Power Factor(その一)
私の二度目の海外出張は、和歌山時代で、もう25年も前の事になる。東南アジア諸国(今のアセアン諸国)へのエアコン拡販が目的だった。メンバーは私と海外営業担当のS君、M次長(オブザーバー)の3名だった。インドネシア、シンガポール、マレーシア、香港の当社ディーラーを廻った。
①インドネシアでは、ジャカルタに到着した夜、いきなりバイキングで、その料理の辛さに飛び上がった。殆ど食べられなかった。翌日はディーラー巡回。街頭に車を止めると、大勢の子供が寄って来て、我先に小銭を求める。路上駐車の見張りが仕事なのだ。現地ディーラーは、密閉型コンプレッサを平気で解体修理していた。国内では勿論“ご法度”だが、彼等はどこ吹く風、ちゃんと動く様になるので、捨てるのは勿体無いとの考えだった。
②シンガポールのレストランでは、チャイナ服を着た若い女性が、流暢な英語で、私に話し掛けてきた。然し、当時の私の語学力では、自己紹介位しか出来なかった。有名なマーライオンの傍の店だったと記憶している。仕事については、残念ながら覚えていない。
③マレーシアでは、現地担当者が暗い回廊を通って、私をインド料理ナンの店に連れて行って呉れた。その時はものすごいスコールでビックリしたが、彼等は慣れたもの。何せ毎日の事らしい。翌日クアラルンプールのディーラーを訪問すると、社長がとても喜び、私だけを別室に通してくれた。其処には若い女性秘書が居て、タイプライタを前に、社長と私の横に座った。社長から色んな質問が有り、私は英語が良く分からないので、営業のS君の助けを借りて、何とか応えた。するとその秘書は、その遣り取りをその場でパタパタとタイピングする。ほんの30分程の打ち合わせで、A4半分位の打ち合わせメモが出来た。すると、社長はそれを一通り読み、すらすらと自分のサインをして、私に見せて此処にサインしろと言う。私は一瞬戸惑った。単なる軽い打ち合わせと思ったのに、先方は“覚書”の積りだったからである。然し、今更待って欲しいとも言えず、S君の奨めもあり、その場でサインしたが、正に欧米流の業務スタイルだと感心した。
④最後の香港が一番大変だった。説明会(別ブログLion-Heart参照)の翌日は、九竜地区を含めて数件のディーラーを駆け足で廻った。どのディーラーからも、判子で押したように同じ事を言われた。「Power Factorを上げて欲しい!」と。Power Factorとは力率の事で、電圧に対する電流の遅れを表わす。エアコンの力率は、殆どモーター(主にコンプレッサ)の特性に拠って決まり、低ければ電流が大きくなり、発熱も増す。当時香港は英国領でBS規格であったが、電源仕様は日本と殆ど同じ(220V50Hz)なので、国内仕様を小修正して輸出出来るメリットもあった。然し、力率が問題である。彼等は85%以上にして欲しいと言った。力率は50Hzが60Hzより悪く、当時の機種では確か75%位だった。私は困った。その場で即答出来ず、上司の指示を仰ぎ、後日回答するとか言って逃げた。然し彼等は私を責任者と見て「YesかNoか」と執拗に食い下がったが、私は最後まで“言質”を与えなかった。
この私の対応が問題だった事が、その夜の宴会で明らかになった。当日は丁度本社から、年配の技師が来られていて、その日は終日私に同行されたのだった。技師はその時になって初めて仰った。「徳永さん!今日の貴方の対応は非常に不味かったね!彼等は“責任者の貴方”が来るのを前から心待ちにしていて、良い回答を期待していたのに、さぞがっかりしただろう」と。私はこの時になって、改めて自分の立場を認識した。当時私は“主事”だったが、英語の名詞には“Assistant Manager”と書いてあった。れっきとした会社代表である。“マルチセントラル”については、結果はともあれ、あれ程果断な決断をした、同じ人間とは思えぬ体たらくだった。理想的な回答は以下である。「分かりました。85%以上にしましょう。その代わり売上を倍増して欲しい。又進相コンデンサーが付くので、その分を値上げさせて欲しい。値上げが駄目なら、半年ほど時間が欲しい。静岡に力率の良いコンプレッサの開発を依頼するので。」
私は思う。当時こんな回答が出来た位なら、私はもっと出世出来ていた筈である。続く