巨星墜(お)つ

その一
谷口巳三郎氏が昨年の大晦日にタイで逝去された。前日は知人の結婚式に、遠路自ら車を運転して出席された、その夜の出来事だった。余りにも鮮烈で、巳三郎氏ならではの大往生だったとしか言い様がない。同氏と奥様の恭子氏は、私にとって我が両親に次ぐ程の大きな影響を受けたご夫婦であり、企業人としての前半生に次ぐ後半生を“ボランティア”というカテゴリーで染め抜いて頂いた、掛け替えの無い人でもある。私と氏の出会いは、バブルが弾けつつあった、1990年代初頭に遡る。私は熊日新聞元旦特集号で先生の活動を知り、その後「タイとの交流の会(谷口プロジェクト)」の事務局長まで務め、北タイのチェンライ郊外に位置する谷口21世紀農場へは、会社に一週間の休暇を願い出て都合4回も訪問した。今の時代なら東北の被災地へボランティアに行くと言えば、会社の上司は快く許可を出すだろうが、当時の企業にはそんな雰囲気は全くなく「会社が(バブルがはじけて)大変な時に、課長の分際でアンタは一体何を考えているんだ!」と部長から明白に詰られたのを、今もはっきりと覚えている。私はそんな“罵詈雑言”にもめげず、喜び勇んでタイを訪問した。
訪タイの最大の目的は、巳三郎氏とお会いし、話を聞くことであった。同氏の話は哲学そのもの、それも日々自ら体得し、実践されていることであった。サバンナ気候で暑いが、それでも心地良い冬の夕刻、20ヘクタールにも及ぶ広大な谷口二十一世紀農場の中程にある、先生の住まいの前の屋外テラスに三々五々腰掛け、我ら訪問者は他では絶対に聞けない程生々しく、そして悲惨な開発途上国の現実と、国家規模で取り組むべきスケールの貧困や差別に対し、高齢の裸身一つで雄々しく挑んでおられる氏の崇高なまでの話を聞き、文字通り身や心を洗われたのであった。
そのテーマは、山岳少数民族の不法越境侵入・家族計画の不備による子沢山・困窮・売春・エイズ・焼き畑による農地の表土流亡・軍隊を含む公務員の汚職・国民の不法銃砲所持・農地の細分化(均等相続制度から来る圃場整備の遅れ)等々多岐に亘った。タイ訪問には、全ての人間にとって大切なことが数多く含まれており、当時四十代だった私は、その後の半生を生きる上に於いて、月並みの海外旅行の何倍もの価値を有する、極めて大切な事柄を得ることが出来た。
もう一つの楽しみは食事と小旅行であった。我ら訪問者は到着翌日から、氏が計画された旅行プランに基づき、巳三郎先生の数名の教え子が営む少数民族の寮を慰問し、日本から持参した慰問品や支援金を贈呈した。何れの寮も日本人篤志からの支援金を基に、現地人を雇用して運営されていて、いたいけな子供達が民族衣装を纏い、精一杯の歌やダンスで歓迎して呉れた。少数民族とは、タイの隣国である、ミャンマー・ラオス・カンボジア・中国雲南省などから、国境を越えて侵入した人々で、所謂グリーンカード(身分証明書)を持たない人々である。従ってこれら少数民族は、タイ人と違い初等中等教育を受けれず、成人しても職がなく、仕方なく売春や麻薬売買などに手を出すのであった。然し、あれから既に20年、そのタイも今や水害のニュースで明らかになった如く、工業化が進んで後進国から脱しつつあり、先生ご自身の使命が、終わりつつあったことを希しくも示している。ご冥福をお祈りします。
その二
それから2週間後の夕刻、我が庄屋の店頭で、知人の“あいあい庵”さんと屋台の解体、積み込み作業をしていると、川向の県道が数珠繋ぎの渋滞で、救急車が来ている。同氏曰く「バイクと軽自動車の衝突」らしい。処が、後に事実を知って私は驚愕!“石貫の巨星”K氏の、バイク運転中の心臓発作による急逝だった。K氏は、私が現役だった2003年に、公民館支館長就任を要請され、ご自身も“区長会長兼石貫まちづくり委員長”として自ら陣頭指揮の傍ら、私を裏から支えて頂いた大恩人である。氏は人脈がとても広く、頭も体も良く動く人だった。氏のお蔭で、崩れかけていたナギノ交流館も修復出来たし、竹炭窯も建設した。あれから10年が経過した今年、まちづくり活動も終焉し、ナギノ交流館にも関東の若者ご夫婦が入居された。これもK氏の御陰というしかない。
私は思う。現代は栄養状態と介護医療の発達で、日本人は世界でも有数の長寿国になった。然し、寝たきり老人や、訪問介護なしでは一日も過ごせない人々もまた多い。従って多くの老人の願いは、所謂“ピンピンコロリ”とか?
私は、巨星のお二人とは違い二等星か三等星だが、高血圧を除けばさしたる持病もなく元気である。然し何れ身罷る時は前記のお二方に倣い、ピンピンコロリと逝くことを願っている。終わり