷と書斎・居間を新築。二階の子供部屋2室を含む残り4室は改装し、新築の台所と合わせて継続使用することにした。勿論、基礎から屋根に至るまで針葉樹(杉・檜)やコンクリート(基礎・瓦)・電線を多用した家屋である。
あれから27年の歳月が過ぎた現在、私は世の“古民家ブーム”に聊かの戸惑いを隠し切れない。と言うのも、当時の自宅は勿論のこと、納屋も、叔父一家が住んでいた隠居家も、今は残っていないからだ。唯一残った昔の建物は、嘗て米蔵として使用した土蔵(現“右馬七亭”昭和7年築)である。その土蔵も、瓦を葺き替え・白壁にトタンを張り・タタキの床をコンクリートに改装した状態だ。その結果私は、数年前から関わったパーマカルチャーのイベントを開催する為に、公民館を借りたり、“右馬七亭”二階を宿泊所に改装したり、車庫の物置をスタフルームに改装したり、挙句の果ては“シシ亭”と称するイベントスペースを新築する羽目になった。
これらは全て、昭和59年の自宅建設に起因している。私が当時母の意見を取り入れて、古い自宅はそのままに、裏屋敷に新しく自宅を建設していたら、今頃元の古家は、パーマカルチャーの拠点として若い人々の“垂涎の的”になっていただろう。続き間の和室で、各種の集会、宿泊は勿論のこと、竈での煮炊き、五右衛門風呂入浴、茶摘と釜蒸し、手押しポンプ操作や釣瓶井戸からの水汲み等々、昔の生活様式体験が一通り可能だった。然し私は「それは不可能だった」との言い訳も用意している。あれから二十有余年、度重なる暴風雨に耐えて今日に至るまで、当時の古家が存続し得た可能性は決して高くないからだ。それにしても、何とも勿体無いことをした。終わり



失うもの

人は裸で生まれてから白装束を纏って死ぬまでの間に、親の愛情は勿論のこと幾多の人々から、衣食住のみならず、躾・教育から様々な技量に至るまで、数え切れないほど教えを乞い、文物を授かったお陰で、自らの一生を全うすることが出来る。然しこのことを意識するのは、それ程容易いことではない。多くの人々は、自己の能力や資産は自らの力で獲得したと思い込み勝ちである。私もその部類に入る。論より証拠、我家の宅地・田畑・山林は全て、先祖伝来の財産に他ならない。私が売却した土地は有れども、取得した土地など一坪も無いのである。偉そうなことが言える訳もない。
私がこれまで成し得たことと云えば、その土地に上物(アパート3棟)を造っただけである。それも退職金を全て叩いた上に、銀行から借金をして一億円近いローンを組み、30年間で返済する計画なので、私は今後20年間も借金返済に汲々としなければならない。然もアパートからの家賃を充てているローン返済資金は、今日の様に入居率が50%にも落ち込めば当然不足する。一体どうやって返済資金の工面をすれば良いのか、今頃になって途方に呉れる有様である。
私もそうだが、過去の教訓を未来に生かすことは難しい。私は昔から事態を“厳し目”に見る性質で、貸家事業についても同様であった。処が銀行は私以上に慎重で、融資条件として自宅抵当か子供全員の連帯保証を迫った。3人の子供は、親の事業責任を自分達が負わされるのは厭だと抵抗したが、私は若し自宅を差し押さえられたら、行く所もなく住む家もなくなるので、子供達を説得して連帯保証を選択した。この選択は今も正しかったと思うが、最近の状況を見れば、子供達の杞憂もあながち杞憂とは言えなくなりつつある。
その証拠に“末恐ろしい未来”が眼前に迫っている。貸家業界の両雄D社とR社が、少子高齢化と人口減少の現実を無視するかの如く、猛然とアパートの新築ラッシュをかけているからだ。我家は農村部に属し、10年前の建設当時はアパート立地は珍しかった。ところが最近はどうか?空き地と見れば田舎であろうが、辺鄙な場所であろうが、所構わず、新築アパートの建設ラッシュ。常識では考えられない劣悪な立地条件の場所にも、平気で何棟ものアパートを建てる。しかも竣工早々全室にカーテンを掛け、駐車場に数台の車を停め、あたかも入居者が集まったかの如きカモフラージュ!現実には自社の社員をダミーで暫くの間住まわせるとか?これは釣りで言う“撒き餌”に他ならない。この両社は顧客を“魚”だと見下しているのだ。それだけではない。有名タレントをコマーシャルに起用し、建物外観はメルヘンチックで若者好みな一方、最も重視すべき床・壁・天井を極限まで薄くした結果、入居者は隣室や上階の生活音に悩まされることなる。然し、退去出来る入居者はまだマシで、一番可哀想なのはオーナーである。言葉巧みに10年間の家賃保証システムとかに乗せられて“業者が一方的に都合良い内容の契約書”にサインさせられた挙句、最後は全ての財産を失ってしまう悪夢のシナリオが待っている。この様な、需要と供給の法則を全く無視したビジネスが永続する可能性は極めて少なく、早晩大きな社会問題となるのは必定である。
この先20年間、極端な供給過剰になった貸家市場では、激しい消耗戦が繰り広げられ、数多くのオーナーが破産に追い込まれ、財産を差し押さえられるだろう。私は勿論、家賃保証システムには縁がないが、両社の無謀なビジネスの煽りを食い、多大な損失を被るのは避けられない。ひょっとしたらアパートを全て手放しても、融資を返済出来ないかも知れない。そうなると子供達に迷惑をかけた上に、先祖伝来の土地すら処分しなければならない。余りに“失うもの”の大きさに戦慄すら覚える。
私は思う。10年前の建設時点で、建設業者や銀行の言いなりではなく、今頃は全ての融資を返済し終える位の計画にすべきだったのだ。私は見事に資本主義の収奪構造に嵌ったのだ。然し、負け惜しみのようだが“子孫に美田を残すな”と言う諺もあるし、白装束を纏うお金位は何とかなるだろう。終わり


