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学校その四

学校の形態も、今では大きく変貌した。その一つがバス通学である。我等の時代は長距離徒歩通学が普通だったが、今では安全優先の為にバス通学が大半となった。その結果嘗ては少数だった肥満の児童が、今では珍しくなくなり、大きな問題と成りつつある。私が驚いたのは、米国旅行で垣間見た、子供の超肥満!恐らく親の食生活の影響と思われる。相撲取りみたいな子供が多勢の社会は、健全だとは到底思えない。


学校その三

それにしても、我家の近くにも、不登校の児童生徒が、複数居る。私の子供時代は、生活苦で、欠席の児童もいたが、私は病気以外で休んだのは、一日も無い。何故なれば、家に居れば、母親から「勉強しろ」と毎日毎日、口うるさく、言われていたからである。従って大学に入学した途端、三畳の間借りを見付けて、家を出た。今振り返れば、これこそが文字通り大人への、一本立ちだったのである。


学校その二

結果として、私は玉陵中学ではなく、玉名中学に進学した。この事について、今更とやかく言っても仕方ない事ではあるが、教育委員会等では、問題になったと聞いている。勿論私自身には、一片の責任も無く、玉名高校に進学した。半世紀以前の事なるも、今以て思い出すことがある。


KTTその十六

私は生れ乍らに小児喘息で、虚弱児童だった故に、小学校の長欠児童で、行きたくとも、真面に学校には行けなかった。それを克服したのは、6年生から自転車で、4kmの道を通学始めた頃からである。処が知人の子弟は、病気でもないのに、未だに長欠児童らしい。親も親で、教師が学校に行くように促しても、危機感が全く無く、のほほんとされている。成長時期の欠席は、一生取り返しが付かない結果を招きはせぬかと、私は他人事ながら、心配している。


KTTその八

我が母は叔父に対して、最高学府(東京大学)迄、出て居ながら、財産の半分を寄越せと云うのは、余りにも虫が良過ぎると激高して、それまでは出入り自由だった、我家の敷地を通行禁止にしたのだった。私は当時小学4年生で、突然に従妹弟との交流をも禁止され、戸惑いを隠しきれなかった。今冷静に考えると、農業を、全くしたことが無い、教職員一家が、広大な田畑を相続所有する事に、如何なる理由が存在するのか、私は今以て、全く理解が出来ない。


KTTその一

私が子供だった半世紀以上の昔、石貫地区の有力者は、Kさん、Tさん、我家のT(徳永)が、幅を利かせていた。その根拠は云わずもがな、土地(田畑)である。処が父が、下顎癌(アダマンチウム)を発症して、病院通いをせざるを得なくなり、3者の力関係が、微妙に変化し始めたのである。父は元々から農業はしていなかったが、私が物心付いた頃から、入退院を繰り返すようになった。母は危機感を抱き、高血圧を押して、死に物狂いで、農業をすることに成った。勿論当時小学生の私が、巻き込まれたのは、云うまでもないことである。


冬その七

新年明けましておめでとうございます。処が早々の地震で、新幹線が停止とか、車内に閉じ込められた人々は、さぞかし大変だったでしょう!それにしても地震対策として、古来勧められているのは、竹山なのです。何故なれば、竹は地中に根を張り巡らす性質を持つ故に、地割れや土手の崩壊を食い止める機能を有するからです。処が半世紀をも昔に、我家の東を流れる馬場川の土手が、大崩壊を起こしました。私はどのような方法で復旧するのか見ていたら、握り拳大の石を「蛇篭」という金網に入れて、土手を修復したのです。その結果は絶大で、今では草木が石を取り囲み、びくともしない強固な土手が形成されました。


病気その十

病気は避けられないものもあるが、上手に付き合うことで、共存出来る道も、勿論有る。例えば血圧、私は母親譲りの高血圧で、若くして「若年性高血圧」と、医者から宣言された。ならば「安静にせねばならない」かと思えば、そうでもなく、日常生活は、普通に過ごしても問題ない。但し、守らねばならないことは、血圧の薬を死ぬまで、飲まねばならない事である。要するに血圧は、薬の効用時間が切れたら、必ず上昇するからである。


病気その九

私は子供時代から病弱だったが、父親の20年以上も、長生き出来たのは、一にも二にも「肉体労働をしたから」に他なるまい。何故なれば、巷で出会う人の多くは、やせ型の人が多く、肥満体の人は、殆どが運動が苦手で、日常的に散歩等、体を動かすことをしていない。従って益々肥満がひどくなり、余病を併発して、早くして亡くなる。逆に痩せ型の人は、見掛けは悪いが、暑さに強く、臨機応変に、衣服の着替え等が出来るので、屋外労働等には、非常に適しているのである。


病気その八

病気は誰でも避けられないものだが、その向き合い方も、人様々である。私に例えれば「高血圧」は、遺伝性だと考える。何故なれば、我が母は若い頃から高血圧に悩まされ、その体質は私にしっかりと遺伝しているからである。従って生きている限り、私は薬を飲み続けねばならない。それに加えて悩ましい事なれど、我が子供達に対しても、好む好まずに拘らず、何某かの遺伝は、宿命的に避けられないであろう。


病気その七

昨日は、玉名中央病院にて、前立腺除去後の、シンチグラフィ検査。フィリップス製の、巨大なトンネルを潜って、ガン等の有無の検査があった。結果は聞いていないけれども、我ながら、医療機器の進歩に、驚かされた。恐らくこのような検査機器は、大病院でなければ、備えられて無いので、毎日の様に、広々とした廊下一杯に、患者が押し寄せるのであろう。それにしても今の日本は、少子高齢化に依り、医療は成長産業そのもの!何故なれば、我家の近所の女性も、看護師として、てきぱきと働いて居られるからである。


病気その三

今回の前立腺肥大症の治療は、他の病気と異なった点が多々見受けられた。その最大の特徴は、所謂点滴療法だったことである。要するに手術直後から退院に至る迄、毎日二十四時間、ひたすら点滴を受けた。然し乍らベッドに縛り付けられた状態ではなく、病院の廊下を点滴袋をぶら下げて、図書室に行ったり、談話室に行くような事は許されていた。私は一日でも早く回復すべく、それこそストイックに、リハビリに励んだ。退院した現在でも尚、おしっこは薄いピンク色をしているが、出来るだけ屋外に出て、軽作業を行い、体力の低下を防ぎたいと思っている。


病気その二

それにしても今回罹患した前立腺肥大症は、ホルモンの、バランスの影響で発症するらしく、故レーガン大統領と同じ病気に、私も罹ってしまった。この病気の典型的な症状は、おしっこが出難く(出なく)なることである。私の前立腺は握り拳大の大きさだった様で、尿道を圧迫していたので、トイレでは力まねば尿が出ない状態だった。それだけなら未だしも、入院前には3度に亘り、尿閉状態に陥り、ペニスの先端から、チューブを挿入して、強制的に尿を出さねばならなくなった。この治療は耐え難い痛みを伴い、排尿は鮮血に染った。


病気その一

私は生来虚弱体質で、特に幼少の頃は、病気のデパートみたいに、ありとあらゆる病気を体験した。処が長じて大人になるに付け、健康体を取り戻し、退職後は農業に生き甲斐を見出し、充実した人生を過ごせるかに思えた時期もあった。処が晩年になり、今度は健忘症がひどくなり、間違いが多くなって、周囲の人々に、迷惑を掛けることが増えた。健忘症は脳のシナプスが、退化する為に起きる症状らしく、意外に厄介な病気である。典型的な症状は、直前の行動を忘れる事で、例えば田圃に「クワとスコップ」を持って行ったのに、帰途にはスコップを置き忘れた様な症状で、酷い場合は数週間後に見付けることもある。


夏その二十二

広島と長崎に原爆が投下され、日本が無条件降伏して、第二次世界大戦が終結した。私はその1年半後に生まれたので、当然乍ら戦争は知らないが、親から幾度も聞かされ、頭に叩き込まれた。「敗戦」と云う二文字の重たさが、天皇を含む全国民の上に、重く圧し掛かったのである。我家は当時庄屋であったので、敗戦の痛みはより苛酷に感じられた。その最たるものが、米国が主導した「農地解放政策」だったのである。戦前の我家は、4町歩程の土地を所有していたが、戦後は1/4の一町歩に縮小された。その理由はGHQが「庄屋階級」の存在こそが、戦力の源泉だと、一方的に見做したからに他ならない。何故なれば、農地開放で、棚ぼタ的に得た、虎の子の農地を、殆どの農家は、後生大事に守り、未だに狭隘田のオンパレードが続いているからである。


夏その十四

夏の真っ盛りの今頃、只でさえ暑苦しくて堪らないのに、大声で子供を、叱っている声が聞こえる。それにしても、今年の夏の暑苦しさは、例年を遥かに上回っている。嘗ての夏は、昼間は仕事を休み、朝夕に仕事をしていたが、最近は朝夕も温度が下がらず、所謂熱帯夜が、毎日の様に成りつつある。私は毎夕、犬の散歩に行くのだが、最近は犬同士の鉢合わせが、めっきり少なくなった。その理由は、蒸し暑さとしか考えられない。地球の将来は一体どうなるのだろう?私は70歳をも超えた老人故に、已むないけれども、若い人々の将来が、とても心配である。


夏その十二

我家と対照的に、叔父の一家は、昭和の時代に故郷を捨てて、熊本市に移住した。我家と比肩する田畑山林を所有すれども、最早戻る術は100%無かろう。何と言う先見の無さ、誤った時代認識!あれもこれも、打ち捨てて、何としようか?土地は荒廃が進むばかりで、僅かに残された水田のみを、知人に無償で貸している。我家の向いの畑などは、最早ジャングル状態と云うしかない。不在地主とは云えども、見れば情けない限りである。


夏その三

高校教師の叔父が、葬儀費用すらをも貸せない等とは、常識では考えられず、明らかに両者には、大きな亀裂が出来ていた。母は仕方なく、自分の姉に金策を願い、何とか葬儀を挙行することが出来た。然し母の気持は収まらず、早速反撃に出た。叔父の家は我家の裏に在ったので、通行禁止にしたのである。叔父は困り果て、止む無く人一人が渡れる橋を架けて、出入り可能としたのだった。現在は電柱を渡して、私個人の私道として、利用している。


夏その二

前日まで元気だった父に、如何なる病魔が襲い掛かったかは定かではないが、急死した事に依り、テンヤワンヤの大騒ぎになったことは間違いない。先ずは葬儀をしなければならないのに、その金がなかったらしい。自宅裏に住む叔父に貸して欲しいと頼むも、断られたので、母は実の姉に頼んで金策をしたのであった。


P&Pその十五

農業に限らずとも、この世には、公にすべき事と、秘すべき事とがある。然し乍ら、農業はハウスを除けば殆どが屋外作業なので、秘そうにも秘せない特徴を有する。そのことは農業者の私にとっては、極めて好都合であり、只で技能(農作業)を、盗むことが出来る。例えば天神平の借地で昨年まで、苗代をしたが、何故か水不足で、籾の発芽が悪かった。処が水路を挟んだ下の田は、水路からの漏水で湿地帯になった。其処で、S氏はこの土地に、稲を植えず、何とイチジクを植えられたのである。何故なれば、イチジクは水気を好む植物で、嘗て我家の排水溝の脇に、植えてあった記憶がある。


P&Pその十二

人は身勝手な存在かも知れない。確かに何処に住まおうが、誰と住まおうが、自由な選択肢を得られる。然し乍ら、全てが自由かと云えば、そうではなく、矢張り周りの人々との関りを通じて、社会生活を送らねばならない。私は高校、大学、企業を通じて、数多くの人々と交わり、得難い経験をさせて頂いた。その糧が今では無形の財産として、体の隅々まで、染み通っているように感じる。


P&Pその七

そんな父が昭和31年7月16日に、ぽっくりと亡くなった。死因ははっきりしないが、恐らく泥酔の結果による心臓発作であろう。私の記憶では、お手伝いの、宮前艶子さんが、大声で泣き乍ら、裸足で走って来たのを、亡霊のように記憶している。兎に角この日を境に、我家は谷底に突き落された状態となり、全ての歯車が止まってしまった。当時は通夜・葬儀をする金も無く、叔父も貸して呉れないので、母は滑石の姉から、急遽借り受けて、凌いだのであった。そしてこの日を境に、我が母は叔父一家に対して、絶縁状を突きつけた。要するに、我家の敷地を立入禁止としたのである。


梅雨その二十

梅雨の時期はうっとおしい毎日が続くけれども、この時期ならではの良さも又ある。それは「振り返り」とも「反省」とも言える。自宅に籠り、70年以上も生きて来た、自らの生き様を、見つめれば、自ずと先が見えて来る。それは穏やかな下り坂と、表現すれば良いだろう。最早新しい事は出来ない。危険な事も出来ない。増してや初めての事も出来ない。ではどうするか?その答えは、今までに遣って来た事、馴れ親しんだ事を、細々と遣り続ければ良いのである。それが農業!私は死ぬまで農業だけは、続けるつもりである。


梅雨その十七

それにしても門徒総代の仕事は、想いの他大変だった。要するに門徒衆から、寄付金を集める仕事である。その主な使途は、金堂の瓦の葺き替え、駐車場の拡張、墓地の拡張等々、次から次へと要請が来る。私はその要請を、渋る門徒を説き伏せて、承諾を得ねばならない。今考えても「よくぞ大役を引き受けた」と思う。それにしても、他の役職なら、何かの見返り位あっても良いのに、私はそれこそ徒手空拳で、戸別訪問を行い、多額の費用を捻出したのだった。


梅雨その十五

昨夜は知人の不幸で、葬儀に参列!今や日本は長寿大国に成ったのは、良い事なれども、私を含めて、健忘症や、痴呆症を発症すると、周りの人々に、大変な迷惑を、掛けることに成る。私に限れば、田畑への農機具の置き忘れが、最大の問題であろう。それかと云って、各種の農機具を、腰にぶら下げる訳にも行かず、ついつい其処らに置いた儘、忘れてしまい、数か月後に、真っ赤に錆びた物を見付ける羽目となる。更に危険なのは、草むらに置いた侭の農機具を、草刈機で伐る事!一歩間違えれば大怪我になる。


梅雨その十三

人生には幾つかの転機があると言われる。あれ程にエアコンの騒音クレームで苦しんだ私に、一大転機が訪れた。同じ三菱電機の熊本工場への、転勤の勧めである。それを橋渡したのが、仕事柄、殆ど交友が無かった、総務課の隣室の男性であった。今考えれば、この人こそが、私にとっては「運命の人」であると、云えるのだろう。


梅雨その十二

運命と云うものは、実に摩訶不思議なものである。私は親しくも無く、アパートの隣室乍ら、殆ど話もしたことも無い、総務課の男性の機転で、三菱電機和歌山工場から、同社熊本工場に「超法規的措置」として、転勤と相成った。そして同時に、私が提出していた「退職届」は破棄された。この一連の顛末を描いた男性には、御礼もしていないが、私の運命を導いて頂いた人であり、感謝しても、感謝しても、しきれるものではない。合掌!


秋その七

今日は家内の要請で、熊本市内の病院に入院中の、小母の見舞い(の付き添い)に行く。態々注釈まで付けたのは、車の運転は私以上の家内が、熊本市内を走るのが不安なのか、助手席から、右左と的確に指示を出せるのに、何故か運転だけは、私にさせるのである。この辺の感覚が、男女の違いかも知れない。男の私なら、行先だけを聞けば、何処へでも行けるのに、家内は、勝手知ったる道以外は私に任せて、決して自分では、ハンドルを握ろうとしない。


陰謀その四

死人に口無しと言うけれども、我が上司は、一旦しゃべり始めたら、止まらない人だった。それも真実なら、未だ許せるけれども、内容は口から出まかせ、自分の演説に酔ったかの如く、誰かがストップしなければ、永遠に続くような、関西弁での演説だった。聞く方は、やれやれと思っているのに、そのことが分からなかったとしたら、これは一大事と言うしかない。


陰謀その二

「陰謀」と言う言葉からして、如何わしい響きがあるが、陰とは「隠れて行う」行為を指す様で、直に思い出すのが、例の「浅間山荘事件」である。最早長い年月が経過して、人々の記憶も朧げになっただろうが、私は、今尚鮮明に覚えている。それは、我が従弟が、この事件に関わったとして、逮捕・拘留されたからである。


盛夏その七

夏は暑いものだと思えども、近年の暑さは、老体には過酷とも言える厳しさである。然し暑いからと云う言い訳で、農作業をサボれば、その咎めは確実に来る。毎日の夕刻、犬の散歩がてら、田圃を覗けば、前日には無かった稗が彼方此方に、顔を出している。稗はイネ科なので、田圃で見分けるには、ちょっとした技術が必要で、手遅れにならぬ内に、刈り取らねば、翌年以降に大いに影響する。


盛夏その三

今年も終戦記念日が遣って来た。私は一人っ子だが、この時期になると、何故か遠い昔の情景が脳裏に蘇る。それは虚構であって、実際には私はその時は、生まれて居なかった。恐らく母親から繰り返し繰り返し、何度も何度も、戦争の話を、聞かされたからなのである。その話の主旨は、B29、防空壕、昭和天皇の詔勅、農地解放、下顎癌、共産主義、留置場、拷問、アダマンチノウムetcだった。


キリスト教その三

宗教に纏わる事象は数え上げれば限がない。何故なら一人一人が描き求める宗教観が、一様ではないからである。我が父は若かりし頃、共産主義に被れていたので、無信教だった筈だが、寺や神社には屡、私を伴って、訪れていた。当時の私の記憶は、頭を強引に、押さえつけられたことである。


葬儀その二

亡くなった老婆は、若くして戦場に散った夫を亡くし、女手一つで農業をしながら、必死になって子育てをされた。こんな人々は全国津々浦々には多数居られるだろうが、未亡人が生きている限りは、政府から手厚い遺族年金を、支給される仕組みに成っている。そして一般人の年金給付水準が削減され様とも、戦没者遺族年金だけは、例えどんな事があろうとも、びた一文たりとも削減されない。これこそが、掛け替えの無い命の対価だと、云えるのだろう。


葬儀その一

今日は、近所のAさん宅の老婆が他界されたので、昨夜の通夜から今日の葬儀に、二日連続で参列した。昔は自宅葬が多かったが、最近は葬祭場での葬儀が殆どとなった。それにしても、喪服を着ての真夏の葬儀は、幾ら冷房が利いていても、矢張り蒸し暑い。その上に葬祭場への道路が、工事中でもないのに、通行禁止で通れない。私がクレームを付けたが、頑として通して呉れず、大きく回り道をせねばならない。本当に行政と云う処は形式主義の人種で、融通と云うことを全く理解出来ない、コンコンチキの石頭と言うしかない。


父その十九

この世に例外のない事例は無いとも言われるが、私の一年後輩のY君が入社した時の挨拶で「自分にはフィアンセが居るので、女性は自分に近付かないで欲しい」と云ったのには、私は仰天した。男はこんなことは、例え思っていたとしても、決して口には出さないものである。それをしゃあしゃあと言い放ったY君は、後年何と、クレームの責任を取り、辞表を提出した私とは対照的に、和歌山製作所長に迄上り詰めたのである。


父その十七

父の人生は、劇的で短く、且つ悲哀に満ちていたと云えるだろう。敗戦後にGHQが、公職追放令を発布して役職を剥奪したのも、凋落を早める結果となった。官憲の遣り方は、表向きとは対象的に陰湿で汚らしい。私が就職した昭和の時代ですら、少しでも左翼運動に関わっただけで、どんなに優秀な人間でも、先ず幹部には成れないと、陰では噂されていた。


父その十六

それにしても、我家の家系は異色としか言いようがない。何故なれば、父は若かりし頃に、左翼運動に身を投じ、命すらをも失う寸前まで至り、留置場の独房で、看守に拠って正座をさせられた上から革靴で踏み付けられ、余りの激痛に父は気を失った。それでも転向(共産主義を放棄すること)を、頑強に拒んだのである。他方その弟(叔父)は、東京大学卒業後、熊本県の教育次長にまで昇り詰め、言うなれば、日の当たる出世街道を、突き進んだ。この両者の対比は、同じ両親から生まれたとは思えず、両極端の性格だった。


父その十五

イデオロギーは、ややもすると暴走する。父が何故共産主義運動に身を投じたかは、私には理解不能だが、私が思うに、無産階級なら未だしも、いみじくも庄屋の看板を掲げながら、左翼運動をするのでは、自己矛盾を免れない。恐らくこの点では、父も迷いの中に居たと思われる。だから農家でありながら、農作業はせず、談論風発随筆をしたためたり、幼い私を連れ、友人宅を訪れて、暇を紛らしていたのではないかと、推察できる。



父その六

我が父は勿論、明治生まれだが、6歳年下の母とは、再婚の関係にある。それ故に当時としては晩婚だったので、私が物心ついた頃には既にお爺ちゃんのイメージで、周りの若い両親と比べて、羨ましく思っていた。それは特に、授業参観の時に顕著に表れていた。教室の後にズラッと並んだ保護者を見れば、20代前半の若い保護者と、30代後半の、中年保護者とでは、親子程に年齢が違うからである。


ベトナムそのエピローグ

ベトナムを含むインドシナ半島諸国は、戦前からの欧米に拠る植民地支配から独立すべく、多くの血を流して来た。日本もその一翼と見なされた時期もあったが、敗戦後はきっぱりと領土的野心を捨てたことから、アジアの友人として振舞うことこそが、更なる信頼を得ることになると信じている。


ベトナムその二

グアム島にて一泊した後は、再び小型航空機で、サイパン島に向かった。サイパン島は米領のグアムとは異なり、戦時中に日本軍が占領していたので、沢山の戦争遺跡やら、壊れた軍需品が、赤く錆付いたまま、彼方此方に転がっていた。それにしても、サイパンの北側には、屏風を立てたような壁岩(通称万歳クリフ)が垂直に聳えていて、米軍に追い詰められた日本軍が、米軍の投降勧告を拒否して、次々に飛び降りた、目も眩む様な恐怖の岸壁だった。他にもテニアンや、沖縄等々の日本軍は、何の罪もない、多数の非戦闘員をも巻き込んだことにて、野蛮のそしりを免れず、絞首刑にされた「東条英機」以下A 級戦犯の罪は、殊の外重いと言わざるを得ない。


体育その九

嘗て東京新宿に住んでいた、私の母方の従兄は、当時代議士だった小坂徳三郎氏と親交があった。私は東京出張の折には、幾度かお邪魔して、泊まらせて貰ったこともあった。何せこの家は大豪邸で、トイレが3ヶ所もあった。然し従兄は、若かりし頃に、誰かか投げた矢が目に刺さり、所謂「丹下左膳」となっていた。そんな成功者であっても、我が熊本の田舎も見たかったようで、何時かは大型リムジンを駆って、態々東京から熊本迄、ドライブして来たのだった。


義母エピローグ

私には二人の母が居た。一人は実母、そして義母!両者の性格は、正反対と言えるほどに違っていたが、何れも気丈で働き者であったことは、不思議と共通している。実母は一人息子の私に過大な期待を寄せ、学業成績に余りにも拘り過ぎた。その理由は、叔父が東大卒なのに、父が肋膜を患い、中卒だったので、コンプレックスを抱いていたのだろう。他方義母も、一男三女を儲け乍ら、末息子の歯科大入学に、過大な期待を押し付けたのは、私の立場と奇妙なる共通点がある。寅さんではないが、将に「男は辛いよ」の世界であった。終わり


義母その三

義母の特徴は、何と言ってもプラス思考!それを支えていたのは、ひょっとしたら義父だったのかも知れない。その証拠に、人物評価がすこぶる厳しかった我が実母すらをも「義父は良い人」だと評価していた。その義父は、極めて謙虚な人柄で「自分は歯の治療しか出来ないが、おっかさんは、何でも上手で、出来ない事は無い!」と、自分の妻を高く評価していたからである。現に忙しい中に、ちょっとした暇を見つけては「スイーツを作ったから、食べなさい」と、夜間になって我家に持参するような、まめな性格の人でもあった。注・我家と義母宅の距離は大凡10km。


義母その二

義母は阿蘇小国郷出身!明治生まれの我が母より一回り近くも若くて、すこぶる元気も良かった。当然家に大人しく留まる人ではない。ミカン箱一つから創業をして、最盛期には数名の従業員を雇用して、薬局の他に、化粧品外販をも手掛け、立地条件にも恵まれていたことから、大いに繁盛していた。然し全てが順調だった訳ではない。ビジネスが伸びるに従い、家庭内は次第に隙間風が強くなった。そんな時、義母は屡我家に来て、何故か「私」にアドバイスを求めた。然し人生経験も乏しい私が、有益なるアドバイスが出来たとは言い難く、全くの力量不足だったとしか言いようがない。


記憶

物事を覚えることを記憶と言う。これは人間に限らず、動物特有の特性で、犬や猫・鶏などの下等動物でも、ちゃんと有している。赤ん坊が乳飲み子の頃から、母親と他人の見分けが出来、所謂人見知りをするようになるのも、記憶に他ならない。勿論私にもその時代があり、他人から見ると、厳つい形相をしていた、おばばの背中で育ったのも、記憶に他ならない。その昭和20年代、両親は私に絵本を買って、所謂読み聞かせをして呉れたらしい。すると何度か聞くただけで、暗記するようになり、後には絵本を見ただけで、字は読めずとも、すらすらと話せるようになり、父母共にとても喜んだとか。勿論私は当時のことを覚えてはいないが、当時は確かに暗記力はあったと思う。処が今では惨憺たる有様と成り果て、全く以て情けない限りである。人の細胞は、再生能力があるが、頭脳細胞だけは、その機能がなく、健忘症はひどくなれど、改善は望めない。そんな私が今出来ることは、記憶に頼らず出来ること、即ち農業である。これをなくしたら、俳諧老人か、寝たきり老人になること間違いなし。終わり


頭の構造

私は時々変なことを考えている。なぜ自分は今此処に居るのか?何故こんなことをしているのか?或いは、今の状況を生み出したのは、何処の誰なのだろうとか?所詮とりとめもないことだろうが、考えると益々分らなくなる。と言うのも、齢70にもなれば、最早若かりし頃の様に、活発な活動も出来ないし、他から求められてもいない。然らば、日長一日を何もせず、ボンヤリと過ごすのも退屈するし、健康に良いとも思えない。そしてたどり着いた結論は「時間の無駄使い」と云うことに落ち着く。半世紀前の頃は、年配者の仕事は、男は「草むしり」女は「裁縫・子守」だった。当時は戦後のベビーブームで、どの家庭も、子沢山で、貧しかったが、何か言い知れない活気があった。私は病弱だったが、雨天以外の日は、近所の子供達と、野山を駆け回っていた。当時はTVもゲーム機も無く、家の中で遊べるものは、座布団か、火鉢位だったからである。親達は、ラジオから流れる歌謡曲や浪曲を聞いていた。それでも誰も、自らを不幸とは思わず、奇妙な解放感に満ち溢れていた。あの時代から最早60年もが経過した今、当時が堪らなく懐かしい。そんな今、時代は何処へ向かうのだろう。例えば、我が小学生時代の石貫小の児童数は二百有余名、それが今や複式学級の一歩手前で、数年後には小中一貫校に改変され、米国並のバス通学になるとか!人の幸せは、金や権力では動かせないことを痛感する。終わり


テロ

十数年前、イギリスに住む従妹夫婦から招待を受けて、ロンドンへ遊びに行った。当地での駐在員の仕事が一段落したので、帰国前に来て欲しいとのことだったからである。然し行って驚いたのは、家屋が滅茶苦茶になっていたからである。欧州は日本と違って台風も来ず、災害のない国なのに「何でこうなったの?」と言えるほどひどく壊れていた。それは、貸家の住人がノーメンテナンスで、雨漏りすら修理をしなかったからである。イギリスの家は日本同様に、二階建てが多いが、その家は一部三階建だった。早速翌日から作業開始。と言っても、大工でもない我等が出来る仕事は、ガラクタ整理と片付け、若しくは床板張りとか、板壁修理位が精々である。数日後には手に余ることを知り、ギブアップとなった。
観光もロンドン市内に幾度か連れてって貰った。印象深いのはイングリッシュガーデンや花壇で、日本とは全く違う様式だが、バラをモチーフにした、各種の庭園は何れも個性的だった。或る日は、ケンブリッジ大学を訪問して、歴史を偲んだ。何と構内には小川が流れていて、ボートにも乗れるほど広いキャンパスである。
そんな或る日、私は従妹に、フランスに行きたいと申し出たのである。その動機は今以て定かではない。そして北ロンドンの、セントパンクラス駅からパリへの一人旅をした。勿論地理不案内の身故に不安はあった。支えは現役時代ドイツで仕事をしたことと、オランダ・ベルギー・ルクセンブルグを旅した経験である。例のユーロトンネルを使い、パリに着き、予約していたホテルにも無事着いた。
そして早速観光へ!地下鉄とタクシーを乗り継いで、先ずはエッフェル塔見学。然しアフリカの観光客が長蛇の列で、何時上れるかも分からない混み様で断念。次は例のダイアナ妃が、亡くなった場所を見学!そして有名なシャンゼリゼ通りと凱旋門見学。近くのレストランで食事していたら、アメリカ人の小母さんと親しくなり暫く話をした。次はルーブル美術館で、長蛇の列も覚悟してモナリザを見学!思ったよりも小さくて、少々がっかり!
そのパリで、先日イスラム過激派のテロ発生。大勢の方が亡くなった。海外旅行は危険と隣り合わせなのは分かるが、当時はそれほどの危機感は感じなかった。そんな私も齢70を目前に、最早海外旅行はあるまいと思っていたのに、何とまあ、昨年末より今年に掛けて、家内と孫とで10日間の豪州旅行。勿論長女からの招待である。それにしても、今回のフライトは往復共にタイのバンコク経由の為に、トランジットタイムが、往復で何と16時間も有ったので、孫も私も流石に退屈した。私は嘗て、タイ国に谷口恭子先生と、ご主人の巳三郎氏を訪ねて何度も行った身である。今回はタイでのトランジットタイムを利用して、巳三郎氏の教え子タワン君に一目会いたいと、メールをしたが、生憎チェンマイ行きとのことにて、遭えずじまいとなった。家内は息子が住む、米国シリコンバレーにも行きたいらしいが、私は齢70を目前に、これ以上海外旅行に行く気持ちにはなれない。何故なれば、日本・玉名・石貫の此処こそが真に「地上の楽園」とも云える素晴らしい場所だと、思えるようになったからである。終わり


出向

私が農業、就中米作りを始めたのは、十数年前のことである。60歳の定年を待たず、56歳で三菱電機熊本工場を早期退職したのは、所謂肩叩きを受けたからである。肩叩きとは良く言ったもので、殆ど入ったことも無い、広々とした総務部長の部屋へ招かれ、慇懃なもてなしを受けた後、徐に切り出されたのが、KK南星への出向の誘いだった。企業組織は所謂ピラミッド構造になっていて、上層部へ行くほど狭くなる。従って毎年何人かが辞めるか、出向せねば、ポスト不足になる。そんな時、他の人が如何に対処したかは分からないが、私は殆ど抵抗もせず、云われるが侭に「何処へでも行きます!」と応えた。その結果、決った行先が熊本の地場企業「南星エルメック」だった(エレクトリック・メカニックをもじった社名)。同社の専務とは予てより懇意だったので、迷うことはなかった。然し出向先での仕事は予想外だった。専務の思いは「元在籍していた部門から仕事を貰って欲しい」との一念だったに違いない。然し私には変なプライドがあった。何となれば、そうするには、元部下に此方から頭を下げて、仕事を出して貰わねばならない。
従って専務の意向に逆らって、同業他社から仕事を貰おうと考えた。出社後、企業年鑑を紐解いて、仕事を貰えそうな会社を見付けて電話する。相手は勿論初めてなので、冷たい対応。そこで私は電話を切らせまいと必死に粘る。大半の社は忙しいからと断られるが、十社に一社位は来ても良いとの返事。私は専務に「訪問させて下さい」と願い出る。勿論私一人ではなく「営業部長」が付き添って、社用車のコロナでその会社へ。先ずは九州管内を攻めようと県内はもとより、殆ど九州全県の他、遠くは広島県まで訪問した。然し営業は実際に遣ってみると、想像以上に難しい。三菱電機の下請け企業として長年遣ってきた実績のみでは、他社に売り込む力が弱く、やはり自社開発の製品を持たねば、この業界では勝てないことが分かった。そんな私に専務は、文句の一つも言われなかった。
そんな或る日のことである。ふと見上げれば何と我が娘が、会社の玄関に来ているではないか!私はビックリ仰天して「何で来たの?」と尋ねた。娘が言うには、会社を辞めたので、私が出向した会社で雇って欲しいと云うのである。私は困ったことになったと思った。恐らく専務も同じ想いをされたに違いない。然し流石は専務である。「自社では雇えないけれども、隣の南星電機なら、雇えるかも知れない」と。私は咄嗟に「宜しくお願いします」と、口走ってしまった。
あれから最早十余年、専務の暖かい、お言葉のお陰で、娘は南星電機に入社し、そこで今の夫と出会い、結婚してその後、今度は私の元上司が社長をされていた、日本電子材料に入社させて頂き、現在に至っている。今振り返れば、私も娘も、素晴らしい上司と、類稀な幸運に恵まれたお陰で今現在が在ることを、諸先輩に感謝せねばならない。終わり


旧友

人は人生の中で多くの人々と出会い、そして別れる。70年近くも生きれば、夥しい人数となるだろう。私は石貫小から玉名町小へ転校・玉名中・玉名高へ進学した異色の経歴を持つ。中で最も強い感化を受けたのは、玉名中学時代の三浦強助校長である。定期的に体育館に全教員・全校生徒が集められて校長の話が始まる。校長の訓話などは、面白くもない内容が殆どで、退屈するのが一般的だが、三浦先生の話は他の校長とは全く次元が異なっていた。恐らく自らの人生で、身を以て体験された事柄が、ベースとなっていた為だと思う。私は当時、虚弱体質だったので、長時間立った侭で講話を聴くのはとても辛かったが、内容が素晴らしかったので、何とか我慢出来た。特に印象深かったのが戦時中の話で、今振り返れば、感受性豊かな中学生に、教育委員会の内規にぎりぎり抵触しない形で、それとなく“反戦教育”をされていたのだと思う。然し当時は衛生状態が悪く、蚤や虱が多かった。特にギュウギュウ詰めの体育館では、誰かが持ち込んだ蚤が、腕や足を這い回って居たようで、校長訓話どころではなく、ボリボリ、ゴシゴシ、掻きまくっていたのを思い出す。
又、親しい友人を得たのも、玉名中学時代である。何せ一クラスしかない石貫小と異なり、6クラスの玉名中では、毎年クラス替えがあり、その度に友人が増えていくからだ。中でも印象に残る友人がU君である。どんな切欠で彼氏と親しくなったかは記憶に無いが、何故かとても気が合い、何時も一緒に行動していた。その大きな理由が、私に無いものを彼氏は持っていたからだ。それは“素晴らしい運動神経”である。私は大の運動音痴で、走るのも遅く、泳ぎも苦手で、鉄棒の逆上がりや、マット運動も下手糞だった。それに引き換え、U君はスポーツ万能、特に鉄棒や逆立ちが大得意で、何とひょこひょこと、逆立ちのまま体育館内を一周していた。又水泳では、潜水泳法で25mプールを泳ぎ切る程のスーパーマン。私はプールサイドから、羨望の眼差しで彼氏を応援していた。
あれから早半世紀余。最近米作りを希望する人が、幾人か我家に来られるようになった。中でも最も熱心なのがW氏。小型耕耘機まで持ち込んで、米作りに挑戦されている。私がそれとなく観察していると、誰かにとても良く似ている。そして数日後、我家に来たのがW氏の父親で、何と私の嘗ての親友、U君ではないか!私は小躍りして喜んだ。現在は保険関係の仕事をしているそうだが ”縁は異なもの”と言う表現が、ぴったりの出来事だった。
追伸:三浦強助氏は玉名女子高等学校第二代理事長。氏の子女と私は、熊本大学工学部の同級生。


墜落

乗客乗員239人を乗せたマレーシア航空MH370 便が消息を絶ち早1年を過ぎたが、真相解明は一向に進まず、親族は未だ精神的、身体的苦痛に苛まれているとか。同便はマレーシアのクアラルンプールを離陸後、中国・北京へ向かう本来の飛行ルートを外れて、西へ針路を変更したあと、南へ向かい、そのまま消息を絶った。これまでインド洋で捜索が続けられているが、手掛かりは得られていない。マレーシア当局は今年1月29日、乗客乗員は全員死亡したとみられると正式発表した。遺族が補償手続きを進められるようにするための発表だとしたが、親族の多くはこの宣言に憤りを感じるとともに、何の成果もないまま、事件の真相究明作業が打ち切られるのではと、不安を募らせている。政府とマレーシア航空は、何も隠蔽していることはなく、オーストラリア主導の捜索に、全力を尽くしていると主張する。同便の乗客の3分の2が中国人で、中国政府の一人っ子政策の影響で、事故の犠牲となったのが、家族にとり唯一の子供だったケースも多い。中国人の親族20人近くは、2月から当局に説明を求める為にマレーシアに滞在しているが、当局からは面会を拒絶されているとか?為に親族の多くが不眠症や食欲減退、パニック発作のほか、深刻な高血圧や心臓病等の病気を訴えている。航空機が消息を絶った日から、一度も中国に戻っていない人もいるとか?
そんな中で、又もや墜落事故が発生した。ドイツのケルンに本社を置く格安航空会社、ジャーマンウイングスのエアバスA300型機である。同社は1997年にユーロウイングスの一部門としてスタート、2009年1月、ルフトハンザドイツ航空の完全子会社となり、エアバス機を使用してドイツ国内・欧州各地への運航を行っていた。そして運命の3月24日、バルセロナ発デュッセルドルフ行きの9525便が、フランス領内に墜落し、搭乗者150名(乗客144名、乗員6名)全員が死亡した。
これら2件の事故には不思議な共通点がある。両機共にエンジンや機体のトラブルではなく、パイロットに依る故意の操作が、墜落の原因になっていることだ。そもそも人間の業務の中で、航空機の操縦以上に責任の重い仕事は無いだろう。数百名の命を一手に預かるからには、知識経験の他に、肉体的・精神的タフさが要求される。その為に、パイロットは高額の報酬を得ることは勿論、社会的にも庶民の憧れであり、特権階級なのだ。世に“気違いに刃物”と云う諺があるが、若しもパイロットが精神的に病んでいたとしたら、乗客はいとも簡単に地獄の底に叩き落される。それにしても、マレーシア機の事故は、恐らく就寝中に突然悲劇が襲い、殆どの乗客が訳が分からないまま、水没する機体と共に溺れ死んだろう。それに引き換え、フランスの事故は昼の日中、機長がトイレに出た隙に、副操縦士が機体を乗っ取り、機体諸共に墜落させた。これは太平洋戦争末期の特攻作戦と変わりない。然し何の罪も無い乗客150人は、急速に迫り来る山壁を目の当たりにして泣き叫び、機内は“阿鼻叫喚”の渦に包まれたろう。考えただけでもゾッとする。それにしても今回の墜落には、不可解な点が余りにも多い。先進国が管理する安全な飛行ルートで、何故今回の悲劇は防げなかったのか?日本人犠牲者の永田さんと佐藤さんは、いずれもドイツ・デュッセルドルフ在住。佐藤さんは、三菱系機械商社「西華産業」の社員で、北海道出身の42歳。同社の欧州現地法人に勤務していた。
私も嘗て、海外半導体工場建設に携わり、数ヶ月間ドイツに滞在した。その拠点は、デュッセルドルフとアーヘンのホテルだった。当時、多くの日本人が出張でドイツに来たが、殆ど2~3日の滞在で、会議が終わり次第、そそくさと帰国した。一人残された私には、山の様な宿題が与えられ、遅れに遅れたスケジュールを進捗すべく、日夜苦悶していた。その過程を通じて海外事業程、外見と実態が異なるものはないことも思い知った。
あの当時から最早20年!スペイン・バルセロナ発デュッセルドルフ行き、ジャーマンウイングス・エアバスA320が消息を絶ったのは、3月24日午前(日本時間夜)。同社に拠れば、墜落機は午前10時1分(同24日午後6時1分)、デュッセルドルフに向け離陸、10時45分に約15000メートルの高度に達した。然し、間もなく急降下が始まり8分程度降下、10時53分にレーダーから姿を消した。墜落現場はフランス南東部のアルプス山中で、機体は原型を留めず粉々の状態で発見された。同機には乳児2人を含む乗客144人と操縦士2人、客室乗務員4人の計150人が搭乗。搭乗者名簿によると、日本人男性2人のほか、ドイツ人67人、スペイン人45人、トルコ国籍の乗客もいたとみられる。現在600人態勢で捜索が続くが、オランド仏大統領は、生存者はいないとの見方を示している。黙祷!


相撲

大相撲初場所で史上最多33回目の優勝を達成した白鵬が、稀勢の里との取り直しの勝負判定について「肌の色(=国籍)は関係ない筈」と発言したことから、相撲協会へ電話が殺到したとか。その9割程が白鳳への“抗議” で 残りは白鳳の主張を“肯定”するものだったとか。この問題の発端は、白鵬が人種差別を批判したと取られ兼ねない発言をしたことに「そういうことを口に出すこと自体が失礼で、そのように思ってはいけない」との怒りや、審判に対して申し立てたこと自体に、苦情を言う人もいたとか!
私はこの問題を考え乍、30年前の自分ことを思い出した。当時の会社組織は事業部制と言い、例えば発電機や変圧器は重電事業部、エアコンや冷蔵庫は冷熱事業部、ICは半導体事業部などと、事業部毎に独立採算制を採っていた。あれは1984(昭和59)年の暮れ、私が三菱電機和歌山から“超法規的措置”で同社熊本に転任した頃だった。当時、事業部を跨ぐ転任は、他社へ移る位の大変化で、半導体について私は“ど素人”だった。そんな人間を拾って頂いたS部長には、今も足を向け寝れない程お世話になった。そればかりか、私の資格は“主事=係長級”だったのに、転任後時を経ずして“主幹=課長級”に取り立てられ、部下も30名近くとなり、とんとん拍子に昇進したのである。当然のこと乍、コツコツと努力して、漸く地位を獲得した人々の心中は、穏やかでなかったと推察される。その証拠に、私と同年輩で、転任後あれこれ親身に教えて頂いたI氏が、次第に私と距離を置き始め、反対意見を述べるようになった。そのことを上司はとても心配され、幾度かアドバイスを頂いたが、私の甲斐性のなさで、正常化出来なかった。その後上司の転出と共に事態は一挙に暗転!私は衣を剥ぎ取られた蓑虫の如く、吹き荒ぶ寒風に晒され始めたのである。
これは要するに“出自の違い”だと考えれば良い。同じ企業でも、黒字の冷熱部門と、赤字の半導体部門では、企業文化が全く異なる。赤字続きで長年苦労した半導体部門は、黒字になった途端、それまでの怨念を一気に晴らすかの如く、全社設備投資の半分近くを獲得する迄になり、担当役員が度々来熊し、幹部を集めて秘密報告会が開かれた。こんな場面で、私の様な異部門出身者は何かと余所者視され、居辛くなる。大相撲で言えば、私は所謂“モンゴル族”だったのだ。当然乍、異なる事業体から来た人間が、突然スポットライトを浴びれば、生え抜きで長年月苦労をしてきた人間は、面白く思わないのが普通で、私はその対象だったに違いない。
私は思う。大方の組織体は、発足初期の段階では一枚岩で、ベクトルも揃い、まっしぐらに成長する。然し更なる高みを目指すには、敢えて異分子をも取り込まねばならない。三菱半導体が、身内の論理に囚われ過ぎて、マーチュアー(immature)なメーカーに成り下がったのを他山の石にして、今の大相撲は国籍や人種を問わず、広く全世界に門戸を開けて、有望な人材を招き入れることが、最重要課題なのである。それを成してこそ相撲が真の意味での“国際的スポーツ”と認知され、柔道やレスリングの如く、オリンピックの種目にも採用されることになるだろう。終わり


脱脂粉乳

私は石貫小入学だが、玉名町小卒業なので、れっきとした町小メンバーの一人でもある。尤も町小で学んだのは、6年3学期の僅か3ヶ月間だったが、今も尚私の脳裏に“鮮烈な印象”を残すことになった。それは石貫小には無かった学校給食である。パンと脱脂粉乳、マーガリンの三点セットは保存性がよく、蛋白質、カルシウム、乳糖などを多く含み、栄養価が高いことから、戦後暫く学校給食に用いられた。主にユニセフからの援助品である。
その内に私にも給食当番が回って来た。バケツに入れた粉ミルクを、粒々が無くなるまで柄杓で掻き回し、各児童のアルミカップに注ぐ仕事である。何時か、ミルクを運んでいたら、階段で躓き、其処ら中を真っ白に汚したこともあった。然しそんな粉ミルクも、パナマ運河経由の船便で来ていた為に品質が劣化し、口が奢っていた町小の児童には聊か不評だったようで、何人かは「飲みたくない」と言って、折角注いだミルクを、そのままバケツに返していた。その代表格がSさんで、私が「美味しい、美味しい」と言って飲む脱脂粉乳を殆ど口にせず、惜しげもなく私のカップに注ぎ入れてくれたのだった。
あれから半世紀余、昨年暮れにも、玉名町小同級生数名が集まり、恒例の忘年会が開かれ、私も出席した。すると今回も隣席に座って、私の腕をギュッと掴むのは、決って小柄で痩せぎすのSさんである。それを見たK君が「どうして君達はそんなに仲が良いのかね?」と不思議な顔をする。彼は玉名(村)小卒の為に、給食の経験がなく“脱脂粉乳の縁”を全くご存知ないのである。
それにしても米国と言う国は、アングロサクソン民族だからだろうか、全ての面に於いて“深謀遠慮”に長けている。敗戦国の日本人を飢餓から救済するとの美名の下に、米が主食の日本人をパン食に改変すべく、自国の余剰農産物を大人向けではなく、子供用として供与したからである。
その証拠に、我が孫娘・孫息子はミルクが大好き!こっそりと我家の冷蔵庫を開けて、牛乳を飲んでいる。だからだろうか、孫娘は特に成長が早く、最早おんぶすると、ヨタヨタするほど大きくなった。
私は思う。日本は戦後の高度経済成長を経て、物質的には豊かな国になったが、今も尚目線の高さでは、欧米には遠く及ばない。それは中国や韓国との関係を見れば良く分かる。尖閣諸島問題に限らず、物事は須らく長い目で見なければ、その本質は理解出来ないのである。その証拠に、半世紀以上も前、土地相続でいがみ合った親族の殆どが代替わりをした現在、私はそれらの土地を只同然で借り受け、若い人達に貸し与えて、耕作放棄を防ぐ努力をしているからである。終わり
追伸:過日、年始の挨拶に叔母宅を訪問し、昔話をしていたら、娘(私の従妹)が、幼き頃に私から苛められ、大嫌いだったと聞いて驚いた。従妹は私と違って優等生で、九州大学文学部卒業後、英国に留学し、その後熊本県立美術館の審議員を勤めた。それにしても、当時の私に全く悪気はなく、ほんの徒の積りだったが、した側は忘れても、された側は60年経ても忘れないものなのだ。自戒!


ペット

私がアパート経営を始めたのは1997年だった。その動機は会社でリストラが始まったからである。リストラとは、所謂固定費を削減することで、中でも最も重荷となる、人件費を削減することが常套手段となっている。その方法は、悪く言えば“椅子取りゲーム”みたいなもので、仕事はマアマア出来ても“社内遊泳やゴマすりが不得手な人間”が真っ先に犠牲となる。その典型例が私であり、56歳の若さでリストラされた。そんな失業者の私に“救いの手”を差し伸べて呉れたのが、現役時代はライバル企業とも云えた“ナショナル”住宅だったのは、何とも不思議な縁である。然し乍、サラリーマン上りのど素人が、アパート経営するには数々のノウハウが必要で、座っていて入居者を集めることは先ず不可能である。そこで玉名地区では老舗とも言えるA不動産に、入居者斡旋をお願いすることにした。
然し当時のアパートは、殆ど駅前や市街地に立地していて、石貫みたいな田舎には皆無だった。そこで競争力を確保する為に思い立った手段が、ペット飼いだった。先ず犬を飼っていた、パーマカルチャーの女性に白羽の矢を立てた。足の短い“コーギー犬”だと言うことで、ベランダ飼いを条件として許可した。処がそんな約束はあっさり反故にされ、全室内に自由に犬を放したらしく、退去時のリニューアル費用(壁紙や床のカーペットの張替え)が思いの外高額となり、見掛けと大違いな “どぎついクレーム” を頂戴したのであった。
そんな事で苦い経験をした私は、ペット可のアパートは、極力限定すべきと考えて、1棟に絞ることにした。そして飼える犬種も、小型犬に限るように入居者に伝えた。処が、其処まで限定しても盲点があった。或る入居者が、クーヴァーズの仔犬のツガイを2頭、然も室内で飼ったのである。この犬は仔犬の時は可愛いが、成長するに従い、びっくりする位の大型犬になり、とても室内では飼えない。その上入居者自身にも子供が生れたので、今度は勝手にベランダを改造して、犬が室内外を自由に行き来出来るよう、ウオークスルーにしたのであった。勿論これは契約違反である。
然し大型犬は一般的に寿命が短く、先頃2頭共に臨終を迎えたようで、それに併せた様に、飼い主も退去された。私は過日犬の散歩がてら、その部屋を見に行った処、ビックリ仰天した。なんと2LDKの全室に犬の気配があり、床や壁は彼方此方が剥がれ、それらを付け焼刃で補修してある。そして洋間の壁には大きな穴があり、犬の匂いがプンプンするのである。犬は大昔、人間が狩猟をする為に飼いならした動物であり、幾ら時代が変わったとは言え、新築アパートに大型犬2頭と幼児がごちゃまぜに暮らすとは、私はどう考えても想像することすら出来ない。勿論、今後壁や床の全面リニューアル工事が必要となるが、一体幾ら費用が掛かるやら心配である。人間は大昔、狩猟生活をしていた頃、助手として犬を飼いならし、互いに作業分担しながら、獲物を確保してきた。そして近代になり、主に家庭の番犬として、泥棒避けに役立った歴史がある。そんな“お犬さん”を室内で過保護に育てた処で、果して犬自身は幸せなのか、知る由も無いが、今の時代は江戸の犬将軍みたいに、何か行き過ぎで、病的で、歪んでいる様にしか思えない。
そんな今日、玉名市主催の集団健診が始まり、レントゲン車が近くのJA支所に来た。私がランニングシャツ姿で行列に並んでいると、或るご婦人が私を見て「良い体をしている!」と褒められ、ちょっと嬉しくなった。この人は半世紀の昔JA石貫支所の受付係で、私が預金引出しに行くと、付け睫毛が “バタバタ” と動くのを、子供乍に見惚れていた人である。然し今や見る影も無い“皺くちゃのお婆ちゃん”で、遥かなる時の流れを感じた。他方、同じ行列に並んでいた“皺くちゃのお爺ちゃん” は小柄ながら、齢80を超えても相変わらずのマッチョで、毎日山仕事に精を出し、今も幾人かの彼女(勿論高齢者)が居ると言う。その若さを保つ秘訣は、肉体労働には違い無いけれども、年を経ても尚失わないお色気も、健康には間違いなくプラスの様である。終わり


STAP細胞

理化学研究所、笹井副センター長の突然の自殺をめぐり、理研の対応が厳しく批判されている。理研は、氏が自殺の約10日前、体調悪化で職務不能な状態に陥ったことを把握しながら、本人が希望した辞任を認めず、心理面のサポートも不十分で、最悪の事態を防げなかった、危機管理の甘さが問われている。大学院生時代から笹井氏を知る元京都大教授は「研究者として自負心が強く、絶望感を覚えたのかもしれないが、理研のガバナンスの欠如が、彼を死に追いやった面は否定できない。懲戒処分の判断も早く下すべきで、決断できないまま、いたずらに苦しめた」と批判されている。又同志社大の太田肇教授(組織論)は「理研の対応は極めて不適切で認識が甘い。一刻も早く役職から外すべきだった」と話されている。
私はこのニュースを見る度に、遠い昔の“或る光景”が、脳裏にフラッシュバックして、今以て軽い眩暈を覚えるのである。現代の企業組織は、営業及び設計製造部門(ライン)と、総務及び管理部門(スタフ)とで構成され、恰も車の運転のように、アクセルとブレーキを上手に踏み分けることで、臨機応変の経営が出来るようになっている。従って採用した社員を、個々人の性格や専門性に応じて、何れかの部門に配置する。私は性格的にライン部門に向いていると判断されたのか、入社当初から企業では花形職場と見なされる、開発設計部門に配属された。然し人間は、何と言う現金な動物だろう。生産販売が好調で、追い風が吹いている時には、「何でも良いから手伝わせて欲しい」と、擦り寄って来る人が多いけれども、逆風に変わった途端に「今は忙しい云々」と言って、潮が引くように遠ざかる。これも又人の世の常である。
あれは昭和56年、私が静岡から和歌山に、転任した頃のことだった。大工場の静岡から、中工場の和歌山に業務移管した為に、仕事内容は同じでも、工場全体に与える影響は格段に大きくなった。静岡では所長室に呼ばれた事など一度も無かったが、和歌山では幾度も所長室に招かれて、所長から大変な期待を寄せられた。米国出張を命ぜられたのも、その延長かも知れない。そんな私が躓いたのが、自身が中心になって設計したエアコンのクレームだったのは、何とも皮肉としか言いようが無い。更に追い打ちが降り懸かった。私を可愛がって下さった所長の突然の死である。奥方と2人でドライブ中、トンネル脇の土手に正面衝突して、即死された(自殺説も流れたが私は信じない)。然し所長の死は、私にとって想定外のダメージとなった。何となれば、所謂和歌山閥が弱体化し、静岡閥が相対的に強くなったからである。これは一見都合良さそうにも思えるが、私の天敵とも言える、新潟出身で、毀誉褒貶の極端なM氏が、品質管理責任者の地位に就いたことで、私はそれ以降、品質クレームが発生する度に、陰湿極まりない苛めを受けることとなり、遂に耐えられなくなって “辞職願い” を提出したのであった。部外者からは、想像だに出来ないだろうが、これも “一流”と言われた企業の一断面である。
あれから10年程後のこと、静岡で或る集まりがあり、私も招待を受けて参画したのだが、丁度嘗ての部長が来られていて、私を見た途端に突然“土下座”をされた。私はびっくりして、どうぞ頭を上げて下さいと申し上げた。処が驚くべきことには、私が辞職願いを提出した“真の理由”を、部長は当時全く認識されていなかったのである。これは、企業経営者としては完全な失格で、社員の心のケアを怠った責任は免れない。と言うのも、辞職願いを提出する時点で、幾ら非常識な私であっても、子供の喧嘩でもあるまいし「誰々さんから苛められたので辞めます」等とは、口が裂けても言えなかったからである(内偵すれば、直ぐに分かること。左翼運動に対しては異常とも思えるほど神経質なのに、社員同志の融和に無頓着なのは、静岡製作所と対照的だった)。
尤も、結果的に私の辞職願は受領されず、超法規的措置で、事業部の異なる半導体工場がある、熊本へ転勤扱いとなり、命を救われた。この措置を発案されたのが、私と同じ社宅に住む総務課の人だった。当時氏とは決して親しい間柄ではなかったけれども、私を救って頂いた人生の大恩人である。それは幸運にも、熊本工場の総務課に、氏と懇意の方が居られて、両者のご尽力のお陰で、可能となったのだ。私は思う。例えどんな人であろうとも、他人には親切にすべきである。私はあの時以来、その事を確りと肝に銘じて、今も実践に心がけている。終わり


