Ⅰ:昭和30年代前半、石貫小学校の5月の行事に、潮干狩りがあった。目指す“菊池川”河口の滑石海岸までは約10km、当時虚弱児童だった私は、楽しい事よりも苦しい思い出が、より強く残っている。特に沢山のアサリを入れたリュックを背負っての帰途、私は友人の肩を借りつつ、青息吐息でやっと家まで辿り着いた。

Ⅱ:昭和30年代後半、越境入学した私は、石貫から“繁根木川”沿いの砂利道の県道を唯一人、叔母に買って貰った自転車(山口号)で、4km先の玉名中学まで通学していた。蒲鉾状の砂利道では幾度も転び、手足に擦り傷を負った。飼い犬のポチが前になり後になり、4km先の学校まで付き添って呉れた。

Ⅲ:昭和40年代初頭、大学生の私は、前記の自転車を内装3段変速ギア(シマノ3ハブ)に改装して、友人と熊本市内をサイクリングしていた。その範囲は竜田山近郊の葦が茂る“坪井川”から白壁の土蔵が立ち並ぶ“白川”下流の川尻・小島地区だった。ホテイアオイが、川面の全面を埋め尽くしていた光景が、鮮やかに蘇る。

Ⅳ:昭和40年代前半、私は外装6段変速のスポーツ自転車を購入し、静岡市内から隣の清水市内に至る“安倍川”や“藁科川”沿いの道を、サイクリストの三浦氏と、サイクリングしていた。辺り一面にうねる様に広がっていた茶畑が目に浮かぶ。

Ⅴ:昭和40年代中盤、私は彼女と浜松から“天竜川”沿いの道をドライブし、巨大な佐久間ダムを見上げていた。此処には、東日本の50Hzと西日本の60Hzの周波数を変換する設備が備えられていた。

Ⅵ:昭和40年代後半、私はゴルフのショートコースが一面に広がる“多摩川”縁の緑地帯を、二頭のコリー犬を連れた彼女と散歩していた。当時の多摩川は、合成洗剤の影響だろうが、堰の下流では無数の泡が風にたなびき、フワフワと宙に舞っていた。

Ⅶ:昭和50年代前半、私は“大井川”東側の河岸道路を、赤のダックスホンダを駈り、何かに衝かれたように疾走していた。当時、日本最長の木橋(蓬莱橋)が掛かっていたが、車両は通行禁止で、徒歩のみで渡ることが出来た。

Ⅷ:昭和50年代中盤、私は“紀ノ川”縁を一家でドライブしていた。此処には江戸時代、奥方を実験台に、世界初の麻酔による乳癌手術を行った、華岡青洲の嘗ての住まいがあった。

Ⅸ:昭和50年代終盤、私は再び故郷に戻り“菊池川”の河原に家族で出かけ、子供達と水面に向かって、平たい石を投げては、何回ジャンプするかを競っていた。

Ⅹ:平成20年代 私は還暦もとうに過ぎ、外出自体が億劫になりつつある。然し週末になると、孫達が遊びに来て、自宅脇を流れる“馬場川”で水浸しになって終日遊んでいる。完