日豪比較論

何だか難しい標題になっているが、何と言う事はない。2009年の1月、私はオーストラリアに2週間の旅行をした。切欠はパーマカルチャーツアーの序に、その前の1週間、長女の所にお邪魔したのである。
出発を一日早めて、先ず長男の住む東京に一泊し、翌日は夜の出発までの時間を利用して“はとバス”にて東京観光と相成った。乗車場所は丸の内北側、若かりし頃、三菱電機本社出張時に何度も通った場所である。流暢なガイドの案内で最初に立ち寄ったのは、皇居前広場であった。ベンチに路上生活者が何人も寝ていたのが印象的で、二重橋の前で集合写真を撮られた。その後数箇所を周遊したが、印象的だったのは靖国神社、戦没者を祀るだけあって格式と雰囲気が違う。小泉元首相の参拝が国際問題になったことを思い浮かべつつ、時間一杯拝殿前に佇んだ。この他で良かったのは浅草泉岳寺位、六本木ヒルズやフジテレビ本社等など、若者好みの場所かも知れないが、私には退屈だった。
その夜遅く成田を発った。出発に際しては大きなトラブルがあった。ビザの取得洩れである。旅行会社に任せ切りだったのが原因。チェックイン時間が迫る中、カンタス航空窓口の女性が駆け回って取ってくれた。パースに行きたいらしく、私に色々質問しながら。そして搭乗が遅れた所為でエコノミーは満席、ラッキーにもビジネスクラスに滑り込んだ。最前列の1-B席である。この席は多分政治家とか高級官僚とかが、急遽申し込む為に予め空けてある席に違いない。処が機内サービスは全く期待外れ、年配の客室乗務員は無愛想。注文した日本食など解凍不十分で、とても口に入らない。翌朝朝早くパース空港に到着、娘一家が迎えに来ていた。2000年末の長女の結婚式以来、8年振りのオーストラリアだった。
パースの長女の家には一週間滞在した。長女夫婦は一週間の休暇を取り、私を彼方此方に案内した。毎日パース近郊の公園や隣の港町フリーマントルの刑務所、その沖合のロッドネス島などなど、日替わりメニューでもてなして呉れた。それと一番嬉しかったのは、娘一家が仲睦まじく、子供達即ち私の孫二人が直ぐに懐いてくれたことだ。お陰で一週間、私は思いっ切り孫達とスキンシップをすることが出来た。娘婿のご両親からも招待を受けてご馳走になった。或る日は私が一人で娘婿の自転車を駆り、パースの市内へとサイクリングに出かけた。そして一通り市内観光をして自宅に戻ろうとしたが、道が分からない。通行人に何度も聞いたが分からず、とうとう娘婿に車で迎えに来て貰った。“行きは良い良い帰りは恐い”地図を持参しなかったのがミスだった。
日本とオーストラリアの違い、北半球と南半球、島国と大陸、過密と過疎、夏と冬、湿潤と乾燥、黄色人種と白色人種、米とパン、魚好きと肉好き、交差点とロータリー等々、数え上げれば限がないが、共通点も又多い。時差がない(少ない)、車は左・人は右、高層ビル、アパート・マンション建設ブーム、肥満防止のエクササイズ、清潔好き、ペット同伴等々。
両国の違いはプラスかマイナスか?答はプラスである。夏が好きなら日本の冬季に、冬が好きなら夏季に行けば良い。私もパースとブリスベーンで泳ぐことが出来た。夏の時期、北海道にスキーツアーに来るオーストラリア人の気持が良く分かる。こんなことは日本と米国ではちと難しい。それにオーストラリアは米国と違い、ガンコントロール(銃砲規制)が厳しく、街中でもピストルを下げた警官やガードマンには全くお目に掛からなかった。又、年配者が生き生きと人生をエンジョーイしている。退職者が大半であろうが、実に多くの老若男女が広大な公園を散歩・ジョギング・自転車で動き回っている。
今回長女から一つの提案があった。「老後はオーストラリアに住まないか?」と。思いがけなかったが、気候が温暖で晴天が多い上、治安が良くて暮らし易いパースは、老後の住まいとしては理想的である。私は現在62歳。あと10年位は日本で頑張り、その後自宅は子供に任せて、家内共々オーストラリアで余生を送りたいと夢見ている。終わり