昭和の我家は典型的な古民家で、一段高い北西側は孟宗竹林に囲まれ一段低い東側の川沿いには真竹林が茂り、南側には畑が一面に広がる屋敷だった。勿論今有る銀杏の巨木も、登れば折れる位の小木だった。当時は70代を迎えた母が一人暮らしをしていたので、手入れが行き届かず、夏になると屋敷一杯に雑草が生い茂り、両手で掻き分けて進まないと家にたどり着けない程だった。従って年に2~3度帰省して私がやるべき仕事は、先ず雑草の草刈である。勿論当時は刈払機も無かったので、鎌を使っての手作業である。それが終わると竹伐りである。竹林は全体が地下茎で繋がったワンファミリーで構成され、春に出る筍は2~3ヶ月で所謂成竹となり、その後は寿命の尽きるまで、ひたすら光合成をして、子孫繁栄に寄与する。従って何ら肥料をやらなくても、思いがけない場所まで勢力を拡大する。時には座敷の畳がモッコリしているので、畳を剥いで見ると、大きな筍が床下に出ていたりする。そして竹は木よりも寿命が短く、10年位で枯れるので、竹林の中には毎年何割かの枯竹が発生する。私はその枯竹を伐り、裏庭に運び出すのが帰省中の重要な仕事だった。数日の間に、家屋ぎりぎりまで生えた夥しい量の孟宗竹を、伐っては運び出し、裏庭一杯に積み上げた。母は少しずつこれを燃やして、竈や風呂の燃料に利用していた。然し昭和の末期に転勤の名目で熊本に戻った時、私は家の改築と連動して、業者にお願いして竹林の南半分を皆伐したのである。その目的は日照の改善であった。以降、私は山に線引きを行い、境界を超えて発生した筍は、迷わず掘り上げることにした。
あれから30年、今年は嘗て無い大量の筍を生産した。然もその品質が抜群だったので、直売所から幾度も催促の電話があり、3~4月は文字通り筍掘り作業の毎日だった。中には「客が店で待っているので今すぐ持って来い」との無理難題である。勿論他の農家も出荷しているが、我家の筍の品質が良いらしいのである。筍は地上に出ると黒くなり、商品価値が落ちる。従って鶏の嘴程度、地上に顔を出した状態で、掘り上げるのがコツである。私は足の裏の感触で見付けるが、孫娘は目敏く次々に発見する。そして筍の周辺の地下をツルハシの先で「チョンチョン」と探ると、筍の根は必ず何れかの方向に曲がっている。その方向が地下茎との連結点で、目星を付けてツルハシを振り下ろせば、綺麗に掘り上げることが出来る。それが遠過ぎると地下茎に当たって跳ね返され、近過ぎれば筍の本体を切断するので、最も緊張を要する瞬間である。
そんな今春、巷の話題は韓国セオウル号の沈没事故である。何でも昔は沖縄航路に使用されていた日本の船舶らしいが、それを違法改造した上に、積載オーバーと荷崩れと急旋回が重なって沈没した。おまけに、最後まで船に残って乗客を助け、あわよくば船との心中を果たすべき責任の船長が、敵前逃亡さながらの醜態を晒し、韓国民の非難を一身に浴びた。
思い起こせば太平洋戦争初期のミッドウエー海戦において、日本海軍の空母、赤城・加賀・蒼龍の3隻が、米軍の急降下爆撃機の急襲を受け、相次いで火達磨となる中、残る1隻の空母、飛龍の艦長だった山口多聞少将は、巧みな操艦技術で被弾を免れ、燃料切れで帰還する他空母の戦闘機を次々に収容したばかりか、第二次攻撃隊を編成して反撃に向かわせた。最後は孤軍奮闘空しく米潜水艦の魚雷で沈没したが、直前まで乗務員救出を命令し、自身は一人艦と運命を共にした海軍の至宝である。
一方私とて、セオウル号の船長を非難する資格は全く無い。それは前記の如く30年前、自身が設計したエアコンの、騒音と振動クレームに身も心も押し潰され、掛替えの無い多くの有能な部下を見捨てて、自分一人が熊本に逃げ帰ったからである。その証拠に、私の後任として着任した男は、後に所長から本社役員にまで上り詰めた。部長にすら成れなかった私は当然の報いを受けたと言うしかない。終わり


人生いろいろ

彼此半世紀以上前の、昭和31年7月16日に父は52歳の若さで急死したので、私は9歳の若さで母子家庭の一人息子として、カタチだけは戸主のような存在になった。当時は隣地に住む叔父一家との軋轢が顕著で、半ば絶縁状態だったので、母は実家の姉妹や甥・姪を最大の頼りにしていた。中でも母の姪に当たる典子さんとは歳も近くて気が合うようで、一眼レフカメラを片手に、我家にちょくちょく遊びに来た(我家に現存するアルバムの殆どが典子さん撮影)。典子さんは津田塾大学英文科卒の美人でスタイルも抜群、東京サンケイホールに勤務する、今で云うセレブであった。従って典子さんから齎される話こそが、当時最先端の芸能情報で、中でも母との会話に頻繁に登場していたフレーズが、一に“美智子妃殿下” 二に“島倉千代子” 三に“美空ひばり”だった。然し当時の典子さんの島倉評はかなりの辛口で、歌も上手とは云えない等々、決して褒め言葉ではなかった。
そんな島倉さんと私との出会いは、私が入社間もない昭和40年代、週刊誌の記事が発端であった。私の従兄が日本コロムビアに勤務していて、偶々その当時島倉さんのマネージャーをしていたこともあり「結婚か!」との世間に良くある噂が立ったのである。然しその後、私の従兄は島倉さんとは別の女性と結婚式を挙げたので、私も静岡から東京まで態々お祝いに駆けつけ、披露宴の式場で島倉さんを間近に拝見した。例に依って艶やかな和服姿で、周囲の人々に穏やかな笑顔を振りまき、来賓代表として祝辞を述べられたのを、今も鮮明に記憶している。
その島倉さんが、先日とうとう他界された。それにしても一演歌歌手の訃報が、週刊誌や芸能情報ならいざ知らず、大々的に一般ニュースとして取り上げられ、連日放映されたのを見ながら、私は島倉さんの存在の大きさに、今更ながら驚いた。その島倉さんの人生は、日本人の好きな“悲劇の主人公”と云える位に、怪我、結婚、流産、火傷、離婚、詐欺等々、次々に襲い来る不幸に見舞われた。それでも挫けず、死の間際に至るまで、歌に情熱を注がれた姿は、政府関係者をも動かして、告別式には菅内閣官房長官も出席された。そんな歌手島倉千代子の最大の魅力は、一に歌そのものが所謂泣き節であり、二にご本人の人格も、他人を信用し過ぎて騙され、裏切られ、精神も肉体も傷付けられた。然し私はこの島倉さんの“脇が甘い性格”こそが、ファン以外の一般大衆からも、幅広く愛された所以でもあると思う。そして島倉さんの様に、多くの人々に惜しまれて去る人は、何処か性格的に共通点があるようだ。それは「一に優しく、二に前向きで、三に罪を憎んで人を憎まない」人ではなかろうか?
そんな現代の混沌としたご時勢に、又々とんでもないニュースが飛び込み、連日放映されている。それは何と“父子鑑定”である。両親と複数の子供が居るごく一般的な家族で、父親と似ている子供と、似ていない子供が産まれた為に、父親が疑いを持ち、親子関係をDNA鑑定に掛けた処、99%違うという結果が出て、裁判沙汰となっているのだ。これは産院での取り違えでなければ、母親が不倫をした結果としか考えられず、一夫多妻ならぬ一妻多夫であり、父親としては何ともやりきれない気持ちだろう。私は今も鶏を飼っているが、雄鶏は一羽のみしか入れていない。要するに一夫多妻である。若し複数の雄鶏を鶏舎に放そうものなら、忽ち雄鶏同士の血みどろの戦いが始まり、それは勝敗が決するまで延々と続く。勿論人間社会は鶏の様に単純な世界ではない。鶏と異なり夫婦間でも平気で嘘をつく動物だからである。然し私は思う。人生はいろいろあるからこそ面白い。若し未来が見えるなら、全くつまらない人生となるだろう。終わり


集団検診

集団検診とは、各校区毎に纏まって行う健康診断のことで、当玉名市では毎年夏のシーズンに、市の保健センターで実施される。今年の石貫地区の検診日は8月29日だった。会場にずらりと並んだ椅子に到着順に座り、一個ずつ移動し乍ら進行する様は、毎年変わらない光景である。然し私が気付いた今年の特徴は、検診終了後の結果検証が、昨年までの医師の診断に代わり、アドバイザーの司会の下、数人のグループで話し合いながら、自己採点する方法に改められたことであった。私は血圧が高いことを除いて、他の項目は何れも問題なく、ホッとして帰途についた。
然しその日以降の出来事は“悪夢のような忌まわしい記憶”として、私の脳裏に永遠に刻まれることだろう。検診項目の一つに胃の透視がある。これはレントゲン装置を積んだバスの中で、ドロドロとした液体のバリウムを飲み、宇宙船の中での遊泳みたいに、体をグルグル回転させて、胃癌や胃潰瘍を調べる検診である。当然バリウムは鉱物で消化しないので、終了後下剤を処方され、便として排出せねばならない。処が例年なら当日の内に便意を催し、バリウムが排出されていたのに、今年に限ってそれが出ず、胃の辺りがムカムカとして、どうしようもなく苦しい。水を飲めば良いと思われるかも知れぬが、気分が悪いとその気にもならない。結果としてその後数日間、私は殆ど寝たきりの有様で、食事も喉を通らなくなった。
あれから間もなく4ヶ月、今年の秋程しんどい思いをしたことはない。現役時代のメタボの体と違って、今の私の体は貯金ゼロの状態で、食べることでしか体力を維持出来ない。私の体に最低限必要な食料は、お茶碗二杯のご飯である。それがバリウム事件以降半減して、どう頑張っても2杯目が食べきれないのである。先日は知人2人に誘われて、行き付けの小料理屋で一杯やったが、悪酔いしてトイレに幾度も駆け込み、折角のご馳走を全て吐き戻す有様。余りの不調に、主治医の河野先生に相談したら、胃カメラをしましょうのとこと。結果として、もっと早くして貰えば良かった。嘔吐反応を和らげる為の咽喉への麻酔で、私は深い眠りについたので、以降のことは全く覚えていないが、覚醒後の面談では胃の内壁に “ピロリ菌”が寄生しているとの診断で、薬を処方された。それにしても私は過去、実に多種多様の病気に苦しんだが、不思議なことに胃の病気は、現役時代に上司から睨まれて、神経性の胃炎を起こした位しか記憶がない。食い意地は張っている方なので、暴飲暴食の経験は幾度もあれど、胃は丈夫だったのだろう。従って今回の食欲不振は、肉体的にも精神的にも心底堪えた。
そんなこんなで何とか正月が迎えられる目処がついた過日の夕刻、私の体調の回復を待っていたかのように、知人のHさんから立派なお歳暮が届いた。私はその夜、お礼の電話をしつつ、一昔前の光景が走馬灯のように鮮やかに蘇った。それは、毎年仕事始めの恒例行事となっていた新年賀詞交歓会である。体育館に設えられた特設会場に、大勢の業者(殆どが社長)が集まり、互いに名刺を交換する儀式である。迎える側のメンバーは、所長以下、部課長クラス十余名の面々である。当時私は課長だったが、前に並んだ行列の長さだけは、所長・資材課長に次いで第3位だった。勿論Hさんもその中の一人である。一方可哀想なのは、隣の生産技術課長、ほんの2~3人しか来ず、手持ち無沙汰の表情をされている。それもその筈、生産技術の使命は、各種工程に潜む「無理・無駄・ムラ」のカットであり、要は人減らしである。当然、業者の期待は仕事の受注なので、生産技術課長は全く人気がなかった。然し業者に対する人気と、会社の期待をごちゃまぜにした私も相当にバカだった。所長から「アンタの部下は多過ぎる」と名指しされ、その後数年間に、薄紙を剥ぐ様に有能な部下を他部門に引き抜かれ、自らは取引先の中小企業から子会社に連続出向、後者の社長から徹底的に苛められた挙句の果てには、56歳の若さで早期退職に追い込まれたのである。
あれから早十余年、私は第二の人生を農業に賭け、数多くの仲間と出会い汗を流し、喜びを思う存分味わっている。それはきっと、現役時代の不完全燃焼と苦痛の代償として、神が私の精神と肉体に与え賜った啓示であろう。お陰様で今年の農作業もほぼ終了して、残す処は餅搗き位になった。来るべき新年が、このブログの読者の皆様共々に、良い年でありますように!完


内観

過日、友人に誘われて玉名市の蓮華院を訪問し、壮麗な南大門や、青森ヒバで建築された五重塔を見学した後、奥の院まで足を伸ばして、有名な世界一の鐘撞きと内観を体験した。蓮華院では過去20年間に1,200人以上もの人々が内観を体験されたとのこと。その動機は様々なようだが、悩み苦しみの解決に大きな力を発揮し、人生をより良いものにするらしい。内観とは、楽な姿勢で座り、自分自身を第三者の立場に置き、父母や親代わりの人に対して一人ずつ「して頂いたこと」「してあげたこと」「迷惑を掛けたこと」につき具体的な事実を思い浮かべ、相手の視点から自分を見詰め直すことである。先ず小学校低学年から、高学年、中学、高校と、期間を区切って現在まで、関わりのあった人を順に調べる。次に視点を変えて具体的な事実を、過去から現在まで辿る中で気付きや発見をし、悩みを解決して幸せになる方法である。
私は嘗て、蓮華院から毎週発行されるメルマガを読んでいたが、その内容は不登校、非行、家庭・職場の人間関係、心身症、ノイローゼ、対人恐怖症、認知症、うつ病、摂食障害、アルコール・薬物・ギャンブル依存症等、多岐に亘っていた。要するに内観とは、一種の自己探求法で、体系的な自己リフレッシュである。今では経営者や知識人、芸術やスポーツ関係、企業・官庁・団体職員の心理療法として、トラブルに悩み苦しむ人々や、精神的向上を求める人々が、実践されているとか。私は嘗て、蓮華院発行のメルマガの愛好者だったが、今回直に発行者の大山和尚にお会いし、実際に内観を体験して、初めてその詳細を知ることが出来た。
それにしても、私が蓮華院を訪問すれば、その開祖足る“皇円上人”に思いを馳せるのは自然の理。皇円は肥後に生まれ、幼くして比叡山で学問・仏法を修業、後に日本の歴史書「扶桑略記」を記した人である。皇円上人は悟りの境地を得る為に、天台宗の「止観」に基づき、様々な難行苦行を重ねたが、仏法の極め難きを知り、五十六億七千万年後に出現すると伝えられた弥勒菩薩に会い、その教えに拠り人々を悩みから救うことを祈願し、嘉応元年(1169)6月13日(96歳)に身を“龍”と化し、静岡県御前崎市の、桜ヶ池に入水して池の主神となった。
桜ヶ池は約2万年ほど前、砂丘がせき止められて出来た堰止湖で、広さは約2万平方メートル。後に浄土宗開祖の法然上人が、その皇円を供養する為に、桧造りのおひつに赤飯を詰め、池に沈めたことが由来となり、現在も秋の彼岸の中日に”おひつ納め”の儀式が行われ、大勢の観光客で賑わう。式では、身を清め、白装束を纏った地元の氏子数十名が、池の中央まで立ち泳ぎして赤飯が詰まったお櫃を沈め、龍神に供える。数日の内に中が空になり水面に浮かび上がると、そのお櫃に込められた願いが叶うと云う謂れがある。又この桜ヶ池は、長野県の諏訪湖と、その地底が “繋がっている”とも、言い伝えられている。
私は昭和40年代の中盤、静岡県に住んでいた当時、彼女と1~2度、この祭を見に行った。加えて、浜岡原発が立地する、御前崎市浜岡町合戸は、私が恋した人の出生地でもあり、何かしら不思議な運命の赤い糸が今も “繋がっている”ような気がしてならない。終わり


男と女

人間も年を経るに従い、自然と好みも変化する。我家でも老夫婦二人きりの生活ともなれば、TVを見るにも若かりし頃とは異なり、NHK主体になってきた。中でも演歌は家内共々楽しみに聞くようになった。毎週見ているのは、火曜日の歌謡コンサート(45分)や日曜日のBS日本の歌(1.5hr)である。何れの番組も、数多くの演歌歌手が登場して、懐かしの歌から最近の新曲までが披露される。歌謡曲の主題は、男と女の物語が殆どで、観客の大半は中高年世代である。そして演歌の歌詞には一種独特の傾向があり、北・冬・雪・雨・風・港・海峡・男・女・涙・別れなどが常套句となっている。私は演歌そのものも好きだが、それ以外の場面にも自然と目が向く。歌手のバックで演奏する楽団である。暗くて良く見えないが、目を凝らせば、嘗てブルーコメッツの一員だった、三原綱木が指揮するニューブリードのメンバーは、殆ど男性である。珠には女性バイオリニスト等の、エキストラが登場することもあるが、ほんの例外に過ぎない。それに加え、女性を題材とした演歌を作った作詞家・作曲家に至っては、99%が男性である。これは一体何故なのだろう?
半世紀以上前の昭和31年に、私の父は52歳の若さで他界した。それ以降、一人っ子の私は、母しか話し相手が無くなった。母は若かりし頃に姑からしごかれたお陰で、手作業が大変得意で、大抵の物は自製していた。例えば“黄な粉”を作るには、収穫した大豆を天日干しし、大きなネコブク(藁縄を織って作ったカーペットみたいな物)の上で、ブリコ(数本束ねた樫の木を、竹の柄の先端に取り付け、回転の打撃エネルギで殻を割る器具)を打ち、唐箕(上部の漏斗から少しずつ穀物を落下させ、横から風を送り、藁屑など軽いものを吹き飛ばす人力農機)に掛け、大きな竹笊の上で良い大豆のみを一粒ずつ手選別し、七輪に掛けた鉄鍋で気長に煎り、石臼で挽かねばならない。特に最後の製粉作業は、大きくて重い臼を何時間もゆっくりゆっくり回しながら、大豆をほんの数粒ずつ、上臼の穴に入れないと、木目細かな黄な粉は出来ない。当然、途方もなく長い時間が掛かる。そんな手作業をやり乍、母はぼそぼそと私に語って聞かせた。
それは“男と女”の話であった。母の考えでは、この世の殆ど全ての分野に於いて、男が女に勝っていると言う。その例示として、学問や運動は勿論、料理や裁縫、絵画や音楽等を挙げていた。母が一体何処からそんな “哲学”を導き出したのかは不明で、私に自信を持たせる為だったかも知れないが、恐らく自らの経験から発した言葉であろう。当時小学生だった私は、虚弱体質で欠席が多く、一二年当時の成績は45人クラスで5番!それを知った両親は大変なショックを受けたらしい。然し小学生の特に低学年において、成長が早い女子の成績が先行しがちなのは、不思議でも何でもない。私は体育が全く駄目な上に、気が弱く喧嘩も弱かったので、母のこの言葉には大いに勇気付けられた。以来私は高校時代に至るまでの間、学業成績では少なくとも女子には、絶対負けたくないと思うようになった。
あれから半世紀、日本人の平均寿命は世界でも一二を競う処まで到達し、更に伸びる勢いである。一方この世に“例外のない法則はない”ことを実証するかの如く、平均寿命に関しては一貫して女が男に勝っている。私はこれはとても良いことだと思う。何故ならば、夫婦の何れかが他界して一人暮らしになった時、女性は家事の負担から開放され、自由度が増して益々元気になるのに対して、男性は不健康な生活を余儀なくされて、一層死期を早めるからである。
論より証拠に、私が嘗て飼った犬は、小学生時代の“ポチ”から、現在の “クック”に至るまで、8頭もの多数(内7頭が雄犬)に及ぶのに対して、猫は今も健在な雌の“レイ”1匹のみ!長女が福岡の大学在学時に、道端から拾って来た野良猫である。現在の年齢は恐らく20歳前後、人間に換算すれば優に100歳を超え、オドロオドロしい形相に成り果てた、超老婆である。若かりし頃には室内で飼っていたが、加齢と共にお漏らしをするようになり、外飼いになって久しい。最近は流石に寄る年波には勝てず、一時に食べられる餌の量は減少したが、今も元気一杯!目も不自由で、耳も遠くなった所為か、鳴声が益々低音大音量化して“凄み”を増し、辺り一帯に響くようになり、日夜「マオー・魔王!」と啼いては、頻繁に餌を要求する。私は夏も冬も、昼も夜も、その啼声を聞く度に、不承不承、屋外に出てキャットフードを与えねばならない。
県道沿いのお宅に、奥方を亡くして一人暮らしの男性が居られる。その家は小奇麗であるにも拘らず、全く人(ひと)気がなく、何処となく物悲しい雰囲気が漂っている。と言うのも、女一人所帯に男性が来ることは珍しくはないが、男一人所帯に女性が来ることは稀であり、寂しさが一層募るからである。私は男に生まれて良かったと思うが、家内より長生きしても、恐らく良いことはないだろう。終わり

追伸 “親父のつぶやき”の読者の皆様へ
ブログに関するご感想は、私宛に直接お願い致します。
ブログの中に“家内”が出て来ますが、私は家内の検閲を受けておらず、中傷誹謗と取られれば、今後書けなくなります。
どうぞ宜しくお願い致します。


藤圭子

半世紀近く前の1969年、私が就職した企業は、工場の窓から遠くに富士山を望む大部屋に、数十名の社員が勤務していた。部長室だけは別室で専属秘書が居たが、次長や課長以下は全員呉越同舟。私の配属先は、係長・主任・女性Mさんから成る、小さなグループだった。入社当時の私は見習いの身分なので、白線が入った帽子を被らされ、ドラフターを使っての簡単な部品図描きが主業務だった。そんな殆ど責任のない時代、同僚の関心事は仕事よりも専ら恋愛!誰が最初に彼女をゲットするかが、注目の的だった(但し同僚の半数程には、既に許婚者が居た)。私はどちらかと言えば初心な男、女性を口説くのは苦手である。そんな私を見かねて、入社早々に彼女をゲットしていた、独身寮同室のH君が、親切にも自分の彼女の友人を、私に紹介して呉れた。
それは1月下旬の北風が強い日で、出会いの場所は“静岡市内にある、徳川家康所縁の臨済寺”だった(今は亡きH君の実家も、金沢の寺院だったので、恐らく縁起を担いだのだろう)。私はその女性を見て驚いた。何と私と同じ事務所で働く、Sさんではないか!(注.H君は別事務所)私は其処で撮った写真を今も持っているが、歌手の“水森かおり”を華奢にしたような所謂“泣き顔”で、実際にも良く泣いた美しい声の女性だった。この女性とはその後、2年近くもの長期間、交際することになった。然し私は繁華街でのデイト中も、手を繋いだり肩を抱いたりせず、態と2~3歩離れて歩く程に細心の注意を払ったが、それでも何処かで誰かに目撃されるのは避けられない。程なくして職場に噂が広まった。中でも先輩のI氏は、この方面に興味津々のようで、折に触れては私を冷やかした。収まらないのは、私の部署で働く女性Mさんである。それまでとは打って変わり、よそよそしい態度になり、コピーをお願いしても「フン!自分でしたら」と言うような感じで、今は亡き後輩のK君と、あてつけとも思える、長話をするようになった。私は予想外の強烈なリアクションに、些かたじろいだ。
それから約2年、私はSさんと故あって別れ、翌年には、予てより憎からず思っていた、Mさんとの交際を始めたのである。所謂トランジスタグラマーで、黒の徳利セーターにセミロングヘアが似合う、セクシーな女性だった。然しこの世は、私なんぞの思い通りにはならない。たったの数ヶ月で別れる羽目となった。原因は、MさんとSさんの軋轢に他ならない。いみじくも、ドイツの哲学者“ショウペンハウエル” が「男同士は互いに無関心だが、女は敵同士である」と述べた如く、時間差はあったとしても、同じ職場で二人の女性と交際すれば、互いの感情が対立するのは、想像に難くない。私は二人の女性から「恨まれた」優柔不断で、性質の悪い男である。そんな女性二人が、偶然にも1973年の10月吉日に、別々の場所で結婚式を挙げた。私は贖罪の意識から、知人を通じて、ささやかなお祝いを贈ったのが精一杯の行動だった。
あの当時の流行歌が、藤圭子が歌った「京都から博多まで」「命預けます」「恨み節」などである。藤圭子は、私より4歳年下であるが、私が就職した1969年に「新宿の女」でデビュー。私が彼女を“獲得”した1970年に「圭子の夢は夜ひらく」で紅白歌合戦に初出場し、第一回の日本歌謡大賞を“獲得”した。私は良くも悪くも“藤圭子世代”である。終わり


Ⅰ:昭和30年代前半、石貫小学校の5月の行事に、潮干狩りがあった。目指す“菊池川”河口の滑石海岸までは約10km、当時虚弱児童だった私は、楽しい事よりも苦しい思い出が、より強く残っている。特に沢山のアサリを入れたリュックを背負っての帰途、私は友人の肩を借りつつ、青息吐息でやっと家まで辿り着いた。

Ⅱ:昭和30年代後半、越境入学した私は、石貫から“繁根木川”沿いの砂利道の県道を唯一人、叔母に買って貰った自転車(山口号)で、4km先の玉名中学まで通学していた。蒲鉾状の砂利道では幾度も転び、手足に擦り傷を負った。飼い犬のポチが前になり後になり、4km先の学校まで付き添って呉れた。

Ⅲ:昭和40年代初頭、大学生の私は、前記の自転車を内装3段変速ギア(シマノ3ハブ)に改装して、友人と熊本市内をサイクリングしていた。その範囲は竜田山近郊の葦が茂る“坪井川”から白壁の土蔵が立ち並ぶ“白川”下流の川尻・小島地区だった。ホテイアオイが、川面の全面を埋め尽くしていた光景が、鮮やかに蘇る。

Ⅳ:昭和40年代前半、私は外装6段変速のスポーツ自転車を購入し、静岡市内から隣の清水市内に至る“安倍川”や“藁科川”沿いの道を、サイクリストの三浦氏と、サイクリングしていた。辺り一面にうねる様に広がっていた茶畑が目に浮かぶ。

Ⅴ:昭和40年代中盤、私は彼女と浜松から“天竜川”沿いの道をドライブし、巨大な佐久間ダムを見上げていた。此処には、東日本の50Hzと西日本の60Hzの周波数を変換する設備が備えられていた。

Ⅵ:昭和40年代後半、私はゴルフのショートコースが一面に広がる“多摩川”縁の緑地帯を、二頭のコリー犬を連れた彼女と散歩していた。当時の多摩川は、合成洗剤の影響だろうが、堰の下流では無数の泡が風にたなびき、フワフワと宙に舞っていた。

Ⅶ:昭和50年代前半、私は“大井川”東側の河岸道路を、赤のダックスホンダを駈り、何かに衝かれたように疾走していた。当時、日本最長の木橋(蓬莱橋)が掛かっていたが、車両は通行禁止で、徒歩のみで渡ることが出来た。

Ⅷ:昭和50年代中盤、私は“紀ノ川”縁を一家でドライブしていた。此処には江戸時代、奥方を実験台に、世界初の麻酔による乳癌手術を行った、華岡青洲の嘗ての住まいがあった。

Ⅸ:昭和50年代終盤、私は再び故郷に戻り“菊池川”の河原に家族で出かけ、子供達と水面に向かって、平たい石を投げては、何回ジャンプするかを競っていた。

Ⅹ:平成20年代 私は還暦もとうに過ぎ、外出自体が億劫になりつつある。然し週末になると、孫達が遊びに来て、自宅脇を流れる“馬場川”で水浸しになって終日遊んでいる。完


始まりと終わり

凡そ2年前の2011年5月25日は曇り空だった。私は自宅裏の田圃を、来るべき田植に備えてトラクターで耕耘作業をしていた。昼前、伊倉の知人ご夫妻が、東京から移住者の女性(Mさん)を伴って来訪された。今考えると、この日こそがその後2年余りに及ぶ、エキサイティングなドラマの幕開きを告げる日だった。私は早速アパートに案内してご入居を斡旋、昼食は玉名名物のラーメンを奢り、その後、玉名温泉の足湯にお連れして、足を浸しつつ四方山話を伺った。内容は殆ど忘れたが、今も記憶が鮮明なのは、その職業である。何と“オーディオ”との事だった。私は咄嗟に「オーディオでは食えないから、農業をしませんか?」と切り出した。然し、映画監督とバレリーナを両親に持つMさんは、見るからに農業者の体ではないので、駄目もとの積もりで!処が、意外にも農業をやりたいとのご返事!私は嬉しくなり、あの日以降2年間、水田を借りる為に、文字通り石貫中の耕作放棄田を探索したのである。何せ1町歩(約10000㎡)が目標とのことだったので、1年目は5枚約4反、2年目は更に3枚約3反と!勿論此処石貫に於いて、水田の借地は難しくはないが、条件が整った田圃は難しく、借りた田圃の多くは、水の便が悪いとか、日当りが悪いとか、猪が出る等の問題がある。だからかも知れないが、皆さんが苦労されたのは、水田での農作業そのものよりも、上流から引く水路の浚渫や、堰の構築、或いは猪避けの防護柵の管理(草刈)等々、付帯作業であった。それでも泣き言を言わず、分からないことは地元の人々の意見を聞き、不満足ながらも稲作を貫徹されたのは、敬服に値する。
然しながら、米作りの最大の問題点は、生産よりも販売である。条件の悪い土地を借り、農業機械を借用して、無農薬・無肥料米を生産しても、経費に見合う価格で販売出来ねば、結局は赤字となる。私がMさんの規模拡大路線に消極的だったのは、此の点に尽きると言っても良い。然し2年目のMさんは、農業からカフェ営業、美容院のお手伝いや老人ホームのお世話、はたまた、高瀬花菖蒲祭りへの出店と、皆が驚く八面六臂の大活躍であった。然し流石にアグレッシブなMさんも、心身共にお疲れになったに相違ない。
私は思う。2年4ヶ月前の東日本大震災は、多くの日本人に太平洋戦争末期の疎開に匹敵する、人生を揺るがす甚大な影響を与えた。然し、どんなことがあろうとも、日本人にとって、生まれ育った土地は故郷に違いない。九州人の私が、住み慣れない東京に長居すれば、故郷が恋しくなるように、大都会から夜は真っ暗な九州の田舎に移住したら、東京の灯が恋しくなるのは自明の理である。それもあろうか、過日Mさんが、心なしかやつれた顔で我家に来られて、煙草を欲しいと仰った。私は珍しいと思いつつも、半時間ほど問わず語りに雑談をした後、連れ立って犬の散歩をした。処が何の因果であろうか!私は其の翌日から夏風邪を引いて、2日間完全にダウンし、以降一週間も具合を悪くしたのであった。
私は言いたい。どんなドラマにも必ず始まりと終わりがある。2年余の間、走り尽くめだったMさんには、住み慣れた東京でゆっくりと、肉体と精神のリフレッシュをして頂きたい。そしてそれが成された頃には、私も理由をつけて上京し、石貫での日々について昔語りなどしたいと思う。終わり
追伸:夫婦で上京した11月中旬、品川駅近くのカフェで懐かしいMさんと再会し、暫く2人で話した。


母校

先日、熊本大学の百周年記念事業の案内があり、同窓生もイベントに併せて各地から来熊するとの通知が来たので、私もそれこそ四十年振りに母校を訪問した。当日は時間に余裕があったので、その昔、火の国祭りで練り歩いた道を、逆に徒歩で辿りつつ大学を目指した。然し、大学は私が在学していた当時とは様変わりしていた。嘗ての熊大は、全国有数の広いキャンパスを有し、ゆったりとした環境で、勉学にスポーツに励んだのに、武布原(グラウンド)や芝生の広場は潰され、所狭しと建物が林立している。お蔭で我らが走り回った広場も何処だか分からない始末。おまけに、建物入口には催し物の案内もない。エーイ壗よとばかりに建物の中に入ると、学生や親子連れが小道具で頻りに遊んでいる。催しを開催する場合には、フロア単位で案内者を配置するか、説明看板位は設置するのが常識だと思うが、それもなされていない。
私は仕方なく、懐かしい思い出の地、工学部の機械工場と、旧制第五高等学校校舎(通称赤レンガ)に向かった。然し途中の有名なサインカーブ(遊歩道)には沢山の屋台が並び、辺りには学生が地面に座り込んでいて、思うように歩けない始末。赤レンガの入り口では、履物係の小父さんが靴の置き場所を教えて呉れ、構内展示物の説明も、ボランティアと覚しき中年女性だった。私はその後、思い出の地“学生食堂”に立ち寄ったが、当日は生憎閉鎖、ロビーに座り込んだ学生が、古着などを並べて売っているだけである。
此処で諦めて帰れば良かったが、ちょっと物足りなかったので、工学部の百周年記念館で催された立食パーティーに参加した。処が良かったのは学長の挨拶だけ。パーティーはビール一杯と軽食のみでコンパニオンすら居らず、知り合いも居ない私には、誰も見向きもせず、ビールを注いでも呉れない。成らばと、パンフレット袋を壁際に置き、他の人にビールを注いでいたら、今度は帰途、どれが自分の袋か分からない始末。やれやれ“ホームカミングディ”と銘打ち来校を呼びかけたにしては「ホスピタリティ」がやや稚拙で、少々がっかりして大学を後にした(後日、丁寧なコメント付きで、私の袋が自宅まで郵送されて来た)。先般田中文相が、新設3大学を不許可にして波紋を広げた如く、今や大学は乱立気味で、誰もが行ける時代となった。然し学力低下は甚だしいとも聞くので、学生諸君は恵まれた立場に甘えず、毎日を過ごして欲しい。
然しその夜は、気のおけない面々と居酒屋でパーティー。古くて不正確な住所録を参考に、多くの同窓生を探し当て、集めて頂いた幹事さんのお蔭で、14名もの懐かしい仲間が全国から参集した。在学当時の定員は40名だったので、1/3程の仲間が集まったことになる。その夜の宴席では互いに顔を見合わせ、半世紀前の残像と照らし合わせる。当り前の事だが、学生時代とは体型が大きく変わり、顔の皺が劇的に増加し、頭頂が涼しくなっていて、一目で名前が出て来ない。そんな初老の仲間と、久し振りに二次会のカラオケまで付き合わさせて頂き、実に楽しい一夜となった。
我ら団塊の世代は、還暦も過ぎ子供達も成人した現在、若者世代に負担を掛けず、余世を如何に生きるべきかを、真剣に考えねばならない年齢に達した。私は米作りを再開して既に5年が経過したが、耕作放棄地を借りたので色々と問題が多い。特に片白の奥の5枚は、日照不足で分蘖せず、収量が年と共に減少気味の為、今年限りで耕作を断念した。その代替地として古城の休耕田を充てたが、この田圃の南側には高さ10m程の丘があり、その突端には3本の幹が寄り合さった椋の巨木が聳え、田圃の日照を遮るばかりか、大きく広げた枝先から下の田圃に、雨の雫が落ちて稲に害を与える。其処で私は今秋Kさんに、この椋の伐採をお願いした。Kさんは齢既に80歳。然し肉体年齢は65歳の私よりも若く、チェーンソー2機、手鋸2機、斧、ナタ、のみ、鉄ハンマー、バール等を巧みに駆使して、3日間掛けて、直径1mを超える巨木を、切り倒して頂いた。然しこれで仕事は終わらない。辺り一帯に倒れた夥しい巨木の枝を一本一本短く切断して処分せねばならない。私はその量の多さに呆然となったが、気を取り直して片付けを始めた。
水田と云うものは、土壌・水・日光の3要素が整って初めて、満足な収量を得ることが出来る。だからこそ、3要素が揃った田圃は、誰もが耕作したい訳で、私には貸して貰えない。ならば私は、それらが欠落した農地を借りて汗を流し、欠点を克服する努力をしなければならないのである。終わり
追伸:椋の木は、平茸・キクラゲ・エノキ茸の原木となるので、ご希望の方には無償で差し上げます。尚、種菌は各自ホームセンタ等でお求め下さい。以上


言われ易い

人類は他の動物と異なり、言語に依る意志伝達を可能にしたことで数千年の間に高度な文明を築き上げた。然し神は人類に対し、偏った形で言語能力を与えたらしく、一部の人々は、他人に指示をする(出来る)側、残りは指示をされる側の人間になった。“指示人間”対 “被指示人間”とでも言おうか!
私は昭和22年生まれの65歳。18歳までは自宅住まいで、母の指示下にあった。母は愛情を込めて私を育てたが、成績に対するノルマが過大で、私は常に追い込まれた状態だった。又金銭には事の外厳しく、粘り強く交渉しても、欲しい物の僅かしか買って貰えなかった。然し18歳から結婚する26歳までの8年間は、一転して自由で気ままな一人暮らし。就職して、自前のお金を持った時は、天にも昇る気分だった。私は就職してから結婚する迄の4年間に、車・TV・オーディオ・スポーツ自転車・バイク・ギター等次々に買った。勿論一人暮らしの母親にも、冷蔵庫・洗濯機・カラーTV・照明器具等を贈った。然し結婚して家庭を持ち、家内が大蔵大臣に就任するや私の地位は徐々に低下し、何時の間にか“被指示人間”になってしまった。
私は、定年まで4年を残し、9年前に退職したが、その理由は上司だけではなく、部下からも言いたい放題言われて、精神的に耐えられなくなったからである。若い時には上司から散々言われ、年老いたら逆に部下から言われるなんて、余りにも惨めではないだろうか!私は自著「親父のつぶやき」に書いたように、元来は“打たれ強い人間”である。それは入社早々、4年先輩だったK氏に、果敢に歯向かったことでも分かる。K氏は江戸っ子でべらんめえ調。思ったことをポンポン言う人だった。私は氏から事ある毎に叱られたが、一度も挫けず、自らの設計思想を主張し続けた。今も記憶しているテーマは、銅パイプを熱交換器にロー付する時、先端の形状をストレートにするか(私)U字型に加工するか(K氏)の対立だった。K氏と私の “際限なく続くかの如き ディベート”は名物となり、異様な雰囲気に、職場全体が静まり返った時もあった。
熊本転勤後は、二人目の上司が特に厳しかった。週一回の会合で、他の管理者と並んで報告しても、何時も私だけが集中砲火を浴びた。上司の決まり文句は「何故そんなことをしたのか?」だった。(その心は、事前に自分に“お伺い”を立てろ!)私に対する集中砲火は、上司が代わっても続いた。要するにボスと云う人種は、自らの権威を保持する為に、誰か(打たれ強い人間)をターゲットにして、見せしめとばかりに容赦なく叩く。それは組織の弛みを是正し、タガを締め直す、安易だが最も有効な手段でもあるからだ。私は、そんなボス共の“格好の餌食”となった。それにしても、ボスと云う人種は何故、言い易い人間と、そうでない人間を即座に見分けるのだろう?論より証拠に私は今も“言われ易い性格”らしく、色んな人達から「心にグサツと来るようなこと」をズバズバ言われる。
先日も或る女性が、血相を変えて怒鳴り込まれた。理由は、私が指導して植えた野菜の手入れが殆ど成されず、草茫々の状態になっていたので、見るに見かねて刈り倒したからである。処がその女性の “鬼気迫る形相”に気圧されて、私は思わず後すざりし、言おうとしていた言葉をグッと飲み込んだ。覆水盆に返らず。自己愛が異常に強く、被害妄想気味の人(ナルシスト)には、理屈をこねても通じず、こじれるのが関の山で、詫びるのが最も簡単で、後々まで尾をひかない方法である。恐らく私は他人から見ると“何を言われても平気で、無神経で、鈍感な人間”だと思われているようだが、実際には結構傷ついているのである。
そんなこんなで、気分が落ち込んだ時はクヨクヨ考えず、鶏小屋に行って生態を観察するのが良い。我家の鶏は平飼いなので、24時間集団生活をしている。鶏はとても気丈である。弱い鶏は強い鶏から寄って集って突かれ、禿げ頭になっても決してめげず、強い鶏の隙を見ては餌にありつこうとする。一方強い鶏も、弱い者虐めをしても、陰湿ではなく深追いはしない。
私は思う。人間も動物の一種で、長い時間を経て進化したとは云え、今尚原始の名残を留めている部分がある。従って20年余の間、親の愛情、家庭教育、学校教育、社会教育を受けて、初めて独り立ちが出来るようになる。そう言う意味からでは、人こそが社会の宝なのであり、私も禿げ頭になってしまったが、今後は鶏を見習い、簡単にめげない人間になりたい。終わり


災害

彼此40年も以前の昭和46年夏の出来事だった。私の従姉とその親友のEさんが、熊本から遠路遥々静岡まで遊びに来て呉れた。Eさんは顔のホクロが印象的な“美人女性”だった。当時、私は会社の独身寮を退去し、静岡市内の民間貸間を借り、一人暮らしを始めていた。独身寮からの退去理由は、余りのプライバシーの無さだった。当時私の部屋C棟1階の1号室は、同僚の“溜り場&雀荘”と化していた。一方、転居先の貸間も6畳と2畳の二間で、台所は流し台が有るのみ、ガスもないので、食事を作ることも出来ず、余分な寝具も持たない私が、女性2人をどうやって泊めたのか、或いはホテルを紹介したのか、今となっては思い出せない。多分夏場だったので、布団等はさして必要なかったのだろう。
翌日は、富士方面にドライブに出かけた。私は当時ミニカを持っていたが、360ccの軽自動車で、車内も狭くパワーも弱いので、彼女にカローラを持って来て貰った。途中名勝“白糸の滝”に立ち寄り、冷やし素麺を食べたが、冷えが悪く不味かった。その後更に北に位置する富士五湖の一つ、西湖(本栖湖だったかも?)まで足を伸ばし、貸しボートに乗った。一隻が従姉とEさん、他方が私と彼女である。私は泳ぎが苦手で、蒼く深い湖上を漕ぎつつ “何とも得体の知れない不安” が心中を過ぎったのを覚えている。そして私はあの日Eさんに私のギターをプレゼントした。Eさんがそれを所望したのか、私が自分の好意でしたのか、今や記憶は全く曖昧である。勿論好意がなければ、そんなことはしなかったと思う。(前記の不安から、私はその年の秋に彼女と別れたが、彼女は純粋一途な人であった故に、私の“不安心理”をとうとう最後まで理解出来なかった。)
その後Eさんは北九州の男性と結婚し、私も家内と結婚して各々家庭を持った。そして二十余年の歳月が流れ、我が次女は北九州の大学に進学し、近くに住むEさんから様々な好意を受けた。そのEさんご夫婦が、熊本移住を考えられたのは10余年前のことだったと思う。私は近くの古民家を紹介したが、余りに荒れ果て、成約には至らなかった。その後Eさんは、旧制第五高等学校剣道場が在った、阿蘇市内牧三久保に新居を構えられた。その新居は、私の知人Mさんが設計された建物で、三菱電機時代に親しかった三友工務店が施工した土壁の内装で、カナダ製の薪ストーブを備えた、お洒落でこじんまりとした別荘であった。壁塗りのワークショップや落成式には、多くの人々が馳せ参じた。私達夫婦も熊大の恩師を連れて参加した。そしてEさんご夫婦は現在に至るまで、北九州と阿蘇との二元生活をされていた。
そのご夫婦の阿蘇の家が、何と先般の阿蘇豪雨災害で山崩れに巻き込まれ、ご夫婦共に亡くなった。私はその事実が信じられず、繰り返しTVのテロップに流れる報道を、呆然と見詰めていた。葬儀は熊本市の玉泉院で営まれ、家内共々参列したが、傷んだ遺体の顔面は一見綺麗に修復されていたが、恰も別人の様であった。航空管制官の一人娘が、礼服も着ず作業衣のままで呆然と立ち尽くして居られたのを見て、私は声を掛けることすら躊躇った。今となっては悔やんでも悔やみきれないが「阿蘇などに行くのはお止しなさい!」と何故強く言わなかったかと、私は今も悔いている。
今夏の豪雨では、多くの人々が災害に巻き込まれて、亡くなった。自然災害は仕方ないとの見方も有ろうけれども、私は人災の面も少なからずあるように思う。大昔の大噴火の後、陥没した外輪山の急斜面に、人家を建築すること自体が間違っている。新しい土地に家を建てる場合には、遡れる限りの自然災害記録を調査し、念を期すべきである。
我家は少なくとも400年以上前から、先祖が住んでいた土地であるが、私が知る過去半世紀の間にも、二度の土砂崩れが発生した。一度目は昭和30年代、戦時中に建設された防空壕が老朽化して崩落、西側の裏山が大きく陥没した。二度目は10年ほど前、東側の竹山が地滑りを起し、大量の土石が川面に崩落した。これらの災害には何れも原因がある。防空壕の崩壊は、支えていた松の木が腐食して、持ち堪えられなくなった為。竹山の地滑りは、大量の真竹を全て伐採したので、表土の保持力が失われた為である。
便利が良いとか、眺めが良いとか、土地が安いとか、人間の都合を優先して家を建てる人が殆どだが、私は子々孫々まで住む可能性のある家は、何よりも安全第一であるべきだと、固く信じて居る。
Iさんご夫婦のご冥福をお祈り申し上げます。終わり


結婚

去る2月の最終週末、オーストラリア在住の長女一家4名、玉名在住の次女一家4名、私達夫婦の合計10名が、大挙して二泊三日の日程で上京した。これは我家の歴史上、空前の家族大移動となった。その目的は、東京在住の息子の結婚式に参列する為である。式は、鄙びた佇まいの“品川プリンツヒェンガルテン”にて、友人2名立会いの下“人前形式”にて挙行された。
今回の結婚式は、私にとっては生涯最後になるかも知れない身内の慶事であり、それなりに準備をした積もりだったが、披露宴締めの挨拶では、先方の苗字を言い違えるなどメロメロ、今更ながら冷汗ものだった。尤も息子の上司の挨拶も、新郎の名前を言い間違える等々、新郎新婦はもとより、傍で聞いていた両家の関係者は、気が気では無かったかと推察される。然し何はともあれ、今回の結婚式で、我家の子供達全員が家庭を持ったので、私達夫婦は或る意味で “人生の主目的足る次世代へのバトンタッチ”を終了したのである。
嘗て日本の結婚式は、女性が輿入れする為の儀式で、花嫁は「長持・箪笥・化粧台から寝具に至る家財道具一式」を持参するのが普通だった。然し、今や東京のマンション住まいの身なれば、それらの家財道具は、不要どころか邪魔ですら有る。又嘗ては、家族労働が主体で、戸主は男性。そして大半の家庭が、多くの子供を含む多世代で構成されていた。それが今や3世代家族はおろか、2世代家族すら減少の一途で、我家のような夫婦だけや単身世帯が大幅に増えた。そして女性の社会的地位の向上と共に、家族形態も男系から女系(マスオさん型)へと急速に移行しつつある。これは謂わば中世への回帰とも呼べる現象である。我が息子も東京で働くからには、頼れるのは近くに住む連れ合いの家族であり、我家は遠く離れているので、年に1~2度、田植か稲刈の時期にしか息子には会えない。実質的には、息子を養子に出したに近いのである。だからこそ私が独身だった昭和40年代、私の母は同様の理由から、静岡の女性との結婚には、とことん反対したのであった。
その証拠に、嫁に出した筈の我が次女は、共稼ぎという家庭の事情もあり、今も毎週のように孫を我が家に預ける。嫁ぎ先の姑に頼むよりも、実家の両親が頼み易いのである。勿論私達夫婦は、孫達が来るのを何よりの楽しみにしている。
私は思う。この度専門学校卒の我が息子が、早稲田卒の才媛を娶ったのは(特に男子に対する)学歴信仰が強かった旧弊を打破し、新しいカタチの家族を作る切欠にもなろう。そして今回の両者の縁結びに、私の稲作が些かでも寄与出来たことを、とても嬉しく思う。遥かなる昔、早稲田を卒業した私の祖父“徳永右馬七”も、草葉の陰から、さぞかし喜んでいることだろう。終わり
追伸:今回の上京では、結婚式の翌日、デイズニーランド見学などせずに、私だけでも東北の被災地にボランティアに行こうと計画したが、程良い旅程のバスツアーを見付けることが出来ず、止む無く断念と相成った。何時の日にか必ず出向くことを念じつつ、被災地の皆様には、心よりお詫び申し上げます。ゴメンナサイ!


山本五十六

昨年はことのほか忙しく、大晦日の夕刻ギリギリまで仕事をしたので、新年位はゆっくりしたいと思い、元日早々熊本市まで映画“山本五十六”を見に行った。勿論この映画の主題は第二次大戦、それも太平洋戦争の戦端を開いた、ハワイ真珠湾攻撃とその半年後のミッドウエー海戦、そしてガダルカナル戦が舞台となっている。多くの戦争映画は戦闘が主題であり、この映画も勿論戦闘場面も多く、セットも稚拙さが然程目立たず良い出来だったが、この映画は何よりも山本五十六個人の人間的魅力に光を当てている処が素晴らしい。山本は若き頃、米国に海軍駐在武官として赴任し、米国の奥深さと、米国人の気質を知り抜いた知米派であり、外交交渉の経験から他の日本軍首脳とはかなり異なる対米認識を持っていた。そして知米派だからこそ開戦には最後まで反対しつつも、決まった後には真珠湾奇襲も自ら立案したが、現実には宣戦布告が大使館員の翻訳の手間取りなどで遅れ、後後まで“日本は闇討をした卑怯な国”との汚名を被ることになった。
私は、この映画を見つつ無意識に“太平洋戦争が我家に及ぼした影響”について考えていた。昭和20年の敗戦後、米国はマッカーサーの指示の下、日本の庄屋階級を戦争を支えた“力の源泉”と見なし、徹底的な解体を図った。それが即ち農地開放と公職追放である。我家は戦前4町歩(4万平方メートル)位の農地を有する、200俵取りの小規模地主であったが、戦後はその大半を失い、僅か8反(8千平方メートル)を有するのみとなった。更に私は2003年の退職時に、その内の2反半を宅地化しようと埋め立て、残った5反半の田圃は知人に貸与したので、自身の耕作田はとうとうゼロになってしまった。私が農業に目覚めたのは、その5年後である。2008年から2010年にかけての3年間、我家はNPO法人「パーマカルチャーネットワーク九州」の活動拠点となり、日本全国から若くて優秀な人材が多数結集して、様々なイベントが開催された。その中で、米作りはメイン行事の一つとなった。私は、これらの若い男女に当地で米作りを体験して頂く為に、昨年迄の4年間に、鷽の谷10枚、片白12枚、古城原6枚、合計28枚にも及ぶ棚田を借地したのである。地元の人々から見れば、私は“風変わりな物好き”と見えるに相違ない。
そんな中、昨年3月には東日本大震災が襲来し、我家には津波ならぬ大きな“人の波”が押し寄せた。それは玉名市出身で東京在住のM氏が玉名の実家に戻られ、関東から多くの知人を呼び寄せられたからである。その内の御三方が、目出度く此処石貫に住まわれることになり、私はこの人々と共に、関東で放射能の不安に怯える人々に、安心して美味しい米を食べて頂く為に、現在田圃の整備をしているのである。
その中でもハイライトとなったのが、I君から借りた日当たりの悪い2反弱の田圃である。この田圃は南北に細長く、その西側傾斜面には夥しい本数の真竹が群生していて、その多くが田圃に向かい覆い被さっていた。その竹を一本一本伐採し、採寸して玉切りし、百米近くにも及ぶ猪避けの竹柵を、延々と構築したのである。この作業は正に女性パワーが炸裂した。真竹は真直に見えても、殆どが曲がっている。その竹を上手に組み合わせ、揃えて固定する作業は男性でも結構しんどい作業である。然し女性特有のきめ細かさで、几帳面に選別・組み合わせて構築した竹柵は、誰が見ても見事と言うしかなく、さながら寝そべった“龍”の形にも見え、近くの道路を通る車が態々停車して、見とれるほどの出来栄えとなった。
私は、日本有数の米処である新潟県長岡で育った山本五十六が、負けると分かっていた戦争にも拘らず、ありったけの航空戦力を真珠湾とミッドウエー海戦に、一挙に注ぎ込んだ気持ちが、何となく分かるような気がする。この映画の中で、五十六はどんな激しい海戦の最中でも、戦闘そのものには全く関与せず、部下と黙々と将棋を指し続けていた。五十六にとっては「戦闘が始まる迄!」が全てだったのだ。
私は五十六の足元にも及ばない、一介の人間に過ぎないが、来る6月の田植えの時には、敢えて陣頭指揮は取らず、畔の上から皆さんの田植え作業を、静かに見守りたいと考えている。終わり


プライオリティ

サラリーマンは多かれ少なかれ、組織のトップにでもならない限り上司のマネージメント下で仕事をするのが普通で、日常生活も上司に大きく左右される。然し一旦退職すると、それまでの上司から開放される代わりに、自らでマネージメントせざるを得ず、現役時代より個人差が大きくなる。私は退職してもう8年になるが、夕食時間が現役時代の平均21時から、18時に3時間早まったことを除けば、6時起床・朝食、12時昼食、23時就寝という規則的な生活習慣を、今も崩してはいない。従って、大凡午前の5時間、午後の5時間の、一日約10時間が私の自由時間となる。私は現在、この時間を主に農作業に充てているが、来客対応や雑事も多いので、実質的な作業時間はその半分と見て良いだろう。然しこの5時間に何をするかで、退職後の人生が大きく変わるのは間違いない。要はプライオリティの問題である。
日本史を紐解けば、有史以来脈々と地方から中央(15世紀以前は関西、以降は関東)への人口移動が続き、東京は世界有数の大都市になった。然し東京一極集中は、経済効率から見れば良いことかもしれないが、国全体の均衡ある発展から見れば弊害も多く、地方は年々疲弊している。我が石貫とて同様、住宅戸数こそ半世紀前とそう変わらないが、一人暮らしや、老夫婦のみ、或いは無人の家屋も少なくない(我家もその内の一軒である)。
処が今年の大震災を切欠として、関東の都市圏に向かう人々の流れが弱まり、僅かではあるが地方への逆流が起きつつある。これは原発事故を切欠として、人々が古来営々と築き、追い求めた“大都市での便利な生活が、果たして幸福か?”との疑問を抱いたからでもある。例えば東京でのマンション住まいと、石貫での田舎暮らしを比べれば、大半の人が前者に軍配を上げるだろう。然し、マンションで自給出来るものは何も無く、その全てを金銭で購入せねばならない。だから金さえ出せば、あらゆる物が手に入る代わりに、金が無ければ、乞食か泥棒でもするしか生活の術はない。それに引き換え田舎には、煌びやかなデパートも、ショッピングモールも無い代わりに、我家では半日も労働すれば、良質の米・野菜・果物・茸・鶏卵・木材等に加えて、清らかな大地と空気・水・太陽光が、幾らでも只同然で手に入る。
私は今年、県経済連出身のM氏と懇意になった。氏は玉名市のマンション住まいながら、近郊の農地を幅広く借受け、各種の野菜や果物を生産する農業のプロフェショナルである。氏の発案で、8年前に多量の草堆肥を投入したまま、半ばほったらかしにしていた庄屋前の畑約1000㎡を、東京から避難されたMさんを加えた3人で整備した。この畑は肥沃ではあるが、草堆肥に混入して持ち込まれた石ころ、ガラス、金属等の不燃物に加え、ビニールマルチや、釣り糸等の各種プラスチックスが混入しているので、作付けをためらっていた農地である。そして畑を大まかに分割し、M氏・Mさん・Nさん・Iさんの4名と私で各種の野菜の種を蒔いたら、秋の高温多雨の所為もあって見る間に成長し、特に葉物野菜は巨大化して、近所の農家から良い出来と褒められた。(但し巨大野菜は必ずしも食用には向かず、大半は鶏の緑餌になる)
そんな私が今遣りたいことは加工である。私は庄屋カフェ建設に続いて数年前、貴重な畑をつぶして加工所を建設した。これは農産物を加工して付加価値を付けて、販売したかったからである。私の子供時代は、納豆・味噌は勿論のこと・糠漬・味噌漬・醤油漬・酒粕漬から違法の濁酒に至るまで、多種多彩の農産物を加工していた。今年こそは一念発起、先ず干し柿を作ろうと、鈴なりの渋柿を捥ぎ、毎夜TVを見ながら皮を剥き、加工所の軒先に干した。処が季節外れの高温多湿で、表面が黒くなり、乾燥不足でボタボタ落果した。然らば銀杏を加工しようと、先日から拾い始めたら、在るは在るは!3日間で大型ポリバケツ3杯分の銀杏を収穫出来た。これを水に浸けて腐敗させ、皮を剥き、天日乾燥して、袋詰めせねばならない。処が、家内から意外な情報!今年は店頭に多量の銀杏が売られていて、価格もバカ安とのこと。ヤレヤレ!この世は甘くない。そう考えると、矢張りプライオリティNo.1は米である。今年は秋の長雨で、収穫に苦労した人も多かったが、やっと脱穀も終わった。
私は、連ドラ“カーネーション”を見ながら、サラリーマン時代を思い出した。私の元上司の一人は岸和田の人で、会議の冒頭に延々と自説を開帳し、部下の報告は殆んど聞こうとしなかった。彼のプライオリティは、自説を部下に吹き込むことだったのだ。管理者は、先ず部下の考えを聞くことが重要である。然し、そんな私も来る12月11日の収穫祭では、アルコールの勢いで自説を喋るに違いない。終わり


