青い鳥

昭和40年、私は熊本大学工学部に進学し、10月から大学近くの熊本市下立田に間借りした。そこの1年先輩A氏は、身長180cmの偉丈夫で色浅黒く男前だった。今は亡きA氏は後に通産省に入省したエリート官僚だが、当時は自分で組立てたステレオで重低音をズンズン響かせ、未だ珍しかった自家用車(パブリカ)に、彼女を乗せてドライブするようなプレイボーイだった。A氏は田舎者の私に「メリちゃんも彼女が欲しいだろう!」と言って、自身も創始者の一人だった人形劇サークル「青い鳥」への入会を誘った。(A氏は当時ラジオに良く出ていたハーフの歌手“徳永メリ”のファンだったので、何時も私を“メリちゃん”と呼んだ)
当時の青い鳥は会の黎明期で、実に楽しいサークルだった。20名位のメンバーの多くは法文学部や教育学部の女性、工学部の男性は数名だった。人形劇には、幕の下に隠れて両手で人形をかざして操作する所謂“人形劇”と、白幕の裏から照明を当て、その陰で表現する“影絵”の二種類があった。私は当初キャストをやらせて貰ったが、演技下手なことを自覚して大道具係になった。私はそれまで人が舞台を横切って幕を開閉していたのを、観客から見えない幕尻から出来るように改良した。しかも滑車を使って中央から両側に開閉する凝りようだった。(今のブラインドの仕組み)
夏休みは天草に恒例の公演旅行に行った。五和町では艪舟を生まれて初めて漕いだ。苓北町では子供達が直ぐなつき、纏わり付いて離れない。然し練習では上手く動いた舞台装置が、本番の公演では何故かトラブル続きだった。五和町での公演時は、幕が引っ掛ってとうとう開かず、大恥をかいた。
しかし公演の後は、宿舎でキャンプファイヤーや出し物など楽しいひと時だった。会員同士にロマンスも芽生えた。私も好きな女性が出来た。1年後輩で、細面の気立ての優しい人だった。然し私は田舎者で口下手。好意を“意地悪”という形でしか表せず、ライバルに先を越され、とうとう失恋してしまった。その恋のライバルが、水泳部所属の筋肉隆々ムキムキマンで、プールサイドをこれ見よがしに裸で闊歩するような男性だったことで、私はその後長らく肉体的コンプレクスに陥った。
昨年10月その青い鳥から、還暦記念同窓会の招待状が私のもとに舞い込んだ。幹事は私が失恋した女性で、受付で一目見て分かった。実に43年ぶりの再会で、胸が少し時めいた。ご主人の名前を聞くと、やはりあの筋肉マンだった。然し私は今自分の体に聊か自信がある。退職後5年半、毎日の農作業で、すっかり筋肉質になったからだ。今そのご主人に会ったら言いたいことがある。「腕相撲で勝負するか!」と。