金融機関

私が就職したのは1969年、確か当時の給料は現金支給だった。然も当時はインフレの時代で、物価も年々上昇した代わりに、給与の方も毎年かなりの昇給があった。従って、給与支給日の毎月25日や、年2回のボーナス支給日の夕食はご馳走で、家内に給与袋を渡す時「ご苦労様でした」と言われて、男としてはちょっと優越感を覚えたものである。それがどうだろう。何時の頃からか、給与袋の中身は明細書のみとなり、お金は預金口座に直接振り込まれる方式に変わった。これは自社だけではなく、日本全国の企業が、事務処理の簡素化を主目的に、その方向に変わった為だった。然しこのことは、副産物をも齎す事になった。それは各家庭における“亭主の地位”の著しい低下である。勿論我家も同様。給与支給日もボーナス支給日も、特別の日ではなくなってしまった。代わりに利得を得たのは、各家庭のカミサンだけではない。金融機関も同じ様に潤った。毎月一回必ず、社員の口座に給与が振り込まれるから、金融機関としては最高の預金獲得手段であったろう。私は、静岡、和歌山、熊本と転勤したので、その度に地元の金融機関に口座を移し替えた。熊本に転勤した時、私が新たに取得した口座番号は、社員番号に続くラッキーナンバー(1234…)だった。これは縁起が良いと思い、私はこの口座を大切に扱い、生涯持ち続ける覚悟だった。
あれは丁度10年程前の事である。私はリストラで出向となり、当時不遇を託っていた。そして自己の将来に漠然とした不安を抱き、アパート建設を決意した。然し問題は、その建設資金の調達だった。数千万円の融資を受ける必要がある。その場合、日常の取引金融機関にお願いするのが普通だろう。私もそうした。ある日、家内に付いてその金融機関に行き、窓口で“恐る恐る”「融資をお願いしたい」と申し入れた。私はてっきり別室に案内され、ひょっとしたら支店長にも会えるのではないかと期待した。しかし現実は違った。窓口横の狭い机に座らされて短時間、融資担当者と思しき男性2名の面接を受けた。結果は“お断り”だった。私は大きな失望感を味わった。
そしてその数ヵ月後、私はアパート建設業者の紹介で、某生命保険から融資を受けることになり、やっとの事でアパートを建設することが出来た。然し私と何の取引実績もない生保が、簡単に融資する筈がない。裏には保証協会と云う組織があって、其処の担当者が態々東京から来て、我家の資産を隅から隅まで調査して行った。勿論それも只ではない。保証協会へも別途保証料を払わねばならないのである。その上融資金利も決して低くはなかった。
怒りの収まらない私は、ある日再び取引金融機関に出向き、窓口で預金の全額引き出しと、口座抹消を願い出た。アパート建設の頭金に充てる為だった。然し、その日の態度は前回とは大違いだった。顔色を変えた窓口女性の連絡で、上司と思しき男性が現われ「何か失礼な事でもあったのでしょうか?詳しいお話を聞かせて頂きたいので別室にどうぞ」と、それこそ平身低頭の応対だった。私は、それに従っても良かったが、時既に遅かった。「考え直して欲しい」と言うその行員の言葉を振り切り、全額を引き出して口座も解約した。お陰で15年もの愛着がある、あのラッキーナンバーともお別れだった。
私は思う。金融機関は、預金者個人から融資の依頼が来た時、普通なら先ずその人の口座の“取引履歴”を調査するのが手順ではなかろうか?そうすれば、その人の収入から支出の殆ど、はたまた金銭感覚まで見通せる筈である。それを判断材料に、融資が可能か不可能か、幾らなら貸せるのか、答えるのが常識だろう。それとも金融機関は、そもそも個人は預金を集めるのが対象で、貸し先は企業と思っているのだろうか?私はあの後、別の金融機関で口座を開いたが、その番号は何度覚えても直ぐ忘れてしまう、普通の乱数でしかなかった。終わり


転居(その三)

和歌山転勤に際しては、大きな問題が山積していた。私は当時、設計部門の主事で部下も何人か居た。従って会社の業務移管作業と、自分達の転居先を決めなければならない立場だった。住宅問題は本来総務の主管事項だが、転任者の主力は我々製造部と営業の一部である。和歌山の総務からは提案という形で2~3案が示された。私達当事者はその住宅を見る為に、ある日和歌山を訪れた。私はその内の、古くて広い旧住金社宅が気に入った。そして結局私の意見が通って、其処に決まった。
其処は、和歌山市の中心部、高松町にある小高い山(丘)の頂きに建つ、鉄筋4階建ての旧住友金属工業和歌山製鉄所幹部社員用の社宅だった。その16戸程の建物は当時殆ど空き家同然だったが、その後数年間は我々の専用社宅と化したのである。そして昭和55年の8月の暑い日、私の一家5人はその1階の部屋に引っ越した。勿論その費用は会社持ちだったし、空き家となった我家はその後会社の借り上げ社宅となった。(この自宅はその5年後に売却)その和歌山の間取りは確か3DKで、我が焼津のオリジナルマイホームの間取りと、奇しくも同じだった。然し建物は古く、風呂などは据え置き式だったので、小さな子供を入れるのには不便だった。
私の一家はこの借り上げ社宅に丁度3年間間住んだ。其処から会社までは2~3km程の距離で、会社の社員駐車場は遠くて不便だったので、私はバイクや徒歩で通勤していたのを思い出す。急坂を登らねばならないので自転車ではやや不便だった。その間にも色んな思い出があるが、私は当時率先して社宅の前にあった畑を開墾して、野菜作りを始めた。その後同僚の数人も私を真似て、一時其処は団地の集団農園と化した。懇意にしていた隣室の営業I氏とは、良く近くのカラオケスナックにも行った。私は其処で、数少ないカラオケの定番「和歌山の女(ひと)?」を覚えた。たまの休日には、家族ぐるみで誘い合わせ、ミカン狩りに出掛け、子供達とドッジボールした楽しい日々もあった。我家の3人の子供達も、幼稚園から小学校低学年にかけて、この地で過ごした。
然し“例の件”で私は辞表を出したので、家内と子供達は3年後の2学期を前に先に熊本の我が実家に戻った。当時長女は小学3年、次女は1年、長男は幼稚園の年小だった。これが最後の引越しだった。然しこの3年間に荷物は大幅に増えていた。それは子供達の机や椅子、エレクトーン等であった。然し、引っ越し技術も進化していて、その時は業者が荷造りから殆どして呉れた様に記憶している。私はその後4ヶ月間単身者寮で過ごし、後を追った。
18歳で熊本を出てから18年、私は都合10箇所を転々として、36歳で再び生まれ故郷に舞い戻った。そしてつくづく思った。やはり生まれ故郷が一番だと。故郷の本当の良さは、其処を離れて初めて分かる。私はその後再び、ここ熊本玉名を離れて他所に“住もう”と思った事は、一度とて無い。終わり