健忘症

オシッコをした後、所謂“社会の窓”を閉め忘れて、誰かに指摘されたり、後に自分で気付き、慌ててチャックを上げる時ほど、恥ずかしい想いをする瞬間はない。それが相当時間が経過した後であれば尚更のこと「一体どの位の時間、空けたままでいたのか?」「その間誰と会ったのか?」ハタマタ「道理であの人の目付きがおかしかった!」等々思い出しては、一人赤面することも一度や二度ではない。こんな単純な動作すら忘れるのは、果ては「痴呆の徴候か?」と悪い予感が、私の脳裏を掠める。
私は、子供の頃は暗記が得意だった。特に地理が大好きで、日本地図を眺めては、47都道府県の県庁所在地や市町村名、山脈と標高、河川の長さや湖沼の深さに至るまで、片っ端から暗記した。勿論、世界地図も同様である。お陰で、高校の地理では全校で只一人、満点を貰った程であった。その同じ人間が、半世紀後には、社会の窓も閉め忘れる。一体私の頭脳はどうなってしまったのだろう??
私の典型的な症状は、以下の4項である。
① 直前にしようとしたことを忘れる。
(納屋に行き、何を取りに来たのか思い出せない)
② 前回買ったものと全く同じ品物を、再度買う。
(店も陳列場所も同じなのに、全く気付かない)
③ 親しい知人の名前を忘れる。
(最近会った気はすれど、何処の誰だか思い出せない)
④ 同じ人に同じ話を何度もする。
(自分では初めてする話だと、固く信じている)
この内、①②は云わば自己責任に属する分野で、大きな問題にはならない。然し③④は、人間関係に属し、相手の気を悪くしたり、ウンザリさせたりする。然し、何と言っても健忘症の最大の問題は、本人が(変なことを言っている自分に)気付かないことである。私は毎日、至極真面目に生活している(と思う)。然し相手から見れば、おかしな言動が多々あるに違いない。従って私もこの欠点(病気)を直そうと色々努力してみた。例えば自己紹介をされた時、復唱するとか、メモにするとか。然しその肝心なメモを何処かに置いて、みつからなかったり、そもそもメモをしたことを忘れたり、この病気は意外と厄介なのである。何でも人間の記憶を司る部位は、脳の中の海馬と言う所らしいが、私の海馬はきっと記憶の収納場所が中々検索出来ないのであろう。
私は30代の後半から、半導体工場に勤務した。当時その工場で生産していた代表的な半導体は、メモリであった。メモリは大きく分けて、RAMとROMがある。前者はランダム・アクセス・メモリと言い、読み出し速度は速いが、定期的にリフレッシュをしなければ消えてしまう。一方後者はリード・オンリー・メモリと言い、読み出し速度は遅いが、一旦記憶すると、電源が切られても強制的に消去するまで記憶が残る。きっと私のRAMは、現在リフレッシュが上手く出来ないようだ。一方、私のROMに記憶されたデータは、殆んどが若かりし時代のデータで、時代が古くなるほど鮮やかに蘇る。中でも最も鮮明に記憶に残っているのが10~20代のデータである。30代以降は、時代が新しくなるに従って不鮮明になり、最近のデータに至っては殆んど消えて、残っていない。
若い頃から続け、最早半世紀を越えた日記書きも、継続が怪しくなって来た。何故なら近年は、翌朝に前日の日記を書いていたが、最近は前日の出来事が殆んど思い出せなくなってしまった。されば当夜、当日の日記を書こうと思ったが、これまた大差なく、当日の行動もあやふやである。と言うことは、私はそろそろ、日記を書くことすら無理な年齢になりつつあるのかもしれない。
私は思う。5~6歳から延々60年近く続けてきた日記書きも、そろそろ終幕が近付きつつあるようだ。ならばこれ以上無理に書き続けるより、今まで書き溜めた日記を読み返して、整理をする時期かもしれない。私の叔父は嘗て「徳永家の歴史」という書物を書き上げたが、健忘症の私は自身の日記をベースとして「徳永龍の歴史」を書くのも一考かもしれない。終わり


母子家庭

先日、近所のIさんが急逝され、私も同じ組内なので家内共々手伝いに行った。Iさんは土建業を経営され、人格者で交際も広かったらしく、市内で最も広いJA斎場の両脇が花輪でギッシリ埋まり、通夜も葬儀も席が足らない程の参列者が押しかけた。最近は仕事の関係から、昔は近親者や近所の人々のみで執り行われた“通夜”が、翌日の昼間に実施される、本番の“葬儀”以上に参列者が多い。従って通夜の受付は、目覚しと香典の受付が併設され、然も業者関係と一般(個人)の受付も別々なので、実質的に4名が窓口で対応することになる。 私は個人の香典受付を担当したが、必死にさばいても、長い行列が出来る程の参列者で、目が廻るような忙しさだった。それにしても私より4歳も年下の、還暦での逝去は余りにも早過ぎる。
私は多忙な受付をしつつ、半世紀前の情景を想い起していた。昭和30年代、我家の近隣に3軒の母子家庭があった。我家が最初(31年)で、数年後TさんとIさんも相次いで夫を亡くして、母子家庭となった。そしてこの両家には共通点があった。何れも上が兄で、下が妹の3人家族なのである。当時の日本は未だ貧しく、福祉制度も未整備で、特に母子家庭には様々な困難が押し寄せた。そんな家庭環境の下で、母親は“女”から“男女”(おとこおんな=男勝りの女性)に変身する一方 “息子”に対しては、異常とも思える偏愛と、背負い切れない程の期待を寄せる。3人の寡婦の中で最年長だった私の母は、他の二人に共感し、再婚などは一切考えず、女手一つで子供を育て上げようと、互いに励まし合っていたように記憶している。当時、母の口癖だった「お前さえ居れば、パパが居なくても、自分はちっとも寂しくない!」が今も私の脳裏に残る。(私の母以外の二人の老母は、高齢ながら現在も存命中)その甲斐あって 3人の息子は何れも大学を卒業して社会人になった。但し、私以外の二人がサラリーマンを30~40代で辞めた後に、起業したのに対し、私は50代まで会社に勤め、その後農業(事業とは言えず云わばボランティア)を始めたことである。これは言い訳になるかも知れないが、私が「タイとの交流の会(谷口プロゼクト)」に十余年、関わったことが、大きく影響している。
そして、この3人の内の一人が他界した今、私もそろそろ次世代のことを考えなければならない時期が迫ったことを肌で感じる。勿論次の農業の担い手は我が長男であるが、結婚もしていない現在、東京から戻って農業をせよと言える情勢にはない。退職まで待つなら、私は残り30年も農業をせねばならず、到底不可能である。私が老体に鞭打って、この後10年頑張り、息子が40歳で退職して子供連れで熊本に戻っても、その後の生活設計が展望出来る情勢にはない。
と言う事は、私も他の二人に習って起業すべきであったか?然し、我が家系で事業に成功したのは、叔母(父の妹)一家を除いて他にない。その島田家は元は玉名市横島の豪農であった。玉名市は大きく分類して、中心部の旧高瀬町一帯を境に、北が山付き、南が海付きと呼ばれ、両者の気性は大きく異なる。一言で言えば山付きはコツコツ型で、兼業農家が大半、海付きは一発勝負型で事業家が多い。従って山付きの石貫出身の事業家は少数である。私は今頃になって思う。37歳で熊本に帰郷した時、再就職せず、農業法人を起業する道もあった。若しもそうしていたら、今頃は私も専業農家として、近隣一帯の農地を幅広く借り受け、機械化農業を営んでいただろう。然し、それが成功したか否かは未知数である。私は既に64歳なので、今更起業する道はない。ならば息子の将来に期待して、それまでは今の農業を細々と続けるしかない。
そんなことを想いながら、今日も孫娘と、犬を連れて田圃の見廻りに行ったら、ちょっと目を離した隙に犬が紐を引いたまま行方不明になった。さあ大変!一旦家に帰り、軽トラで彼方此方探し回ること30分。近くの馬場部落の一軒の玄関先で我が犬を発見!やれやれ一安心。こんな時思い出す。Iさんは生前、血統書付のラブラドール犬(Iさんに先立って死亡)を引連れて毎夕散歩していた。私は父親も分からない雑種の犬を引連れて散歩している。犬も人間も雑種が長生きするのか、私は今も健康である。終わり


英国王のスピーチ

先日アカデミー賞を受賞した話題作「英国王のスピーチ」を見た。この映画はハリウッド映画とは対象的にとても地味な映画で、英国王ジョージ6世が吃音を克服するお話。1936年1月、ジョージ5世の死去後、本来ならば王位を継ぐべき兄のエドワード8世が、離婚歴のある米国女性(シンプソン夫人)と結婚した為に、急遽弟がジョージ6世として即位する。然し、彼は吃音症(所謂ドモリ)だった。妻のエリザベス妃は治療を試すが、改善しないので、ユニークな治療で有名な、豪州人言語聴覚士ライオネル・ローグを訪ねる。然しローグの、王族たりとも一切特別視しない治療態度に、王のプライドは著しく傷つき、劣等感に苛まれて反発し、もがき苦しみながらも、懸命に吃音の矯正に取り組むという、極めて人間臭いドラマである。
当時の欧州は、ドイツのナチズムやイタリアのファシズム、ソ連の共産主義などが台頭した時期で、イギリスはドイツのポーランド侵攻を受けてドイツに宣戦布告。第二次世界大戦が始まり、ジョージ6世が、世界中の植民地を含む大英帝国全土に向け(ややドモリつつ)必死の面持ちで、ラジオ放送を行ったところで幕となる。
この映画は、現在の国家元首エリザベス女王の父親の実話であって “出来れば公にしたくないテーマ”を、赤裸々に映画化するなど、日本の皇室ならとても許されないことで、その面でも英国は凄い国である。又歴史は戦勝国が作るものとは言え、名うての演説者であった枢軸国の3首脳(ヒットラー・ムッソリーニ・東条英機)に対し「プロパガンダで戦争は勝てない!」と揶揄しているようで、現役時代に口下手で損ばっかりした私は、ちょっと胸がすく想いだった。
私は2年近く前に従姉が住むロンドンを訪れ、10日間滞在した。その間、女王の住まいでもあるバッキンガム宮殿や、週末を過ごされるウインザー城を訪れて、その歴史と伝統に触れた経験を持つ。
私は勿論吃音症ではないが、スピーチと言うと、何故か小学生時代を思い出す。私は石貫小学校で、6年生の2学期まで過ごした。当時は学級委員制度など、きっちりしたものはなかったが、最初のスピーチは5年生の時、卒業式の送辞だったと思う。同級の私の従姉など、それはそれは見事な送辞を読み、児童のみならず保護者・教員一同が、感涙に浸ったと聞いた。それに引き換え私の送辞は、言うならば“引っかかりもっかかり”何とか読み終えたと言って良い。そればかりか、事前に幾度かリハーサルをした筈なのに、和紙の巻紙を左手で広げて、右手で巻き取る動作が上手く行かず、最後に「ぐしゃぐしゃ」になったので、傍聴席から「クスクス」と笑いが漏れて赤面したのを、はっきりと覚えている。又、何時かは「暗記した筈の言葉」が緊張の為に出て来ず、暫く沈黙の後に、やっと発したり、散々なスピーチが多かった。唯一の例外は、初代玉名市長“橋本二郎氏”の目の前で行ったスピーチで、市長が態々壇上から下りて来て、私に「有難う!」と握手を求められた。尤も当時の市長は父の友人だったので、社交辞令もあったろう。
中学・高校・大学の10年間は、全くスピーチの機会なし!社会人になっても、私のスピーチ下手は直らず、部下からの仲人要請も最初は断った。然し課長になった後は断れなくなり、メモ紙を用意し、何度も練習して臨んだ。漸く合格点を貰ったのは、3度目の仲人のスピーチだった。この時は、新婦が学生時代から十余年間想い続けた恋が、漸く実ったドラマ性も有ったし、私もそれなりの人生観を身に付けた頃で、式典終了後、新郎の友人から「良いスピーチでした」と、お褒めの言葉を頂いた。
そして退職後、公民館長を5年間務めたが、この役職は敢えて言うならば“スピーチ要員”で、会議の司会を始めとして、学校行事や、長寿会、婦人会の総会などでは、必ずと言って良いくらい、来賓代表としてスピーチをしなければならない。私は就任期間中、大方メモ用紙を持ってスピーチに臨んだ。それなのに公民館長は、名誉職的色彩が強く、手当ては交通費程度のために、成り手が居ないらしく、辞めて数年経つのに、先般又しても私に再登板して欲しいとの依頼が舞い込んだ。断ったのは勿論である。
私は思う。最高のスピーチは“聞き手の心を打つスピーチ”である。人は大抵場慣れをするに従って“そつのないスピーチ”は出来るようになるが、人の心を打つスピーチは、やろうと思っても出来るものではなく、話し手の心の内から、自然と滲み出て来るものである。故リンカーンや、ケネディ大統領、昭和天皇の玉音放送等が、その部類に入るだろう。
私は今年64歳!今後スピーチをするチャンスは殆んどないと思う。そうなれば自らその機会を作るしかない。私は生涯最後のスピーチを、孫娘の結婚式でバージンロードをエスコートする時と決めた。最近まで私に「抱っこ、おんぶ、肩車」をせがんだ孫娘は今年もう6歳、26歳で結婚するとして、20年後である。これで長生きの目標が決まった。その時のスピーチを、20年間懸けて練り上げよう!終わり
追伸、希しくも昭和天皇の誕生日の4月29日、エリザベス女王の孫に当たるウイリアム王子と、ケイト・ミドルトンさんの結婚式が、ロンドンのウエストミンスター寺院で、華やかに挙行されている。


カンニング

今年の大学受験で、ネット(ヤフー知恵袋)を利用したカンニング事件が発覚し、連日マスコミの話題をさらっている。私もネットは頻繁に利用するし、46年前に大学受験した一人でもあり、当時のことを思い出した。当時は今とは違って、センター試験の制度も無く、高校の内申書も殆んど実効性がなく、正真正銘の一発勝負だった。国立大学は、国語・数学・社会・理科・英語の5教科、私立は文系が国・社・英、理系が数・理・英の3教科で、私は熊本大学工学部機械工学科を2日間に亘って受験した。
当時の私は親一人子一人で、母は「私の将来に全てを懸けている」と言っても過言ではなかった。高校時代の成績は、勿論上り下りはあったが、3年次には概ね全校ベストテンには名を連ねていた。母は何故か九州大学進学に拘った。叔父が東大を出ていたので、対抗心から、同じ旧帝国大学系に属する九大(の名前)に拘ったのである。然し担任の永田先生は「九大も熊大も(卒業後の将来性は)変わりませんよ!」と言われたので、母も渋々熊大受験に同意した。これは正解だった。
入試一日目は国語・数学・社会、二日目は理科・英語だったと思う。私はカンニングの必要もなく、自分でも良く出来たと思った。但し不得手の英語だけは、やはり出来が悪かった。冒頭の英文解釈で、単語の暗記が不十分だった欠点が露呈し、何度も読み返すが、意味が良く掴めない。こうなると焦りが出て悪循環が始まる。時間は容赦なく過ぎる。とうとう解答不十分なまま、時間切れとなった。当日の帰宅早々「英語でしくじった!」と母に漏らした。然し結果は合格だった。
そもそも大学入試と言うものは、収容力が限られているので、定員を大幅に超えないように、特定の基準を設けて人間を篩いに掛け “選別”する手段の一つに過ぎない。その証拠に、大学在学中における前期・後期の試験は、目的が選別ではなく進級させる為なので、ある程度の点数が取れる様に、半分位は前年度と同じ問題が出る。従ってそれを予習さえしておけば、誰でも殆んど50~60点以上は取れる。私は大学近くで間借りをしていたが、試験前夜に学生寮から廻ってきた“前年度の問題”を予習して試験に臨んだので、落第もせず、卒業することが出来た。考えて見ればこれは形こそ違えども、半ば“大学黙認のカンニング”である。
然し当然の帰結かも知れないが、こんな楽な大学生活を過ごした私が、社会に出て仕事を与えられ、いきなり役に立てる筈がない。私は昭和44年の入社だが、曲りなりにも“手応えのある仕事”が出来るようになったのは、昭和50年代からであり、入社後数年間は“足手纏いの一人”に過ぎなかったと自戒している。
そして今、大学時代を振り返ると、陳腐な講義等よりも、寧ろ優れた先生方・友人・諸先輩、即ち“人生で出会う中で、最も秀でた人間集団”との交流に、多くの価値を見出し、貴重な“人格形成の場”を、有効に生かすべきであった。それが曲がりなりにも実現したのは、担当の佐藤先生と1:1の触れ合いが出来た、4年次の卒業研究だった。
私は今、ネットカンニングの受験生に言いたい。「其処までして京大に行く価値は無いよ」と。昔も今も、社会が求めているものは、出身大学ではなく、個々の人材そのものであるからだ。その証拠に社会人になった後は、ごく一部の人を除いて、私が交わった多くの社会人の学歴などは、殆んど話題にも上らなかったし、記憶もしていない。そんな中で唯一、学歴が人々の話題になったのは「誰々さんは、あれでも東大出よ!」と言う、一種“嘲りの言葉”であった。
私は思う。私が若し九州大学に合格して、社会人になっていたら、おそらく言われただろう。「徳永さんは、あれでも九大出よ!」と。終わり


天城超え

私は昭和44年から55年まで12年間、静岡に住んでいた。この内最初の4年間は独身時代である。当時はモータリゼーションの開花期で、東名高速道路や、国道一号線のバイパスが開通した時期でもあった。私は入社二年目早々に車を買い、県内外を縦横無尽にドライブした。その範囲は大まかに東は箱根、西は浜名湖、南は伊豆、北は富士山である。中でも、伊豆は海も山も景色が素晴らしく、熱海・伊東・下田・韮山・修善寺等々、有名観光地が目白押しで、伊東には会社の保養所もあった。私は色んな人を伴って何度も伊豆に行った。伊豆(の北半分)は、静岡市からの日帰りドライブに、丁度良い距離だった。
最も多くの回数行ったのは、修善寺のサイクルスポーツセンターである。此処は起伏のある周回コース設定で、自転車も色んなタイプが揃っていて、子供から大人まで、素人もセミプロも、それなりに楽しむことが出来た。尤も、自分で言うのも変だが、デートコースにサイクルスポーツセンターを選んだ私は、些か変わり者だったし男の私でも辛い程の上り坂を女性が扱ぐのは、かなりしんどかったに違いない。
中でも、昭和47年初春の出来事は、歳月の経過と共に、もろもろの不純物が濾過されて、透き通った水のように、ひときわ記憶が鮮明である。私は当日も伊豆を目指していたのに、あの日に限って伊豆の手前の沼津で、それ以上先に行くのを止めてしまった。此処は千本松原を有する沼津を代表する公園で、左に大きく湾曲する駿河湾の向こうに、好天の日は雄大な富士山を望む絶景の地である。広い駐車場があるため、県外からも多くの人々が訪れ、堤防の上や松林の中を散歩ジョギングする人も多い。
私は、此処で彼女にプロポーズしようと思い、海岸堤防沿いの狭い道で何度も切り返して(富士を望める北向きに駐車し直し)暫く車内で考えていた。その後二人で松並木の道を散歩した。九十九折れの道は人影もまばらで、遠くから潮騒の音が微かに聞こえ、あたかも映画のクライマックスシーンのような、抜群のSituationであった。然し何と言うことだろう。こんな重大な場面で気の弱さを露呈し、私はとうとう「肝心な一言」が言えなかった。彼女はEmotionalな女性ではなかったが、数ヶ月後に会った時には、流石に包み切れず「あれからずっと待っていたのよ!」と泣き叫んで、私の胸に崩れ落ちた。
石川さゆりの代表曲に「天城越え」があり、かなり前の発売だと思うが、今も度々歌われTVで流れる。何度も伊豆に行きながら、せいぜい修善寺止まりで、只の一度も“天城越え”が出来なかった私は、この歌を聴く度に「堪らない程に甘酸っぱく、又ほろ苦ーい想い」が、胸の奥底から「ジーン!」と込み上げるのを バレンタインデーの今日も隠しきれない。完
隠しきれない 移り香が いつしかあなたに 浸みついた 誰かに盗(ト)られる くらいなら あなたを殺していいですか 寝乱れて隠れ宿 九十九(ツヅラ)折り 浄蓮(ジョウレン)の滝 舞い上がり 揺れ堕ちる 肩のむこうに あなた・・・山が燃える 何があっても もういいの  くらくら燃える 火をくぐり あなたと越えたい 天城越え


潜在意識

家内は数年前から、フォーエバー・リビング・プロダクツ(通称アロエベラ)のビジネスを勉強しているが、その中に“潜在意識”なる言葉が頻繁に出て来る。潜在意識とは我々が普段意識している“顕在意識”の裏側に存在する意識のことで“無意識”と聞けば、誰でも何となく理解出来るだろう。「人生は自身の思い描いた通りになる」という“マーフィーの法則”も、潜在意識を言い表わした言葉として有名である。
潜在意識のビジネスに参加する人は女性が圧倒的に多い。先日中学の同級生(女性)を誘って、家内と3人で初めて南阿蘇まで勉強会に行ったが、参加者の大半は中年女性であった。どうも男性は潜在意識よりも顕在意識が優越する人が多いようで、この種のビジネスには向かないようだ。無論私もその典型であり、リーダーのお話よりも、周りの景色や建物に興味があった位で、途中から会合を抜け出して辺りを散歩した。
そんな私が“潜在意識”という言葉から連想するのは恋愛であり“恋愛意識”と言った方がピンと来る。恋愛は真に不思議な感情と言う他無い。“蓼(たで)食う虫も好き好き”の言葉の如く、理屈ではないからだ。男性から女性を見れば、一般的にはスタイルが良く、色白で、美人なら好かれるだろう。然しこの世にそんな女性は少数であって、スタイルも普通で、色白でもなく、美人とも言えない“普通の女性”は、男性から相手にされないかと言えば、そうでもないのだ。
私は独身時代、上司の課長から熱心に見合いを薦められた。(課長夫人は茶道教授で、多くの生徒の親から縁談の依頼を受けておられた)私は何度かは断ったが、とうとう断り切れなくなり、一度だけ受けた。そのお見合の場所は、静岡新聞社18階の展望レストランだった。相手の女性は所謂良家の子女で、背も高く容姿も人並みだった。後日課長から「相手は非常に前向きなので、結婚を前提として交際をしないか?」と薦められたが私は断った。その理由を質され、交際中の女性の存在を告白して、やっと納得して頂いた。あの当時、私が二人の女性を“顕在意識”で比較すれば、結果は明らかである。然し私の中の“潜在意識”は明確に“交際中の女性”に軍配を上げた。
然し不思議なのは、軍配を上げた女性とも結ばれなかったことだ。私はその理由を自著「親父のつぶやき」の中で、“華奢だったから”と述べているが、最近になって、どうもその理由も“怪しい”と思い始めている。顕在意識では確かにそうだが、潜在意識では“別の人を好きだったから”となるのである。その女性は、入社当初から私のアシスタントだった。詰り就職後、最初に出会った女性である。4年半もの間、私の仕事を補佐してくれた彼女は色白ではあったが、背も低く、容貌も人並みで、自分でも「私は普通の女よ!」と言っていた。その言葉には「貴方(=私)は普通の男ではない!」との意味が込められていたと思う。私はそんな一歩引く態度の彼女が好きだったのだ。(母に彼女の写真を送ったら「姐チャンみたいだ」と皮肉られた。)
然し、何としたことだろう。その“普通の女”との交際は、何故か上手く行かなかった。私は当時その原因を突き止められず、ひどく悩んだが、今思い起こせば“潜在意識”で説明が付くように思う。即ち、会社で毎日一緒に仕事をしている時は、当然“顕在意識”である。それが休日に二人で何処かに行っても、急に“潜在意識”に切り替わらないのである。一般的に好き合った男女の間には、難しい会話など要らない筈である。然しそれは両者が“潜在意識”の下に在る場合に限り“顕在意識”の下では何故かギクシャクして、興ざめな事態を引き起こすのだった。
私は思う。独身時代に潜在意識の勉強をすれば良かった。然し若しそうしていたら、今私は此処には居ないかも知れない。終わり


映画館

TVが一般家庭に普及する以前の、昭和20~30年代は映画の全盛期で、玉名町にも3軒の映画館があった。その一軒は錦館と云い、主に東映系の映画を上映していた。当時の田舎の小学生にとって、楽しみといえるものは、屋外での遊びの他には殆どなかった。だからかも知れないが、時々学校行事として“映画見学”があった。私はその当時“虚弱児童”だったが、映画見学には片道4kmを勇躍歩いて行った。大川橋蔵、美空ひばり主演の時代劇や、SF映画「海底三万哩」を見て胸を躍らせた当時を、今もおぼろげに覚えている。多分、米ソの冷戦が始まり、原潜ノーチラス号が北極海を潜航横断したり、日本の南極観測船“宗谷”が氷に閉ざされて動けなくなり、旧ソ連のオビ号に助け出され、その煽りで置き去りにされた樺太犬の中の太郎と次郎が、一冬酷寒の南極で生き延びた。私は当時このドラマにひどく感動して、我が飼い犬に次郎と云う名前を付けた程であった。
あれから半世紀以上が経過した現在、その錦館界隈の住宅密集地が取り壊されている。来春開業する九州新幹線新玉名駅と、玉名市街地を結ぶ都市計画道路の予定地となったからだ。私は毎朝錦館近くを通る度に、何とも言えないノスタルジックな気分に襲われる。先日は、とうとうその気持ちを抑え切れなくなった。孫を保育園に送った帰途、商工会議所の駐車場に車を止め、昔は市内屈指の繁華街だった五ッ角を経由して、錦館通りに向かった。此処は現在車両通行止めになっていて、徒歩でしか行けないのである。辺りには全く人けがなく、建物が取り壊された跡地は駐車場になっている、狭い道を幾度か曲がると錦館通りに至る。私はその角を曲がった瞬間息を呑んだ。目の前に“幽霊屋敷のように佇む錦館”があった。その姿形は昔の面影を残してはいるが、朽ちた屋根や壁が幾重にも折り重なり、僅かに当時の名残を留める映画の看板が打ち捨てられている。夏草が生い茂る其処は、嘗てのNYハーレムを私に連想させた。これを見て通行止めにされている理由が分かった。然しもっと驚いたのは、その錦館の真向いに、理容店が今も営業していることだ。こんな場所に客が来るのだろうか?然し来るからこそ営業をしているのだろう。マスターの姿は見えなかったが、恐らく年配の方に違いない。
私は思う。今多くの商店街がシャッター通りとなり、嘗ての賑わいを失って久しい。私は子供の頃、母親に連れられて狭い路地の店を何軒も廻り、品定めや値引き交渉を見て育った。それが今や、対面販売は効率が悪いのか、大型ショッピングセンターや、スーパーマーケット、コンビニ等々、効率のみを求めた形態の店が多くなり、個人商店や、屋台などは激減した。映画とて同様、今や玉名で見るのは不可能で、熊本市か大牟田・荒尾市まで行かねばならない。そして狭い路地の商店街は早晩取り壊される運命にある。詰り人同士の繋がりがドンドン細くなっている。
今100歳以上の高齢者の行方不明が連日のように報道されている。これも根っこは同じなのだ。老人は社会の邪魔者とされ、疎んぜられ、子孫からはその恩給や年金だけを当てにされる。一方その支給責任者足る公務員は、相変わらずの事なかれ主義だ。このような時代変化の先には、明るい未来は到底展望出来ない。私は思う。長生きすることが良かった時代は最早去りつつあると!
今日は年に一度の花火大会である。同級生から、温泉旅館の屋上でビールを飲みながら、見ようとの誘いがあった。そうだ!嫌なことは忘れて一夜を楽しもう。終わり


暗黙知

暗黙知とは、ハンガリーの哲学者マイケル・ポランニーによって提示された概念で、例えば自転車の乗り方など「言葉に表せない・説明出来ない知覚」を指すらしい。言われてみれば成程と思う。もうかれこれ20年位前のことだった。私は部長指示の下、週一回の課内ミーティングの時“暗黙知”に関する資料を会議メンバーに配布していた。これが何を切欠に始まったかは記憶に無いが、とてもユニークなテーマだった。これは一種の経営学でもあり、私は当時「暗黙知の経営」と言う本を読んだ記憶もある。
そもそも知識とは、人間が遠い昔に誕生して以来、数百万年もの長い期間を通じて学び、蓄えたものだろう。大昔は学校や先生は勿論のこと、書籍や文字さえも無かったから、親が実践を通じて子孫に体得させるしかなかっただろう?それが現在では、あらゆるものがインターネット等の便利なツールを介して、誰でも何処でも手に入る時代になったが、それが知識の全てでは勿論ない。
その一 農業:私は45年振りに米作りを始めたが、この間に変わった事がある。水管理である。田圃は勿論水を貯める構造であるが、昔はジャンボタニシが居なかったので、除草が一大仕事だった。田圃の地面が高くて水上に露出した所には、雑草が生えるから除草しなければならないが、その代表がガンズメで今も我が家に残っている。ガンズメ押しは傍から見れば一見楽しそうだが、大変な力とスタミナが必要だ。然し今の田植えは機械植えが一般的で、縦横の株間が揃わず、ガンズメ押しは出来ない(手植えは同ピッチの田植え綱に沿って植えるので、縦横のガンズメ押しが可能)。処が今や、除草はジャンボタニシのお陰で楽になったが、油断すると稲も食べられてしまう。これを防ぐには浅水にしてタニシの行動力を抑えねばならない。広い田圃を地面が露出せず、さりとて深水にもならない状態に仕上げるには、巧みなトラクターワークと、人力による地道なトンボ作業が不可欠である。知人のYさんに貸している私の田圃は、今年新人が耕したので高低差がひどく、欠株が随所に目立つ。私は今年2枚(合計約一反)の田圃を平らにしようと、何度もトラクターを掛けたが遂に平坦化が出来なかった。従って水を張った状態で高低差をスケッチしておいて、来春一輪車で土の移動をしようと思う。
その二 林業:今年の初冬、私は知人のKさんと椎茸の原木を採取する為に、我が橡(クヌギ)山の竹や雑木を伐採した。これも大変な作業である。笹竹に蔓が縦横無尽に絡み付いていて、立ち入るのもままならない。先ずそれらを全て取り除いた後、雑木や真竹を伐り払い、最後に目的の橡を切り倒す手順である。私は刈払機と手鋸、チェーンソーを使って作業したが、Kさんは手斧一本で作業した。然し案の定、数日後にはスタミナが切れ、以降は私一人の仕事となった。それでも私は手伝って頂いた御礼に、橡の原木とホダ場の提供を申し出た。喜んだKさんは友人2人を連れて来て、数日間掛けて数十本の橡を伐り出した。
ここで一寸した行き違いもあった。と言うのも私は1000本近い橡の中から適当に間伐して欲しいと言った積もりだったが、山の一角が皆伐されている。彼氏が伐り易い場所の木をまとめて伐ったからだった。でも「マア良いか!」位に思っていた。然しそれだけでは済まなかった。一ヵ月後、ホダ場に行って「アッ」と驚いた。「ガラーン」としている。Kさんがホダ木を一本残らず持ち去っていたのだ。私は「シマッタ」と思った。然し既に手遅れである。仕方が無い。私はこの秋まで待って再度原木を伐り出すしかない。
私は思う。「暗黙知」とは、敢えて口に出さなくても“阿吽の呼吸”で分り合えるものだと思っていた。然しそれは大きな間違いだった。一見“えげつない”と思うような事柄でも、最初に明言すべきだったのだ。「貴方が私の山から伐り出す木は私と折半ですよ!」と。然し、それでも“言葉足らず”で今回の問題は起きたであろう。何故ならホダ場には、Kさんなりに折半した橡(の枝)が、今尚大量に放置されているからである。終わり


運転マナー

私は昭和43年に車の免許を取得し、これまでに遭った事故といえば、昭和45年箱根ターンパイクでの出会い頭の正面衝突(別ブログに記述)と、昭和49年静岡市曲金での三重追突事故(最前車被害)位で、熊本に戻ってからは事故らしい事故を起していない。静岡・和歌山時代は、公共交通機関や自転車通勤だったが、熊本に戻った昭和59年以降は車通勤を始めたことを勘案しても、私は25年以上の間、無事故無違反の優良ドライバー(ゴールド免許)である。これには幾つかの理由がある。加齢と共に無茶な運転をしなくなったこと。道路の安全施設が充実して、事故が起き難くなったことが挙げられよう。最近は県外への遠出は滅多になくなり、軽トラで田圃を見回りに行ったり、近隣のストアに買物に行ったり、客人を駅へ送迎したり、孫を保育園へ送ったり、月一回の歯科通いなど、近場へのドライブが主になった。
毎日同じ道を同じ時間に走ると、色んな事象に気付く。道路脇には制限速度が表示されているが、それを守る車は殆どなく、大半がそれを10km/h以上超えて走っている。警察も10kmオーバーまでは黙認しているらしい。又最近は新に設置される信号が増えているが、信号に対するドライバーの意識もかなり変化している。私が交差点で右折のウインカーを点滅させて、対向車が途切れるのを待っていると、殆どの車がハンドルを切ると同時に左折ウインカーを点滅させる。これは左折優先だとしても間違いなくルール違反である。然しもっと悪いのは信号無視である。交差点の信号は通常「青・黄・赤」の順に変わるが、クロスサイドの信号が赤から青に変わるのはそれと同時ではなく、安全上数秒間遅れるように設定されている。朝夕の通勤時間には、この時間差を見込んで、赤信号になっても何台もの車が、入れば勝ちとばかりに強引に交差点に突込む。だから目前の信号が青になっても、左右からの車の進入が止まったことを確かめて発進しないと衝突の恐れがある。幾ら急いでいるからと言って、こんな悪弊がはびこると信号の信頼性が段々低下し、何時の日か衝突事故が起きるだろう。ドライバーの意識も大きく変わった。昔はダンプカー等の大型トラックやタクシーが神風運転だったが、今やカンパニーカーは優良運転手が殆どでマナーも素晴らしい。
一方で自家用車が相対的に悪くなった。私が毎朝孫を送る保育園でも、目と鼻の先に駐車場があるのに、10m程度の往復時間すら惜しいのか、狭い玄関前に停車して子供を降ろし、結果的に混雑を招いている。今朝は、急ぐ余りに右側通行で私の車と離合しようとした車と鉢合わせした。運転マナーほど国際色が際立つものもないが、アジア人は押しなべて悪い。やたらと警笛を鳴らし、信号無視が堂々とまかり通っている。然し日本人足るもの、アジアのトップリーダーとして、運転マナーについては、車の先進地ヨーロッパを見習って欲しいと思う。それには、海外でレンタカーを借りるのが一番良い。今や日本は多くの国と国際免許条約を結んでいて、日本の免許証が海外でもそのまま使えるからだ。
運転と言えば、私が現在車に次いで運転時間が長いのは、トラクタである。今年の春から夏にかけて、私は片白の田圃を3度耕した。初回は寒の内にジャンボタニシを晒して減らす為、2度目は田植え前の粗起し、3度目は代掻きである。田圃は矩形とは限らず、様々な形状をしている。これを隙間なく、然も高低差が生じないように耕やすには、かなりの技術が必要だ。そのポイントの一つは目指す地点を一心に見詰め、決して視線を逸らさないことだ。ほんの一瞬でも脇見したりすると曲がる。それは次の列に移ると更にひどくなり、最後には信じられない程曲る。
視線の重要性は車やトラクターの運転に限らない。ゴルフも草刈りも然りである。要するに対象から目を逸らすのは問題に目を背ける事に等しいし、一度見失ったら修正は不可能に近い。先日参議院選挙が行われ、消費税増税を掲げた民主党が敗北した。国民はその必要性は分かっていながら、目の前の痛みから目を逸らした結果だろう。然しこのツケは必ず廻って来る。終わり


国際結婚

先日のTVで、日本人男性との婚活の為に、韓国から女性集団が来日したとのニュースが流れていた。私が結婚した昭和40年代は、国際結婚などは“夢のまた夢”。芸能人など、大都会に住む一部の特別な人にのみ許される、遥か遠くの世界の出来事であった。私のような凡人はせいぜい職場結婚か、上司や親戚の世話焼きさんから推薦された女性との見合いが半々程度。私の場合は後者に属する。処が半世紀足らずの間に、結婚事情は様変わりした。
それは大都市よりも、私が住む田舎でより強く感じる。一世代前の田舎では、農業は殆どが家族総出の仕事。老若男女が揃って田圃に出て、田植えや稲刈りに精を出していた。それが今や、農業は殆ど高齢者の仕事と化し、田畑に出て働いているのは老人ばかり。63歳の私はむしろ若い方に属する。専業農家は殆どなくなり、大半の農家は第二種兼業農家と化した。そして30代以上の独身男性が増えている。つまり農家に嫁が来なくなったのだ。それだけではない。来ても、子供が出来て手が掛からなくなる頃になると、嫁さんが(農作業を嫌って)さっさと実家に戻ってしまう。今の親は、昔とは様変わり。世間体など気にも掛けず、出戻りの娘と孫を平気で受け入れる。そうなると困るのは、嫁が出て行った後、老親の面倒を見る余裕のない男性である。
当然こんな境遇の男性には、今時の日本人女性は見向きもしない。仕方ないから外国人女性と再婚することになる。私の近所でも、Sさんがベトナム人女性と、Tさんが中国人女性と再婚された。然し外国人との再婚は、エージェントに多額の報酬を支払わねばならず、結婚後も互いの生い立ちの相違や、言葉の不自由さから誤解が生じ易い。SさんもTさんも、この点でとても苦しまれた。
Sさんの嫁さんは、我が娘婿と同郷(ベトナム)で、10年程前に幾度か訪問して交流した。当時は嫁さんの日本語に対する不自由さもあって、娘婿とのベトナム語での会話は、互いの束の間の息抜きになったようだった。その後中学に進学したSさんの娘は、国際理解教育のモデルになって大活躍した。私は当時公民館支館長の職にあり、シンポジウムに参加した記憶がある。
一方Tさんの場合は、結婚当初から私が深く関わった。何せ夫婦の会話が全く成立しないのだ。その時は仕方がないので、私の元部下(中国人男性)を態々呼び寄せて、日中両国語を通訳して貰った。然し1~2時間の通訳で、相互理解が進むほど中国人は生易しくない。私はTさんからその後何度も深刻な悩みを打ち明けられた。何時かは夫婦揃って、熊本市に住む元部下の家まで通訳して貰いに行かれた。
国際結婚では、国情の違いだけではなく、互いの生い立ちの環境、家族観、金銭感覚、清潔感覚等々の違いから、日本人同士では考えられない様な問題が次々に発生する。それらの溝を埋めるには結局“時”が経つのを待つしかないところもある。それにしてもアジアの女性は逞しい。いつの間にか日本社会に溶け込み、今では相談を受けることも殆どなくなった。そればかりか、今や両人とも車を運転してちゃんとした職場に就職し、立派な社会人になっている。
私は思う。国際結婚は、日本人男性とアジア人女性、日本人女性と欧米人男性の組合せが大半で、その逆は滅多に居ない。これは日本人女性が欧米人男性に持て、日本人男性はアジア人女性に持てることを意味する。言い換えれば、日本人男性は欧米人女性には持てないのだ。その証拠に2年程前、海を見たいというので、有明海の海水浴場までハンガリーの女性wwooferを連れて行った(注:ハンガリーは内陸国で海がない)。そうしたら、いつの間にか日本人の男共が何人も集まり、私を羨望の眼差しで見詰め、デレデレと鼻の下を長くして、くだらない質問を浴びせた。彼らには初老の男が何故、金髪の若い女性を伴っているのか、全く理解出来なかったのだ。私はその時「これだから日本人の男は欧米女性から馬鹿にされるのだ!」と思った。そして、態々我家まで来て何日も滞在したアメリカとオランダのボーイフレンドを振って、ベトナム系オーストラリア人を伴侶に選んだ我が娘を、私は誇りに思う。終わり


家庭の不幸

ある母親が“お釈迦様”に自家の不幸続きを嘆いたら「人が死んでない家庭から薬を貰って来なさい」と言われたが、遂に見付けることが出来ず「これは自分だけの苦しみではない。生まれた者は皆死ぬのだ!」という真理を、やっと悟ったと言う有名な話がある。我家は、昭和20~30年代に祖父母・父・お婆(住込みのお手伝い)が相次いで他界したので、私は12歳で“親一人子一人”の母子家庭になった。母は自家の打ち続く不幸に、精神的に相当参ったようで、知人の勧めに従い、父の死後数ヶ月間は毎朝仏前で長々とお経を詠んでいた。然しその母が他界したのは、それから28年も経った昭和59年。我家はその後26年もの間、家庭の不幸に見舞われていない。父の50回忌も数年前に済ませたので、我家は半世紀を超える長期間に、母一人の不幸に遭っただけなのだ。このように家庭の不幸は平均して来るのではなく、偶に大きな波が打ち寄せる。ご近所もその例に漏れない。或るご家庭では、祖父母、父母、同居の叔母の5名が、2~3年の間に相次いで亡くなった。その昔、我家とは対照的に順風満帆だった叔父一家とて例外ではない。この20~30年の間に、叔父のみではなく、叔母の妹婿や弟が相次いで日航機墜落事故やゴルフ場で非業の死を遂げ、100歳を超えた岳父も先年他界した。そして叔母は嘗ての我が母同様に、今や一人住まいの身である。そして今現在、家内の実家が“不幸の渦”に巻き込まれつつある。今年になって岳父が他界したと思ったら、岳母は強度の痴呆に陥って介護施設と病院を行ったり来たり、そして義妹一族での相次ぐ不幸、挙句の果ては義弟が大腸がんに侵されての入院と、大変なオマケまで付いた。私は、これら“不幸の連鎖”は、決して偶然や神の悪戯とは思えない。家庭・家族そのものが、ある年代の夫婦や親子に依って構成されているので、或る時期一気に世代交代が起きるのである。そして我家は丁度今、その世代交代の合間に差し掛かっているので、我が夫婦・子供達の一家を含めて、病気や介護サービス頼っている人間が皆無なのだ。考えてみればこれは“大変幸せな期間”であり、恵まれた現在の境遇を、神仏や先祖に感謝しなければならない。ところが私は生来無神論に近く、神棚や仏壇を拝む習慣を持ち合わせておらず、罰が当るかも知れない。然し「私は現在とても恵まれた境遇にあるので、他人様のお世話をすることが出来るのです。」と神仏に申し上げたい。その状況は家内も同じである。家内の実家は現在、機能不全の状態に陥っていて、諸々のお世話は殆ど家内の肩に被さって来る。私は家内から「今日も実家に行く」と聞き「又か」言いたい言葉を「グッ」と飲み込む。その昔、我家が静岡や和歌山で暮らしていた当時、子供の病気やお産の前後には、何度も気軽に義母が九州から賭け付けて、私の食事は勿論、洗濯から掃除までこまごまと世話をしてくれた。そして我が子を米国にも連れて行ってくれたし、実家から長女を幼稚園にも体験入園させて呉れた。私の母も一二度来たが、孫子の世話を出来る程の行動力は持ち合わせていなかった。私達夫婦は今現在、孫のお世話をしているが、義母が我が子供達にやってくれたほどのことは出来ていない。私は今年26年振りに、2度目の小学校同窓会幹事を務めた。恐らく3回目はないだろうと思い、今回は一人でも多くの人に出席して頂こうと、四方手を尽くして現住所を探り当て、案内状を出した。然し来てくれたのは、47名中15名で2年前と殆ど同じメンバーだった。そこで仕方なく欠席者に対して、全員の住所録と近況報告を、出席者の写真に添えて郵送した。そうしたら何人もの人から電話や手紙が寄せられ、感謝の言葉を頂いた。殆どの人が写真を見ても“誰が誰かが分からない”とのことだった。そして欠席者の殆どは今“家庭の不幸”を抱えていて、来たくても来れなかったのだった。私は思う。今私が周りの人達のお世話が出来るのは、決して“普通のこと”ではなく、極めて恵まれた立場にあるからだ。然しそれも何時かは途切れるだろうが、この状態がこれからも続くことを願って止まない。終わり


定年までの人・定年からの人

先日の新聞広告に“首題の言葉”が出ていた。私は今も時々、飲み会などで同級生と会う機会がある。今や自営業を除き、殆どが退職しているが、中には最近まで嘱託などで働いていた人もいる。このように労働についての考え方は、それこそ千差万別。然しマジョリティーは「どんなに辛いことや厭なことがあっても、一日でも永く勤めたい」と言うのが偽らざる本音だろう。それは賃金体系が年功序列だ(った)からに他ならない。私の初任給は確か3万2千円。それでも当時の平均以上の額だった。そして40代後半から50代前半にかけての最盛期には、ボーナスを含めた年収は一千万円位あった。だから私のように56歳で早期退職した人間は、都合数千万円を棒に振った訳で「何と欲のない人だ!」と思われるだろうし、もう少し我慢してでも長く勤めれば良かったと、今になって後悔している。
一般的に、サラリーマンが所属する組織はピラミッド構造で、上に行くに従ってドンドン狭くなる。従って最終的には一人を除いて敗者になる。特に私のように毎年500名以上の大卒が入社した団塊の世代は、50歳前後から肩叩きが始まり、ほんの一握りの人を除いて、系列企業や下請け企業に出向するか、役付を離れて専門職として生きるかを迫られる。私は40歳まで空調技術者だったので、そのまま冷熱事業部に居たならば、それなりの人脈もあったので何所かに拾って貰えたかも知れないが、半導体では生き残れず、早期退職に追い込まれた。だから私は「定年までの人」とは到底言えない。
然し人生に必要なものは本当に「お金」だろうか?「時間・健康・生甲斐」なども、お金に勝るとも劣らない価値を持っていまいか?強がりかも知れないが、私が早期退職した最大の理由は“職の如何”ではなくお金の為に“矜持”即ち、プライドまで失いたくなかったからだ。私が仮に「60歳まで勤めていたら今頃どうしているか?」と問えば「経済面では今より格段に余裕があろうが、体を壊すか精神的に弱った状態で、内向きの人生を送っていただろう」と思う。それ程晩年の職場環境は悪かった。
その証拠に、現在の私は精神・肉体共に極めて健康で、もう一年以上病気らしい病気をしていない。昨年は、年一度の健康診断すら忘れていた。孫が保育園から持ち込む様々な風邪ウイルスにも、家内は罹るのに、私は罹らない程の抵抗力を身に付けた。これは虚弱児童だった私にとって“一大金字塔”である。お陰で仕事はバリバリ進むし、丸一日働いても疲れが翌日に残らない。
と言うことは、即ちお金が要らないことである。一番は医療費、次が遊興費や交通費、そして衣食住。医者通いをして薬を飲み、酒やタバコを嗜み、ギャンブルにうつつを抜かす生活と、自家製の玄米を食べ、田畑や山で、肉体労働に明け暮れる生活との差である。私は今「定年からの人」を目指している。それには「食と住」が重要であることを再認識した。即ち「食の為の農業」及び「住の為の林業」をする。残る「衣」は、お出かけが少ない生活では、古着屋で買った数百円のジーンズで十分過ぎる。これぞ理想生活の一つのモデルだろう。
然し、家内の意見は私と異なる。私が健康体になったのは農業の所為ではなく“アロエベラのお陰”だと言うのだ。現に我家(含む次女親子)はもう二年近く、毎朝家内が作るアロエベラジュースとプロポリス・ポーレンを飲んでいる。これは大変高価なものだが、病院に罹るよりもマシなのは間違いない。だから私は家内が毎日何所に行き、何をしようが関係なく、一人一日好きなことをして過ごせる。これは“濡れ落葉”と揶揄される中高年の悪い見本とは対照的に、精神衛生上すこぶる良い生活だ。
今私は、パーマカルチャーの仲間と、或るワークショップを企画している。それは「チキントラクター」と言い、鶏小屋を幾つかの区画に分け、定期的に鶏を移動させて、除草と野菜の輪作を組み合わせるユニークな養鶏である。その準備にもう一ヶ月も費やしている。雨ばかりの毎日だが、4月中には何とか完成させ、5月連休には雛を入れたい。何故なら我家の卵は今や引っ張りだこで、飼い主たる私の口になど殆ど入らないからだ。終わり


本当のこと

中学時代の同級生N君は、今考えると知的障害者だった。当時は現在とは違い障害者施設も未整備で、彼のような軽度の障害者は、普通の学校に行くしかなかったのだろう。転校後、私は前席の彼と直ぐ仲良しになった。彼は底抜けに明るく、筋骨隆々とした身体の持ち主だった。腕相撲をすると、私が両手で挑んでも敵わなかった。多分年齢も私より1~2歳上だったのだろう。然し彼は“差別”されていた。ある時誰かが彼に「低能陛下」だと言った。彼はそれを聞いてとても喜んだ。私が彼にその意味を“そっと”説明すると、彼は顔を“真っ赤”にして、その男を追いかけた。人は「本当のこと」を言われると怒るものである。その意味では彼の障害程度は「重くなかった」と私は考える。
人は“下心”が少しでもあれば、決して「本当のこと」は言わないし、心にもないことを平気で口にする。特にサラリーマン社会において「本当のこと」を言うのはとても難しい。上長も所詮人間であるから、普段から少しでも心証を良くしておかねば、結局自分が損をする。これは私自身が管理職だったのでとても良く分かる。課長に昇格した途端に周りの態度が変わる。新年賀詞交換会には長蛇の列が出来るし、盆暮れには下請け業者から沢山の「付け届け」が来る。然し役職を離れた途端、それらは潮が引くように来なくなる。これが世の常であって、封建時代から聊かも変わってはいない。
今トヨタ車のクレームが全米を騒がしている。先日は社長自身が米議会に乗り込み、釈明に追われていた。私が嘗て勤務した企業も、トヨタ車向けのマイコンを生産していたので、全く他人事とは思えない。私は、自身が設計したエアコンのクレームの責任を取って退職届を出したが、訴訟社会の米国での賠償は、途方もない金額になるだけでなく、社会的混乱すら起きかねないので、トヨタ社長は口が裂けても「本当のこと」は言わないと思う。これは、毎日のように記者会見をする総理大臣とて全く同様である。鳩山首相は多分、心の内の半分も「本当のこと=本音」は喋っていないと思う。
一方、トヨタ社長や首相と対照的に、今の私には上司や部下どころか顧客すらいない。何をするにも殆ど自由の身である。だからと言って「本当のこと」を言うのはそんなに簡単なことではない。面と向かって「本当のこと」を言えば、誰でも気分は良くないし、腹が立つに違いない。さりとて言わなければ相手は気付かず、事態は一向に改善しない。ブログはその意味では良いツールかも知れないが、情報が一方通行なのが大きな問題である。
私は今までの人生において、出来る限り「本当のこと」を言い続けた積りだし、今後も言い続けようと思う。だから多くの人から嫌われるだろう。然し還暦も過ぎたこの年で“好かれる為に思ってもいないことを言う位なら、嫌われても思っていることを言ったほうがマシ”だというのが、私の生涯変わらぬ“プリンシプル”でもある。終わり


引込思案

引込思案とは「内気で積極的に人前に出たり、自分から行動を起こしたりすることができないこと」とあるが、こんな性格の人は意外に多い。長女の孫娘(豪州パース在住)も、その一人かもしれない。大変な恥ずかしがり屋で、初対面の人には中々馴染まない。昨秋は一家で日本に帰国したのを機会に、地元石貫小学校に一週間体験入学をさせて頂いたが、クラスメートとは殆ど話さなかったようで、お別れの日に初めて喋ったと、担任の先生が感動されていた。
私は、小学生時代はリーダー的存在だった。2,3,4年の担任だった山本先生には、黒板消しを入口ドアの上に置くとか悪戯が好きで、しばしば拳骨を食らった。又5,6年担任の澤田先生は二日酔いで遅刻の常習犯、仕方なく私が代用教員張りに壇上に上がり、漢字の読み書きなどで時間稼ぎをしていた。
そんな私が、玉名中学時代の通知表には「手を挙げる回数は少ない!」と書かれた。そもそも“思案”とは、物思いのことであり、誰しも思案にふけった経験はお持ちだろう。その中でも初恋の想いは格別ではなかろうか?私の初恋は中学時代で、相手は忘れもしないIさんだった。今アルバムをめくれば、彼女は特段の美人でもなく、超ロングヘアーが目立つ程度であるが、当時は気になって仕方がなかった。授業中もチラチラと彼女の方を向いては、様子を窺がっていた。勿論当時の私は引込思案で、彼女に話しかける勇気などなかった。多分そんな思春期だったので、私は“答えが分かっても”手を挙げなかったのだろう。惜しいことをしたものだ。積極的に手を挙げれば、Iさんに対しても自己アピールが出来たのに!彼女はお寺の娘で、獨協大学に行ったと聞いた。
玉名高校進学後は受験勉強が第一になり、恋愛どころではないのに、全校No1の才媛だったTさんが好きだった。彼女とは3年7組の同クラスでイニシャルも同じT、男女交互にアルファベット順に並んだ彼女の席は私の前か後、ライバル心が芽生えないほうがおかしい。彼女は文系の科目が得意で、国語と英語は敵わなかった。私は数学に賭けた。幸いに担任の永田先生は、広島大学卒で数学が専門。微積が得意だった私は、難問を鮮やかに解いては、Tさんに懸命にアピールした。この頃から少しずつ引込思案を克服できたと思う。
そして大学進学、この4年間こそが人生の華たるべきなのに、私は引込思案が災いして恋愛運には恵まれなかった。工学部で女性が居なかったこともあろうが、今考えると当時の女子学生は少数で、皆エリート気取りだった。男性から引く手あまたの中で、私程度のありふれた男に魅力を感じる筈がない。人形劇サークル“青い鳥”の美女3羽ガラスからは、にべもなく振られて“自己嫌悪”に陥った。
そんな私は、引込思案を克服出来ないまま就職した。企業は学校とは異なり男の社会である。特に私が所属したエアコン設計部門は、家庭への普及が始まったばかりの時期に当り、社内でも有数の花形職場で、毎年数名の女子社員が入社した。私と同期入社の何人かは、学生時代からのフィアンセが居たが、大半の連中は“如何に彼女を獲得するか”が最大の関心事だった。独身寮では3人寄れば女性の話。中々彼女が出来ない私は、事ある毎に同僚からせっつかれた。入社した翌年の一月、同室のH君がたまりかねて、自分の彼女の友人でもあったSさんを紹介してくれた。当時の女子社員は殆どが高卒。18歳で入社して結婚相手を見付け、23~4歳位で結婚退職するのが夢だった。そんな職場環境では“触れなば落ちんとする女性”が身の周りに何人も居た筈なのに!これも私の引込思案の所為だろう。
私の社内恋愛は結局実らず、見合いして家内と一緒になった。私は今も思う。人生を決めるのは“男”であり、女は待つことしか出来ない。もてようがもてまいが、自らの想いを素直に相手にぶつけ、断られたら潔く諦める。こんな男らしいことが出来なかった私の“引込思案”こそが問題だったのだ。終わり


時間持ち

この世には様々な人々がいる。日本人、外国人、お金持ち、貧乏人、健常者、病人、障害者、役人、民間人、都会人、田舎者、子供、大人、老人ETC、細かく分類すれば際限がない。然し“時間”を尺度として分類すると、まるで状況が変わる。金持ちならぬ“時間持ち”は、暇人のことと思えるし、逆に“時間貧乏”は政治家や会社役員等、多忙な人々が該当するであろう。お金と時間の最大の相違点は、個人差の有無とストックの可否である。私は56歳で早期退職後、当然のことながら収入が激減した。それに比例して我家での立場も弱くなった。それは“お小遣い”に端的に現れる。現役時代は給与から自由に使えたのに、今ではいちいち家内と交渉して許可を得ねばならない。年金とてその例外ではない。だから私は金銭面では、家内より長生きでもしない限り、永久に自由の身にはなれないと半ば諦めている。
然しこれが時間となると大きく異なる。今の私は、金持ちならぬ“時間持ち”である。正確に言えば自由時間持ちである。そして私は、家内の許可を得ずして、ほぼ毎日自由に時間を使うことが出来る。これは長い間サラリーマンだった私にとって、大きな悦びである。現役時代は就業時間中、ほぼ上長に支配される。そんな“時間奴隷”から開放された現在では、就寝や食事等の時間を除く12時間以上が自由時間なのだ。従ってこの時間の使い方次第で、自分の生活ばかりではなく、周りも大きく変わる。
私は、現役時代から今に至るまで、連綿と続けていることがある。それは時間管理である。退職後直ぐに、畳一枚ほどの月間管理ホワイトボードを購入して台所の壁に掛けた。然し記入内容は大きく変わった。現役時代の記載項目は、会議や来客、出張や現場対応など、上長や他部門からの要請に基づく、不可抗力的な仕事で、時間管理表は自然に埋まった。然し今は意識的に埋めない限り、毎日が真っ白のままである。
退職後1~2年は空欄の日が多かったが、ここ数年は家内も予定を書くようになって、ほぼ毎日が何らかの予定で埋まるようになった。従って夫婦の予定が重なったり、うっかりして忘れることが殆どなくなった。これは、他人に迷惑を掛けない点でもとても良い方法だと思う。それどころか、毎日完了した仕事を消す時に、何とも言えない満足感が漂うのだ。これこそ究極の自己満足だと言って良い。それにしても、やるべきことは無くなるどころか、増える一方である。自分でも不思議に思うが、地の底から湧き出る温泉の如く、次から次へとやるべき事が発生するのは何故なのだろう?
私は、この問いに対する“解”を最近見出した。それは私自身の“性格”なのだ。何の変哲もない情景を見た時、それをどう理解するかで、その後の行動は決まる。先日はパーマカルチャーのメンバー数名に来て貰い、近くの小岱山から檜丸太を数十本運び出し、皮を剥ぎ、先端を削いで頂いた。棚田の法面及び水路補修材の調達である。然し途中から雨がひどくなり、全部の材木を運び出すには至らなかった。量的には十分だったが、やはり気掛かりで、翌日私は一人で再度山に行った。12本の丸太が残っていた。それは大きくて重い材木だった。曲り材もあった。そのまま捨て置けば、数年後には腐る。現に10年ほど前に間伐した材木は、もう腐ってカステラのようになっている。私は意を決してそれを1本づつ運び始めた。余りの重さに途中何度も投げ出したが、気を取り直して必死の思いで再び担ぎ上げ、半日掛かりで全ての間伐材を運び出した。知人によると間伐材の購入価格は、軽トラ一台分で、たったの500円だそうだ。ならば私は半日かけて、せいぜい250円分程の仕事をしたことにしかならない。馬鹿馬鹿しいかもしれないが、これぞ“時間持ち”の特権でもある。冬の半日間、たっぷり流した汗のお陰で、山から間伐材が消えた。私はその夜ビールを飲みながら、暫し達成感に浸りつつ、ホワイトボード上の「檜出し」を消した。終わり


