大震災
東日本大震災が勃発して早一ヶ月が経過した。震災を免れた私にとっては、あっと言う間であったが、被災者に皆さんにとっては、さぞかし長くて辛い一ヶ月であったと想像される。そして幾多の人々から「この震災を機に日本は新時代に移行する」との論調が寄せられている。その多くが、色んな意味で良い方向に変わるとの見方であり、そうであれば膨大な人的・物的損失が齎した結果とは云え、犠牲者の魂も少しは浮かばれよう。中でも今回の福島第一原発の事故による放射能汚染は、広島・長崎への原爆投下、米ソの核実験、スリーマイルアイランド、チェルノブイリに続く、核エネルギーの功罪についての大論争を引き起こすだろう。事実、各方面の人々により活発な反原発の訴えが成されている。それと表裏一体として、電力不足とその対策についての議論も活発化している。
私はこの種の問題についてとても興味がある。と言うのも、私が物心ついた昭和20年代は電力不足の時代で、停電は日常茶飯事だったからである。特に雷雨や台風襲来時には、必ずと言って良いほど長時間停電した。従ってローソクは家庭の必需品(香典返しのスタンダード品)、我が家にはそれに加えて(ボンボリと称す)灯油ランプも常備してあった。停電時には、ちゃぶ台の中央にランプが置かれ、家族4人がその周りに座り、語り合いながら電気の復旧を待った。私は当時この時間がとても好きで、停電を心待ちにしていた程である。当時の自家は古くて倒壊の危険があったので、暴風雨の時は家族一同で、米蔵(現右馬七亭)に筵を敷いて、避難していた。
あれから既に半世紀以上が経過し、今や生活の隅々にまで電気が浸透して、それなしでは一日も暮らせなくなっている。こんな時代に原発反対を唱える人々は、原発に代わる対案を示す必要がある。私は、生活スタイルを昭和20年代に戻せば、充分可能だと思う。と言うのも、当時の我家は10室もあったのに、電力は5アンペア契約。電力消費は、冷蔵庫もテレビも無いので昼間は殆んどゼロ。夜間も茶の間の60Wと台所の40W電球、それにラジオを加えても最大150W(1.5A)程度だった。偶にアイロン等を使用すると、ヒューズが飛んで停電。父は電器が苦手だったので、態々叔父を呼んで修復して貰った。当時は現在のようなブレーカ(電流制限器)は、設置されていなかった。
食糧は米と麦、味噌・納豆・お茶・野菜と果物(柿・栗・梅・桃・枇杷・無花果等)は自給。購入品の主体は砂糖と塩と醤油。調理は全て自家の山から伐り出した薪と柴を燃料にした竈。風呂の燃料は麦藁と稲藁。台所と風呂の水は、井戸から手押しポンプで汲み上げ。移動手段は徒歩か自転車、バスか鉄道、貨物運搬は自転車、リアカー付き単車、三輪トラック。勿論エアコンなし、冬場の暖房は木炭火鉢か、掘り炬燵に湯たんぽ。夏の暑さ対策は、団扇と蚊帳である。
多分、60代以上の人なら、上記の実体験があるので、やろうと思えば今でも可能である。然し若い世代には到底不可能な生活スタイルである。
こんな生活を最近までされていたのが、私が10年近く茶道を習った谷口恭子先生である。先生は、かなりの過激派で、茶室と寝室・台所だけのオンボロ家屋に住み、電灯は30w蛍光灯一つ。ガスレンジは一口で玄米食。冬は炉か火鉢。夏は扇風機一台。暑い時は茶室の地下に掘った芋窯の中に篭られていた。それ故に主張も超過激で、電気を食うエアコンが大嫌い。自販機は全廃を主張。茶道教室の運営に必要だった為か、ガソリンを食う車は、批判されなかった。私は元エアコンの設計者で、自販機を持っていたので、先生の過激な話が始まる度に、困惑の表情を浮かべつつ聞いていた。私は思う。今こそが半世紀前の生活の実体験をする絶好の機会であり、反原発を叫ぶ人々は、是非実行して頂きたい。私はその感想を聞きたいものである。終わり