転居(その二)

この3畳に引っ越した理由はもう一つあった。それまで2年近く付き合っていた女性と別れる為だった。私は其の人を嫌いではなかったが、どうしても結婚に踏み切れなかったので“踏切り”を付ける意味もあった。そして其の年の夏休みに家内と見合いし、翌春結婚した。
勿論其の3畳では新婚生活は出来ない。其の部屋は鹿児島出身の後輩のA君に引継ぎ、私は地元に住む後輩のS君に照会してもらった、静岡市千代田の二階にある2Kの部屋を予約した。其処はお風呂が別棟にまとめて3室程有り、しかもそれは珍しい木の桶だった。然しある時、とんでもない事が起きる。空焚きである。私はその時何を考えていたのだろう。暫くして其の事に気付き、慌てて風呂に行くと、中はムンムンとした熱気が篭り、何と風呂桶が金輪から外れ、ばらばらになっていた。危うく火事になる処でゾッとした。私はそれをこっそり元に戻したが、木が乾燥して縮んだらしく、その後暫くの間、水が漏れて困った。然しA君は、私が住んでいたその3畳で本当に火事を出してしまった。暖房の火の不始末らしく、気付いたのが早かったので小火で済んだそうだが、街中の住宅密集地で一歩間違えば大火だった。
私はその借間で“ストーム”の想い出がある。これはどうも会社の“慣わし”らしいが、新婚家庭に職場の同僚が大勢押し掛けて、互いの馴れ初めから始まって、初夜の事とか色々聞く“儀式”である。勿論その夜の主役は新妻即ち家内である。特に直属上司のK氏や友人のW君は、この儀式を何よりの楽しみにしていて、その夜も根掘り葉掘り家内に突っ込みインタビューをしていたのを思い出す。そして最後には、屋外で全員が「徳永龍と葉子は結婚しました云々」と大声で叫ぶので有る。然しこの貸間も或る夏の夜、その家主の子供が屋根伝いに忍び寄った“覗き”の為に、半年足らずで退去する事になった。
次に引っ越したのは、抽選に当たった会社の近くの新婚者アパートだった。此処も2Kで、台所には大きな電気温水器が鎮座していた。勿論入居者は全員会社の同僚、隣の棟屋には群馬出身のH君も居た。家内は此処で、近隣の歯科に衛生士として勤務していた。然し此処にも半年余しか居なかった。家内が妊娠したからである。然し新婚者アパートを、妊娠を期に退去した人間は、私の他には殆ど居なかったと思う。
私は子供を集合住宅ではなく一戸建てで育てたかった。当時は折しも第一次石油ショックのあおりで、物価上昇がひどく、その代表は土地であった。或る先輩等は、ちゃっかり値上がり前に土地を買い込み、幾ら儲けたとか言っていた。私も新聞のチラシを見て、隣町焼津の建売住宅を見に行った。セールスは私の名詞を見るなり言った。頭金は形だけで結構ですと。私はたった20万円しか払えなかった。それは総額790万円の2.5%で、残りは20年位の銀行ローンだったと思う。(低金利の会社融資の抽選にはもれた)我家は、田圃を造成した7軒から成る団地で、土地は45坪、建屋はプレハブ平屋の3DKで15坪。東南の角地で、眺望は素晴らしかった。然し、その眺望もほんの2~3年だった。田圃だった隣地が埋め立てられ、ぎりぎり我家との境界に、大きな2階建てが出来た。お陰でその部屋は一転、窓を開ければ隣家のトイレしか見えない、日の差さない部屋に変わり果てた。この教師と聞く隣人は、遂に我家への挨拶はおろか、一度もその姿を見たことすら無かった。
南側には一寸した広場があったが、造成したままで石ころだらけだった。私は其処に山砂を入れ、隣地との境界には生垣を植え、花壇や一坪農園、自転車小屋等を作った。そしてその積水ハウスには都合7年間住んだ。その間子供が次々に3人生まれて、次第に手狭となり、一時は庭に勉強部屋と称する6畳一間の離れを建てた(置いた)。然し其処は夏暑く冬寒くて、とても住めなかったので2~3年後に処分し、近隣の大工に頼んで6畳2間を増築した。然し、結局その二間は殆ど利用しなかった。何故なら翌年、和歌山転勤を命ぜられたからである。続く


転居(その一)