箱根駅伝

今年も正月の2,3日、恒例の関東大学対抗箱根駅伝が開催された。私も家内とついついTVに引き込まれ、とうとう地元のマラソン行事もサボッてしまった。結果は東洋大の圧勝だった。私は箱根に“不思議な縁”がある。
静岡勤務の独身時代には、会社旅行やドライブ、そして川崎市の彼女に会う為に何度も通った。そして近年も二度、初回は家内と、二度目は一人で、箱根街道(国道138号線)沿いの小塚バス停から直ぐの所にある、箱根リハビリテーション病院(旧仙石原温泉病院)に従姉を見舞った。従姉は私より一回り以上年上、昔は東京サンケイホールに勤めていた。その当時、叔母に当る我が母と余程気が合ったのか、我家に何度も遊びに来た。そして私達のスナップ写真を撮って呉れ、ハイカラな都会の風を吹き込んだ。拙著「親父のつぶやき」に挿入した写真の多くも、この従姉が撮ってくれたものである。あの頃、母が最も興味を示したのは、皇室関係のニュースだった。折りしも皇太子(現天皇)が、民間から初めて妃を迎えられた時代だった。
その従姉典子さんが、後年難病のリューマチに侵され、長年のリハビリの甲斐もなく入院した。私は子供の頃、典子さんが余り好きではなかった。東京住まい故に鼻が高く、田舎者扱いされるように感じたのである。然し長じて立場が逆転すると好きになった。二度目の訪問時には、彼女の若かりし頃の写真を、息子に依頼して大きく引き伸ばして持参した。それは映画スターと見まがうばかりの美しさだった。病院の患者仲間から「意地悪される」と聞いていたので、その人に見せて(見直して)貰う為だった。
首題の箱根駅伝の創始者は、熊本県人の金栗四三氏である。氏は玉名郡三加和村(現和水町)に生まれ、後年玉名市小田にあった素封家“池部氏の養子”に迎えられ、我が家内の祖父の妹に当る“春野スヤ”と結婚した。だからかも知れないが、家内は昔からとてもマラソンが好きで、天草パールラインマラソンにも何度か出場した。そして此処玉名市では毎年春、氏にちなんだ“金栗杯ハーフマラソン大会”が開催される。私は玉名高校出身だが、同校正門前には、今も金栗氏の銅像が建ち、氏の有名な言葉「体力・気力・努力」が同高生を鼓舞し続けている。
私は思う。金栗氏は国内のマラソン大会で3度も世界記録を樹立した実績を引っさげて、オリンピックにも二度出場したのに、既に全盛期を過ぎていたことや、暑さで途中棄権の憂き目に遭う不運に見舞われ「功成り名遂げる」ことが出来なかった。そして第二次大戦のあおりで、誘致に奔走した東京オリンピックも幻となった。こんな不運が続けば、普通の人ならば自信をなくし、消極的になるのも致し方なかろう。然し金栗氏はこの逆境を逆手に取って、第二の人生を“後進の指導”に懸けた。
私など、金栗氏とは比較にならない凡人の一人であるが、現役時代の不完全燃焼が、現在の気力の源泉になっているのは、氏と全く変わらない。このブログを書いた本日(1月12日)は、数十年ぶりの大雪である。然し午後からチラチラ晴間が覗いたので、刈払機を担いで「遣りかけの山仕事」に行くか!!そんな時私は思い出す。過年温泉で会った高校時代のクラスメートが、勝ち誇ったように言った言葉を。「子供は2人とも医者に成ったし、定年退職後は毎日、旅行とゴルフと温泉三昧さ!」終わり
                以下箱根駅伝公式Webサイトより転用
箱根駅伝が誕生したのは、1920年(大正9)、今から84年も前のことである。創設の原動力になったのは、マラソンの父として知られる金栗四三らの「世界に通用するランナーを育成したい」との思いだった。金栗は東京高師の学生時代に、日本が初参加した1912年(明治45)のストックホルム五輪にマラソン代表として出場したが、途中棄権に終わり、失意のまま帰国した。そうした中で、1917年(大正6)に日本で初めての駅伝となる「東京奠都五十年奉祝・東海道駅伝徒歩競走」が、京都三条大橋と東京・上野不忍池間で行われた。読売新聞社が上野で開く大博覧会の協賛イベントとして企画したもので、京都―東京516キロを23区間に分け、三日間、昼夜兼行で走り継ぐ壮大なたすきリレーだ。東西対抗で行われたレースは、大成功を収め、これが箱根駅伝の”原型”となった。以上


高台

高台という言葉は、人によって響きが異なる。私は二つの事柄を連想する。その一つは茶道である。私は家内と二人で、谷口恭子先生から10年間ほど茶道を習ったが、その茶道具の一つに棗(なつめ)があった。お濃茶の点前で使用する容器は「お茶入れ」と言うが、お薄の場合は「棗」と呼ぶ。その形状が棗の実に似ていることから出た言葉だろう。棗には赤や黒の無地もあるが、絵が描かれている物が多い。その代表的な絵柄が“高台寺蒔絵の菊桐文様”であった。私は茶道の稽古の時、幾つかある棗の中から大抵これを選んでいた。
高台寺とは、京都にある寺院の名称で、豊臣秀吉の正妻で秀吉亡き後に高台院と称する「おねね」の菩提寺として有名である。私は和歌山勤務時代に何度か京都に行ったが、“お気に入り”の場所は、一に清水寺、二に龍安寺、三に高台寺であった。この寺院は当時、残念ながら建物の中には入れなかったが、何といっても庭園が素晴らしかった。
高台のもう一つの意味は、高地である。それも周囲より少し高い場所を云う。我家は周囲より数メートル高い大地の上にあるので高台と言えるだろう。高台の最大の利点は、大雨が降っても、家に浸水しないことである。だからどんなに長雨でも集中豪雨でも、私は枕を高くして眠ることが出来る。家屋の最大の敵は風雨である。処が高台は雨には強いが風には弱い。だから我家は何度も台風の為に家が損壊した。その弱点を補う為に、家の周りに防風林として高木や竹林を配している。
古来、人間は自然災害が少なく、水や日照を得易い場所を選び、住処とした。北側に高台が在って南側が低地になっている場所が理想的である。だから昔から人家が在った場所は、今でも安全性が高い。然し現在では土木技術が格段に進歩して、大型機械を使えば、何処にでも家を建てられるようになった。そして人心も変わった。
皆さん高台がお好きである。特にお金持ちにその傾向が強い。大都市では高層マンションが花盛り、大抵上層階にスウィートルームがある。地方でも昔は山林に過ぎなかった土地を造成し、豪邸が建っている。高台にある豪邸のベランダから周囲を見下せば、さぞかし“勝ち組の心境”に浸れるだろう。私は全く逆である。今までに10回も引越しをしたが、3階以上に住んだことがない。我家でも2階は昔子供部屋だったが、今や物置となっている。
私は若い時分から世渡りが下手で、全然出世出来なかった。母は近所のKさんから「未だ龍坊は平(ヒラ)かね?」と聞かれて「恥ずかしい!」と云っていた。自分では先々本社の部長クラス位には成れるかと思っていたが、とんでもなかった。恥ずかしや地方工場の課長止りである。3月15日の昇格発表の日は、毎年下馬評の筆頭に上がりながら、最後まで次点だった。私は上から見下ろすどころか、何時も上を見上げていた。そんな私に高台の家などは似合わない。
私は思う。山羊や鶏は高台が大好きである。箱があれば必ずその上に載り、木があればそれに登ろうとする。然し何れも賢い動物ではない。私は何と言い訳しても、現役時代の第一ラウンドでは負け組であったが、退職後の第二ラウンドでは山羊や鶏なんぞに負けて堪るか!終わり


訃報

訃報は何の前触れもなく、突然やって来ることが多い。今回もそうだった。民主党が総選挙で大勝した興奮が冷めやらぬ8月31日の朝、パーマカルチャーのメイン講師、デジャーデンゆかりさんの訃報が飛び込んだ。私はEメールを見て我が目を疑った。8月29日の夕刻、山梨県富士エコパークでアフリカンダンスのツアー中に突然倒れ、帰らぬ人になられたとか?私はその日の午後、取るものも取り敢えず鞄一つ下げて、遺体が安置されている西宮まで駆けつけた。ゆかりさんの遺体と対面したのは夕方だったが、肉親(フランス人のご主人・幼い二人の男児・弟さん)の他はほんの数名で、霊安室に居られたのは設楽さんだけだった。まるで眠っているような、ゆかりさんのデスマスクを、私は長い間呆然と見詰めていた。脳裏には、ゆかりさんとの僅か1年間の、然し濃密な出来事が、それこそ走馬灯の様に駆け巡った。私より20歳も若い43歳での早逝だった。当夜はパーマカルチャー関西の人々に誘われ、西宮の高台にあるゆかりさん所有のマンションに泊めて頂いた。偲ぶ会では、皆が各々ゆかりさんとの思い出を語ったが、それが奇妙に明るく笑いも多かった。私が驚いたのは、同会のメンバーがゆかりさんの一任を受け、高級マンションの内装をパーマカルチャー的に改装していることだった。私は一人思った。あの立地のあの部屋なら、さぞや高値で貸せるだろうにと!
私がゆかりさんを初めて知ったのは数年前、ニュージーランドオークランド郊外にあるレインボーファームの日常を紹介したDVDである。このDVDはとても良く出来ていて、主人公たるジョーとトリッシュ夫婦の日常が、ゆかりさんの流れるようなナレーションで紹介されている。中でも出色なのは、当ファームの主人ジョー(昨年逝去)が、牛や犬、鶏、ガチョウ等の家畜と家族同様に接する場面で、まるで動物園の飼育士みたいな日常である。私はこのDVDを見て大いに触発され、我家を日本のレインボーファームにしたいと、パーマカルチャーを始めた。それにしてもゆかりさんと私は、何と言う不思議な巡り会わせであろうか!!
そのⅠ:命日のきっかり一年前、昨年の8月29日の夕刻、あのゆかりさんが、二人の子供を連れて我がファームステーション庄屋に初めて来訪され、3日間滞在された。その間パーマカルチャー九州主催スクールの特別講師として、主にキーホールガーデン(鍵型をした立体的菜園)作りを指導された。そして完成後はジャンベを鳴らしながら、独特のくねくねとしたアフリカンダンスが始まった。その独特の音色に惹かれ、近所の小母さん達が一体何事が始まったのかと、見学に来た程の盛況であった。
そのⅡ:私は今年の1月下旬の一週間、全国から集ったパーマカルチャーのメンバー十数名と、豪州東海岸のブリスベーン近郊を旅し、ゆかりさんのお宅“ささやく木”も訪問した。そして確か1月29日の夜、ゆかりさんはご自宅でアフリカから来た二人のミュージシャンと、アフリカンダンスを踊られた。それは大変激しいリズムだった。来訪者の大方も誘われて踊りの輪に加わったが、私は自信がなく遠慮した。その時である。ゆかりさんが突然バターンと仰向けに倒れた。私はその瞬間、立木が轟音と共に倒れる姿を連想した。皆が驚いて駆け寄った時、ゆかりさんの瞳孔は開き、意識がない様子だった。何人かで抱えて隣室のベッドに寝かせた。私は驚愕したが、ご主人は平然とされていた。そしてゆかりさんは暫く寝室で休まれた後、何と再び踊り始められたのである。
そのⅢ:今春4月29日、ゆかりさんを再び玉名の地に迎え、翌日から5月10日までの11日間、パーマカルチャー九州主催の集中講座が、全国から馳せ参じた20名の受講生に対して開催された。ゆかりさんはその間、メインの講師としてパーマカルチャーの理論と実践を、文字通り情熱的に講義された。又夜間は、ゆかりさんの要望で、ご自分だけ我家の二階に宿泊された。きっと昼間、ありったけのエネルギーを振り絞られるので、夜間は誰にも邪魔されず、爆睡したかったのだろう。然し食後のひと時には、我等夫婦と3人で四方山話に花が咲いた。私達の問題に付いても忌憚のない意見を頂いた。特に夫婦の考えが異なるwwoofer受け入れについては、ゆかりさんもホストなので、家内にとっては“壁に開いた穴”(父維一郎の言葉)だったとか。
私は思う。“惜しまれて去る”と言う私の一番好きな言葉が、これほどドンピシャリ似合う人は居ない。まるで裕次郎やひばりのように、沢山の人に惜しまれて亡くなったゆかりさん。天国でもどうぞ踊って下さい!


桜ヶ池

私は昭和44年に就職して静岡に住むことになり、48年に結婚するまでの4年間、文字通り独身時代を謳歌した。最初に付き合ったのは藤枝市の女性で、互いに車を持っていたので、休日になると東は伊豆・箱根から西は浜名湖、北は甲府から南は御前崎に至るエリアの彼方此方にドライブした。その当時は未だ東名高速道路も建設中だったので、このエリアが静岡市から日帰りのドライブ圏であった。私は熊本育ちであり、静岡県の地理には詳しくない。従って「今日は何処に行こうか?」となった時、彼女の意見で決めることが多かった。そのひとつに“桜ヶ池”があり、確か2~3回行った。其処はこんもりとした木立の中にちょっとした池があって、その辺に神社と茶店がある、一見何の変哲もない場所であった。私はその池の辺で、彼女の手弁当を食べた記憶がある。又ここは、彼岸の中日に白装束を身に纏った神主が、池の竜神を鎮める為に、赤飯を詰めたお櫃を池に沈める“お櫃納めと称する奇祭”があることでも有名だった。私はこの祭りを実際に見てはいないが、多分案内看板で知ったと思う。そして結局私はこの女性とは結婚までに至らず、その後別の女性とも暫く交際したが、やはり結婚までには至らなかった。処がその女性の実家は何と何と、桜ヶ池がある浜岡町(現御前崎市)だったのだ。尤もここまでならば、それは単なる私の“おのろけ話”に過ぎないだろう。
この話には大変な後日談がある。それから十余年後のことである。私は熊本に戻って一家を構えていた。そして毎年の正月には一家で近くの小岱山に登り、帰途は玉名温泉方面に下りて、初湯に浸かるのが恒例行事であった。私は何時か、その途中の参道脇に立つ、何の変哲もない石碑の文字を読んだ瞬間、全身が凍り付いてしまった。その石碑には何と“桜ヶ池”のことが書いてあったのだ。玉名市にある蓮華院誕生寺は、別項でも述べた如く、ダライラマ招聘や大相撲の横綱土俵入り、韓国・東南アジア・スリランカ等への国際ボランテイアにも熱心な巨大寺院である。その実質的開祖ともいえる皇円は、1169年6月13日96歳の時、人々を救う霊能を得ようと、桜ヶ池で大蛇となって菩薩行に入ったという伝説があり、桜ヶ池の奥の院にその墓所があるとか。
私は今、この玉名と静岡の片田舎の意外に濃密な関係を表現するには“奇縁”とか“運命の赤い糸”と言うしか、適当な言葉が見当たらない。それにしても何と言う偶然であろう。私があの時分何度も、遠州の片田舎にある、何の変哲もない桜ヶ池に行ったのは、皇円開祖の“お導き”があったとしか考えられない。そして私の手を引っ張ったのは、巫女ならぬ静岡の二人の女性だったのだ。
私は思う。機会があればもう一度、あの桜ヶ池を訪れて見たい。今度行けば、恐らく40年近く前とは同じ場所であっても、全く異なる印象を受けるだろう。奇しくもそんな私の心を見透かし誘うかの如く、このブログを書いた日のニュースで、新装なった静岡空港からの初便が熊本空港に到着し、熊本県知事が静岡を訪問したとのニュースが流れていた。空港建設問題が県知事の辞職に発展した静岡空港は、あの桜ヶ池から程近い牧の原台地にあるのだ。私は子供の頃から無信教に近く、神や仏を信じられない。しかしこの桜ヶ池の話だけは、皇円様のお導きだったに違いないと考えるしか、説明がつかないのである。
終わり
以下名古屋なんでも情報より引用
名僧と知られた皇円は、末法思想に悩む一般大衆を救済するには56億7千万年後の弥勒菩薩の出現を待つほかなしと、遠江桜ヶ池において身を大蛇と化し入定した。それを知った弟子の法然が、自分が悟った他力の要路を皇円阿闍梨に告げたいと桜ヶ池を尋ねた。すると一天にわかに掻き曇り、雷鳴しきりに鳴り渡る中、千尋もある大蛇が現れた。法然は、他力の教法について大蛇と化した皇円に語りかけるが、皇円は「時既に遅し」と嘆き涙を流した。「入定の時、苦行に耐えて貴方の御出世を待ちますから済度の幸せを賜れとの弥勒菩薩への誓いは捨てられぬ」と水底へ帰ったという。
皇円は、比叡山に登り恵心流学者椙生皇覚に師事し、顕密の学を受けた。比叡山延暦寺東塔西谷の功徳院に居住して天台をはじめ、諸宗学を講義した。法然上人も15歳にして彼の門に入る。また皇円は、歴史に詳しく、神武天皇から堀川天皇にいたる編年体歴史書である『扶桑略記』を撰じている。
96歳の時、人々を救う霊能を得ようと嘉応元年(1169)6月13日、遠江の桜ヶ池(浜岡町)で大蛇となって菩薩行に入ったという伝説があり、桜ヶ池の奥の院、応声教院に阿闍梨堂の碑が立ち、これが墓所とされる。なお、皇円の生地、熊本県玉名市には、皇円を記念して「蓮華院誕生寺」が建立されている。以上 

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エコビレッジ

ガンと言う言葉には大きく分けて二つの意味がある。一つは日本人の最大死因ともなっているガンである。昔は結核が日本人の死因のトップだった。私の父も若い頃は肺結核(肋膜)を患い、後年は下顎ガンを患ったとも聞いたが、何れも克服して酒も煙草も嗜んでいた。52歳で亡くなったが、死因はガンではなかった。一方母は若い頃から極度にガンを恐れていたが、死因は高血圧に起因する急性腎不全で、やはりガンではなかった。
先日、私より一回りも若い知人が亡くなった。死因は多発性骨髄腫、即ち血液のガン白血病だった。私の叔父も肺ガンで亡くなったが、生前は片時も煙草を離さないヘビースモーカーだった。そういえば東大出にはヘビースモーカーが多いように思う。私の叔父、中学時代の塾のT先生、三菱電機時代の課長仲間で後の中国工場長N氏、そして今回のパーマカルチャーの受講生Iさんである。Iさんは暇さえあればパートナーと一緒に、藤棚の下のベンチでプカプカやっていた。私も18歳から煙草を始め、途中何度も禁煙したが長続きせず、とうとう60歳まで吸い続けた。今までの人生の2/3は喫煙していたことになる。だから今でも横でスパスパ吸われると、やはり煙草が欲しくなる。
ガンにはもう一つ別の意味がある。それは“障害”と言う意味である。今私にとってのガンは、私自身のエゴである。私は自分をエゴイストだと思っている。“エコ”の最たるパーマカルチャーを誘致した私が“エゴ”とは駄洒落にもならないが!エゴは誰にでもある“自我”又は“自愛”と言っても良いだろう。エゴを悪と捉えるなら、家族を愛する気持も悪となる。然し人間社会において、そもそもエゴのない世界が存在するだろうか?私はないと思う。問題はエゴそのものではなく、その中身である。即ち自分だけ良ければ良いと言う狭量のエゴから、某宗教団体の教祖の様に、地球は家族とか、世界は一つとか、途轍もないスケールの思想まである。私のエゴは所謂“地域エゴ”なのだ。
会社人間が退職して帰属する社会は様々だが、一般的なのは地域への回帰だろう。私も6年前に早期退職して40年振りに故郷“石貫”へ再デビューした。従って愛社精神はそっくり“愛石貫精神”と成った。パーマカルチャーを我家で始めたのも、石貫を“エコビレッジ”にするためである。それを実現する為の最良の手段は、若者に来てもらい、定住し、結婚し、子供を育て、農業をして頂くことである。然しパーマカルチャーリストには何故かコスモポリタンが多い。私のようなエゴイストはコスモポリタンが苦手である。この原因は、企業での34年間に加えて退職後の“地域づくり活動”にもあると思う。何れの場合も競争原理が働いていた。前者のライバルは同業他社であり、後者のライバルは近隣校区だった。ライバルが居るからファイトが沸く。“皆でお手手つないで”には中々なれない。私は所詮その程度の人間である。
そんな私は今とことん“石貫”にこだわっている。人間どんなにあがいても、100年は生きられない。精々頑張って80年だろう。然も社会的活動は70歳までとなれば、62歳の私にはもう10年も残っていない。逆立ちしても世界を変える事など出来っこない。然し対象を限定すれば話は変わる。私は自分の活動エリアを決めた。石貫の北半分、我家を南側基点とした6㎢程度の小さな半円のエリアである。この位の範囲であれば、私の力でも少しは変えられるかも知れない。ひょっとしたらささやかなエコビレッジが出来るかもしれない。私はこのエリアの多くの人々と顔馴染なのだ。だから田畑も古民家もこの範囲で借り、それ以上は拡げない。何故なら農業はトラブル・アクシデントが避けられず、頻繁に見廻り(パーマカルチャー用語では“観察”となっている)せねばならないからだ。コスモポリタンのパーマカルチャーリストの皆さん、私の気持をどうか理解して下さい!終わり


大葬儀

人生の三大節目としては、誕生、結婚、死亡が挙げられるだろう。昔も今も生涯独身で通す人も結構居るし、離婚や再婚をする人も少なくない。
私の子供時代は従妹弟一家が隣に住んでいたので、私の誕生日の2月と従妹弟の誕生日の10月には、互いに訪問して一緒に祝っていた。特に叔母は当時からハイカラだったので、ケーキに蝋燭を灯して一緒に吹き消していた記憶もあり、その写真は今も残っている。然しその懐かしい習慣も、父が他界した昭和31年で沙汰止みとなった。
それから17年の歳月が過ぎて、私と家内の結婚式は、昭和48年3月4日、熊本市の郵便貯金会館で、態々静岡から上司2名と同僚数名に来て頂き、盛大に挙行された。こんな書き方になるのは、私が殆ど式の準備に関与せず、専ら家内の実家に任せていたからである。当時家内の実家は歯科と薬局を経営していて羽振りが良く、おまけに義母は世話好きだったので、何から何まで手配して呉れ、私は体一つで出席すれば良かった。新婚旅行も、当時は珍しかったグアム・サイパンの一週間旅行がセットされていた。態々静岡から参列された私の上司2名と同僚2名に対しては、式後に阿蘇旅行のオプションまで用意してあったとか。当時の私は安月給の技術者で、幾らも金を持っていなかったので、費用の大半を家内の実家に依存した。このように結婚式の規模や招待客の人数は、当人よりも親の羽振り(経済力)や地位に大きく左右される。
一方葬儀はどうだろうか?これは誕生祝や結婚式とは大きく状況が異なる。主賓たる張本人は他界しているし、親族などを除けば招待状はおろか連絡すら来ない。行くも行かぬも100%当人の意思次第である。当地では、葬儀屋が道端に立てた案内看板で訃報を知るのが一般的である。今の時代、葬儀に参列して目覚ましや香典を差し出しても、在り来たりの香典返しを貰うだけで他には何もない。私は知人や地域の人の葬儀には出来るだけ出席するが、この時ほど故人の生き様が生々しくあぶり出される瞬間はない。勿論故人の社会的地位や、名声にも幾分左右されるだろうが、何よりも生前の生き様がそのまま弔問客の数に投影されるのだ。功成り名遂げた人の葬儀が閑散としているかと思えば、市井の人の葬儀に沢山の老若男女が詰め掛ける。そして残酷にもこのパラドクスは、亡くなった張本人は決して見ることが出来ないのだ。
それにしても、昨晩の通夜は正に“空前絶後”であった。亡くなったのは、私も懇意だった近隣のK氏である。52歳の若さでガンに冒され、帰らぬ人となった。奇しくも我が父親と同年での早逝である。狭くもない葬祭会館の会場には、とても収容出来ない程大勢の参列者が、一階のロビーや玄関前を埋め尽くし、焼香の列は何時までも途絶えることなく延々と続いた。そして普段の葬儀と異なって、弔問客には若い男女が大変多く、地域の人々の殆どが参列したとも思える大葬儀だった。
そして式典最後の、遺族代表長男の挨拶が又出色だった。最近の葬儀では珍しく、原稿も読まずに淡々と、病気の経過から死に至る状況を、包み隠さず述べられた。故人は「何でも一生懸命取組む頑張り屋で、世話好きで、夫婦仲がとても良かった」と。私の公民館支館長時代は、当人は市民体育祭1500mのレギュラー走者であり、まちづくり委員会の事務局長であり、喪主の奥方は、私が体育指導員をお願いした程の仲だった。私は喪主の手を握り締め、短い弔問の言葉を述べた。
人は皆、生前の名声や社会的地位などとは殆ど関係なく、最後の時にその価値が鮮やかに炙り出される。その意味ではK氏は、私が今までに出会った誰よりも人望の厚い人だったと言えよう。「Kさん!安らかにお眠り下さい」。
追伸:先日Kさん宅より初盆の引出物が届いた為、ご自宅にお参りに伺った。仏壇に線香を上げ、未亡人と暫く話していたら、突然その目から見る見る涙が溢れて止まらなくなった。私も故人を思い出し、思わず貰い泣きしてしまった。終わり


おくりびと

外国語映画部門で、米アカデミー賞を受賞した話題の映画“おくりびと”を家内と見に行った。流石にロングラン上映の為か、日曜日にも拘らず客席は満員ではなかったが、それでもかなりの観客が来ていた。この映画は、死体を納棺する納棺士が主人公の映画で、山形の庄内地方を舞台に、木本扮する主人公が、様々な死と直面する姿を、シリアス且つコミカルに描いていた。
勿論この映画のテーマは“死”である。死は生と並んで人間のみならず、すべての動植物にとって最も普遍的なテーマであり、歴史始まって以来延々と繰り返されてきた生物の進化の歴史そのものでもある。私はこの3年間、とりとめもなく多数のブログを書いてきたが、その究極のテーマは“生と死”である。その様な視点で“おくりびと”を見ると、この極めて日本的な映画が、外国の人々にも受入れられ、アカデミー賞に輝いた一端が垣間見えるような気もする。
一方“生”については、隣家に娘が生まれた時、子供の私も産婆さんが産湯を使うのを見に行った記憶があり、昔は自宅出産が普通だった。然し今やパーマカルチャー九州スクールのメイン講師“デジャーデンゆかりさん”のような“一部の特別な人々”を除いて極めて珍しくなり、殆どが産院で行われている。そして新生児の誕生を、家族親戚で祝うのが一般的である。一方の“死”はどうだろうか?これも生と同様、今や自宅で息を引き取る人は極めて稀となった。私の父は自宅で息を引き取り、自宅で葬儀を実施したが、母の最期は、救急車で玉名中央病院の救急外来に搬送した後、間もなく息を引き取ったので、すぐさま遺体を自宅に持ち帰り、やはり自宅で葬儀を行った。
このように20~30年前までは、不幸があった場合、殆ど自宅で葬儀をしていた。通夜は遺族が主催するのが慣わしだったが、葬儀となると所属する葬祭組合(隣組)が主体となり、遺族に代わってこまごまとした準備やお世話をした。私の部落でも毎年の様に葬儀があった。私は当時会社員であったが、その日だけはどんなに社業が忙しくても休暇を取った。そして男の仕事は、弔問客の受付と香典の金銭管理、公民館に保管してある祭壇や食器類及び棚の運び出しと組み立て、炊き出しの火の番位だったので、昼日中焚き火の周りに立って、酒を飲みながら四方山話をしていた。一方女はとても忙しかった。精進料理の準備から配膳、弔問客の飲食接待、家内の拭き掃除等々である。その当時も葬儀屋と檀那寺の住職は夫々の役目、即ち葬儀屋は香典返しの手配の他、会場の整備や遺体の納棺と式典の進行を、住職は読経や説教を執り行っていた。然し、あくまで葬儀の主役は遺族であり、近隣の人々であった。
それが10年ほど前から急激に変わった。近年は自宅葬など皆無で全く記憶にない。全ての通夜・葬儀が、民間の葬儀屋かJAなどの葬祭会館で挙行される。そして参列者の都合で、通夜と葬儀はセット化され、何れかに行けば良くなった。その手順も所謂コンビニ流にマニュアル化され、流れるような司会者の進行に従い、一糸乱れず行動することが一般的となった。この場では遺族も参列者の一員でしかなく、指示に従って行動するだけである。唯一の“見せ場”である、式典最後の遺族代表の挨拶にも葬儀屋が用意した“雛形”があるようで、それを“棒読み”される遺族も珍しくない。当然ながら近隣の人がお世話する中身も大幅に簡素化された。会場の葬祭会館には何でも揃っているので、身一つで行けば事足る。受付場所は常設であるし、精進料理は仕出し屋が運んで呉れる。時代と共に”葬式宗教”に堕落した檀那寺の僧侶は、今や“一時の雇われ人”でしかない。長々とした読経や説教などは、皆から嫌われるだけで、終わり次第速やかに退去を迫られる。私は地域の人々の通夜・葬儀には出来るだけ参列することにしているが、式典は30分を目処に進行しているように思った。人間の一生がたったの30分の式典で一丁上がりとは、何と軽くなった事か!
“おくりびと”の大ヒットは、きっとこのような時代の流れに疑問を持つ人々の心を揺さぶったに違いない。勿論私もその一人である。そして人の死は国籍や地位とも関係がない。だから納棺士を主人公とした、この極めて日本的な映画が大成功を収めたのだろう。死は肉体が精神(魂)と分離し、只の物質に戻る過程である。死がなければ、地球上は夥しい生命体で覆い尽くされる筈だし“死は人類を救う荘厳な儀式”でもある。終わり


ブルートレイン

私は昭和44年に就職してから、14年間を静岡と和歌山で暮した。職場が設計部門だったこともあり、頻繁に出張があった。又盆暮れや春の連休には、母が一人で暮す熊本に帰省した。今や出張や旅行に飛行機を利用するのは、ごく一般的になったが、私は海外旅行の時など、狭い機内で寝るのが苦手である。然しその当時は出張で飛行機を利用するには特別の許可が必要で、通常は列車(含む新幹線)を利用していた。然し新幹線は、東京・新大阪間のみしか開通していなかったので、東海道を越えた地域に出張するには在来線を利用するか、高速バスなどに頼るしかなかった。私はその多くの場合に、寝台特急ブルートレイン(通称ブルトレ)を利用した。特に九州や東北への出張や帰省の時は、大抵ブルトレを利用した。出張は昼間の仕事であり、前日の夕刻出発して朝朝到着するブルトレは、時間とホテル代の節約にもなった。然し仙台到着などは早朝なので、始業までの時間を潰すのに格好のサウナ風呂が駅前にあった。又、今のブルトレは2段ベッドだが、当時は3段式だった。私は安くてプライバシーが守れる上段を好んだ。然し上段のスペースは列車の屋根裏に当たり、狭くてとても窮屈である。特にそこでパジャマ等に着替えるのは、とても大変だった。又車輌構造上、停車時やカーブを曲がる時の揺れや衝撃も大きく、途中停車や発車時に目が覚めてしまう。
然しブルトレにはそれらを超える数々の魅力があった。途中の停車駅では何人もの駅弁売りが声を張り上げていたし、色んな車内販売も廻って来た。その上ブルトレには食堂専用車も連結されていて、ちゃんとした食事も食べられたし、アルコールも飲めた。又、夜になるとベッド作りに、朝になるとベッド上げに係員が廻って来る。ホテルと全く同じである。当時私は、通路側にある折りたたみ式の簡易座席に座って、窓外の景色を眺めるのがお気に入りだった。特に眠れない夜などは、長い間ぼんやりと窓を流れる夜景を眺めていた。その内に他の乗客が来て、互いにとりとめもない話が始まる。
線路が直線に近い今の新幹線は、とてもトンネルが多い上にスピードが速すぎて、外の景色は詰らない。然しブルトレが走る在来線の沿線は、日本の大動脈に当たり、目まぐるしく変わる外の景色を眺めていると、何時までたっても飽きなかった。それに在来線の線路は急カーブが多く、先頭を引っ張る機関車が、窓から良く見えた。当初のブルトレはSL(蒸気機関車)が引っ張っていたように記憶している。数名の乗客が、向い合わせのゆったりとした座席に座って旅することは、他の交通手段では中々起き得ない。これがブルトレの最大の魅力だと言っても良いだろう。
その懐かしのブルトレが、先日の熊本発東京行き“はやぶさ”を最後に、全て現役を引退してしまった。ラストランの模様は、テレビでも大きく報道されたが、私にとってのブルトレの原点は、一世を風靡したショーンコネリー扮するジェームスボンド主演の「007シリーズの最高傑作“ロシアより愛をこめて”」かもしれない。名曲をバックに、旧ユーゴスラビアのベオグラードからザグレブ間をひた走るオリエント急行のコンパートメントの中で、ボンドが敵役のスパイと格闘し、美女と抱擁する名場面が脳裏にまざまざと浮かぶ。今時間を戻せるのなら、私もコンパートメント(一等客室)に、一度で良いから乗って見たかった。終わり


孤独

私は大学進学して家を出てから結婚するまで、寮住まいの2年弱を除き、約6年間一人暮しだった。一人っ子の私でも一人暮しはやはり寂しかった。勿論当時も友人はいたし、恋人がいた時期もあったが、毎日会うわけにも行かない。夜や休日は大抵たったの一人である。当時は今と違って、部屋にはTVも携帯もないし、公衆電話では不便である。それに昔も今も男の一人暮しほど惨めなものはない。当時の借間には台所もなかったので自炊も不可能で、洗濯は屋外でしていた。勿論今のように24時間営業のコンビニなど一軒もなかった。従って夕食は何所かで外食で済ましても、朝食は自宅で食べるしかない。前夜パンを買ってきて、唯一の加熱器具の電気ヒータで焼いて食べていた。寝坊した時は、その時間もないので、生のパンにマヨネーズを塗って食べていた。(これが結構美味しかった)
この当時、私はひどい孤独感に苛まれ、毎日の様に自問自答していた。自分は「何の為に生まれて来たのか?」「なぜ此処に居るのか?」「これから何をすべきか?」「将来どうなるのか?」所謂自分探しといえば少しはカッコ良いが、私の場合そんな高尚なものではなく、只淋しかったのである。こんな精神状態は、決して私固有の症状ではなく、人間であれば誰でも長い人生の中で何時かは感じる状態だろう。今の若者はとても行動力があり、一人で外国旅行を試みる人も少なくない。当時の私にはそんな行動力もなく、部屋の中を動物園のライオンみたいに行ったり来たりしていた。
そして私が出した結論が結婚であった。確かに結婚すれば一人ぼっちからは開放されるし、子供が出来れば家庭はにぎやかになる。しかしそれは外面だけの解決であって、長い一生から見ると単なる一時しのぎに過ぎず、心の内の問題が真に解けた訳ではない。子供は成長して何れ親元を離れ、新たな家庭を作る。現在の我家も既にその段階にある。そして心中でもしない限り夫婦も何時かは別れる。
今又、何度目かの夏目漱石ブームである。先日は或る人の紹介で、ロンドンにある漱石記念館の館長(崇城大学教授)が我家に来られ、漱石の手紙や短歌の掛け軸、親交のあった祖父の写真などを御覧になった。我家に漱石の資料が残っているのは、祖父が若い頃の漱石と親交があったからに他ならない。その漱石もロンドンでは相当に孤独感を味わったのであろう。然しそんな英国滞在経験があってこそ、その後の数々の名作が生まれたに違いない。
昨年末、そのロンドンに住む私の従姉が一時帰国したので、久し振りに会った。何でも今冬の大寒波で水道管が破裂し、ロンドンの家が水浸しになったとか?それを修理して、家が売れたら永久帰国するので、その前にロンドンに遊びにおい出とのこと。漱石先生とは較べるべくもない私ではあるが、自分探しの旅に“ロンドン詣で”と行くか!!


肯定と否定

私が首題の言葉の意味をはっきりと自覚したのは、確か中学に進学して英語の授業が始まった時期ではなかったかと記憶している。英語は日本語と異なり、肯定・否定がはっきりとしている。詰りYes・No何れかのデジタルに近い世界だと思えば良い。これに較べて日本語は極めて曖昧である。詰りYesとNoの間に、そのどちらでもない曖昧領域が存在すると言っても過言ではない。
そんな日本で生まれた私だが、我家は長らく母子家庭だったので、母の影響を特に強く受けた。母の日常会話には否定語がとても多かった。例えば水辺には行くな。危ない遊びはするな。お金がない。気分が悪い。眠れない。酒呑みは嫌い。将来が不安等々。毎日毎日否定語を聞かされると、頭が自然に否定的反応をする様になり、ついつい悪い事を考えてしまう。
一方、私の社会人時代の最初の上司M氏は、母とは逆にとても肯定的な人だった。私の静岡勤務の12年間、直接・間接の違いはあっても、M氏はずっと上司であり続けたが、私は一度も「やめろ」とか「ダメだ」とか「いけない」とか言われた記憶がない。当時私の設計は遅々として進まず、発売スケジュールは遅れに遅れ、ようやく発売しても全く売れず、やっと売れたと思ったら、今度はクレームが多発、そんな悲観的な状況にあっても、M氏はいつも明るい声で「思い切って遣りなさい」と私の背中を“ポーン”と押された。
他方、同社最後の上司H氏は、M氏とは逆にとても否定的な人だった。私はH氏の部屋に追加予算の申請に行く度に、立たされたままで延々と叱られた。その主原因は市場クレームだった。当時の製品は、心臓部を海外(ドイツ)からの輸入に頼り、製品は海外(台湾)に輸出していたが、言葉や文化の違いに加えて時差もあり、迅速・的確な対応は非常に困難だった。それに俄か作りの組織体制では、設計製造までは何とか出来ても、販売やアフターサービスまでは手が廻らない。H氏は無理を承知で外販ビジネスに手を出しながら、上手く行かないと私に否定語をぶつけられた。
肯定語と否定語、典型的な対語だが、人の性格をよく反映するバロメータでもある。私は最近、この言葉の語源について興味を持っている。それは孫娘が発する「お爺ちゃん大好き!」「お爺ちゃん大嫌い!」を繰り返し何度も聞かされたからである。4歳児の孫娘が発する「好き」と「嫌い」は、差し詰めM氏とH氏に置き換えても良かろう。一人の孫娘が一人の私に、或る時は「大好き」と言い、或る時は「大嫌い」と言う。ひょっとすると、孫娘は将来私の上司になるかも知れない。


青い鳥

昭和40年、私は熊本大学工学部に進学し、10月から大学近くの熊本市下立田に間借りした。そこの1年先輩A氏は、身長180cmの偉丈夫で色浅黒く男前だった。今は亡きA氏は後に通産省に入省したエリート官僚だが、当時は自分で組立てたステレオで重低音をズンズン響かせ、未だ珍しかった自家用車(パブリカ)に、彼女を乗せてドライブするようなプレイボーイだった。A氏は田舎者の私に「メリちゃんも彼女が欲しいだろう!」と言って、自身も創始者の一人だった人形劇サークル「青い鳥」への入会を誘った。(A氏は当時ラジオに良く出ていたハーフの歌手“徳永メリ”のファンだったので、何時も私を“メリちゃん”と呼んだ)
当時の青い鳥は会の黎明期で、実に楽しいサークルだった。20名位のメンバーの多くは法文学部や教育学部の女性、工学部の男性は数名だった。人形劇には、幕の下に隠れて両手で人形をかざして操作する所謂“人形劇”と、白幕の裏から照明を当て、その陰で表現する“影絵”の二種類があった。私は当初キャストをやらせて貰ったが、演技下手なことを自覚して大道具係になった。私はそれまで人が舞台を横切って幕を開閉していたのを、観客から見えない幕尻から出来るように改良した。しかも滑車を使って中央から両側に開閉する凝りようだった。(今のブラインドの仕組み)
夏休みは天草に恒例の公演旅行に行った。五和町では艪舟を生まれて初めて漕いだ。苓北町では子供達が直ぐなつき、纏わり付いて離れない。然し練習では上手く動いた舞台装置が、本番の公演では何故かトラブル続きだった。五和町での公演時は、幕が引っ掛ってとうとう開かず、大恥をかいた。
しかし公演の後は、宿舎でキャンプファイヤーや出し物など楽しいひと時だった。会員同士にロマンスも芽生えた。私も好きな女性が出来た。1年後輩で、細面の気立ての優しい人だった。然し私は田舎者で口下手。好意を“意地悪”という形でしか表せず、ライバルに先を越され、とうとう失恋してしまった。その恋のライバルが、水泳部所属の筋肉隆々ムキムキマンで、プールサイドをこれ見よがしに裸で闊歩するような男性だったことで、私はその後長らく肉体的コンプレクスに陥った。
昨年10月その青い鳥から、還暦記念同窓会の招待状が私のもとに舞い込んだ。幹事は私が失恋した女性で、受付で一目見て分かった。実に43年ぶりの再会で、胸が少し時めいた。ご主人の名前を聞くと、やはりあの筋肉マンだった。然し私は今自分の体に聊か自信がある。退職後5年半、毎日の農作業で、すっかり筋肉質になったからだ。今そのご主人に会ったら言いたいことがある。「腕相撲で勝負するか!」と。


あとがき

私はこの一年弱の間に、計200件にも及ぶ、ブログの名を借りた“エッセー”を書いてきた。然し、これで自分を全て語り尽したとは到底思えない。其れは何を隠そう。人は他人の“中傷誹謗”は容易に書けても、自分で自分の“恥部”を暴露する事は容易ではないからである。勿論自分もその一人で、極力書いた積りなのに、今見直せばそんなに書けていない。そして今、この一年弱の執筆活動を振り返ると、アトランダムに脳裏に去来する様々な過去の出来事を、其れこそストーリー性も無く、只書き綴っただけなのかも知れない。然しエッセーとは所詮そんなものだろう。自己の人生が大したものではない事位、私も自覚している。然し、これを書くことにより、今までの人生が自分にとって意義があったのか否かを検証することも出来る。私は今十分意義がある人生だったと総括した。其れは成功とか失敗以前の問題である。成功を意義と看做すなら、私の人生は余り意義が無い。然し、体験や経験や反省をも意義と見做せば、十分に意義ある人生と云う事が出来よう。還暦の年で人生を総括するのはちょっと早いかも知れないが、人生とは結局“出会いと別れ”の繰り返し、言い換えれば“人間関係”とも言え様か!この不器用で、人当たりが悪く、おっちょこちょいな自分でさえ、結構“面白い人生”を送れたのは、私に接し、賛同、ご協力、或いは反対された、皆様のお陰かも知れない。終わり

P.S. 私は6歳の頃から現在に至る迄、新婚時代の数年間と出張時期を除いた殆ど毎日、日記を認めて来た。然し今回、このブログを書くにあたっては、敢えてそれを参考/引用せず、脳裏に残る記憶を唯一の手掛りとした。その方がピュアな内容になると思ったから。然し正確性については文中屡出て来る様に、曖昧な点が多くて読者に申し訳なく思う。又私のブログは自分史であって、歴史教科書ではない。文中に勘違いや間違い、中傷誹謗があれば、どうぞお許し願いたい。以上


運命

私の父は戦前、地主で村長の長男と云う立場にありながら、自己否定に等しい“プロレタリア革命”に理想を求めて官憲に捕縛された。留置場では「転向さえすれば直ぐにでも出してやる」と何度言われても、とことん拷問に耐えて最後まで信念を曲げなかった。戦後は逆に農地解放という“外からの革命”に翻弄された挙句、自己矛盾に陥ってアルコールに逃れた。
私はその父の長男で一人っ子。お産に時間が掛かり、医師がかん子で引き出した時、私は既に全身チアノーゼで紫色、誰もが駄目だと思ったらしい。然し父の必死の嘆願で、医師が僅かの可能性を求めて、冷温水に交互に漬け、逆さに吊るして、お尻を何度も叩いたら、奇跡的に蘇生したと聞く。
多分“その時”私の運命は決まったのだろう。父の辿った道を“踏襲”する様に!他のより良い道も有った筈だ。然し私は今、後悔するどころか、満足している。流れに逆らい「強い抵抗を受ける人生」は「諾々と流される人生」と違って悩み苦しみも多いが、逆に大きな歓びもある。私は60年間ひたすら“愚直”に生きたお陰で多くのものを失ったが、それ以上に素晴らしいものを数え切れない程、手にすることが出来た。これだけが私の自慢である。終わり


両親

私の両親は、6歳違い(父が年上)の夫婦だった。父は私が9歳の時に他界したので、私の父親像は“母という鏡”を通じたものが大半である。先ず、何でこの二人が一緒になったかである。母の実家も徳永姓だけど、血縁関係は全くない。昔の事だから、両者の初顔合わせは“見合い”だったらしいが、その切欠は村長の父と町長の叔父(母の兄)の関係で、知り合いだった事もある様だ。多分叔父が、前妻と離婚して独り身の父に云ったのだろう。「行き遅れの末妹を貰って呉れないか?」と。無論母も、それ以前に何度も縁談の話はあったらしいが、甘やかされて育った為に、我儘が過ぎて30歳になったのだろう。父がその時何と返事したのかは謎だが、その後母を見に行ったらしい。その当時はこのことを「馬を見に行く」と言ったとか。勿論街中の母の実家に、馬が居る訳がない。それは単なる口実で、お茶を出しに来た馬(母)を父が見るのである。
この二人が一緒になったのは、父が36歳、母が30歳の時だから、今考えても決して早くはない。昭和初期の頃、30歳で初めて嫁ぐのは珍しかったのだろう。近所のKさんが馬車を引いたと聞いたが、その花嫁道具は、近所の評判になる程だったとか。街中の造り酒屋の末娘として甘やかされて育った母が、田舎の庄屋に嫁ぎ、舅姑と同居するのは容易ではなかったらしい。母は後々良くこぼしていた。貧乏氏族出の姑は「鍋の底に残ったおかずの汁を捨てる」のも許さなかったと。それは、そのまま次のおかずの汁に流用出来るからであった。然し母は前妻と違って“お姫様”ではなく“町人の娘”だったので、経済観念については合格したのだろう。夫婦喧嘩で実家に戻ったことは何度もあったそうだ(父がその度に母を迎えに行ったとか)が、戻される事態にはならなかった。それ処か、私が物心付いた時分には、姑(当時は伯父一家と同居中)は既に居らず、我家は親子+お婆(手伝い)の4人家族だった。しかし母も前妻と同様、中々子供には恵まれなかった。前後に2度の流産を含み、結婚から9年目にやっと私が生まれた。おまけに妊娠中は悪阻が酷くて、何も食べたくない。たった一つのお好みが“沢庵漬”だったと言うから酷い話である。私が生まれた時、骨と皮だったのは当然であろう。私はその母から、父に付いて色々聞かされた。「酒癖については嫁ぐ迄は知らなかった」とか「決して好きで嫁いだのではなく、三顧の礼で迎えられたからだ」とか。それには田舎を下に見る、町屋育ちのプライドが見え隠れしていた。然し何度見合しても決して首を縦に振らなかった母が父に嫁いだのは、何か“惹かれるもの”が有った為だろう。
私はその片鱗を垣間見た記憶がある。それは“死”に付いてであった。母には死後の世界と言うものが、どんなものか皆目見当が付かなかったし、大いなる“恐れ”を抱いていた。それは私に屡漏らしていた言葉の端々に伺える。「昨晩は胸が締め付けられるように苦しくて死ぬかと思った」と。それかと言って信仰心もそんなに篤くはなく、お寺の説教に出てくる“来世”も、今一つ信用出来なかった。そんな母は父に“死後の世界とはどんなものか”を聞いたらしい。その時の父の回答は“無”であったとか。これは回答なしと言う意味ではない。“死後は何もない”という意味であり、常識で考えれば容易に想像出来る。死とは“永遠の眠り”であり、私達は毎晩“数時間の死”を体験済である。私は母が始終漏らしていた不満と裏腹に、父を尊敬していた理由の一つはその頭脳であったと信じる。その証拠に「パパの頭は剃刀みたいだったよ」と言っていた。然し私は“剃刀の父”と“普通の刃の母”の子供。思う様に切れないのは当然だろう。終わり


茶道

家内は若い頃、花嫁修業の一環として茶道を習ったと聞く。然し勿論私には其の経験は全く無い。そもそも私が初めて茶道と言うものに接したのは、もう14年も前の事である。それは初めてタイの谷口農場を訪問した時だった。その時は丁度、タイとの交流の会会長の「谷口恭子先生」と、往きの空路で隣席だった。先生はタイまでの5時間程のフライトの間、休まず私に話し掛けられ、その結論が「徳永さんは茶道をすべし!」との結論だったのだ。それから14年間、私は家内と共に毎週水曜日の午前中、車で45分程の距離にある先生のお宅まで、お茶の稽古に通った。
先生の指導方針は独特である。と言っても、私は他の先生を知らないので、これは家内の感想である。一般の茶道は、型通りの挨拶の後、いきなり点前の練習が始まるそうである。そしてそれが済めば終わりで、他には何も無いそうだ。然し先生は違う。床の間の掛け軸(全て自製)の説明、それもその言葉の由来から背景、はたまたそれに纏わる歴史の話があった後、お花の説明である。その花も半端ではない。通常3種程飾ってあると聞いたが、先生の花は数十種、多い時には40~50種もある。そしてその花の全てが、先生のお宅の庭か、近所の路傍から摘んだとか、或いは他家の花壇から貰ったものだ。中にはとても花とは言えない様な、所謂雑草・雑木の類もある。従って床の間は毎回花盛り。畳に溢れんばかりの花の洪水である。先生はその殆どの名前を諳んじて居られる。私は何度聞いてもそれが覚えられない。その掛け軸と花の説明だけで、優に30分以上を費やす。
その後深呼吸を挟んで始まる点前の稽古も独特である。通常の点前は亭主と正客、次客等が居て、その役目は全く逆で、両者が入れ替わる事は無い。然し先生のお稽古の方針は、先ず亭主の立場になり一通りお茶を発てた後、今度は自らが次客の立場に変身して、自分が発てたお茶を先生(正客)に習って頂き、お茶碗の拝見まで済んだ後、再び亭主の立場に立ち戻り、点前の続きを行う。何ともややこしい手順である。これはお薄であれば未だ良いが、お濃茶ともなると、その手順も長くて複雑な為、私は未だにその全貌をマスター出来ていない。最もこれは先生の所為だけではなく、私の覚えの悪さ、不熱心さにも因ると思うが。それだけなら未だ良い。私は何時も家内とのペアでの稽古。夏場の“風炉”なら別々の炉を使い、茶室は一緒でも、点前は独立して進められる。然し冬場の“炉”となるとそうは行かない。炉は茶室に一つだけしか無い。従って家内と私は向かい合った(見なし)亭主畳で、互いに同じ釜を使って稽古する。すると困った事が起きる。何れかが釜の蓋を取ったりすると、遅れた側はその動作が出来ない。其処で“見做し動作”をすることになる。勿論蓋や蓋置きは本物を二つ使用するが、釜が一つなので、同時に釜に蓋をする事は出来ず、実にややこしい。然し私は感心する。先生はそんな二人のややこしい点前がちょっとでも間違うと、直ぐ指摘をされる。先生は偉人である。若い頃同志社女子大在学中、毎週5種類の習い事をしたそうだ。1茶道、2華道、3書道、4謡曲仕舞、5和文タイプである。これでは週末以外全てが潰れてしまう。そして50歳を超えてから、再び裏千家主催の茶道学校に学び、教授免許を取られたとか。
私はこの谷口恭子先生に教えを受けたお陰で、色んな場面で“下手なお点前”を披露することが出来た。我家に来た賓客をもてなすことから始まって、先生のお宅で催される「初釜」の亭主、熊本県海外研修生を迎えての「月見の茶会」訪タイして「谷口農場」「メ・ジョ大学」での茶会「玉名市校長会」での茶会。数え上げれば限が無い。然し先生の茶道指導の究極の目的は“人作り”である。ならば私は14年もの長きに亘り、先生の指導を受けて来たのに、一体自分を造れたのだろうか?今見直しても、その確たる“証拠”は見出せない。
私は思う。「芸は身を助ける」と言う言葉がある。現在私が、今以上を望まず、それなりに健康で、生き甲斐のある毎日を送れるのは「茶道のお陰」だと思うべきなのかも知れない。終わり


火と水

もう私が当地、石貫小学校の児童に読み聞かせを始めて、3~4年になる。それは2年程前のことであった。当時は確か3,4年生を担当していた。私はある日のテーマに“火と水”を選んだ。そして子供達に語り掛けた。「皆さん、火と水のどちらが強いと思う?」と。或る子は「火」別の子は「水」と、てんでばらばらに答えた。私は「火」が強いと思うと言った。勿論その根拠は曖昧であるが、地球も数十億年後、膨張した太陽に飲み込まれて炎と化すと、或る地球物理学の本で読んだ記憶があったからである。何故このテーマを選んだかと言えば、私は“火と水が好きだ”からだった。この二つは、何か人の心を捉えて離さない“不思議な魅力”がある。
私は子供の頃、火を炊くのが大好きだった。当時の我家の台所は広い土間で、中央に二連の竈があって、一方はご飯用、他方はおかず用だった。又その一部はドーコと呼ぶ鋳物製の湯沸かしになっていた。其処に水を溜めておけば、煮炊きが終わり、食後に食器や鍋釜の“後終い”をする時、態々お湯を沸かさなくとも、自動的にそのお湯を使える便利な代物である。私は当時小学生、もっぱら竈に薪をくべる役だった。最初は柴にマッチで火を付け、小枝から次第に大きな枝へと燃え広がり、最後に大きな薪に火が移る。炎は絶えることなく薪から立ち昇り、そして空中に消え去る。其れをずっと眺めていると、何か不思議な世界へと誘われて行く様な気持になる。これは遠い昔、人間が火を扱う技術を習得して、万物の霊長となった事と、決して無縁ではない筈だ。其の証拠に、当時飼っていた犬のポチは、犬らしくなく寒がり屋で、必ず私の横に座って、同じ様に火に当っていたが、決して或る距離以下には近付こうとはしなかった。
一方水についても似た様な事が言える。例えば我家の近くを流れる馬場川は、西側にそびえる小岱山にその源を発する。此処の水は清冽で、冷たく澄んでいる。その滔々とした流れを眺めていると、何時までも飽きないし、次第に心が洗われる様な気持になる。然し、犬はやはりその川を基本的に恐れる。我家には現在、老犬の雌犬ゴールデンと若い雄犬ラブラドールが居て、前者は例外的に水が大好きだが、後者は水を恐れ、決して近付こうとはしない。猫に至ってはもっと極端で、極度に水濡れを嫌う。
私は思う。今の時代、火も水もスイッチ一つで自在に扱える時代になった。だから逆に子供の心が荒み、虐めや自殺が後を絶たないのではなかろうか?私達は子供の頃、火や水を素手で扱い、その熱さや冷たさ、便利さや恐ろしさを知った。然し今や昔に戻ることは不可能である。僅かに出来る事といえば、年末に昔ながらのやり方で、餅つきをする事位だろうか?他でもない、明日は我家の年に一度の餅つきの日なのである。終わり


山と海(その二)

日本の代表的な山といえば、何と言っても富士山。これは静岡県と山梨県の県境に位置する。勿論私が当時住んでいた静岡市のみならず、後に家を買って住んだ焼津からも、好天の日には其の頂を見る事が出来た。私は、車を買ってからこの富士山に何度も行った。勿論五合目迄である。富士山への登山ルートは幾つもあるが、私が登ったルートは主に富士宮ルートである。此処には当時、既に立派な自動車道路が出来ていた。然し、私の車は360ccの軽自動車。幾ら新車とは言え、其のエンジンのトルクでは富士山登山道路は如何にもしんどい。延々と続く坂道を登る内に、次第に車の速度が落ちて、遂にはエンスト。其れからはローギアで、エンジンをウォンウオン吹かしつつ、ゆっくりゆっくり登るしか方法が無かった。後からは普通車がどんどん追い越して行った。
富士山の表情は夏と冬とでは全く異なる。夏の5合目は快適だが、冬の其れは完璧な雪景色。厳しい冬山の姿に一変する。多分夏休みの時期だったと思う。熊本から従姉が友人を連れて、静岡に遊びに来た。其の時は私の車で富士山に行くのは無理と思い、彼女のカローラで行った様に覚えている。確か、途中有名な景勝地の“白糸の滝”にも立ち寄った。当時も普通車であれば、たとえ4人乗りでも5合目まで何無く行けた。
其の2年後私は結婚した。そして新婚間もない夏休み、何と家内と2人で富士登山に挑戦したのである。夜出発して、五合目までは例の如く、ローギアでゆっくり登った。そして真っ暗な中を、大勢の登山者に倣って登り始めた。6-7-8合目と標高が高くなるに従って、勾配がどんどんきつくなる。確か8合目の山小屋で仮眠を取った気がする。家内は少し眠ったと聞いたが、私は寒くて殆ど眠れなかった。誰かが「日の出だ」と叫んだような気がする。眠い目を擦り、東の空を見ると、雲間から御来光を拝むことが出来た。其れから又続きの登山である。9合目に差し掛かる頃から、私の頭が急におかしくなった。自分の頭ではない様な、何か鈍痛が奥底から突き上げる。高山病の兆候だった。然し其れに耐え、必死の思いで頂上に辿り着いた。然し私は、既に夜が明けて明るかった頂上の景色を、殆どまともに見る事が出来ず、山小屋でひっくり返っていた。そして何度もゲロをした。あの有名な富士山レーダーに向って。
そして“ほうほうの体”で下山したが、何とした事だろう。5合目に辿り着く頃には、気分は快適、ほんの1~2時間前の苦しみが嘘の様に晴れていた。この間、家内は高山病にも見舞われず、横で苦しむ私を尻目に、富士登山を満喫して呉れた。私はその時以降、登山に対して“その種の恐れ”を抱くようになり、二度と行く事は無かった。そして家内に対して言う台詞は何時もこうだった。「君の脳味噌は、私ほど酸素を必要としない」と。終わり


