山本五十六

昨年はことのほか忙しく、大晦日の夕刻ギリギリまで仕事をしたので、新年位はゆっくりしたいと思い、元日早々熊本市まで映画“山本五十六”を見に行った。勿論この映画の主題は第二次大戦、それも太平洋戦争の戦端を開いた、ハワイ真珠湾攻撃とその半年後のミッドウエー海戦、そしてガダルカナル戦が舞台となっている。多くの戦争映画は戦闘が主題であり、この映画も勿論戦闘場面も多く、セットも稚拙さが然程目立たず良い出来だったが、この映画は何よりも山本五十六個人の人間的魅力に光を当てている処が素晴らしい。山本は若き頃、米国に海軍駐在武官として赴任し、米国の奥深さと、米国人の気質を知り抜いた知米派であり、外交交渉の経験から他の日本軍首脳とはかなり異なる対米認識を持っていた。そして知米派だからこそ開戦には最後まで反対しつつも、決まった後には真珠湾奇襲も自ら立案したが、現実には宣戦布告が大使館員の翻訳の手間取りなどで遅れ、後後まで“日本は闇討をした卑怯な国”との汚名を被ることになった。
私は、この映画を見つつ無意識に“太平洋戦争が我家に及ぼした影響”について考えていた。昭和20年の敗戦後、米国はマッカーサーの指示の下、日本の庄屋階級を戦争を支えた“力の源泉”と見なし、徹底的な解体を図った。それが即ち農地開放と公職追放である。我家は戦前4町歩(4万平方メートル)位の農地を有する、200俵取りの小規模地主であったが、戦後はその大半を失い、僅か8反(8千平方メートル)を有するのみとなった。更に私は2003年の退職時に、その内の2反半を宅地化しようと埋め立て、残った5反半の田圃は知人に貸与したので、自身の耕作田はとうとうゼロになってしまった。私が農業に目覚めたのは、その5年後である。2008年から2010年にかけての3年間、我家はNPO法人「パーマカルチャーネットワーク九州」の活動拠点となり、日本全国から若くて優秀な人材が多数結集して、様々なイベントが開催された。その中で、米作りはメイン行事の一つとなった。私は、これらの若い男女に当地で米作りを体験して頂く為に、昨年迄の4年間に、鷽の谷10枚、片白12枚、古城原6枚、合計28枚にも及ぶ棚田を借地したのである。地元の人々から見れば、私は“風変わりな物好き”と見えるに相違ない。
そんな中、昨年3月には東日本大震災が襲来し、我家には津波ならぬ大きな“人の波”が押し寄せた。それは玉名市出身で東京在住のM氏が玉名の実家に戻られ、関東から多くの知人を呼び寄せられたからである。その内の御三方が、目出度く此処石貫に住まわれることになり、私はこの人々と共に、関東で放射能の不安に怯える人々に、安心して美味しい米を食べて頂く為に、現在田圃の整備をしているのである。
その中でもハイライトとなったのが、I君から借りた日当たりの悪い2反弱の田圃である。この田圃は南北に細長く、その西側傾斜面には夥しい本数の真竹が群生していて、その多くが田圃に向かい覆い被さっていた。その竹を一本一本伐採し、採寸して玉切りし、百米近くにも及ぶ猪避けの竹柵を、延々と構築したのである。この作業は正に女性パワーが炸裂した。真竹は真直に見えても、殆どが曲がっている。その竹を上手に組み合わせ、揃えて固定する作業は男性でも結構しんどい作業である。然し女性特有のきめ細かさで、几帳面に選別・組み合わせて構築した竹柵は、誰が見ても見事と言うしかなく、さながら寝そべった“龍”の形にも見え、近くの道路を通る車が態々停車して、見とれるほどの出来栄えとなった。
私は、日本有数の米処である新潟県長岡で育った山本五十六が、負けると分かっていた戦争にも拘らず、ありったけの航空戦力を真珠湾とミッドウエー海戦に、一挙に注ぎ込んだ気持ちが、何となく分かるような気がする。この映画の中で、五十六はどんな激しい海戦の最中でも、戦闘そのものには全く関与せず、部下と黙々と将棋を指し続けていた。五十六にとっては「戦闘が始まる迄!」が全てだったのだ。
私は五十六の足元にも及ばない、一介の人間に過ぎないが、来る6月の田植えの時には、敢えて陣頭指揮は取らず、畔の上から皆さんの田植え作業を、静かに見守りたいと考えている。終わり