私は過去10回以上転居していると思う。あの夏目漱石の様に“引っ越し魔”でもなかったのに、何故か何度も引っ越した。その最初は、別ブログ「女の尻」で述べた大学時代の間借りだった。西日の当たる4畳半に2年半住み、4年生になって漸く、日当たりの良い2階の部屋に移った。勿論家賃は大きく値上げされた。この貸間の家主は近くに住む若い会社員で、トイレも流しも共同の為、其処の奥さんが時々掃除をされていた。勿論、郵便も全て奥さんが“検閲”してから渡される。当時文通していた山口県の方や、サークル青い鳥のMさんからの手紙が来ると、いち早く目に留めて「龍ちゃん、又ラブレターが来たよ!」等と、冷やかされていた。
その後、就職して静岡市池田にある会社の独身寮に2年弱住んだ。此処は3棟から成り、H君と私はC棟1号室だった。即ち一階廊下の一番手前の部屋である。当時は新入社員、責任も余り無い時分で、私の部屋が友人の溜まり場になるのに、そう時間は掛からなかった。おまけに、私はあの新宿西口の緑屋でTVを買ったので、同僚はそれを目当てに連日私の部屋に来た。その内にテレビだけでは物足りなくなる。誰かがマージャンをやろうと言い出した。そして牌が来た。折り良く私の部屋には、大学時代に買った炬燵がある。その後C棟1号室が“雀荘”と化すのに、そう時間は掛からなかった。
マージャンは大抵金曜か土曜の夜から翌朝に掛けてだった。翌日が休日なので夜遅くまで、時には徹夜も出来るからである。その6畳に押入れと出窓が付いただけの部屋に、同僚が押し掛けてマージャンをすれば、幾ら私が断っても逃げる部屋とて無く、私はその時分否応無くマージャンを始めた。当時は点1(1000点10円)だったと思う。今からみれば嘘みたいな安レートである。マージャンは当然四人でするゲームである。従って炙れた連中は誰かの後に座って「指南番」宜しくアドバイスをする役となる。私は当時初心者で「役」にも「点数」にも詳しくないので、必ず誰かが後に居たような気がする。然し、ゲームはどれも似たものだと思うが、上手下手以上に各人の性格が色濃く反映する。私は「強気一点張り」の性格である。従って「聴牌」になると、例え1000点の役でも、即「リーチ」を掛ける。然し、一旦リーチを掛けると、例え相手が自分より高い手で聴牌していても、下りることが出来ない。勢い、相手に振り込むことも度々で、殆どの場合負け越しだった。当時は月末に全員のトータルを集計し、給与で清算をしていた。然し負けたからと言って、その支払いは数千円を上回ることは殆ど無く、今から考えると健全な遊びだったようにも思う。然し或る夜は、信じられない程私にツキがあった。私はその夜の明け方、見たことも無い手で上がった。それは四暗刻だった。勿論役満である。こんな生活も若い時代は良いものであるが、煙草の煙が濛々とした狭い部屋に、大勢に人間が集って、延々とギャンブルに興じる生活は、不健全なばかりか、プライバシー等無いに等しい。私はそんな生活に次第に疑問を感じ、2年足らずで、別ブログ「恐怖」で述べた“トイレと流し”しかない6畳と2畳の長屋に引っ越した。6人の同僚(一人は自宅通勤)の中では、私が最初の“脱寮者”だった。此処で困ったのは、食事と風呂である。私は中華料理が好きだったので、毎日の夕食は車で態々「大黒飯店」と称する親父さんが経営する店に通った。定番は「韮レバー炒め」だった。そして、風呂も同じく街中にある銭湯に車で通っていた。然し例の“任侠沙汰”の為、私は1年余りで其処を出て「東海理器」と称する、地場企業の宿直室に住まう事になる。此処は街中の日もまともに当たらない3畳の部屋だった。然も其処に大きなステレオと金魚鉢を持ち込んだので、私はたった2畳程のスペースで生活することになる。然し、其処は家賃が不要なばかりか“幾らか”の宿直手当を貰えたのだった。続く