山と海(その一)

日本の代表的な自然は山と海である。私の生誕地の此処玉名市石貫は、3方を低い山に囲まれた山紫水明の地ではあるが、海までは約15kmとやや遠い。然も其の海は干潟で有名な有明海で、内海の趣に近い。其の点では、私が青春の12年間を過ごした静岡は、あの家康が選んだだけあって、南は太平洋、北は中部山岳地帯で、海と山が間近に在る、山紫水明で気候温暖な素晴らしい土地だった。そして何よりも人々の気性が穏やかで争いを好まず、私の様な“九州の田舎者”に対しても暖かく接して呉れた。其の上“姐ちゃんは綺麗”となれば云う事は無いが、事実静岡には美人も多かった。我々も見習いの時期は暇なので、同僚と連れ立って態々“噂の美人”を覗きに行った。其の一:資材課の窓口嬢。確かに見目麗しく愛嬌もある。然しこの女性は既に当時、貴公子然とした風貌の、私の3~4年先輩のA氏と付き合っているとの噂があり、数年後目出度くゴールインした。A氏はその十数年後和歌山に転任して部長だったが、其の時私は既に熊本に転任していて、何だか不思議な巡り会わせを感じた。其の二:部長秘書のYさん。かなり年上だったが当時未だ独身。今思えばNHKクローズアップ現代の国谷さんにそっくりの上品な方だった。この秘書は、後に私が付き合うことになる彼女と無二の親友だったので、きっと私の事も話題になっただろう。然しその方は、その後も私に対する態度は微塵も変わらず、流石に部長秘書となると“レベルが違う”と私は感心した。
話は前に戻り、入社1年目の私達は、当時“見習い”と呼ばれて帽子には白線が有り、総務課教育係に所属していた。直属上長はH係長である。この方は40台の半ば位で、小太りの親分肌、そして住まいは会社近くの社宅だったように記憶している。私は既に述べたように、入社2年目に早くも三菱ミニカの新車を購入する。車を持たないH係長は逸早く“其れ”に目を付けられた。「オイ徳永!お前釣りするか?」「いいえ」「それなら俺が教えて遣るから一緒に来い」「道具を持ちません」「全部俺が準備するから、お前は手ぶらで良い」「はい分かりました」そんな遣り取りだったと思う。H氏の指定時刻は何と“夜中の3時半”だった。私はビックリしたが、元上司の“命令”である。仕方なく、眠い目を擦ってH氏の社宅に参上した。
最初の行き先は有名な“由比ガ浜”(年末やお盆時の帰省ラッシュ時に全国ニュースに出る景勝地)だった。現地に到着して釣り始める時刻になると、漸く東の空が明るくなる。氏は私に、リールを使った投げ釣りの方法を一から手解きされた。然し実際にやってみると、これが案外難しい。餌を付けた釣り竿を後ろ向きにセットし、前に180度振る途中で、錘の付いた糸を解き放つのである。其のタイミングが一瞬でも早過ぎると上に飛び、逆に遅過ぎると下に飛ぶ、丁度迎角45度で飛ばすには、何度もの練習が必要であった。そして、徐々にリールを巻きながら、魚の“当り”を左手指に来る“微かな感触”で探る。H氏の腕は確かだった。殆ど100発100中45度の角度で錘が飛ぶ。其の日は目的の“キス”は殆ど釣れなかったが、何匹かの“ベラ”(赤魚)が釣れた。私は徐々に釣りの面白さが分かり、その後もH氏を車に乗せて、彼方此方の海や川や湖に行った。御前崎や其の先の浜岡、更に先の浜松までも。氏のもう一つの手解きはヘラブナ釣りであった。これはリールを使わず、竹竿と餌には練り団子を使う。湖や川の辺で浮の動きに全神経を集中し、一瞬のタイミングを逃さず合わせるには、投げ釣りとは又異なる高等技術が必要だった。
私は、氏から釣りの面白さを教えられ、その後自分でも道具を一式買い揃えて、彼女とデートでヘラブナ釣りに行ったりしたが、女性と一緒の釣りは一つ問題がある。それらの場所には殆どトイレが無いからだ。その内に、飽き易い私の欠点が出て、釣りからは段々と遠ざかってしまった。続く


バチクリコン

此の、何とも意味不明な言葉(意味は“ヤッタ”に近い)を口にする様になったのは、何時の事からか分からない。多分高校生の頃だったと思う。私は決して“勉強好き”な少年ではなかった。寧ろ“勉強嫌い”といった方が当たっている。出来るだけ勉強せずに良い成績を上げたかった。そんな場合、カンニングが最も安易な手段で、昔も今もそれはある。然し、私は違法なやり方はしたくなかった。そうなれば“山を賭ける”事である。授業中に、試験に出す箇所をそれとなく“ヒント”として与える先生も居る。その言葉を聞き逃さない事である。先ず其処を徹底的に勉強する。そして先生が何故、其処を選んだのかを推測する。するとその先生の“性癖”が何となく掴める。それを手がかりに“演繹法”で他に似た箇所がないかを探し、其処を集中的に勉強して試験に臨む。当然この方法は当り外れがあるが、当った時には絶大な効果を齎す。特に数学などである。試験問題は数問しかない。私は問題を見た瞬間心の中で「バチクリコン」と叫ぶ。例えば証明問題3問中2問が当れば、それは10分程度で解け、残り1問に多くの時間を注ぐ事が出来る。然しこの方法は、残念ながら英単語や、漢字の試験には通用しなかった。何故なら全ての生徒に出題範囲が明示されるからである。私はこの種の試験は何時も成績が悪かった。
時は過ぎて大学生時代、私は3年半を大学近くの借間で過ごした。試験は前後期制で、年に2回の試験がある。そして単位制の為、必須科目は全て、選択科目は一定数取らないと、進級出来ない。従って必須科目の試験問題を予測することが重要だった。私の部屋は当時、居心地が良かったのか、友人の溜まり場になっていた。そして試験の数日前から、皆で試験勉強を始める。その場合の重要なヒントは、過去の試験問題だった。それが“何所からか”廻って来た。(最近当時の先生に会った時、それは男子寮が出所と聞いた)私達はその問題を試験の前夜、必死になって解いた。そして試験当日、その問題は必ずと言って良い程出た。例えば、4問中2問とか。50点は10分で稼げる。残りの2問に全力で当れば、間違っても落第点になることはない。私は是のお陰で、余り勉強もしなかったのに、単位も落さずに4年間で卒業出来た。
然し、この方法が企業で通用すると思ったら大間違い。実社会はそんなに甘くない。そして私は企業では、他ブログで述べた様に、悪戦苦闘を繰り返し「バチクリコン」の言葉を吐く事もなく、遂には中途退職する。
然し、退職して始めた農業では再び「バチクリコン」の場面が再現する。例えばこんな場面である。私の家の向(東)側には田圃(ホームページの表紙)と川があって、数年前その川の土手(高さ3m長さ100m余り)にコスモスの種を撒いた。(有名なタキイ種苗から購入した高価な種は殆ど発芽せず、翌年近くの野生のコスモスから採取した種がそのオリジナル)それは毎年多くの芽を出し、秋には赤・白・ピンクの見事な花の絨毯となる。今年などは、他所からも態々見物に来られ、中には袋を持参して種取りをした人もあった。然しこの花のシーズンが過ぎ去った後は、厄介な光景が出現する。それは、1m以上に伸びたコスモスや野草(セイタカアワダチソウが大半)の枯れ枝である。それらは伸び過ぎて、然も縦横無尽に絡み合っている。私は是を毎年11月末1.5往復して、刈払機で切り倒す。然し、それで仕事は終らない。昨日の夕刻の事だった。此処一ヶ月雨勝ちだった天候が珍しく途切れ、3~4日間晴天が続いた。然しその晴天も昨日で途切れ、天気予報よりも早く、夕刻には曇り空から雨が落ち始めた。私はライターと新聞紙を手に、脱兎の如く其の土手に走った。そして風向きを確認して北側から素早く10m間隔で点火した。火は折からの弱い北よりの風に煽られ、忽にして大きな渦を巻き、たったの30分程で全てを焼き尽くし、後には黒々とした灰が残った。私はその時「バチクリコン」と叫んだ。明年春には再び、夥しいコスモスが、新芽をもたげる筈である。終わり


上京

東京に行く事を“上京”と言う。昔奈良や京都が首府だった時代には、其処に行く事を上京と言った。私が初めて上京したのは、高校2年時の修学旅行、次いで大学4年時の就職試験だった。腰が痛くなる硬い座席の急行列車で、確か24時間近くかかっていた。何せ夕方に熊本を出て、東京に着く頃には夕闇が迫っていたからである。私は修学旅行の思い出は殆ど無いが、就職試験の思い出はある。それは面接の時である。一人ずつ名前を呼ばれ、椅子に座らされる。4名の面接員が並んでいて、私はその一人から聞かれた。「君は今お母さんと二人暮らしかね?」「そうです」「将来どうする積りだね?」「分かりません」この問題の結末については、他のブログで述べたので省くが、私はその時「核心を突く質問だ」と思った。
あの時から既に40年以上経過、私は主に出張で100回以上は上京したと思う。静岡勤務時代は、新幹線がその足だった。当初は“こだま”で1.5時間、その後“ひかり”が利用出来るようになり、更に時間短縮が図られた。静岡から東京への出張は殆ど日帰りなので、仕事の後、丸の内近辺で食事して、一杯飲んでお別れとなる。その時本社の同僚から「君は今から静岡(焼津)迄帰るが、私も電車で2時間掛かるので、君の方が早く家に着くかも知れない」と言われた。その位上京は楽だった。
然し和歌山だとそうは行かない。何でも日本の県庁所在地で、東京から時間距離の長い順位のベスト1~2位にある。私は丁度その時分、冷凍空調工業会の幹事をしていて、東京タワーの近くにある機械振興会館(?)で、毎月一回13時から定例会議があった。その日は朝の6時に和歌山の自宅を出て、タクシー―南海電鉄―地下鉄―新幹線―国電を乗り継ぎ、現地に到着するのは殆ど昼の時刻だった。浜松町近辺で“吉野家の牛丼”をすすって行けば、もう会議にぴったりの時間となる。然し、帰途は更に大変だ。丁度行きと逆のコースだが、5時に会議が終って、夕食もそこそこに発っても、帰宅は深夜となる。然も途中、大阪の地下鉄から南海電車に乗り換える“難波”駅の階段が特に長い。私は、書類の詰った重いアタッシュケースを片手に、息せき切って階段を上り、ホームに止まっている電車に飛び乗った途端“貧血と吐き気”を催した。折しもその電車は満員で、座る席もない。私は溜まりかねて、そのアタッシュケースを床に置き、その上に座り込んでしまった。然し、車内の客は誰も私に声を掛ける処か、見て見ぬ振り。誰一人、席を譲っても呉れない。私はそのまま吐き気をこらえ、冷や汗を拭き、やっと客が疎らになった岸和田辺りで座れた。そんな事が幾度かあった1年を過ごした後、私は上京が嫌いになった。
それから20年余、今や航空機を使えば、自宅から3~4時間程で東京に着く。今月の上京時に私は、息子が住む三鷹に二泊した。私は外泊した時、大抵早起きして周囲を散歩する。その朝も三鷹市内を1時間余り散歩した。そして歩き疲れて小さな公園のベンチで休憩していた。すると近くで一人の老婆が、100羽以上集まった鳩に手提げの中の粟を与えている。鳩も慣れていて、何羽かはその老婆の肩や帽子に止っている。私はそれを眺めていた。暫くしたら、もう一人の老婆が犬を連れて来たので、鳩がビックリして全羽舞い上がり、二人が口喧嘩を始めた。犬の老婆は「アンタが毎日こんなことするから、鳩が増えて我家は糞の始末で大困りだ!」と。鳩の老婆も負けていない。「アンタだって同じよ。犬も糞はするし、始末しないから公園は糞だらけだ」と。「何言って居るのよ、条例で鳩に餌遣るのは、禁止されているでしょ!」それからは売り言葉に買い言葉。私は御両名の中に入って「まあまあ!」と取り成した。然し鳩の老婆の怒りは収まらない。最後に捨て台詞を吐かれた。「何がベランダの糞よ!今に戦争が起きれば、何もかも無くなるのに!」
私は「ハツ」として、その老婆の顔を見た。その顔には深い皺があった。きっとこの老婆のご主人は出征して戻らなかったか、家が爆撃で焼かれたのだろう。だから平和の願いを込めて毎朝“自腹を切って買った”粟を、公園の鳩に与えられているのだ。石原知事殿、二人の意見は真二つです。こんな場合の条例はどうなっていますか?終わり


体育教師(改)

玉名高校に進学すると、体育は男女別々で、男子は武道が始まった。体が硬い私にとって、柔道の兎跳びは特に辛く、翌日は手すりを持たないと、階段の上下も出来なかった。私はマット運動も苦手だったが、跳び箱などは嫌いではなかった。然し「その日」を境に大嫌いになった。その日「体育教師」は、皆を一通り前転させた後に「U君」と「私」の二人を特別に指名して、皆の前で再度前転させた。そしてU君が上手な見本、私が下手な見本だと皆に説明した。理由は「膝とお腹」が付いているか、離れているかの違いだった。U君は体操部、私は体が硬い上に、腹筋が弱くて付けるのが難しかった。でもそこまでなら、まだ良かった。
ある日私に「大悲劇」が起きる。サッカーの試合中のことだった。私はサッカーが好きだったので、懸命にボールを追っていた。その時、真正面からボールが飛んで来た。私は咄嗟に頭を出した。ヘディングである。「ガーン」と頭が鳴り、私はその場に仰向けに倒れた。まるで「ボーリングの玉」を受けたような衝撃だった。しばらくして気が付いたら、下の前歯2本が折れ、他の2本は内側に曲がって、下唇に深く食い込んでいた。同僚のO君が足を高く上げ、私のアゴを蹴ったのだ。
母は血だらけで家に戻った私を見て驚き、すぐ高校に抗議に行ったらしいが「まともに相手されなかった」と怒っていた。私は、この時は母を「頼もしい」と思った。然し、折れた前歯は元には戻らない。入れ歯が出来るまで、私はしばらくマスクをかけていたが、息が抜けて言葉がうまく話せず、その面でも不自由した。O 君も謝ってくれたし「わざと」蹴ったのではないので、恨むわけにも行かなかった。然しその「体育教師」からは「大丈夫か!」の一言すらなかった。
私は今も、その前歯は「入れ歯」で、硬い物を噛み切る事が出来ない。一生不自由する事になった。同僚に聞けば、あの「体育教師」は、当時からとても評判が悪かったとか!体育教師の使命は、きちんと競技ルールを教え「運動神経が鈍い」生徒には、自信を付けさせることはしても「見世物」にしたり、怪我させる事は有ってはならないと思う。私は“心”だけでなく“体”までひどく傷付けられた、あの憎き「体育教師」を“いつか見返してやりたい”と思っていた。
それから42年後の今年12月2日、私は親しかった横浜の従兄(徳永三郎)の墓参に行った。去年の12月にガンで亡くなった彼は、私と違ってハンサムで、早実ではあの「王さん」の4年先輩、その後大学を経て日本コロムビアに入社し、ノンプロではピッチャーだったスポーツマンである。一時は「島倉千代子」のマネージャをしていて、1970年頃の女性週刊誌に「島倉千代子結婚か!相手は徳永三郎氏?」との記事も出た。これは実現しなかったが、彼女はその後、阪神の藤本選手と結婚したので、野球選手が好きだったのだろう。今年12月2日、彼の奥さんは私に「主人が後1年生きていたら、どんなに喜んだでしょう!それが残念でなりません!」と言われた。それは他でもない。あの「ハンカチ王子」の斉藤君も彼の後輩なのである。そして彼の部屋には一枚の写真が飾ってあった。それは、あの「王さん」と並んだ、三郎氏の写真だった。彼は入院する直前まで、地元横浜の少年野球の指導に最後の情熱を注いでいたという。
そして同じ日の夜、私は東京原宿の料亭「雪・月・花」で、玉東町出身のセミプロ演歌歌手K子さんから、おいしい日本食をご馳走になった。彼女の息子はその店の料理長で、彼の嫁さんはANAの国際線客室乗務員との事だった。私はその夜、思い切って彼女に、「42年前の忌まわしい体験」をしゃべった。彼女はしばらく考えてから言った。「そういえば、あなたがマスクをしていたのを思い出した。あの時は皆で何か“病気らしい”とうわさをしていた」と。そして「そうだったの!怪我だったとは今日までちっとも知らなかった」と!
彼女は私と同じ「玉名高校2年9組」の同級生なのだ。私はその夜、少し心が安らいだ。それは、たった一人の同級生にでも、真実を分かってもらったからである。そして私は思う。若し徳永三郎氏が玉高の体育教師だったら、私は怪我しなかっただろうし、ひょっとすると「玉高野球部」は甲子園に行けたかもしれないと。終わり


父親達の星条旗

先日、家内の所用のお供で、久し振りに熊本市のショッピングモールに出掛けた。私は、昼食後2時間程の待ち時間が生じたので、時間つぶしの為に、併設されたシネマコンプレクスに初めて立ち寄った。受付で「お勧めの映画はないか?」と聞いたら、紹介して呉れたのが「クリント・イーストウッド監督」の「父親達の星条旗」だった。
客は20~30名、疎らな席に腰を下ろし、見入る内に私は忽ち引き込まれ、涙が止まらない1時間半となった。特に戦闘シーンは凄い迫力で、爆弾で吹き飛ぶ兵士の描写は迫力満点だった。然し、この映画の主題は戦闘そのものではない。米国内と戦地(硫黄島)とのギャップを際立たせて、併せて人種差別問題も取り上げている。
即ち、戦争には大変なお金がかかる。だから敗戦国の経済は破綻し、ものすごいインフレが起きた事は戦後の日本を見れば分かる。然し、これは相手国の米国とて似たような事情だったのだ。戦争末期には、既に米側の勝利は疑いなかったようだが、それでも新たな国債発行を迫られた。そしてそのプロモーションの為に、硫黄島占領時に、同島南端の擂鉢山々頂に“兵士が立てた星条旗”が使われるという筋書きであった。主演の二人の男性は、実は本当のヒーローではなく所謂「やらせ」で偶々被写体となっただけだったのだ。しかも、その内の一人はインディアン兵士である。実直な彼は、戦場の実体と演出されたショーとの「ギャップ」に苦悶し続け、遂にはその場から逃れ、最後には行き倒れて死ぬ、というストーリであった。私はこの映画を見ながら、知らず知らずの内に、インディアン兵士の彼を、我が身に置き換えて観ている自分に気が付いた。
今から遡る事20年前の4月2日、当日の熊本は朝から雨模様で、午後からは風雨ともに強い嵐の一日だった。私は当時、丁度前日から始まった新工場への機械装置の搬入プロゼクトのリーダだった。搬入日程は既に決まっていて、天候には関わりなく進められる。然し、当日は午後からの豪雨で、工場の簡易間仕切りが風雨で壊れかけ、工場に雨水が押し寄せる恐れもあった。私はトランシーバ(当時は携帯は無い)を片手に、有りったけの人を掻き集めて、必死で間仕切りを抑え、風雨の進入を防いだ。そして悪天候を押して、予定通りの機械を搬入し終えた。
この事が「徳永さんは、嵐の中でも予定通り仕事をした凄い人だ」と、その後語り継がれ、私は台湾、ドイツと同種の仕事のリーダを任された。然し私は只号令を掛けていただけである。あの時の本当のヒーローは、雨に濡れて滑る足場に足を取られつつも、予定通りの機械搬入作業を遂行した、多くの名も無い現場作業者なのである。然し「ヒーロー」が必要なのは、国や場所を問わないらしい。私も当時、あのインディアン兵士宜しく「ヒーロー」に祭り上げられ、彼方此方で上司の自慢話の「ネタ」になった。兎に角、数え切れない程のパーティーが催された。そして其のダシは私でも、主役は工場長であり、部長であった。彼らに必要なのは、パーティーの名目であり、開催理由であり、自分達が飲めれば、中身等どうでも良かったのだ。その証拠に、何時も最後に裸踊りをするのは、某部長であった。そんな騒ぎを横目で見つつ、つい悪酔いして最後に「ゲロ」をする処まで、彼と私は同じであった。そして“束の間の熱狂”が冷めた後の、ヒーローの末路は哀れである。インディアンの彼氏が、相も変わらぬ人種差別に苦しみ、最後は行き倒れた如く、私もあの日の1年半後には、淋しく会社を後にした。
私は思う。今教育改革論議の中、政府主催のタウンミーティングで所謂「やらせ」があったとして、国会で問題になっている。これも根っ子は同じなのだ。大衆民主主義を掲げて政治を行うにも、企業で一大投資を敢行するにも、大向こうを唸らせる仕掛けや美談が必要なのだろう。そしてその標的にされるのは何時も、単純でお人好しのあのインディアンであり、私である。終わり


社会保険事務所

私が初めて社会保険事務所に行ったのは、確か退職した3年半前のことだった。それまでは、名前は知っていたが、その場所も業務も良く知らなかった。勤めていた間は、年金受給に未だ実感が湧かなかったのである。家内から場所を教えて貰って、初めて行った時の事である。其処は線路を越えた地区の、大通りに面していた。然し3~4台しか停められない玄関前の駐車場は、その日既に満杯で、私は路上駐車するしかなかった。中に入って驚いた。狭い待合室(と言うよりカウンター前)には10人位の人が、番号札を持ち立っていた。その時、係員から「路上駐車している人は、至急裏の駐車場に車を移動して下さい。」とアナウンスがあった。私ともう一人がその指示に従って車を移動した処、事務所裏には広々とした職員用の駐車場があり、其処には十分の駐車スペースが有った。然しこれ位では私は驚かない。
私はその日受付をした後、番号札を持ったまま延々と待たされた。それは相談窓口が2~3しかなく、一人一人の面接時間がめっぽう長いからである。客は何れも私の同年代の中高年男女である。私達は小さなベンチが一つだけで、何人かは腰も下ろせない事に小さな不満を言いつつ、小一時間待たされた。その間、カウンタ奥の事務所を見遣ると、10名位の職員が各々端末の前に座り、何やら操作している。多分私の年金データも、誰かが検索していた筈だ。奥に座って此方をちらちら見ている初老の紳士が所長ではないか?等々思っている内に、やっと私の順番になった。
然し、私は窓口職員の応対に驚いた。普通なら、受付で社会保険手帳を提出して目的も告げているのだから、小一時間も待たせる間に必要資料を揃えられる筈である。処が実際には違っていた。窓口職員が持って来たのはただのメモ用紙だった。そして私に色んな質問をした。私が知りたかったのは只一つ「年金は何時から幾ら貰えますか」と言う事だった。然しその日にその答えは出なかった。その職員はメモ用紙に沢山の数字を書き並べ、私との応対の間にその紙は数字だらけになって、何が何だか分からなかった。私は納得せず食い下がったが「暖簾に腕押し」だった。私は当時未だ55~6歳、「年金を貰うまでには残り数年あり、その間の事情で保険料は変わるので、はっきり幾らになるかは分からない。」と担当者は云った。私はしつこく食い下がったが、結局その日の成果は、数字だらけの紙切れ一枚だけだった。そして、家に戻ってからそのメモ用紙を見直したが、沢山の数字が羅列されているだけで、私が知りたかった「支給開始年月とその金額」については、何度見ても読み取る事が出来なかった。丁度その当時である。社会保険庁の色んな不正や問題が明らかになって、政治問題となったのは。
私は思う。あの時、私と一緒に待っていた10人位の人々も、私と大差ない目的で来ていたのではないだろうか?と言うより、社会保険事務所に行く人々の質問は殆ど、私と似た様なものだろう。若しそうならば、例え仮定が入ろうとも「何歳から月額(最大・最小)幾らです」と、何故答えられないのだろうか?答さえ出せば、それが若し概略であったとしても、客は多分納得する筈である。なのに、白紙を持って質問ばかりしながら、アバウトな答えすら出せなかったあの社会保険事務所は、一体何の仕事をしていたのだろうか?私はもう懲り懲りで、二度と「あそこ」には行きたくない。あんな顧客無視で時代遅れの社会保険事務所は統合して、各県一箇所位にしても良いのではなかろうか?終わり


Just Fashion

私は入社翌年の昭和45(1970)年、9名の同期生の中では最初に車を購入した。それはミニカの新車で、当時の価格は確か55万円位だったと思う。然し、何たって当時の私の給与は名目で3万円強、手取りに至っては2万円台で、それから更に車のローンを支払ったら、残りは1万数千円。無謀という他ない。私は当時、同期入社で親しかった短大卒の女性Sさんに、自分の社内預金通帳を預けた。その理由は、なけなしの給与を無駄使いしない為である。そして最低限の現金しか持たないようにした。然し車にはガソリン代が掛かる。当時独身寮住まいだった私は、通勤に使う他は出来るだけ乗らず、暫くは同期生を乗せる為に車を買った様な生活だった。然もその軽の2気筒エンジンは、雨の朝は必ずと言って良い程、掛りが悪かった。私はその車に結婚後までの5年間程乗り、子供が出来たのを機会に同僚に譲り、ギャランの普通車(中古)に買い換えた。それは遠く静岡から熊本まで帰省するには、如何にも軽(360cc)では不安があったからだった。然し2台目の車も安かった(確か40万円位)だけに、古くてあまり性能が良くなかった。ある夏の帰省途中、高速道でオーバーヒートして動けなくなり、救急隊の助けを借りた。それはエンジンに無理が掛かる、後付けのデンソーカークーラーの所為も有った。3台目は隣家のTさん紹介のカローラだった。この車も中古だったが性能は悪くなかった。私はこの車で何度も帰省した。然しある時帰省途中のトンネルの中で、ハンドルが共振を起こして運転不能になった。それは事故車だったのだ。その証拠にドアの鍵とトランクの鍵が別々だった。4台目も中古のファミリアハッチバックだった。私はこの時が一番感動を覚えた。その素晴らしいハンドリング性能に。それ以来、私はマツダ車ファンになり、5台目が新車のファミリア、そして6台目も新車のカペラと乗り継いだ。そしてこの車を使っている時期に、私はリストラされ、当時大学生だった次女の所望もあって車を譲り、一時は従姉から借りたミラで通勤していたが、暫く後に7台目のデミオ(新車)を買った。然しこの車は如何にも安っぽく、暫く乗って義弟に譲った。そして8台目はコロナ(中古)を買った。これはとても乗りやすい車で4年位使った。その次の9台目が現在手持ちのオーパである。一方家内は、此処熊本に戻ってからは車が不可欠になり、アルト、マーチ、ミニカと何れも新車を乗り継いだ。以上振り返ると、不思議な事に私も家内も唯一、ホンダ車に乗った経験がないのである。実はデミオを買う時に、ホンダのロゴも検討した。然し、殆ど値引きをしなかったので諦めた。
然し私の退職を機に、我家には一気に転機が訪れた。私は中古サンバー(軽トラ)を、家内は同じくタウンボックス(軽バン)を買ったからである。荷物を載せて近くを廻るのに、乗用車は不便。私は今あるオーパを出来るだけ長く乗り、もう普通車は買うまいと思っている。その理由の一つに、昨年来たドイツ人wwooferが言った言葉がある。「オーパ」とはドイツ語で「お爺さん」という意味だそうな。若者好みの車と思っていたが意外だった。それが的を得たかの様に、我家のオーパは、お爺さん宜しく、偶に外出する時以外は、毎日車庫で昼寝をしている。
私は思う。今日本では、多くの若者が高価な車を買い、そのローンの支払いに汲々としている。然もその多くが大型のワゴン車である。然し車に関しては、私は堅実だった様で、普通車ワゴンは一台も買っていない。そして私は10年前、自動車王国ドイツに居た当時、相棒のアンドレア氏と“日独車談義”をしたのを思い出す。彼は、日本のワゴン車志向を評してこう言った。Just Fashionだと!終わり


About&Detail

農民のことを昔、百姓と呼んでいた。是は100種類の仕事が有るという意味らしい。実際に数えた事はないが、それも大げさではないと思う程、農業には多種多様の仕事がある。例えば、鶏の世話を例にとっても、毎日欠かさず必要な仕事が幾つかある。それは餌造り、餌遣りの他に、飲み水補給、卵取り、糞の除去、緑餌集め等々である。然しそれだけなら楽なものだ。我家の手作りの鶏舎はやはり素人の作品、始終補修が必要となる。
先日はこんな事があった。我家に手伝いに来ていたwwooferが私に言った。「犬小屋に入れません」と。何事だろうと行って見ると、何と内側から鍵が掛かっている。どうも中に居るモカ(雌の老犬)が脱走を試み、掛け金をいじったら、自然と掛かったらしい。私は梯子を使って中に入って開けた。そして掛け金を、犬の技量では簡単に操作出来ないタイプに交換した。それ位なら未だ良い。この犬は鶏の見張り役として、鶏小屋の前室で飼っている。鎖で繋いではないので、これまで何度も地下トンネルを掘って脱走した。然し馬鹿な犬で「逃げましたよ!」と自己申告に来るので直ぐ捕まる。私はその度に、逃げた穴を塞がねばならない。正にイタチゴッコである。お陰で犬小屋の周囲は、びっしりと石や丸太で固められ、要塞みたいになった。然し、鶏小屋に出入りするには、必ずこの犬小屋を通らなければならない。雨の日等は、片手に餌入れを持ち、片手に傘を持って、外に出たがる犬を抑えながら、二つの出入口を開閉するのは結構大変である。ある時は私と一緒に犬が鶏小屋に入り、鶏を追い回した。犬に追われた鶏は大騒ぎとなり、内何羽かは鶏舎の外に飛び出して、後が大変だった。従ってこの様な出入り口には、人は指一本で簡単に操作出来るが、犬では操作が難しい構造、即ちDetailが要求される。私は試行錯誤しながら、何度も掛け金を交換して今に至っている。
然しAboutな仕事も又多い。草取りもそうである。周りの農家は何れも所謂慣行農業で、化学肥料と農薬を使う。彼等は何故か雑草を目の敵にして枯れ草まで完全に焼却し、畑には野菜以外草一本無い状態を好む。これは一見理想的に見えるが、実際は殆ど意味がなく、見た目が綺麗なだけである。然し全然草取りをしなければ畑は原野然となり、ほって置くと野菜には日が当たらず、成長も遅れる。従ってAboutでも良いから、早目に取る事が肝心である
然し人間、分かっていても中々出来ないものである。私はドアロックの様なDetailが要求される箇所をAboutで済ませて問題を起こす一方、晴天続きだった9~10月、Aboutで良かった除草作業を1日延ばしにした。その代償は大きく、急に雨が多くなった11月、雑草が急激に繁茂して、野菜がどこに在るのか分からない畑にしてしまった。
私は思い出した。サラリーマン時代、さして重要でない回覧書類は、毎日てきぱきと処理する一方、上司から頼まれた重要案件の処理は、1日延ばしにしていた事を。そして私は思う。若しあの頃“AboutとDetail”“優先と後回し”を逆にしていたら、私の今日は今とは相当に違っていたかも知れないと。終わり


Motivation(2)

別ブログ“Motivation”で取り上げた元部下の女性Yさんが、先日久し振りに我家に遣って来た。何でも9月末日付けで会社を退職したとの事である。私はびっくりすると同時に、聊か勿体無いと思った。何故なら“あれだけ”頑張れた人なのだから、仕事を続ければ前途は極めて明るいと思ったからである。
聞けば以下の様だった。私が同社を退職した6年前頃から、彼女は職場を2~3箇所転々とし、最終的には工程管理部門で数年間仕事をしたとの事だった。工程管理とは、社内の営業部門や代理店/特約店と、工場の生産ラインとの生産情報の橋渡しを行う部門である。半導体の場合は製造工程が多いので、工期も非常に長い。工期とは受注を受け、生産計画を立て、ラインにウエハを投入してから、製品として集荷するまでの期間(通常日数で表わす)を言い、短いものは1ヶ月位から、長いものでは2~3ヶ月に及ぶ物すらある。然し、中にはそんなに待てない顧客も居る。その場合は、途中まで加工した製品を、特定顧客向けに変更して振り向ける事も出来るようになっている。その調整を図るのが、工程部門の主な役割である。従って従来から工程管理部門には、生産現場の班長やリーダ経験者が多く、彼等は勝手知った出身母体の後輩に「何々を何時まで完了しろ」等と“所謂”圧力を掛けて、顧客の無理な要求に対応する例が多く見られていた。
然し彼女は、私の部署で長らく日課担当をしていた女性で、当時から仕事はてきぱきと捌けたが、現場経験は皆無だと言っても良い。従って、現場に対して顔が利かないばかりか、数え切れない程多種多様のチップから工程、パッケージ、はたまた製品ランク(性能=ex.スピード)まで頭に入れて、百戦錬磨の営業マンと、一筋縄では行かない現場を取り持つのは、想像しただけでも至難の業だと思える。聞けばそんな中で、彼女は“年季”よりも“熱意”を武器に、ひたすら頭を下げてお願いする事で、道を開いたらしい。成程そうかもしれない。私が知る当時の工程マンの仕事スタイルは、椅子にふんぞり返って、延々と電話していた姿が先ず目に浮かぶ。然し自ら現場に足を運び、責任者に頭を下げて懇願する女性に、現場担当者が動かされたとしても、決して不思議ではない。彼女は自工場のみならず、遠くは四国や関西まで出張してまで、お願いをしたとか?お陰で、並み居るベテランをも超える営業部門からの信頼を受け、最近では「工程部門になくてはならない人」になったらしい。そしてその人の突然の退職の報を聞いた時には、態々関西から複数の役職者が来て慰留したり、方々の部署で何度も送別会が開かれ、累計200余名の人々が別れを惜しんで呉れたとか。
私はその夜、行き付けの喫茶店で、ささやかな退職祝いの食事を摂りながら、彼女の話を聞きつつ“ある種の羨ましさ”と自分の退職時の“寂しい想い”を比較せずには居れなかった。私の退職時には、ほんの10名足らずの部下がささやかな送別会を開いて呉れただけで、上司はおろか同僚も、顔すら見せなかった。人はその最後の時に価値が示されると言う。その意味では、文字通り“体当たり”で仕事に臨んだ彼女は、私を遥かに超えた“偉人”だと言ってもおかしくない。然し、私は思い直した。私も少しは“偉人”たる人に“教育”を施したのだから。そして私は「子供の為に学童保育を立ち上げた」とも言った彼女に対して、最後に言った。「貴女は私と違って未だ若い。自治体の議員に立候補して、そのエネルギーを燃焼させてはどうか?」と。終わり


Guarantee

私は30代の後半から40代の前半に掛けて、半導体企業の設備部門を担当していた。当時の日本経済は、頗る好調と言って良く、設備投資も又盛んだった。そんな経済環境の下では、企業には始終顧客からの注文と納期督促が舞い込み、増産の掛け声が高くなる。従って、設備投資の前に、先ず既存設備での、可能な限りの生産増を要求される。それには、大きく分けて2通りの方法がある。一つは人員を多く付けて、人待ちに拠る停止時間を減らし、稼働時間を増やすこと。もう一つは設備自体の故障を減らし、稼働率即ち生産性を高めることである。
私の部門の使命は後者だった。半導体生産設備は一台数千万円から数億円と非常に高価な一方、機構が複雑で定期点検や消耗・故障による停止時間も多かった。然しそれは満遍なく起きるのではなく、特定部位に多く発生する。即ち其処は消耗部位なのである。従って、装置毎に消耗する部品を予め保持し、一定時間毎に交換せねばならない。丁度プリンタのインクやトナーみたいなものである。
私は其処に目を付けた。半年余りの現場実習のお陰で、生産現場で稼動している装置の概要と、凡その問題点を把握する事が出来たからである。私が目を付けたのは、設置台数が多くて、然も故障停止が頻繁に発生する米国製のある装置だった。この装置は、ベルジャーと称する大きな釜の中を真空状態にしてプラズマ放電を起こし、半導体基板(ウエハ)に薄膜を生成させる装置である。処が一寸したウエハのセットミスやゴミの所為で異常放電を起こして、この装置は停止する。するとメンテナンス担当者が来て、長時間掛けて分解清掃をしなければならない。その間その装置は停止し、生産が滞る。この問題は治具が古くなるに従って頻繁に起きる様になり、慢性的に生産性が低下する。
この問題の抜本的改善策は、治具を新品に交換する事である。然し現場では、一個数十万円もするその治具を、予め買って用意する事までは出来ていなかった。其処で私は、このベークライトとアルミで作られた治具を自部門で作ることを考えた。然し私の考えに、現場のメンテナンス責任者は激しく反発した。そんな“まがい物”ではギャランティ (Guarantee)が出来ないと言う。私は先ず、彼の言う“単語”に驚いた。現場の人間が“難しい英語”を使ったからである。然し直ぐに謎が解けた。装置メーカが予てより、現場担当者に純正品を使わせる為に連発していた単語なのである。即ちそれはメーカにとっても、最も注文が寄せられる部品であるから、常時供給体制を整えている。然し、それをメーカから買ったのでは足元を見られ、その経費も馬鹿にならない。
私は破損して使われなくなったその治具を借り受け、親しかった地元業者に貸し出して、図面化させた。そして樹脂メーカから材料を取り寄せ、加工して試作品を作り、その現場の課長に見せた。その時の課長の驚きを私は今も忘れない。「これ本当に貴方が作ったの?」それは本物即ち純正品と、色も形もそっくり。一目見ただけでは区別が付かないほどの出来だったからである。然もその課長はその価格に又驚いた。それは数万円と、純正品の1/10程だったのである。その課長はその場で、メンテナンス担当者を呼び、直ちに評価するように指示した。結果は勿論問題なし。その後私の許には、現場より様々な治具の製作依頼が来るようになり、この類の仕事(部品内製化)が主要業務の一つに加えられた。
私はその数年後出向となって、この部品材料を提供した中小企業の社長と親しく語る機会を得た時、彼は言った。「他の半導体企業にとって、あの位は朝飯前。もう一桁高価な部品の試作依頼がどんどん舞い込んでいます。そしてその場ではGuarantee等という言葉は一度も使われません」と!
私は思う。今中国では日本製品と形がそっくりばかりか、ブランドまでも似せたまがい物が幅広く出回り、国際問題になっている。然し、これはわが国が嘗て辿った道でもあるのだ。その証拠に、私が新入社員の当時、最初にやらされた仕事は、技術提携先米国W社図面の模写だったのである。終わり


新聞と読書

小学校の教科書は、1年から進級するに従い、少しずつ字が小さくなる一方、漢字が多くなり、又内容も高度になる。私が小学生の頃、我家では朝日新聞を取っていた。今もそうだと思うが、当時から当地では、朝日新聞の読者は少数だったと思う。それは内容がやや堅く、体制批判的な記事も多かったからかも知れない。然しそんな事は、当時の私にとってはどうでも良かった。何故なら、新聞が読めなかったからである。
然し5、6年生の頃から、少しずつ読めるようになる。特に夏休みの宿題に、毎日の天気や温度を書くようになると、天気欄を見るようになり、その他の紙面にも興味が出て来る。恐らく小6か中1の頃だろう。突然新聞が読めるようになった。それは多分夏休みの朝だった。玄関の間で、寝転んで漫然と新聞を見ていると、その内容が凡そ分かるようになった。すると次々と興味が湧いて来て、遂には全紙面をくまなく読むようになった。夏休みなので、時間はたっぷりある。朝から昼頃までかかって、朝日新聞の全紙面を読破する。これは当時の私にとっては、画期的な事だった。当時は勿論TVはない。有るのはラジオのみである。然し、記憶に残っているのは「話の泉」と「浪曲」位のものである。新聞が読めると云う事は、世界が急に広くなる事を意味する。私は毎朝新聞を読むのが楽しみになり、どんどん深入りして行った。
然し、読書についてはそうは行かなかった。我家の二階に有る二室の書棚には、先祖が集めた本がぎっしりと詰っていた。その質と量は圧倒的で、本の重みで梁が曲がり、下の寝室の障子の開け閉めが出来なくなった程である。然し、私はその部屋で中学・高校と勉強したにも拘らず、読書には今一つ熱が入らなかった。その原因は、多分新聞記事から得られる情報と、本から得られる情報との相違ではないかと思う。詰り、新聞記事は社会情勢の縮図とも言える一方、書籍は文学に代表されるように虚構が多い。私は同じ文字情報であっても、社会や科学に対してより興味を持った。その証拠に、我家の蔵書の中で、私が最も興味をそそられたのは、人体解剖図だった。書名は忘れたが、その本には男女の裸体と性器の構造、精子や卵子の働き、妊娠から出産までの胎児の成育等々、詳細な毛筆描写(?)付で解説されていた。私はその当時、我を忘れてその本に見入ったのを思い出す。当時学校では、性教育と称して、未熟なテキストで、馴れない教師が教えていたが、我家のその本は古いながら、遥かに詳しく又分かり易かった。一方当時は図書館に入り浸って読書にふける生徒も多かったが、私はそんな生徒には属さなかった。中学では図書館の記憶すらないし、高校でも僅かにリビングストンとスタンレーのアフリカ探検記を読んだ記憶位しか残っていない。それより気になったのは、モンローウオーク張りの某司書の方だった。
私はそれから約20年後、出張で米国ワシントンのスミソニアン博物館に立ち寄った。其処の長い廊下には、数十体にも及ぶホルマリン浸けの胎児が、その成長過程が手に取るように分かる様、順に並べてあった。私は2週間に及ぶ米国出張で、此処が一番印象に残ったし、その中でも、あの原爆を落したエノラ・ゲイよりも、瓶詰めの胎児に興味をそそられた。そして当時、こんな展示をするアメリカはやはり凄い国だと思った。私は思う。私が本当になりたかったのは、医者だったのかもしれない。終わり


青臭さ

一昔前、政治の世界で田中派が幅を利かせていた頃、その対抗勢力を目指して、山崎拓、小泉純一郎、加藤紘一の頭文字を取ったYKKというグループが結成された。この3人は現在も存在感がある政治家で、時折ニュースにも出ている。私はこの中でも、加藤紘一氏が一番好きである。氏の後継者の谷垣禎一氏が、消費税増税という分かりやすい理念を掲げて、先の総裁選に立候補し、敗れて閣外に去ったのは記憶に新しい。
その加藤紘一氏は、橋本政権の時には幹事長を勤めたこともある程の人なのに、森内閣の不信任案に同調して否決され、一時は野に下った。その後、不祥事にも巻き込まれ、先頃は自宅まで放火され、正に泣き面に蜂の有様である。然し氏はその風貌に似合わず、意外にしぶとい面を持ち合わせているように思う。何故なら大抵の人は、打続く不幸に遭うと、自暴自棄になるか気弱になって、当たり障りの無い道を選択し勝ちである。然し氏は異なる。仲間がどんどん離れて少数派になっても“青臭さ”を失わず、我が道を歩まれているように思えるからである。
私は、加藤氏の発言の中で最も感心したのは、インフレそしてバブル全盛期の頃、近い将来にデフレの時代が来ると予言されていたことである。氏はその理由として中国をはじめとする発展途上国の興隆を挙げられていた。そして、正にそれが今起きている状況ではないか。数多い政治家の中で、あのように明確に、将来を予言出来た政治家はそう多くないと思う。先の事は分からないとか、一寸先は闇だとか、見通しが利かない人に限って、したり顔で言う。然し人間、中でも政治家にとって、何が一番重要かといえば、私は未来を正しく見通す力だと思う。
私は勿論加藤氏に比べるべくもない、一介の人間でしかない。然し生涯で唯一度だけ、10年余り前の約1年間、日台独3ヶ国の半導体工場立上げに関わるプロジェクトリーダを任されたことがある。その時の私の旗印は、聊か“青臭い”「準備・安全・清潔」即ち「Preparation/Safety/Clean」であった。当時私が是に込めた想いは、それまでの外部業者任せの体制から、社員が主人公になり、名実共に責任を負う体制への全面転換であった。その当時の上司は、私を信頼して任せて呉れたが、他の幹部からは様々な異論・反対が鳴り止まなかった。「経験もない人間が指揮をとったら、取り返しがつかない事になる。どうしてもリーダをやりたいなら、形だけの指揮者になり、実質は経験豊富な業者に任せろ!」と言われた。彼等は私が失敗して、自分の身に責任が及ぶのを恐れたのである。然し私は引き下がらず、指揮権を手放さなかった。成功する確信があったし、万一失敗しても全ての結果責任を取る積りだった。リーダが理念を掲げ、分かりやすい方針の下に指揮すれば、例え経験が乏しい部下であっても、懸命に協力してくれるものである。そしてこの事こそが、外部業者の経験や知識をも有効に生かす事になり、プロジェクトの成功に繋がる。実際にプロジェクトは大成功し、反対者は口を噤んだ。
今の時代、政治も教育も問題多発である。その原因の一つは、事が起きるまで何もせず、起きてから色々言う政治家や、教育責任者が多すぎることにあるのではなかろうか?既に述べた如く、加藤氏の賭けは失敗し、私の賭けは成功した。然し、それは偶々の結果であって、例え“青臭い”と言われ様とも、事態を変えようとする“意気”こそが、重要ではなかろうか?その意味において、政治家や教育責任者は、問題が起きる前に自ら泥を被る覚悟で、事に当たって欲しいと思う。終わり


生命保険

あれは私が大学を卒業した昭和44年の春休みの事だった。我家の座敷にM夫人が座って母と話されていた。M夫人は私の同級生K子さんのご母堂(故人)で、ご主人は後の長寿会長(別ブログで述べた桜並木を作られた方)、長女(K子さんの姉)は現在熊本県副知事夫人である。後に私も座敷に呼ばれ、M夫人から「貴方は2億円の価値が有ります。従って今から生命保険に加入すべきです」と言われた。私は途方もない金額に驚愕すると共に、未だ初任給も貰っていない身分で、生命保険加入は早すぎると思ったが、余りの熱心さに母も渋々承諾した為、N社の生命保険に加入した。勿論掛け金の支払いは私で受取人は母、保険金額や満期は忘れてしまったが、これが私の保険の始まりであった。
それから8年後、就職・結婚して30歳になった私は、目出度く主任(後の主事)に昇格し、部下も2人付いていた。その頃から、M社の小母さんが昼休み、しつこく私に付き纏うようになった。(M生命は同じ企業グループだった)小母さんの台詞は、地位に相応しい保険に加入すべきとの事だった。私は(N社の保険で)十分だと言い張ったが、小母さんは承知せず、何時までも私に付き纏った。そしてとうとう私は屈服した。小母さんは、N社の保険は支払いを凍結して、新たに自社の保険を買えと奨めた。然し私は敢えてそれを解約した。8年間納めた保険の中途払い戻し金は確か30万円程度で、その頃買った中古車の代金にも満たなかった。一方、新保険の掛金は一挙にそれまでの2倍以上に跳ね上がり、満期は何と80歳となった。
それから更に8年後、私は熊本に戻り、目出度く課長に昇進した。すると再びM生命の外交員が私に付き纏うようになった。今度は前回よりも更に性質が悪く、私が社員食堂で昼食を摂っている最中に、向かいの席に座り、小道具(腕時計に嵌める月次カレンダー)を渡しては、新たな生命保険への加入を勧誘した。私は昼食の席を替えたり、時間を変えたりして逃げ回ったが、腕利きで鳴らすその主任外交員は、兎に角しつこかった。彼是半年も逃げ回った末、私は又しても根負けした。勧誘の台詞は似たようなものだったが、失敗した前回の轍を踏まないよう、今度は従来保険の切り替えではなく、家内を被保険者に、新たな保険を買わされてしまった。今度の満期は終身であった(家内が存命中は満期にならない)。
それから更に10年後、私を受入れて頂いた出向先の専務のご子息から、新たな生命保険の加入を奨められ、娘を被保険者に、義理で3つ目の生命保険に加入した。然し、その後数年をして私は退職する事となり、支払いも娘本人に代わって貰ったが、娘は程なくしてそれを中途解約した。
今、ニュースを賑わしている話題の一つに、保険金の不払い問題がある。私はそのニュースを聞く度に思う。過去40年近く延々と保険を掛けてきたのに、外交員に勧誘された保険で役に立った(保険金を受け取った)記憶がない。それは被保険者の意思ではなく、保険会社の都合(=被保険者の支払い能力対応)で加入させられたからであろう。そして皮肉にも、唯一役に立ったのは、あの小泉前首相が眼の敵にした、郵政省管轄の簡易保険なのである。然し私は考え方を変えて、家族に不幸がなかった為だと、良い方に思うようにしている。終わり


タラレバ

「タラレバ」という言葉が有る。これはあの時・・・だったら今頃は・・・とか、・・・してれば今頃は・・・だったとか、過ぎ去った事柄について、あれこれと悔む事を言う。然し人生は一回しかない、やり直しの出来ないゲームでもある。最近は結婚や離婚を何度も繰り返す人も少なくないが、一生に一度しか出来ない人が殆どである。
私は結婚して既に34年、今迄の人生の半分以上を家内と共に生きてきた。その間に色んな出来事があったが、良い事も有れば悪い事も有るのは、どの夫婦でも似たり寄ったりだろう。然し、それに対する反応は、各人で違う筈であるし、夫婦間でも当然異なる。私は何事についても、済んだ事柄に対しては仕方ないと思い、余りくよくよしない性格である。その代わり、未来については大いに悩み、今も中々見通しが利かず、結論を出す事が出来ない。一方家内は、未来に対しては殆ど悩んでいない様だが、過去に付いては何時までも拘る。例えば金銭面で、私が不良品を買ったり、高い買い物をしたり、値上がり前に資産を売却したり、出入りの業者に騙されたりした事を。然し、済んだ事柄に対して幾ら悔んだところで、事態が変わる筈もないし、不毛な論議になってしまうのが落ちである。そんな余裕があったら、再発防止策でも考えようと私は提案するが、未来の事柄については、家内との話は殆ど進展しない。
私はこのすれ違いの原因について考え「思考パターンの個人差」という結論に達した。家内はこれまで長い間主婦業が主体だった事もあり、生活パターンに幾らかの変動は有っても、概ね定型化していた。それに対して、私はサラリーマン時代に幾つかの大変動に見舞われ、先が見えなくなった事が何度か有り、退職後はそれこそ自分で道を開くしかなかった。従って家内は過去から現在に至るまで、日々の業務をどう効率化するかが主題で、未来を予測する必要をあまり感じなかった様だ。一方私は、例えば農業についても、毎日の業務マネージメントも重要だが、それは一刻を争うような事態ではなく、翌日に延期しても余り差し障りはない。然し現時点の行いが、翌月、翌々月、または翌年以降に、大きな影響を及ぼす事もある。従って、未来を予測して行動する事が、とても重要である。
この夫婦間のすれ違いを、私は今迄どちらかと言えば否定的に捉えてきた。然し、最近は肯定的に捉えようと思い始めている。即ち人生においては、過去も現在も未来も共に重要だからである。即ち、明日の未来は、明日には現在となり、明後日には過去となるからである。そう考えれば、似た者夫婦が能天気な未来語りをするよりも、互いにかみ合わない自説をぶつけ合う我が夫婦は、余程健全なのかも知れない。
そして私は性懲りも無く、昨日開かれた高校の同窓会で、家内が事前に振り込んだ事も忘れ、当日会費を払ってしまい、昨夜も今夜もこっ酷く詰られてしまった。人間は変わろうと思っても中々変われない。それを見透かすように、今夜のTV番組(嬬恋ライブコンサート・アンコールアワー)で、あの吉田拓郎が、何度も何度も熱唱していた。“私は今日まで生きて来ました!そして私は今思っています!明日からも生きて行くだろうと!”終わり


PTA会長

私が中学校のPTA会長を仰せつかったのは、20年程前、丁度中国で天安門事件が起きた年だった。或る夜突然、当地区の男性2人が我家を訪れ、PTA会長を引き受けて欲しいと云われた。私は当時課長になったばかりで多忙だったので固辞したが、2人は意を決して来たらしく何時までも引き下がらなかった。当地区は6校区の小学生が同じ中学に進学する。従ってPTA会長は、各校区の輪番制となっていて、残りの5校区からは副会長を出すシステムだった。そしてその年は丁度、我が校区が会長の当番に当っていた。私の子供は当時、長女が中3、次女が中1だった。私はそれまでは学校活動には殆ど縁が無く、小学校のPTA活動も家内に任せきりだった。説得と固辞の堂々巡りが長時間に及び、遂に根負けした私は「副会長の全面的協力」を条件として受諾した。そしてその翌日、私は上司に了解を得るべくその事を報告した。上司は、社業に差し障りを来たさない事を条件として了解された。そして意外な顔でぽつんと云われた。「貴方は名士なんだね!」と。
それから一年間、私は自分が甘かったことを思い知る事になる。つまり会長は挨拶要員みたいなもので、何でも5人の副会長に任せれば良いというのは大きな間違いで、副会長には会長の部下との意識は殆ど無く(互いの面識もなく、私が指名した人でもないので或る意味では当然)殆どを会長に任せ、自分は名前だけ出していると云う感じだったのである。然も何名かの副会長は女性(母親)で、仕事を持っている人も多かった。毎週の様に、色んな行事や会議の通知が来る様になった。然もその殆どがウイークデーの昼間である。最初の頃は真面目に出席していたが、上司への気兼ねもあって流石に気が咎め、段々と欠席が多くなって行った。(行事の大半は市又は教育委員会主催で、会長及び母親部長宛だった)然し、年間トータルで毎月2回以上は出席したように思う。
学校内外の問題点を協議する場も幾度か有った。PTA担当の教頭先生はとても真面目な方で、何でも私に相談された。備品購入の予算不足が一つの問題だった。そして事務職員が明かした処によると、一部を無断でPTA会費から流用しているとの事だった。私は、改めて欲しいと意見を述べた。今なら廃品回収とか色んなアイディアを出せたのに、当時の私はそれを持ち合わせなかった。通学路の交通事故対策も課題だった。私はこれにはアイディアを出した。それは会社でやっていた「ヒヤリ・ハット対策」である。生徒や保護者からそれらの事例を収集し、重点地域を決めて対策を施せば良い訳で、教頭先生が乗り気になられ、早速実施に移された。危ない箇所にカーブミラーや徐行の看板等が付いた。
挨拶の場面も何度か有ったが、体育祭の時は「天安門事件」卒業式の挨拶は「バランス感覚」について言った事位しか記憶にない。然し年度末のPTA総会での出来事は、今も忘れられない。その頃になると漸く会長の私にも、保護者から幾つかの情報が寄せられるようになっていた。苛めの問題もあったが、或る母親から寄せられた要望は部活に関する事だった。「自分達は共稼ぎで、帰宅が遅くなることが多く、子供の事が心配である。だから放課後も部活を確りやるよう学校に指導をお願いして欲しい。」と云う内容だった。私は至極最もだと思い、それを総会の場で述べた。すると、ある女教師が突然立ち上がり、目を吊り上げてキンキン声で私に反論した。「貴方は学校の事が全然分かっていない。教師がどんなに忙しい毎日か、そして自分達の生活もある事を!云々」私はたじたじと成り、引っ込むしか無かった。然しこんな教師は、残業手当が付かない仕事はしないという「一般労働者」と何が違うのだろうか?多分日教組の組合員であろうが、之では子供が可哀相。親御さんには面目なく思った。
私は思う。安倍新政権の重点政策に教育改革があり、文部大臣が今朝のTV番組で、その必要性を熱っぽく語られていた。私は「教師=聖職者」との考えであり、あんな自己犠牲の精神が微塵も無く、賃稼ぎ的感覚の教師こそ、徹底的に再教育して頂きたい。終わり


台湾の心(その二)

