私塾

私が、中学校に越境入学したことは、既に「つぐない」の項で書いた。多分中学1年の終り頃、誰から誘われたのか、はっきりとは覚えていないが、私は従姉妹のMちゃん、親友のM君と共に、近くの私塾に通うことになった。
其処は、塾と言うより普通の小さな民家で、教室は二間続きの和室と縁側とから成っていた。T先生は御母堂との2人暮らしで、当時は体調が悪くて通常勤務が難しかったので、塾をされていたと思う。然し先生は東大文科卒で文字通り天才肌、当時教わった教師の中でも、先生の右に出る人は居なかった。私はすっかり先生の魅力に惹かれ、その後高校進学までこの塾に通うことに成る。此処にはユニークな人材が出入りしていた。中でも上級のT従兄弟は出色だった。一人は後に海外青年協力隊、一人は教師で今も親しい友人である。然しいつの間にか、一緒だったMちゃんM君の姿は消えていた。
先生は、只詰め込み教育をすると言うより、勉強の仕方、目的を教えるタイプだった。時々、先生自作のプリントでの試験もあったが、大半は対話形式だった。話は先生自身の体験談もあったし、政治・思想・社会問題から、教育論まで幅広かった。又話は屡脱線した。例えば私が「此処のネコは雌ですか?」と聞いた処、雄とのことだった。「しかし○○○○が無いですよ」と聞くと『君と違って、猫のは露出していないんだよ』とか!『君はもう夢精が始まったかね?』とか。
先生は又“マリリン・モンロー”のファンでもあった。そして何時か、彼女の映画を見に行こうと言う話に成った。当時、小中学生は勝手に映画館には行けなかった。特にモンローの映画を上映している映画館は、所謂「成人映画」が専門だった。然し、先生は自分が行くから大丈夫と言って、連れて行って下さった。題名こそ忘れたが、スクリーン一杯に映し出されるモンローのお色気に、当時の自分も興奮したのを覚えている。
そのT先生とも、高校進学後は疎遠となり、社会人となった後は殆どご無沙汰だった。風の便りでは、その後結婚され、子供も出来、女子高の教諭として教壇に立たれていると聞いていた。その後、私は郷里を離れた関係で、先生とは音信不通の状態だった。亡くなったと聞いたのは何時の事だろう?思いがけも無かった。御宅に伺い、仏壇に線香を上げてお参りする時、“突然”先生の言葉が蘇った。『僕はこれでも東大仏文四天王の一人だった。』全く惜しい人を亡くしたものである。