バイオレンス

私は嘗て静岡市に住んでいたが、出張で上京する時、新幹線が多摩川の鉄橋を通過する「ゴーゴー」と言う音を聞く度に、東京に着いた気持ちに成ったものだった。昭和47年、私はその多摩川に程近い、川崎市に住む女性と交際していた。切欠は、或る小冊子に並べられた顔写真と、簡単な自己紹介記事だった。一体誰が何の為に編集したアルバムなのか記憶に無いが、恐らく百名近くの女性が並んでいた。その中の一人に私は興味を持った。当時は勿論ケイタイも無い時代なので、葉書か手紙を出したのだろう。程なくして交際OKの返事が来た。然し遠距離交際は、言うは易く現実には難しい。それでも私は幾度か、360CCの軽自動車を駆使して、静岡から国道一号線を東上して、態々川崎まで会いに行った(後には新幹線と新横浜・武蔵小杉経由の東横線を利用した)。女性宅は、東横線沿線の文字通り“小さなオウチ”で、両親と兄の4人家族だった。処が頻繁に電車が通る度、丸でガード下に居るような音がして、会話が途切れる。直ぐ近くの多摩川沿いには南武線も通っていたが、東横線沿線は南武線沿線よりも、ハイクラスの住民が多い町だと教わった。それにしても感心したのは、私達のプライバシーを慮り、招かれた応接間に、家人が只の一度も、入って来られなかったことである。そればかりか、2頭のコリー犬を連れて二人で多摩川河川敷に、散歩に行くことを勧められた。
あれから早40年!先頃その川崎市の多摩川河川敷で、身の毛もよだつような残忍な殺人事件が勃発し、ニュースを賑わした。島根県隠岐の島出身の少年が、カッターナイフで首を切り付けられ、殺害された事件である。私はその仕業を想像しただけで戦慄した。丸で鶏でも殺すような方法ではないか!否、即死しないだけ、より残虐な遣り方かもしれない。当然乍こんなバイオレンスは、平常心ではとても行えない。所謂“狂気の虜”になった精神状態でのみ、成せる業だろう。私はこの事件を切欠として、今も尚バイオレンスが、私達の身近にあることを、改めて認識させられた。と言うのも “カッとなる人”は我々の身の周りにも、決して少なくないからである。
嘗て私がドイツ西部のアーヘンで、気心の知れた社外工を伴い、工場立ち上げをしていた時の出来事である。現地責任者(日本人)と私の考えが食い違い、設備搬入作業が停滞していた。私がそれについて意見したら、普段は大人しい彼氏が突然いきり立ち、大声を上げて私を罵倒したのである。余りの剣幕に、社外工は恐れを成して逃げ回ったので、私は已む無く予定を早めて帰国した(勝手な行動故に、帰国後上司からひどく叱られた)。その煽りで、楽しみにしていた、会社主催のイタリア旅行がフイになった(私は欧州主要国の中で、イタリアだけには行ったことが無い)。
それにしても、私の周りにも知る人ぞ知る“バイオレンス”で有名な人が居る。私がそれを知ったのは随分昔のことで、当時はとても驚いた。機械の調子が悪くて、エンジンが始終止まり、農作業が捗らなかった時のことである。私が文句を言ったら、彼氏が突然顔を真っ赤にしていきり立ち、大声を張り上げたのである。以来私はその人とは距離を置くようになった。
そんな私とて、バイオレンスの一人かも知れない。あれは彼此20年以上も前のことである。当時我が娘は、玉名市内の学習塾に通っていた。帰校後家内が塾まで車で送り、夕刻迎えに行く手筈である。処が或る日に限り、家内が迎えに行くのをウッカリ忘れてしまった。気付いたのは夜である。勿論今の様にケイタイも無い当時、慌てて迎えに行ったら、塾は既に閉まり、国道脇の真っ暗闇に娘が一人佇んでいた。私はその夜ばかりは平常心を失って、家内を叩いたのであった。
追伸、或る日のこと。会社に掛かって来た受話器を取れば、例の川崎の女性の母親だと名乗る。そして「娘は今も貴方のことを想っています」と!私は喉の奥から絞り出す様な口調で「結婚しました!」と告白した。終わり