台湾の事を話せばきりがない。当地のタクシーは殆ど白タク、勿論料金メーターは付いていなかった。乗る時に行き先と料金を交渉する。狭くて混んだ道を猛スピードで飛ばすし、信号は守らない。前を見ていると次第に気持ちが悪くなる。そうかといって、横を見れば凄いバイクの洪水。2人乗りは普通で、3人乗りも珍しくない。当然、交差点では彼方此方から車が進入するので、身動きが取れない状態となる。交通整理の警察官が居ても赤信号でも、彼らは平気である。一見こんな状態では、にっちもさっちも行かなくなりそうだが、互いの阿吽の呼吸か、何とかして前に進むから不思議だ。そんな交通事情の中、道路を横断するにも日本とは違うルールが有る。日本では普通青信号か、車が止まってから横断を始める。処が当地では、何時まで待っても車は止まらないし、信号無視だから青信号でも車は途絶えない。然し、意を決して横断を始めると、自然に車が止る。これが最初は中々出来ない。友人によれば、横断者は一定スピードで歩く事、走ったり止まったりすると却って危険である。何故なら車のドライバーが、歩行者とのタイミングを計れなくなるからだ。
食事も、他の東南アジアと同様に外食文化の国と言って良い。ホテルの食事は高いので、慣れるに従い街に出て、レストランや屋台に行くようになった。何処の食事もとても安いし、美味しいし、何でもある。街頭のオデン屋で食べたり、労務者が利用するような店にも行った。此処は大変面白いシステムだった。所謂バイキング方式で、好きなものを採って最後にレジに行くと、秤に載せられる。重量制らしく、私の食事は山盛りで何と約50円だった。勿論ご馳走とは言えないが、これでも何とかなる。日本ではとても考えられないことである。
長く現地に居ると、当然髪も伸びる。理容店を聞いたら上中下3段階があるとの事。私はホテルフロントの紹介で、毎回中クラスを利用していた。内容は日本とほぼ同じで有る。然し一度だけ街頭の理容師のお世話になった。所謂下のクラスである。店は開け放しで、鏡の前の椅子に座らされ、年配の小父さんが、いきなりバリカンで散髪を始めた。勿論髭剃りもシャンプーもなかったが、料金は驚く程安かった。(私はドイツでも下のクラスを体験した。黒人理容師で内容は台湾並みだったが、髪の毛が体に入ってチクチクした)上のクラスも体験したかったが、高いと聞いたので止めた。何でも散髪の他にも色んなサービスがあるらしい。
カラオケは代表的な日本文化だが、今では広く世界に広がっている。当然台湾にもあった。然し、歌詞が中国語(オール漢字)なので残念ながら読めない(読めても発音が違うので歌えない)。然し、良くしたもので、日本人向けの店もある。私は息抜きに、パートナーだった貿易商社の人と何回か行った。
ある日、出張で来ていた我社の男が、某レストランでトラブルを起こし、現地人から暴行を受けて負傷する事件が発生した。この後、社内では色々安全対策が協議され、単独行動は極力避けるように通達されたが、私の意見は違っていた。集団行動でも、言葉の通じない日本人だけでは、トラブル発生時にエスカレートし易く、却って危険である。むしろ単独行動の方が、相手に警戒心を生まないので安全。然し最も安全な方法は、現地人と一緒に行動することである。その証拠に私は台湾での半年間、一度たりとも危険な目には遭わなかった。終わり


台湾の心(その一)

私は別ブログ「男の美学」で述べたように、半年間の台湾出張ですっかり台湾ファンになった。それには幾つかの理由がある。先ず先方の責任者だった資材部長のT氏とのベストパートナーシップが第一。次に同部内でSimonとJerryという若い2人の親友(何れも独身男性)を得た事が大きい。台湾人は殆どの場合、本名の他に英語名を持っている。これは、特に半導体企業は米国企業との関係が深い事と関連していると思われる。林や陳など同姓が多い彼らにとって、英語名を持つ事は、米系企業社員と互いに気楽に呼び合うにはまことに都合が良いからだ。こんなこともあった。この2人ともう一人のベテラン女性と、ロビーでお茶を飲んでいた時の事である。女性が真顔で私に質問した。「貴方は英語が上手(お世辞)だけど、日本の会社に電話しても、相手に繋いで貰えず、切られたりするのは何故ですか?」私は一瞬答えに窮し「日本の会社では、国際電話で話す機会が少なく、びっくりして切ってしまったのでしょう。」と苦し紛れの答えをするしかなかった。現に「英語が話せる」というだけで、派遣社員をいきなり正社員に登用したりする例を知っていたからである。然し、彼女から見れば、尊敬する一等国の日本企業に英語が通じないことは、どうしても理解出来ないようだった。
Simonは情報が専門だった。私は当初現地にパソコンを持ち込んでいなかったので、何かと不自由だった。そこで彼に頼んで自席にデスクトップパソコンを設置してもらった。然し、英語と中国語環境では日本人は使い難い。やはり日本語環境のものが欲しかった。そこで休日に態々台北で開催中の見本市に連れて行って貰った。そこは大変な人だかりで熱気に溢れていた。私はそこで現地のAcer製ノートパソコンを買った。特にインターネット環境が今ほど整備されていなかった当時、私は上司にホテルから毎晩FAXでレポートするのを日課としていただけに、何処へでも持ち歩けるノートパソコンは真に便利だった。私はこれをドイツまで肌身離さず持ち歩き、業務は大いに進むことになる。
一方Jerryの専門は半導体資材だった。彼は早出して仕事している私に、安くて美味しいマントウ(日本の肉饅)やギョーザを買って来るような親切な男だった。そしてある日、数人の仲間と共に私を自宅に招いて呉れた。彼らは日本人と異なり、独身であっても若くして親から別居、原則としてローン付の家を購入する。台湾の家は独特である。通りに面して鉄格子と内側の扉がある。当然2個の鍵を開けないと中に入れない。そして居間の正面には大きな仏壇が有り、沢山の菓子や果物が備えてあった。彼等は予め買い込んだ食材で、素早く中華料理を作り、私を賓客としてもてなして呉れた。
当時は、中国が軍事演習と称して基隆沖にミサイルを数発撃ち込み、台湾は予備役を動員する一方、米国は台湾海峡に空母を派遣して、国際情勢が緊迫していた時期でもあった。一部の日本人は危険を感じて引き上げる動きもあった。私はこの問題について敢えて彼等の意見を聞いた。年配の誰かが答えた。「あれは単なる脅しで、決して本気ではない。だからちっとも恐くない。」私はその理由を聞いた。「自分達は大抵大陸に親戚が居るし、頻繁に行き来している。台湾を破壊して困るのは彼らの方だ。然し昔の本省人(国民党員)は恐ろしかった。或る台湾人は錘を付けて海に沈められた。」「成程そうか!」あの小さな島に、本省人、台湾人、高砂族等、多様な人々が暮らしているのだ。その証拠に、軍隊経験を持つ施設課長は、何と6ヶ国語(北京・福建・広東・英・日・高砂)を操るスーパーマンだった。私は二人の友人を得た事で、台湾人の心を次第に理解出来る様になった。
当時何人かの日本人は、休日に奥さんを呼び、台湾観光をする動きもあった。私の上司もそれを薦めて呉れたが、私は敢えて家内を呼ばなかった。その代わり旧正月の期間、私は敢えて帰国せず、この二人に台北・基隆観光に連れて行って貰った。雨に煙る基隆港から、ミサイルが打ち込まれた北の海を眺めた当時の景色や、彼等の暖かい心を、私は今も忘れる事が出来ない。
私は思う。新聞やTVで報じられるニュースや論評だけでは、複雑な国際情勢は理解出来ない。本当に理解する為には、彼等と真に親しくなることが必要である。それには単身裸で飛び込むしかない。終わり


男の美学

我家の川向こうの小高い山の頂に、今も先祖伝来の墓が25基程存在している。この地は良質の山砂の産地で、彼方此方の山が次々に削り取られ、ダンプカーで山砂として運び出され、平坦化しつつある。何でも近くの港から韓国へも輸出しているとか。我が墓山もご他聞に漏れず、母が数十年前、ある土建屋に乗せられて130万円で売却してしまった。然し伯父が墓の移設撤去を頑として承知しなかったので、結局工事着手が出来ず、私の仲人に中に入って貰って、20年程前に買い戻した。解約交渉の時は、元村長とか言う社長にちょっと凄まれて恐かったが、何とか穏便に解決した。
その墓地の中央に「徳永励吉の墓」という一際立派な墓石がある。他の墓石には殆ど夫婦が記名されているが、これだけは単独である。この人は東大文学部哲学科で“美学”を専攻中、結核を患って他界したらしい。彼は祖父の弟に当り、祖母が嫁いで来た当時は、家族全員が彼の将来に未来を託し、節約を重ねて学資を送り続けたとか。だから死去した時の一家の落胆は大変なものだったらしい。父も又53歳という若さでこの世を去ったが、晩年のアル中の為に聊か晩節を汚した嫌いがある。然しこの二人を除けば、押し並べて我が家系は長寿である。祖父母と母、伯父は何れも74~5歳で亡くなった。私も突発事態か、ガンにでも侵されなければ、この位までは生きられるのではないかと考えている。残り15年である。この15年を如何に生きるかが、今私にとって最大の命題である。
サラリーマン時代の私は、幾度も転勤・転任・転職をした。中で長かったのは入社した静岡の12年と、転勤後の熊本での12年である。勿論その中での小さな移動はあったが、10年を超えると流石に弊害が大きくなる。特に管理職として同じ職場に長く居座ると、人事が固定化し、新しい人材の発掘や台頭の機会を潰してしまう。私の場合もそうで、埋もれた人に対しては今も申し訳なく思っている。
然し一方、短いとどうなるか?台湾の場合がそうだった。私は1995年10月から翌年4月までの半年間に都合6回訪台し、新竹にて半導体工場の立ち上げに携わった。滞在ビザが1ヶ月間なので、毎月一度行った事になる。宿舎は中信大飯店という市中心部の立派なホテルだった。初期の頃は提携先企業の資材部で、たった一人の日本人として働いた。出張で現地に来る日本人は大抵「たった一人ですか?」とびっくりした。殆どの日本人はグループで来て、しかも短期滞在で帰国するからである。しかしそんな業務スタイルでは、決して彼ら台湾人の心を掴む事は出来ない。私の場合は彼らから近付いて来た。言葉も徐々に通じるようになり、最後の頃は余り不自由しなくなった。然し他の日本人はそうは行かなかった。何時までも相互の溝が埋まらず、互いに相手の悪口を言っていた。例えばこうである。彼ら(台湾人)は、仕事が遅れているのに平気で定時退社する。毎日遅くまで事務所に残るのは日本人だけ。実はこれには訳が有る。彼らは定時後は自己研鑽の時間、例えば英会話学校等に行っているのである。そして、ステップアップして同業他社への転職を狙っている。勿論入社試験には英語もある。その為に他社の情報も筒抜けで、私は何と業者から他社の制服を借りて、密かに立ち上げの視察に行った程である。ある店にクリスマスパーティで招かれた時は、同業他社からも大勢来ていて、互いの企業情報は筒抜けだった。一旦彼らと懇意になると、色んな事が分かった。資材部長は私を台湾人の味方だと言った。そして取引を持ちかけて来た。君(私)には名誉をあげよう。私はお金(昇進)が欲しい。こんな会話は余程懇意にならないと出来ないことである。中略
プロゼクトの中盤、私は次のドイツの仕事の為に、後事を資材部長に託して台湾を去る事になった。その前の晩、資材部一同が私の為にお別れの宴を開いて呉れた。其処には殆ど部員全員が来ていて、最後に一人一人が小さなプレゼントを渡し、別れを惜しんで呉れた。私は別れの挨拶の時、思わず泣いてしまった。“惜しまれて去る”という言葉がある。今夜竹中総務相が小泉首相と共に去るとのニュースが流れていた。私のこれまでの人生で、惜しまれて去ったのはこの時の他には思い出せない。終わり


形式認可

私は20代から30代前半までの頃、エアコンの設計エンジニアだった。その担当機種は今で言う業務用・産業用の小型機種で、主な用途は事務所やホテル・店舗・公共施設や工場等だった。家庭用ではなかったが、法律上は家庭用と同じ範疇に属し「電気用品取締法」の適用を受けた。この法律は感電や漏電等による人体への危険や火災等を防ぐ為に、小型(3KW未満)のエアコンを発売する場合「電気用品試験所」に対して事前に、エアコン本体と使用電気部品、その仕様一式をまとめた書類を提出し、型式認可番号を貰い、機種毎にその番号を記した銘板を付けなければ、発売出来ない決まりだった。その型式認可番号は、郵便番号と似た〒1234と云う様なマークであった。企業は顧客要求に沿って絶えず新機種を開発し、一日も早く発売しなければならない。そんな中、この型式認可番号取得は、私にとって結構骨の折れる仕事だった。提出用の本体の確保そのものに加え、使用電気部品の調達や、仕様書作成は常に時間との競争であった。
処が、私の入社数年後から制御技術に電子化の大波が打ち寄せて来たのである。それまでは、制御は古典的なリレー(継電器)を組み合わせた方式が一般的だった。この方式の制御回路設計は、機械屋の自分でも十分可能だった。処が、回路が電子化されると機械屋では全く太刀打ちできない。専門の電気屋がハードウエアに加えてソフトウエアをつくり、それを電子回路(初期はディスクリート回路で後にマイコン化された)に記憶させるのである。
処が、この頃から変な事が起こり始めた。と云うのは、当の電気用品試験所(当時の通産省管轄)が、電子回路を含む機種ではなく、従来のリレー回路を使った機種で、型式認可の受験をして欲しいと言って来たのである。企業は困った。発売機種は様々な顧客要求を満たす為に、電子化は必須なのに、それと違った受験専用の機種までも二重に用意しなければならなくなったからである。
どうしてこんな事が起きたのだろうか?多分これは、電子化された機種では設計者以外は理解できない部分が多く(これをブラックボックスと言う)、試験管が判定出来なくなったからではなかろうか?それまでの検査でも主に指摘されるのは、リレーの接点の材質とか絶縁距離、コイルの絶縁皮膜の厚さ等々、機械的、材料的問題であった。然し、実際に発売する機種と異なる、受験専用の機種で合格しても、法律の主旨である安全確認が出来るとはとても思えない。それでも今まで数十年間、大きな事故が起きなかった?(その後私は担当を外れたので実情を知らない)のは、正に幸運と言うしかないだろう。
最近某社のガス湯沸かし器で多くの事故が発生し、貴重な人命が失われたニュースがTVで連日報道されている。そしてその原因の一つに「現地改造」があると言われている。私はこの事件の詳細は掴んでいないので論評は出来ないが、それとは中身も意図も違う形で昔から、それも官庁主導で改造が指導されて来た事実を、一体どう理解したら良いのだろうか?
法律や制度は一旦出来ると、時代の変化や技術革新に関係なく、一人歩きする傾向がある。そして多くの場合、それに関わる組織や体制の維持が自己目的化し、形骸化し、時代の変化に付いて行けなくなる。昨今問題化している公営プールの安全点検然り!根っ子は同じではないだろうか?官僚や為政者の皆さん!頭を切り替えて現実を直視して下さい。


団塊の世代(その一)

私は昭和22年2月生まれ。団塊の世代の第一期生である。そして愈々今年から団塊の世代の大量退職が始まる。私が物心付いた昭和20年代後半から30年代前半にかけては、未だ戦後の名残が色濃く残り、どの家庭も裕福ではなく、衣食住共に貧しかった。勿論学校給食もなく、皆弁当持参であった。(下名が学校給食の恩恵に浴したのは小学6年の3学期のみ=ブログ「つぐない」参照)その弁当も麦ご飯とおかずは野菜の煮しめ等が一般的で、卵焼きや、ソーセージ、鯨肉等はご馳走の部類に属していた。(当時卵は1個10円=今の100円以上に相当)子供達は自家の貧困を恥じ、特に女子は中高生の頃まで、弁当の上に蓋を被せて、隠しながら食べていた。衣服とて同様である。私は着た事はなかったが、大半の男子児童は学生服ならぬ、霜降の国民服?を着ていた。それも肘や膝には繕いの跡が生々しい、兄からのお譲りである。衛生状態も悪くて、蚤や虱は何処にも居た。時々は学校でDDT粉末の散布があり、女子が髪を真っ白にしていたのを覚えている。又寄生虫も多く、回虫や十二指腸虫の保持者も多かった。(野菜に下肥を施していたから)
しかし、物質的には貧しかったが、精神的には今より寧ろ健全だった。私は小学生時代、良く友達と喧嘩をした。そしてそれは殆どの場合「取っ組み合い形式」だった。喧嘩の原因や発端は殆ど記憶にないが、他愛ない事だったと思う。押さえ込んだり、逆に押さえ込まれた記憶は今も頭と体にはっきり残っている。そして、当時の喧嘩には一定のルールがあったように思う。即ち「押さえ込み」で勝負あり!それ以上は決して深追いしなかった。つまり首を絞めたり、拳骨で殴ったり、刃物を振り回すことはなかった。従って、私は喧嘩で擦り傷以上の怪我をした事はない。これはとても重要な事である。大人になって不幸にも他人と争った場合、限度をわきまえ、ブレーキをかける事は、何をおいても重要な事である。我々は皆それを子供時代に体で覚えた。
それがどうだろう。現代は小中学校で信じられない様な血生臭い事件や事故の連発。何時しか、体罰や喧嘩がご法度となり、学校は本来平和になるべきが、実際には逆行。これは、人間が生来持つ動物的闘争本能を無理矢理押さえ込んだ結果、ブレーキのかけ方が分からなくなり、時々異様な形で噴出する現象ではないだろうか?
又、我々団塊の世代は絶えることなく、厳しい競争に晒された世代でもあった。勝ち負けがオープンにされた。それが良い意味での競争心を煽り、勝てば喜び、負ければ悔し涙を流し、リベンジを誓った。学生時代は成績での競争、就職してからは昇進での競争であった。そしてそれをエネルギーに日本は大きな経済発展を遂げ、我々団塊の世代は勝者も敗者も程度の差こそあれ、押し並べてその物質的恩恵に浴した。然し生活は豊かになったが、我々は後世に残すべき貴重な化石燃料(特に石油)の過半を消費してしまった。(オイルピークと言って、原油の生産は既に峠を越し、今後はなだらかに下降線を辿るとか?昨今の原油価格の高騰を聞くにつけ、現実味を覚える)今後の技術革新で、様々な代替エネルギーが開発されても、過去の様に湯水の如くエネルギーを消費出来る環境は、再び二度と来ない様な気がする。
我々団塊の世代はその第4コーナーでリストラに見舞われたことで、私はそれがなかった10年先輩を羨ましく思った事もあった。(昭和10年前後生まれの世代は、殆ど全員がハッピーリタイヤだった)然し10年先輩は幼少の頃、戦争の惨禍を潜って来ているが、我々にはそれがないのだ。そうだとしたら、一体こんな幸せな世代は人類の長い歴史の中で、過去あったのだろうか!そして今後再びあるのだろうか?多分過去も未来もないのではないか?この「類稀な幸運の星の下に生きた団塊の世代」は、残りの時間を「他世代へのお返しに使うべき」ではなかろうか? 続く


団塊の世代(その二)

私は、堺屋太一氏は好きな作家の1人で、その著書も何冊か読んだ経験がある。昨年の春のことである。私は車を運転中に、偶々カーラジオから聞こえて来た氏の話に引き込まれ、近くの饅頭屋の駐車場に車を止めたまま買い物も忘れて何度も膝を打った。それは今から“団塊の世代の「黄金の10年」が始まる”と称する30分番組だった。その中で氏は、団塊の世代の今後について如何にも氏らしい超楽観論を滔々と述べられていた。
即ち昭和22年~26年生まれ=戦後のベビーブーマー1100万人(全人口の1/10近くで、その内80%はサラリーマン)が2007年から定年を迎える。そして私達の平均寿命は男78歳、女85歳で、退職後18~25年も生きる(生きねばならない)。これは生誕後、成人して結婚する位までの期間に匹敵する長さである。そして我々団塊の世代は60歳からは年金を貰えない。22年生まれの私は63歳から、私より下の世代は64,65歳からである。
然し今、中央官僚の描く退職後の私達の人物像は「勤めも内職もせず家で只ゴロゴロ、地域の事には口は出すが手は出さず、病気がちで医者通いも多く、社会の大きなお荷物になる。お陰で年金や保険の負担ばかりが増し、世の中は活気を失って将来不安は増すばかり」という超悲観的な姿とか。然し氏は「これは全くの嘘っぱちで、悪戯に不安を煽り、増税や保険料を値上げして権限拡大を企む官僚の策謀だ」と一刀両断された。一方氏の描く団塊の世代の人物像は「戦争を知らない。学生運動に青春を捧げ、モーレツ社員だった。リストラをもくぐり抜け、環境変化にも素直に順応出来る。」という極めて前向きの評価であった。そして更に氏は次のように続ける。
人間の歴史は古今変わらず、人生の6割の期間は働いて、子供や老人・病人を養って来た。即ち
①徳川時代~明治時代(人生50年):15歳(中卒)~45歳=30年働いて隠居
②大正時代~昭和前半(人生65年):17歳(専門卒)~55歳=38年間働いて定年
③戦後の昭和時代(人生70年):18歳(高卒)~60歳=42年働いて定年
④21世紀の現代(人生80年):22歳(大卒)~70歳=48年働かないといけない。
即ち「団塊の世代は60歳以後も年金や福祉に頼らず働き続ける」と堺屋氏は断言されていた。但しその中身は、新しい働き方=60歳から70歳までは各々が好きな仕事をする。そして昔の「兼業農家」が理想であると。「兼業農家」は休日は農業で副収入を得、米と野菜は自給、家賃は自宅で只だったから、低賃金の中小企業や、臨時雇いでもそこそこ豊かな生活が出来た。そしてそれらの多くの人々が昔の日本を底辺で確りと支えていた。
今後は、団塊の世代が退職後に実家や田舎にUターンし「年金兼業型農家」が増える。そうなると、会社員時代と違ってストレスは減り、体を動かすので健康にもなる。つまり一挙両得である。勿論その収入は退職前にはとても及ばないが、支出も(通勤費や被服費、交際費等々)大きく減るので、結構豊かな生活を送ることが可能であると。つまり、団塊の世代では殆どの場合、子供は既に独立。住宅ローンも完済。そして次第に親が亡くなり、介護負担が軽減されていく。一方では親からの遺産相続もある。そして既に数年前からの「冬ソナ」ブームはそのはしりで、主役は正に団塊の世代ではないかと!
団塊世代の熟年女性は既に、氏の未来像を先取りし始めているのである。氏の話は、聞けば聞くほど説得性があり、私は何度も膝を打ち、頷いた。確かに官僚の描く将来像には「夢も希望もない」が、堺屋太一氏のそれにはある。
私は思う。人間は本来賢い生き物である。そしてどうせなら自分の余生を生き甲斐のある人生にしたいと思うのが普通ではないだろうか?その結論は遠からずして社会現象として現われるだろう。終わり


会計専門学校

私は大学の3,4年次の二年間、某会計専門学校の非常勤講師のアルバイトをしていた。この学校は、市内中心部のビルにあり、女子生徒が圧倒的に多かった。私の担当科目は数学で、英語はK君だった。最初、学校訪問した時言われたのは「教科書も、指導内容もお任せします」と云う事だった。この学校は、中学校を卒業した生徒が、手っ取り早く実践技能を身に付けて、就職を目指す学校なので、数学や英語は専門教官でなく、大学生のアルバイトに任せていたのである。私は迷ったが、前講師(高校の先輩)のアドバイスを受けて、高一で習う数一(代数)を採用することにした。そして、数ある教科書の中から、最も易しいと思う一冊を選んだ。
授業は思いの他大変だった。雑談が多いのと、質問しても答えられない生徒が大半だったからである。教育で一番難しいのは“教科が苦手な生徒に、易しく教える事”である。特に数学ではxやyと言う記号を頻繁に用いるので、先ずこれに拒絶反応を示す生徒が大半である。私はここを乗り越えないと、先に進めないと実感した。その為に、記号の意味を別の事柄(例えば人間や動物)に置き換えて理解させようと、色んな工夫をした。進度が遅れることも厭わなかった。そして理解度を試す為、易しい問題を出して、生徒に当てさせた。30名程の生徒の中で、5人位は何とか答えられることが分かった。
試験はもっと大変だった。当時は、蝋紙に鉄筆で手書きした後“ガリ版”と言う謄写版を使って問題用紙を作成する方法だった。書き損じたら、修正液を使ってやり直すしかなかった。最初の試験の時は、殆どが20~30点以下だった。中には白紙の答案もあった。それでは、成績の付け様もないので、次回からは問題を予告することにした。然し、予告した通りの問題を出しても、確り答えられるのは5名位で、残りの生徒は矢張り駄目だった。私は、中学で基礎を勉強しなかったのが原因だと思った。
ある時は、女子生徒の挙動がおかしかった。隣の生徒と一緒に下を見ている。覗いて見たら、女性週刊誌だった。私は、それをきつく叱っても良かったが、鞄に仕舞わせるのみに留めた。きっと、私の講義が理解出来ず、詰まらないので退屈しのぎに見ていたのだろう。
そんな生徒達も、私が授業を離れると人懐こかった。年齢は私と余り変わらないので、先生と言うより兄貴位にしか思っていない様だった。良く聞かれたことが、私に「恋人は居るか?」と云う事だった。私は当時そんな人は居なかったので、正直に答えた。又当時、私はコンタクトレンズを使用していたが、時々はメガネの時もあった。そんな私を見て、女学生は「先生はコンタクトの方が似合う」等と言って冷やかしていた。卒業前の阿蘇への修学旅行の時は、私はコンタクトをして行った。その時駅のホームで撮った写真が今も残っている。それは、私の唯一の眼鏡レスの写真である。
私は思う。当時、英語の非常勤講師を担当していたK君と私には奇妙な共通点がある。①海外勤務の経験がある。②企業を早期退職した。③当地玉名で店を開いた。③団塊の世代を主な顧客としている。④子供が外国人と結婚した。⑤外国人訪問者が多い。即ちあの時から40年後の現在、双方にとって必要度が高いのは、数学ではなく“英語”である。私よりK君の方が“先見の明”が有った。その証拠に、私は今日もwwooferを相手に、英語で苦戦している。


ISO9000(その二)

④私は既に述べたように、2000年の末日(20世紀の最終日)付けで其れまで31年間在籍した企業を早期退職し、九州に新規開業することを決めた別企業に再就職した。其処は私の家からも近かったし、何よりも新規採用者を主体に開業するという処に惹かれた。そして其処でのポストは“品質保証部長”であった。私は今度こそ4度目の正直で“男子の本懐を遂げよう”と燃えた。その企業はISO9000を取得する計画があったからである。
入社後の4ヶ月間は、神奈川県の親企業で研修があった。その親企業は既にISO9000を取得していたし、社内規格類も揃っていたが、私は満足出来なかった。それは私が嘗て在籍した企業の如く“管理部門に都合の良いルール”になっていたからである。私は早速其れの“改変”に取組んだ。その主旨は“簡素化と実施可能なルール”の設定だった。中でも特に“検査”については拘った。と言うのも、殆どの企業は下請け企業を抱え、其処から入る様々な部品を集めて組み立てる仕組み(これをアッセンブリと言う)となっているので、ISO規格を厳密に適用したくても、現実には納期や人員の面から難しい。其処で“良品納入制度”を前提として、軽くて実現可能なルール作りに努めた。平行してマニュアル作成にも取組んだが、これも以前に経験していたので、スムーズに作ることが出来た。私は簡素化の反面で強化した面もあった。其れはISO独特の“内部監査制度”と“中間検査”である。企業には様々な部門があるが“他所には口を出さない”体質になると、不祥事が起き易くなる。其れを防ぐには、ISOの内部監査は良い“予防薬”とも言える。お陰で、その後活発な内部監査が何度も実施された。然し何処にでも苦手な人は居るもので、この企業にも私の“天敵”が居た。彼氏は何に付け、私を“目の敵”にした。然しそんな場合でも、経営者が内部監査をすると、否応もなく実態が明らかになり有難かった。一方中間検査は“行程内検査”とも呼び、其れまでは実体がなかった。然し、入口(受入)出口(出荷)の検査は、時間的制約が大きいのに比べ、行程内では比較的検査時間が得やすい。この時間を有効活用することでより密度の濃い検査が可能になった。
そして、審査員も重箱の隅を突くような人ではなかったので、予備審査にも本審査にも一度で目出度く合格することが出来た。私は今も、私はISO9000の審査合格証のプレートを玄関に掛けた時の“満足感”を覚えている。正に“男子の本懐”であった。
都合4社のISO9000に関ったことで、私は日本人についてつくづく考えた。「コピー文化の根強さ」と「オリジナリティの欠如」を!そして、日本人はこの欠点を克服しない限り、物作りでは勝っても、その根幹を成す“システム構築”では永久に“米英の後塵を拝する”のではないかと!


ISO9000(その一)

私がISOという文字と初めて接したのは相当昔のことで、確かネジ規格だった様に記憶している。然しISOはその数十年後、思わぬ形で姿を現した。それはイギリスから始まって、主要先進国にあっと言う間に広まった品質管理(ISO9000)と環境管理(ISO14000)に関する規格である。
①日本企業でこれらの規格取得ブームが起きた1990年代に、私は設備・計量管理を担当していた。然し品質管理部門ではなかったので、規格対応のマニュアル(社内憲法みたいなもの)作りに直接参加する機会はなく、寧ろ決められたマニュアルに則って業務を遂行する立場にあった。そして私は当時、所謂“抵抗勢力”だった。何故ならこれらは欧米なかんずく“米英”が、自分達に都合の良いルールを作って、日本企業を振り回そうとする意図(外圧)を感じていたからである。私が最も抵抗したのは、米某社の所謂“ウイークリー管理”と称する要求だった。これは“週間単位で企業内の全ての計測器の校正期限を管理する”と言う内容で、其れまでの月次管理から見ると、格段に厳しい内容だった。若しこれを実施するとなれば、社内コンピュータシステムの見直しのみならず、人員増すら必要となり、とても呑める内容ではなかった。そして何よりもISO規格の“要求事項”にもなかった。私は品質管理部門に徹底的に抵抗し、遂にマニュアルのこの条項を“骨抜き”にすることに成功した。
②処がその数年後、既に別ブログで述べた如く、私は中小企業に“出向”となった。そして其処に在籍中、その企業がISO9000を取得する方針を決定したのだった。私は自ら“品質管理責任者”に名乗りを上げた。そして以前の“苦い経験”を踏まえ、今度こそ企業実体に合った“簡素で守れるルール”を作ろうと腹を決めた。その時は、前回と違って取得活動のアドバイスをする“コンサルタント”が付いた。私はそのコンサルタントに掛け合い“マニュアル一本”で完結した品質管理体系を作ることに決めた。それはコンサルタントにとっても初めてのことだったらしいが、同意して頂いた。其れまでは、ISO要求事項-品質マニュアル-社内規格-要領書と4階建てになっていた。こんな複雑な体系で中小企業が動く筈がない。私は下の2段階を省略して、上の2段階のみとしたのである。然し、その当時その中小企業は親会社と共同で受審活動を展開していたので、簡単には行かなかった。其処の親会社は、何と某社のマニュアルを“丸写し”して審査を受けようと目論んでいた。然し、歴史も伝統もある企業がそんな便法で上手く行く筈がない。隔週で開催されるコンサルティングの時は、何時も親企業が纏まらず、進まなかった。私は親企業と関係なくどんどん“マニュアル作り”を進め、早々に完成させた。然し結局最後には、数件の社内規格と要領書を作る羽目にはなったが、その中小企業はISO9000を取得した。然しその時、私は既に別企業に転出向となって居て、取得の喜びを味わうことは出来なかった。
③二社目の出向先は、私が元在籍していた企業の子会社で、ISOの仕組みは親会社の“丸写し”だった。これは私の“信念”には全く反する。私が其処に勤務した時期は1年足らずと短かったが、その間にも何度か内部監査や定期審査があった。然し私は役員(元同僚)から何度促されても、言を左右に逃げ回り、遂に取り合わなかった。それは親会社でさえ問題があった複雑怪奇なシステムのコピー版では、組織も人材も乏しい子会社では到底回る筈がないと踏んでいた為である。以下続く


高専(その二)

試験の時期がやって来た。私は教科書にある内容で“念を入れて教えた箇所”から問題を出した積りである。然し採点して驚いた。合格点(50点以上)は数名で、大半はそれ以下、10~20点しか取れない生徒も何名か居る。これでは成績の付けようも無いし、学校から依頼された「落第点を出さないように」の依頼にも応えられない。原因は、真面目に講義を聞く生徒が少ないことに尽きた。私は落胆する一方、パソコンを使って自動的に点数嵩上げを図り、その場を凌ぐしかなかった。そして以降の試験前には、問題を出す箇所を“予告”して予習をさせる事で、点数を取り易くした。然し、次回以降もパソコンの“自動点数嵩上げプログラム”は大活躍した。
こんな事もあった。試験時に挙動のおかしい生徒が居る。後ろに回って見ると、机の中に教科書を広げて“カンニング”をしているのだ。私は、それを公にしても良かったが、そっと肩を叩いて止めさせる事に止めた。それは、その生徒は欠席が多く、私の“問題予告”を聞けない“ハンデ”を持っていたからである。
そんな高専の生徒が一番興味を示したのは、私の“個人的な話”だった。得意の“恋愛論”もあったが、ある時私は“自分の子供の話”をした。私の次女は当時“九州工大”の学生だった。その時の話の内容は忘れたが、講義が終った後、2~3人の生徒が私を呼び止めた。「先生、自分は娘さんの大学に行きたいのですが、編入出来るかどうか調べてもらえませんか?」と。私はその時“編入”と云う言葉も、その意味も知らず、当然答えることは出来なかった。後で知った事だが、高専を卒業して就職する生徒も勿論居るが、多くの生徒の第一希望は、卒業後大学の3年に“編入”して“大卒の資格”を取得する事の様だった。そして、其れを受入れているのは特定の大学のみで、九州工大は含まれて居なかった。
私は思う。あの“辛い受験勉強”の経験があったからこそ、私達には大学時代の楽しい時期を過ごす事が許されたのだと。其れなのに、今高専の生徒は其れを避けて、横道から“編入”という安易な手段を使って大学を目指しているのだ。これは“高専の設立主旨”に反するのではないでしょうか?昨今テレビで放映される“ロボットコンテスト”を見る度に、私は彼らの真の“胸の内”を思い出す。終わり


高専(その一)

私は10年程前に3年間、某国立高等専門学校の非常勤講師を務めていた。この仕事は高専から毎年会社に講師派遣依頼が来るもので、科目は生産工学(注.選択科目の一つ)となっていた。そして私はその何代目かの講師に指名されたのである。科目名から、通常私が所属していた生産管理部門の誰かが受けるのが“仕来り”の様だった。高専からは、休講や手当等の事務手続きの他、生徒の出欠、試験、成績評価等について、呆気無いほど簡単な説明があっただけだった。記憶に残っているのは「落第点は極力少なくお願いします」と言われたことである。勿論常勤ではないので、職員室も専用机も無く、出勤受付の机があっただけだった。
然し先ず驚いたのは、非常勤講師の数である。何と45名も居て、これは常勤講師より遥かに多かった。そしてその担当科目も、英数や物理・化学から私のような専門まで多岐に及び、専任講師が担当しているのは、ロボット工学とか通信工学とか、高専特有の専門分野のみだった。
何も分からない私は1年目、前任者のA課長から引き継いだ教科書をそのまま使用して講義を始めた。講義は週一回一時限(1.5h)だったように記憶している。先ず驚いたのは“教室の汚さ”だった。床の其処此処にゴミが落ちているばかりか、教壇の黒板下にはチョークの屑がうず高く堆積し、私の仕事は先ず“黒板消しの清掃と黒板拭き”から始まった。どうも高専では掃除の時間や、掃除当番はないようだった。
然し数回の講義を経験して、私はテキストの問題点に気付いた。それは前任講師の専門であった“動作分析”を主題とするテキストだったのだ。“動作分析”とは現業の作業を分析/計測し、必要人員と生産数量の関係を明確にする手法である。即ち生産管理の伝統的手法で、手作業を前提としている。エンジニアやテクニシャンを目指す、高専の学生に最適とは言えない教科書だった。私は2年目以降教科書を変更するが、初年度は聊か“畑違いの本”を使うしかなかった。
一方、別の問題もあった。それは生徒が真面目に勉強する気がない事である。講義の冒頭に出席を取る。その返事をした途端、机にうつ伏せになり、最初から最後まで寝たままの生徒が何名も居る。私はこう言った。「君達は、私の講義が面白くないので眠くなり、途中から寝るのは仕方ないと思う。然し、最初から寝るのは、そもそも聞く気が無いのではないか?」と。然しそんな生徒も、私が講義から脱線して、自分の事や会社の話を始めると、途端に目を覚まして真面目に聞くのには驚いた。ある時私はいつも最前列で寝る生徒に質問した。「何故そんなに眠いのか?」と。その生徒は答えた。「今朝までコンビニでバイトしていました」それでは寝るのも無理も無い。以降起こすのは止めた。続く


タイと茶道

私がタイに関りを持つのは、1993年からである。当時はバブル崩壊後ではあったが、未だそれを実感する程の経済変動は無く、夫婦関係に例えれば丁度倦怠期が訪れたような時期だった。正月の新聞の特集号を何気なく見た時、突然私に“電気”が走った。これぞ自分が求めていたものだと!其れはあの「谷口巳三郎先生」がタイの“谷口21世紀農場”で“トラクタの脇に立ち、遠くの空を指差されている写真”だった。
私は、早速恭子先生(タイとの交流の会会長)に電話をして、其の数日後に先生のお宅を訪問した。其処は今も毎週夫婦でお茶の稽古に伺っている場所なのだが、其の時はびっくりした。狭くて薄暗く、先生も現在よりも寧ろ年老いて弱々しく見えた。然し其の話の内容は“並外れていて”私は感動した。そして早速一ヶ月後に予定されていた一週間の「第二回訪タイツアー」に参加を申し込んだ。私は当時所謂“真面目人間”だったので、毎年2~3週間貰える年休も、病気以外では殆ど取らず、無駄に捨てていた。勿論1週間の休暇取得など初めての事であった。
その“訪タイツアー”は、確か7名だった様に記憶している。“地理学”専攻のK大学教授、当地TV局のKアナウンサーとAレポーター、現副会長のU氏、今は亡き元会員のS氏、恭子会長と下名である。福岡から飛びバンコクで一泊後、翌日市内王宮を見学の後、再び空路で夕刻チェンライに降り立った。初めて見るタイの大地の印象は強烈だった。
日本人には2タイプがある。現地の気候風土や食事に馴染む人と、駄目な人である。私は勿論前者であったが、その時も1~2名は日本から持ち込んだ“ふりかけ”や“粉味噌汁”を食べていた。私はTV局のKアナと、トラックの荷台に乗り、濛々と巻き上がる“ラテライト”の赤茶けた大地を走ったのを、昨日の様に思い出す。
私は、その後都合5回タイを訪問し、色んな経験をさせて頂いた。中でも2回目以降の訪タイでは、毎回現地で“野点の亭主”を務めた。其の理由はこの初回の訪タイの帰途の機内で、恭子先生から「貴方こそお茶を遣るべき」と勧められ、前述の如く、夫婦で毎週稽古に通う事になったからである。後述略
私は思う。当時私があの“新聞の特集号”に心を奪われたのは、恐らく地平線の先に現われた雲の様な“リストラの予感”であったろう。現にその後始まる“停滞と辛苦の10年間”の始まりこそ、この“初回訪タイ”だったのだ。そして其の後の10年を何とか乗り切って“今の自分”が在るのも又“其のお陰”である。


煙草

私は“煙草”が未だに止められない。私が煙草を始めたのは大学時代だった。最初の銘柄はピースかハイライトだった様に記憶している。誰でも同じだと思うが、最初は咽る。何でこんな“煙”が美味いのかと思うが、程なくして止められなくなる。当時JT(当時は日本専売公社)のアルバイトは最高だった。煙草製造機の“脂落とし”が仕事だったが“余禄”があった。うず高く積んである“不良品煙草”をポケット一杯に忍ばせ、持ち帰るのである。銘柄は確か“わかば”だった。
然し、私のこの“ニコチン中毒”を決定的にしたのは他ならぬ“会社”であった。私は入社当初から設計部門に配属された。其処は部長・次長・専門課長の下に、家庭用エアコンと産業用エアコンの課があり、更にその下に複数の係を有する総勢50名程の職場であった。管理職と女性を除いて全員がドラフタ付の製図机で、横には脇机があった。女性が毎朝机を拭き、お茶と灰皿を持って来た。煙草は仕事の大切なパートナーでもあった。設計は機能設計と構造設計があり、構造設計とは所謂“図面描き”である。全員が最初はこれを遣らされる。私も10歳先輩のO氏の配下だった。先ず見本を提示され、其の部分改定から始まる。そして少し慣れると今度はゼロからの部品図作成である。先輩はスイスイ描いて居るが、私はそうは行かない。やっと何枚か描いてO氏に提出すると、こんな部品は作れないと云われる。工作機械を知らないと、加工不可能な図面を書いてしまうのだ。段々と考える時間が長くなる。其の内煙草の本数も増える。見れば先輩の灰皿も満杯となっている。当時は今の様に“喫煙室”も無かったし、そもそも“分煙”とか“嫌煙”という言葉や概念も無かった。当然職場には煙草の煙が“濛々”と漂い、喫煙しない人も女性も“其れ”を吸っていた。職場の壁や天井は、煙草の脂で茶色になっていた。後述略
その後何度か禁煙を試みた。総計10回以上にはなると思う。長く続いた時もあった。然し飲み会が有ると“其れ”が途切れた。アルコールは自制心を麻痺させる効果があるらしい。5年程前、転職した時は一番長く禁煙していた。然し“新しい方法”を考案した。部下に無心するのである。そうすれば本数が増えないと思ったのが間違いだった。その内に自分で買って、部下に預けて一緒に吸い始めると、本数は元に戻る。然し其の会社も退職した今は、そんな“奇策”も講じられなくなった。
今私は考える。ストレスを溜めて少し長生きするのと、好きな事をして少し短い人生を楽しむ功罪を!然し未だ暫くは生きたいので、今年は“人間ドック”の受診を申し込んだ。其の時、医師に聞きたい。「先生!禁煙と喫煙で後何年寿命が変わりますか?」と。


昔は山の中腹に“先祖墓”と呼ぶ村落の共同墓地が有り、彼岸には酒や弁当を持ち込み、盛大な宴会が催されていた。私も子供の頃“お婆”に連れられて行った記憶がある。然し我家の“先祖墓”は別の山頂に25基程有る。然し管理が大変であることから、昭和40年代に“納骨堂”建設ブームが起きて、殆どの家が墓を掘り上げて“此処”に納骨した。母もこれに倣いたかったのだが、伯父が承知しなかったので、仕方なく父の骨だけを納骨していた。伯父は保守的で、祖父母の墓も態々墓石を牛に引かせて、山頂に建立するような人だった。然もその大きさは先祖の墓と寸分違わない大きさに統一されていた。その後母も亡くなったので、私は父と一緒にお寺にある“納骨堂”に、一緒に納骨した。その後、例の25基の墓守は私と従弟(伯父の長男)の仕事になった。山道の整備と墓掃除、水汲み、花生けは大仕事である。特に夏は薮蚊の襲来に悩まされ、暑さと相まってまるで“地獄”である。処が、伯父が調査した処、我家の先祖墓は更にもう一箇所有る事が判明した。其処は我家の裏の畑の一角で、他人の所有地になっていた。私は伯父の指示で従弟と15基程の墓石の拓本を取らされた。間違いなかった。その数年後伯父も亡くなった。
私の肩には合計3箇所、総計40基にも上る墓の管理が圧し掛かってきた。私は熟考の上、伯母に提案した。共同で墓を建立しようと。伯母も賛成で、場所は例の25基の墓山の麓にした。私が父母と例の15基の墓の移設、従弟が墓石の購入交渉と役割も決めた。そして建機を使って墓を掘ったが、骨の欠片も出なかった。僅かに瓶の底に其れらしいのが1~2個有ったのみである。当時の埋葬は殆ど土葬だった筈なのに“人間も死んだら土に帰る”と云うのが本当である事を私は知った。仕方なく墓石と“土”のみ移設するしかなかった。然し従弟の墓石交渉は拙く、何と450万円で承諾していた。びっくりしたが後の祭りだった。(今年、還暦記念の灯篭を建立した業者に聞いたら、墓を1基販売すると半年は遊んで暮らせると墓石業者は言うとか!)更に別の問題も起きた。従弟が「墓の200m以内の全戸の承諾を得る必要が有る」と言って来たからである。私はその“条文”を取り寄せて読んだが、土葬を前提とした古い条例らしく、自分勝手な判断で近所の数件の了解で打ち止めにした。それが済んだら今度は檀那寺の坊守が“碑文”を“南無阿弥陀仏”にしなければ“お参りしない”と言って来た。私は強く反発した。“徳永家の墓”と決めていたからである。纏まらねば“檀那寺”を代える覚悟で押し切った。そして、別の従兄弟から墓前に一対の“灯篭”を寄付して貰い、20世紀の最後の年の暮、関係者を招き“父母と伯父が眠る、難産で超高価な墓”の落成法要を営んだ。
私は思う。人間生まれるのも大変だが、死ぬのも簡単ではない。然し私は今や何時死んでも“眠る所”だけは確保した。私は其処の草刈をして花を生けた後“先祖”にお参りしながら何時も思う。此処に入るのは何年後だろうかと?


大原則

あれは10年程前のことである。私は当時失意のどん底にあった。海外出張からの帰国後、配属された部署では殆ど仕事が無かった。所謂“窓際族”である。毎日新聞を見て、パソコンをいじって暇潰しをするしかなく、唯一の楽しみは、同僚のKさんとの昼休みの散歩だった。然しその理由が無いでもなかった。それまでドイツで一緒に仕事をしていた“彼”と意見が対立し、私が仕事半ばで帰国したからである。“彼”は其れまで“大変お世話になった人”だった。然し私とは立場が違う“社外の人”だった為、次第に考えが乖離して最後は対立した。私も其処で止めておけば良かったのに“余計な事”をした。彼に「以降一緒に仕事するのは“遠慮”して欲しい」との趣旨の手紙を書いた。“彼”はその手紙を“彼”の上司に見せ、その上司が私の上司に見せたらしい。私は上司からひどく詰られた。「見損なった。お前は“女の腐った様な人間だ”」と。そして将来もないと!
私は当時の「プロジェクト」に関して大原則を定めていた。即ちPerfect preparation,Clean,Safetyの3点である。そして、国内でも台湾でもこの原則を貫き、成功を収めた。当然ドイツでもそうする積りだった。然しドイツでは“Clean”だけが上手く行かなかった。ゴミを嫌う半導体工場では、“Clean”は絶対に譲れない原則である。然しこれを貫き通すと日程は遅れる。“彼”は日程をより重視する考えだったので、私と少しずつ溝が深まって行った。私は決定的な対立を回避する為に、現地責任者のA氏に後事を託し、プロジェクトの終了を待たずに一人早期帰国した。そのプロジェクトが終了してから帰国した同僚は言っていた。貴方の帰国後にイタリア旅行も有ったと。私は其れにも行けなかった。後述略
然し今考えると、私も目を瞑れば何事もなかったのに、若くもない年で何とも“青臭い事”をしたものである。当のドイツ行きは、別のN氏が甚く執心して半ば決まりだったのを、私の上司がひっくり返して呉れたのだった。私の行為は、恩義ある上司の顔に泥を塗ったばかりか、其の後の自身に苦難の道を歩ませることになった。
先日、拙宅に滞在したオランダ人が雑談中に言っていた。其のドイツ工場では先年労働争議が起きて、首相まで首を突っ込み、隣国オランダでも大きなニュースになっていたと。私は思う。“この事”や小泉首相の“靖国神社参拝”と比較したら、自分が拘った“大原則”など“けし粒”みたいなものだと。然し小泉首相も不利益を覚悟して、最後まで“大原則”を貫かれるだろうと。


手相

手相と言うと、占いの中でも老舗に属すかもしれない。私は元々迷信や予言を信じない性質で、そんなものにはとんと縁が無かった。然しあの時だけは“魔が差して”いた。場所は静岡市の駿府公園、彼女と一緒の時だった。多分彼女が「見て貰いましょう」と言ったのだと思う。私も何気無く占い師に手の平を見せた。私は自分の手の平を“平凡そのもの”だと思っていた。然し占い師の言葉は全く意外だった。「貴方の手相は大変珍しい。生命線がこのように走っているのは、西尾末広氏にそっくりです。」「貴方の人生は波乱万丈でしょう。」そして「この人とは一緒になれないかも知れない」と。彼女はとても悲しそうな顔をしていた。“西尾末広”とは元社会党で、後に其れと袂を分かち、民社党を創立した政治家である。私は大変驚いた。占い師が発する言葉が“激烈”だったからである。
私は其の女性と2年近く付き合った。彼女は教師の子女で、小柄でとても大人しい人だった。ある時、何処かで二人で月見蕎麦を食べた。其れが悪かったらしく、私は翌日から腹痛で2日間休暇を取った。そして出勤したら皆に冷やかされた。どうも彼女も同じく1日休んだらしく“2人の関係”がばれたのである。私は当時軽自動車を持っていたが、彼女は白のカローラ(初代)を持っていた。ある時、其の車で箱根をドライブした時、カーブで出会い頭に黒の大型車と正面衝突した。幸い双方共徐行中の為破損は軽微だったし、相手の車は古かったので賠償を免除して呉れた。然し、私は其の時初めて彼女のお宅に伺い、親御さんに謝った。後述略
彼女は私との結婚を望んでいたが、私は踏み切れなかった。理由は彼女が余りに華奢で(子供が産めるか)不安があったからである。体重は36kgしかなかった。ある時の事である。仕事中、彼女の親友のIさんが私の所に来て詰め寄った。「貴方は卑怯よ!彼女があんなに思っているのに、煮え切らない態度で、九州男児らしくないわよ!」と。私は言葉に詰った。そして遂に“思っている事”をしゃべった。Iさん曰く「体は小さくても彼女は健康よ!」それ以上私は何も言えなかった。その後私は彼女と別れた。しかし其の後も色々あった。ある時は彼女の妹から「思い直せないか」という主旨の手紙も来た。然し“寄り”は戻さなかった。後述略
私は今不思議に思う。あの時何を根拠に“不安”に思ったのだろう!若し“不安”を持たなかったら、今頃は「全く別の人生」が展開しているに違いないと!それにしても「手相」は恐ろしい。


ゴルフ

今はもうゴルフをやめて10年程になるが、私がゴルフを始めたのは、20年以上前の事だった。当時の上司から、管理者の嗜みとして「やれ!」と半ば強制的に始めさせられた。元々運動神経の鈍い私が、ゴルフだけ上手い訳もない。最初のラウンドの時は、その上司が自分の組に入れて下さったが、確か155の大叩きで最下位だったと記憶している。ドライバーは空振り、アイアンはシャンク、パットは往復数回と散々な出来だった。
流石にこれではいけないと思い、練習場通いを始めた。通勤経路の途中に格好の練習場も出来ていた。其処に暫く通っていたら、レッスンプロらしい人から「習わないか?」と誘われ、私はその“師匠”の“弟子”になった。彼の本拠地は別のT練習場だった。そして其れから暫くは、其処へ通うのが私の日課となった。
師匠は先ず9番アイアンだけを使うように言われた。アイアンは打ち込みが大事で、その為には頭と下半身が確りしていて、然も肩が十分に廻る事が鍵である。面白くなかったが、暫くそれを練習し、形が出来たら、7番5番と上げる事を許された。そして数週間後、やっとドライバを握らせて呉れた。練習の甲斐があり、時々は“ナイスショット”が出るようになった。その内、練習ラウンドしないかと誘われ、先ずショートコースで、次は本コースでの練習である。その頃は義弟も加わっていた。
その練習場には当時、高校生の平瀬真由美、中学生の高村亜紀も来ていた。前者は18回、後者は10回のツアー優勝経験を持つ、今や列記とした女子プロゴルファーである。然し、当時の“亜紀ちゃん”は未だ中学生で人見知りが激しく、誰とでもはラウンドしなかった。ある日、レッスンプロが私を亜紀ちゃんと一緒にショートコースに誘った。二人のプロ級に挟まれ、私は全然太刀打ちできなかったが、2度程亜紀ちゃんから「ナイスショット」と言われる当りをしたのが、今も想い出に残っている。然し、そのレッスンプロには問題が有った。練習ラウンドの時、コースフィーや食事代を持つのは良いとしても、スプーンやパター等を“半ば強制的に”買わされる様になって、私はその“師匠”と縁を切った。
お陰で、上達は其処まで、別ブログで述べた様に、10年位して優勝はたったの2回、最高スコアはグロス101である。然しその101の時は真っ直ぐ飛び、素晴らしく良かった。然し18番ホールでスプーンを振ったら、ヘッドが外れチョロとなった。若しあれさえ無かったら、私は生涯で只一回でも100を切れたのではと、今も残念に思う。然し不思議な事が起きるものである。その“スプーン”こそ、あのレッスンプロから売り付けられた代物だったのだ。私は思った。“これは師匠の呪いだ”と。


レコード鑑賞

我家には昔から沢山のレコードと、蓄音機(2台)が有ったことは既に他のブログでも述べた。然し、絵は余り無かったので、先祖は絵画より音楽が好きだったのだろう。それを証明するかの如く、私が子供の頃、寝室の長押(ナゲシ)上には3大音楽家「バッハ」「モーツアルト」「ベートーベン」の大きな写真が飾ってあった。
又、居間の茶箪笥の上には、伯父が東大の卒業記念に買って貰ったとか言う、真空管式の立派なラジオがあった。私が子供の頃聞いた覚えのある番組は、浪曲、歌謡曲、クイズ番組等である。然しこのラジオは、私が高校を卒業するまで大変役立った。と言うのも私は旺文社の“大学受験ラジオ講座”の聴講生だったからである。勉強に疲れた時は、音楽も聴いていたような気がする。
私は、音楽的才能は無かったが鑑賞は好きだった。私の大学生当時は、丁度ビートルズやベンチャーズが活躍し始めた時期で、私は特に後者が好きだった。熊本市の水前寺体育館一杯の聴衆の前で、大音響のエレキギターを演奏するベンチャーズには、当時の若者と同じように痺れていた。そして、ギターも買って弾いてみたが、此方はやはり駄目だった。其処で早速安物のレコードプレーヤーを買い、乏しい小遣いから少しずつレコードを買い集め始めた。この趣味は、同じ宿のIさんとAさんの影響である。2人共自分でステレオを組立て、大音量で始終聞いていたからである。勿論私の機器は、音量や特に低音で、彼らの機器に及ぶべくも無かった。
その数年後、私が就職して買った三種の神器が、言わずと知れた3C(Car,ColorTV,Cooler)ならぬ、軽自動車、白黒TV、ステレオであった。そしてこのステレオこそ、私が求めてやまなかった、重低音を出す機器だったのである。私は暇さえあれば、これで重低音を最高に上げ、一人で悦に入っていた。然し如何に“其れ”が好きでも、毎日聞いていると何時かは飽きる。その内に聞くことも稀になり、何時しかこの大きくて重いステレオは、私の“お荷物”になってしまった。後述略
それが、昨年物置の奥から見付かった。私はTVや車は早々に捨てたのに、ステレオだけは捨てられなかったのである。然し私はその時決意した。「もう良かろう」と。工具を使って金属部と木部、プラスチックに分解した。そして木製のスピーカーキャビネットを裏の空き地で焼却しつつ、立ち昇る煙を見上げながら思った。「嗚呼!私の青春の想い出も全て消えたな」と。


恐怖

「高所恐怖症」と言う言葉はあるが、「暗所恐怖症」と言う言葉は無いと思う。実は私はそれだった。幼児期、悪い事をすると母からトイレに押し込められた。そして電気を消され、文字通り「真暗な所」で泣いていたような気がする。それ以来、トイレに行くのが恐くなってしまった。
そして「用便時に、便器の下から手が出て来て、お尻をなでる」と言うような「有り得ない話」を真に受け、鳥肌を立てていた。と言うのも、当時のトイレは現在の様な水洗式ではなく、汲み取り式で、下が真っ暗だったからである。トイレへの行き帰り時も、特に廊下の奥の階段の下を通る時「上から何か下りて来て、襲われるのではないか?」と言う様な“或る種の恐怖感”に囚われるようになった。この恐怖感は、以後暫く私を苦しめることになる。
然し人間の恐怖感は、年齢や経験に依って変化する。大人になり、自宅から出て一人暮らしをする様になると、流石に私もその感覚は薄れて行った。然し今度は“別の恐怖”が襲って来た。
その1:私は当時、静岡市の“トイレと流し”しかない6畳と2畳の長屋に住んでいた。ある日隣人夫婦から来ないかと誘いを受け、仕方なくお邪魔した。其処の主人は酒好きらしく、その時もかなり泥酔状態だった。そして何を思ったのか、いきなり出刃包丁を持ち出して、私に付き付けた。奥さんは「何時もこんなだから!」と言う調子で、別に驚いた様子も無い。私は恐怖におののき、その場を何とか脱出した。それから程なくして別の場所へ引越した。
その2:ある深夜、映画を見ての帰途、市内の交差点で出会い頭に危うく衝突しそうになった。その場で降りて謝れば良かったのに、私はそのまま帰途に付いた。そうしたらその車が追って来て、強引に停車させられ、数人掛かりで暗がりに引き込まれ、一人が後ろから羽交い絞めにし、別の男が私を強か殴った。そして彼らは去った。私は勿論痛かったが、その時は殺されるかも知れないと思った。
その3:或る夜のこと、何処かの信号で停車していたら、いきなり2人組の男が乗り込んで来て、指示する所へ行けという。私はてっきり強盗だと思った。そして30分位市内を走らされ、別の所でその2人組は降りて行った。私は臨席の彼女をレイプされるのを一番恐れていたが、ほっと胸を撫で下ろした。
その4:ある時期、出勤時に赤い車が私を付けて来るのに気付いた。毎日ぴったり後ろに付き、時々は前に回り込む。その車は、私が帰宅して車庫入れした時、暫く後ろで待たせた車だった。その時頭を下げなかったので、頭に来ていたのだろう。それにしても毎日ご苦労なことであるが、気味が悪かった。
これらは何れも私が青春時代を過ごした静岡市での、ほんの数年間の出来事ではあるが、一つ間違えば怪我したか、命が無かったかも知れない。
私は今どんな“暗闇”も全然恐ろしく無い。本当に恐ろしいのは得体の知れない“人間”である。


幾何

普通、小学校で習うのは算数と呼び、数学とは言わない。何故ならば、学問と言うより計算が主体だからだ。筆算、暗算、算盤等による四則演算を習った。然し私はこれが嫌いで、得意でも速くもなかった。その証拠に、大学卒業後の入社試験であったクレペリン試験?(乱数を次々に加えるテスト)を受けた時も、周りの皆に比べて決して速くはなかった。然し試験には合格した。後になって、この試験は速さだけではなく“答の傾向で性格を見る試験”だと聞いた記憶がある。
話は遡り、中学から高校にかけては、徐々に算数的性格から数学的性格に移る。私の高校時代、1年生の数学は代数と幾何だった。私はその“幾何”が大好きだった。何故なら何となくクイズ的だったからである。幾何は主に直線と円、長さと角度を組み合わせた証明問題が多い。幾つかの“定理”を用い、定規とコンパスを駆使して“補助線を加えて”問題を解く学問である。そして問題は大体2問位である。私はこれを如何に早く解くかに“生き甲斐”を感じていた。当時の試験は、出来たら時間前でも提出して、教室を出る事を許されていた。私は“如何に早く解いて早く教室を出るか”に賭けていた。そして大抵1,2番目に出ていた。そして廊下から、他の生徒が“四苦八苦”しているのを見るのは“何とも言えない優越感”があった。それは、特に私がライバル視していたY君に対しても同様だった。然しY君は私と対照的だった。彼は決して時間前には教室を出ない。終了時間まで粘り“見直しを怠らない男”だった。その証拠に、彼の成績は殆どの場合私より良かった。私は早さに賭けているので、時には“とんでもない勘違いや間違い”があったからである。後述略
私は高校時代、総合成績で“1度も勝てなかった男”が3人居た。その中の一人がY君である。彼氏は私と同じ理工系で、九州大学に進学し、私と同様に総合電機メーカに就職した。そして嘗ての私と同じ半導体部門と聞く。
私は思う。私の嘗ての会社が彼の会社にどうしても勝てなかったのは、早さを追求する余り、クレームが多かったからではないかと。然し今年、そのY君の会社に“我が息子”が中途採用になった。私は言いたい。息子よ!早さだけが重要ではない。“正確さこそ”より重要なのだと!