夏の過ごし方

夏になれば、冬が恋しくなり、冬になれば、逆に夏が恋しくなる。これは誰もが抱き易い感情である。然し、私は退職して農業を始め、この感情が大きく変わったことを実感する。夏はどうしようもないが冬は何とかなる。というのも農作業は肉体労働で、働けば体内のエネルギーを消費して体は温まる。従って霜が降り雪が舞うような寒い冬の日でも、厚着をして外に出て一旦農作業を始めれば、体は温まり上着を脱いでも寒さを感じなくなる。従って寒風が吹き荒ぶ日には重労働を、小春日和には軽作業をすれば、それなりに快適な一日を過ごすことが可能である。
一方夏はどうだろう。近頃の夏は昔に比べて気温が高く、益々農業者にとっては過ごし難い季節になった。又夏は労働によって体内から汗が出るので、益々辛さが増す。処が冬場と異なって夏場の仕事は時間の制約が多い。つまり作物や雑草の成長が早く、油断すると手遅れに成るのだ。そこで一つの解決策として、朝と夕方集中的に作業することにした。夏の日の出は早く日暮れは遅い。朝6時前後から作業開始、太陽が昇って暑さが増す8時頃には中止する。そして夕刻5時頃から日暮れまで、再び作業する。そうすれば夏でも毎日3~4時間の屋外農作業が可能となる。一日の作業時間は短いが、夏は安定した晴天が続くので、計画的に作業をこなせば、それでもなんとかなる。この方法は、私だけでなく近隣の農業者も採り入れていて、夏の早朝には彼方此方から田圃の畦の草を刈る、刈払機のエンジン音が聞えて来る。
然し夏には、昔多かった蝿は余り見かけないが、蚊は相変わらず多い。私は体質的に蚊に刺され易く、ちょっと半袖や半ズボンで屋外に出れば、忽ち蚊の大群に襲われる。そこでどんな猛暑の日でも、長袖・長ズボンの上、腰には蚊取り線香をぶら下げ、首にはタオルを巻き、頭には麦藁帽子を被った出で立ちでなければ、外に出て作業が出来ない。これは結構辛いことで、1~2時間の作業で全身汗まみれになる。然し、家に戻ってシャワーを浴び、冷たい飲み物を口にした時には、何とも言えない幸せを感じる。特に夕食時のビールは格別で、一日中屋内で仕事していた会社員時代とは全く異なる味わいである。
私は暑い夏の日中を如何に過ごすかについてこれまで色々と試してみた。読書をするも良し、テレビを見るも良し、そしてパソコンに向かってブログを書くも良し!然し、日中を冷房の効いた部屋の中で過ごせば、快適ではあっても体には良くない。うっかり転寝でもしようものなら、却って体調を崩すこともある。昼寝は、出来れば冷房していない場所でしたい。そこで我家を色々と物色した処、格好の場所を見つけた。それは階段下の廊下の一角である。此処には勿論エアコンはないが、東西南北にある開口部の交差点に当り、外からの風が通る。おまけに2階が有るので上階からの熱気もない。私は此処にゴザを敷き、瀬戸物の枕を持ち出して、昼下がりの1~2時間まどろむ。その後は体にだるさもなく、夕刻の仕事へのエネルギーを蓄える為にも役立つ。これは就寝についても言える。我家の寝室にはエアコンは無く、天井に扇風機が有るのみである。寝苦しい夜は、網戸にして外の風を入れ、タイマーを1~2時間セットした扇風機を廻す。そうすれば寝付きも良く、夜中に温度が下がって風邪を引く心配も少ない。
私は思う。昔の家は藁葺きの続き間で冬は寒かったが、夏は自然の風が吹き抜けて快適に過ごせた。然し酷暑が続く現代、密閉性の高い家では、どうしてもエアコンに頼る生活を余儀なくされる。貴重な電気を大量に消費し、おまけに廃熱を屋外に出して、二重に地球温暖化を助長する事でしか、快適な生活を確保できなくなった現代の人間は、将来どうなるのだろうか?終わり


私が子供の頃から、我家には野良猫が跋扈していた。猫の“悪さ”は想像以上で、ちょっと棚に入れ忘れた魚は持ち去られるし、金魚鉢の中の魚すら取られた事もある。悪行が目に余るので、或る時私は“一計”を思いついた。二階の一室に誘き込んだのである。美味い具合に2匹を閉じ込めた。“しめしめ”と思って麻袋を携えて乗り込み、捕まえに掛かった。2匹の猫が8畳の部屋を「ギャアギャア」逃げ廻るのを隅に追い込んで取り押さえた。然しその内の一匹に「ガブリ」と噛み付かれ、左の手の甲に怪我をしてしまった。「窮鼠猫を噛む」と言う諺があるが、正に「窮猫人を噛む」である。私は其の猫を何処かに持って行って放す積りだったが、噛み付かれたので怒って橋の上から川に投下した。中で泣き喚く猫を入れた袋は、プカプカと川を流れて行った。帰宅して母に話したら「猫の祟りは恐ろしいよ!」と言われたが、何もなかった。
その後“猫”には長く縁が無かったが、長女が大学時代に福岡から子猫を拾って来た。蚤だらけでやせ細っていたが、シャム系らしく可愛かったので飼う事にした。名前は「レイ」とした。この猫は15歳近くなる「お婆ちゃん」だが今も生きていて、お腹が空くと私に擦り寄り「ニャアニャア」鳴く。昔は室内で飼っていたが、加齢と共に“お漏らし”をするようになり、屋外住まいとなった。お陰で我家の柱や廊下は、室内外を問わず引っ掻き傷だらけである。
猫は水が大嫌いである。然し「レイ」が来た時は、汚かったので“お風呂”に入れる習慣を付けて定期的に洗った。風呂場で猫を洗うと、とても嫌がり「ギャアギャア」泣き喚く。終って放すと何処かに行って、体中を嘗め回している。そして其の後の猫の体は“ぬいぐるみ”のようになる。
数年前まで住んでいた隣家の嫁さんは“猫狂い”で、家中に数え切れない程猫が居た。“避妊”をしないので、どんどん殖えるのだった。当然食料も沢山必要で、ごみ袋一杯の空缶が捨てられていた。猫には敷地境界等関係ない。我家に始終出没し、彼方此方に糞や小便を撒き散らして匂いはするし、畑に蒔いた種は彼方此方で掘り返された。私は何度かクレームを付けたが、暖簾に腕押しだった。そんな時「レイ」が追っ払って呉れたら良いのに、其の力が無い。今も時々「レイ」の食べ残しを、野良猫が来てちゃっかり頂戴している。犬は“人に付く”と言われるのに対して、猫は“家に付く”と言われるが“テリトリ”を守るのは事実らしく、その境界で“隣の猫”と睨み合いをしている。然し、猫も高齢化すると“守り”が弱くなるらしい。何時だったか数日間、我家のテリトリを占領され、行方不明になった時もあった。
昔の犬は“泥棒の見張り”猫は“ネズミ捕り”と言う“立派な仕事”をしていた。処が今は“食事”や“散歩”で人の世話になる一方である。私は今も左手に残る“猫の傷”を見ながら思う。犬猫を駄目にしたのは人間だと!そして人間の“子育て”も同じではないか!と。


