辞職

先日、鳩山首相が小沢幹事長共々辞職したとのニュースが飛び込んだ。昨年8月末の歴史的な政権交代から9ヶ月、余りにも短い政権であった。それにしても昨年末からの半年間、TVのトップニュースは毎日の様に、沖縄普天間基地の移設問題を報じた。私は過去数十年間に起きた各種の政治的問題の中でも、この問題はかなり異色だったと思う。それは須く軍事的見地から論ずべきテーマを、もっぱら周辺住民の被る騒音や、事件事故の観点から論じたが故に、問題の本質が歪められ、百花争鳴の如き様相となったからだ。そして土壇場になって鳩山首相が(中国の膨張に対する)抑止力の観点から、沖縄以外への移設は難しいと気付き、辺野古沿岸区域に戻してしまった。首相に限らず、日本人は問題の本質を見極めることが不得手で、多くの場合情緒的に反応する。首相辞職の引き金ともなった社民党の主張などは、昔の日本社会党が一枚看板の様に安保反対を唱えていた発想と殆ど違わない。私は今回の政変劇を見ながら自身の過去を思い出した。私は現役時代に4度も辞表を提出した経験を持つからである。
その一:1984年(37歳)
私は業務用エアコンの事業移管に伴って、三菱電機静岡製作所から和歌山製作所に転任し、当時は設計主事だった。大所帯の静岡から小所帯の和歌山に移ったので、私の担当するエアコンは、和歌山製作所売上げの半分近くを占め、私は文字通り和歌山の運命を左右するキーマンになった。そんな前途洋々の立場にありながら、自身が静岡時代に設計したマルチセントラルエアコンの市場クレームが切欠で、辞表を出す羽目に追い込まれた。丁度鳩山首相が、自ら手をつけた普天間基地問題で躓き、辞職したのと良く似ている。然し私の辞表は結局受理されず、同年末同社熊本工場に転任となった。和歌山製作所での勤務期間は僅か3年4ヶ月であった。
その二:1997年(50歳)
十余年務めた三菱電機熊本工場の課長職を後進に譲り、台湾とドイツの子会社に9ヶ月ほど出張して、半導体工場を立ち上げた。台湾は大成功だったが、ドイツではチームワークの乱れから上司の意向に添えず、終了を待たず帰国した為に、その後一年半殆ど仕事がない閑職に追いやられた。堪らず辞表を提出したところ、懇意にしていたN社の専務が、社長室長の肩書きで出向を受入れて頂いた。
その三:2000年(53歳)
三菱電機の子会社に出向となり、新規事業の半導体製造装置の外販に取り組んで僅か1年。クレームの連発に加え、海外事業の失敗もあり、詰め腹を切る形で辞表を提出した。これは受理されて、私は60歳の定年を待たず、53歳の若さで三菱電機を早期退職した。
その四:2003年(56歳)
郷土玉名に進出した荏原製作所の子会社の荏原九州に再就職し、品質保証部長の肩書きを貰ってISO9001の取得に成功した。翌年には技術部長に昇格し、前途が開けたかに見えたが、思いもよらぬ腹心の部下の離反が切欠となり、志半ばで最期の辞職をする羽目となった。
人間は欲の塊かもしれない。若い時分の私は欲もなかったので、多くの人々に可愛がられた。特に静岡時代は客先への出張には、本社や営業所から私を直々に指名されることもあった。和歌山時代には、所長室に何度も呼ばれ、直々に期待の言葉を頂いた。(この所長はその直後、交通事故でご夫人共々他界された)然し年を経るに従い地位も向上すると、ライバルとの対立や、上司との軋轢も比例して増す。
きっと鳩山首相も、若い時分は周りの皆に可愛がられたのだろう。然し首相にも登り詰めればそうは行かない。僅か9ヶ月の政権期間は本人にとっては不本意極まりないかも知れないが、故佐藤首相の様に長ければ良いというものでもない。私は鳩山氏にエールを送りたい。あの普天間基地移設問題を白日の下に晒して世間の耳目を集めたのは、功績とも言えるからだ。そして後事を託された菅首相は、鳩山氏が説明し得なかった“抑止力の実態”を国民に分かり易く説明し、理解を得て欲しい。終わり