金融機関

私が就職したのは1969年、確か当時の給料は現金支給だった。然も当時はインフレの時代で、物価も年々上昇した代わりに、給与の方も毎年かなりの昇給があった。従って、給与支給日の毎月25日や、年2回のボーナス支給日の夕食はご馳走で、家内に給与袋を渡す時「ご苦労様でした」と言われて、男としてはちょっと優越感を覚えたものである。それがどうだろう。何時の頃からか、給与袋の中身は明細書のみとなり、お金は預金口座に直接振り込まれる方式に変わった。これは自社だけではなく、日本全国の企業が、事務処理の簡素化を主目的に、その方向に変わった為だった。然しこのことは、副産物をも齎す事になった。それは各家庭における“亭主の地位”の著しい低下である。勿論我家も同様。給与支給日もボーナス支給日も、特別の日ではなくなってしまった。代わりに利得を得たのは、各家庭のカミサンだけではない。金融機関も同じ様に潤った。毎月一回必ず、社員の口座に給与が振り込まれるから、金融機関としては最高の預金獲得手段であったろう。私は、静岡、和歌山、熊本と転勤したので、その度に地元の金融機関に口座を移し替えた。熊本に転勤した時、私が新たに取得した口座番号は、社員番号に続くラッキーナンバー(1234…)だった。これは縁起が良いと思い、私はこの口座を大切に扱い、生涯持ち続ける覚悟だった。
あれは丁度10年程前の事である。私はリストラで出向となり、当時不遇を託っていた。そして自己の将来に漠然とした不安を抱き、アパート建設を決意した。然し問題は、その建設資金の調達だった。数千万円の融資を受ける必要がある。その場合、日常の取引金融機関にお願いするのが普通だろう。私もそうした。ある日、家内に付いてその金融機関に行き、窓口で“恐る恐る”「融資をお願いしたい」と申し入れた。私はてっきり別室に案内され、ひょっとしたら支店長にも会えるのではないかと期待した。しかし現実は違った。窓口横の狭い机に座らされて短時間、融資担当者と思しき男性2名の面接を受けた。結果は“お断り”だった。私は大きな失望感を味わった。
そしてその数ヵ月後、私はアパート建設業者の紹介で、某生命保険から融資を受けることになり、やっとの事でアパートを建設することが出来た。然し私と何の取引実績もない生保が、簡単に融資する筈がない。裏には保証協会と云う組織があって、其処の担当者が態々東京から来て、我家の資産を隅から隅まで調査して行った。勿論それも只ではない。保証協会へも別途保証料を払わねばならないのである。その上融資金利も決して低くはなかった。
怒りの収まらない私は、ある日再び取引金融機関に出向き、窓口で預金の全額引き出しと、口座抹消を願い出た。アパート建設の頭金に充てる為だった。然し、その日の態度は前回とは大違いだった。顔色を変えた窓口女性の連絡で、上司と思しき男性が現われ「何か失礼な事でもあったのでしょうか?詳しいお話を聞かせて頂きたいので別室にどうぞ」と、それこそ平身低頭の応対だった。私は、それに従っても良かったが、時既に遅かった。「考え直して欲しい」と言うその行員の言葉を振り切り、全額を引き出して口座も解約した。お陰で15年もの愛着がある、あのラッキーナンバーともお別れだった。
私は思う。金融機関は、預金者個人から融資の依頼が来た時、普通なら先ずその人の口座の“取引履歴”を調査するのが手順ではなかろうか?そうすれば、その人の収入から支出の殆ど、はたまた金銭感覚まで見通せる筈である。それを判断材料に、融資が可能か不可能か、幾らなら貸せるのか、答えるのが常識だろう。それとも金融機関は、そもそも個人は預金を集めるのが対象で、貸し先は企業と思っているのだろうか?私はあの後、別の金融機関で口座を開いたが、その番号は何度覚えても直ぐ忘れてしまう、普通の乱数でしかなかった。終わり