アンテナ

私が最後にアパートを建設した場所は、山懐で環境は良かったが電波受信に問題が有った。近隣の家庭のTVアンテナは(熊本の電波発進所のある金峰山とは反対の)福岡の方向を向いていた。私は衛星放送受信用のパラボラアンテナでも付ければ、問題ないと軽く考えていた。然し甘かった。不動産屋さんから「何とかして欲しい」との依頼が来た。そして、アンテナ業者に電波強度の測定を依頼して出したベストの場所は、何と我が“墓山の山頂”(=25基の墓地の横)であった。然し其処は(私が植林した1300本の橡)が生い茂る森である。私は仕方なく辺りの数本の橡を伐採して建設用地を確保した。そして業者に「刈払機での山刈時、誤ってケーブルに触れても、破損しない丈夫なカバーを施した配線工事」を依頼した。業者は重機が使えず手作業で大変だったらしいが、山頂の一角に10m足らずの“私設アンテナ”が完成した。そして受信テストの結果も上々で、問題は全て解決したと私は安心していた。
然し甘かった。次の夏に台風が来たら早速「TVが映らない」とのクレームである。山に登ったら、アンテナが“あらぬ方向”を向いている。早速業者に修正を依頼してOK。ちょっと強い風が吹く度にそんな事が数回あった。私は“其の度”に費用負担を強いられた。何度目かの時に「アンテナの締め付けが甘いのではないか?」とクレームをつけた。業者は反論した。そして突き止めた結論は、周囲の木々の枝が、アンテナに触れる事だった。私は業者を立ち合わせ、更に周囲の木々を切り払った。次の夏が来て、大きな台風の後又クレームが来た。今度は全く映らないとの事である。山に登ったらアンテナが折れて垂れ下がっていた。ヤレヤレである。そして補修が完了したと思ったら又台風が来て、お定まりのクレームも来た。今度は向きがおかしい。私は堪忍袋の緒が切れた。こんな事を繰り返していたら、顧客には迷惑の掛け通しだし、費用負担にも限りがない。私は専門業者を雇った。そして、昔から有って伐採出来なかった墓山を守る雑木を数本、根元から伐採させた。お陰で其の一角は盆地状になった。後述略
その後クレームは来ていない。然し歌の文句ではないが「夏が来れば思い出し」私は憂鬱になる。又“携帯蚊取り線香”を腰にぶら下げて、藪の中で汗みどろの格闘をしなければならないかと!


内容証明

あれはもう10年近く前、私は郵便局長名が記された“内容証明郵便”を受け取った。其処に書かれている内容は意外だった。「敷地(○○番地)内に無断で立ち入るべからず。今後同様の行動があった場合には、然るべき法的処置が成されても、当方の責任ではない云々・・・・」から始まる警告文であった。私は驚愕した。それは、私が初めて建設したアパートの隣地の不在地主からだった。私のアパート建設用地は元農地で、其処を埋め立て、多額の自己資金で出入口道路と排水路を整備した上で建設した。当然隣地も農地であったが“問題の土地”は長年の耕作放棄で荒地と化していた。それでも、建設前には一応隣地の地主には、菓子折りを持参して「迷惑を掛けるけど宜しく」と挨拶して廻った。其のお宅も当然含まれていた。然し其のご婦人は、気分が悪いとか言って、玄関も開けられなかった。一応菓子折りは置いて来たが、後日息子が返却に来た。何か変だとは思っていた。
私はその隣地の雑草が気になっていた。ある時だった。アパートの住人の一家が、其処でボール遊びをしていた。私は子供が蛇などに噛まれると危険だと思い、思い切って其の雑草を切り倒した。其の時はそのご婦人はお礼を言われた。そして子供は喜んで、其処で遊んでいた。てっきり其のご婦人の所有地だと思っていた。然し其の郵便の発信は、ご婦人の弟からだった。私は自分の好意が、相手にとっては悪意に取られている事を初めて知った。以降その土地は“アンタッチャブル”となった。
そして今、その土地は長年の放置により、茫々たる雑草の他、実生の雑木も生え出し、冬から春にかけては、夥しい数の雀が越冬する“原野”と化した。そして其の数百羽の雀は、我家の鶏小屋の餌を主食とし、幾ら追い払っても「いたちごっこ」の有様である。然し私は手をこまねいて居るしかない。
私は思う。農地とは耕作する為の土地であり、耕作出来ない人は、出来る人に貸与するか売却すべきである。そしてそもそも、異議があるなら何故電話ででも、直接言わないのだろうか?大学の法学部を出て、何処かに勤務していると聞いていたが、顔のない不気味な現代の世相を反映しているようで、何だか薄気味が悪い。私は今アパートの入居者に必ず伝えている。「隣地は他人の所有地であり、如何なる理由が有っても立入ったり、ゴミを捨てないで下さい」と。


