タイと茶道

私がタイに関りを持つのは、1993年からである。当時はバブル崩壊後ではあったが、未だそれを実感する程の経済変動は無く、夫婦関係に例えれば丁度倦怠期が訪れたような時期だった。正月の新聞の特集号を何気なく見た時、突然私に“電気”が走った。これぞ自分が求めていたものだと!其れはあの「谷口巳三郎先生」がタイの“谷口21世紀農場”で“トラクタの脇に立ち、遠くの空を指差されている写真”だった。
私は、早速恭子先生(タイとの交流の会会長)に電話をして、其の数日後に先生のお宅を訪問した。其処は今も毎週夫婦でお茶の稽古に伺っている場所なのだが、其の時はびっくりした。狭くて薄暗く、先生も現在よりも寧ろ年老いて弱々しく見えた。然し其の話の内容は“並外れていて”私は感動した。そして早速一ヶ月後に予定されていた一週間の「第二回訪タイツアー」に参加を申し込んだ。私は当時所謂“真面目人間”だったので、毎年2~3週間貰える年休も、病気以外では殆ど取らず、無駄に捨てていた。勿論1週間の休暇取得など初めての事であった。
その“訪タイツアー”は、確か7名だった様に記憶している。“地理学”専攻のK大学教授、当地TV局のKアナウンサーとAレポーター、現副会長のU氏、今は亡き元会員のS氏、恭子会長と下名である。福岡から飛びバンコクで一泊後、翌日市内王宮を見学の後、再び空路で夕刻チェンライに降り立った。初めて見るタイの大地の印象は強烈だった。
日本人には2タイプがある。現地の気候風土や食事に馴染む人と、駄目な人である。私は勿論前者であったが、その時も1~2名は日本から持ち込んだ“ふりかけ”や“粉味噌汁”を食べていた。私はTV局のKアナと、トラックの荷台に乗り、濛々と巻き上がる“ラテライト”の赤茶けた大地を走ったのを、昨日の様に思い出す。
私は、その後都合5回タイを訪問し、色んな経験をさせて頂いた。中でも2回目以降の訪タイでは、毎回現地で“野点の亭主”を務めた。其の理由はこの初回の訪タイの帰途の機内で、恭子先生から「貴方こそお茶を遣るべき」と勧められ、前述の如く、夫婦で毎週稽古に通う事になったからである。後述略
私は思う。当時私があの“新聞の特集号”に心を奪われたのは、恐らく地平線の先に現われた雲の様な“リストラの予感”であったろう。現にその後始まる“停滞と辛苦の10年間”の始まりこそ、この“初回訪タイ”だったのだ。そして其の後の10年を何とか乗り切って“今の自分”が在るのも又“其のお陰”である。