竹は木と並んで山林の代表的な構成要素であるが、嘗て中国から来た帰化植物らしい。代表的な種は孟宗竹、真竹、淡竹(はちく)、女竹(多くの亜種あり)の4種類である。現在我が屋敷には孟宗竹しか残っていないが、私が子供の頃は前述の4種全てが生えていた。孟宗竹は家の北側の小高い大地上にあって北風を遮り、且つ筍として食材の役目。真竹は川沿いの傾斜地にあって土地の崩落を防ぎ、稲の掛け干しや藁葺屋根の骨材など農業・建築資材の他、食材としての役目。女竹は屋敷や畑を囲んで風を遮り、隣地との境界を示し、インゲン豆のような蔓性野菜の手の材料として。そして淡竹は中庭に、観賞目的として。
竹は木と異なり一年で成木(竹)となり、2年目以降はひたすら子孫繁栄の為に光合成をする。従ってほっておけば、そこら中が竹林と化す。私が玉名を離れていた18年間に、母が一人住んでいた我家は、殆ど三方を竹林に囲まれて幽霊屋敷同然になった。特に孟宗竹は座敷の畳を持上げたり、縁側の下で横に伸びたり、ひどい状況だった。私は帰省後、昭和59年と平成10年頃の2回に分けて孟宗竹の2/3を伐採し、桜や銀杏や欅に植え替えた。自生していた藪椿には肥後椿や山茶花を接木した。中庭の淡竹も自宅改築時にやむなく伐採した。そして真竹と女竹も数年前やはり皆伐して落葉樹に植え替えた。従って現在私の屋敷内には孟宗竹しか生えていない。私の半生、伐っても伐っても次々に生えてくる竹は、まるで親の敵のような存在だった。その“竹の亡霊”から私がやっと開放されたのは2年半前、私が我家に来た最高のwwooferと見なしている兵庫県の柴原君と、一週間掛かって県道対岸にあるクヌギ山の真竹と女竹を伐採して以降である。
然し“過ぎたるは及ばざるが如とし”とは正にこの事を指すのだろう。現在私は12坪のイベントスペースを建設中であるが、外壁は自然素材の土壁と決めている。その材料は、真竹、女竹、棕櫚縄、土、稲藁なのだ。それが何としたことだろう。屋敷内の竹林を伐採した為に、近くで材料を調達出来ず、態々離れた山まで竹を採りに行かねばならなくなった。
私は最も頼りにしているNさんと、数日掛かりで100本ほどの真竹を、300mほど離れた川向の親戚所有の山から伐り出し、自宅まで軽トラで何度も運んだ。女竹も同様である。真竹は定尺で切断し、特殊工具を使って3~5分割し、女竹と組合せて竹組みを作って棕櫚縄で締結する。この何時果てるとも知れない土壁の骨材組み付け作業にも、Nさん他パーマカルチャーメンバー数名の多大なる助力を得た。
この延々たる作業をしていると、私の脳裏に“セピア色に染まった遠い昔の或る光景”が鮮やかに蘇る。あれは昭和30年前後、私が未だ小学生の頃だった。川沿いの往還(現在の県道を当時はそう呼んだ)にある高本家の前のエノキかセンダンの木に登って、私は下を眺めていた。高本爺さんは、木の下に莚を広げ、胡坐をかき、右手に小刀を持ち、左手で真竹を送り、シャーン・シャーンと小気味良い音を立てながら、細かく割いていた。その手付きの速さと正確さ、さながら剃刀の様な小刀の切れ味、割かれた真竹の細さと綺麗さは、今も鮮明に覚えている。多分笊の材料を作っていたのだろう。当時は今の様にプラスチック製品はなく、生活用具の殆どは自然素材で作られていた。
そうだったのだ。我等は現代の高本爺さんなのだ。そう思って竹組みを眺めると或る事に気付く。Nさんが組み立てた部分は、見事に開口率50%なのに、私が組んだ部分のそれは、40%位しかない。私は竹組み作業の開始前、プロに一面だけ見本を作ってもらった。その開口率はどう見ても50%以上である。この後土壁塗りをしてみれば、開口率の是非が分かるかも知れない。
現代建築は、施主の年代で大きく異なる。若い世代の多くは、大手住宅メーカの一見煌びやかで、例えばプロバンス風とか名付けられた、メルヘンチックな家を好む。他方熟年世代は、自然素材を主原料とする日本古来の伝統建築を好む人が多い。伝統建築を後世に残すには今しかない。そんな事を考えて作業していると、孫娘が来て竹組みを手伝うと言う。私は嬉しくなって孫と一対になり、棕櫚縄締結作業を実施した。その脳裏に今日の風景がセピア色に染まって残る事を強く念じつつ!終わり