両親

私の両親は、6歳違い(父が年上)の夫婦だった。父は私が9歳の時に他界したので、私の父親像は“母という鏡”を通じたものが大半である。先ず、何でこの二人が一緒になったかである。母の実家も徳永姓だけど、血縁関係は全くない。昔の事だから、両者の初顔合わせは“見合い”だったらしいが、その切欠は村長の父と町長の叔父(母の兄)の関係で、知り合いだった事もある様だ。多分叔父が、前妻と離婚して独り身の父に云ったのだろう。「行き遅れの末妹を貰って呉れないか?」と。無論母も、それ以前に何度も縁談の話はあったらしいが、甘やかされて育った為に、我儘が過ぎて30歳になったのだろう。父がその時何と返事したのかは謎だが、その後母を見に行ったらしい。その当時はこのことを「馬を見に行く」と言ったとか。勿論街中の母の実家に、馬が居る訳がない。それは単なる口実で、お茶を出しに来た馬(母)を父が見るのである。
この二人が一緒になったのは、父が36歳、母が30歳の時だから、今考えても決して早くはない。昭和初期の頃、30歳で初めて嫁ぐのは珍しかったのだろう。近所のKさんが馬車を引いたと聞いたが、その花嫁道具は、近所の評判になる程だったとか。街中の造り酒屋の末娘として甘やかされて育った母が、田舎の庄屋に嫁ぎ、舅姑と同居するのは容易ではなかったらしい。母は後々良くこぼしていた。貧乏氏族出の姑は「鍋の底に残ったおかずの汁を捨てる」のも許さなかったと。それは、そのまま次のおかずの汁に流用出来るからであった。然し母は前妻と違って“お姫様”ではなく“町人の娘”だったので、経済観念については合格したのだろう。夫婦喧嘩で実家に戻ったことは何度もあったそうだ(父がその度に母を迎えに行ったとか)が、戻される事態にはならなかった。それ処か、私が物心付いた時分には、姑(当時は伯父一家と同居中)は既に居らず、我家は親子+お婆(手伝い)の4人家族だった。しかし母も前妻と同様、中々子供には恵まれなかった。前後に2度の流産を含み、結婚から9年目にやっと私が生まれた。おまけに妊娠中は悪阻が酷くて、何も食べたくない。たった一つのお好みが“沢庵漬”だったと言うから酷い話である。私が生まれた時、骨と皮だったのは当然であろう。私はその母から、父に付いて色々聞かされた。「酒癖については嫁ぐ迄は知らなかった」とか「決して好きで嫁いだのではなく、三顧の礼で迎えられたからだ」とか。それには田舎を下に見る、町屋育ちのプライドが見え隠れしていた。然し何度見合しても決して首を縦に振らなかった母が父に嫁いだのは、何か“惹かれるもの”が有った為だろう。
私はその片鱗を垣間見た記憶がある。それは“死”に付いてであった。母には死後の世界と言うものが、どんなものか皆目見当が付かなかったし、大いなる“恐れ”を抱いていた。それは私に屡漏らしていた言葉の端々に伺える。「昨晩は胸が締め付けられるように苦しくて死ぬかと思った」と。それかと言って信仰心もそんなに篤くはなく、お寺の説教に出てくる“来世”も、今一つ信用出来なかった。そんな母は父に“死後の世界とはどんなものか”を聞いたらしい。その時の父の回答は“無”であったとか。これは回答なしと言う意味ではない。“死後は何もない”という意味であり、常識で考えれば容易に想像出来る。死とは“永遠の眠り”であり、私達は毎晩“数時間の死”を体験済である。私は母が始終漏らしていた不満と裏腹に、父を尊敬していた理由の一つはその頭脳であったと信じる。その証拠に「パパの頭は剃刀みたいだったよ」と言っていた。然し私は“剃刀の父”と“普通の刃の母”の子供。思う様に切れないのは当然だろう。終わり