刑事

あれは、私が入社3年目の頃だったと記憶している。その頃、私は街中の部屋を借りて、一人暮らしをしていた。当時、天気が良い日は自転車で通勤していたが、その頃気になることがあった。会社の帰途、門を出てから誰かに尾行されているような気がした。その予感は当っていた。ある夜私の部屋に私服刑事が訪れた。そして私に質問した「Yさんを知らないか?」と。Yさんは、私の従兄弟である。私は勿論知らないと答えた。そしたら「下手に隠すと貴方の為になりませんよ」と言う。私は「ムッ」となり「それは一体どう云う事ですか!」と聞き返した。刑事はそれには答えなかったが、私はピンと来た。つまり「会社にばらすぞ!」と云う事らしい。
私の大学生時代の後期は、学生運動がピークに達した時代で、特に文系には過激派が多く、私の属した工学部の学生は、彼等から「日和見主義者」と嘲られ、卒業式もなく卒業した世代である。Y君は、関東の有名大学で闘志となり、あの有名な「浅間山荘事件」に加担した。彼は、直接手を下したメンバーではなかったが、当時は逃走中で、警察に追われる身だった。
私は、例えYさんの居場所を知っていたとしても「幼馴染」を警察に売る積もりはなかった。然し知らなかったので“より強く”反発したのである。と言うのも、刑事が私を“脅迫”する理由も有った。当時は「今もかも知れないが」どんなに優秀であっても「思想掛かった人間は、会社幹部にはなれない」と言われていたからである。
それから数年後、私は東京世田谷の伯母の家で、Y君と久し振りに再会した。彼はあの後、友人宅に身を寄せて居た所で捕まり、裁判・服役を経て出所したばかりだった。どんな罪だったか、聞いたこともないが、福岡刑務所だったと聞いている。彼は当時自宅に風呂を作っていて、私もセメント塗りを手伝った。それ以来彼との交友は続き、何度も彼のお宅に泊めて貰い、伯母や彼と歓談した。私は上京すると、彼のお宅に伺うのが最大の楽しみだった。後述略
それから更に20年後、私は此処石貫の「まちづくり副委員長」の肩書きを引っ提げて上京し、Y君とその弟2人に面会して、彼の父の家(注.此処石貫にあり、当時は空き家になっていた)を「まちづくりの拠点=ナギノ交流館」として借用すべく交渉した。そして、その交渉は目出度く纏まり、地域活動の拠点として、現在広く活用されている。伯母はその頃、既に入院して死期が近かったが「冥土への土産になる」と、とても喜んで呉れた。
私は思う。あの刑事が来た時、私が若し「調査に協力する」と言っていたら、事態は今と変わらないかも知れないが、私は彼に“顔向け”が出来ず、多分「ナギノ交流館」も出来ていなかっただろう。