2012年05月14日

小沢思考

戦後の日本政治、中でもこの20年間で際立つ政治家は、小沢一郎氏を於いて他には居ないだろう。氏は、衆議院議員を通算14期務める中、議院運営委員長、自治大臣、国家公安委員長、自民党幹事長、新生党代表幹事、新進党党首、自由党党首、民主党代表、民主党幹事長などの要職を歴任し、90年代以降の日本の舵取りをした政治家である。その手法は新党を作っては壊し、党首になったかと思えば辞任と目まぐるしいが、今も尚政治の中心的存在であるのは、例の東京のちっぽけな、土地取引に纏わる政治資金規正法違反で、指定弁護士により控訴された、最近のニュースでも明らかである。
氏のもう一つの特徴は“言葉遣い”である。一言一言を噛み締めるように、ゆっくりと丁寧に発言されるのは、早口で滔々と喋る政治家が多い中では、際立つ存在である。その小沢氏は昭和17年生まれ、私より5歳年上の今年70歳である。岩手県出身で昭和44年(私が就職した年)の第32回衆院選で、岩手二区からトップ当選を果たし、私と同じ昭和48年に夫人と結婚して、私と同じ翌49年に第一子を、私と同じ昭和52年に第二子を授かっている。という事は氏と私は、所謂同世代なのだ。
勿論私は、氏の政治活動について論評する資格も実力もないが、個人的な分野、特に人間関係については少なからず興味がある。それは所謂“純化路線“である。最近も氏を支持する3団体(衆院当選2~4回の一新会・衆院当選1回の北辰会・参院議員の木曜会)が、小沢グループとして統合後も、其々存続する方向になったらしい。小沢グループへの帰属を明確にする“純化路線”が党内の反発を招くとの懸念が広がった上、団体を解体すれば同グループに参加しないという議員も出た為である。
斯様な現象は何処でも起きる。私が勤務した会社内でも何度か起きたし、地域活動でもNPO団体の活動でも起きた。中でも記憶に新しいのは丁度3年前の出来事である。5月の連休を利用した10泊11日のパーマカルチャー集中講座が、石貫ナギノ交流館で開催された。主任講師は今は亡き“デジャーデンゆかり”さん。参加者は国内外から東大生やマレーシア人を含む20名、スタッフを加えると総勢25名もの集団による、空前絶後の大イベントになった。今になって考えると、この人数の多さが裏目に出た。
10日間にも及ぶ活動の終盤、講座で学んだことを全員で実践しようということになった。私は米作りを始めた頃だったので、会場から遠くない片白の田圃にメンバー全員を案内して、5枚ほど余っていた休耕田を利用して、更なる米作りの普及を目指そうと考えた。処が突然メンバー数名が(私の友人がボランティアで焼いて呉れた)“竹炭を河川浄化の為に投入する”と言い出したので、結局最初から2グループに分かれて行動することになった。私は“あの人達”は何故、事ある度に分派行動を画策するのか理解に苦しんだが、勿論強制力はないので渋々認めるしかなく、後味の悪さだけが残った。
あれからもう3年、私は“このこと”について、すっかり忘れていたが、今年になり友人から、竹炭の在処が分かったと聞いた。それは意外なことに“花しょうぶ祭り”で有名な旧高瀬裏川の上流だった。何箇所かの投入場所で地権者に断られ、転々とした挙句、仕方なく此処に投入したらしい。それは兎も角、何人もの大人が関与し乍、肝心の後始末が全く出来ていない。3年近くもの長期間、竹炭を入れっ放しでは、ヘドロがこびり付いて、河川浄化機能がなくなる事位は、容易に想像出来る筈である。私は友人と2人で膝位までの深さのドブ川に入り、ロープを解き、力を振り絞ってドロドロの竹炭袋を川岸まで引き上げ、半月ほど現地でヘドロの水切りを行い、軽トラックに積んで自宅まで持ち帰った。そしてファスナーが絡まり、開かなくなった袋をナイフで切り裂き、悪臭を放つヘドロまみれの竹炭を更に半月程天日で乾燥し、最後は我家の庭先で焼却処分した。
私は思う。エコ活動に限らないが、誰かに唆され、行き当たりばったりの行動をするようでは、殆ど満足な結果は得られないし、周りからも感謝されない。事前に現地調査をして実態を把握し、周囲に迷惑を掛けず、自分がしたことには最後まで責任を持つのが、常識ある大人の行為である。こんな当たり前の事こそが大切であると、今は亡きゆかりさんは仰ったように思う。終わり

