ベンチャー企業(その一)

あれはもう20年程前の、私が熊本に転任して間もない頃の事だった。大学時代の恩師T先生から一通の手紙を貰った。“義足研究所”を設立するので“出資”して欲しいと。
T先生は、私の在学時代は機械工作学の助手で、その当時は義足ではなく“義手”の研究をされていた。然し如何にも難しい研究テーマと同様、先生の風貌は眼光鋭く“恐くて近寄り難い印象”だったので、私は殆ど接した記憶が無い。その上私の卒業研究は水力学で、その面でも関わりが薄かった。先生との接点と言えば、図学の講義を受けた事位である。図学は円錐と平面の交差面等を、コンパスと定規だけで描く学問で、私はどちらかと言えば苦手だった。
T先生はその十数年後、熊本市内の私立大学に移られて、当時は助教授として教鞭を執られていた。然し先生は、大人しく“象牙の塔”に篭るタイプの人ではなかった。嘗ての“義手”こそ、その複雑怪奇さの為、研究開発を断念したとの事だったが、其の儘で収まる先生ではない。新たなる情熱を“義足”に転じ、長年掛かってやっと実用化の目処が立った時期だったのだ。其処で嘗ての教え子に出資を呼びかけて“ベンチャー企業”の設立を企てられたのだ。私は喜んで出資した。確か50万円だったと思う。私の他にも多くの“教え子”が出資して呉れたお陰で、その“義足研究所”はその後間も無く“船出”する事が出来た。然し義足研究所といっても、独立した事務所や専用の設備は無く、先生の研究室と、大学の実習室に同居したような、ささやかな船出だった。
T先生の義足には大きな特徴がある。他の義足では一般的な、モータ等の外部動力を一切使用しない点である。(その点では、現在脚光を浴びている所謂“ロボットスーツ”の対極に位置する製品かもしれない)その為に障害者の自力、即ち歩行の力だけで、膝から足のつま先まで動かす事が出来た。それ可能にする為に、各部は“極限までの軽量化”が図られていて、軽いランニングすら可能な“素晴らしい義足”だった。T先生はその材料やメカニズムを、某シューズメーカの協力を得て、長年かけて完成されたのだった。私は当時その義足を初めて見たが、ジュラルミン製の“知恵の輪”の様な部品から出来て居て、一体どうやって作るのか見当も付かなかった。そしてこの義足は当時、新聞やTVでも大きく報道された。義足研究所の開所記念パーティーには、数多くの出資者が参集し、当時既に起きていたイランイラク戦争や、カンボジア紛争等で、地雷の為に足をなくした人々の為にもなると、互いの“夢”を語り合ったものだった。
然し、先生の本来業務は大学での講義であって、義足の研究開発や設計製図位は大学内で出来ても、試作試験や市場評価及び、受注製作の段階までは、大学内ではとても無理である。其処で先生は再び“教え子”に呼びかけ“製作者”を募られた。それに応じた企業は何社かあったが、先生が選ばれたのは、同じく私の出身大学の後輩M君が工場長を勤めるN社だった。続く