give&take

“ギブアンドテイク”という英語は、今や半ば日本語化していて「相手に利益を与え、自分も相手から利益を得る」或いは「もちつもたれつ、支え合う、歩み寄り、共存共栄」などの意味がある。日本人は明治維新の後、欧米の文物だけでなく、多くの言葉を取り入れて日本語化したが、時が経るに従い熱意が薄れたのか、安易に英語そのままに、カタカナ言葉として受け入れるようになった。江戸時代以前において、この意味の日本語が存在しなかったのが不思議だが恐らく行為としては、日常的に行われていたのではなかろうか?
私は現役時代、この言葉の意味する行動が大変苦手で、随分損をしたし、周りに迷惑を掛けた。と言うのも、一人っ子だったこともあり、幼い時から取引とか駆け引きとか、他者とネゴする習慣が身に付かず、大人になった後も大きな欠点として残った。
私の現役時代のハイライトは、1980年代後半からの10年間で、年齢は三十代後半から四十代前半、勤務地は和歌山と熊本だった。当時はバブル期に当たり、業容は拡大に次ぐ拡大、行け行けドンドンの趣すらあった。仕事が洪水のように押し寄せ、あれもこれもやれと言われ、人を増やさねば対応出来ない、今考えると夢みたいな時代だった。生産拡大には人員増強と設備投資が二本柱だが、前者は人件費増大を招き、後者は償却費負担がのしかかる。
そんな時代、私は何の疑いもなく素直な心で、上長に自部門の人員増強を願い出た。そうしたら「マアそこに座れ!」と言われ、コンコンと説教された。「アンタは人を増やすことが、どんなことか分かってない。現業部門でも散々ネゴをして漸く人手を確保しているのに、間接部門で一人でも増やすのは至難の技である!」と。成程それが真実であっただろう。結果として、私は“現業部門が持て余していた問題社員”を部下として抱え込むことになった。然し、その男の生き様から自立心の重要性(アパート経営)を教えられたのは、不思議な巡り合わせと言うしかなく、私は今も彼に感謝をしている。
あの時代から30年、日本は終戦から長く続いた成長の時期を終え、今や収縮に向かい始めた。それは九州の片田舎でも如実に感じられる。先日のことであった。近隣のTさんが、畑仕事をしている私に 近付いて来て言われた。「龍さん!我家ン田圃を作らんかいた?勿論無料で」と。私はこの数年、多くの人から借地してコメ作りをしているが、先方から貸地を申し出られたのは、初めてである。Tさんは、私より高齢ではあるが、健康で、大工の息子も居り、自家の近くに田圃があり、農業機械も一通り所有されている。こんな恵まれた人までもが、農業を続けたくない日本は、今や農地荒廃の入口に差し掛かったと云えるだろう。
私は退職後、自己所有の優良水田を知人に貸し(give)、担い手が無くなった山裾の水田を借り受け(take)、若い人々と農業をして来たが、今や農地の供給過剰が起きつつある。と言うのも、我家の近隣でも、近年じわじわと、耕作放棄地が増加しているからである。
何故こんな事態になったのか?それは、農業では生活が成り立たず、担い手が居なくなりつつあるからだ。当地石貫の米作りの担い手は、50代以上が大半で、中心は団塊の世代の60代と言って良い。こんな時代の到来を見越して、国は一昔前に大半の農地を、多額の経費を掛けて基盤整備(集積化・矩形化・農道・給排水路整備)をしたのに、その優良農地すらもが、荒廃が始まった。
先頃の総選挙では、大方の予想を越えて自民党が大勝した。政権を握った自民党は、軍備増強を含めたインフレ政策に突き進みつつある。大勝の起因は地方農村部の組織票だったのに、安倍氏の持論であるインフレ政策を実行すれば、最初に痛め付けられるのは、高齢者を含む弱者(農業者・年金生活者・未組織労働者)であろう。米作りは、私の様な無農薬・無肥料栽培でも、土地代や燃料代の他に、材料(種籾等)、資材(田植箱・電気柵等)、機械(刈払機・トラクタ・田植機・稲刈機・脱穀機・籾摺機等)が必要不可欠で、例え中古機であろうとも、稼働率が低い上に、補修費も馬鹿にならない。
我が農業スタイルは、何故か嘗て共産圏で行われていた、コルホーズに似ていそうだ?ならば、歴史は繰り返すの例え通り、何れ滅びる運命か?嗚呼悲しき哉!終わり
追伸:10年程前に知人から貰い受け、可愛がっていた我家のガチョウ“シロ”二羽が、今夏の九州北部豪雨で、遥か下流まで流され、数度の捕獲作戦も失敗し、とうとう餓死してしまった。せめてもの救いは、その直前の6月末、RKKミミー号の取材を受け、私の腕に抱かれて「ガー」とひと啼きしたことである。