2012年04月11日

ダブルスタンダード

先にサッチャーのことを書いたので、同時代米国の大統領だったレーガンのことも書かねばなるまい。レーガンは元ハリウッドスターだが、お世辞にも大スターではなかった。然し大統領レーガンは、ソ連を“悪の帝国”と見なし、軍縮から軍拡に転じて、圧倒的な経済力と軍事力を背景に、有名なスターウォーズ計画をぶち上げ、日本にも自衛力強化を迫る一方で、中曽根首相との親密なロン・ヤス関係をアピールするなど、巧みな外交を展開した。当時、他方の大国ソ連では、ゴルバチョフ大統領が、ペレストロイカと称する、開放政策を推し進めた事もあり、ロシア以外の国々が次々に独立を宣言して、所謂東西の雪解けが進行し、最後にはベルリンの壁も崩壊して、戦後長きに亘った東西冷戦が終結したのであった。
その後、世界はアメリカの独壇場となり、所謂一国行動主義により、ソ連に代わる“テロとの戦い”が始まった。一国行動主義とは、同盟国や相手国の事情に構わず、米国単独で戦いを始める考えで、イラン・イラク・アフガニスタンと、次々に対象国が増えた。その結果、今度は国家を超えたテロリズムが横行し始め、アメリカは9.11テロにより、資本主義国家の象徴とも言える、ニューヨーク・マンハッタンの、ツインタワーを破壊されたのであった。
私はこの当時、油が乗り切ったサラリーマン時代で、部下も業務委託社員を含めると30余名になり、狭隘な本館事務所内には収まらず、別棟の女子寮の食堂を改造した部屋で執務していた。此処はそれまでの大部屋とは異なり、他部門に気遣うことなく、思うが儘に業務を遂行出来る最高の環境だったが、この“特別待遇”が、後に訪れる不幸の切欠となった。人間の感情で最も御し難いのは“嫉妬”である。何故私の部門だけが多勢で、他の部門は無勢であったのか?然し、その後トップの交代と共に、私の課は一転して草刈場と化し真綿で首を締められるような、長くて辛い衰亡の歴史が始まった。然し、この逆境こそが私という人間を強くしたのも、間違いのない事実である。
早いもので私は今年、退職して足掛け10年になる。この期間は、若者との出会いの10年でもあった。殆ど企業人しか知らなかった私にとって、退職後知り合った人々は、利害関係なくお付合い出来る、一生の友達でもある。特に昨年から今年に掛けては、九州関内のみならず、関東からも大勢の人々が石貫に来られた。然し一方では、この10年間に此処を去られた人々も又数知れない。正に“行く人来る人”である。人々は去れども歴史は残る。今現在、我家に残るのは、Ⅰにチキントラクター(鶏小屋) Ⅱに椎茸ホダ場であろうか?
丁度一年半前の秋に、クヌギの原木数十本を我が山から伐り出し、椎茸菌を打ち込んで杉林の下の木陰に伏せ込んだ。私はパーマカルチャーの仲間にも呼びかけたが、参加して頂けなかった。半年間にも亘るような長期の作業は“労働”と見なされ、おまけに菌代等の経費を徴収するやり方は“金儲け”と思われ、人々は集まらないだろうとのご託宣だった。然し、そう主張された方が今、私と同じような事をされている。
私はこれこそダブルスタンダードだと思う。そもそもスタンダードとは“先駆者が確立した規範”を指すらしく、先駆者足るNPOが主催すれば“エコ活動”で、足り得ない私が主催すれば“金儲け”なのだ。米国がイラクやアフガニスタンに侵攻するのは“聖戦”で、アルカイダやタリバンが、米国を攻撃するのは“テロ”と言われるのと、良く似た論理構成である。要するに人間は、自分に都合良い論理を構築することに長けており、白を黒、黒を白にも変えられるのだ。
私は思う。どんなに詭弁を弄しようが、事実は曲げられない。一年半前に椎茸菌を打ち込んだホダ木の形成層全面に、今椎茸の菌糸が蔓延しつつある。二梅雨を経過したこの秋には、夥しい量の椎茸が発生するに違いない。それをメンバーは只で採り放題。遠路の人には要請に応じて、自宅まで送ろうと企画している。終わり

