地平線の先

私は日本の都市の街路樹が大嫌いである。狭い場所に無理やり成木を植え込んだ上、毎年葉の茂る初夏、無残にも丸刈りにし、強制的に大きさや高さを規制している。一方欧米の都市公園や街路樹は日本のそれとは大きく異なる。彼らは邪魔になる下枝はカットしても,樹高は規制しない。見上げる程の落葉樹の巨木が見渡す限り連なり、見事な景観をかたち作り、夏場は心地よい木陰を形成し、冬場は葉を落として日光を地面に注いでいる。日本より格段に気候が厳しく、従って植物の成長も遅い彼の国で、その光景が出来上がるまでに要した時間と労力を考えると、彼らの先を見る目の確かさと美意識を感じる。
日本では外国と違って、地平線を実感するような景色は殆ど無く、むしろ水平線の方が身近に感じる。しかし、人生の未来を例えるには、やはり水平線より地平線の方がぴったり来る。殆どの人々は、明日かも知れない死を殆ど意識することなく、毎日を過ごしている。若し自分の寿命や運命が先に分かっていれば、さぞや違った生き方をするだろう。だが聞き古したレコードのように、ちっとも面白くない人生にもなるだろう。然し年を経るに従い、時計の針は徐々にそして確実に早くなり、しかも老眼の進行とは逆に、近未来の方は少しずつ見えて来るから不思議だ。人間は死して屍となり灰となり最後は土に返るが、自身の葬儀すら見ることは叶わない。然し他人の葬儀に出ると、参列者の顔触れや人数が、その人の生前の人となりを何よりも物語っているようにも見える。
処で我が屋敷の中で、自分の生前から在るのは、家屋の一部と土蔵、柿や栗数本のみとなった。今自分が暮らしている景観が、祖先の残した遺産とすれば、子孫に残すべき景観は自分が作らねばならない。そんな想いを抱き始め、徐々に植栽を始めて二十余年。樹齢が自分と近い自生の銀杏とムクの木は、既に大木と言える大きさに育った。「かたち在るものは全て何時かは崩れる。永久に残るものは書物しかない」との名文句を吐いた伯父の言葉を気にしつつ、私はあの欧米のような景観を目指して、今日も地平線の先を見据えている。