戦争の傷跡

私の年代、即ち団塊の世代は戦争を知らない世代と言われている。然し、私が幼少の頃は太平洋戦争の名残が彼方此方に残っていた。我家の庭には数本の松の木と、一際大きな松の切り株の跡があった。それは先祖が唐崎に旅行して海岸を散歩中、落ちていた松毬を着物の袖に入れて持ち帰り、庭に植えたとかで、その後大きく育ち、更にその子孫の松も育っていたのだった。然し太平洋戦争末期、日本軍は燃料不足に陥り、松根油採取の為、何と我家の宝だった庭の松の木さえ犠牲にしたのだった。私は此の話を母から何度も聞いた。そして日本がこんな事をするようでは、戦争は負けだと女の自分でも悟ったと言っていた。現在も我家の庭には、当時の石碑(袖つての松)が残っている。然しあの松の子孫はその後全て松喰虫にやられ、今の松は庭師が植えた子孫とは言えない別の松である。
又我家には土蔵(米蔵)が今も残っている。その漆喰の外壁は数年前に老朽化で剥げ落ちたので、仕方なく全体をトタン板で覆い、今は見る影もないが、幼少の頃は漆喰の外壁が確りと残っていた。然し、本来白亜であるべき外壁は、墨の跡が黒々と残ったままだった。これは戦時中、米軍機の標的にならないように、態と墨で真っ黒にした名残だと親から聞かされた。そして戦争末期には軍の要請で空襲を避けて、中に軍需物資(戦闘機の部品等)が隠されていたらしい。
一方、我家の裏の竹山には、立派な防空壕があった。最近鹿児島県で子供がその中で火遊びをして事故死したニュースが報じられていたが、何を隠そう自分も子供の頃、同じ遊びをしていた。下り勾配の入り口は座敷から程近い目立たない所にあり、子供の背丈では立ったまま中に入れた。2~3m進むとちょっと広くなった場所(2帖ほど)があり、周囲は太い丸太を組み合わせて補強されていた。私は其処に友人と入って、ローソクを灯して遊んだ記憶がある。そして更に奥へ進むと、左にカーブして隣家の裏庭に出ることが出来る、凝った構造になっていた。然し、残念ながらこの防空壕は、私が未だ子供の頃の或る大雨の夜、轟音と共に一瞬にして崩壊した。其処の上には大きな陥没穴が出来、孟宗竹が斜めに倒れていたのを覚えている。勿論その後はその壕へは入れなくなった。そして数十年後、私は帰省して家を改築する時、思い切ってその陥没穴に、古家の瓦を投入して埋めてしまった。従って私の子供には、戦争の(跡地の)記憶は全く残っていない筈である。
現在、戦争の跡が残る地域として、熊本県内には菊池市泗水町がある。私の茶道の先生、谷口恭子先生のご自宅の辺りである。当地には陸軍の旧飛行場が在ったらしく、今も給水塔に残る機銃照射の弾痕や、トーチカに当時の面影が残っている。又、何度か行った鹿児島県の知覧には、立派な施設があり、当時の特攻隊の手紙や戦闘機を見ることが出来る。
私は戦争の実体験者である親から、生々しい話を繰り返し聞いたし、子供の頃から戦記物が好きで本だけでなく映画も良く見た。然し自分の子供にはそれを全く伝えていない。人間は実体験した事でなければ、それを後世に伝える事は難しい。一方では現在も中東を始め、世界の彼方此方で戦争が起き、多くの人々が犠牲になっている。然し国内では原爆投下日の慰霊行事や、イラクへの自衛隊派遣、政治家の靖国神社参拝問題等でしか、戦争について考える機会がない。
私は思う。今日本は平和であるがこれが永遠に続く保障はない。現実に近い将来、日本人の戦争体験者が全て没した時、一体誰がどんな方法で、戦争体験を子孫に語り継ぐのであろうか?そして自分は今、何をしたら良いのだろうか?終わり