二輪車

私が自転車に乗れるようになったのは確か小学5年の時で、運動神経が鈍いこともあって、平均より遅かったと思う。当時は今の様な子供用の自転車などなかった。我家には父の自転車があったが、リムの径が28吋で、子供にとっては大きすぎた。其処で、知り合いのTさんが車高の低い運搬車を貸してくれた。運搬車の車高は低かったが、後輪の太さや荷台が通常の自転車より大きく、重い荷物を積める構造だった。学校の運動場に行って毎日の様に練習した。当然、サドルに跨ると足が地面に届かないので、当時の子供は「三角乗り」と言って、右利きの場合は三角フレームの間に右足を入れ、ハンドルは左手だけで持ち、右手でサドルを掴む無理な姿勢で乗っていた。私も練習したが、どうも上手く行かない。その時は他の何人かも練習していた様に記憶している。誰かが、自転車の後ろを掴んで押して呉れた。私は恐かったがその人に助けられて暫く走った。その後その人が手を離したら、其のまま運動場を横切り、横の用水路に真っ逆様に。然し「その時」は突然訪れる。其れまでは、次第に傾く姿勢を起こせず倒れたのに、それがハンドル操作で修正出来るようになると、乗れる様になる。中学に上がる頃には身長も伸び、まともな形で乗れるようになった。叔母が中学進学記念に新しい自転車を買ってくれた。私はこの「黒の山一自転車」を就職後まで以後10年間以上愛用することになる。
中学時代、下りの坂道で傘がハンドルに絡み、其のまま転倒して前輪フレームを曲げてしまったが、大きな事故はそれ位であった。雨の日は前部に雨避けの幕を張り、傘を右手で持ち、左でハンドルを操作して乗っていた。砂利道でスリップして転んだこともあった。高校時代は下駄履きで乗っていた。そして通算6年間4~5kmの道程を通学した。
大学になるとこの自転車を寄宿先まで持ち込み、通学やアルバイト先への往復に活用した。その時代友人は時々久留米の実家まで自転車で帰省していた。私も玉名への帰省にチャレンジしたが、例の“田原坂”で息切れがして遂に押してしまった。其処で自転車屋に持ち込み、内装3段変速ギア(シマノⅢハブ)を取り付けた処、とても快適に走れるようになり、益々自転車での遠乗りに嵌って行った。
就職すると早速、外装5段ギアのスポーツ車を購入し、好天の日は通勤に使っていた。その内「三浦さん」と言うサイクリストと知合い、サイクリングに誘われるようになる。この人は凄かった。あの“金喜老?”事件で有名になった、静岡県の山奥の“寸又峡”まで行くと言うのだ。私は何とか付いては行ったが、彼氏みたいに乗った儘では行けず、途中で自転車を押す羽目に。然し下りは天国、ジェットコースター宜しく、あっと言う間に市街地まで降りてしまう。
結婚後はオートバイに興味が移った。私は“ダックスホンダ”が大好きで、赤と白の2台を乗り継いだ。憂鬱になった時、川岸の直線道路をアクセルを一杯に吹かして走ると、凄いスピード感が有り、ストレス解消になった。私は其れを「散歩」ならぬ「散バイク」と呼び、度々出掛けていた。然し悲しき哉、私が自動車免許を取った昭和43年から、自動車免許で乗れるバイクは其れまでの125ccから50cc以下に変わり、二人乗りは出来なくなっていた。
私は今も「一度で良いから“彼女”を後ろに乗せてツーリングしたかった!」と見果てぬ夢を見ている。


七転八倒

日本経済は1990年のバブル崩壊を境に、長期不況に陥る。この事は、当時管理職にあった私にも重く圧し掛かって来た。其れまでは、企業の懐にも余裕があり、賃金やボーナス査定にもゆとりがあった。即ち、毎回標準値の1.025倍位の数値で、査定することが可能だったのだ。このたった0.025が大きい。之は3人の部下に1.05,1.025,1.00の成績を与え得ると云う事で、平均以下の人でも平均値の給与やボーナスを貰える事を意味する。
然しこんな状態は徐々に崩れる。それは昇格査定についても同様だった。其れまでは年齢や経験年数が一定の値に達すると、皆が横並びで昇格(=昇給)出来る状態だった。然しこれも全体の人件費を抑える為、所謂“総量規制”みたいな仕組みに変わった。即ち、誰かを昇格させるには、他の誰かを下げるしかなくなる。上げるのは皆喜ぶが、下げるのは嫌がる。さりとて何もしなければ、若い伸びる力は永久に評価出来ない。
私は、部下の監督者と相談して、M君を上げる代わりにF君を下げることにした。F君の仕事ぶりは可もなし不可もなしの平均レベルだった一方、M君は誰もが認める伸び盛りだったからである。然し、おさまらないのはF君である。それから急に非協力的になり、私や監督者に反感を持っているのが、目に見えて感じられた。私はF君の再生を図る為、監督者の下から外し、別の職場に代える事にした。そして実質的に私が指導する体制にした。
其れからは、毎週その職場に出向き、一週間の業務報告をさせ、それに逐次コメントすることにした。その内にF君の問題点が徐々に明らかになって来た。それは彼の“人の良さ”から来るものの様にも思えた。即ち「他部門の誰々に何を何時まで出して欲しい」とお願いしたとする。それを真面目に出す人も居れば、出さない人も居るのは何処も同じである。処がF君は後者に対して「仕方ない」と片付けてしまう。私は“其処”をどうにかして直したかった。繰り返し叱った。ある時は「“七転八倒”してでも出させろ!」とまで言った。そして其れでも相手が動かない時、自分が動くと。と言うのも、M君の真骨頂は技量だけで無く、その“拘りの姿勢”にこそあったから。後述略
その数年後、他社に出向中だった或る年末の宴会で、ばったり彼氏と会った。私は懐かしく語り掛けたが、彼氏の発した言葉は意外だった。「貴方のあの時の仕打ちは一生忘れない!」と。嗚呼!残念!
彼はその後、自宅周辺が宅地ブームで大きく値上がりし、億万長者になったと聞く。そんな結構な身分で在りながら、あの時代あんなに拘ったのは、お金の所為ではなく、プライドが許さなかったのだろうか?私は今も“自分の意図”が伝わらなかった事を悔いている。


キャノン

経団連の会長が、トヨタの奥田氏からキャノンの御手洗氏に交代したとのニュースが流れていた。私はキャノンについては幾つかの思い出がある。
その1.私は30数年前、サラリーマンになって、初めてキャノンの一眼レフのカメラを買った。型名はAE-1ではなかったかと思う。現在はデジカメが一般的だが、当時は一眼レフカメラを持つのは、若者の夢でもあった。何故なら、広角から望遠までレンズを交換すると、様々なアングルで写真を撮れたからである。然し新婚時代のある時、何処かの川原で一寸した隙に盗まれてしまい、それ以来私は一眼レフカメラを買っていない。
その2.10年程前、海外出張からの帰国後、私は管理職を解かれ、暫く社内プロジェクトの事務局をしていた。その内容は“QCDESM”だった。即ちQuality(品質),Cost(価格),Delivery(納期),Environment(環境),Safety(安全),Moral(道徳)の向上を目指し、当時のS所長が推進されていた“社内体質改善運動”だった。然し、これはS所長のオリジナルではなく、御手洗氏の著書にある社内改革運動のコピーだと云う事を私は知っていた。
その3.10年程前、大学を卒業した長女が突然、面接に合格したのでオランダに行くと言い出した。其の中身は、ハーグにあるキャノンヨーロッパに1年間、会社の負担で勉強に行かせて呉れると言う、結構な内容のPhilanthropy(企業の慈善事業)だった。かなりの自己負担も有ったが、本人にとっては国際感覚を身に着ける上でも、又と無いチャンスだったと思う。おまけに、其処で知合った男女が、その後我家を訪れ、正月に一緒に山登りをした思い出もある。
その4.同じ頃、中小企業に出向していた私は、新規顧客開拓の営業をしていた。その訪問リストの中にキャノン大分があった。ある日私は営業部長と二人で大分に向かい、初めて同社工場を訪れ、担当者に面会した。大方の場合、企業は初対面の業者に対して“そっけない”応対をする。処が其処は違った。我社の業容を聞き、自社の事業について説明し、若し「互いにメリットのある仕事があれば、先方から連絡を呉れる」と言う。私は「来て良かった」と、満足感に浸りつつ同社を後にした。
御手洗氏は米国駐在23年の国際人であり、キャノンを国際企業に育てられた、名経営者でもある。その御手洗氏が、先日テレビで述べられた言葉が又良い。「精神的豊かさこそ重要である」と。氏はきっとこの日本を、キャノンと同じく“世界から尊敬される国に引っ張って頂ける人”と私は信じている。


謡曲仕舞

あれは彼是20年近く前の事だろうか?父の従兄弟に当るNさんから、謡曲を習はないかと誘いを受けた。「良いでしょう」位に気楽に受けたのが“間違い?”の基で、その後大変な稽古が待ち構えていた。数冊の専門書と扇を買わされた上、近くの神社の広間を借りて、毎週一回2時間程の稽古が始まった。師匠は勿論Nさん。生徒は私の他にOさんYさん、その神社の宮司ご夫妻だったと記憶している。(その後メンバーは少しずつ増えていった)先ず2時間の正座が辛い。そして発声練習。腹から超低音を出すには相当の努力が必要である。其れとテキストに書いてある、台詞とその横にある符号の意味の習得、強吟(強い調子)和吟(柔い調子)の違い等々。最初の数ヶ月は、他の人に付いて行くのが精一杯。イヤハヤ大変な所に巻き込まれたと思った。数ヶ月して、今度は仕舞の稽古も始まった。私は此方には興味を持った。と言うのも、あの“独特の仕草が”格好良かったからである。先ずは「高砂キリ」から始まり、和吟の「熊野」や「紅葉狩」等、次第に興味を持ち始めた。
丁度その頃のことである。会社の会合の席で、久し振りに出会った古い友人と話していたら、近々長崎で社内謡曲大会を開催するという。そして私にも是非“出演”して欲しいという。私は一瞬怯んだ。その場では返事せず、Nさんに相談したら大賛成。長崎は彼氏の故郷でもあった。早速特訓開始、私が舞、Nさんが地謡である。そして大会当日。他のグループは何れもメンバーが多く、流派も違っていたが、発表は手馴れたものだった。最後に私の番が廻って来た。私は“ガチガチ”に緊張していたが、何とか舞い終えることが出来、参加者の拍手を浴びた。後述略
それからである。私が癖になったのは。職場の忘年会やかくし芸大会は勿論、お宮の祭り、タイの谷口農場、水前寺公園の出水神社、そして結婚式(来賓、仲人)、熊本市の有名ホテルでの関取「肥後の海」の結婚式とエスカレートした。最後は今年久方振りに、中学の還暦記念同窓会で発表させて頂いた。私は決して仕舞の腕前は良くないが、ご覧になる人々が喜んで頂けば良いと思っている。
然し、例の稽古の方は、あの後上達の速かったYさん他数名が、別の師匠に鞍替えを目論んだことから内紛が生じ、残念なことに四散してしまった。(師匠を鞍替えするのは、脱藩して他藩に仕えるようなもの)私は勿論Nさん側についた。
多分私が最後に舞うのは“死期を悟った時”ではないかと思う。あの織田信長とは比較しようも無い私だが、最後位は“自宅の座敷”で舞いたいと思う。「げにさまざまの舞姫の・・・・」


自律神経失調症

私が子供時代から、様々な病気に苦しんだことは既に他でも述べた。然し、30~40代にかけての脂の乗り切った時期において、私に悩ましく付き纏ったのは、何れもちょっと不思議な病気だった。
その1:腹痛。私は左横腹に四六時中ある種の鈍い痛みを覚えていた。医者に掛かっても、病名がはっきりしない。大腸検査も何度か受けた。これが又結構辛い検査である。先ず浣腸され、トイレで我慢出来る限界まで我慢して排便した後、今度は肛門からポンプで空気を送られ、腸内を見易くしてカメラで診察となる。数回したが、特に異常はないとのことだった。仕方なく、腸の緊張を和らげる薬を飲み続けるしかなかった。ある時期は、良いとの情報を聞きつけ、高価な漢方薬にも頼った。然し、何れも効き目は目立った程には無く、現在も少しは違和感があるが、気にしない様にするしかないと思っている。
その2:自立神経失調症。この「自分で名付けた」病気は、その1と異なり、通常生活時には殆ど発症しない。然し、外出した時や、ビッグイベントの時等に、偶に発症することがある。過去記憶しているのは、会社の保養所で行ったFT(Family Training=職場の課題をメンバー全員で討議し、解決法を見出す手法)の翌日、帰宅途中の車の運転中、気分が悪く(頭痛・目眩・嘔吐の症状)なり、車を路肩に止め、2~3時間程休むと回復した。又、N社での社内旅行の時や、大分県への公民館長旅行の時にも同じ症状を惹起し、終日ムカムカして何も食べられない状態だった。この病気は、医者に罹っても、その時点では症状が回復している場合が多く、医師も精神安定剤を処方して呉れる位で、その後の予防には余り役立たない。私はこれを自ら「自律神経失調症」と名付けた。
処が現在、この長い間苦しめられた二つの病気を、私は殆ど意識しなくなっている。と云う事はやはり、ストレス等の精神的要素が絡んで発症していたと思わざるを得ない。私は思う。「自分は意外に小心者だったのだ!」と。


資格

私は或る時上長から言われた。「君はどんな資格を持っているかね?」と。私は答えた。「何も持っていません」と。当時は仕事にも依るが、エンジニアや管理者には特段の資格は要求されない時代だった。然しその上長の考えは少し違っていた。「K課長は酒の席にも資格の本を持ち込み、暇を見ては勉強しているぞ!君も少しは見習ってはどうか」と。勿論K課長の担当業務と私の其れとでは、資格の必要度は違ったが、私は考えを変えた。そしてその上長の勧めで、先ず“衛生管理者”の資格取得にチャレンジする事にした。然し、只“後追い的”に取得するのも面白くない。何か出来ないかと考え、部下の2人を巻き込み“3人同時取得”を目指した。そして、このことを社内に公言した。その上、勉強過程を「抄録」と言う形にまとめ、定期的に社内各部門に配布することにした。これで後へは引けなくなった。半年後、私は初めての資格受験だったが目出度く合格し、部下の二人も同時とは行かなかったが、その後の試験で合格した。
私は面白くなった。その後「危険物取扱者」「高圧ガス製造保安責任者」と次々に取得した。何れも簡単に合格した。そして次に狙ったのが、その上長から「価値がある資格」といわれた「計量士」の資格であった。この資格には「一般計量士」「環境計量士」の二つがあった。若し私が、当時の担当業務だった「計量管理」に直結する「一般計量士」を選んでいたら、或いは取得出来たかもしれない。然し私は少し意地になっていた。会社でも必要とされながら、あのK課長も取得出来ていない、より難度の高い「環境計量士」を目指したのである。私は数冊の分厚いテキストを数ヶ月間必死に勉強した。
そして、会社に休暇願いを出し、大阪のホテルに泊まって一歩も外に出ず、試験前夜は詰め込み暗記をして本番に臨んだ。試験はやはり難解だった。択一試験だが、4~5教科に分かれている全科目で、60%以上取らないと合格出来ない仕組みだった。終了後正解を渡されるので、自分の成績が分かる。私は苦手の「化学分析」が合格点に達していなかった。これで、私の資格チャレンジは終わった。その時点では既に上長も代り、例の「忘れ得ぬ人」だったので、良いお土産としたかったのだが、適わなかった。
然し私はこの経験をして良かったと思っているし、その時の上長にも感謝している。何となれば、私は今も「ガソリンスタンド」を営む資格を持っているのだから。


転職

現在は一昔前と就職事情が様変わりをし、派遣とかフリーターとか様々な就職形態があるが、中高年者にとり、転職は今も昔も簡単ではない。2000年当時の私も、愈々サラリーマンとしての“上がり”の時期が近づいていたにも拘わらず、社内では「針の寧ろ」の状態で苦悶していた。私は当時、自分の将来に対して3通りのシナリオを描いていた。その1:別の企業に転職する。その2:シニアボランティアで海外に行く。その3:農業を始める。現在は「その3」に落ち着いているが、当時は先ず「その1」「その2」を平行して模索していた。
先ず「その1」:以前N社に出向中、営業で訪問したE社が、九州に新会社をつくるというニュースを目にして、此処を受験しようと思い立った。入社試験は関東であったが、受験者は殆どが若者で、中高年者は私一人であった。(注.入社した中高年者は数名居たが、何れもE社の関係企業からだった。)経営者も流石に私に学科試験は無理だと思われたのか、面接だけだった。私は「ポストと給与は先方の意のままで良い」との趣旨を申し上げた。
次に「その2」:当玉名市で、シニアボランティアについての説明会があったので参加した。健康診断書が必要で、掛かり付けのクリニックで、医師に診断書を書いて貰った。然し説明会で貰った書類を見ると、私が出来そうな業種や仕事が少ない。唯一あったのが、カンボジアでの空調機のメンテナンスであった。然し悲しいかな、私はエンジニアであって、テクニシャンではない為「フレオンガスの入替え」位なら兎も角として、取り付け工事や、ガス溶接、ロウ付け等の実作業は経験がなく、結局断念するしかなかった。この時「エンジニアとしての“潰し”の限界」を痛感した。今、中国等で活躍されている、日本人中高年のニュースを聞く度に、羨ましくて仕方がない。
結局「その1」で転職することになる。然しその会社で私がまともにお役に立てた仕事は、国際標準の品質保証システム「ISO9001」取得位だったと思う。このシステム取得の鍵は「マニュアル作り」だが、私は以前、管理部門で社内規則類を作成する仕事をしていたし、ISO受審も経験があったので、聊かお役に立てたと思っている。しかし「この手の仕事」こそ、嘗て私が上司から“痛烈に皮肉られた仕事”だった。「君は市役所の職員だったらとても優秀だろう。然し民間企業では石頭の社員は問題だ!」と。


差別

現在でも、同和教育とか、国際理解教育とか、男女共同参画とか、自治体や学校主催の研修行事が花盛りである。私は役割柄招待を受けて行く事があるが、どの催しも形骸化が進行し、単なる消化行事になりつつあるように思う。先ず主催者挨拶があり、幾つかの事例発表があり、映画や記念講演があってお終いである。まあこれは良いとしても、参加者が何時も類似のメンバーでは、何時まで経っても一般社会には浸透しない。私は以下の様に思う。
1.同和教育について
私が幼かった頃、母の親戚が来ると、蚊帳の中で深夜まで延々とお喋りしていた。その内容の99%は他人の噂話だったと記憶している。そしてその大半が、差別部落に関する話であった。「何処其処の誰某は、誰々とどう云う関係でどう成った」と。今なら「それが何だ」と云いたい様な話である。今大切なことは、こんな話を子供に聞かせない事に尽きると思う。つまり親が誤った独り善がりの情報を子供に刷り込むから、何時までも差別が無くならない。私は親から聞いた話を子供にはしていないので、我家はこれで断絶出来たと思っている。
2.国際理解教育について
昨年度、当該地区の中学校にて国際理解教育シンポジウムが開催され、私も出席させて頂いた。大変素晴らしい大会だったが一つ残念なことがあった。午後の分科会で、議論が上滑り気味だったので、私が以下の問題提起をした。「私の娘はオーストラリア人と国際結婚しました」と言うと、殆どの人が「ワアー凄いですね!」と羨ましそうな顔をする。次に私は「でも相手はアジア系ですよ」と言うと、途端に「なーんだ」という表情に変る。このことをどう思いますか?と。一転して分科会は通夜みたいになり、殆ど発言が途絶えた。終了後、座長が私に「折角貴重な問題提起をして頂いたのに、申し訳ない」と謝りに来られた。
3.男女共同参画について
私は「タイとの交流の会」の事務局長をしているので、「男女共同参画」関係の書類が山と来る。その殆どがゴミ箱に直行である。何故ならば、遠い埼玉県や宮城県の行事等、常識的に不要な書類が殆どだからである。某有名女性団体からは、同会の奨学金の里子が(誤って)男の子になっていたので、以降資金協力をストップするとの話もあった。「男女共同参画とは何ぞや!」と言う原点から考え直すべきではなかろうか?


Motivation

私はサラリーマン時代、多くの女性アシスタントと共に仕事をさせて頂いたが、何故かあの当時、私には女性アシスタントがいなかった。其処で上司にお願いした処「バレーの女子で良ければ」との答えだった。当時は企業スポーツが盛んな時代で、会社はイメージアップを兼ねて、実業団バレーボールに力を入れていた。そして翌年から私の部門にも一人の女性が配属された。彼女は素朴な女性であったが、スポーツマンらしくファイト旺盛で、仕事に対してもとても積極的だった。或る時の事だった。私が「何気なく言った一言」が彼女をひどく傷付けてしまったらしく、彼女は泣いて誰かに訴えたらしい。その事を知った私の上司から、私はきつく注意された。「アシスタントの女性と言えども一人の人間である。管理者足る者は、然るべき認識を持って部下に接せよ」と。全くその通りで、返す言葉も無かった。然し、所詮アシスタントの仕事は書類のコピーから、承認、配布、保管等々の雑用が大半である。彼女はそのような仕事にも一切の手抜きをせず、きちっとこなしていたが、誰でも何時かは飽き足らなくなってしまう。
ある時彼女が私に告白した。「変更試験を受けたい」と。変更試験とは、高卒で入社した人が大卒と同じレールに乗る為に社内で独自に実施している試験で、その難関さで有名だった。毎年何人かが受験するが、合格者は稀で、皆無の年も多かった。私はとても驚くと同時に、彼女の向上心に感心した。然し彼女の学力では、余程頑張らないと合格は覚束ない。試験科目は英語、数学、専門の3科目だった。私は考えた末、英語は総務の女性に、専門は情報処理の男性に依頼し、自分は数学を教えることにした。毎週1回定時後に1:1で個人指導を始めた。多分高校の数一と数二だったと記憶している。兎に角「初歩の初歩」からのやり直しだった。しかし彼女は、私がそれまで家庭教師や学校で教えた、どんな生徒よりも熱心に勉強に取組んだ。そして1年後に受験、結果は惜しくも合格には至らなかったが、バレーで入社した女性が、男でも「しり込み」する難関の試験にチャレンジしたことは、周りに少なからずの影響を与えたと思う。後述略
その後彼女は、社内の別部門から引っ張りだこになり、次第に男性並みの仕事を与えられるようになり、文字通り「キャリアウーマン」の道を歩いている。彼女は私の家にも何度か遊びに来て呉れたし、今も親しい間柄である。私は思う。人間に最も必要なのは学歴ではない。“Motivation”であると。


宿命と選択

人は皆「宿命と選択」の世界で生きている。例えば親は選べないので「宿命的関係」であり、恋人や伴侶は選べるので「選択的関係」である。これは何も人間関係に限ったことではなく、職業や業務についても、同じように当てはまる。例えば、トヨタと「車」は宿命的関係だが「住宅や保険」は選択的関係と言って良いだろう。何故なら、他に任せることも可能だからだ。
私は企業人としての34年間で、前半の17年間は「宿命的業務」に携わり、後半の17年間は「選択的業務」に携わった。これは「直接部門」「間接部門」と言替える事も出来る。メーカの場合、開発や設計・製造や営業は前者で、総務や管理・保全は後者となる。私の前後半が若し逆だったらと、考えてもイメージが浮かばない。多分、今より悪い状況に陥っている可能性が高い。それは、両者の考え方が大凡正反対だからである。即ち、直接部門は販売利益を上げることが至上命題で、その為には殆どの場合、積極策が採られる。一方、管理部門は、利益に貢献するには、自らを律し、節制倹約するしかない。
しかし、この性格は変わらずとも、その時の経済状況で、実体は大きく変わる。例えば好況時には、前者は増産・増産。後者も、販売増に結びつく業務の支援。然し不況時には、前者も後者もコストダウンや人員整理が叫ばれる。処が、日本経済は私の企業人生の前半は概ね好況、後半は概ね不況だったので、私の前半はハッピーと言って良かったが、後半はそれが暗転した。即ち、不況時の対応に不慣れだったのである。一番の誤算は、自らの組織が縮小・廃止を迫まれたからである。私は「理論武装」に懸命だったが、結局の処、自部門は企業との「選択的関係」に在ることを自認するしかなかった。人が多過ぎるとか、外注化せよとか圧力が掛かって来た。一時は組織丸々の分社化も考えた。然し、最後は「四分五裂」に追い込まれた。
特に末期の状況は酷かった。上司は毎年私に「此々を成し遂げれば、来年は昇格させてやる。」と言われた。私は其れを真に受けて、必死で頑張ったが、結果は何時も落選だった。海外出張からの帰国後は特に酷かった。職場の人のみならず、自宅近くの住民までもが「徳永さんは海外出張の次は○○社の副社長だそうな!」といった噂をしていた。家内までもが、上司から「帰国後のことは心配するな」と言われ、とても期待していた。実際には「全てが裏切られ」私は絶望の淵に落ち込む。私は英国で有名な「ドッグレース」の犬だったのだ。何時まで走っても追い付けないことすら、理解出来ていなかった。
然し、私はこのことを今は後悔していない。其れは部下を困難に遭遇させた責任はあるが、自らが猟官運動をしてでも、生き残ろうとしなかったからである。
そして今になって改めて思う。あの時代の「苦しみ」こそが、現在の私のエネルギーの原動力なのだと!


父(その二)

父は亡くなるまで4年間、小学校のPTA会長をしていた。当時は今と違い、学校役員は一年交代制ではなく、子供が小学生で有る限り続けることが出来た。或る運動会の時の事である。当時の運動会は今と違い、校区の殆どの人が来る位盛況で、特に役員は来賓席で朝から酒を飲んでいた。当然、終わりの頃には酔いが回り、足元も覚束なくなる。そんな父を上級生の誰かがからかった。父は怒って追い駆けたが捕まらない。其れを見て又上級生は囃し立てる。その惨めな姿を見て、私は父の手を引き摺って家に向った。ヨタヨタと付いて来る父の手を必死で引きつつ、私は泣いていた。心配された担任の先生が、後を付いて来て下さったと母から聞いた。その時の情けない気持ちを私は今も忘れない。
そんな父にも意外な面があるのを知ったのは、10年位前の事である。当時家内は訪問介護の仕事をしていた。その訪問先の一人の女性が家内に「私は昔徳永の妻だったのよ!」と言われたとの事だった。私はその話を聞き、思い当たる節があった。母は自分は「後妻」だと言っていたからである。その女性は、八代の松井家(細川藩の筆頭家老)の出で、所謂元“お姫様”だった。当然家事には疎く、氏族出身ながら百姓仕事もこなす祖母にとって、気に入る嫁ではなかったらしく、数年後その女性は父と離別させられて実家に戻ったらしい。その女性が二階の部屋からトントン下りて来る姿を評して、当時同居していた伯父は「トントンマダム」とあだ名を付けている。(徳永春夫著.徳永家の歴史による)
私はその女性のお宅に家内と伺い、感激の対面をした。女性は既に高齢であったが、昔のことを良く記憶しておられ、話は尽きなかった。そして最後に衝撃的なことを言われた。「貴方のお父さんは、貴方を連れて、何度か私に遭いに来られたのよ!」と。「エエッ本当ですか?」勿論私がその当時のことを覚えている訳も無いが、父は離縁した後もその“お姫様”が忘れられず、逢引きに行っていたのだった。私は思わず呻いた。あの母がこのことを知っていたら、一体どんな事に成っていただろうかと!そして私は納得した。これこそ“神の思し召しだろう”と。


父(その一)

父は明治36年生まれで、今も存命なら100歳を越えているだろう。若い時肋膜を患い、中学しか卒業していないが、誰もが“秀才”だったと言う。然し、戦前の若者の例に漏れず、理想を共産主義に求めた為、祖父(当時の村長)との軋轢が絶えないばかりか、その過激さで何度か“官憲”に捕縛され“拷問”にも遭っている。その時は「転向すれば許す」と言われたらしいが“強情を張り”最後まで頑張ったらしい。然し祖父亡き後は、その後を継いで“村長”も務め、その手腕は秀逸だったとか。然し私の知る戦後の父は、文学青年の名残だろうか地方新聞に“随筆”を投稿する以外は、殆ど農業等の生産的仕事に興味を示なかった。唯一の楽しみは“友と飲む酒”で、酒屋に入り浸りとなり、その殆どが“ツケ”だった為、毎年土地を“売り食い”して凌ぐ、所謂“たけのこ生活”を強いられていた。その上晩年は、下顎ガン(?)をも患い、放射線(ラジウム)治療で、口が開かなくなったことで、その“酒浸り”は一層ひどくなっていた。父母は毎晩の様に酒の事で争い、母は私を連れて時々座敷に避難して寝ていた。後述略
然し、その父が昭和31年7月16日(新暦のお盆の翌日)急逝した。あの日、私が隣の従姉弟の家で遊んでいた時だった。例の“お婆”が「泣き叫びながら」私を呼びに来た。「パパが亡くなった」と!私は自宅に横たわる父の亡骸を眺めていたが“死”の意味さえ理解できなかったと思う。死因は今で言う“急性心不全”だった。前日までは元気だったが、何時もの二日酔いだと思っていたのに、ちょっと様子がおかしかったので、医者を呼んだ時はもう駄目だったらしい。葬儀は地区内外から多くの参列者と、国務大臣を含む幾多の花輪が寄せられ“盛況”を極めた。或る人が最近、私に呟いた。「あの時、龍坊(=下名)のニコニコした顔を見て、殊更不憫に思った」と。
それからの我家には“ありとあらゆる困難”が一挙に押し寄せた。借金取りと生活苦に加え、相続問題もあった。ある雨の夜、誰かが押掛けて来た。母とお婆は戸を開けなかった。その男はその夜「何かを叫びながら」長い間木戸を蹴り続けた。お陰でその木戸はレールから外れ、建て付けが悪くなり、以降使い物にならなくなった。然し一番の問題は、残された母の“心の問題”であった。其れまで、父に帰依した人が“手の平を返す”様な態度をとった事で、私は18歳で家を出る迄10年間近く「被害妄想」と「神経衰弱」気味の母の相手をさせられ、他人よりも早く“大人社会の裏表”を垣間見る事になったのである。続く


夜の仕事

私が就職した昭和40年代は、経済変動が特に激しい時代だった。企業は好不況を繰り返す景気を、人員整理なしで乗り切る為に、残業及び休日出勤の調節を頻繁に実施した。即ち好況の時は目一杯其れをさせ、不況が来るとそれを一斉に制限する。私は入社2年後には、既に車を買い独身寮を出て、一人暮らしをしていたが、何かサイドビジネスをしたいと考えた。勿論これは違反で、会社に見つかると何らかの処分を受ける。本当は、ガソリンスタンドの店員をしたかった。あの威勢の良い掛け声ときびきびとした仕事ぶりに憧れていた。然し、如何にもガソリンスタンドでは目立ち過ぎ、ばれる可能性が高いと断念した。代りに選んだのは「蕎麦屋の夜勤」即ち「夜の仕事」だった。場所は市内繁華街の角地の1階で、上は映画館。勤務時間は週一回、土曜日の22時半から翌朝の6時半位までだったと思う。親父さんは40台後半位の人の良さそうな方で、開店時に予め自宅で下ごしらえた、汁、麺(蕎麦、うどん)、肉、卵、揚げ豆腐等を運び込まれる。私の仕事は皿洗いが主体だったが、慣れると何でもさせられた。土曜日の夜は映画がオールナイトで上映される為、人通りは深夜でも結構有った。特に映画が終わった直後は、夜中でも一気に満員となる。客を待たせない為、注文取りから、代金の受け渡し、食器の片付けにテーブル拭きと、目の回るような忙しさだった。或る時はヒヤッとした事もあった。前のテーブルに座った3人組は、どうやら同じ会社の社員である。私は咄嗟にメガネを外した。先方も何か見たことがあるような目で、此方を見ている。私はちょっと慌てたが、皿洗いに事寄せて、柱陰に顔を隠した。ヒヤッとした一瞬だった。多分、メガネを外していなかったら、完璧にばれていた。皿洗いと言っても、半端ではない。ぼやぼやしていると大きな丼が、流し台の前にあっという間に何十枚も積み重なる。順序を決めて手際良く、そして間違いなくしなければならない。人手不足の場合は、皿洗いだけでなく、蕎麦・うどん作りもした。と言っても簡単な作業である。丼に“湯通し”した蕎麦かうどんと、注文の具を入れ、上から汁と薬味を掛けて終わり。然し3色と言って、肉、卵、揚げを入れるメニューもあった。親父さんは、汁や肉の量加減にとてもうるさかった。
私はこの仕事を半年間ほど続けたが、結婚を期にやめた。又、其処で得たアルバイト代も、大した金額にはならなかった。然し「商売とは何か?」と言う事について、少しばかり学んだ気がする。企業が「顧客本位」とか「お客様第一」等と言い出したのは、その後かなり後の事である。私は今でも、新入社員に本当の意味での「お客様第一」の心を植えつけるには、「蕎麦屋」か「ラーメン屋」の皿洗いをさせるのが一番だと思う!


へちま

今の子供は良く知らないが、私の子供時代は、「あだ名」を付けたり付けられたりするのは、珍しい事ではなかった。私の小学生時代も幾つかのあだ名があっただろうが、忘れてしまった。そして私は例の騒動(ブログ「つぐない」参照)を起こし、町の中学へ転校したので、その時点であだ名も切り替わった。新しいあだ名は「へちま」であった。誰がつけたのか分からないが、忽ち「認知され」皆が私を「へちま」と呼ぶようになった。私は「これ」は好きではなかった。誰かがその理由を言ったからである。「お前は尻が大きいから」と。確かにそうだったかもしれない。
私は小さい時から体が弱く痩せ型で、身体検査の時など裸になるのが恥かしかった。呼吸器が弱かった事もあって、私の胸はあばら骨が浮き出ていて、みぞおちが大きくへこんでいた。そして胸囲も全員の中で最低の40センチ台だった。それに比し、腰から下は人並みかそれ以上だったので、全体的な体型が「へちま」みたいに下太りに見えたのだろう。中学時代には、病気は少なくなったが、今度は喘息に苦しむようになった。
その内に、苛めも始まった。同級のF君は特にひどかった。休み時間など、廊下で寛いでいると、いきなり廻し蹴りを食らった。まともに入るととても痛かった。理由は良く分からないが「憂さ晴らし」の対象にされたのかもしれない。成績優秀だったY君も食らっているのを見たので、ひょっとしたら「嫉み」かも知れない。何時かは、何人かで後ろから羽交い絞めにされ、髪を引っ張られた。長髪(坊ちゃん刈り)は苛められ易かった。
何れにしても、本人には「何」の責任も無い、身体的欠陥(弱み)に、あだ名に付けて呼ぶのは、今なら人権侵害だろう。「つんぼ」や「ちんば」と大同小異である。私は当時ひどく傷付けられ、自分の体に強いコンプレクスを持つ様になった。そして「見果てぬ夢」とは言え、何時かは彼らを「見返す体型」になりたいと願っていた。後述略
処が、50年近く経って「それ」が実現に近づいている。何と農作業のお陰なのだ。農業はサラリーマンと違い、一日中殆ど屋外で立って過ごす。そして仕事には上半身を多く使う。私はこの3年間で、腰周りは細くなり、10年程前に態々スイス製の高価なミシンを購入してウエストを補正したズボンが今「ブカブカ」になる一方、上半身には筋肉が付き「均整の取れた体型」になった。私は今、中学のあだ名を付けた同級生に会ったら、言ってやりたい。「どうだ!裸になって勝負するか」と。


運転免許

あれは、大学4年の夏休みの事だった。私は一念発起して自動車の免許を取ろうと決意した。その動機ははっきり覚えていないが、多分周りに感化されてのことだったと思う。その頃の移動手段は、近距離は自転車かオートバイ、中距離はバス、遠距離は鉄道が主体で、航空機は未だ一般的とは言えない時代だったが、丁度モータリゼーションが始まる時期であった。私は例によって、母にその費用負担を持ちかけた。案の定反対されたが、再三説得して渋々了解を得た。確か全てで35千円位だったと思う。当時の初任給が3万円位なので、大体見当が付くと思う。勇んで大学近辺の、某自動車学校に入学した。内容は法規、構造と、実技の3教科だった。法規と構造は私にとっては易しかった。問題は実技だった。当時は今と違い、何処の自動車学校にも生徒が押し掛けていて、学校側は殿様経営だった。待ち時間が長く、その間は仕方なく模擬のハンドル操作等して、時間潰しをしていた。そしてやっと順番が来て、車に乗る。指導員はタクシー運転手上がりの、ぞうりを履いたおっかなそうな男で、後ろの席には別の教習生の女性も乗っていた。コースは周回路と、派生の踏切とか、駐車場とか、今と大差ないと思う。違いは車だった。当時の教習車はクラウンかセドリックが殆どで、私の場合はセドリックだった。それも、ハンドルチェンジとクラッチ式のマニュアル車である。(当時はオートマ車は殆ど無かった)頭初は発進の時のクラッチの繋ぎ方が下手で、車がギクシャクしたり、エンストしたり、又丁寧に行き過ぎて、直線コースでスピード不足になったり、色んなことがあった。ある時は、私が「この車はクラッチの繋ぎ方が難しい」とか何とか言ったのがいけなかった。運転手が腹を立て、突然車を降りて何処かへ行ってしまった。暫くして戻って来たが、その後は更に機嫌が悪くなり、私には殆ど口を利かなくなった。私は閉口した。
然しある時気付いた。もう一人の女性と交代で後部座席に座って、女性の教習を見ていると、何か全く雰囲気が違う。とても同じ教習員とは思えない程優しく教えている。何故なんだ?と思って、ふと座席の横をみて驚いた。何とそれはお酒ではないか?しかも1本ではない。これはきっとこの女性が持参したのだ。そしてそのお陰で、若くも、美人でもないこのオバさんに、あの意地悪そうな教習員が、こんなに優しく教えているのだと。
その時私は思った。嗚呼!世の中って、免許証を貰うにも賄賂が必要なのだと。然し、今更酒を持参しようとも思わなかった。そして目出度く合格し、私は早速大学の教室の皆に、レンタカーを借りて阿蘇へのドライブを持ちかけた。彼らは、“生命保険を掛ける”と言いつつ乗ってきた。然し、楽しかるべき初ドライブは、私にとっては緊張の連続で、3人の友人を無事連れ帰った時は、ぐったりするほど疲れていた。私は今思う。あの時あのオバさんに見習って、酒を持参していたら、その後の私の人生も、今とは相当変わっていただろうと。然し、それをしなかったお陰で、今このようにブログを書けるのだ。


下半身の病気

大学時代、私は間借り生活を謳歌していたが、困ったこともあった。一番困ったのは金欠病。毎年上がる部屋代や食費それと遊興費に、奨学金だけでは到底足りず、学内の掲示板を見ては、様々なアルバイトで補っていた。家庭教師は勿論「セイコーの自動巻腕時計」欲しさに、夏休みには大学校舎建設の土方までした。作業は「鉄筋型枠支えの鉄柱」を担いで、仮組の足場と階段を4階から外まで下ろす内容で「死ぬ程」辛かった。然し10日間程でその代金は稼げた。この他、某社の石灰袋担ぎや、-35℃の冷凍庫からカツオの運び出し等、きついが日当の高い仕事を選んだ。何時かは、立て掛けてあった材木が倒れて顔に当たり、今度は「鼻の下」を切った。然しこんなこともあった。デパートで開催される理容コンテストのモデルである。友人と二人で参加した。総勢20名位だったと思う。椅子に並んで「くじ引き」があり、或る理容師が私に当たった。彼は私に言った。貴方で良かったと!何故なら私は「ストレートヘア」だったから!友人の様な「くせ毛」はどうも不利らしい。30分位の制限時間後、今度は数名の審査員が巡回して採点した。結果は私も友人も入賞出来なかった。
間借り生活で困ったのは、洗濯と風呂である。洗濯は屋外の共用洗濯機で洗い、部屋の窓を開けて干していた。夏の事だった。朝起きたら洗濯物が無い!何とドロボーに取られたのである。なけなしのお金もだった。警察が来て指紋採取しながら言った。良く目を覚まさなかったな!と。私は熟睡タイプだった。一方風呂は銭湯、「ぬる湯」の私にはとても熱かった。洗い場の椅子を介し「嫌な病気」も貰った。タムシである。「あそこ」がとても痒い。タムシチンキを付けると、飛び上がる程痛かった。その内、後まで痒くなった。薬を付けても直らないので、医者に行ったら「肛門はタムシには成らない。痔だよ!」と言われた。後述略
その「痔」が再発したのはそれから20年後、私が例の「現場実習」中だった。立ち仕事中、突然「脱肛」したので、翌日入院した。手術の前「腹ばい」に成り、背中に麻酔を打たれた。私にはそれが良く利いた。100以上の血圧がドンドン50位まで下がり、医者の指示で看護婦が「何か」を取りに走った処までしか覚えていない。気が付いたら手術は終わっていた。私には局部麻酔が全身麻酔になったようだ。然しその夜は地獄だった。同日手術で隣ベッドの男は、そのやくざ風の外貌に似合わず弱虫で、一晩中「吠えて」いた。私は「吠え」こそしなかったが、脂汗をかいていた。「おしっこ」したいのに出ない。あの辛さは「例え様」がない。やっと看護婦が「導尿」をして呉れた時の気持は「今も忘れられない」程だった。
私には同時に「前立腺炎と肥大」も進行していた。そして長く薬を飲み、二度点滴入院したが直らなかった。私は医者を代えた。前の医者がこう言ったからであった。「座り仕事や車の運転は良くないですね!」「ではどうすれば良いですか?」「横になっていたら良いでしょう!」冗談じゃない!それは仕事を辞めろと云う事だ。次の医者は、米国渡来の最新「プロスタトロン」療法を薦めた。私は飛び付いた。それは尿道から「カテーテル」を挿入し、患部に高周波を照射する治療である。30分の間、周期的に「焼け火箸」を当てるような痛みが襲ってくる。私は機器を操作する看護婦の腕を掴み、歯を食いしばり、額に青筋を立て、必死の形相で頑張った。そのお陰で、今も改善効果は持続している。私は同病の人に何時も薦める。「切らなくても30分で良くなりますよ!」と。但しあの「例え様もない辛さ」は言わない。


女の尻

私は、大学生になって半年間程は、自宅から大学まで毎日1時間半位掛けて通学していた。それはそれで楽しい面もあったが、次第に物足りなくなった。それは帰りの電車の時間であった。学校にも慣れて親しい友人が増えると、次第に講義終了後街に出ることが多くなり、時間の制約のない友人が羨ましくなったのである。然し問題があった。母の説得とお金の問題である。母は、学費以外には小額の小遣いしか呉れなかった。私は早速アルバイトを始めたが、これにも自宅通学では制約があり、母に思い切って提案した。奨学金(8000円/月)の受給と下宿である。10月になって日本育英会から「待望」の決定通知が来た。私は母の反対を無視して下宿先を探した。その結果、間借りの方が部屋代が安かったので、大学から近い4畳半で西日が当る部屋を月3700円で契約した。食事は三食共大学生協で摂る事にした。そしてさっさと荷物(布団と洗面具位)を取り纏めて引っ越し、喜び勇んで「間借り生活」を始めた。驚いた母はその数日後、叔母(母の姉)二人を伴い、貸間を見に来た。そして渋々「事後承諾」した。これが私の18歳での、マザコン脱却の“序章”だった。
其れからは文字通り“夢のような日々”が始まった。それまでの反動も有って、マージャン(社会人になって始めた)以外は殆ど手を出した。サークル活動(人形劇“青い鳥”)加入、レコード鑑賞、映画、ダンス、パチンコ、スマートボール、コンパ(カクテル)、ギター、サイクリング、合ハイ(女子大との合同ハイキング)そして、その資金稼ぎの為のアルバイトと!勉強よりも遊びが忙しくなり、成績の方は余り芳しくなかった。親友も出来た。彼は「ダンス教室」に通う私に言った。「女の尻」を追っかける為だろうと!事実そうだった。私は「ジルバ」「ルンバ」「マンボ」「ブルース」まで習い「ワルツ」「タンゴ」はパスした。それで十分と思ったからである。ダンスパーティーでは、男性に女性の指名権がある。女性は指名されたら受けるのが礼儀だったし、結果として特定(美人・スタイルが良い・踊りが上手)の女性に申し込みが偏った。上手くそんな女性を”仕留めて”フロアの中央でくるくる廻すのは、何ともいえない充実感があった。一方指名の掛からない女性は「壁の花」と言われていた。男性に有利なルールである。従姉妹も誘い度々参加した。その頃は「メガネ」を嫌って「コンタクトレンズ」を嵌め「気取って」いた。或る時など、踊っている最中にレンズを落とし、暗いフロアを皆で探したこともあった。そして其処で知り合った複数の女性とも幾度か「デート」した。或る時など、一人の女性を挟んで、私と友人とが「三角関係」になった事もあった。然し何れも長続きせず、振られた後、私は「ひどく」落ち込んだ。親友はそんな私に批判的で、女性には興味を示さず、従姉妹が示した「好意」にも応えなかった。後述略
その数十年後、私はその親友から話を聞いて言葉を失った。部下の女性との「不倫」で悩んでいると!何と云う事だ。あの「品行方正」だった男が不倫とは!今「トヨタ米国社長」が、セクハラで訴えられているとのニュースが流れている。私は思う。何故若い時に「女の尻」を追っかけなかったのかと!!そして小泉政権が5年も続いた秘訣の一つは、マスコミは余り報じないが、スキャンダルがなかったこともあると。小泉さんは案外若い時に、それをなさっていたのかもしれない。


体育教師

頭は「良い悪い」と言うのに、体は「良い悪い」ではなく「スポーツ万能・音痴」「運動神経が鈍い」と言うのは、言葉の不思議と言って良い。私は「スポーツ音痴」に属するだろう。其れは、父方の遺伝かもしれない。と言うのも父方の親族には殆ど皆無のスポーツマンが、母方の親族には多いからである。例の「島倉千代子」の元マネージャも「ノンプロ」でピッチャーをしていたし、拓大出身で、教員時代には「柔道」を指導していた従兄弟もいる。然し、私の場合「母」が何でも「駄目・駄目」だったのが大きく影響している。
水泳がそうだった。当時の小学生は皆、川で泳いでいたが、母は絶対禁止だった。友人が何度誘いに来ても、決して行くことを許さなかった。理由がふるっている。自分が泳げない事、一人っ子の私が万一の時、取り返しが付かない(もう子供は産めない)と言う、身勝手な理由であった。然し、同じ一人っ子の従姉妹は、水泳も得意だったので、叔母は寛容だったか、泳げたのではないかと思う。
中学では、体育のH先生が夏休みに態々来て「水に沈まないコツは一旦沈むこと!」等と、親切に教えて下さった。然し「連続息継ぎ」が出来るまでは、残念ながら上達出来なかった。
注)私はこれに懲り、早くから子供を水泳教室に通わせた為、3人の子供は水泳が得意で、長男は「スイミングスクールのコーチ」に誘われた程の腕前である。
高校になると柔道が始まったが、体が硬い私にとって、兎跳びは特に辛く、翌日はまともに階段の上下も出来なかった。マット運動も苦手だったが、嫌いではなかった。然し「或る時」を境に嫌いになった。その「体育教師」は、皆を一通り前転をさせた後「私」と「A君」を指名し、再度前転させた。そして私が悪い見本、A君が良い見本だと皆に説明した。理由は「膝とお腹」が離れているか、付いているかの違いだった。私は体が硬い上に、腹筋が弱くて付けるのが難しかった。でも其処までは未だ良かった。
ある日私に「大悲劇」が起きる。サッカーの試合中だった。私はサッカーは嫌いではなかったので、懸命にボールを追っていた。その時、正面からボールが飛んで来た。私は咄嗟に頭を出した。ヘディングである。「ガーン」と頭が鳴り、私はその場に昏倒した。まるで「ボーリングの玉」を受けたような衝撃だった。気が付いたら前歯の下4本が折れ、下唇に深く食い込んでいた。同僚のO君が足を高く上げ、私のアゴを蹴ったとの事だった。
母は血だらけで戻った私を見て驚き、その高校に抗議に行ったらしいが「まともに対応して呉れなかった」と怒っていた。私は、この時だけは母を「頼もしい」と思った。然し、折れた前歯が元に戻る筈も無い。入れ歯が出来るまでは、息が抜けて言葉が上手く話せず、その面でも不自由した。O 君も謝って呉れたし「態と」蹴ったのではないので、恨むわけにも行かなかった。然しその「体育教師」からは、私に対して「一言」もなかった。
私は今もその前歯は「入れ歯」で、硬い物を噛み切ることが出来ない。一生不自由する事になるだろう。同僚に聞けば、あの「体育教師」はとても評判が悪かったとか!体育教師の使命は、ちゃんとルールを教え(サッカーで、腰より上に足を蹴り上げるのは極めて危険)「運動神経が鈍い」生徒に対しては、自信を付けさせることはしても、けなしたり、怪我をさせることは、有ってはならないと思う。私は自分の“肉体”のみか“心”までひどく傷付けられた、あの「体育教師」を一生涯恨む!


島倉千代子

あれは私が未だ入社間もない20代の会社員の頃だった。何気なく見た、何処かの書店の店頭に並んでいる週刊誌の見出しに、私は目を奪われた。「島倉千代子結婚か!相手は徳永S氏」何とその人は私の従兄弟だった。私は早速「その週刊誌」を購入し、独身寮に帰って繰り返し読んだ。中身は見出し程ではなく、噂の段階だったように記憶している。その後、その従兄弟に電話し、真偽の程を確かめた時も、只の「噂だよ」と言われたような気がする。然しそれなりの理由もあった。彼氏は「島倉千代子」と同じ「日本コロンビア」の社員、ハンサムでスポーツ万能、然も当時は「島倉千代子」のマネージャをしていたからである。
私の母(親戚ではないが旧姓は同じ徳永)の長兄は、戦前東京に出て財を成した人で、4人の子供も皆事業家に成ったり、有名企業に就職していた。彼はその末っ子だった。私も当時静岡に住んでいたので、彼の兄貴(会社社長)の世田谷にある大邸宅には時々お邪魔をしていた。その家には何とトイレにも電話があった。別の従姉妹は私に、其処の3人姉妹の長女と結婚して会社を継いだらと、冗談とも本気とも分からないことを言っていたが、勿論私にはその気は全く無かった。
その後、その噂は途絶え、数年してからS氏より結婚式の案内状が届いた。スワ相手は「島倉千代子」かと思って開けたら、違う人だった。結婚式は新宿の一流ホテルで行われた。「モデル出身の新婦」は「島倉千代子」より美人だったが、私は「島倉千代子」が良いと思った。式の司会は例の「ロッテ歌のアルバム」でお馴染みの「玉置宏」だった。勿論「島倉千代子」も来賓として参列して「お祝いの挨拶」をされた。挨拶の内容は覚えていないが、私はその時「島倉千代子」を間近で観た。テレビで見る姿と同じだった。今になって「サイン」でも貰えば良かったと思う。
その後S氏はその「モデル出身の妻」と早々に離婚し、今度は横浜の「富豪の娘」と結婚した。その人は「普通の女性」だったが、最後まで添い遂げられた。と言うのも、そのS氏の訃報が先日私の下に届いたからである。「癌」だったらしい。そう云えば昨年別の「従兄弟」が亡くなった時、東京のS氏のお宅に電話した時、息も絶え絶えに「状態が悪い」と言われた。この頃「伯父・伯母」の訃報を聞かなくなった(一人を残し亡くなった)と思ったら、今度は「従兄弟」(従姉妹ではない)の訃報が増えてきた。後述略
「盛者必滅・会者定離」の言葉を聞くまでも無く、誰でも何時かはあの世に行く。今夜テレビで、あの「島倉千代子」が涙を流しながら「東京だよおっかさん」を歌っていた。私は彼女を見ると、何時も何か「他人とは思えない気持ち」になる。彼女もあの後「乳癌」とか、色々な苦しみを乗り越えた結果が、今尚現役として「聴衆に訴える歌」を歌える理由だと思う。そして「島倉千代子さん」は、きっとS氏の葬儀にも駆け付けて、線香を上げて下さったと、私は確信している。勿論、私も出来るだけ早く上京して、墓参りをする積もりである。


労働組合

私は「理屈抜きに」労働組合が大嫌いである。否、嫌いになったと言った方が正しい。関わりの切欠は、新入社員当時だった。組合幹部からだと思うが、いきなりビラと地図とを渡され、「それ」を「ここ」の地区全戸に配って来いとの一方的命令である。中身は良く覚えていないが、多分「社会党候補」の選挙ビラではなかったかと思う。右も左も分からない中で、何人かで配った様な記憶がある。次には「支部委員」に立候補せよとの「命令」が来た。「支部委員」が何たるかも知らず、立候補の挨拶をさせられ、選挙の結果は見事に「落選」だった。当選者は「同期入社」で、高専卒のW君だった。その後の石油ショックと狂乱物価の頃は、ストライキが多く「ピケ」や「ビラ配り」の手伝いをさせられた。勿論、メーデーには必ず家族ぐるみで参加・行進させられた。
然し、多分これだけの事では、私は今程「組合嫌い」にはならなかったと思う。其れから暫くはストもなく会社側との「蜜月関係」が続き、労働組合は徐々に「御用組合」化して行った。覚えているのは春闘とボーナス前の「職場オルグ」位である。その頃から「新年会」「桜祭り」「夏祭り」とかで、労組委員長が「経営者」と並んで「ひな壇」に座る様になった。その時期は、私も“一人前”の「管理職」になり、組合員でなくなっていた。
その後更なる時が過ぎ、私は「タイとの交流の会」に入り、ボランティア活動に「生き甲斐」を見出しつつあった時の事である。同会の「谷口恭子会長」が、私の会社の社員に「同会」の活動について講演したいと申された。私は先ず「総務部長」に話を持ちかけた。同部長は東京出身のスマートでならす人で、私も好感を持っていた。丁度何かの会の後でアルコールが入り、少し赤顔だった様に記憶している。然し上手く断られた。次に組合委員長に持ちかけた。当時組合も東南アジアで「学校」等を建て、貢献していることを知っていたので、大いに期待していた。結果は同じだった。私は仕方なく、自分の部下を集め、講演をして頂いた。実にささやかな「講演会」だった。
これだけなら未だ許せた。海外出張からの帰国後、私は不遇を託っていた。「自分の行き先は自分で探せ」と云われていた。そんな時期、助けてくれたのは元部下の女性だった。彼女が高い競争率の中で、何度も応募して取って呉れた「湯布院の保養所」の割り引券を使い、家族で行かせて貰った。夢のような豪華な保養所だった。私は今も彼女の「優しい心」に感謝している。
一方組合からは助言一つなかった。その頃の「組合長室」は所長室並みの豪華な部屋だった。私は管理職を離れ(組合員に戻り)給与天引きで組合費を毎月1万円以上取られていた。そして1年余り後に中小企業に出向した後、私は遂に組織上の上司に告げた。組合費の天引きを止めて欲しいと。上司は「やんわり」と脅した。「そんなことをしたら、今後の君の為にならんぞ!」と。
何を云うか!今まで何をしたと言うのだ。「有り余る」組合費で、豪華な「組合会館」を作り、会議に託けて、出張ばかりしている組合に、何で払わなければならないのか。私が「腹を括った」甲斐が有ったのか、その後何の締め付けも制裁もなかった。それ以来私は「労働組合」を「労働貴族」と呼ぶようにしている。今、社会党や共産党が退潮傾向にある。その原因の一つは「強い者」に阿り「弱い者」に優しくない「労組」に依存していたことにあるのではなかろうか?


