潔癖症

他人を評して「清潔感のある人」とか、逆に「不潔」とか言う事がある。然し私の母の場合は、その意味が異なっていた。「清潔」と言うより「潔癖」と言った方が良かった。そして母は、自分の性癖は父親(私の母方の祖父)譲りだと言っていた。祖父はその昔「汚い、汚い」が口癖で、あろう事かトイレの取手さえも汚がり、紙を介して掴んでいたとか。こうなると「異常」としか言い様がないし、私なら「自分のお尻はどうやって拭くのですか?」と、問い質す処だが、祖父も母も鬼籍に入ってもう居ない。
母も祖父程ではなかったとしても、相当程度の「潔癖症」だった。その証拠に、自分の子供である私の食べ残しすら「汚い」と言って、決して食べなかった。今考えると、これは普通ではない。普通の母親なら、子供の食べ残しを「汚い」等とは思わない筈だし、若しそんな考えだったら、ウンコの後始末をしたり、汚れたオムツを洗ったり出来ないだろう。増してや、当時は今の様に洗濯機という便利な物も無かった時代である。然しひょっとしたら、母は本当に“其れ”が出来なかったのかも知れない。我家には「艶子さん」という、お手伝いさんが居たからである。(ブログ:お婆参照)
普通考えると「潔癖症」は、家の中や屋敷をしょっちゅう片付けたり、掃除して、廊下など「ぴかぴか」になってもおかしくない筈だ。然し私の記憶によれば、我家は極く普通の家で、特別綺麗だったとも思えないし、母が拭き掃除をしていた姿も余り記憶にない。然し、若しそうだとしたら「潔癖症」と「清潔好き」は、かなり意味合いが異なることになる。
このことが最近私の脳裏に「蘇った」のには訳がある。私は先日知り合いのTさんから相談を受けたからである。彼は最近中国人女性と再婚した。ところがその奥さんはどうも「潔癖症」らしい。そして彼氏や家族にしょっちゅう「その事」でクレームを付けられ、困っているとか。私は他人事ではなく、何とかしてあげようと考えた。然しその「奥さん」は未だ来日間も無く、日本語が余り話せない。私も中国語は挨拶程度しか出来ない。そこで、昔職場の同僚だった中国人のS君に、無理を言って来て貰った。来て貰って本当に助かった。彼氏が、Tさんと奥さんの言い分を聞き、日中相互の通訳をしてくれたので、核心に触れる話し合いが出来たからである。
私は、その数時間にも及ぶ「延々たる」話し合いを黙って横で聞きつつ、これは互いの「生い立ち」と「性分」の相違から来たもので、どんなに「理屈」を捏ねても、決して解決出来ない事が分かった。だから最後に奥さんに言った。日本には「郷に入れば郷に従え」という言葉がある事を。そしてTさんにも言った。奥さんは遠い異国(日本)に嫁ぎ今「弱い立場」に置かれている。自分が正しいと思っても珠には「折れてあげたら」と。その後、Tさんからの連絡はない。
私はつらつら考える。そもそも“不潔”感覚は“自他”の境界を何所に置くかで決まるのだと。そして“潔癖症”はその範囲が狭いのだ。その証拠にどんな潔癖症も、自分自身の食べかけを“汚い”とは言わない。若しそう思うなら、二口目は食べられないからである。その点、我が家内は潔癖症でなくて良かった。その証拠に、孫娘が昨晩茶の間で盛大に「ゲロ」をした時も「ツン」と鼻に付く「胃液の臭い」が立ち込める中、家内は「顔もしかめず」それを拭いていたから。然しもっと凄い人も居た。あの「タイとの交流の会々長・谷口恭子先生」である。私が初回訪タイの時、先生はバンコク郊外チャオプラヤ河畔のレストランで、皆の食事の食べ残しを全部自分のお皿に集められ、それを「勿体無い」と言って、食べられたからである。先生の口癖は“地球家族”だった。終わり