天動説と地動説
自分はサラリーマンとして34年間働き、5回の転勤で都合12名の直属上司に仕えた。その内3名の上司からは、こんな自分には過ぎたるご評価を頂き、この御三方から頂いた地位で退職に至った。しかし所謂出世者(成功者)ではない。
「コペルニクス的転換」とか、ガリレオ・ガリレイの「それでも地球は動く」という言葉は有名だが、私は上司の一人から「あんたは天動説だ」と言われた。とてもショックだった。何故そう言われたのだろうか。多分その方は私を「世の中は自分中心に動くと思っている人間」と思われたからであろう。例えば会議があるとする。私はレジメを出席者分予めコピーし、自分で配って、やおら説明を始めるのではなく、いきなり始める様なところが確かにあった。つまり、気配り、準備、配慮不足である。
この欠点は今も直らない。では何故自分は天動説と言われるようになったのか?今自問しても良く分からない。どうも原因は生い立ちにありそうだ。戦後の子沢山の時代にあって、一人っ子の私は、子供の時から親子関係しか知らず、それも母子家庭では尚更であった。母は私に「他人に負けるな」とは云っても「他人に気を配れ」とは教育してくれなかった。
ヨーロッパの宗教人が天動説に固執したように、生い立ちで受けた繰り返しの教えは、人の性格に色濃く反映する。大人になっても、気配り不足の欠点は直らず、色んなトラブルや迷惑を掛けたことだろうし、私を嫌いになった人も又多いと思う。
然し、良くしたもので世の中は民間人も公務員も同じらしい。同期生の多くが教職に就き、彼等の多くが今校長職にあるが、内幾人かは未だ現役のままである。若しかして彼らも天動説なのだろうか?
然しその現役教師は何れも教師としては優秀・生徒から慕われている人達である。
それは多分彼らが上司・世間におもねることなく、自らの信念に基づいて、教育を実践してきたからではなかろうか?