日揮

最近、毎日のようにTVのトップニュースで報じられるのは、例のアルジェリアで起きたテロ事件で、10名の日本人技術者が殺害された。私はこのニュースを見る度に、一般の人々とは異なる感慨を覚える。世紀が代った2000~2001年は、私にとっても大きな転機の年だった。新規ビジネスを始めた三菱電機の子会社から乞われ、海外向けのICマーキング機(半導体チップの表面にレーザー光線で型名等を印刷する装置)の責任者として着任したものの、開発が難航し、やっと納めた台湾向けの装置はトラブル多発。部下と共に現地に赴いたものの、抜本解決には至らず、度々上司に呼び付けられ、延々と叱られた。それだけならまだしも、腰巾着の経理マンからまで皮肉られたのが堪え、私は56歳の若さで退職届を提出した。然しこの事実はどう見ても敗北者としか言い様がなく、その後暫くの間私はひどく落ち込んだ。
そんな時、荏原製作所の子会社が、南関町に半導体装置の製造拠点を設けるとのニュースを聞き、暗闇の中に一筋の灯火を見付けた如く、勇んで応募した処、目出度く採用決定。翌2001年から、3ヶ月間の神奈川県藤沢事業所での研修を経て、荏原九州に勤務することになった。専務の面接を経て、私に与えられた役職は、品質保証部長だった。荏原製作所は、元々ポンプで有名な企業であるが、先々の成長が見込めないことから、半導体装置に手を伸ばした時期で、社長の考えから、同社の旧態依然足る体質を変えるべく、新会社の社員には新人の他、様々な業歴を有する社員を雇用された。勿論、上級幹部の大半は荏原出身であったが、専務が“日揮”出身の人だったので、同社から引き抜かれた社員も多く、私の直属部下も元“日揮”だった。彼らは皆優秀な上に責任感がひと際強く、私は帰宅した後も幾度も部下から、仕事に関する相談の電話を貰った程である。
又私は、同社の社風にも驚いた。通常会社のトップは別室に座るのに、専務の席は我等と同じ大部屋の一角。私のような部長も、課長も、平社員と殆ど同格の扱いである。詰りは管理職は名ばかりで、専務のワンマン会社なのだ。新規事業にはユニークな人材が相応しいとの考えで採用したこともあり、人的トラブルも多かった。私は地元出身なので、専務の私的面のサポートをも担当した。車を運転されない専務の、お抱え運転手役を始めとして、マンション借り上げの仲介やら、外注先の社長との連絡調整、はたまた出張から戻らない問題社員の説得と、その業務は多岐に及んだ。中でも印象深いのが、外国人対応である。装置の心臓部がイスラエル製だったので、同国の技術者との応対から、休日の旅行ガイドまで何でもこなした。そのご褒美に、珠には専務の馴染みの店で晩酌のお供も!居酒屋で盃を酌み交わしつつ語られた日揮時代の話は、厳しく・暖かく・赤裸々で、私はグイグイ引き込まれた。
今毎日のように報じられている、アルジェリアでのテロ。日揮の社員10名が犠牲になったと聞き、私は深く同情し、到底他人事とは思えない。彼らは私のような一般企業の社員とは異なる、特別なスキルを有するコマンド、即ち現代の特殊部隊の戦士である。安全で平和が当たり前の日本とは全く異なる環境で、文字通り命懸けで業務を遂行している。原発事故以降、エネルギー確保が待ったなしの課題に迫った我が国は、欧米諸国に大きく遅れた資源外交を、抜本的に強化することを求められている。国はその尖兵として、民間企業をアテにしているようだが、東南アジア諸国なら兎も角、アフリカのような全く文化の異なる国で、エネルギープラントを建設するには、最初から国(含む自衛隊)が関わるべきである。さもなくば、日揮のような一民間企業が背負うには、重すぎる危機に直面した時、命を捨てねばならないのは、何の罪もなく、掛け替えのない貴重なスキルを有する、社員一人一人なのである。亡くなった皆様のご冥福をお祈りします。終わり