Authority&Authorize

20年以上前のことである。私は家庭の事情で帰郷する羽目になった。然し、偶々隣人だった総務の方(当時私は会社の借上げ社宅に住んでいた)と、受け入れ側の総務の方が知り合いだった縁と、両者のご尽力のお陰で、事業部は異なるが、郷里から通勤出来る所に有った、同じ会社の工場(当時)に転勤と言う形で入れて頂いた。他社への再就職も考えていたが、とてもラッキーだった。
然し、受け入れ側の事情は複雑だったと思う。いきなり幕内何枚目かに付出しになったと思えば良い。
私の上長は、素人同然の私を気遣って、最初の1年は現場実習と言う形で、新事業の理解をするように取り計らって下さった。実習結果は「改善レポート」という形で提出していたが、それを幹部に廻して検討せよと言われた位、理解のある素晴らしい上長だった。
そして研修終了の翌年、私はいきなり主幹/係長、そしてその翌年は課長の重職を任される羽目となった。これは生え抜きの人にとってはショック以外の何者でもなかった筈である。事実私は実務については素人に近かったので、ベテラン幹部の意見を取り入れて組織運営する積もりだった。然し徐々に少数の主流派と多数の反主流派みたいな形になった。私は反主流派の旗頭のIさんの全面協力を得たかったが上手く行かず、微妙な関係がその後も続いた。それを上長はとても心配されていた。
そしてその方が去られると、状況は一変した。Iさんは新上長に素早く取り入り、私のほうが反主流派みたいな形になり、新上長との関係が悪くなり(“打たれ強さ”参照)、私は以降長期間続く低迷の時代に陥った。Iさんは私に対して過剰とも思える対抗意識を持っていた。そして課内会議でも良く英語を使った。お得意の台詞がauthority(権威)だった。しかし本人はauthorize(権威付ける=何事も課長だけで決めず、部長の承認を得るべき)の意味で使っていた。私は何時か“そっと”間違いを注意したが、その後も改まらなかった。Iさんは、無理に英語を使わずとも衆人が認める実力者だったし、互いが胸襟を開いて協力すれば、きっと素晴らしい成果を生み出すことも出来た筈である。
その後力の分散を恐れた私は、Iさんに他の部門に転出頂いたが、その為もあって私の課は次第に活力を喪失し、新陳代謝からも取り残されて行った。その結果、罪も無い部下にも栄達の機会を与え得ず、逆に他組織からの草刈場となる悲哀を味わせた。この最大の責任は私に有り、正に不徳の致す処である。そして又私自身も、同僚ばかりか、後輩からもどんどん抜かれて、最後にはIさんにも抜かれ、失意の内に出向、そして終には早期退職する羽目になる。
昔、豊臣秀吉が天下統一を果たして、全国の大名の前でそれを宣言する前夜、密かに徳川家康の下を訪れ、翌日の式典では自分が天下人として振舞うので、他の大名と同じく傅いて欲しいとお願いしたと聞く。私もIさんに対して、その気持ちで接した筈なのに、秀吉の様には上手く説得出来なかった。然し、家康が結果として勝った史実と同様、Iさんが最後に勝ったことは、それはそれで良かったのではないかと思っている。