2012年03月26日

サッチャー

先日、家内に誘われて、映画「マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙」を見た。これは所謂英国病と言われ、往年の活気を失った国を叩き直すべく、大ナタを振い“鉄の女”の異名をとった、サッチャー元首相を主人公とした映画である。ハリウッド女優のメリル・ストリープが、認知症を患っている現在のサッチャーと、首相時代のサッチャーを、一人二役で見事に演じ分けている。
英国は、嬢王陛下を頂くレディファストの国にも見えるが、それは外見のみで、実態は男性上位の国である。中でも政界は、7つの海を支配し、世界中の広大な植民地から富を吸い上げ、産業革命を最初に成し遂げた過去を紐解くまでもなく、貴族階級を含む男性が一手に国を牛耳っていた。そんな栄光に彩られた英国も、第二次大戦後は、大半の植民地が独立して、経済が所謂“英国病”と言われる長期低落傾向に陥り、新興諸国から追い上げられ、次々に撤退を余儀なくされていた。
そこに現れたのがサッチャーで、保守党首として小さな政府への転換を公約した選挙で大勝して、女性初のイギリス首相に就任した。当時の英国は折からの経済低迷で、公務員ストが連発していたが、サッチャーは力ずくの手段で押さえ込んだ。当然流血の事態も出現したが、敵が多くなることに怯まず、初志を貫徹した。中でも特筆すべきものが、フォークランド紛争である。アルゼンチンが、南大西洋上の英国領の小さな島を占領した時、サッチャーは海空軍の精鋭を結集して、あっという間に同島を奪回した。有名な垂直離着陸機 “ハリアー”が、空母から発艦して活躍したのもこの戦争である。当時の日本は小泉政権、米国ではレーガン大統領の時代であった。振り返れば功罪半ばの様な気もするが、現在よりも活力溢れる時代であった。
私はその時代、三菱電機静岡から和歌山に転任し、事業所の立て直しの矢面に立っていた。黒字が当り前の静岡から万年赤字の和歌山に移り、一番驚いたのは業務スタイルの違いである。経理部門から次々に“ケチケチ運動”を押し付けられる。勿論“入るを図って出ルを制する”は事業の基本だが、年から年中それも一円単位のケチケチ運動をさせられると、精神状態まで萎縮する。当時の私は設計部門の主事だったので、優れた新製品を発売して、赤字を減らすべきと考えていたが、実際にさせられた仕事の大半は、既存機種の原価低減活動だった。然し良い事もあった。当時の部下に若夫婦がいて、夫人は徳島出身の綺麗な人だったが、私に「徳永さんの下で働ける今が一番幸せ」と言って呉れた。又その当時、私は熊本市の大手電器店の御曹司の“帝王教育係”も仰せつかっていた。
斯も前途有望な立場にあった私が、担当機種の重大クレームを発端に、辞表を提出する羽目になり、所謂“超法規的計らい”で、同社熊本工場に転勤となった。昭和59年(1984年)37歳の出来事だった。今考えると、日本経済が絶好調だった当時、私は辞表提出など馬鹿なことをせず、サッチャー流の強気一点張りで、新製品をドンドン開発すべきだった。その6年後の1990年に所謂バブルが崩壊し、以降日本経済は高度成長から低成長へと遷移する。それは22年後の現在も続いており、恐らく私の生涯で、高度成長の時代は二度と出現しないだろう。
ならば今の若い世代に対して、未来への道を再び切り開く希望と勇気を与えるには、我等が経験した過去の生き様を、伝承する必要がある。そのひとつが農業である。今年は大震災の翌年で、所謂復興元年となる。私は東京から来られたMさんに煽られて、今年から耕作田を約1.2haに倍増した。石貫の北に位置する古城と三ツ川地区の、谷間沿いの棚田数枚である。日本農業は長らく減反制度により管理されてきた。然し現在は、大震災直後の特別な時期である。私は先日JAから送られて来た“減反管理表”を破り捨てた。多分来月当りには、JAの職員が休耕地の確認に来るだろう。私はその時言おうと思う。「米は一粒たりともJAには売らないし、自己消費するので文句ないだろう!」と。終わり