JA

過日のフジプライムニュースは、JAの存在価値についての対論で、大変興味深く視聴した。と言うのも、終戦後農地解放と共に、農協が誕生した時代に、父は石貫農協長をしていたからだ。当時の農協所在地は石貫小学校の直ぐ横、現在プールが在る場所である。尤も此処は事務所のみで、黒電話が備えてあり、家庭電話が普及していなかった当時、多くの地元民が電話を借りに来ていた。勿論私が自家中毒を起して医者を呼ぶ時も度々利用した。
そんな時代の農協の主業務は、米の集荷であった。石貫熊野座神社の袂に在った我家の土地(現鶴田建設作業所)に、白亜の大きな農協倉庫が建っていた。当時は所謂米不足の時代で、厳格な食糧管理制度が施行されていたので、毎年秋になるとリアカーや牛車等で運び込まれた、沢山の米俵やカマス(莚で編んだ米袋)に、検査官が尖った金属棒を突き刺して目視検査をし、品質等級が彫られた印版を「バーン」と押していた。当時の農家の収入源は、殆どが米代金だったので、当日の等級査定は、一年間の農業収入を大きく左右する、大変重要な日であった。
そんな時代から早半世紀が過ぎ、今や米作りだけでなく、JAの役割も大きな転換点を迎えている。我家の水田は約8反だが、サラリーマンだった当事の私は、米作りの予定も無く、その全てを近隣農家に耕作依頼していた。従って年末になると、受託者が米代金を持って来られた。それが毎年の様に減額され、先細りとなった。それは基準米価の変動に連動していた。そんな経緯を見て、私は農業に再参入したのである。
JAは設立時に、資本を積み立てるべく債券如きものを発行したようで、我家の机の引出しにはそれが沢山残されていた。勿論今では価値は無く、単なる紙切れに過ぎない。減反制度が始まった当初、JAの幹部連が来て地域毎に説明会があった。私はその会場に行き驚いた。何と農家の人間より、JA関係者が遥かに多かったのである。そして自己紹介された面々は○○部長・課長・係長・主任etc。大変なトップヘビーである。こんな組織では人件費が重荷となり、結果的に農家の負担が重くなる。そんなこともあって、JAと私の付き合いも当時から大きく変わった。今では、種籾・鶏の飼料・ガソリン・灯油・軽油・プロパンガスの購入程度しかお付き合いがない。と言うのも、大半の農業資材は、ホームセンタの方が寧ろ安価で、品数も揃っている。言わずもがなだが、農薬や肥料の購入は勿論のこと、農業技術指導に至っては、数十年来皆無である。
それにしてもJAの本来業務は、農地の有効利用・水田の転作確認や、行政からの委託業務、農産物の生産技術、輸送・保管・販売計画指導・農業機械の販売・修理・メンテナンス等に重点を置くべきではなかろうか?尤も、JAも事業利益を度外視しては、経営が成り立たないから、ある程度の多角化は仕方ないとしても、丸でゼネコンみたいに、金融・保険・不動産・住宅・アパート・マンション・自動車販売・ガソリンスタンド・介護施設にまで手を伸ばし、職員には農協共済のノルマを課すようでは、設立当初の理念から逸脱したことになる。私は思う。今やTPP問題のように、農業も国際競争に向き合わざるを得ない時代となった。今こそ農業に関わる全ての人々が根本に立ち返って、何を成すべきかを決断せざるを得ないと思う。終わり