ホワイトカラーエグゼンプション

標題のニュースが毎日の様に報じられているが、私はこの制度に全面的に賛成である。と言うのも今から40年近く前の1970年当時、私が入社した企業では、こんな横文字の言葉こそ無かったが、これに類する制度が既に存在していたからである。私は大卒で入社したので、所謂ホワイトカラーに属したが、この制度は高卒であっても、間接部門の社員には洩れなく適用されていたと思う。
当時の制度概要は以下である。時間外(含む休日)労働時間は、原則として40時間/月まで。それを超える場合も、上長の了解を得て50時間まで。これ以上は申告してはならず、仮にやむなく越えた場合には、健康保持の目的でビタミン剤(ドリンク)が支給されていた。当時の間接部門には、タイムカードはあった様に記憶しているが、それは形式的なもので、実質的には各自が毎日の時間外を記入して上長に提出する自己申告制度だった。然し私が属していた設計部門は、こんな制度で縛れる程楽な職場ではない。何時何時までに、新機種を発売するとの目標があれば、労働時間とは関係なく、仕事をしなければならない。然も当時から、景気の好不況は今以上にあったので、一旦不況が到来すれば、残業・休日出勤の規制は当然きつくなる。詰り冒頭の40時間が30時間とか20時間に短縮されるのである。そうすれば、いきおいサービス残業が増えるという実体である。私は所謂見習い期間が終った2年目から、毎月の様に40時間処か、50時間を越える残業/休日出勤をしていた。(不思議なことに一度もビタミン剤を貰った記憶が無い)
私は入社以来15年間一貫して設計部門だった。私が設計に残った理由はひょっとして、サービス残業を全く厭わなかったからかも知れない。何故なら当時は、大卒(及び高専卒)技術系新入社員の殆どが設計部門に配属され、その中の幾名かは数年後他部門に配置転換された。配転された人の適性がどうだったかは知らないが、他部門特に管理部門は設計部門程、慢性的にサービス残業をする程に忙しくはなかった。然しこれは私の静岡時代の事である。
その後3年半働いた和歌山はもっと凄かった。私は当時主任で、組合員且つ末端管理職の地位にあったが、和歌山の同僚H氏は毎日必ず私より遅くまで残業する。私の退社時間は、平均して夜の8時から9時である。然しH氏は、聞けば10時から11時頃らしい。それに休日も殆ど出社しているとか。そうなれば、自宅は就寝するだけの場所になる。然も入社以来ずっとそんな状態だったとか。これには大きな理由があった。和歌山の業績(=損益)が悪かったからである。企業は損益が悪化すると、いの一番に原価低減を言い出す。その場合の主担当は設計部門である。H氏は新製品開発と原価低減の双方を一人でこなしていた。従って当時、私は一体何時間働いて、何時間申告していたのかも覚えていない。然し当時の私は、仕事上の悩み苦しみは多くとも、給与には一切不満を持ってはいなかった。何故なら、家族全員が健康で平和な生活が出来、偶の休日には近郊にドライブしたり、盆暮れの連休に故郷の熊本に帰省することが出来れば、それ以上望むことは無かったからである。
こんな状態は、熊本に転勤して管理職になってからも基本的に変わってはいない。仕事こそ管理業務が増えて設計の一線からは退いたが、退社時間は担当者時代とそう変わらず、やはり午後8時から9時、通勤時間を入れると帰宅時間は平均して10時近かった。それから食事して風呂に入り、暫くニュースを見ればもう就寝時間。自由時間は殆ど無い。然し私はこの間、上司に対しては多少不満もあったが、給与に関して不満を持った事は一度としてない。それは、誰かから命令されて残業したのではなく、自らの意思でしたからである。そもそも上長から目標は指示されても、仕事内容については指示されず、自分の権限と責任によって専門的な仕事を進めるホワイトカラーは、残業代を支払わない雇用形態が合っている。それが嫌なら、現業に配置転換を求めれば良いからである。そもそも今声高に“ホワイトカラー・エグゼンプション反対”を唱えているのは、組合員より寧ろ組織率低下に悩む“労働組合”ではないか。終わり