ピアストーン(万延橋)


此処石貫を流れる繁根木川(昔は錦川と呼んでいた)には、現在多くの橋(一橋を除きコンクリート製)が架かっているが、我が“ファームステーション庄屋”前の廣福寺橋は、ピアストーンのデザインの由来としたように、特別な歴史を持つ橋である。即ち、昭和30年代までは、此処には「万延橋」いう眼鏡橋が架かっていた。私も幼少の頃、手造りの木車で橋の上から坂を下ったり、小学生時代には友人と手作りの竹筏に乗り、橋の下を行き来しつつ上を眺めては、その芸術的とも言える見事なアーチ型の石組みに見惚れたのを覚えている。
この「万延橋」は江戸幕末の万延元年(西暦1860年=明治維新の8年前)9月に、旧石貫村庄屋徳永圓八(筆者のお祖父さんのお祖父さん)に依って架けられた橋である。橋の長さは約12m、幅は約2.7mの小さいが均整の取れた形の眼鏡橋だった。しかし私の幼少時代は、折りしもリアカーや牛車・馬車から自動車に移るモータリゼーションの黎明期、所謂オート三輪と言われたトラックが荷物を満載して通過しても、びくともしない見事な造りに子供ながら感心していた。当時も石貫には幾つかの橋があったが、他は全て木橋だった。
圓八さんの頃はこれらは土橋だったらしい。だから雨季の増水に依って流されることは珍しくなかった。「だからどうにかして流されない石橋を作りたい」と思ったのは当然であろう。惣庄屋を通して郡代にお願いした。即ち「足場作りの為に小岱山(細川藩の御山=現在の国有林)の木材を拝領させて欲しい」という内容で、詳細な見積帳(工事積算書)が添付されていた。中身は、橋の各部分毎に、部品名、数量、寸法、単価、総額、石工や大工の人数、運搬人の延べ数、運搬回数等々の後に、部品総額と総労働者数が記されていた。この見積書によると、橋の建設費は一貫三三五匁五分(石代と石工・木挽・大工等の賃金合計)で、用木は御山から頂くとして、人夫1468人日は村民の公役(労働奉仕)だけでは無理があった。そこで圓八さんは内田手永(郷)の御会所御用銭(臨時支出準備金)から、建設費の中の一貫目を前借したいと言う願いを出した。勿論この金は後に10ヵ年賦で返済しなければならない。又労働力不足に対しては、「他の村から応援に来て下さいますように」という依頼文書を郡代宛に出している。と言うことで、万延元年の2~3月頃に着工した架橋工事は、早くも同年9月には完成した。丁度明治維新の10年前のことである(後述略)
圓八さんの息子嫁(写真は残っていないが、名を登志と言い92歳の長寿を全うした)の言葉として「圓八お父さんはね!橋架けの時にね!郡代さんの所からお呼びが来て、役所に座りに行きなさったそうな。それは御山の木を伐り過ぎなさったからなそうな」つまり処分を受けたと言うことで、恐らく自分で知りながら余計に伐ったのであろう。それも私服を肥やす為ではなく、橋の土台をしっかりする為に。余計に伐った材木を川底に埋めた。だから役所にも下を向かず、前を向いて行ったらしい。その為か、この橋はそれから100年間流されることもなかった。
その橋が、昭和37年の洪水で半壊した。筆者の伯父(前出)は当時天草勤務であったが、帰省して「この橋だけは何とか残して欲しい。無理なら横に別の橋を架けて通行できなくても良いから」と懇願したらしいが、石橋を組める技術者が居ないということで、跡形もなく取り壊されてしまい、今は何の変哲もないコンクリート橋に代わって、僅かにその欄干に昔の面影を残す絵が描かれているのみである。そしてその石も何処に持ち去られたのか、埋めたのか知る由もなく、復元の可能性もない。恐らく当時の大方の意見は、不便な眼鏡橋より便利な平橋をとなったのであろう。文字通り掛け替えのない貴重な史跡をむざむざ葬り去った近視眼的思考の行政と地域の対応、嘆かわしい限りである。筆者は当時中学生、そんな話に加われる立場でもなく、また意識もなかった。当時が今なら、橋の下に“座り込み”をしてでも解体を阻止したいと思うこの頃である。(玉名会議所だより依り一部引用)