火と水

もう私が当地、石貫小学校の児童に読み聞かせを始めて、3~4年になる。それは2年程前のことであった。当時は確か3,4年生を担当していた。私はある日のテーマに“火と水”を選んだ。そして子供達に語り掛けた。「皆さん、火と水のどちらが強いと思う?」と。或る子は「火」別の子は「水」と、てんでばらばらに答えた。私は「火」が強いと思うと言った。勿論その根拠は曖昧であるが、地球も数十億年後、膨張した太陽に飲み込まれて炎と化すと、或る地球物理学の本で読んだ記憶があったからである。何故このテーマを選んだかと言えば、私は“火と水が好きだ”からだった。この二つは、何か人の心を捉えて離さない“不思議な魅力”がある。
私は子供の頃、火を炊くのが大好きだった。当時の我家の台所は広い土間で、中央に二連の竈があって、一方はご飯用、他方はおかず用だった。又その一部はドーコと呼ぶ鋳物製の湯沸かしになっていた。其処に水を溜めておけば、煮炊きが終わり、食後に食器や鍋釜の“後終い”をする時、態々お湯を沸かさなくとも、自動的にそのお湯を使える便利な代物である。私は当時小学生、もっぱら竈に薪をくべる役だった。最初は柴にマッチで火を付け、小枝から次第に大きな枝へと燃え広がり、最後に大きな薪に火が移る。炎は絶えることなく薪から立ち昇り、そして空中に消え去る。其れをずっと眺めていると、何か不思議な世界へと誘われて行く様な気持になる。これは遠い昔、人間が火を扱う技術を習得して、万物の霊長となった事と、決して無縁ではない筈だ。其の証拠に、当時飼っていた犬のポチは、犬らしくなく寒がり屋で、必ず私の横に座って、同じ様に火に当っていたが、決して或る距離以下には近付こうとはしなかった。
一方水についても似た様な事が言える。例えば我家の近くを流れる馬場川は、西側にそびえる小岱山にその源を発する。此処の水は清冽で、冷たく澄んでいる。その滔々とした流れを眺めていると、何時までも飽きないし、次第に心が洗われる様な気持になる。然し、犬はやはりその川を基本的に恐れる。我家には現在、老犬の雌犬ゴールデンと若い雄犬ラブラドールが居て、前者は例外的に水が大好きだが、後者は水を恐れ、決して近付こうとはしない。猫に至ってはもっと極端で、極度に水濡れを嫌う。
私は思う。今の時代、火も水もスイッチ一つで自在に扱える時代になった。だから逆に子供の心が荒み、虐めや自殺が後を絶たないのではなかろうか?私達は子供の頃、火や水を素手で扱い、その熱さや冷たさ、便利さや恐ろしさを知った。然し今や昔に戻ることは不可能である。僅かに出来る事といえば、年末に昔ながらのやり方で、餅つきをする事位だろうか?他でもない、明日は我家の年に一度の餅つきの日なのである。終わり