セレブと肥壺事件

あれはもう40年以上前の出来事であった。私は目出度く地元の大学に合格し、自宅から自転車と、列車、バスを乗り継いで通学していた。ある時母が私に告げた。近所のKさん(奥方)が来られて、私に子供の「家庭教師」をお願いしたいと。勿論初めてのことである。私は「小遣い」欲しさに承諾した。その御宅は川を挟んだ対岸の、自宅から歩いて5分程の所にあった。一家はご両親と兄(中学生)妹(小学生)の4人家族。私の担当は中学生の兄だった。何しろ初めての「先生」役で、教え方も分からなかったし、学力向上の指針すら示せていなかった様に思う。(注.私はその後、数多くの家庭教師をした。最後はその二十数年後、何と会社員時代だった。)毎週1回2時間位、多分「数学」を主体に教えていたと記憶している。ある時、私は奥方に伺った。「妹さんには教えなくても良いですか?」と。「この子は出来るので、大丈夫です」との事だった。然し、時々「分からない箇所」について、質問された様に記憶している。
何時も勉強が終わったら、何故かご主人が茶菓子を持ち出されていた。ある夜の事だった。その夜もそれを頂いて、トイレに行って戻れば何事もなかった筈だが、その夜に限りそれをしなかったばかりに大変なことになった。私は「おしっこ」を我慢出来ず、途中の川に掛かる橋の袂で「立小便」をした。否、正確には「しようとした」と言った方が正しい。良く公衆トイレの前に書いてある「一歩前進」をしたのが間違いのもとだった。何か「板の様な物」が割れ「アッ!」と言う間もなく、地面が「ズボズボ」と1m程沈下し、私は太腿位までその中に沈んだ。生暖かった其処は何と「肥壺」だったのだ。当時のトイレは「汲み取り式」が殆どで、田舎では下肥を「腐熟」させる為、川岸にある肥壺に溜めていた。私はその「肥壺」に落ちたのである。“ほうほうの体”で這い出し、直ぐ横の川に飛び込んだ。寒くは感じなかった。真っ暗な中で、どの位水に浸かって其処に居ただろうか?びしょ濡れの体で帰宅した。母は「臭い臭い」と言って、其のままでは上(畳)に上がることを許さなかった。後述略
北朝鮮の拉致問題については、今も様々なニュースが流されているが、数年前インドネシアのジャカルタで、例の「曽我ひとみ」さんと、夫の「ジェンキンス」さんが、感激の再会をしたことは、今も覚えている人が多いと思う。そのホテルのオーナが、何とあの「妹夫婦」なのである。彼女はあの後、米国に留学し、其処でインドネシア人の男性(華僑)と恋に落ちて結婚した。そして今、ジャカルタやバリに幾つものホテルやゴルフ場、銀行までを所有する。そして彼女は今や当玉名市の「名誉市民」格で「インドネシア料理」や「アチェダンス」の紹介等、国際交流活動にも極めて熱心である。私は昨年近隣の、彼女所有の瀟洒な別荘の離れに佇む見事な茶室(京都職人が建設)で、谷口宗希先生(タイとの交流の会々長)後見の下「玉名市小中学校校長会」の席に招かれ、お茶の点前を披露させて頂いた。
その「大富豪夫婦」が、昨年末拙宅に来られ、私は彼女と40年振りに「感激の再会」をした。そして「家庭教師時代」や「お茶会」の話をした。彼女は「徳永先生」と呼んで呉れた。束の間だったが、農業を含めて日本との関係を深める為、様々な活動を展開しているその「ご夫婦」の話を聞きつつ、私は一人で納得した。あの時、今は亡き奥方が「この子は出来るので、大丈夫です。」と言われた意味を!然し今、日本女性憧れの「セレブ」を地で行く彼女に向って、あの臭い「肥壺事件」は、恥ずかしくて話せなかった。


女の子

あれは、私が小学校低学年の頃だったと思う。父は時々私を自転車の前の籠に乗せて、町に出掛けていた。私の楽しみは、駅の構内を行き来するSL見物だったが、父の目的は違っていた。先ず町中の酒屋で焼酎を一杯。次はT写真館、H耳鼻咽喉科医院、T民報社、O畳屋の4軒梯子が定番コースだった。そしてT写真館以外のお宅には、同級生か少し上の年齢の女の子が居たように記憶している。父は私に其処の女の子と「遊んで居なさい」と言って、自分はご主人(何れも飲み友達)と杯を交わしていた。私は田舎の男の子、彼女等は町の女の子。何時もリードして呉れるのは彼女達であった。観たこともない紙芝居や、甘いお菓子を食べさせて貰った。
それから数年後、其の中のH耳鼻咽喉科の娘Kさんと私は、偶々中学一年生の時、同じクラスになった。彼女は美人で才媛だった。当時、中学では丁度性教育が始まった時期だった。然し導入段階の為、小さな薄っぺらなテキストだった。教える先生も未熟で、雄しべと雌しべを例題にした話等を、恥ずかしげに話された記憶しか残っていない。勿論この授業は男女別々に行われていた。そこで我ら男子の興味は、別教室で行われている女子の授業だった。授業が終わるや否や、女子の教室に走り、廊下から中を覗いた。中身は似たような内容だったと記憶しているが、私の目は「或る人」に釘付けとなった。其の女性こそKさんだった。彼女は他の女の子とは違い、真っ直ぐ前を見て、先生の話に一々頷いていた。私はその時、その態度に「覗き趣味の自分達」のレベルを超える“何か”を感じた。後述略
Kさんと私は、高校以後全く別のコースを辿り、再会したのは今年になってからである。中学校の還暦記念同窓会であった。同じテーブルではなかったが、久しぶりの再会であった。何でも、親御さんの介護に明け暮れているとか。それはそれで大切な仕事ではあろうが、中学時代に我ら凡人を超えた人であり、何だか勿体無いと思った。
これには後日談が有り、先日友人経営の喫茶店にて、再々会する機会があった。今は介護の仕事を解かれ、自由の身とか。是非残された人生を「ご自分や社会の為に」使って欲しいと思う。


私塾

私が、中学校に越境入学したことは、既に「つぐない」の項で書いた。多分中学1年の終り頃、誰から誘われたのか、はっきりとは覚えていないが、私は従姉妹のMちゃん、親友のM君と共に、近くの私塾に通うことになった。
其処は、塾と言うより普通の小さな民家で、教室は二間続きの和室と縁側とから成っていた。T先生は御母堂との2人暮らしで、当時は体調が悪くて通常勤務が難しかったので、塾をされていたと思う。然し先生は東大文科卒で文字通り天才肌、当時教わった教師の中でも、先生の右に出る人は居なかった。私はすっかり先生の魅力に惹かれ、その後高校進学までこの塾に通うことに成る。此処にはユニークな人材が出入りしていた。中でも上級のT従兄弟は出色だった。一人は後に海外青年協力隊、一人は教師で今も親しい友人である。然しいつの間にか、一緒だったMちゃんM君の姿は消えていた。
先生は、只詰め込み教育をすると言うより、勉強の仕方、目的を教えるタイプだった。時々、先生自作のプリントでの試験もあったが、大半は対話形式だった。話は先生自身の体験談もあったし、政治・思想・社会問題から、教育論まで幅広かった。又話は屡脱線した。例えば私が「此処のネコは雌ですか?」と聞いた処、雄とのことだった。「しかし○○○○が無いですよ」と聞くと『君と違って、猫のは露出していないんだよ』とか!『君はもう夢精が始まったかね?』とか。
先生は又“マリリン・モンロー”のファンでもあった。そして何時か、彼女の映画を見に行こうと言う話に成った。当時、小中学生は勝手に映画館には行けなかった。特にモンローの映画を上映している映画館は、所謂「成人映画」が専門だった。然し、先生は自分が行くから大丈夫と言って、連れて行って下さった。題名こそ忘れたが、スクリーン一杯に映し出されるモンローのお色気に、当時の自分も興奮したのを覚えている。
そのT先生とも、高校進学後は疎遠となり、社会人となった後は殆どご無沙汰だった。風の便りでは、その後結婚され、子供も出来、女子高の教諭として教壇に立たれていると聞いていた。その後、私は郷里を離れた関係で、先生とは音信不通の状態だった。亡くなったと聞いたのは何時の事だろう?思いがけも無かった。御宅に伺い、仏壇に線香を上げてお参りする時、“突然”先生の言葉が蘇った。『僕はこれでも東大仏文四天王の一人だった。』全く惜しい人を亡くしたものである。


忘れ得ぬ人

人は、その人生で様々な人とめぐり会い、そして別れる。後になって記憶に残る人とそうでない人が居るが、何がそれを分けるのか定かではない。H氏はその中でも、今尚忘れ得ぬ人である。彼氏は私と同年代か少し上、会社では当初同じ職位だった。然し、当時私はH氏をやや敬遠していた。幹部会議でも珍しく本音を云う人で、こわもての印象が強かったからである。(注.当時の幹部会議は形骸化し、建前の論議が大半だった)当時私は工務畑だったが、H氏の部署からは余り仕事が来なかった。それが様変わりしたのはちょっとした切欠だった。当時は増産が使命で、その為には限られた工場スペースを如何に有効活用するかが、一つの鍵だった。私は部下に指示し、或る案をスケッチにして提示した。H氏の反応は早かった。直ちに検討を依頼され、それは実行に移された。多額の費用はH氏が上手く捻出された。以降H氏の部署からは、次々と重要な仕事が舞い込むようになった。後述略
それから10年近い時が過ぎ、何とH氏は私の上司となった。それはバブル崩壊後で、日本経済が最悪の時期だった。当時の経営者はリストラが使命で、私の部署はその矢面に立たされていた。じわじわと薄紙を剥ぐ様にリストラが進行していた。若くて優秀な部下程狙われた。送別会が度々あった。そしてその会は荒れた。或る時は、私の前に皿が飛んで来た。
H氏はそんなムードを変えたかったのだと思う。ゴルフコンペに誘われた。私が主催するコンペにも喜んで参加された。そしてその頃私は、生涯で他にない優勝を2回もした。勿論ハンデ有ってのことではあるが。それをH氏はとても喜ばれ、昼食時に態々所長のテーブルに案内して報告された。それは、私の部署を真先に潰したかった所長に、私を売り込んで下さったのである。H氏は下(部下)には優しく、上にはものを言う理想の上司だった。企業は利益追求が使命であり、その為の組織だが、組織長の多くはそれよりも自己保身が先に立つ。その中で、H氏は毀誉褒貶せず真っ直ぐな考えの、今も忘れ得ぬ人である。


国鉄病

中曽根内閣によって国鉄民営化が実現してから、もう何年になるだろうか?その当時私が働いていた企業にも、その国鉄から数名が転籍して来た。その中の1人は私の職場に配属された。何でも国鉄では助役経験もあったらしい。人当たりは悪くなく、良さそうな人だった。しかし、仕事の方は殆ど進まなかった。然し私もその数年前、転任当時は似たような状況だったので、直に良くなるだろう位に、軽く考えていた。然し、彼には大きな問題が有った。
人間は分からないことがあれば、分かる人に聞けば良い。最初は分からないのは当たり前であり、何でも手当たり次第に聞いても、失礼にはならないし、周りも親切に教えてくれる。然し、聞かなければ、この人は最初から分かっている人だと思われ、誰も教えてくれない。
中年での途中入社の場合、その年齢に見合う資格を貰う。従って彼も主事の資格を貰い、それに沿った仕事が来るようになる。そして仕事の途中経過や、結果を関係者に報告する必要も出て来る。
彼は言い訳が得意だった。巧みに問題をすり替え、自分の所為で仕事が進まなかったのではないと言った。当然、自分の所為とされた相手側は怒る。そんな事が何度かあった。
私は責任を感じて、彼と2人でとことん論議した(しようとした)。然し、何回やっても何時も不完全燃焼で終わる。つまり、彼は巧みに論点をずらして上手に真正面からの論議を避ける。この業は天下一品といって良かった。私は次第にストレスが溜まり、怒鳴りつけることも何度か有った。そんな時、彼は平然と私に「直ぐ感情的になるのは管理者として問題が有る」みたいな事を言った。完全に私の負けだった。
当時、私の片腕だったO君はもっと参っていたようだ。実務の責任者ゆえ、仕事の遅れは相手への迷惑に直決する。彼を他部門へ転籍させて欲しいと言った。然し、そんな性癖の人を受入れて呉れる部署は中々見つからなかった。そしてその後O君は若くして病没した。私は本当に済まなかったと今も思う。後述略
今JRで事故が散発している。民営化されて、国鉄当時の体質からは変ったのだろうが、民間しか知らない私にとって、旧国鉄がどんな教育をして「無責任社員」を作ったのか、理解に苦しむ。学歴信仰が高い日本で、高学歴の人間が無責任の場合、どんなことが起こるか、歴史が証明している。
私の部下への口癖は「君の失敗位で、会社はびくともしない。思い切ってやれ!」だった。会社が潰れる時は、トップに問題が有る時なのだ。旧国鉄も然り!


日韓関係

20世紀の最後の西暦2000年、私は短期間ではあるが、機械ビジネスの業務に携わったことがある。それは数千万円の高価な機械で、その心臓部は国産ではなく、欧州のメーカから輸入していた。殆どの機械及び部品類を自国で調達出来るこの日本に在って、極めて珍しいケースであった。他に韓国にも同種の供給メーカがあったが、採用されていなかった。
この年はITバブルと言われた程好況で、この機械にも多くの注文が来た。一方、設置先からのクレームも又多かった。機械にクレームは付きものである。然し、良くも悪くもその時の対応で、相手先の印象は大きく変る。欧州メーカ(日本代理店)は、その対応が悪かった。客先から「機械が停止して生産がストップしている」との電話が来ると、私は直ぐ担当者を派遣して修復に当らせる。それで復旧すれば良し。然し何時もそうとは限らない。心臓部に問題がある場合は、調整するか、部品交換となる。然し、部品も常に手元にあるとは限らない。その場合、取り寄せとなるので時間がかかり、設置先には大きな迷惑を掛ける。
こんな事が何度か続いた後、私は思い切ってトップに「韓国メーカからの購入を検討したい」と進言した。トップは否定的だったが、再三お願いした結果、渋々ながら交渉許可を得た。然し「韓国人は嘘つきで、信用できないので、十分気を付けろ」と念を押された。その後、韓国の社長が来日した時も、トップ同士の面会は実現せず、私の在任中に同社からの購入は出来なかった。後述略
私は何人かの韓国人を知っているし、韓国旅行したこともある。彼らは日本人より遥かに「国際的」であるしその「スケール」も大きい。イスラエルの某社から、日本へ出張で来ていた韓国人は「イスラエルで一旗上げたら、米国に渡り、ユダヤコネクションを使って、韓国とのビジネスを展開したい」と言っていた。私は二十数年前、出張で行った夜のニューヨークで、日本人経営のラーメン屋に寄った時、店主が言った言葉が今も脳裏に焼きついて離れない。「自分は此処では誰にも負けない自信がある。然し韓国人だけは例外だ、彼らは日本人以上に働く」と。
今、竹島や靖国の問題で日韓関係がギクシャクしている。これは勿論政治の問題であるが、我々国民レベルで、果たして隣国の国状や国民性をどの程度理解しているだろうか?昔乍らの固定的な感覚を持ち続け、現在の韓国の実態から目を背ける限り、日韓関係は好転しないし、日本の為にもならないと私は思う。


Authority&Authorize

20年以上前のことである。私は家庭の事情で帰郷する羽目になった。然し、偶々隣人だった総務の方(当時私は会社の借上げ社宅に住んでいた)と、受け入れ側の総務の方が知り合いだった縁と、両者のご尽力のお陰で、事業部は異なるが、郷里から通勤出来る所に有った、同じ会社の工場(当時)に転勤と言う形で入れて頂いた。他社への再就職も考えていたが、とてもラッキーだった。
然し、受け入れ側の事情は複雑だったと思う。いきなり幕内何枚目かに付出しになったと思えば良い。
私の上長は、素人同然の私を気遣って、最初の1年は現場実習と言う形で、新事業の理解をするように取り計らって下さった。実習結果は「改善レポート」という形で提出していたが、それを幹部に廻して検討せよと言われた位、理解のある素晴らしい上長だった。
そして研修終了の翌年、私はいきなり主幹/係長、そしてその翌年は課長の重職を任される羽目となった。これは生え抜きの人にとってはショック以外の何者でもなかった筈である。事実私は実務については素人に近かったので、ベテラン幹部の意見を取り入れて組織運営する積もりだった。然し徐々に少数の主流派と多数の反主流派みたいな形になった。私は反主流派の旗頭のIさんの全面協力を得たかったが上手く行かず、微妙な関係がその後も続いた。それを上長はとても心配されていた。
そしてその方が去られると、状況は一変した。Iさんは新上長に素早く取り入り、私のほうが反主流派みたいな形になり、新上長との関係が悪くなり(“打たれ強さ”参照)、私は以降長期間続く低迷の時代に陥った。Iさんは私に対して過剰とも思える対抗意識を持っていた。そして課内会議でも良く英語を使った。お得意の台詞がauthority(権威)だった。しかし本人はauthorize(権威付ける=何事も課長だけで決めず、部長の承認を得るべき)の意味で使っていた。私は何時か“そっと”間違いを注意したが、その後も改まらなかった。Iさんは、無理に英語を使わずとも衆人が認める実力者だったし、互いが胸襟を開いて協力すれば、きっと素晴らしい成果を生み出すことも出来た筈である。
その後力の分散を恐れた私は、Iさんに他の部門に転出頂いたが、その為もあって私の課は次第に活力を喪失し、新陳代謝からも取り残されて行った。その結果、罪も無い部下にも栄達の機会を与え得ず、逆に他組織からの草刈場となる悲哀を味わせた。この最大の責任は私に有り、正に不徳の致す処である。そして又私自身も、同僚ばかりか、後輩からもどんどん抜かれて、最後にはIさんにも抜かれ、失意の内に出向、そして終には早期退職する羽目になる。
昔、豊臣秀吉が天下統一を果たして、全国の大名の前でそれを宣言する前夜、密かに徳川家康の下を訪れ、翌日の式典では自分が天下人として振舞うので、他の大名と同じく傅いて欲しいとお願いしたと聞く。私もIさんに対して、その気持ちで接した筈なのに、秀吉の様には上手く説得出来なかった。然し、家康が結果として勝った史実と同様、Iさんが最後に勝ったことは、それはそれで良かったのではないかと思っている。


トリマとパティシエ

こんな名前を知ったのはそんなに昔のことではない。それが最近では毎年聞くようになった。それは小学校の卒業式でのことである。6年生は卒業時、将来なりたい職業を一人づつ発表するが、女の子のなりたい職業の一、二位はトリマとパティシエだった。(因みに男子のそれは、サッカー選手とプロ野球の選手、女子の三位はスチュワーデスだった)私は数年前までこんな横文字名前の職業の存在すら知らなかった。それが堂々の一位と二位。言うまでもなく、トリマはペットの理容師、パティシエはケーキ作り職人である。どうしてこの二つがそんなに人気なのだろう。それはマスコミの所為かもしれない。然しどう考えても、現在でもメジャーな職業とは思えない。
戦前なら男子は軍人、女子は看護婦、戦後になると男子は医師、女子は教師等が、将来なりたい職業の上位ではなかったかと思われる。これらは、何れも社会の中核に位置する、メジャーな職業である。それがどうだろう。今では全く様変わりである。私はある挨拶の席上で述べたことがある。憧れで言うのは構わないが「殆ど全員の希望職種が同じ=殆ど実現不可能」であること、今の子供は「自身の特性を認識せず、ただ風潮に流されているだけ」と。
たかが小学生の事だと言うのはやさしいが、これは大人の責任なのかもしれない。今や民放の番組の大半が、芸能人を交えての安っぽい「お笑いバラエティ」である。確かに彼ら芸能人は「トリマ」を雇い「パティシエ」が作った美味しいケーキを毎日食べる生活をすることも可能だろう。然し、田舎の小学校の卒業式で、殆どの児童がそのような将来を夢見ていると云う事自体、何とも異常としか言い様がない。私は親御さんから子供達に言って欲しい。「人間はペットとケーキだけでは何日も生きられないよ」と!


天井の節穴

私は骨と皮の体で、仮死状態で生まれたらしい。昔はお産は実家で行うのが一般的だったが、母は8人兄弟姉妹の末っ子なので、長女(20歳以上年上)の嫁ぎ先で私を産んだとか!高齢出産の上悪阻がひどく、妊娠中はタクアン以外は何も食べたくなかったそうだ。そしてお産は、陣痛微弱の為時間が掛かったので、産婦人科のS医師(名医と評価が高い)が鉗子で引き出したらしい。その傷跡が私の目の横に今も残っている。(若し目に直接当てられていたら今頃片目かも?)引き出してもチアノーゼ状態で動かなかった。然しS医師は諦めずタライの“熱湯と冷水”に交互に浸し“逆さ吊り”して、お尻をパンパン叩き続けたら「オギャー」と蘇生したとか。その時、お湯や水を用意して運んだのは、父ではなく伯父(母の姉婿)で、医師の命令で走り回った話を聞かされた。(その時父は一体どこに居たのだろう?)母は「臍の緒が長くて首に絡まったので仮死した」等と、分かった様な言い訳をしていたが、産道の中で空気呼吸が出来るとも思えない?どうも実態は「死ぬ死ぬ」と叫び続け、子供の状態など二の次の状態だったらしい。
そんな生誕のドラマの後も、私は小学校卒業頃まではとても病弱で「病気のデパート」と言って良い程、色んな病気を体験した。中でも一番ひどかったのは小1時代の疫痢で、40℃以上の高熱で「引き付け=痙攣」を起こしたので、掛かり付けのM医師がその晩は拙宅に泊まられたらしい。(法定伝染病を保健所に届けず、患者の家に泊まる等、通常は有り得ないこと)私は一晩中人事不肖で、翌朝覚醒したとか。胸には辛子湿布を巻かれ、太腿からはリンゲル輸液を受けていたのを微かに記憶している。他にも風邪や腹痛はしょっちゅうのこと。家族と同じ食事をしても、一人お腹を壊し「自家中毒」とか言われていた。要するに虚弱体質だったのだ。病気中はとても辛くて苦しかった。快方に向かっても、最初は「重湯」か「かゆ」、「具のない味噌汁」か「カタクリ」位しか食べさせて貰えない。子供の好きな甘いものや、リンゴを除く果物はご法度だった。しかし一番堪えたのは、注射の痛さや、薬の苦さより、退屈なことだった。天井の節穴をひたすら何日間も見ていた。最後には見飽きてしまった。後述略
それから30年余、再び生家に戻り寝室の天井を見上げた時、私は遂に「思い出の天井」とお別れをする決意をした。つまり天井を張り替えたのである。あの忌まわしい時代を二度と思い出したくなかった。そして大工さんと一緒に解体する時は、力の限りを込めてハンマーを振るった。あたかも私に付き纏った諸々の病気を振り払うかの様に!そしてその板を焼却した。今天井を見ると、全てが同じ模様で節穴など一つも無い。何だか安っぽく、味気ないようにも思うが、私にとって、あの天井の節穴は、病気と一体化していた。今、生涯で最も健康な状態にあるのは、農業の所為でもあろうが「天井を貼り代えた」ことも作用していると信じている。


サウスポー

母がこんなことを言っていた。お婆ちゃん(私の祖母=父の母)は何でも仕事が良く出来た人だったが、生来左利きで、何と裁縫などは左右に針を持ち、両方から同時に縫えたのでとても速かったと。
私もどうやら生来左利きだったようだ。何故なら箸や鉛筆等は右利きなのに、農作業の鍬(クワ)や、スコップ、フォーク、チェーンソー、それに草むしり等は、右手ではどうしても上手く出来ない。然し、鉛筆や箸の他、鋸(ノコ)や鎌(カマ)や鋏(ハサミ)が右利きなのは、親から直されたのか、鎌や剪定鋏のように左右非対称で通常右利き用に作られている為かもしれない。然し、このことが大きな不幸を招く結果となった。不器用な右手の犠牲となり、私の左手は幾つもの傷や縫合の跡が生々しく残っている。始まりは小学生時代、稲刈りの手伝いをさせられ、鋸鎌(ノコガマ=ギザギザのついた稲刈鎌=右利き専用)で、稲と一緒に左小指をざっくり二度も切ったことから始まった。当時、傍に居た大人から、稲が足らない(=出来が悪く収穫量が少ない)から指を切ったのだ!とからかわれたのを、今も覚えている。次に若い頃、竹伐り作業中に左人差し指の付根を二度も切った。これらの鋸傷は何れも深く、医者から縫合してもらったが、今も尚縫合の跡が残り、少し神経も切ったのか、やや不自由になってしまった。
然し、これらの怪我は不注意と不器用な右手が原因ではあるが、それだけではない。良く切れる道具を使用しなかった為もある。昔、大工さんはカンナを暫く使用すると、刃を抜いて丁寧に砥いでいた。使用時間と、準備(研磨)時間が、変わらない程頻繁に研いでいた。この事の意味を最近理解出来るようになった。特にチェーンソーや手引き鋸において、それは如実に分かる。つまり切れない鋸で切っていると、時間をかけても仕事が進まない。おまけに力を入れ過ぎたりすると、誤って手を怪我してしまう。そこで考えを変えて、ちょっと切れなくなったら、鑢(ヤスリ)で目立てをすると、力を入れなくても、嘘みたいに切れるようになる。
これは、物事全てに当てはまることのようにも思える。即ち準備と本番の問題である。私は思い出す。嘗てプロジェクトリーダを仰せつかり、日本、台湾、ドイツの工場立ち上げに関わった時、そのキャッチフレーズの一番目に”Perfect preparation”を据えた。即ち、本番を上手く運ぶには準備が大切なのである。準備さえ完全にすれば、本番は半ば成功したようなもの。事実その通りになった。あの成功のきっかけは、ひょっとしたら、私の左手が叫んでいたのかもしれない。「きちっと準備して私を傷付けないで!」と。


助さん・格さん

あれは恒例となっている水曜日の夫婦での茶道の稽古の帰途、ふと立ち寄ったリサイクルショップでの出来事だった。其処は県道沿いにある体育館の様な建物で、店内には夥しいジーンズやブラウス等がフロア一杯に陳列されていて、私は家内とお揃いでジーンズを買った。然しその時私の目はジーンズよりも、壁際に設置された数台の真新しい業務用エアコンに釘付けとなった。何とそれは私が30年程も前、設計主任だった当時に開発した機種ではないか?
そもそも自分は父42歳・母36歳の一人っ子で、父は53歳で早逝し、病気がちの母からは、始終勉強せよと云われていた。然し若い頃の自分は生来の呑気坊主、勉強も好きではなかった。然し小中学校は兎も角、高校では勉強せずに好成績を取るのは難しい。1年から2年にかけて、ずるずると成績が下がった。流石にこのままでは大学にも行けないと危機感を持ち、本気で勉強を始めたのは2年の後半からであった。私は母から3年寝太郎と云われた位、居眠りし易かったので、逆に帰宅後1~2時間仮眠し、起きてから夕食を摂って、深夜まで勉強するようにした。同時に「旺文社の大学受験ラジオ講座」の聴講も開始した。その成果は漸く3年の後半になって現れた。
そして何とか大学まで進み、折からの好景気にも助けられて、さしたる苦労も無く、大企業に就職出来た所謂団塊の世代の奔りである。然し暢気な性格は就職しても直らず、泣かず飛ばずの社員であった。然し大企業は流石に懐が広く、そんな性格の自分を見抜いてか、入社3年目には新製品の開発担当に指名された。時は石油ショック前後のビル建築ブームで、省エネルギーが持て囃され始めた時代でもあった。しかしこの仕事は自分には如何にも荷が重く、開発は失敗の連続だった。先ず経験が乏しい上、先行のライバルが異質の会社で、営業サイドも苦戦し、私は製品開発と平行して営業マンと全国の顧客(ゼネコン(総合建設業者)、設計事務所、設備業者、施主)巡りをさせられた。然しこれは実に貴重な経験となった。顧客の容赦ない要求に怯みつつも、説明資料(カタログ・マニュアル・技術資料)作りから、展示会への出品、コンセプトの確立、差別化、特許対策等、仕事のイロハを勉強させてもらった。結局この製品が世に出たのは、それから4年後、自分の設計した製品が工場の生産ラインを流れて次々に完成するのを見て、部下と共に感動したものである。
私には当時、苦楽を共にした若くて優秀な部下が2名居た。その部下が構造設計を担当したのが、冒頭の業務用エアコンであった。その当時彼が担当した製品が今も販売されている。この変化の激しい時代にあって、30年近くも同じモデルが販売され続けるのは極めて珍しい。彼は問題点に突き当たっても安易に妥協せず、徹夜してでも最善の解決策を探る男であった。その姿勢こそが、今尚販売されているロングセラーの秘訣だと信じる。
その証拠に、私はサラリーマン人生において、多くの部下と共に仕事をしたが、あの時代の2人の部下に勝る人は遂にその後現れなかった。今私は当時の部下を、助さん・格さんと呼び懐かしんでいる。


天動説と地動説

自分はサラリーマンとして34年間働き、5回の転勤で都合12名の直属上司に仕えた。その内3名の上司からは、こんな自分には過ぎたるご評価を頂き、この御三方から頂いた地位で退職に至った。しかし所謂出世者(成功者)ではない。
「コペルニクス的転換」とか、ガリレオ・ガリレイの「それでも地球は動く」という言葉は有名だが、私は上司の一人から「あんたは天動説だ」と言われた。とてもショックだった。何故そう言われたのだろうか。多分その方は私を「世の中は自分中心に動くと思っている人間」と思われたからであろう。例えば会議があるとする。私はレジメを出席者分予めコピーし、自分で配って、やおら説明を始めるのではなく、いきなり始める様なところが確かにあった。つまり、気配り、準備、配慮不足である。
この欠点は今も直らない。では何故自分は天動説と言われるようになったのか?今自問しても良く分からない。どうも原因は生い立ちにありそうだ。戦後の子沢山の時代にあって、一人っ子の私は、子供の時から親子関係しか知らず、それも母子家庭では尚更であった。母は私に「他人に負けるな」とは云っても「他人に気を配れ」とは教育してくれなかった。
ヨーロッパの宗教人が天動説に固執したように、生い立ちで受けた繰り返しの教えは、人の性格に色濃く反映する。大人になっても、気配り不足の欠点は直らず、色んなトラブルや迷惑を掛けたことだろうし、私を嫌いになった人も又多いと思う。
然し、良くしたもので世の中は民間人も公務員も同じらしい。同期生の多くが教職に就き、彼等の多くが今校長職にあるが、内幾人かは未だ現役のままである。若しかして彼らも天動説なのだろうか?
然しその現役教師は何れも教師としては優秀・生徒から慕われている人達である。
それは多分彼らが上司・世間におもねることなく、自らの信念に基づいて、教育を実践してきたからではなかろうか?


地平線の先

私は日本の都市の街路樹が大嫌いである。狭い場所に無理やり成木を植え込んだ上、毎年葉の茂る初夏、無残にも丸刈りにし、強制的に大きさや高さを規制している。一方欧米の都市公園や街路樹は日本のそれとは大きく異なる。彼らは邪魔になる下枝はカットしても,樹高は規制しない。見上げる程の落葉樹の巨木が見渡す限り連なり、見事な景観をかたち作り、夏場は心地よい木陰を形成し、冬場は葉を落として日光を地面に注いでいる。日本より格段に気候が厳しく、従って植物の成長も遅い彼の国で、その光景が出来上がるまでに要した時間と労力を考えると、彼らの先を見る目の確かさと美意識を感じる。
日本では外国と違って、地平線を実感するような景色は殆ど無く、むしろ水平線の方が身近に感じる。しかし、人生の未来を例えるには、やはり水平線より地平線の方がぴったり来る。殆どの人々は、明日かも知れない死を殆ど意識することなく、毎日を過ごしている。若し自分の寿命や運命が先に分かっていれば、さぞや違った生き方をするだろう。だが聞き古したレコードのように、ちっとも面白くない人生にもなるだろう。然し年を経るに従い、時計の針は徐々にそして確実に早くなり、しかも老眼の進行とは逆に、近未来の方は少しずつ見えて来るから不思議だ。人間は死して屍となり灰となり最後は土に返るが、自身の葬儀すら見ることは叶わない。然し他人の葬儀に出ると、参列者の顔触れや人数が、その人の生前の人となりを何よりも物語っているようにも見える。
処で我が屋敷の中で、自分の生前から在るのは、家屋の一部と土蔵、柿や栗数本のみとなった。今自分が暮らしている景観が、祖先の残した遺産とすれば、子孫に残すべき景観は自分が作らねばならない。そんな想いを抱き始め、徐々に植栽を始めて二十余年。樹齢が自分と近い自生の銀杏とムクの木は、既に大木と言える大きさに育った。「かたち在るものは全て何時かは崩れる。永久に残るものは書物しかない」との名文句を吐いた伯父の言葉を気にしつつ、私はあの欧米のような景観を目指して、今日も地平線の先を見据えている。


贔屓(ひいき)

昔から日本男子の理想像は文武両道だと言われていた。女性の場合は少し違って、才色兼備が理想像ではなかっただろうか?勿論私は何れにも程遠い人間ではあるが。
還暦にもなると、同窓会等の行事が多くなるが、その場合恩師を呼ぶかどうかが、一つの問題となる。最近の或る同窓会で、恩師を呼ぼうと提案したら、ある女性から強く反対された。理由は「その先生は贔屓がひどかったから」との事だった。私が「そんな先生だったかな?」と言ったら、「貴方は贔屓されていたから、気付かなかったのよ!」成程そうだったのか!された人間は気付かなくても、されなかった人間は傷つき、後々まで恨みを残すのかも知れない。
そう云えば思い当たることがある。高校時代の古文である。担当は某名物教諭であった。私は一二度当てられたが、生憎上手く答えられなかった。そうしたら、その後1年間全く当てられなくなった。人間とは不思議なもので、当るかも知れないと思えば、予習にも熱が入るが、全く当らなくなったら張り合いも無くなり、勉強するにも熱が入らなくなるものである。処が、その後某教諭の贔屓は益々ひどくなり、毎時間と云って良いほど、キーポイントでTさんに当てるようになった。勿論古文が得意のTさんは、上手に回答して先生から褒められる。Tさんは才色兼備の女性であった。又スポーツも万能で、文武両道とも云える男子憧れの人だった。私はスポーツは駄目な上、古文でも後塵を拝することに!その後私は、他の人には負けても、Tさんだけには総合成績では絶対負けたくないと、彼女に対して異常な程のライバル心を抱くようになり、勉強に励んだ。これは正に某教諭のお陰である。
これには後日談がある。
その一、卒業後Tさんと私は全く違った道を歩み、再会したのは30年余り経ってから「タイとの交流の会」総会の場であった。私はスライドで「タイ訪問の報告」の途中、参加者の中に彼女を見かけ、とても驚いた。彼女は、同会の活動5本柱の一つ「奨学金里親制度」の里親として、友人と一緒に会場に来られていた。全く思い掛けも無かった。総会の後、お茶を飲みながらひとしきり話をして別れたが、遂に「昔の胸の内」は云えなかった。
その二、家内は嘗て暫く訪問介護の仕事に携わっていた。その訪問先の話の中に、どうも気になる家があった。色々聞き質すと、何と某教諭の家であった。教諭は既に亡くなり、介護相手は奥方らしい。その奥方はとても上品な方で、毎回亡き御主人の想い出話を聞かされる。と言う家内の言葉を聞いていると、何だかとても複雑な気持になった。
今考えると、Tさんも某教諭も私が勝手に意識し過ぎて、一人相撲を取っていたのかも知れない。あの時分腐らずに、某教諭担当の古文や漢文も真面目に勉強していたら、文系に進むことも出来て、ひょっとしたら今頃新聞社か、TV局に勤めていたかも?何と私が子供時代に一番なりたかった職業は、新聞記者であったのだ。


若しかして

「若しかして!」で始まる小林幸子の歌は、素敵な歌である。新入社員時代の上司だったM氏は、今も尊敬する素晴らしい人であるが、独特の考え方をされる方でもあった。当時は職場単位で毎年旅行をしていた。その場合大抵観光バスを借り切り、一泊二日位の行程で、近隣の観光地等に出掛けるが、M氏はいつも「若しかして」を心配されていた。つまり「若しかして、バスが事故に遭い崖下にでも転落したら、会社の業務は完全にマヒし、大変なことになる」との心配だった。殆どの人が一笑に付すようなことであるが、私はその時「その可能性もゼロでは無いな!」と思った。と言うのも、私は父が亡くなってから結婚するまでの約15年間、母一人子一人であった。然も母は慢性高血圧で「昨晩は胸が苦しくて、若しかして死ぬかと思った」と言う様な台詞を何度も口にしていた。その時は、それこそ一笑に付していたが、余り頻繁にその様なことを聞かされた為、無意識に「若しかして天涯孤独になるかも!」との恐怖が私の脳内にインプットされた様だ。
処が、幸いにもその杞憂は当たらず、私は母が亡くなる前に結婚して子供が出来た。然し今度は別の恐怖が生じた。つまり大抵の場合、マイカーで、一家5人(夫婦+子供3人)で出掛けることが多かった。そんな時突然、私にM氏の思考回路が作動し「若しかして、自分が居眠り運転して対向車と衝突でもしたら、一家全滅になる」と本気で心配した。そして私が行き着いた結論は「危険分散」であった。詰り、出来るだけ一家全員でドライブをしない。どうしても仕方ない時は車2台に分譲する。飛行機に乗る時も、一家全員が同じ飛行機に乗るのは出来るだけ避ける。これは後で知ったことであるが、理に適った考えだったと今も思っている。
欧米には「一つの籠に全部の卵を盛るな!」という意味の格言があるとか。現在では、子供も独立して夫々別居している為、一族全員が行動を共にする機会は稀となったが、何が起きても不思議ではない世の中である。家族が一同に揃い、楽しい時間を共有することは、勿論理想ではあるが、ワゴン車でドライブしたり、海外旅行したりする場合、そのリスク管理もちゃんとすべきだと思っている。
追伸:最近自宅の雨漏りの修理の為、屋根に登った。すると目の前の壁に梯子が固定してある。この梯子は、子供3人が二階で寝ていた20年程前、二階の寝室のベッド横の窓から屋根に下りる為に、私がその当時設置したものである。万一の時も下屋の屋根まで逃れさえすれば、下に飛び降りても足の捻挫位で済むし、下から梯子を掛けて助ける事も出来る。家が火事になり、二階で逃げ遅れた子供3人が焼死する。これは、現実にニュースで見聞きする事例にもある。用心に越した事は無い。以上


地理と歴史

私は幼い頃から現在に至るまで地理が大好きである。同じ社会科の中でも、地理と歴史は日本と世界、地名と人名、面積や年代等の数値を扱う事等、似通っている点も多い為、どちらも好きになって良さそうなのに、何故か歴史は余り好きではない。地理を好きになったきっかけは、幼少の頃茶の間の襖に父が貼って呉れた大きな日本地図である。私は毎日それを眺めていたが、その内46都道府県を全て暗記した。(当時は日本に沖縄は含まれていなかった)そして次は、県庁所在地、都市、町、山脈、河川、平野、湖、半島、離島、海峡等々、そして日本から世界へ次から次へと対象は広がった。そして地図を見ることが趣味となり、習慣となり、高校生当時は地理だけは誰にも負けない程自信が付いていた。若し歴史も好きだったら、多分社会科の教師を目指したであろうが、結果として理系に進み、地理は趣味に止まった。然し、それはその後の私に思わぬ副産物をもたらすことになる。今でこそ、車にはカーナビが付いていることが珍しくないが、昔はそんな便利なものはなかった。従って、見知らぬ土地をドライブする場合は、地図を片手にしなければ道に迷うことが多かったが、私の場合は頭の中に地図がインプットされているので、現在地と走っている方向(時刻と太陽の位置で推測する)さえ頭に入れておけば、大きく間違うことは先ずなかった。然し、夜間はこれが利かない。現在地は標識等でつかめても、進行方向が分からないと道に迷ってしまう。一度は深夜の広島市内で、完全に道に迷い、同じ所をグルグル廻ったこともある。然し、この特技は海外でも大いに役に立った。3度目のドイツ出張中は、ホテルと会社が遠かったので、責任者がレンタカーを貸して呉れた。左ハンドルのゴルフだった。会社の近辺でちょっと練習で走って見ると、何もかも勝手が違う。右側通行なのは勿論、操作勝手が全て逆なのである。特に交差点やロータリ(当地にはこれが多い)を曲がった後に勘違いを起こして、つい左側車線に進入して慌てる。そんな時日本なら、対向車から「バカヤロウ」とか言われそうだが、当地は流石に紳士の国、皆さん大人しく私がバックして右車線に入り直すのを待って呉れる。それでも1週間を過ぎると次第に慣れ、何とかまともに走れるようになる。早速地図を買い、週末はアウトバーンを運転してドイツ国内は勿論、隣のオランダ、ベルギー、ルクセンブルグ迄旅した。その際も、前の晩地図と睨めっこして、頭に叩き込んで置く事が肝心。何せアウトバーンは速度無制限、道路の大半は日本とは逆に地面を掘り下げ、廃土を両側に積み上げ、其処に植樹をしてある構造なので、日本のように圧迫感が無く、ゴルフでも150km/hは出た。然も日本と違って無料、出入り口は其処彼処に有り、路線は網の目のように複雑に交差しているので、一瞬の判断で行き過ぎたり、全く別の方角に走ってしまう。私は何度か間違えたが、初めての外国の道路を、然も一人でドライブ出来た大きな要因は、地理が得意だった事だと信じている。


生と死

自分の子供時代、身近には沢山の生と死があった。祖母、父、同居のお手伝い、親族を含めれば相当な数の死になるだろう。然し生死は人間に限らず、動物も同じ。私は子供の頃、親から鶏と山羊の世話をさせられたので、これ等の生死を見る機会も度々あった。鶏の場合、病気で死ぬか、動物に襲われて死ぬことが多い。当時は死んだ鶏すら、解体して食べていた。勿論老鶏を絞めることもあった。鶏は首の頚動脈を切って殺すのだが、これは上手くしないと中々死なず、何時までもバタバタと苦しむ!母から言われて遣ったが、嫌な仕事であった。そして毛をむしり、熱湯をかけて産毛を取り、解体する。母は解体した内臓を私に見せて、これが心臓、これが胃、これが肝臓と一々教えてくれた。そして其れを料理にして頂く。これこそ子供に対する一番の教育だったに違いない。
一方お産の方は違った。山羊も飼っていたが、流石に種付けには子供は見てはならないと、連れて行っては呉れなかった。然し、お産は見るなと言われても固唾を呑んで見た。ものすごい光景である。あの小さな尿道(実際は膣口)が大きく開口し、凄まじい母山羊の絶叫と共に、次から次へと血まみれの子山羊が出て来る。その中には死んだ子山羊もいる。然しもっと凄いのは、後産で出て来る胎盤(子供の自分にはそれが何かは分からなかった)を、親山羊がむしゃむしゃと食べてしまう事である。そして母山羊は全部の子山羊の血まみれの体を、へとへとの状態で丁寧に舐めて綺麗にする。すると生まれたばかりの子山羊はよろよろと立ち上がり、我先に乳房を求め、奪い合うように乳を吸う。私は山羊が何よりも生臭物を嫌うことを知っていた。悪戯で、大好物の葡萄の葉で幾重にも小魚を包んで遣っても、ちょっと匂いを嗅いだだけで決して食べない。そんな極端に潔癖症の母山羊が、お産の後、あの生臭い胎盤を平気で食べる。これは、猛獣に匂いを悟られないのと、栄養補給の為の本能とは、大人になって知ったことではあるが!
「生有るものは必ず死す。だからこそ限りある命を大切にしなければならない。」この冷厳な事実を、現代は認識し難い世の中になったのだろうか?子供が犠牲になる、血生臭い事件の報道を聞く度に思う。昔は人間は畳の上で死にたいと言うのが、大方の願いで、しかも其れは自宅の畳の上の事であった。そして私の祖母も父親も実際そのようになり、幼い私も死体を拭かされ、膝を折り曲げて、棺桶に入れ、土葬したり、火葬して納骨する一連の工程にも立会った。あの死体の冷たさと硬さは、手の感覚として今も尚残っている。それが現代ではどうだろう。人間の死も動物の処理も業者任せの時代である。むごいことは子供には見せない方が良いとの考えだろうが、壁の向こう側に押し遣って見えなくしただけで、遣っている事は同じではないか?人間(特に子供)は、学校や書物で教わったことより、現実を見て、触って、匂いを嗅いだ事の方が、後々まで強く記憶に残る。私はこの点では昔の方が、生きた教育を授かったと感謝している。


Lion-Heart

あれは20年以上前の香港での出来事だった。東南アジア諸国へ新機種を売り込みに出張し、1週間の仕事を終えてほっと一息、一杯飲みに行った時のことである。ビールを注いで呉れる中国人の女性と片言の英語で話していると、営業担当の同僚が思わず呟いた。「貴方は昼はChicken-heartなのに、夜はLion-heartになりますね!」と。つまり、昼間、各国の現地人の前で製品説明をした時は、事前の入念な予習や準備にも拘わらず、英語が上手く出来ず悪戦苦闘、終いには自分でも何を言っているのか分からない程、あがってしまった。その同じ人間が、少しアルコールが入った夜は、初対面の女性とでも結構話が通じる。同僚にはそんな私が実に不思議に映ったに違いない。
私は学生時代から英語が不得手だった。一家は殆ど文系なのに理系を選んだのも、地方大学に進んだのも、英語が不得手だったことが大きく作用している。ESS等のサークルも何となく敬遠していた。
然しこの大きな欠点は、社会人になっても悩ましく私に付き纏うことになる。入社2年目には早くも米国の技術提携企業に1年間海外出張するチャンスが訪れる。部長室に呼ばれて、いきなり「君は英語はどうだ?」と聞かれた時、とっさに「苦手です」と口走ってしまった。「じゃあ駄目だな!」。シマッタ!残念。「得意です」は無理だとしても、せめて「勉強します。行かせて下さい」と、どうして言えなかったのだろうか?今考えると、これもChicken-heartの成せる業か!この一言で、その後の運命が大きく変わったかも知れないと、今も残念に思っている。
そしてあの「Lion-heart事件」から長い年月が過ぎ、台湾とドイツ出張の話が出た再び(最後?)のチャンス、今度こそはと腹を括った。1日1万円で1週間、米国人女性から英会話の個人レッスン。レストランでコーヒー一杯で、夢中でしゃべった。又海外から自社に出張で来る人々にも積極的に近づき、意識的に話し掛けた。そして台湾では現地企業の中に自席を設けて貰い、現極力単独で行動し、現地人との積極的な会話を試み、ホテルではCNNを点け放しにして耳を慣らした。お陰で無二の親友が3人も出来、内の1人は自宅まで招待して呉れたり、訪日した時は拙宅に泊まって呉れる程親しくなった。又ドイツでは昼が長い夏の夕刻、積極的に街に出掛け、教会前広場に集う各国の人々と積極的に交わった。そうしたら何とブロークンな私の英語でも何とか話が通じ、国境を越えた友情を結べるではないか!そして時が経つに連れて、あの英語が不得手だった自分が、次第に意識から消えていく。つまりは、平常心で話せなかったのである。そしてあの香港の夜、同僚はその私の欠点を鋭く突いたのである。
今、英語教育をどうするかで、教育界は喧しい。昔の英語教育は、欧米の文物を取り入れる為のもので、翻訳つまり読み書きが主題であった。今は国際交流が主題なのに、教育界(特に大学入試)は依然昔の形を引き摺っているらしい。今、我が家に外国人wwoofer(農業体験者)が来ると、大抵英語での会話になるが、一番のネックになるのがヒアリングとボキャブラリである。つまりは、耳の訓練とある程度の単語さえ覚えれば、英語は何とか使えると言うことである。私は高校生当時、出題範囲も示され、勉強さえすれば満点も取れた英単語の試験を馬鹿にせず、もっと真剣に取組んでおけば良かったと、今頃になって悔やんでいる。


打たれ強さ

その昔、巨人が9連覇した黄金時代があった。当時の監督は川上哲治氏で、王・長島の全盛時代でもあった。その川上監督が選手を叱る時、大抵その的にされるのは長島選手(当時)だったという話を(最近)聞いたことがある。このような状況は企業内でも同様。自分のサラリーマン時代、上司の幾人かも同じ手法を使った(と信じる)。そしてその多くの場面で、不思議なほど長島役は自分であった。しかし、長島さんとは比ぶべくも無い未熟な人間である自分は、当時大いに悩み・苦しみ・ある時は上司を恨んだものである。自分では悪い事をした覚えがないのに、又同僚と同じことを言っても、いつも自分だけがひどく叱られ、会議は通夜みたいな雰囲気になる。何故なのだろう?上司は自分に何か恨みがあるのでは??そんな雰囲気は何時からか周りも知る処となる。そして彼らの結論は「徳永さんは世間知らずの馬鹿正直」だということだった。つまり、叱られない人は巧みに上司の性格を見抜き、上手に立ち回っていると云う。中には、私がこんなでは自分達にも不利益が及ぶと心配し、上手に立ち回るよう(ゴマのすり方を)助言する者すらあった。自分はそれを聞いて驚くやら、呆れるやら、とても自分は出来ないと思った。しかし、それを聞いた後は、何やら納得が行くようにもなった。中には、宴会の席で臆面も無く、新任の上司に夜の遊びを誘っている者すら居る。これが「ゴマすり」でなく何だというのだ?其処までしてでも出世したいのか。後述略
退職した今、同級生と接する機会があると、思うことがある。教員になった人が多いが、不思議に学生時代と今の立場がマッチしていない。つまり当然トップになってもおかしくない人が、未だ校長になっていない。聞けば、教育界も同じと聞く。つまりゴマ摺りの巧拙が出世の決め手とか!嗚呼、何と言う事だ!これでは子供が可哀想。
然し自分はやはりこれは嘘だと信じたい。川上監督は、長島選手がゴマすりをしなかったから叱ったのではなく、彼は他の選手より「打たれ強かった」から、他の選手を「奮い立たせる為」に、彼を標的にして叱ったのだ。私の上司も然り、私は当時、自分でも不思議な程「打たれ強かった。」教育界も然りですよね?


好き嫌い

好き嫌い
私には食べ物の好き嫌いがほとんど無い。強いて言えば子供の頃は「熱いもの、辛いもの、苦いもの」が苦手だったが、今日これ等は好物になっている。タイで良く出る「パクチ」等の匂いすら、今では気にならなくなった。
然しこと食べ物と違い、人の好き嫌い、特に男女の間では事はそう簡単ではない。中学・高校の思春期の頃、気になる女性は「ませて大柄な女性」であった。大学の頃はサークル仲間の女性。処が好意を持った女性には振り向いてもらえず、他の男とデートしているのを見かけて、ひどいショックを受けたり。その男性がヘラクレス張りだったので、自分の体にひどいコップレックスを覚えたり。別の女性からはラブレターを貰ったり!
処が、就職すると相手は職場の女性へと移り変わる。同期生の半数は職場結婚、然もその内何人かは隣席の女性である。然し職場での恋愛成就は事の他難しい。どんなにこっそりとデートをしても、必ず何処かで誰かに見られて職場の格好の噂となる。それでもその関係が結婚に発展すれば良いのだが!女性には昔「適齢期」というものがあった。年頃(24,5歳)迄に相手を見つけて結婚退職するのが普通。そうでない人は「オールドミス」と言われた。斯く言う自分も職場恋愛の経験者。その頃は好みも変っていて「小柄な女性」とお付き合いをさせて頂いた。一方で、上司からは見合いも薦められた。然し何れの女性とも結婚迄には至ってない。理由は今も良く分からない。付き合った一人は、良く私に「大好き」と言う女性であった。他の一人は、良く私に「大嫌い」と言った。処が私は「大好き」と言って呉れた女性より「大嫌い」と言われた女性の方が好きだったのと、見合いの相手は大柄だった為、何れの女性とも結婚まで至らなかった様に思う。
今数十年を経過して、その当時を振り返ってみると、女性の発する「好き」と「嫌い」の言葉の本当の意味を、私は全く理解出来ていなかった様に思う。女性は押し並べて「本音と建前」を言葉で使い分けることが上手である。つまり「好きも嫌いも好きの内」なのであって、そもそも嫌いなら付き合って呉れなかった筈である。こんな単純なことすら理解できなかった自分は何と幼かったのだろう!


パウエルの13か条

パウエルとは、言わずと知れた前米国務長官で元統合参謀本部会議長、一時は大統領候補にもと言われた人である。
巷に、数知れない有名人の語録が氾濫する中、私は彼が述べたと書かれた、名もない雑誌の1ページに釘付けになった。
そしてそれ以降それは、一生持ち続けるであろう座右の銘となっている。

1.物事を前向きに考えるなら午前中である。
2.無私になってやれば出来ないことはない。
3.自分の立場と自尊心を混同するな。
4.他人の運命は変えられないし、自分の運命は自分が決めよ。

5.何でも注意深く選択せよ。
6.小さな出来事も見逃すな。
7.成果は仲間と分かち合え。
8.何時も冷静且つ親切であれ。

9.ビジョンを持ち、その実現には貪欲であれ。
10.物事が良い方向に向っている時は、雑音に惑わされるな。
11.自分の中の恐怖心や、他人の否定的見解にたじろぐな。
12.常に楽観的であることは、自分の力を倍増する。
13.良い行いは、必ず人の目に触れる。


モノローグ

何かをすれば何かが起きる。何もしなければ何も起きない。
何だか、当り前のような、当り前でないような、不思議な言葉を一人口ずさむようになったのは、そんなに昔のことではないように思う。確か5年程前、或る会社での挨拶の席上で述べたら、「そうだ」と言う声が聞こえたので、きっと他にも同じ考えの人が居たのだろう。このことは、過去の人生経験の中で薄々感じたのだが、最近はっきりと自覚するに至った。
人間考えることはとても重要だが、未来のことを幾ら考えても、結局わからない。処が、一旦行動を起こしてみると、その作用・反作用が次々と発生し、それまで分からなかったことが次第に輪郭を現わし、遂には、はっきりと見えるようになる。従って、どんな事柄についても結果を見極めるには、結局実行するしかないことになる。人の人生は、それが必然であれ偶然であれ、行動の所産であり、結果である。
人は過去のことについてあれこれと悩むものである。自分も例外ではなく、何度「あの時ああすれば良かった。しなければ良かった」と悩んだことだろう。それも数十年前の事をである。しかし、それも最近変わってきた。悩む事柄が「しなかったこと」に偏ってきた。結果が良かろうが悪かろうが、したことについては後悔せず、しなかったことについて後悔している。この想いは、過去尤も恵まれていた時代に、思い切ったことが出来ず、ジリ貧の経過を辿ってしまったことで、より強くなったように思う。
つまり、考えたことを実行することは、あとに後悔を残さないことになる。人生が折り返し点を過ぎ、残りが少なくなるにつれて「後悔先に立たず」にならない為には、思ったことは必ず実行、結果が悪ければやり直せばよい。未だその位の時間は残っている。
しかし、実行するにも手順は重要。良く考えることである。拙速に実行したが為の失敗も又数知れないからである。私はTVのコマーシャルにある「よーく考えよう。お金は大事だよ」と言うトークが好きで、良く口ずさむ。これは至言である。往々にして、思慮不足で実行したことについては、お金を無駄使いしている。失敗を恐れては、何も出来ないが、失敗を最小限に止めるか、軽くするにはやはり事前に良く考えることが重要であろう。


人生の転換点

20余年前のことである。只一人郷里の古家を守ってきた母の病気入院をきっかけに、私は37歳で妻と3人の幼い子供を連れて関西から帰郷した。この決断には悶々たる1年を有したが、一人っ子の自分には他の方法が見つからなかった。妻を除く周りの人々皆が反対した。尊敬するS氏などは一時休職の奇策すら提案して猛反対した。伯父もその一人で「自分は帰卿して成功した人を知らない」とまで言った。母ですら必ずしも賛成ではなかった。(その母は帰郷半年も経たず亡くなった)
それから十余年、子供は田舎で伸び伸びと育ったが、私は数度の海外出張からの帰任後、想い外れて企業のリストラ要員となり、再び先が見えなくなった。深まる悩みと挫折感の中”食と農”及び”住”に関わる事業への茫漠たる想いが、折に触れて頭を過るようになった。周囲には残された豊かな自然があった。