母子家庭

先日、近所のIさんが急逝され、私も同じ組内なので家内共々手伝いに行った。Iさんは土建業を経営され、人格者で交際も広かったらしく、市内で最も広いJA斎場の両脇が花輪でギッシリ埋まり、通夜も葬儀も席が足らない程の参列者が押しかけた。最近は仕事の関係から、昔は近親者や近所の人々のみで執り行われた“通夜”が、翌日の昼間に実施される、本番の“葬儀”以上に参列者が多い。従って通夜の受付は、目覚しと香典の受付が併設され、然も業者関係と一般(個人)の受付も別々なので、実質的に4名が窓口で対応することになる。 私は個人の香典受付を担当したが、必死にさばいても、長い行列が出来る程の参列者で、目が廻るような忙しさだった。それにしても私より4歳も年下の、還暦での逝去は余りにも早過ぎる。
私は多忙な受付をしつつ、半世紀前の情景を想い起していた。昭和30年代、我家の近隣に3軒の母子家庭があった。我家が最初(31年)で、数年後TさんとIさんも相次いで夫を亡くして、母子家庭となった。そしてこの両家には共通点があった。何れも上が兄で、下が妹の3人家族なのである。当時の日本は未だ貧しく、福祉制度も未整備で、特に母子家庭には様々な困難が押し寄せた。そんな家庭環境の下で、母親は“女”から“男女”(おとこおんな=男勝りの女性)に変身する一方 “息子”に対しては、異常とも思える偏愛と、背負い切れない程の期待を寄せる。3人の寡婦の中で最年長だった私の母は、他の二人に共感し、再婚などは一切考えず、女手一つで子供を育て上げようと、互いに励まし合っていたように記憶している。当時、母の口癖だった「お前さえ居れば、パパが居なくても、自分はちっとも寂しくない!」が今も私の脳裏に残る。(私の母以外の二人の老母は、高齢ながら現在も存命中)その甲斐あって 3人の息子は何れも大学を卒業して社会人になった。但し、私以外の二人がサラリーマンを30~40代で辞めた後に、起業したのに対し、私は50代まで会社に勤め、その後農業(事業とは言えず云わばボランティア)を始めたことである。これは言い訳になるかも知れないが、私が「タイとの交流の会(谷口プロゼクト)」に十余年、関わったことが、大きく影響している。
そして、この3人の内の一人が他界した今、私もそろそろ次世代のことを考えなければならない時期が迫ったことを肌で感じる。勿論次の農業の担い手は我が長男であるが、結婚もしていない現在、東京から戻って農業をせよと言える情勢にはない。退職まで待つなら、私は残り30年も農業をせねばならず、到底不可能である。私が老体に鞭打って、この後10年頑張り、息子が40歳で退職して子供連れで熊本に戻っても、その後の生活設計が展望出来る情勢にはない。
と言う事は、私も他の二人に習って起業すべきであったか?然し、我が家系で事業に成功したのは、叔母(父の妹)一家を除いて他にない。その島田家は元は玉名市横島の豪農であった。玉名市は大きく分類して、中心部の旧高瀬町一帯を境に、北が山付き、南が海付きと呼ばれ、両者の気性は大きく異なる。一言で言えば山付きはコツコツ型で、兼業農家が大半、海付きは一発勝負型で事業家が多い。従って山付きの石貫出身の事業家は少数である。私は今頃になって思う。37歳で熊本に帰郷した時、再就職せず、農業法人を起業する道もあった。若しもそうしていたら、今頃は私も専業農家として、近隣一帯の農地を幅広く借り受け、機械化農業を営んでいただろう。然し、それが成功したか否かは未知数である。私は既に64歳なので、今更起業する道はない。ならば息子の将来に期待して、それまでは今の農業を細々と続けるしかない。
そんなことを想いながら、今日も孫娘と、犬を連れて田圃の見廻りに行ったら、ちょっと目を離した隙に犬が紐を引いたまま行方不明になった。さあ大変!一旦家に帰り、軽トラで彼方此方探し回ること30分。近くの馬場部落の一軒の玄関先で我が犬を発見!やれやれ一安心。こんな時思い出す。Iさんは生前、血統書付のラブラドール犬(Iさんに先立って死亡)を引連れて毎夕散歩していた。私は父親も分からない雑種の犬を引連れて散歩している。犬も人間も雑種が長生きするのか、私は今も健康である。終わり