いひゅ

あれは、多分30年程前のことだろう。当時私には娘(長女)が一人居て、多分家内が二人目を身篭っていた時期だったと思う。それまで殆どの盆正月には、家族全員が揃って帰省していたのに、流石に妊娠8ヶ月の家内を車に乗せて、長旅をするのは危険だと思ったのだろう。私はその年の暮れに一度だけ、家内を静岡(焼津)に残し、幼い長女と二人で帰省した。そして再びの帰路は長女を母に預け、家内の両親を載せて静岡まで戻った。この事で、長女は暫く私の母との二人暮らしをすることになったのである。母にとっては一人暮らしの寂しさを癒すには、孫娘との暮らしは何よりの手段だったと思っている。そして、おませの長女は近所の人に自己紹介などして、気の利いた子供だと褒められていたと聞く。然し母は、困った事もあるとぼやいていた。長女は“いひゅ”だというのだ。“いひゅ”と言う言葉はそれまで私も知らなかったが、熊本県人の代表的気質である“もっこす”や“こだわり”と似た様な意味らしい。当時の我家は築後300年とも言われた古い家で、座敷の外は周り縁側になっていて、建付けの悪い10枚の雨戸があった。ある夕刻、母は何時もの様に雨戸を閉めたらしい。処がその日に限って、長女がその場に居なかった。そしてそれを後で知った長女は、母に散々駄々を捏ねて、とうとう全ての雨戸を再び開けさせ、それから自分で(母と一緒に)閉め直したとか。これには流石の母も驚き“いひゅ”だと言ったのだ。
この拘りの強さは、我が徳永家の“伝統”とも言える。私が他のブログで書いた、多くの上司との軋轢も、その多くが私の“いひゅ”に起因するのは、紛れも無い事実だろう。然し、毎年の様に人事異動が発令され、上長が目まぐるしく交代する大企業では“いひゅ”は生き辛い。相撲で言えば、千代大海か、高見盛であろう。相手に拠って取り口を変える器用さに欠けるので、相性が悪い相手には全く歯が立たない。即ち企業では“なまくら四つ”の様な、どんな相手とでも相撲を取れる人間が、結局は出世する。私は千代大海程に出世も出来ず、高見盛程の人気も無かった。然し両関取に劣らず、上位には人一倍闘志を燃やした。お陰で、再三再四土俵に叩きつけられたが、挫けずに歯向かった。そんな“打たれ強い”私が、56歳の若さで退職したのには訳が有る。私は上位にはめっぽう強かったが、下位にはからっきし弱かった。
私の退職の引き金は“部下との軋轢”である。サラリーマン最後の年、私は某社の技術部長の職にあった。若い頃設計技術者だった私にとってそれは得意分野の筈であった。処がそれまでの20年の間に、人心も技術も大きく変わっていた。一昔前の設計技術者は、殆どが新入社員からの叩上げで、上長とは云わば“以心伝心”の間柄。処が最近は、即戦力として中途採用した社員が大勢を占める。彼等所謂新人類は“上長=利用する人”位にしか思っていない。何故なら技術的にも権限的にも、昔の部長とは大違いなのだ。即ち設計は殆どがオンラインのCADシステム、部長と云えども人事権も持たない。そんな技術部長の存在価値は、偶の息抜きの宴会でのスポンサー役だった。然し私はそれでも良いと思った。彼等が私の奢りでストレスを解消し、明日への英気を養って呉れれば!然し彼等にとって、たった1~2万円を惜しそうに出す上司に、哀れみこそ感じても、尊敬の念は抱かなかっただろう。それかと言って私には、10人程の部下に只で奢る程の器量も財力もなかった。私は特に信頼していた部下3名との軋轢を切欠に、34年間の会社員生活にお別れをした。
私は思う。“いひゅ”の本領を発揮すべきは、実はあの時だったのだ。「今夜の飲み代は全て俺が持つ。その代わりこれからは、俺が理解出来るまで説明してから判子を押させろ」と。終わり