私が子供の頃から、我家には野良猫が跋扈していた。猫の“悪さ”は想像以上で、ちょっと棚に入れ忘れた魚は持ち去られるし、金魚鉢の中の魚すら取られた事もある。悪行が目に余るので、或る時私は“一計”を思いついた。二階の一室に誘き込んだのである。美味い具合に2匹を閉じ込めた。“しめしめ”と思って麻袋を携えて乗り込み、捕まえに掛かった。2匹の猫が8畳の部屋を「ギャアギャア」逃げ廻るのを隅に追い込んで取り押さえた。然しその内の一匹に「ガブリ」と噛み付かれ、左の手の甲に怪我をしてしまった。「窮鼠猫を噛む」と言う諺があるが、正に「窮猫人を噛む」である。私は其の猫を何処かに持って行って放す積りだったが、噛み付かれたので怒って橋の上から川に投下した。中で泣き喚く猫を入れた袋は、プカプカと川を流れて行った。帰宅して母に話したら「猫の祟りは恐ろしいよ!」と言われたが、何もなかった。
その後“猫”には長く縁が無かったが、長女が大学時代に福岡から子猫を拾って来た。蚤だらけでやせ細っていたが、シャム系らしく可愛かったので飼う事にした。名前は「レイ」とした。この猫は15歳近くなる「お婆ちゃん」だが今も生きていて、お腹が空くと私に擦り寄り「ニャアニャア」鳴く。昔は室内で飼っていたが、加齢と共に“お漏らし”をするようになり、屋外住まいとなった。お陰で我家の柱や廊下は、室内外を問わず引っ掻き傷だらけである。
猫は水が大嫌いである。然し「レイ」が来た時は、汚かったので“お風呂”に入れる習慣を付けて定期的に洗った。風呂場で猫を洗うと、とても嫌がり「ギャアギャア」泣き喚く。終って放すと何処かに行って、体中を嘗め回している。そして其の後の猫の体は“ぬいぐるみ”のようになる。
数年前まで住んでいた隣家の嫁さんは“猫狂い”で、家中に数え切れない程猫が居た。“避妊”をしないので、どんどん殖えるのだった。当然食料も沢山必要で、ごみ袋一杯の空缶が捨てられていた。猫には敷地境界等関係ない。我家に始終出没し、彼方此方に糞や小便を撒き散らして匂いはするし、畑に蒔いた種は彼方此方で掘り返された。私は何度かクレームを付けたが、暖簾に腕押しだった。そんな時「レイ」が追っ払って呉れたら良いのに、其の力が無い。今も時々「レイ」の食べ残しを、野良猫が来てちゃっかり頂戴している。犬は“人に付く”と言われるのに対して、猫は“家に付く”と言われるが“テリトリ”を守るのは事実らしく、その境界で“隣の猫”と睨み合いをしている。然し、猫も高齢化すると“守り”が弱くなるらしい。何時だったか数日間、我家のテリトリを占領され、行方不明になった時もあった。
昔の犬は“泥棒の見張り”猫は“ネズミ捕り”と言う“立派な仕事”をしていた。処が今は“食事”や“散歩”で人の世話になる一方である。私は今も左手に残る“猫の傷”を見ながら思う。犬猫を駄目にしたのは人間だと!そして人間の“子育て”も同じではないか!と。