寝て暮らす

「寝て暮らす」という言葉の意味は「遊んで暮らす」と同義語か類義語のように使われているが、私にとっては決して響きの良い言葉ではなく、寧ろ「病気で寝ていた子供の頃」を思い出させる。数年前の或る夜、我家の電話が鳴った。相手は「隣の校区に住んでいると言う」年配と思しき女性だった。いきなり、お宅は「寝て暮らせる人と聞きましたが?」「何のことですか?」「不動産屋が来て、“アパートを建てれば“寝て暮らせる”と言うので」「本当ですか?」「ええ!私は何もしなくても、不動産屋が全て遣って呉れ、毎月自動的に家賃を振り込んで呉れるそうです」「へえー!」・・・・どうも、この女性所有の土地を目当てに「不動産屋」が訪れ、今流行の「家賃保障制度に依るアパート建設」を薦めたらしい。女性は“あまりに出来過ぎた話”と不安を覚えて私に電話したようだった。私は、自分は「其れ」とは違うこと。上手い話には必ず裏が有るから気を付けるべきだ。そんな事を言って電話を切った。
私はこんな質問を、一体何人から受けただろうか。殆どの人は、アパートを見て、家賃と軒数を聞き、掛け算をして、私の収入を推し量る。そして判子で押したように「百姓なんかせず、寝て暮らせば良いのに!」みたいな事を言う。私は応える。「そんなに良いと思うなら、貴方も為さったら如何ですか?」「いやあ、私なんかとてもそんな・・・・」その気が無いなら、聞かねば良いのに、隣の芝生はとても青く見えるらしい。
建設費は幾らで、資金は何処から融資を受け、月々返済額は幾らで、何年間返済をしなければならないか?入居者募集は何処に頼み、日常管理業務はどんなことがあるのか、税金や経費はどの位掛かるか云々?こんな質問をした人は今迄皆無である。つまりは、只の「冷やかし」なのだ。
アパート経営者には、土地売却益にかかる高率の税金を払いたくない為、態と借金してその金で建設した人が多い。私にはそれも無く、殆どを借金したので、採算分岐点がそれらの人々より高い。つまり、高い入居率を維持しなければ倒れる、自転車操業なのだ。こんな説明をしたいのだが、「寝て暮らす」ことを夢見る人に、話しても仕方あるまい。
今の社会、ニュースの多くが詐欺や金銭がらみの犯罪や事件である。楽して生活するには、その重荷を結局誰かが背負わなければならないのに、これらの人々はこのことを一体どう考えているのだろうか?


ペットについて

近年のペットブームはすごい。少子高齢化と相俟って、都市部だけでなく田舎でもペットを飼っていない家庭はない程で、複数のペットを室内で飼い、夕刻ともなれば散歩の犬同士が狭い道ですれ違い、互いに干渉しないように気を使う。小学生女子の将来なりたい職業のトップに、トリマが来るのも頷ける程のブームである。 これは借家族にとっても同じと考え、4年前新築したアパートの1階2室を限定対象に、ペットも飼えるとの条件で貸与した。此処は敷地も広くて周囲の環境も散歩に適し、その上専用ベランダも設置したので、てっきり室外で飼って貰えると思っていた。処が内1組の入居者が先日自宅を新築して退去された後、室内を点検して驚愕、どの部屋にもペットの犬(3匹)を入れていたらしく、床や壁には多くのひどい傷や汚れが付着し、畳の下には醜い染みの跡。メーカから修復見積もりを取ったら40万円超。室内には匂いがこもり、ベランダの手すりは分厚く汚れがこびり付き、何とも無残な有様。折角の新築アパートが中古同然になって、次の入居者にはペットを飼って良いとは言い難くなった。 何でも、現在はハウスメーカもペット仕様のアパートを売り出しているらしいが、それでも似たような問題は有るらしい。斯くして今回の先駆的試みは見事に失敗、自分は何でもちょっと早すぎるのが欠点か?尤も当玉名市に現在ペットを飼えるアパートは他にないらしく、他のオーナが手堅いのか、入居者の意識に問題があるのか、不幸なことではある。 そんな状況の中、程なくしてまたまたペットを飼いたい入居希望者出現、部屋を見せたら気に入られたとか(と言うより、現在は他に選択肢がないからであろう)。今度こそ、契約書の付帯条項をきっちり整備して、退去時のトラブルを防がなくては!

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住との関わり

住に関わる事業としては、アパート経営を考えた。この事業を私に気付かせてくれたのは、何と会社の先輩と部下の二人で、その二人共上司の覚えが今一つの、云わば問題社員であった事が興味深い。私はアパートの名前を、石貫をもじったピアストーンとし、ロゴは渡米してデザイン業を営む義妹に、昭和の洪水で決壊後取り壊され、今は無い眼鏡橋(現廣福寺橋に架替え)を模ったデザインを依頼した。アパート経営は街中が常識だった当時、田舎では前例があまり無く、ちょっとした勇気が必要だった。後押しして頂いた「ありあけ不動産」さん、「旭工務店」さん始め、多くの方に助けられて首尾良くスタートした。コンセプトは、田舎の環境と都会の快適さの両立とした。設備は第一級、メンテナンスも完璧を目指し、利益は惜しまず再投資することにした。
アパートの住人は若者主体である。これは田舎とて同様、20代から30代が中心である。従って独身か夫婦と幼い子供の一家が主体で、地域との関わりは薄い。市報やチラシを届けても、仮住まいの人々の参画意識は薄い。然し子供が小学校に入学し、PTA等に関わると、少しずつ参画意識が芽生える。何よりも子供達にとっては、アパートも立派な我家であり、情操を育んだ地になる。中には子供の希望で、地区内に一戸建てを建設したい人も現れた。
そこで私はこれらの若い人々に優良な宅地を提供し、地域を活性化する為、農地を一部埋立てて分譲すべく、農業振興地域解除を申請した。然し買い手はあったものの、着工後1年を経過して諸般の理由により取り下げざるを得なくなり、3度目の挫折をした。